アボルダージュ!!

文芸及び歴史同好会「碧い馬同人会」主宰で歴史作家・エッセイストの萩尾農が日々の思いや出来事を語ります。

緊急事態の「緊急事態条項」

2016-01-31 | 世情もろもろ
→→「来る年は相当な覚悟が要るだろう」
などと呟いて、しかし、その足もとが定まらないうちに、まだ居て欲しかった人々を亡くして、2016年に放り込まれた。
そんな風に明けた私の新年だった。→→

と先日書いた(風のいたずら林檎)が、そうやって放り込まれた今年は、やっぱり、「相当な覚悟」が要るということが、2016年になって、ひと月しか(ひと月も)経たないうちに、ジワジワと、身に迫ってきていることに気がついた。
そう、わが身の、いや、為政者たちを除く、この国の全ての人々の緊急事態である。
でも、「免罪符」を手にしている財界人やお金に物いわす富裕層は、緊急事態から免れるから、「全ての人々」ではないか。
庶民である。我々である。緊急事態に直面しているのは…。

今年夏、参議院選挙がある。十八才以上から選挙権を有するようになったから、中には、現役高校生も居る。
安倍政権は改憲を公約に掲げることを表明した。
ただ、私たち国民が権力者から自らを守るための日本国憲法のどの条文・条項を変えるのか、明確に答えない。修飾語をいっぱい盛り込んでの得意のゴマカシを駆使する。
都合の悪いことは明確に答えないのは安倍首相の得意技であるが、憲法9条を変えられてはたまらない―と、護憲派の人々も、私たちも、当然、思っている。しかし、9条だけに目を奪われていては、それこそ、我等にとっての「緊急事態」が迫っている事を見落とす。

そう、国会答弁の中でも、政権側がしばしば、口にする「緊急事態条項」―北朝鮮が水爆実験を行ったとか、中国が東シナ海を…云々とか、それらを、まるで、「口実」のように使用して、
「国民の命と安全を守るために…」
と続ける。
確かに、この国を取り巻く、(いや、世界中が)状況は、以前のように、穏やかな時間が流れる―というわけにはいかなくなっている。
世界中が力(武力)によって、違う意見を抑え込もうとしている。だから、国交断絶、戦争―等々。人類は「言葉」と言う宝を手にしているのに、幼稚で劣化した指導者たち、為政者たちは言葉を使うことを忘れて、武力を使うようになった。
それは、「平和国家」として国際的にも認識されてきたこの日本においても、同じだ。
昨年、曲がり角を大きく曲がって、Uターンしたから、この国はもはや「平和国家」ではない。

そして、その「平和国家」ではなくなった日本の現政権は、憲法改憲の前に、目論んでいることがある。
憲法9条の改憲には抵抗する人々が多いから、その前に、
「作ってしまおう」
と企んでいるのが、「緊急事態条項」―。
これが、新設されたら、それこそ、私たちには、緊急事態である。

Photo 雑誌「DAYS JAPAN 2月号」は「2016年をどう生きるか」というメッセージ特集を組んでいた。
そこに、自民党が改憲で新設しようとしている「緊急事態条項」についてのメッセージがあった。
それで、私たちの緊急事態が身に迫っていることに、あらためて気がついたのだ。

緊急事態条項―他国(外部)からの武力攻撃・内乱、自然災害が起きた時、総理が「緊急事態宣言」を発動できるようにするもの。
これは、よその国でも、よく見かける(?)状況だ。
そのあとが、問題。

●内閣は国会の承認なしに法律と同等の効力を有する政令を制定できるようになる→内閣が立法権を手中にする。
●すべての国民は「国、その他公の機関の指示に従わなければならない」と条項には明記されている→国家権力に国民が徹底的な服従を強いられることが、憲法に定められる。
●緊急事態が宣言→国民の各基本権停止。公権力が制限なく全権を振るう。国会は完全に形骸化。言論報道機関も統制。行政府が立法府を兼ね、法律と同じ効力を持つ政令を国会にはかることなく乱発でき、予算措置も取れ、期間の延長もできる、事実上無制限の権力行使が可能となる。

