うさぎとかえるの里

鳥獣戯画をこよなく愛する自分の日本文化や日常に関する想いをつづります。

鎌倉4~鎌倉宮

2010-04-17 00:04:03 | 旅行・参拝
閑静な住宅街を歩いてたどり着いた鎌倉宮。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王終焉の地です。

昨年から、信貴山・吉野と大塔宮の足跡を辿ってきましたが、それもいよいよ最終回!
ここが28歳で非業の死を遂げた大塔宮の終焉の地と思うと、なんだか感慨深いものがあります。

拝殿には、獅子頭が置かれていました。



大塔宮が獅子頭のお守りを兜の中に入れていたそうです。

そして右奥には、村上社。
村上義光公、「撫で身代わり」となっていました!



村上義光公、吉野にお墓がありましたね。
ワタシ、3月に吉野に行ったばかりなのでまだ記憶に新しいです(^^;)
金峯山寺の四本桜の地…つまり、吉野落城の際にそこで大塔宮が最期の酒宴をし、
その後で村上義光公が大塔宮の鎧を着て、身代わりとなって腹を切り、
敵をひきつけている間に、大塔宮が落ちのびたのでしたね。(太平記巻七)

お亡くなりになってからも、身代わりになってくださるとはなんともありがたい。

こちらも武士の形をしております。
人型ですね…。



そしていよいよ大塔宮が幽閉されていた土楼です。
9か月、ここにいらっしゃったのですね(T_T)



大塔宮の最期は、太平記巻十三にあります。
自刃した鎌倉幕府十四代執権北条高時の息子、時行が北条氏の再興を目指して鎌倉に攻め込んだ中先代の乱(1335年)の際、
鎌倉にいた足利直義は、後醍醐天皇の皇子(成良親王)を連れて鎌倉を落ちるのですが、
その時、後に足利の強敵になるであろう大塔宮を暗殺させるのです。

土牢の周囲はひんやりとしていて、地下水がしみだしている感じでした。
中は思いのほか広かったのですが、これは後年手を入れているのでしょうか?

太平記の中では、
「宮は半年ばかり牢の中に居屈まらせ給ひたりければ、御足も快く立たざりけるにや…」と
刺客(淵辺義博)に襲われた際の描写にあるので、天井も低かったものと…。

表には、宮を供養する木簡が置かれていました。
「安らかにお眠りください」と書かれているものが多かったですね…。

それからお庭に出ると、御構廟という首塚があります。
ここに大塔宮の首が置かれたのですね。



なぜに証拠となる首を残して行ったのかというと…
「牢の前に走り出でて明かき所にて御頚を見奉るに、喰ひ切らせ給ひたりつる刀の切っ先、
未だ御口の中に留まつて、御眼なほ生きたる人の如し。
淵辺是を見て、『さる事あり。かようの頚をば、主には見せぬ事ぞ』とて、側らなる藪の中へ投げ捨ててぞ帰りける」

これは中国の説話で、敵を討つために剣の切っ先を口に含んで自決した男の首が、敵である王のもとに届けられた時、
その切っ先を吐き出して、王の首を切り落とした…というものがあるのですが、それを恐れた為だそうです。

この故事を知っていた淵辺がすごいのか、太平記の筆者がすごいのか、
武士といえどもみな学があったということなのでしょうね。

置き去りにされた大塔宮の首は、理致光院の長老に届けられ、きちんと弔われました。

宝物殿にも、大塔宮の木像や、肖像、令旨など、ゆかりのものがたくさんです。

そもそも、鎌倉宮の創建は明治二年。
明治天皇の発願によるものでした。
明治二年と言えば、函館戦争がようやく終焉した年。(土方歳三が亡くなったのもこの年)

明治維新の大業は、大塔宮のご遺徳によるものとして造営されたそうです。

太平記の時代も江戸幕末も、天皇親政を目指す者と武家政治との対立という点では同じですよね。
きっと、新政府の今後も祈念した上での造営だったんだと思います。
だって、旧幕府との戦いが終わるか終らないかの時に造営なんて、よほど国内の騒乱を嘆かれたか、と思ってしまいます。

ちなみに京都の霊山護国神社も明治天皇の発案で、こちらは鎌倉宮より1年早い慶応4年(明治元年)の創建でした。
江戸城無血開城とはいいながらも、その後の内乱を思うと、やはり歴史の変革期には流血は避けられないんですね(;_;)
コメント
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