黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 近所の桜も花が開き始めた。

2019年03月31日 16時42分11秒 | その他

      


 先日の29日に行った神山町の「枝垂れ桜街道」の開花状況は7分咲きといった処か?道中に何箇所か「そめい吉野」の桜の木も在ったが其の大半がまだ殆ど花が開いていない状態で其れ等の満開時期は5~6日先の様に思われた。今年は例年と比較して暖冬と云われて居ただけに桜の開花も例年と比較すると1週間近く早いのでは?と云われて居たが、いざ蓋を開けると以外にも桜の開花状況は遅いようである。


 先日訪れた神山町は「枝垂れ桜」の木が非常に多い地区で「枝垂れ桜の開花」は「そめい吉野桜」に比べて少し早いので枝垂れ桜街道の周辺は花見客が多かったが花見が終わった帰り道で、桜で有名な徳島市近辺の桜の名所や我家に近い勝浦町の「道の駅 雛の里」の横の大きな桜並木がある場所にも下見に立ち寄ったが開花状況は枝にポツポツと花びらが開いて居る状態でまだまだの感じであった。


 今朝、起きて我家の直ぐ隣の元中学校跡の桜並木を見ると金曜日には殆ど開いて居なかった花弁が少し開き始めたので愈々「花見シーズン」の到来で明日は早朝から家内と県内の桜の名所を4~5箇所巡る予定、金曜日に直ぐ傍まで行きながら駐車場が満杯で見られなかった「ゆうかの里」の枝垂桜も早朝に訪れる予定にして居るが今朝は可也の強風が吹いて居たので少し葉桜に成って居るかも?毎年の事だが最高状態の桜を見られる確率は少なく従って数多くの場所へ出掛けて其の確率を上がるしか方法は無い、明日からは状態の良い桜を求めて暫くは家を空ける日々が続く事に成る。

 旅の計画

2019年03月30日 21時17分31秒 | 旅行

  
 旅グループの女性陣から次の旅の(4月か5月に)計画をする様に指令が出た。義姉は九州方面を家内は以前から長野の北アルプス方面を希望で現在両方の旅の行程表を作成中、出来上がった処で判断はお二人に任す予定、従って昨日辺りからインターネットやグーグル・アース画面を切替えながらどの様なコースで回るか?思案をして居る。


 私としては信州方面に行きたいので白馬、松本、安曇野、諏訪、善光寺方面を3泊4日位の行程で久し振りに回りたいのだが果たして如何成る事か?暇と時間は持て余して居るのだが財政的には問題あり、然し此の旅グループは元々、私が勝手な気侭な日本一周旅をして居る時に妹が(家内が)可哀想と義兄夫婦が家内を誘って中国、四国、近畿方面の旅には連れ出してくれて居たもの、其の義兄も亡くなって義姉は旅に出られなく成って仕舞った。其の後、家内が退職し私の一人旅も自由に出来なく成ったので過去の罪滅ぼしを兼ねて夫婦で旅をする様に成り、それなら御世話に成った義姉を誘って出掛ける3人の旅グループが発足した。


 4月に入ると例年の県内外の「花見のはしご」が始まり四月の10日位までは其方で忙しいが?其の後辺りだと信州で桜を見られる可能性のあるので出来れば中旬頃に出発したいが義姉の都合も有るので果たして如何なる事か?四国の「そめい桜」も咲き始めたので来週は忙しく成りそうだ。



      


 春の陽気に誘われて極彩色の春の小花が咲きだした。桜も楽しみだが此れ等の花も今後楽しみである。

四国八十八箇所霊場 第34番札所「種間寺」

2019年03月30日 10時24分33秒 | 四国88箇所霊場

        


     種間寺の歴史・由来


 土佐湾の沿岸は四国霊場が多く並び種間寺も其の一つで土佐湾の航海に結びついた興味深い話が伝えられて居る。6世紀の頃、敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書が届いた。彼等が渡来したのは用明天皇(在位585~87)の時代で大阪・四天王寺の造営に当たった。漸く落慶し其の帰途の航海中に土佐沖で強烈な暴風雨に襲われ種間寺が建つ本尾山に程近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼等は海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。此れが寺の起源とされて居る。


 其の後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師が此の地を訪ねたのは弘仁年間で大師は其の薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。其の折に唐から持ち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。天歴年間(947~57)には、時の村上天皇(在位946~67)が「種間」の勅額を下賜され、また土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われて居る。


