さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ブラ・レジア遺跡 その1

2018年10月18日 | 海外旅行
第七日目は、チュニジア北部のブラ・レジア遺跡とドゥガ遺跡の見学を行いました。まず、ブラ・レジア遺跡目指して西に向かって高速道を走りました。

チュニジア北部は、地中海気候で年間を通じて穏やかな気候のため、ローマ時代は帝国の重要な食料庫になっていました。



緩やかに起伏する丘陵を黄色の花が埋め尽くしていました。



ブラ・レジア遺跡に到着。

ブラ・レジアは、ローマに併合される前は、ベルベル系民族のヌミディア王国の首都でした。ヌミディア王国は、長い間カルタゴの勢力下に入っており、勇猛で知られた騎兵は第二次ポエニ戦争初期の勝利に貢献しました。全盛期の王のマッシニッサは、第二次ポエニ戦争の際、当初はカルタゴについていましたが、王位をめぐる争いで国を追われ、ローマ軍の力をかりて王位に復帰し、それ以後はローマに忠誠を誓う同盟国になりました。第二次ポエニ戦争後、ヌミディア王国はカルタゴの領土を徐々に侵食して第三次ポエニ戦争のきっかけを作り、カルタゴを滅亡へと導きました。ヌミディア王国は、その後ヌバ王の時代に反カエサル側によって滅ぼされてローマの属州となりました。その後、この都市は貿易の中心地として発展を続け、ハドリアヌス帝の時代に最盛期を迎えました。しかし、ビザンチン時代に衰退して見捨てられ、廃墟になってしまいました。



何やら文字の刻まれた石碑。



ブラ・レジア遺跡は、かなり広範囲に広がっていますが、まずユリア・メムニアの浴場を見学しました。

ユリア・メムニアは、ローマの元老院に多くの政治家を輩出したブラ・レジアの有力貴族出身の当時の執政官の娘で、2世紀にこの浴場を街に寄贈しました。



壁や柱が残されているだけですが、大規模な建物であったことは伺えられます。



遺跡と同時に、周囲の野原に咲き乱れる花に目が引き付けられました。



日本で見られる花に似ているものもあれば、近いものが思い浮かばないものもあります。









ユリア・メムニアの浴場内部へと足を踏み入れました。







床にはモザイクが敷き詰められていたことが判ります。



床の下には導水施設が設けられていたようです。



部屋の脇の壁にはアーチ状の窪みが設けられていました。



上部に記されている太陽に似たマークは、温・冷水の区別を示すものという説もあるようです。元祖温泉マークといってよいでしょうか。



高い壁が残されていました。



床のモザイク。



壁際に円形のモザイクが残されていました。噴水の台座部でしょうか。



現代的デザインのモザイク。





低い天井なので、地下室だったのでしょうか。





カルタゴのアントニウスの共同浴場を見た後では、ユリア・メムニアの浴場は規模では劣って見えてしまうのですが、ブラ・レジア遺跡の神髄はこの後に出てきました。
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