「本当に、それこそ、我々にとっての緊急事態だ!」
と思った。
この国は、70年前、民主国家への道を歩み始めたのではなかったのか。
世界中の人々に迷惑(!)をかけて、多くの若い命を犠牲にして、ようやく、手に入れた民主主義、平和憲法ではなかったのか―と、憤りが胸を苦しくさせる。
「なんて、愚かな馬鹿な奴らが政権を握っているものだ」―と、怒り、次に
「なんて、愚かな国民たちだ」―と、それでも、内閣の支持率が下がらないことに怒り…である。
マァ、この支持率というヤツも、当てにはならない。ランダムに電話をかけて(うちにもかかってきたことがある)、そのうちの半数ほどか、それ以下の回答を得た―というが、そもそも、電話がかかった件数も5000件を上回ることはない。この国の有権者の数を考えれば、何とも少数過ぎる数で、その答で「支持率が」―云々の判断は本当は正しくない。

『DAYS JAPAN』では、この条項を「万能の切り札」とあった。(以下)

《 自民党の改憲草案における緊急事態条項は、いわばジョーカーのような万能の切り札である。
安倍政権は、これさえ手に入れてしまえば憲法9条の改正すら必要ない。
護憲派は、9条改正という「本丸」にばかり目が行き、「隠れ本丸」である、この緊急事態条項への警戒を怠っている。
メディアも知識人も、事の重大性に気づいていないし、周知しようともしていない。油断のうちにこの改憲発議を通してしまっては、取り返しがつかないことになる。》

本当に、私たちの緊急事態なのである。

《 現状、この緊急事態条項に対する危機意識は、国民のあいだにほとんど共有されていない。
一方で、与党やおおきか維新の会、日本のこころを大切にする党(次世代の党から改名)などいわゆる「改憲勢力」は、改憲発議に必要な3分の2の議席数を、衆議院では与党だけですでにクリアし、参議院では残すところ10議席程度だ。
 野党の政治家や市民団体は、近い将来の9条改正阻止だけでなく、目の前に迫る危機である緊急事態条項に対しても徹底的に警鐘を鳴らし、改憲勢力による3分の2阻止を掲げて、来る選挙戦に臨むべきである。    (岩上安身(ジャーナリスト)》

と、このメッセージは結んであった。
『この緊急事態条項に対する危機意識は、国民のあいだにほとんど共有されていない。』―このことが緊急事態だ。

本当に、今年は大変な年なのである。
国民にとっての、緊急の一年なのである。
そうして、2017年以降も、私たちの緊急事態は続くだろう。
さらに、国は、我々から搾取はするが、我々を救いはしない。弱者と貧困層を救おうという思いや計画は、今もないが、ますます、無くなっていく。軍事費がどんどん拡大していくから、貧困層に回す分は無い。
為政者の犠牲になる、そういう来年以降を望むのか―やはり、今年は昨年以上に目をしっかりあけて、為政者たちを監視し、行動しなければいけない一年になる。
実に、大事な大事な一年となる。
曲がってしまった曲がり角をまた、Uターンして、平和国家に戻らなくては…。



風のいたずら林檎

2016-01-14 | 世情もろもろ
先日、「風のいたずら」と名前のついたリンゴがスーパーで売っていた。
何と、おしゃれな名前だろう―と一瞬思ったが、実は、そんな悠長な部分から名付けられたものではなかった。
台風や爆弾低気圧で、収穫間近にして、落下したリンゴだった。
だから、傷がついていたり、形がいびつになっていたりして、他のリンゴのような価格では売れない。それで、値を下げて売っていた。ただし、「味は変わりなくおいしい」とあったので、二つほど購入。
非常に美味だった。
リンゴ好きの私が、お正月に購入した「糖度センサー確認保証、蜜入り」と謳った1つ250円のそれよりも、みずみずしく、蜜も入っていて、本当においしかった。
センサーで糖度を測って、蜜も入っている―と、高値で販売の少し大きめのリンゴ。1つ250円は高いから、お正月でなくては買わないけれど、それよりも、暴風によって地に落とされてしまった普通の大きさのリンゴの方が味は勝っていた。
世の中は本当は、それが、真実なのだ―と、リンゴひとつに語られたような気がする。
手間も時間もかけて、勿論、経済的にも莫大なお金を使って、作り上げたもの(「物」ではなく、「人間」も)よりも、しっかりと、地面に触れて、地を歩いてきたものの方が、実は、美味しかったり、心根が真摯であったりする。まさに、それを示しているような、リンゴひとつに学んだことだった。
その「風のいたずら」という名前の、思えば、素敵な名前のリンゴ、まだ、売っているかなぁ、また、買って来よう―。


暖冬つづきで、関東も、温かい日が続いた。そのせいで、野菜が安い。値崩れを防ぐために収穫した大根をバサバサと切り刻んで廃棄している様子がテレビのニュースでやっていた。
「もったいない!」
大根も好きな私(?)は、思わず、呟いて、飽食国家のようなこの国で、子供の6人に1人が貧困と言う負の状況をすぐに思い出す。
夏休み、冬休み、もちろん、春休みもふくめ、学校が休みになると痩せる子どもたちがいる。給食が唯一の「まともな食事」という状況の子どもたちだ。子どもを貧困から救うために、NPO「フードバンク」や「子ども食堂」の取り組みが、各地で広がりつつある。国がやっているのではない、個人が心を尽くしている。政府は海外には気前よく、お金をばらまいているが、国内の貧困への対策は、口では言うけれど、実際は「後回し」になっているような気がしてならない。
そういう「フードバンク」や「子ども食堂」に、出来過ぎて廃棄している野菜を回せばよいのに…と単純に思う。勿論、値崩れすれば、作っている農家の生活に即、響いてくるから、行政が、あるいは、国が、それらの野菜や食品を買い取ればよい。容易いことだと思うけど…。備蓄米など、買い取っているものもあるけれど、もっと、それこそ、地面に足をつけて、地と触れ合って考える政治家はいないのか。高いところからものをみて、高い所で判断する、なんとも、的外れな判断となるのは、そのせいだ。
いつまでたっても、地面を見る政権の誕生は無い。
いつまでたっても、真に国民の未来を思う為政者は現れない。

どこをみているのだ、政府は!…と、また、憤慨という精神衛生上よくない感情が湧く。

どこをみなければならないのか―その回答のような、昨日の新聞コラムだった。
以下―。

 《三歳の子が、お母さんにこう尋ねたとする。「隣の○○ちゃんを殺しに行っていい?」。母親は何と答えるか。「いいよ」と言い切れる人は、いるのだろうか。
昨年夏に逝った思想家の鶴見俊輔さんは、そんな母子の対話を、憲法九条を考える時の「根」にしていたという。いや、国際政治や安全保障は、そんな単純な論理で割り切れるものではないという人もいるだろう。
戦中、鶴見さんは「殺せ」と命じられたら、自ら命を絶とうと思い詰めていた。だから「人を殺さないですむような社会に生きられれぱ」というのが、戦後の出発点だった。
そんな「思想の根」ともいえる体験を持つからだろう。九条をめぐる改憲論議を、「母子の論理」で考えようと語った。三歳の子にも分かるように、はっきり説明できるか。それを見定めることが大切だと。
安倍首相は夏の参院選で改憲を争点にする構えだ。改憲に向けて「改憲に前向きな、未来への責任感の強い人たち」との連携を目指すと語っている。では、どういう改憲を目指すのかとなると、曖昧になる。「どの条項をどのように改正するかは、国会や国民的な議論と理解の深まりの中でおのずと決まる」と、わざと焦点をぼかしたような弁になる。
「未来への責任感が強い」と自負するのであれば、まず未来を担う世代に分かりやすい議論をすることが、責任の第一歩だろう。》 (東京新聞 1/13 筆先)より


画像はその、あっぱれなリンゴ!



  


アッという間の16年

2016-01-08 | 世情もろもろ
2016年になった。
1999年から2000年になる時、私は、日比谷の帝国劇場で『レ・ミゼラブル 特別版』を観劇して、その後のカウントダウンのイベントに参加していた。1900年台から2000年台へと移行(?)する午前零時をそこの場所で迎えるわけだから、芝居そのものも、いつもの上演時間よりも遅い時刻に始まったような気がする(この点の記憶はあいまい)。
…で、2000年1月1日となって、帰宅するべく、街中に出たら、外は真っ暗…どころか、光、光、光の洪水。東京ミレナリオ(東京駅丸の内口の工事で2005年の第7回で休止。2012年から「東京ミチテラス」という名前で再開されている)―。