 此の寺に到着したのは納経所の受付が終わる17時少し前だったが可也広い駐車場は満杯状態で車を停める場所が無く困って居たら年配の方が近寄って来られ「お遍路、御苦労様です。今日は此の寺の大きな行事が有るので駐車場が満杯状態です。今から私の車を移動させるので此処に車を駐車して下さい。」と言って態々駐車スペースを作ってくださり「有難う御座います。」と申し上げ感謝、感謝!急いで本堂に向かうと沢山の方々が座って居られ住職の読経が聞えて居たのでお邪魔に成ってはいけないと早々と納経を終えて、何とか時間内に終える事が出来たが如何やら慌てていた性か?本堂関係の写真を撮るのを忘れて仕舞い此の寺院だけは写真が無い。


 多分、私達がお遍路姿をして居なければ駐車場で地元の方からの、お声掛けは無かったか?と思われ、此の時はお大師さまに助けられた気がしたし、また此の日の二つ前の禅師峰寺の納経所で「雪渓寺への巡礼ルートの事」をお尋ねしていた事を外で休憩していた地元女性の親子連れの方が聞いて居られたのか?私達が駐車場まで下ったら態々待って居られ「もし雪渓寺に行かれるのなら?私達も次は向かうので宜しければ先導しますから後に付いて来てください。」と声掛け頂き非常に有難かった。四国路においては巡礼者に対して「おせったい」という形で1200年に及ぶ長い間、此の独特の文化は廃れる事無く今日まで引き継がれている有難い事だ。



 


 

花見シーズンがスタート!

2019年03月29日 16時08分34秒 | その他

         


 今年も待ちに待った桜のシーズンが始まりました。昨日の夕方に地元チャンネルのテレビを見ていたら神山町のしだれ桜で有名な「ゆうかの里」の映像が流れて居た。今朝、起きると家内が弁当を作って「昨日の所に連れて行って」と可也気合が入って居た。私は去年、此の場所に行ったが駐車場が広く無く車の駐車に苦労したし、ましてや昨日の放送を見た同世代の暇を持て余した人達が殺到する事が解かり切って居たので「駐車場探しが大変で多分、可也歩かないと駄目だよ」と言ったが言い出した当人は行く気満々の状態に・・・・・・・


 しかた無く2人で出掛けたが目的地の可也手前で車は全く動かなく成って仕舞った。しかも細い道路上で対向車にも迷惑が掛かる状況に前に進むのを諦めてUターンして来た道を引き返し「神山、枝垂桜街道」方面へ行く事にした。此処は所々に駐車帯が在って何とか車の駐車が可能である事が解かって居た。此の場所は道路の両脇に大きな枝垂桜の木々が並び其の桜景色は非常に良いのだが残念ながら写真の様に道路の直ぐ傍なので弁当を広げたり御座を広げてゆっくりと花見を楽しむ事は出来ない状態、其れだけに見物客の滞在時間が短く入れ替わり時間が短いので待ち時間が無く車の駐車に困る事は殆どない事が解かっていた。


 目的の場所に着くと駐車場は苦労する事無く確保、家内と歩いて桜見物を始めたら桜の最盛期には2~3日ほど早過ぎた感じか?桜は綺麗に咲き誇っては居たが去年の最盛期の桜を見て居ただけに心持ボリュームに欠けていた。しかし此の場所は単なる桜だけで無く黄色、白色、赤色の花との対比が良く私が一番気に入ってる場所、惜しむらくは写真を撮る場合に街道両脇の電信柱や電線が非常に邪魔に成る事、これは残念な事だが此れだけは如何しようも無い。


 今年も例年の私達の県内の「花見のはしご」が始まる。そめい吉野桜はまだまだの状態で花弁がポツリポツリと開き始めたところ、枝垂桜は月~火曜日辺りが最盛期か?兎に角、忙しく成りそうである。



        


            


    

四国八十八箇所霊場 第33番札所「雪渓寺」

2019年03月29日 08時33分23秒 | 四国88箇所霊場

     


     雪渓寺の歴史・由来


 土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立って居る事でも名高い。雪渓寺は其処から西へ約4Km程の距離にある。此の寺の縁起は、まず3つの特色がある。一つ目は四国八十八箇所霊場の内、2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院である事、弘法大師に寄って弘仁6年に開創された頃は真言宗で「高福寺」と称した。其の後、寺名を「慶運寺」と改めて居るが、廃寺と成って居た寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪渓寺」と改め、今日に至って居る。

