戦国武将の一人、織田信長が最後の主君。
…とはいっても、主君を主君とは思わず、信長に仕える前までは、主君を謀殺し、自らが主君となり、或いは、全力で主君に仕え、信頼を得た後で、主君を手繰り、果ては、時の将軍義輝まで手にかけた。
そうやって、勢力を拡大してきた。
下剋上が当たり前の戦国時代だから、それは、許されない行為ではない。
「誰でもやっていることだ。現に織田信長も主君筋の清州織田を攻め滅ぼし、将軍義昭を追放し、比叡山を焼いたではないか」
と、かつての主君三好一族が籠った東大寺大仏殿に火をかけた松永久秀なら、そう言って、笑うだろう。
そういう男だから、信長に降ってからも、何回も背いた。
一度、背いたら、決して許さない、或いは、謀反の疑いだけで滅亡に追い込まれた武将もいる中で、久秀だけは、城を差し出したり、棄却したり…という程度(?)で許されてきた。
信長は久秀の才を認めていたにちがいない。
そして、どこか、「同じ匂い」を嗅ぎ取っていたのかもしれない。
もしかしたら、久秀は信長の「師」と成り得ていたかもしれない。
勿論、信長も当の久秀も、そんなことは気がついていない。
互いに「駆け引き」を楽しんでいたような所が見える。
久秀にしても、乱世を生き抜いて来て、やっと、「好敵手」に巡り合ったと思っていたかもしれない。
好敵手との出逢い―これは、生きる力や気力を倍増させる。
けれど、久秀が最後に出会った好敵手は彼よりに24才もわかく、久秀は六十路。
このレースは信長が敵の手にかかり、斃れるかしなければ、勝利は若い信長の掌中に落ちる。
久秀最後の裏切りは天正五年(1577)、居城の信貴山城に籠った。
信長はすぐに攻める事をせずに、
「何故の謀反か、望むことがあるなら申し出るように」
と、慰撫に努めたから、余計に久秀は増長した。
挙句、使者が言うことには、信長は、久秀所有の名茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」を所望している―とのことだった。
「平蜘蛛の茶釜を持参して、降参しろ」
ということである。
この時、久秀は思ったろう。
最初に信長に降った時、彼は、名茶器「九十九髪(つくもがみ)」を持参した。
今回は、「平蜘蛛」の茶器である。
「始めも終わりも、茶器…か」
結局、久秀は、「平蜘蛛」の茶器をたたき割り、爆死した。
…と、マァ、本当に「乱世の梟雄(きょうゆう)」というに相応しい生涯を歩いた松永弾正久秀であり、「悪い奴」なのだけど、あまりに悪過ぎて、逆に小気味よい。
それで、私は、結構、この男が好きである(笑)
単行本と文庫本になった自著の『覇星織田信長』にも、勿論、登場するが、出版社の編集の方々いわく、
「結構、松永久秀が好きなのでは?」
と。
割と贔屓して書いているから、すぐわかる(笑)
…というわけで、その後、学研さんから発行の戦国武将の本などの「松永久秀」に関しては、結構、書かせていただき、それが、気にいっていただけたのか、何回か、私の「松永久秀」は掲載していただいた。
そして、また、今月、発行の『戦国武将伝』(学研)に、この松永さん(?)が登場することになった。
この本、コンビニにも並ぶらしい。
…とは、いっても、私もまだ、表紙も本の形(これは聞いたかもしれないけど、忘れた(笑)も、何も、わかっていないのだけど、発行になったら、送ってくるから、その時に、初めて、わかる(笑)
こういう部分は結構、いい加減な私は、いつも、こんな感じ。
随分前、織田信長本がたくさん出版された時の事。
私もいくつか書いて、何故だか、本が書店の棚に並ぶ方が、送られてくるより早かったことがあった。
書店で、
「織田信長関連が多いなぁ、ア、これも新しく出たんだ」
と、一冊を手に取り、パラパラとめくる。
「?!」
手が止まる。
「私、これに書いているよ」
と、一緒にいた友人に言って、あきれられた。
嘘のような本当の話(笑)
2~3人でその本を書いていたけど、その本の表紙も正式なタイトルも知らなかった(聞いたが、多分、忘れたのだろう)、それゆえの笑ってしまうような結果。
勿論、その後で、出版社に電話をして、書店で本を見たことを伝えた(笑)
