さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 旅順 その2

2011年07月15日 | 海外旅行
東鶏冠山堡塁見学の後に、203高地に向かいました。

203高地は、無名ピークだったようで、標高がその名前になったようです。

バスの車窓から203高地が見えてきました。右手のピークの木立が切れている所が、203高地になります。



上の写真を拡大したもので、山頂の記念碑が見えています。



バスは中腹までとなり。そこからは山頂まで15分ほどの登りになります。



足が弱くて歩けない人用には、連絡バスが走っていますが、100元(1400円ほど)もします。

攻撃した日本兵に習って、歩いて登りたいですね。



ひと汗かいて山頂に到着すると、忠魂碑が出迎えてくれます。

忠魂碑は、銃弾の形をしており、203高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を集めて鋳直したものです。文化大革命の際には、先端部が破壊されましたが、その後修復されています。

爾霊山と書かれていますが、これは乃木大将が203高地に漢字を当てはめたもので、自身の揮毫によるものです。

乃木大将は、以下の漢誌も作っています。

爾靈山嶮豈難攀
男子功名期克艱
鐵血覆山山形改
萬人齊仰爾靈山

爾霊山〔にれいさん〕 嶮なれども あに攀ぢ難からんや
男子功名 艱〔かん〕に 克〔か〕つを期す
鉄血山を覆ひて 山形改まる
万人斉〔ひと〕しく仰ぐ 爾霊山

自分が指揮して多大な死傷者を出した戦いの後に、それを題材にした漢詩を作るのは、どういう神経でしょうね。このような将軍の下で戦うことだけは避けたいものです。

乃木大将が、文才に匹敵するだけの軍事的才能を持っていなかったことは残念なことです。



終戦(1945年)後に、旅順はソ連によって占領され、1955年に返還されるまでソ連太平洋艦隊の軍港として使われていました。忠魂碑には、ソ連統治時代にソ連軍人によって書かれた落書きも多く見られます。ロシア語でビールと書かれたお馬鹿な落書きもあるようです。



ロシア軍の大砲も置かれています。本物かは判りませんが。



山頂部には、塹壕の跡らしきものも見られました。203高地は、戦前に要塞化されていなかったため、ロシア軍は急ごしらえの防衛線で戦い、消耗戦の末に旅順の防衛ラインが維持できなくなったようです。



旅順攻略の目的は、旅順港に引きこもったロシア艦隊を陸上からの砲撃で破壊することでした。東鶏冠山北堡塁をはじめとする要塞化された防衛ラインを突破できなかったことから、目標を旅順港を一望でき、砲弾の落下地点の観測所になる203高地に変更しました。

203高地からは、旅順港を確かに見下ろすことができました。



湾の入り口は狭く、左手が黄金山、右手が鶏冠山で、共にロシアが要塞を築いていました。



東の方向には、慰霊塔のある白玉山が見えて、その背後には大連の高層ビルが並んでいます。



203高地を占領した日本軍に習って、望遠レンズに変えて旅順港を眺めてみました。



確かに、港に停泊する軍艦が見えました。



観光地になっている203高地ですが、かたわらには、このような中国語の看板が置かれていました。

「歴史を銘記し、国の恥を忘るることなかれ」とでも訳するのでしょうか。

203高地では、各国の思いが交錯します。
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