サンクトペテルブルク観光初日は、エルミタージュ美術館を見るのが主な目的ですが、開館前にデカブリスト広場に立つ青銅の騎士像を見学することになりました。
バスをイサク聖堂の前で下りました。
イサク聖堂は、午後に内部見学を行うことになっており、まずは外観の見学のみです。
小公園をつっきっていきます。
青銅の騎士像の背後に出ました。
エカテリーナ2世の命によって立てられたピョートル大帝の像です。ロシアの詩人プーシキンが、この騎馬像を題材に書いた「青銅の騎士」が有名になって青銅の騎士像と呼ばれるようになりました。
後ろ足は大蛇を踏みつけており、この大蛇は旧体制あるいは当時の敵対国であったスウェーデンを現しているようです。
前足を上げて後ろ足だけで立っている像は勇壮ですが、安定が難しそうです。
花崗岩でできた台座には、「エカテリーナ2世が1782年にピョートル大帝に捧げる」と書いてあるようです。
青銅の騎士の立つ広場の西には旧元老院の建物が広がっており、以前は元老院広場と呼ばれていましたが、革命以降は、1825年に起きたデカデブリストの乱(専制政治や農奴制に反乱して青年貴族が起こした反乱)にちなんでデカデブリスト広場と呼ばれるようになりました。
デカデブリスト広場は、大ネヴァ川に面しており、対岸の美しい家並みを眺めることができました。
これはメンシコフ宮殿。現在ではエルミタージュ美術館の別館になっていますが、サンクトペテルブルクで最も古い建物のひとつです。
メンシコフは、ピョートル大帝の寵臣で、大帝の死後は妃のエカチェリーナ1世を帝位につけて、自身が権力を握ります。エカチェリーナ1世が2年後に病死すると旧貴族の巻き返しにあって権力を失ってシベリアに送られて、そこで亡くなりました。
サンクト・ペテルブルクの街は、ピョートル大帝によって人工的に造られたもので、観光で訪れるエルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿、血の上の救世主教会など、関連するロシアの歴代皇帝の名前は知っておく必要があります。
少々長くなりますが、ロシアの歴史をまとめておきましょう。
モスクワ大公国のイワン3世(大帝)の時代に、「タタールのくびき」から脱して、ロシアの統一国家がようやく形作られます。ヴァシリー3世の後を継いだイワン4世(雷帝)は、厳格な統治を行って皇帝権の強化を行いました。
イワン4世の後を継いだヒョードルは、知能が低く、その后の兄のボリス・ゴドノフが実権を握って王位につき、ここにリューリック朝は終わってしまいます。
ヒョードルの異母弟を名乗る「偽のドミトリー」が現れて、ポーランド軍に支持されてモスクワに攻めてくる動乱状態におちいりますが、ボリス・ゴドノフは有効な手をうつことができないままに病死してしまいます。この部分は、ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドノフ」でおなじみですね。
国民軍の手によってモスクワは開放され、イワン雷帝につながる名門貴族のミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれて、ロマノフ王朝が誕生します。
続く、アレクセイ、フォードル3世のもとで、ロシアは力を蓄えていきますが、フォードル3世が亡くなると、再び後継者問題が生じます。15才の兄のイワンは病弱でしたが、異母弟の9才のピョートルは利発でした。最初は、ピョートルが皇帝と宣言されましたが、イワンの姉のソフィアの画策によって、イワンが第一、ピョートルが第二の共同皇帝とされました。実権はソフィアに握られて、ピョートルは、モスクワ郊外の村に送られてしまいました。
二度のクリミア遠征の失敗によってソフィアの人気は落ち、ピョートルの暗殺失敗によって彼女は女子修道院に幽閉されてピョートルの時代が始まります。
