黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 見付けた家内の無線局の免許状と免許証

2013年10月10日 15時06分45秒 | アマチュア無線

  先日、郵便局から電話が有り、可也以前の貯金通帳の事で問合せを受けた。子供が小学校時代のお年玉や、両方の祖父母から貰ったお小遣いを貯めていた通帳で過去10年間、出し入れが無い通帳を確認しているらしい。子供の通帳なので大した金額では無いが念の為に調べる事にした。



 しかし乍、可也以前の事、色々な場所を調べたが出て来ない。最終的に日頃、使用しない和箪笥の引き出しを調べて見る事に成り、嫁入道具とは言え持ち主の家内の了解を得てチェックを開始すると懐かしい物が続々と出て来た。私たちの結婚式の祝電、古い年毎の年賀状の束、母子手帳、子供達の成績表、写真、甥や姪の結婚式の集合写真、etc通帳を探す事も忘れて見入ってしまった。 其の中で一番目を引いたのが古い色あせた封筒に入った家内のアマチュア局の免許証と免許状である。有効期限は昭和60年9月17日~65年9月16日までコール・サインはJH5KGOで結構良いコール・サインが発給されている。だが、受験は1979年の四月に松山の四国電波管理局(当時はこの様に呼ばれていた)まで直接受験に行き私も同行したのでハッキリと記憶に残って居るのだが免許証と免許状の期間に可也ブランクがあるので記憶は定かでは無いが一度更新した免許状なのかも知れない。



 受験は結婚して2年目、当時は受験方法として講習会制度もあったが家内は徳島市内の金融機関に勤めていたので長期の講習は受けられず(当時は夜間の2週間位の受講が必要であった)自力で受験すると言い出し、その代り合格したら高級な「寿司屋」に連れて行く事と松山までの同行を仰せつかった。勉強は毎日の汽車での通勤時間を利用し結構勉強した様だが最後まで私に聞く事も無く受験当日を迎えた。



 試験当日は会場で試験が終わるのを待ったが早々と最初に出て来たので「出来なかったのか?」と聞いたら「工学も法規も全部出来たから間違いなく合格、早く寿司屋さんへ行こう」と催促された。確か駅近くの寿司屋さんだったと記憶しているがカウンターの前で職人さんが握る寿司を二人で食べたのは後にも先にも此の時だけ、家内の語り草と成っている。



 ある程度、苦労して受験したアマチュア無線では有ったが、アマチュア無線局を運用して交信する事も無く、私とも交信しない侭、免許状は失効してしまった。私としては結婚後の無線活動の中で大蔵省の予算配分の確保の為に、家内が少しは無線を遣っていれば有利かな?との思いで受験を促したのだが余りにも私の無線キチに嫌に成ってしまったのだろう。其れでも其の後の無線活動や設備の拡張に文句を言う事は一度も無かった。唯、一度だけ無線活動に対する不満ではないが、タワーを2基、建てた時、基礎の穴掘り以外は家内に手伝って貰ったのにタワーのプレートに協力者(アンテナを取り付けたローカル局のコールと年月)としての記入が無かったと言う事で「貴方は私に対する感謝と言う気持ちが無い 書き入れるなら一番苦労した私を最初に書き入れるべきなのに本当に頭に来た」と捨て台詞を残して外に出て行ったので如何するのかと思ったらタワーの基礎から出た直ぐの継ぎ手のボルトナットを「こんなタワー倒して遣る」と言いながら大型のモンキーで緩めだしたのには恐れ入って平謝りして御許し戴いた事がある。



 家内は免許取得の為に勉強した事もある事から専門職の私に時々、キルヒホッフの法則やフレミングの法則「左モーター、右発電機」などと御高説をのたまう事が有るが私のアマチュア無線活動が円滑に成る為に甘んじて承る事にしている。家内は最終的にアマチュア無線を運用する事は一度も無かったが女性として一番良い時期の写真を張った免許証が残ったという事か? 久し振りに家内の勤務先の制服姿の若い写真を見て此の様な時代も有った事を再認識した。其れにしても歳月の流れは恐ろしい。私のブログは家内は見ないので安心だが見られると報復手段としては一番効果のあるモンキーを持って例の行動に出るかも知れないHi