さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 大連 その1

2011年07月05日 | 海外旅行
大連の紹介は、まず大連港から始めましょう。

大連は遼東半島の南端に位置し、かつてはさびれた漁村にしかすぎませんでしたが、日清戦争後の三国干渉の代償として、ロシアは清から関東州(大連、旅順など)を租借し、東清鉄道の終着駅を設けダーリニーと名づけました。旅順港の艦隊と要塞の補給基地として、また貿易の拠点として、港の整備と都市づくりが行われました。ロシアは、イギリスの香港やシンガポールに対抗する経済の中心地としてダーリニーを発展させようとしました。

ところが、日露戦争が勃発すると、日本軍の進行が速かったために、ダーリニーはほぼ無傷で日本軍の手に落ちてしまいます。戦争中は、日本軍の大陸への物資の輸送基地として用いられて重要な働きをし、大連と名前が変えられました。

日露戦争の終結後に大連は日本の租借地となり、ロシアの都市計画を引き継いで街造りが行われていきました。

これは、大連港第二旅客ターミナルの玄関です。満洲を目指して大連に渡ってきた日本人は、ここで大陸の地に足を下ろしました。



大連港ターミナルの前にある大連港務局は、当時の姿のまま残されています。



玄関先のホール。



曲線を用いた階段は、当時流行のアールヌーボーの影響が感じられます。中央にあるのは、江沢民の書です。



大連港務局の屋上からは、大連港の様子を良く眺めることができます。

ロシアの大連港の開発は満鉄が引き継ぎ、東洋一といわれた旅客ターミナルや埠頭が整備されました。

なお、映画「ラストエンペラー」において、溥儀と家庭教師のジョンストーンとの別れの場面の撮影に使われたのは、この旅客ターミナルでした。



当時の旅客ターミナルの絵ハガキです。ターミナルの建物は、少し形が変わっています。

下関から大連への連絡船は、二昼夜かけて到着したとのことです。第二次世界大戦後の引揚者も、ここから日本に戻りました。



現在では、郊外の開発特別区に新しい港が作られて、この古くからの港は、上海や山東半島へのフェリーの発着が主になり、観光的色彩が強くなっているようです。



天津港行きフェリーの普陀島号が見えています。



屋上からは、街の中心部に立ち並ぶ高層ビルが見えていました。

現地ガイドの話では、現在でも、実際に満洲からの引揚体験をした人を、観光客として案内することがあるとのことです。どのような思いで、昔と変わらない港と、高層ビルの並ぶ大連の街を眺めるのでしょうね。
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