さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 長春 その2

2011年06月16日 | 海外旅行
今回の旅では、ラストエンペラーこと溥儀が住んだ満洲国の宮殿を訪れることを楽しみにしていました。

現在は、偽満皇宮博物院として開放されています。

この門は、見学者の出口にあたり、入場口は左手にあります。



入口の鉄柵に飾られているのは、満洲帝国の紋章で、蘭の花を表しています。



まず、興運門をくぐります。



門の内側には時計があり、9時10分で止まっています。これは、第二次大戦の終戦とともにソ連が攻め込んできたため、皇帝一行はこの宮殿から通化へ逃げ出しますが、その時間をさしているといいます。

ところで、通化とはどこにあるのだろうと調べると、奉天(瀋陽)の東の挑戦国境近くでした。

後に、通化から小型飛行機で奉天(瀋陽)に向かい、そこで大型機に乗り換えて日本へ脱出しようとするところで、ソ連軍に捕らえられて収容所送りになってしまいます。なぜ、通化から朝鮮に脱出しなかったのでしょうかね。



宮殿内にはいくつもの建物がありますが、この緝煕楼(しゅうきろう)は生活区になっており、2階の西側には、溥儀が住み、寝室や書斎が展示されています。

また、2階の東側は皇后媛容が住んだ場所で、寝室、吸煙吸引室が展示されています。。

1階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の生活写真が展示され、西側では皇后譚玉齢が住んだ場所の展示が行われています。

建物の前に置かれた大きな記念碑は、江沢民の字で「九一八忘れることなかれ」と書かれています。

1931年9月18日に中華民国奉天近くの柳条湖における南満州鉄道の爆破に端を発した満州事変は、中国では九一八事変と呼ばれています。

江沢民は、「天安門事件」を弾圧したとう小平の路線を引き継いで、愛国教育に力を注ぎ、かつての軍国主義の日本がいかに中国を苦しめ、それを開放したのが中国共産党であるとの教育に力をいれました。これが、現在の若者の反日意識につながっていきます。

邪魔に見える江沢民の碑も、中国の歴史を反映していますね。



この緝煕楼と、後で見学することになる勤民楼は、もともとは、吉林・黒龍江両省の塩の専売局が置かれていた建物を転用したものです。



建物内部は、思っていた以上に内装や備品が整えられていました。



ここで、ラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀のおさらいをしておきましょう。

義和団の乱を乗り越えた西太后は、実権を握り続けますが、死の直前に、2歳10か月の溥儀を次の皇帝に指名します。西太后の死の前日には、幽閉されていた現皇帝の光緒帝は、毒殺ともいわれる謎の死をとげて、溥儀は第12代・宣統帝となります。

辛亥革命の混乱に乗じた袁世凱は、自らが中華民国臨時大統領になるため、1912年2月に溥儀を退位させて、ここに清朝は終わります。

その後、袁世凱は中華帝国皇帝を名乗りますが、各方面からの反対を受けて3ヶ月で退位し、失意のうちに亡くなってしまいます。溥儀は、紫禁城内での生活や生活費は保障されていましたが、袁世凱亡き後の政治的混乱の中で「張勲復辟事件」と呼ばれる王政復古の企てがなされて、11才で皇帝に復帰します。しかし、これは12日の短い期間で終わって、溥儀はまたもや皇帝の座を追われます。

この後しばらくは、英国人ジョンストンを家庭教師として、紫禁城内で西洋の知識を学びながら平穏な日々を過ごしていきます。

中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月には北京政変と呼ばれるクーデターが起こり、その際に、帝号の廃止と清室優待条件の一方的な清算が通達され、溥儀とその側近らは紫禁城から強制的に退去させられます。

ジョンストンの関係でイギリス公館に身を寄せることを申し入れますが、関わり合いになることを恐れたイギリス政府からは断わられて、結局、北京の日本公使館に入り、後に天津の日本租界地に移ります。

中国国内では、国民党と共産党、さらに軍閥との間の闘争が続いていきますが、1931年に柳条湖でおきた南満州事変をきっかけにして、関東軍が満州一帯を占領し、日本の影響下にある共和国を設立しようとします。

満洲国に正統性を持たせるために、清朝の皇帝で満州族出身であり、北京政変による紫禁城追放以降日本租界へ身を寄せていた溥儀を元首に擁いた君主制国家を設立することを画策しました。

「清朝の復辟」を熱望していた溥儀は、関東軍の申し入れを受けて、天津を脱出し、大連を経て新京(長春)に入ります。

1932年、満州国が設立されて、溥儀は満洲国執政に就任します。1933年になって、溥儀は希望していた皇帝の座に就きますが、実態は関東軍の傀儡状態でした。

第二次大戦の終戦によって満洲国は消滅し自ら退位を宣言することになります。溥儀は、新京(長春)を離れて日本へ脱出しようとしたところで、奉天(瀋陽)の飛行場でソ連軍にとらえられてしまいます。ソ連の強制収容所から中国の政治犯収容所に移されて再教育を受け、1959年に特赦で一般市民として解放されます。1967年に61才で死亡して波瀾の人生を終えます。

映画「ラストエンペラー」ては、北京の紫禁城が前半の主な舞台であるのと同時に、後半はこの満洲国の仮宮殿が舞台になります。

まずは、二階へあがっていきましょう。



溥儀の漢方薬庫

溥儀は、青年時より薬好きで、専用の薬局を設けていました。



婉容皇后(えんようこうごう)の寝室



婉容皇后(えんようこうごう)の書斎



婉容皇后(えんようこうごう)のアヘン吸引室



婉容は、満洲国時代になると、日本ぎらいもあって、アヘンにおぼれて、公式の場所にほとんど姿をみせなくなります。



溥儀の寝室



溥儀の浴室



トイレでしょうか。



溥儀の仏間



溥儀の散髪室



溥儀の応接室で、向かい合うのは、吉岡安直でしょう。宮殿内に住み込んで、関東軍の意向を溥儀に伝えて、会での発言などをいちいちさしずしたといいます。

蝋人形によって、歴史上の場面が思い浮かびやすくなっています。
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