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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

呉士連ほか撰 『大越史記全書』

2011年06月26日 | 東洋史
http://www.nomfoundation.org/nlvnpf/index.php?IDcat=2&cat=3&subcat=215

 『アジア歴史事典』「大越史記全書」項、『東洋史料集成』また『アジア史研究入門』5「ベトナム(前近代)」章などのほかに、ここにもよい説明がある。

 まだ途中だが気が付いた点を記しておく。

 1. 編年体で、通史。あきらかに司馬光の『資治通鑑』を範にとっている。
 2. 年号は、干支―自国年号の順でしるされ、さらにその下に割注の形で中国年号が挿入される。君主が、自分のことを「朕」と平気で呼び、「勅」や「諭」を当然の如く発する。天候不順で農作物の出来が悪いと「己を罪する詔」まで下す。だいいち、指して「帝」と書いてある。
 3. 越習なし。ただし、たとえば『資治通鑑』とくらべると表現は平易で類型的という印象を受ける。文法的にはまちがっていないし表現としておかしいところもない(のだろう)が、さりとてネイティブとまったく同じかといえばそうは言えないような気がする。だが“plain Classical Chinese”とか “数百語でしゃべれる英語”とかまで言ったら言い過ぎになるだろう。記述すべき内容に必要な語彙は十分に足りているから。そうだ、私も仕事で書いていた経験があるが、日本人の貿易通信英語文、通称コレポンに印象がよく似ている。明快だが、実務一辺倒で、ふくらみがないのだ。

 それにしても、何時の版本かはしらないが、朱筆で句読を切ってある。ベトナム人にもやはり漢文(古代漢語・古典中国語)は読みにくかったのだろうか。ベトナム語は形容詞が名詞の後につく。漢語(周代以後の古代漢語および現代中国語)では前に置かれる。それだけでいかにも外国語だという違和感があっただろうと思う。