 (雪渓寺の「けい」の字は本来、第二水準の漢字だが変換出来なかった為に本来の漢字では無い第一水準の漢字を使用して居る)


 二つ目は鎌倉時代の高名な大仏師、運慶と其の長男、湛慶が此の寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩を制作、また湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげる可愛い「ぜんにし童子像」を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名乗ったのも、こうした由縁で此れ等は全て国の重要文化財に指定されて居る。


 三ッ目は「南学発祥の道場」と云われ、江戸初期の住職、天質僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などの優れた儒学者を多く輩出して居る。


 此の寺を訪れた段階では事前知識は全く無く、此れまで訪れた寺院とは少し違った印象を持ったが(豪華さや華美では無い造り)帰って来て色々調べている中で臨済宗(禅宗)である事に気付き、成る程と理解した。其の性か?撮った写真の枚数も非常に少なく2枚しか無かった。

 どうにか3Y0Iのアンテナ対応は整った。

2019年03月28日 17時22分39秒 | アマチュア無線

   


 去年の秋頃から写真の一番下に取り付けているトライ・バンダー(10,18.24MHz帯の3エレ)の反射器だけが強風の関係か?他のエレメントに対し傾いて仕舞い不恰好な状態に成って居た。性能的には極端な落ち込みは無かったので冬季は此のアンテナを殆ど使用する事は無かったし寒い時期の修復作業は大変なので其の侭に放置して居たが最近春めいて暖かく成って来たので先日修復作業をする事にした。


 作業はブームをアンテナ・マストに固定するUボルトのナットを外しブームを50cm四方の天板に置きループ長を自由に調整できる布バンドを使用しブーム・パイプを天板に布バンドでループ状にルーズに固定した後にブームを順次送りながら反射器を取り付けたUボルトに手が届く所まで移動させ(ブームを固定する布ベルトのループ長を段々と狭めながら移動)反射エレメントの傾きを修正した。此のタワーは踊り場がない為に足場も悪く然も可也窮屈な作業には成ったが何とか終了、折角上に上がったので最上部の24MHz帯のアンテナ取付け位置を少しでも上に上げようと試みたが足場用ステップの本数が足らずマスト・ポールの先端までは持ち上げる事が出来ずに次回に遣り直す準備だけに終わった。7~8年前だと其の作業が現状で出来たのだが歳の性か?以前の足場ステップの間隔では足が上がらず体力が落ちた事を実感した。


 此の作業は私にとっては一番嫌な作業でアンテナ・ポールを2.5mほど上がらねば成らず其の時の目線の高さは天板から4m近い高さに成り幾等マスト・ポールが二重管に成ってるとはいえ可也揺れるので決して気持ちの良い物では無い。今回はもしかすると3Y0I(ブーべ島)からの運用が近く有るかも知れなかったので思い切って作業を行ったが最近のインターネットのDXペディション情報では嵐で船の航行システム其の他のアンテナを損失したとかでケープタウンに引き返すとか?昨年に続き気象条件には恵まれていない状況・・・・・果たして中止なのか再挑戦を行うのか?微妙な状況だが取敢えず10,18,21,24MHz帯に関しては万全な対応は整った。


 


 


 

四国八十八箇所霊場 第32番札所「禅師峰寺」

2019年03月28日 08時34分32秒 | 四国88箇所霊場

        



     禅師峰寺の歴史・由来


 禅師峰寺は太平洋のうねりが轟く土佐湾の沿岸に近い、小高い山、82m程の峰山の頂上にある事から地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また海上の交通安全を祈願し建立されたと云う事で海の男達は「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師達に限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出港する歴代の藩主達は、みな此の寺に寄り航海の無事を祈った。


 縁起に寄ると、行基菩薩が聖武天皇(在位724~49)から勅命を受けて土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされて居る。後の大同2年、奇岩霊石が立並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏像の理想の山とされる天竺・捕陀落山さながらの霊域であると感得し此処で虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。此の時、自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ「禅師峰寺」と名付け、また峰山の山容が八葉の蓮台に似て居た事から「八葉山」と号した。


 以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民達の篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこじんまりと肩を寄せ合う様に立って居るが、境内は樹木に覆われ、奇怪な岩石が多く幽寂な雰囲気を漂わせている。



      


