さすらい人の独り言

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さすらいの風景 大連 その2

2011年07月06日 | 海外旅行
大連満鉄旧跡陳列室は、満鉄こと南満州鉄道株式会社の旧本社を公開したものです。現在では、大連鉄路局の建物として使用されており、正面から見て右側の別館が大連満鉄旧跡陳列室になっています。

石造りの頑強な建物は、ロシア時代の商業学校をそのまま引き継いで使用しています。



大連満鉄旧跡陳列室の入り口。

入り口の階段手前に、「満鉄旧址」の石碑が置かれています。



満鉄本社の入り口ホール



大連満鉄旧跡陳列室のプレート

ここで、満鉄こと南満州鉄道株式会社についてまとめておきましょう。

ロシアは、モスクワから日本海に面するウラジオストクに抜けるシベリア鉄道を建設しました。シベリア鉄道は満洲の北を抜けるルートと、満州を横断してハルビンを経由する東清鉄道と呼ばれるルートが設けられました。さらに、旅順を含む遼東半島を租借すると、ハルビンから大連を経て旅順を結ぶ南満洲鉄道が建設されました。

日露戦争の結果、日本政府は、南満洲鉄道のうち長春から大連、旅順までの経営権を手に入れました。この鉄道経営のために、半官半民の南満州鉄道株式会社が設立され、初代総裁には、後藤新平が就任しました。

日露戦争の結果日本政府が手に入れた権益は、単なる鉄道の経営権だけではなく、鉄道沿線に沿った「鉄道附属地」や鉱山の経営権も含まれていました。

鉄道附属地とは、ロシアが満洲の地に東清鉄道を敷設する際にあみだした支配形式です。鉄道会社には、鉄道の建設と警護に必要な土地を取得する権利が認められました。その際に、行政権と治安維持の権利を手に入れて、さらに鉄道敷設の範囲を超えた駅周辺の市街地をも鉄道附属地に含めてしまいました。

このロシアの違法行為をさらに進めたのが、日本でした。ロシアでも遠慮していた鉄道附属地での駐兵権を清国に認めさせて、鉄道1キロあたり15名以内の兵の駐在権を得ました。その結果、鉄道の線路と駅を中心とした市街地が、日本の植民地になりました。

満洲帝国が成立すると、満洲全土の支配権を手に入れた日本にとって鉄道附属地は邪魔な存在になって、鉄道附属地は撤廃されました。

満洲地方に今も残る日本の建物の多くは、満鉄の鉄道附属地の遺産です。



展示室内には、満鉄の当時の写真や食器、プレートなどが展示されています。



満鉄が、都市開発に力を注いでいた名残りとして、マンホールの蓋に満鉄マークが刻まれています。



満鉄総裁のデスク。金庫も残されていました。



トイレに行く途中で、奥の非公開部も少しのぞくことができました。



大連満鉄旧跡陳列室のスタッフが流調な日本語で説明を行ってくれましたが、最後に、やはり商売が始まりました。

「満鉄時代に使われたグラス類を特別にお分けしている。現在売っているもの限りになります。」とのことです。

このグラスは、旅順の土産物屋で買ったもので、中央のレールとМを組み合わせたマークが満鉄マークです。値段は、大連満鉄旧跡陳列室に並んでいたものより少し小さ目なこともあって、安く買うものができました。

満洲時代の中国では、切子の技術が無かったため、江戸切子の職人を呼んで、大連切子と呼ばれるガラス産業が生み出されました。当時の満鉄では、この大連切子のグラス類が食器や贈答品として用いられると同時に、本土からの旅行者の満洲土産としても購入されたといいます。

このグラスが、本当にアンティークの満鉄製品なのか、それともイミテーションなのかは、少々疑問も残るのですが、満鉄関係の土産と思えばよいでしょう。
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