…とはいっても、主君を主君とは思わず、信長に仕える前までは、主君を謀殺し、自らが主君となり、或いは、全力で主君に仕え、信頼を得た後で、主君を手繰り、果ては、時の将軍義輝まで手にかけた。
そうやって、勢力を拡大してきた。
下剋上が当たり前の戦国時代だから、それは、許されない行為ではない。
「誰でもやっていることだ。現に織田信長も主君筋の清州織田を攻め滅ぼし、将軍義昭を追放し、比叡山を焼いたではないか」
と、かつての主君三好一族が籠った東大寺大仏殿に火をかけた松永久秀なら、そう言って、笑うだろう。
そういう男だから、信長に降ってからも、何回も背いた。
一度、背いたら、決して許さない、或いは、謀反の疑いだけで滅亡に追い込まれた武将もいる中で、久秀だけは、城を差し出したり、棄却したり…という程度(?)で許されてきた。
信長は久秀の才を認めていたにちがいない。
そして、どこか、「同じ匂い」を嗅ぎ取っていたのかもしれない。
もしかしたら、久秀は信長の「師」と成り得ていたかもしれない。
勿論、信長も当の久秀も、そんなことは気がついていない。
互いに「駆け引き」を楽しんでいたような所が見える。
久秀にしても、乱世を生き抜いて来て、やっと、「好敵手」に巡り合ったと思っていたかもしれない。
好敵手との出逢い―これは、生きる力や気力を倍増させる。
けれど、久秀が最後に出会った好敵手は彼よりに24才もわかく、久秀は六十路。
このレースは信長が敵の手にかかり、斃れるかしなければ、勝利は若い信長の掌中に落ちる。
久秀最後の裏切りは天正五年(1577)、居城の信貴山城に籠った。
信長はすぐに攻める事をせずに、
「何故の謀反か、望むことがあるなら申し出るように」
と、慰撫に努めたから、余計に久秀は増長した。
挙句、使者が言うことには、信長は、久秀所有の名茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」を所望している―とのことだった。
「平蜘蛛の茶釜を持参して、降参しろ」
ということである。
この時、久秀は思ったろう。
最初に信長に降った時、彼は、名茶器「九十九髪(つくもがみ)」を持参した。
今回は、「平蜘蛛」の茶器である。
「始めも終わりも、茶器…か」
結局、久秀は、「平蜘蛛」の茶器をたたき割り、爆死した。
…と、マァ、本当に「乱世の梟雄(きょうゆう)」というに相応しい生涯を歩いた松永弾正久秀であり、「悪い奴」なのだけど、あまりに悪過ぎて、逆に小気味よい。
それで、私は、結構、この男が好きである(笑)
単行本と文庫本になった自著の『覇星織田信長』にも、勿論、登場するが、出版社の編集の方々いわく、
「結構、松永久秀が好きなのでは?」
と。
割と贔屓して書いているから、すぐわかる(笑)
…というわけで、その後、学研さんから発行の戦国武将の本などの「松永久秀」に関しては、結構、書かせていただき、それが、気にいっていただけたのか、何回か、私の「松永久秀」は掲載していただいた。
そして、また、今月、発行の『戦国武将伝』(学研)に、この松永さん(?)が登場することになった。
この本、コンビニにも並ぶらしい。
…とは、いっても、私もまだ、表紙も本の形(これは聞いたかもしれないけど、忘れた(笑)も、何も、わかっていないのだけど、発行になったら、送ってくるから、その時に、初めて、わかる(笑)
こういう部分は結構、いい加減な私は、いつも、こんな感じ。
随分前、織田信長本がたくさん出版された時の事。
私もいくつか書いて、何故だか、本が書店の棚に並ぶ方が、送られてくるより早かったことがあった。
書店で、
「織田信長関連が多いなぁ、ア、これも新しく出たんだ」
と、一冊を手に取り、パラパラとめくる。
「?!」
手が止まる。
「私、これに書いているよ」
と、一緒にいた友人に言って、あきれられた。
嘘のような本当の話(笑)
2~3人でその本を書いていたけど、その本の表紙も正式なタイトルも知らなかった(聞いたが、多分、忘れたのだろう)、それゆえの笑ってしまうような結果。
勿論、その後で、出版社に電話をして、書店で本を見たことを伝えた(笑)