ピョートルは、啓蒙君主としてロシアの近代化を行っていき、ロシアを西洋諸国に対抗しうる絶対主義国家に変えました。
ピョートル大帝が亡くなると、ピョートル大帝の寵臣のメンシコフによって妃のエカチェリーナ1世が帝位につきました。
エカテリーナ1世の後を継いだのは大帝の孫にあたる12才の少年ピョートル2世ですが、在位3年で病死してしまいます。
後継者として選ばれたのは、大帝の腹違いの兄イワン5世の娘のアンナでした。名門貴族の力によって、専制君主の権限を大きく制限する条件で帝位につけられたものの、帝位につくなりその条件を破棄して自身で権力を握り、10年間の統治を行うことになりました。
アンナの死後に後継者になったのは、アンナの姪の子供、イワン5世のひ孫の、1才にならないイワン6世でした。
この人事に不満を持ったのが、ピョートル大帝の実の娘のエリザベートで、クーデターによって権力を握ります。イワン5世は、23年間幽閉されたあげくエカチェリーナ2世の代になって獄中で殺害されてしまいます。
エリザベートは、ピョートル大帝の孫にあたるピョートル3世を後継者に指名し、その妃をドイツ人のエカチェリーナとします。
ピョートル3世が帝位につきますが、いきすぎたドイツ贔屓によって青年将校の反乱を引き起こし、それにかつがれたエカチェリーナ2世が女帝となります。
エカチャリーナ2世の後を継いだ息子のパーヴェルでしたが、クーデターによって殺害。その後をアレキサンドル1世が継ぎます。
その後はニコライ1世。続くアレキサンドラ2世は路上で暗殺されてしまいます。
その後は、アレキサンドラ3世。続くニコライ2世はロシア革命によって殺害されてロマノフ王朝の終焉となります。
対岸のヴェシリエフスキー島の岬部に立つブルーの建物は、ピョートル大帝が創設したクンストケメラ(ピョートル大帝記念人類学・民族博物館)で、赤い柱はロストラの燈台柱、その右の宮廷橋の奥に見えるのは、ペトロパヴロフスク要塞にあるペトロパヴロフスク聖堂の尖塔です。
これらについては、この日の夜に行った大ネヴァ川クルーズでゆっくりと眺めることができました。
バスをイサク聖堂の前で下りました。
イサク聖堂は、午後に内部見学を行うことになっており、まずは外観の見学のみです。
小公園をつっきっていきます。
青銅の騎士像の背後に出ました。
エカテリーナ2世の命によって立てられたピョートル大帝の像です。ロシアの詩人プーシキンが、この騎馬像を題材に書いた「青銅の騎士」が有名になって青銅の騎士像と呼ばれるようになりました。
後ろ足は大蛇を踏みつけており、この大蛇は旧体制あるいは当時の敵対国であったスウェーデンを現しているようです。
前足を上げて後ろ足だけで立っている像は勇壮ですが、安定が難しそうです。
花崗岩でできた台座には、「エカテリーナ2世が1782年にピョートル大帝に捧げる」と書いてあるようです。
青銅の騎士の立つ広場の西には旧元老院の建物が広がっており、以前は元老院広場と呼ばれていましたが、革命以降は、1825年に起きたデカデブリストの乱(専制政治や農奴制に反乱して青年貴族が起こした反乱)にちなんでデカデブリスト広場と呼ばれるようになりました。
デカデブリスト広場は、大ネヴァ川に面しており、対岸の美しい家並みを眺めることができました。
これはメンシコフ宮殿。現在ではエルミタージュ美術館の別館になっていますが、サンクトペテルブルクで最も古い建物のひとつです。
メンシコフは、ピョートル大帝の寵臣で、大帝の死後は妃のエカチェリーナ1世を帝位につけて、自身が権力を握ります。エカチェリーナ1世が2年後に病死すると旧貴族の巻き返しにあって権力を失ってシベリアに送られて、そこで亡くなりました。
サンクト・ペテルブルクの街は、ピョートル大帝によって人工的に造られたもので、観光で訪れるエルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿、血の上の救世主教会など、関連するロシアの歴代皇帝の名前は知っておく必要があります。