 此の札所に訪れた時には殆どお遍路さんの姿は見えなかったが何か迷いでもあるのか?本堂で普段着ではあったが熱心に般若心経を唱える若い外人さんが居られて非常に印象に残った。其の姿を見ると私の様な「何チャってお遍路旅」では申し訳ない気持ちに成って仕舞った。


 




  
  

四国八十八箇所霊場 第59番札所「国分寺」

2019年03月27日 07時34分33秒 | 四国88箇所霊場

        



    国分寺の歴史・由来


 伊予の国分寺は、伊予の国府があったところで、此の地域は伊予文化発祥の地とも言える。往時の国分寺は今の寺から150m程の東に在った。東塔跡と見られる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史跡とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60m程で豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔を偲ばせ、その面影を今に残している。


 国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師の時、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり「法華経」の一部を書写して納められている。


 其の後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。先ず天慶2年(939)の「藤原純友の乱」に寄り灰燼に帰した。次に、元歴元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)讃岐・細川頼之の兵火に寄って焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著「四国禮霊場記には茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されて居る。此の寺の本格的な復興は江戸時代後期からであった。




  


 上記の写真は国分寺の境内の南側に在った薬壺には其の円周上に目、手、足・・・・・・等の体の名称が彫り込まれ各人の健康状態の悪い部位の其の部分を触ると良くなると云われて居るので私は全てを触っていたら家内が「弘法大師さんも沢山の人の願いを聞かねば成らず可也忙しいので御願いする場所は一箇所にして下さい。」的な事が書き込まれていたと私に言って来たので思わず笑って仕舞ったが其の家内が其の後に全ての部分を触っていた事に大笑いした。


 

思わぬプレゼント

2019年03月26日 22時03分46秒 | その他

    


 今日は3月26日で語呂合わせの「フロの日」で例の「かもだ岬温泉」の入浴料金が家内は半額に成る日、前々から此の日は行く様に家内に約束をさせられて居たが此の日は県立図書館で借りて居た本の返却日とかさなって居たので此方は必ず行かねば成らず然も方向は全く逆で両方共に行くなら結構時間が掛かるので私は大層に思って居たのだが家内は可也楽しみにして居たようで「温泉の方は後日にしよう」と私が言ったら段々と不機嫌な感じに・・・・・・仕方が無いのでかもだ岬温泉の営業開始直後に温泉に入り、昼までに帰って昼からは図書館と此の前に伊予に出掛けた義姉から家内に家に来る様に声が掛かったらしく出掛ける一日運転手となった。


 温泉の営業開始時間を知る為にインターネットにアクセスすると営業開始は10時からと成って居たが其の下に温泉の5Km手前で道路工事をして居り通行の時間制限があり08:30まではフリーだが其の時間を過ぎると10:00~10:15の間しか通れず次は12:00~13:00間しか通れ無いとの事で御注意下さい!のメッセージが書き込まれて居た。我家から此の地点まで35~40分は掛かるので矢張り早目に出て現場で時間待ちする位に出発と成ると09時には我家を出発せねば成らず慌てて準備をして出発する事と成った。


 然し偶々では在ったが、よくも此の温泉のホームページにアクセスしたものだ、此の事に気付かず何時もの時間に出掛けていたら解除される僅か15分の間には間に合わず温泉の手前で引き返す破目に成って居た筈、一寸した機転を利かせた事で何とかセーフで午前中に温泉に入り帰りは昼の解除時間帯に通行する事が出来た。今日は早く出掛けた事で駐車場に車はおらず温泉には一番乗りで到着、入浴も一番風呂と成った。早く温泉から出ても帰れない事から今日は時間調整を兼ねて2時間たっぷりと温泉に入り温泉から出ると1日が終わった感じ・・・・・家内も何時に無く長風呂で同じ頃に出て来て早速「アイスクリームが食べたいけどお父さんは?」と聞いて来たので「いらん!」と私が答えると「悪いけど私は戴くわ!今日は入浴料が何時もの半額の300円だったので300円のアイスクリームが食べられるわ!」と一言、如何やら温泉を楽しむ事も目的であるようだが入浴後のアイスクリームも同じ位楽しみだった様子、「貧乏な為にお前に其処まで倹約して貰って申し訳ないなぁ~」と嫌味を言ってみたら「アハハ」と笑って居た。



