アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

靴を脱ぐ」

2020-05-13 | 世情もろもろ
 五月、本当は、美しい季節。
 いや、世界情勢がどうであっても、今、この国の季節は若葉萌え、薫風渡る、とても美しい季節なのだ。自然は、変わっていない。
 変わったのは、いや、変わらざるを得なかったのは、突然、日常を失ってしまった人類だ。極小の目に見えない生物によって…。
人類とその生物との戦いが、もう何か月も続いて、そして、これからも、続く。
 世界中で、人々が行き来を制限しているから、大気だけはきれいになった。
 けれど、胸の内には、暗い澱のようなものが沈んだ。
 ストレスが、山盛り…である。美しい季節だというのに…。
 たくさんの人々が、その生物、新型コロナウイルスによって、突然に生命を奪われた。その多くは、理不尽に奪われた生命だ。
 こういう非常事態が起こった場合、最初に犠牲になるのは弱者だ。
 そして、いつも、いかなる時も、事態が収束してみると、権力者は生き残る。もう、ずっとずっと以前から、その図式は変わらない。口惜しいが決して変わらない。
 権力者や為政者は、いつの時代も、どんな事態が起こっても、安全圏にいるから、絶対に、生き残る。そして、何も、無かったかのように、以前と同じ統治をするのだ。日常がまったく変わってしまったのに…である。
 今度は、どうだろう。
 医療体制は、いつの間に、こんなに脆弱になってしまっていたのだろう。感染症や病原菌の研究機関への研究費は、いつの間に、こんなに削られていたのだろう。
 日本は、感染症に対する検査機能も盤石にあるだろう…と、思い込んでいた。病床もたくさんあるはずだ…とも、思っていた。
 けれど、それらは、すべて、望みでしかなかった。現実は、検査能力も検査数も追いつかない。病床はまったく足りない。
 そして、為政者は、わが身を守るためなら憲法や法律に違反してでも、新しい法令を数の力で押して強引に決めていく、その積極性は最たるものがある。そして、国民を守るため…となると、一気に、消極的になる現政権だ。
「答弁をきいていると、他人事だものね」
 と、普段は、ほとんどニュースなどを見ない仲間の一人が言った。
 そう「他人事(ひとごと)」なのだ。
 それで、現在、政権にとっては、他人事でない事象があり、それを早く決めないと、期限がきてしまう事柄がある。七月になって、検察庁のある人物が七月に誕生日がきて定年になる。この人物、政権に近い、つまり、政権の言いなりになりそうな、国民にとっては、危険極まりない人。すでに、三権分立が侵され始めているこの国の検察庁までが、政権に忖度するような事態に…と危ぶまれる、そんな事態が起こっている。
 検察庁法を変える? 今、コロナウイルスで、大変な時期に、それを今週中に衆議院で決める…と。急ぐのは、七月の誕生日が近いから…と、どうしても、勘ぐらざるを得ない。そして、多分、そうなのだろう。
 国家公務員法のいくつかの改正があり、それには、野党も反対はしていない。けれど、それらに紛れ込ませるような形で、検察庁検察官の定年延長のために法を変える…って、紛れ込ませるような簡単な事項ではないし、この時期に急ぐこともない。
 そんな政権、政府だ。
 曰く、モリカケ問題、桜を見る会問題…Etc、たくさんの「???」を、無理やり、自分たちを正当化してきた彼らだ。真実が表に出たら、検察は、首相であっても逮捕できる。昔、首相が逮捕されたことがあった。(田中角栄首相だったっけ)。
 BS-TBSの「報道1930」で、
「国民があれほど望んでいる検査を増やすことはしないで、自分たちの望み(検察庁法改正)は、何があっても通す、安倍政権というのは、なんという政権だ!」
 と語っていたが、まさに、その通りだなぁと、あらためて納得。

 世界中の感染拡大は、出口が見えたのか、日本はまだだが、外出規制や店舗の休業要請の解除の動きが見えてきた国もある。
 完全に収束というのは、無理だろう。感染しても、症状がでない人もいる。その人々は、自分ではそれと知らずに他者にうつして、感染を広げていってしまう。そういう厄介なウイルスだ。
 だから、どの国も「新しい生活を」という。新しい生活様式で…と。つまり、数か月前まで在った日常は、もう戻らない。
 各国で爆発的に感染が広まった。比較すれば、日本のそれは、多くはない。それは、検査件数が少ないからだとも、言われている。それは、確かだ。当初は、
「オリンピックの開始と国民の命を秤にかけているから、検査をしないのだろう」
 と、思ったが、検査能力(検査可能な技術的な面)がなかったのだ、この何年も油断して、用意してきていなかったのだーと、後に判明したけど。
 けれど、こういう場合、生活習慣が大きく影響することが、よくわかった。
 日本は、挨拶でハグをしたり、頬を寄せあう習慣はない。握手もそれほどではない。
そして、何より、日本は「靴を脱ぐ」。
 家の中に、靴(履物)のまま入らない。昔からそうだ。
 これが、大きいのではないか。
 外には、目に見えないウイルスが常に飛び交っている、地面に落ちたそれらは履物について家までくる。そのまま、家に入るのと、履物を脱いで家にはいるのとは、感染のリスクが違うと思う。
 感染爆発したイタリアが、外出などを徐々に解除し始めたーとニュースにあった。
 ハグをする、顔を近づけて大声で陽気に話す、頬を寄せて挨拶する―それらをやめて、「新しい生活」を受け入れているーと。その中に、「玄関で靴を脱ぐ」という一文があった。
 そう、日本のこの習慣は、大いに取り入れてほしいと、心から思った。
 靴を脱ぐ、手を洗う、うがいをするーこれらは、私たちは幼いころから、習慣づけられていた。
 検査件数が少ないのも、感染数が少なく表示されている原因ではあるだろう、けれど、生活習慣も、要因ではあるだろう―と、思う。

 私も、3月からのあらゆる予定がつぶれた。
 子供たちは、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校での大切な日常を、まだ、失ったままだ。大学生は生活困窮に、そして、店舗を閉める人も増えた。店を開けられず、先行きの見通しが立たない、つまり、生活が成り立たない、たべていけない―そんな日常になってしまった。

 今週月曜、友人から、
「何の予定もない一週間がまた始まった」
 と、ラインが届いた。

 いつも、そこにあると、どこかで安心していた日常は、こんなも簡単に奪われてしまうものだ、そして、その日常というものが、どれほど大切であったか、今、心から思う。
 そして、事ここに至ったからは、「新しい日常」を受け入れる、受け入れるから、早く、日常が、来てほしい!