ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権310~サンデルは公共善を説く

2016-05-21 08:38:46 | 人権
●サンデルは公共善を説く

 アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは、ハーバード大学の歴史で最も多くの聴講者を集めている教授として知られる。サンデルは、コミュニタリアン(共同体主義者)の一人に数えられるが、サンデル自身は、自分に対するコミュニタリアンというレッテルは、「多くの点で誤解を招く」と言う。自分は「常にコミュニタリアン側が正しいと考えているわけではない」「コミュニタリアニズムが多数決主義の別名、あるいは正義とはある時代のあるコミュニティで主流をなす価値観に依存すべきものだという考え方の別名である限り、私はそれを擁護しない」と述べている。その点に留意しつつ、本稿の分類ではコミュニタリアンに含める。
 ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらの自由主義の正義論は、近代的自己を前提とするものゆえ、基本的に権利基底的理論である。公共善や道徳的義務よりも、権利を優先する。一方、彼らを批判するコミュニタリアンは、共同体において歴史的・社会的・文化的に形成され、受け継がれてきた共通の価値を重視する。サンデルは、さらに積極的に公共善の必要性を説き、また、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるという目的論的な考えを支持し、権利基底的な理論から目的基底的な理論への転換の方向を指し示している。

●位置づけられた自己

 サンデルは、カントやロールズの自由に選択できる独立した自己の概念を「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼んで批判する。「負荷なき自己」とは、いかなる歴史的・社会的・文化的な制約からも自由な選択の主体である。「主意主義的自己(voluntarist self)」とも呼ぶ。
 実際には、諸個人は、何の負荷も受けずに存在しているのではない。生まれた社会、家族の関係、置かれた状況等において、さまざまな重荷を負っている。そこでサンデルは、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。「人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語の中に自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」とサンデルは言う。物語を語るということは、「自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去のさまざまな負債、正当な期待、責務を受け継ぐ」ということである。「マッキンタイアによる人格の物語的な考え方は、自由に選択できる負荷なき自己としての人格を見る主意主義的な考え方とは好対照をなす」とサンデルは指摘する。
 サンデルは「人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか。できない。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである」と述べている。
 サンデルは、「負荷なき自己」に対して、共同体との繋がりを自覚したコミュニタリアン的な「位置づけられた自我(situated self)」を対置する。situated は「~に位置すること」「特定の場所にいること」を意味する。「位置づけられた自己」とは、「自ら選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語に関わりを持つ自己」である。
 サンデルの自己論は、単なる自己認識ではなく、道徳意識や政治的関心に裏付けられているところに特徴がある。サンデルは、「自分自身をまったく負荷なき自己として構想することは、われわれが通常認めている、広範囲な道徳的で政治的な責務の意味を理解できなくなることである。その責務によってわれわれは、特定のコミュニティ、生活史、伝統による成員であることと結びついているからである」という。また、「家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、自らを位置づけられた自己として見ることを必要とする」と述べている。
 私は、自己認識について、この見方を妥当と考える。ただし、訳語の問題として「位置づけられた自己」は、日本語として練れていない。situated は、特定の場所や地位にあることを言う。社会関係の中で特定の立場や地位にある自己という意味であり、「特定の立場にある自己」という説明的な表現の方が良いと思う。

 次回に続く。