少々長くなりますが、ロシアの歴史をまとめておきましょう。
モスクワ大公国のイワン3世(大帝)の時代に、「タタールのくびき」から脱して、ロシアの統一国家がようやく形作られます。ヴァシリー3世の後を継いだイワン4世(雷帝)は、厳格な統治を行って皇帝権の強化を行いました。
イワン4世の後を継いだヒョードルは、知能が低く、その后の兄のボリス・ゴドノフが実権を握って王位につき、ここにリューリック朝は終わってしまいます。
ヒョードルの異母弟を名乗る「偽のドミトリー」が現れて、ポーランド軍に支持されてモスクワに攻めてくる動乱状態におちいりますが、ボリス・ゴドノフは有効な手をうつことができないままに病死してしまいます。この部分は、ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドノフ」でおなじみですね。
国民軍の手によってモスクワは開放され、イワン雷帝につながる名門貴族のミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれて、ロマノフ王朝が誕生します。
続く、アレクセイ、フォードル3世のもとで、ロシアは力を蓄えていきますが、フォードル3世が亡くなると、再び後継者問題が生じます。15才の兄のイワンは病弱でしたが、異母弟の9才のピョートルは利発でした。最初は、ピョートルが皇帝と宣言されましたが、イワンの姉のソフィアの画策によって、イワンが第一、ピョートルが第二の共同皇帝とされました。実権はソフィアに握られて、ピョートルは、モスクワ郊外の村に送られてしまいました。
二度のクリミア遠征の失敗によってソフィアの人気は落ち、ピョートルの暗殺失敗によって彼女は女子修道院に幽閉されてピョートルの時代が始まります。
ピョートルは、啓蒙君主としてロシアの近代化を行っていき、ロシアを西洋諸国に対抗しうる絶対主義国家に変えました。
ピョートル大帝が亡くなると、ピョートル大帝の寵臣のメンシコフによって妃のエカチェリーナ1世が帝位につきました。
エカテリーナ1世の後を継いだのは大帝の孫にあたる12才の少年ピョートル2世ですが、在位3年で病死してしまいます。
後継者として選ばれたのは、大帝の腹違いの兄イワン5世の娘のアンナでした。名門貴族の力によって、専制君主の権限を大きく制限する条件で帝位につけられたものの、帝位につくなりその条件を破棄して自身で権力を握り、10年間の統治を行うことになりました。
アンナの死後に後継者になったのは、アンナの姪の子供、イワン5世のひ孫の、1才にならないイワン6世でした。
この人事に不満を持ったのが、ピョートル大帝の実の娘のエリザベートで、クーデターによって権力を握ります。イワン5世は、23年間幽閉されたあげくエカチェリーナ2世の代になって獄中で殺害されてしまいます。
エリザベートは、ピョートル大帝の孫にあたるピョートル3世を後継者に指名し、その妃をドイツ人のエカチェリーナとします。
ピョートル3世が帝位につきますが、いきすぎたドイツ贔屓によって青年将校の反乱を引き起こし、それにかつがれたエカチェリーナ2世が女帝となります。
エカチャリーナ2世の後を継いだ息子のパーヴェルでしたが、クーデターによって殺害。その後をアレキサンドル1世が継ぎます。
その後はニコライ1世。続くアレキサンドラ2世は路上で暗殺されてしまいます。
その後は、アレキサンドラ3世。続くニコライ2世はロシア革命によって殺害されてロマノフ王朝の終焉となります。
対岸のヴェシリエフスキー島の岬部に立つブルーの建物は、ピョートル大帝が創設したクンストケメラ(ピョートル大帝記念人類学・民族博物館)で、赤い柱はロストラの燈台柱、その右の宮廷橋の奥に見えるのは、ペトロパヴロフスク要塞にあるペトロパヴロフスク聖堂の尖塔です。
これらについては、この日の夜に行った大ネヴァ川クルーズでゆっくりと眺めることができました。