 昼からの義姉からの緊急招集は何事か?と思って居たら先週の伊予の一泊旅行の運転で私に御世話に成ったとスカイラーク・グループの株主優待券(食事券)可也高額を家内にプレゼントする為だったらしい。其の後に県立図書館に立ち寄り本を返し、新しい本を借りて我家に帰り着くと既に18時を廻って居り今日の外出は一日がかりと成ったが家内にとっては思わぬ最高のプレゼントに成った様だ。

四国八十八箇所霊場 第58番札所「仙遊寺」

2019年03月26日 08時15分31秒 | 四国88箇所霊場

        


    仙遊寺の歴史・由来


 仙遊寺の境内は山号に成って居る作礼山の山頂に近い標高300mの高台にあり、今治市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望出来る眺望豊かな地にある。


 創建は天智天皇(在位668~71)の勅願に寄り伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がって来た竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。此の事から「作礼山」が山号と成り、竜宮から届けられた云う伝説もある。


 更に仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残って居る。寺名は其の阿坊仙人に由来して居る。


 弘法大師が四国霊場開創の折に此の寺で修法をされた時、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されて居る。江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけと成って居たが明治時代の初期に、高僧・宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏(真言密教の教義で、人間が現世の肉体の侭で仏に成る事、生きたままで仏に成る事)として入定している。境内には上人を供養した五輪塔がある。


            

60年振り位か?漸くストーリーを理解した。

2019年03月25日 22時39分03秒 | その他

  


 最近のTV番組は面白い物が少なく私が見る番組は殆ど「テレビ東京」の番組だが其れでも最近は見る時間が少なく成った。昨日も面白い番組が無かったので久し振りにインタネットの有料映画を見る事にした。偶々、邦画部門の番組表を見ていたら黒沢明監督の「用心棒」があったので退屈凌ぎに見始めたらテレビ画面に引き込まれて仕舞った。確か若い頃に見た憶えは在ったが多分30年以上の昔の事でストーリーは保々忘れて仕舞って居り初めて見る感じで結構楽しめた。


 そして今日は「七人の侍」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」と連続して見たが飽きる事は無かった。七人の侍や椿三十朗は10年くらい前にも見たが流石に世界の映画界に影響を与えた名監督の作品だけに見応えがあった。隠し砦の三悪人は確か?小学校の頃に見た作品で子供心に「随分汚い画面だなぁ~」の印象があり映画の途中に焚き木を背中に担いだ二人が足場の悪い坂道を上がり降りしたり、ラストシーンのお城の階段を二人が降りていくシーンだけは確りと覚えて居たが途中のストーリーは保々忘れ去って居て60年振りか?本当に懐かしい映画を見て漸くストーリーを理解した。

四国八十八箇所霊場 第57番札所「栄福寺」

2019年03月25日 14時34分17秒 | 四国88箇所霊場

        


     栄福寺の歴史・由来


 栄福寺のある瀬戸内海沿岸の此の近海では海難事故が絶えなかった。栄福寺は弘法大師が海神供養を修した事から、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されていた。


 縁起に寄ると嵯峨天皇(在位809~23)の勅願により、大師が此の地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。此の阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。


 栄福寺には神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。定観元年(859)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告を受けて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建する為、近海を航行中に暴風雨に遭い此の地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもある事から、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。此の八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立って居る。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、神社と寺は其々に独立した。三番目の大師堂は山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。


 此の寺に到着したのは3月15日の納経所の締め切り少し前の時間帯で他のお遍路の姿は無く、私達の様なお遍路の初心者でも周囲に気兼ねする事無くゆっくりと納経する事が出来た。何せ、たどたどしい私達の般若心経では一寸肩身の狭い状態なのだが他の人が居なければ安心して行う事が出来る。


 



四国八十八箇所霊場 第56番札所「泰山寺」

2019年03月24日 11時09分52秒 | 四国88箇所霊場

         


    泰山寺の歴史・縁起


 泰山寺には水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残って居る。弘法大師が此の地を訪れたのは弘仁6年の頃、蒼社川と云う川が此の地方を流れており毎年梅雨の季節に成ると氾濫して田地や家屋を流し人命を奪っていた為、村人は恐れ苦しみ、人取川といって悪霊の仕業と信じ込んでいた。此の事情を聞いた大師は村人達と堤防を築いて「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し治水祈願が成就した事を告げた。


 大師は此の修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して堂舎を建てて「泰山寺」と名付けた。此の寺名は「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」から取ったと伝えられ「泰山」にはまた寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。


