さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ビルケナウ強制収容所

2017年02月09日 | 海外旅行
ビルケナウ強制収容所は、アウシュヴィッツ強制収容所の西2kmほどのところにあります。二番目の強制収容所として、さらに大規模の絶滅施設として建設されました。

駐車場から正門目指して歩いていきます。



被収容者は、鉄道で運ばれてきました。



このゲートは、多くの映画で、強制収容所のシンボルとして登場しています。



正門の塔に上がると、広大な強制収容所を見渡すことができました。鉄道の引き込み線の先は枝分かれして、多くの列車を停めることが可能になっています。



プラットホーム。ここに下り立った被収容者は10万人に達したといいます。



広大な敷地に300以上のバラックが並んでいたといいますが、現在では45棟のレンガ造りの建物と22棟の木造バラックが残されています。



残った木造バラックの奥には、残った煙突だけが並んでいます。



収容所内に進んでいきます。



高圧電流が流されていた柵を抜けていきます。



木製バラックが並んでいます。



バラックの一つに入ります。



連続して開いた丸い穴はトイレでした。トイレの使用は、午前・午後2回に制限されており、目隠しになるものもなく、一斉に使用を強制されました。



続いて、別なバラックに入りました。



入口には暖炉が設けてありました。建物の大きさに対して暖炉は小さ過ぎますが、そもそも燃料が与えられませんでした。



バラックは、湿地の上に基礎無しに建てられており、地面との間に隙間が開いています。隙間風が被収容者を苦しめたと思われます。



粗末な蚕棚のようなベッドが並んでいたようです。

ビルケナウの施設はバラックとして建てられたため、時間の経過とともに劣化が進んで、保存方法が問題になっているようです。



収容所内から外側を眺めたところ。



シンドラーのリストでも、ビルケナウの正門が登場しています。

敗戦ムードが色濃くなった1944年、ナチスは証拠隠滅を謀ろうとクラクフ近郊のプワシュフ収容所を閉鎖し、残ったユダヤ人をアウシュヴィッツに送り込み虐殺しようとしました。このままプワシュフ収容所が閉鎖されれしまえば、従業員たちは全員絶滅収容所に送られ虐殺されてしまうため、ついにシンドラーは故郷チェコのプリンリッツにユダヤ人を連れていくことを決意しました。男性従業員は無事にチェコに移送することができましたが、女性と子供を載せた列車は手違いでビルケナウに送られてしましました。

これは、女性と子供を乗せた列車がビルケナウに到着する場面です。

シンドラーの交渉の結果、なんとか全員を引き取ってチェコに移送することに成功しますが、従業員の運命はいかにとハラハラする場面になっています。

映画では、収容所内に列車が入ってくる場面として撮影されていますが、許可が得られなかったことから、収容所外でセットを組んで撮影されています。



ビルケナウからクラクフに戻ろうとすると、アウシュヴィッツの駅の脇を通り過ぎました。静かな田舎の駅でした。



クラクフに戻って昼食をとってヴィエリチカ岩塩抗に向かいましたが、市街地の外れでプワショフ強制収容所跡の脇を通り過ぎました。シンドラーのリストでも、被収容者を面白半分に射殺する冷酷な所長が支配する収容所として登場しています。

丘の上に置かれた慰霊碑を見ることができました。この慰霊碑は、1964年にクラクフ技術大学の教授も勤めた高名な建築家ウィトルド・セキーウィッチによって造られました。彫られた5人はプワシュフで犠牲になった人々の5つの出身国を象徴し、胸の位置に走る大きな裂け目は、突然終わらされた命を表現しているとのこと。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制主要所の見学では、いろいろな思いがわいてきました。ヨダヤ人の受けた迫害の悲惨さを知ることができましたが、一方、これほどの迫害を受けたユダヤ人が建国したイスラエルがパレスチナ人に対する迫害を行っているのは、どう考えるべきなのだろう。
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