ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権311~サンデルの連帯の義務

2016-05-23 08:47:24 | 人権
●連帯の義務

 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」ではなく、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。その理由は、道徳的責任には三つのカテゴリーがあるが、「負荷なき自己」の概念ではそのうちの一つをまったく説明できないためだとする。
 サンデルのいう道徳的責任のカテゴリーとは、次の三つである。

(1) 自然的義務:理性的存在者として他者に対して負う責任。敬意を以て人に接すること、正義を行い、残虐行為を避けること等。普遍的な義務であり、合意を必要としない。
(2) 自発的義務:他者との間で自らが負うと同意した責任。自分が約束したことを守ること。個別的な義務であり、合意を必要とする。
(3) 連帯の義務:家族や一定の歴史を共有する人々に対する責任。個別的な義務であるが、合意を必要としない。

 カントやロールズが道徳的な責任として認めるのは、これらのうち、(1)と(2)のみである。しかし、サンデルは(3)の連帯の義務が存在するという。サンデルは、「公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞が互いに負う特別な責任、兄弟や子としての忠誠、村やコミュニティにみられる連帯の要求は、われわれの道徳的、政治的体験によく見られる特色」であり、連帯の義務の存在は否定できないと主張する。カントやロールズの正義論では、こうした種類の道徳的責任を認めることができない。それは、「負荷なき自己」という自己認識によるためだ、とサンデルは考える。これに対し、「物語る存在」または「位置づけられた自己」という認識に立てば、(1)の「自然的義務」、(2)の「自発的義務」とは異なる(3)の「連帯の義務」を自己は負っているという意識が働く。
 連帯の義務として、サンデルがまず挙げるのは、家族が互いに負う特別な責任である。母親の介護等がこれに当たる。次に、サンデルは、コミュニティの成員の責任を挙げる。フランスのレジスタンスのパイロットが、自分の住んでいた村を破壊する爆弾を拒否した例やイスラエルによるエチオピアのユダヤ人救出の例を述べる。後者の例は、とりわけ興味深いものである。
 サンデルは、1980年代前半、エチオピアで飢饉が起こった時、イスラエルがエチオピアのユダヤ人を救出してイスラエルに搬送した行動は適切だったか、と問う。「連帯と帰属の責務を受け入れるならば答えは明らかだ」とサンデルは言う。「イスラエルはエチオピアのユダヤ人の救出に特別の責任を負っており、その責任は難民全般を助ける義務(それはほかのすべての国家の義務でもある)よりも大きい。あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である。いま答えを出そうとしている問いは、国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにあるかどうかである」と述べ、国家には、無差別的に人権を尊重する普遍的な義務とは別に、自国の国民の面倒を見る特別な責任がある、と主張している。
 そして、「愛国心に道徳的根拠があると考え、同胞の福祉に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することのできない連帯あるいは成員の責務である」と説いている。
 私見を述べると、カントや前期ロールズの思想は個人主義的で世界市民的傾向が強く、普遍的な人権の尊重を強調する一方で、家族的生命的なつながりによる共同体の一員としての特殊的な責任を基礎づけられない。だが、自己は家族や地域社会や国家社会から様々なものを負っており、それゆえに自己は家族や地域の人々や自国の国民に対し、特別の責任を負っている。親や先祖に感謝し、その恩に報いようとすること。民族や国民の一員として、民族の繁栄や国家の存続のために尽力しようとすること。これらは、「物語る存在」または「位置づけられた自己」として、果たすべき義務である。
 カントやロールズの正義論とサンデルの正義論の違いは、移民問題を考える時、さらに重要な違いとなって現れる。サンデルは移民政策について、次のように書いている。
 「最も恵まれない人々を助けるという観点からすれば、移民に門戸を開くという政策にも一理ある。とはいえ、平等主義に共鳴する人々も、それを支持するのは躊躇する。この躊躇には道徳的根拠があるだろうか? そう、確かにある。だがそれは、共同生活と共有する歴史ゆえにわれわれが同胞の福祉に対して特別の責務を負うと認める場合に限る。そして、そう認めるかどうかは、人格をめぐる物語的な考え方を受け入れるかどうかによる。この考え方によれば、道徳的行為者としてのわれわれのアイデンティティは、われわれが暮らすコミュニティと不可分である」と。
 「負荷なき自己」と「物語る存在」または「位置づけられた自己」という自己認識の違いは、一国の政策の違いとなって現れる。前者の個人主義的自由主義を信奉すれば、移民の大量受け入れと多文化主義の政策が正当となり、後者の共同体主義を支持すれば、移民より国民の権利を優先し、移民を制限し移民を文化的に同化する政策が正当となる。移民問題は人権論と正義論の接点に存在する問題であり、近代西洋文明による自己認識に固執するならば、あらゆる国家は流入する移民に対して国民の権利を守ることができず、その結果、国民を統合している正義の仕組みをも失うことになる。
 私は、サンデルの「連帯の義務」という考え方は、共同体の道徳的意義を認め、ローカリズム(地域主義)、エスニシズム(民族主義)、ナショナリズム(国民主義)を評価するものとなると考える。ローカル、エスニックまたはナショナルな連帯の義務は、道徳的責任として集団を構成する諸個人が果たすべき義務とされるだろう。この時、自然的義務と連帯の義務、普遍的義務と個別的義務の二者択一を迫られる状況が考えられる。西方キリスト教はすべての人への無差別的な愛を説くが、人間の家族を単位とした集団生活を行うという特徴を踏まえると、家族から段階的に広がる差別的な愛が、人間の本質に適っている。道徳的義務については、家族的・部族的・民族的・国民的等の義務を優先し、そのうえで他の集団への支援を行う援助義務を担うとすべきである。それぞれの家族・部族・民族・国民等の集団において、集団内の連帯の義務を果たしつつ、集団間で相互に可能な支援をし合うことによって、より広い範囲での共同性を実現するという自助自立と相互援助の道徳が基本となるべきである。

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙著「人権――その起源と目標 第4部」は、下記に掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm