飛騨さるぼぼ湧水

飛騨の山奥から発信しています。少々目が悪い山猿かな?

満開のさくら列島 熱気の国会!

2018-03-27 22:14:19 | 俳句日記の部屋


籠り家 出でば待ちたる 春野かな  湧水

テレビ切り 出でし春野の のったりかな  湧水

わが休む 月曜静かな 春の村  湧水

里山が ゆるみ浸みだす 春の水  湧水

春山が ゆるみて満たす 田水かな  湧水

閉じ家を 出でし春里の おっとりかな  湧水

春の里 歩けばおっとり おっとりかな  湧水

ぬるま湯の おっとりおっとり 春の里  湧水

近づきし 軽トラ告ぐる 春鳥声  湧水

春の里 スロー動画の ごとくなり  湧水

暖かさ やる気出でて 春の畑  湧水

春の畑 五度たがやして 初日かな  湧水

春散歩 帰りのための 半袖かな  湧水

長袖を ぬぐかの蕾の 開花かな  湧水

満開の 便りに膨らむ 飛騨さくら  湧水

花蕾 高山祭を 待つらしき  湧水

畑準備 せかすさくらの 前線かな  湧水

さくら咲く 頂点極めし テニス娘  湧水

若き孫 世界舞台や さくら満つ  湧水

川柳

早足の おならもおっとり 春散歩  オナラの句なんかヤメテー!

春の午後 中高年カラオケ 週半ば  暇と心うかれて気楽な山麓の店で

大鍋の 菜汁いたまぬ 春の冷え  一人暮らしの早春の実感だなー!

至急予算 嘘発見機の ai化を  外観は舌抜きを持ったエンマ大王だぞ!

コント

雪国で

留学生 「あーっすごい!さすが雪国、カーリングのストーンがいっぱいある!」

婆さん 「ああ、これかい、こりゃ漬物石じゃ、今空いてるから使ってもいいよ」

レストランで

留学生 「私の彼女ってにくにくしいです」

友人 「えっ、また彼女か?それならすぐ別れろ」

留学生 「えっ、何でですか?ステーキよりにくにくしくて・・・好きなのに」

スナックで

留学生 「あの、桐生選手って9秒台出したんですよね?10秒切ったんですよね?」

友人  「そうだ、昨年9秒98出したんだ。すごいな、俺なんか16秒はかかるのに」

留学生 「それでも立派です、僕だったら20秒はかかります」

小ママ 「あのさ、うちのだんなって8秒台よ」

二人 「えーっ、8秒台!!!?」

小ママ 「そう、10秒ともたないのよ、8秒台よ・・・あらっ、いったい何の話?」

(失礼、おそまつでした)