 寺は其の後、淳和天皇(在位823~33)の勅願所と成り、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊などの10坊を構える程の巨刹として栄えた。だが度重なる兵火に寄り寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師のお手植えの「不忘の松」の在った所に移ったと伝えられて居る。



         



 今回の巡礼は15日に第59番札所「国分寺」~第57番札所「栄福寺」を巡り西条市で一泊し翌朝の朝一番に此の泰山寺からスタートした。天気は上々で抜ける様な青空に菜の花や梅の花や早咲きの桜がチラホラと咲き始め春の陽気の中でのお遍路旅と成ったが気候が良く成った性か?道中に歩いてのお遍路旅の方々の姿が多く見られた。此処から此の後の第50番札所「繁多寺」までは逆回りと成ったのでブログでは時間の経過が逆に成っています。

ちびっ子ギャング現る

2019年03月23日 20時45分34秒 | 都ちゃん

        


 今日の午前中に息子に頼み事があったので電話を掛けたら今日は嫁が出勤の日で終日、都の子守とか?其れは一寸大変そうだったので我家に連れてくれば少しは子守の手伝いも出来るので来る様に誘ってみた。


 昼を過ぎた頃にちびっ子ギャングが「爺ちゃ~ん」を連発しながら我家に到着、昼食から夕食が終わるまで半日間のお付き合いをしたが特に家内が夕食の準備をする間は私一人が都の相手をする事に成ったが孫を預かって怪我をさせると大変なので気を抜く事も目を離す事も出来ずに都が帰ったら疲れが一気に出て何時の間にか眠り込んで仕舞い、楽しみにして居た男子フィギア・スケートのフリー演技を見逃して仕舞った。


 今日の外は少し寒かったが我家の近くの西部公園の大きい滑り台で遊んだり何時もの散歩コースの堤防斜面で遊んで居たが都は興奮気味で疲れ知らずの頑張りで昼寝もせずに頑張って居たが多分今頃は爆睡中で在ろう。





 


 


 

四国八十八箇所霊場 第55番札所「南光坊」

2019年03月23日 12時03分30秒 | 四国88箇所霊場

        


    南光坊の歴史・縁起


 四国霊場の中で寺名に「号」がつく寺院は此の南光坊だけで、正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深く関わる歴史があるという。


 縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?~707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に法楽所として24坊の別当時を建立した事が創始といわれる。此れ等の別当院は翌々年、海を渡っての参拝が不便な事から現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊の内の8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。更に弘法大師が此の別当寺で法楽(お釈迦様が悟りを開いた後で1週間、自分の悟った法を回想して楽しんだ事が原義で仏の教えを信受する喜び)をあげて修法され、霊場に定められた。


 後に、伊予全土に及んだ「天正の兵火」に寄り、社殿・伽藍はことごとく焼失したが南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、際祀料を奉納している。更に時代が下がり、明治初年の廃仏毀釈(明治で起こった神仏分離で仏教を排除しようとする運動)本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。


 太平洋戦争の最末期の昭和20年8月の空襲に寄り大師堂と金比羅堂を残し罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。


 写真は山門、本堂、大師堂、金比羅堂(讃岐の金比羅宮から歓請している金比羅大権現を祀る堂)


 

        


 四国霊場の山門や仁王門などの各像は国宝や重要文化財に指定されている物が多く色んなトラブルから守る為に各種対策がとられ殆どの場合、直接に像を写真に撮る事は難しいのだが此の南光坊は其れが出来たし、山門に四天王の持国天・多聞天・広目天・増長天像があった。


 持国天は梵語でドリタラーシュトラ(国を支える者)の意味で大威徳を持ち帝釈天の配下であり四天王の一体で東方を護る守護神です。


 多聞天は梵語でヴィイシュラヴィアナと云われ我々には毘沙門天と云う方が馴染みがあり多聞天は北方を護る守護神で此の北方は仏教では鬼門でであり其の重要な北方を担う事からインドでは守護神のリーダーとして任命されていた模様、



 広目天は梵語でヴィルーバークシャと言われ「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」の意味で「千里眼」と拡大解釈され其れを広目と漢約された四天王の一体で西方を護る守護神とされる。


 増長天は梵語でゾウチヤウーと云われ「増大したもの・成長したもの」と云う意味の言葉でその意味から「増長天」と漢訳され四天王の一体で主に南方世界の守護神で像は赤色で甲冑を着け普通は右手に鉾を持ち左手は腰に当てる姿をして居る。