そうやって、2000年台に入ったが、1900年台よりも、時間の速さが早くなったかのように、あっという間に、16年だ。
決して曲がってはいけない曲がり角を曲がってしまった2015年―それは、この国だけではなく、世界中が、曲がり角を大きく曲がって、Uターンした。そう、Uターンしたら、先にあるのは、「戦前」や「戦中」だ。
ただちに力(武力)に訴える風潮(!)が世界中に蔓延した。
この風潮が、「キレやすい若者」とか「すぐ喧嘩をする少年」とか…そういうレベル、つまり、国の行方を左右する場所(地位)にいない者たちの間の風潮なら、まだ、何とかなるが、この「キレやすい」「喧嘩する」―そういう子どもっぽい為政者たちが、世界中に蔓延した。
「来る年は相当な覚悟が要るだろう」
などと呟いて、しかし、その足もとが定まらないうちに、まだ居て欲しかった人々を亡くして、2016年に放り込まれた。
そんな風に明けた私の新年だった。
そうして、早くも8日。
北朝鮮が6日に「水爆実験」に成功した―と、いきなり、国際社会に挑発をかけて、喧嘩をふっかけられた各国は、「強い姿勢」を示すべく、各国首脳のやりとりが行われ、それらをマスコミが報道―。
こういう時、各国の為政者たちの素(す)がみえることがある。
その「素」が見えたとき、
「どうして、この人は、こういう時に活き活きとしてくるのだろう」
と、思ったのが、我が国の首相。
「この時」とばかりに、日米同盟の強化、故に、安保法の必要性を説いたりもする。
「米国は我が国を全力で守ると言っている」
と、米国大統領との電話会談の結果を、どうみても得意げな表情で話す。
得意になっても、別にかまわないけれど、何だか、本当に目を向けなければならない事を見落としている気がする。
マ、「見落とし」は、内戦に揺れる国々やISも含めての、世界中の為政者たち、権力者たちもそうなんだけど…。
ちなみに、水爆実験が本当に「水爆」だったのか、真実はまだ不明だそうだ。
北朝鮮の報道―TVで民族衣装を来て、いつも強い口調でニュースを伝える女性が、例によって、民族を鼓舞するような強い抑揚で、実験の成功に言及した。
「民族の千年、万年の未来をしっかりと保証する歴史の大壮挙、民族史的出来事となる」―と。
「それは違うよ。そこに暮らす一般の人々を孤立させ、滅びに繋がる暴挙だよ」と、つい、答えていた。

実験の翌日のコラム―。人類が歩んできた歴史をしっかりと正しく、見つめなければいけないーとあらためて思った。以下―。


《詩人の柴田三吉さん(六三)は十年ほど前に、広島での平和記念式典に足を運んだとき、三万人もの韓国・朝鮮人が原爆の犠牲になったことを知った。
そうして書いたのが、昨夏の終戦七十年の節目に出版された『平和をとわに心に刻む三〇五人詩集』に収められた「ちょうせんじんが、さんまんにん」。家族を原爆で失ったという女性の独白が、しずかに響きわたる詩である。
〈生涯をかけて見るはずだった光を わたしはそのとき 一瞬にして見てしまいました。生涯をかけて見るはずだった光が束になって からだのなかに入ってしまったのです〉
彼女の夫も二人の子供も瞬時に消えた。三人の小さな骨を入れた牛乳瓶だけを持って半島の故
郷に帰った女性は、こう語り続ける。
〈夫の顔 子供の顔は その光に埋もれて もう思い出せません。思い出すためには闇が必要でありますが わたしのからだのなかに 夜の草原のようなやわらかい闇はありません〉
そういう残酷な光を、どうしても手にしたいのか。北朝鮮はきのう、四度目の核実験を強行した。「水爆実験の大成功は、民族の千年、万年の未来をしっかりと保証する歴史の大壮挙、民族史的出来事となる」と勝ち誇る姿の、何と虚しく悲しいことか。
それは、ヒロシマとナガサキで焼かれた幾万の韓国・朝鮮人の残影を踏みにじる「民族史的大暴挙」なのだが。》(東京新聞 2016/1/7 筆先)より。


私も、韓国・朝鮮の人々の原爆による犠牲者がいたことは知っていたが、その数、三万人とまでは知らなかった。恥じる―と反省。

北朝鮮の水爆実験は許されることではないが、その事を利用して、「近隣諸国からの脅威」を喧伝し、憲法を無視して、すでに強行採決されてしまった安保法や集団的自衛権行使の正当性を、得意げに(怒!)説くのは、非常に汚い手口である。
何だか、この事を都合よく利用しそうな首相だから、油断できないなぁ。 
憲法の改憲もこの人の「悲願」みたいなものだし…。
時代が変わり、世界情勢も変わり、憲法も改憲の必要性がある―というのはわかる。けれど、そのままに置くべく条項も為政者側に都合のよいように、数の力で強行に変えてしまうだろう―という疑いが拭えないので、この政権の改憲には賛成できない、反対である。 

2016年、身じまいをしながら、暮らしをスッキリをさせながら、それでも、まだ、この世情に在るから、目をそらさないでいなくてはならないなぁ…と、ちょっと、新年早々、疲れ気味。

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