古代史ロマン(その 5 ) 天照族の伊都国と邪馬台国

2018-03-24 21:36:21 | エッセイの部屋

さて前回では南朝鮮から出雲にスサノオ族が渡来して武力で出雲国を征服した事を述べた。
そうなると、いよいよ記紀の神話にあるように、天照大神の天孫族の登場となる。
それは、このシリーズの初回にも述べたように、紀元前1世紀頃の事だった。
朝鮮半島南部の弁韓の地にいた天照大神の天孫族が日本の北九州に渡来した。
当時北九州には繰り返し述べたように既にいくつかの部族が渡来していて水田や集落等を作り、それぞれの小さな国を作っていた。
天照族は糸島半島に定住し、そうした近くの先住部族を次々に征服していった。
それができたのは最新の鉄器や技術、それに武器を持っていて、王を中心に攻撃的な部族だったからである。
当時の朝鮮半島南部には中国大陸の南からまた中央からまたは北から多種の民族が逃げて来たり、新天地を求めて来たりして狭い土地に多民族が善悪混交互いに覇を競っていた。
そのため、食糧となる多種の穀物や金属器等の文化面だけでなく、馬や馬具等の戦いの新しい武器や組織等も発達していった。
こうした最新の武器や技術を持って渡来した天照族は糸島半島を含む地域に強大な伊都国を作り、周囲の国を従えていった。
このことは、古事記、日本書紀では天照大神の孫のニニギノミコトが天下りして海の民の娘の木花咲や姫を娶り、その後も海の民の娘達を娶った話となっている。
現在、北九州には当時の小国の遺跡が多数発掘されているが、奴国等それぞれは元々海の民の渡来民族が作った国であった。
また、この天照族が作った伊都国跡には、弥生時代後半の豪華な副葬品を伴った墓が4墓もある。
この墓には、他の地域には見られないほどの大きな鏡や副葬品が驚く程多数あり、協力な王権が続いた証と見られている。(伊都国歴史博物館参照)
前にも述べたように、こうした新旧の渡来部族達はそれぞれの神を信仰していた。
元々日本に住んでいた縄文人達は、大自然の聖なる山に宿る神を信仰していて巫女や神官が主となってシャーマン的に願い事を祈ったり、お告げを受けていた。
しかし、この渡来人達は大自然の神より自分達の始祖である先祖達をそれぞれの神として祭り、巫女や神官は脇役だった。
また神々は神話の中だけに存在し、始祖もその神の一人だったので、王権はその直系の子孫のみが代々継承できた。
と言う訳で、祭事も王自信が主として行い、祭司権やすべての実権を王が掌握していて王権は絶大だった。
この事は王墓の副葬品の豪華さに表れている。
天照族が渡来した紀元前一世紀頃には日本各地に小国が百余国あった事が漢書に記されている。
そして、それらの国が定期的に朝鮮半島の前漢の出先国へ朝貢品を持ってきた事も記されている。
その後、時は過ぎ、北九州では、先進技術を取り入れたいくつかの小国が大きくなり、かなり込み合ってきた。
彼等は国同士の争いを避けるために、同じように「後漢」の朝鮮半島の出先国に朝貢品を届け国の認可をもらっていた。
紀元57年、奴国の王が朝貢して後漢の光武帝から金印をもらった事が漢書に記されている。(この金印が江戸時代に発見された)
また、紀元107年、倭国王のスイショウ等奴隷160人を安帝に献上した。
この先、倭国大乱と言う時代になる。
さて、その話の前に、この強権的な天照族はいったいどこから来たのだろうか?
彼等は王権が強く征服的な民族であるが、ルーツは北方の騎馬民族ではなかった。
やはり南の揚子江下流から来た稲作民族だった。
しかし、その元々のルーツはヒマラヤの古代シャンバラで、縄文人達のように自然を敬う平和的な民族であったと言う。
それが遠い昔にヒマラヤのチベットを出発して移動を繰り返す内に好戦的征服的な民族に変わっていった。
そして中国に入って南下し揚子江の下流域の稲作民族を征服し合体した。
何故好戦的な部族に変わったかと言えば、一時期、ネガティブな神のお告げを受け交流したからだった。
その神との交流によって天照族は選民思想を持ち、他民族を征服する事も臆せぬ好戦的支配的な民族に変わったと言う。
他にヘブライ民族も同じように交流したと言う。
その特徴は、自分達は神に選ばれた特別な民族だとの選民思想を持ち、他民族を武力で征服する英雄伝説を尊ぶと言う。
さて話をもどして、
2世紀になると日本に百余りあった小国も強い国に統合されて中ぐらいの国が30ほどになった。
前回も述べたように、出雲族は出雲の他に丹波、北陸、畿内、瀬戸内、中部に文化圏を広げていた。
北九州の伊都国等は出雲文化圏には属せず、単独に朝鮮半島から独占的に鉄を入手していた。
畿内には出雲族の国がいくつかあり、その最大の国が奈良盆地の唐子鍵遺跡だった。
それが初期の邪馬台国で、畿内の国々が従っていた。
出雲族は祖先の大国主命を神として祭っていた。
しかし、当時は近くの三輪山で縄文人が大物主神を竜神として祭っていた。
ところが、出雲族は縄文人と融和している内に大国主命と大物主を混同し一体の神と見なすようになった。
邪馬台国は初期には出雲族の主家からの男の王が続き周辺の小国を統合して大きくなっていった。
他の地域でも同様に小国が統合されて中程度の国ができていった。
その結果、出雲、吉備、播磨、畿内の邪馬台国、近江の出雲系に、丹波の海部氏、尾張、美濃の尾張氏の海の民系に、北九州の伊都国、奴国等の非出雲系の国々、その他にケヌ、クナ国等縄文系の国々等々。
こうして中程度の国が30国ほどになったと言う訳である。
さらに二世紀中頃になると、世界的な寒冷化で旱魃や飢饉が頻発するようになった。
そのため倭国だけでなく朝鮮半島南部でも小国間の争いが起こり多くの人々が九州へ流入し、一部は瀬戸内海沿岸へ流れ込み争いも増えた。(高地性集落)
これが「倭国大乱」と呼ばれる時代だった。
また中国大陸でも184年に黄巾の乱が起こり、後漢の中央政権が弱まって各地に軍閥が生まれた。
その時に遼東半島の地方官だった公孫氏が半独立政権を樹立し、朝鮮半島も勢力圏に収めた。(その語に魏に滅ぼされるまで50年治めた)
この公孫子の強力な拡大志向を恐れ、倭国では国々が連帯して共同で備えようと言う機運が高まった。
今までの後漢の後ろ楯を失った北九州の国々も加わる事になった。
その結果、話し合いによって、邪馬台国を盟主として邪馬台国連合を作る事になった。
また、その連合国の都も新たに造る事になった。
こうして、邪馬台国の王として選ばれたのが卑弥呼だった。
そして新たな都が纏向遺跡だった。
邪馬台国は出雲族の国であったが、王に選ばれた卑弥呼は出雲族出身でなく、丹波の海部族出身だった。
卑弥呼はシャーマンとして優れていたかも知れないが、ライバル関係にあった出雲族と北九州の勢力でなかったので皆が納得したのかも知れない。
もちろん、丹波の海部氏や尾張美濃の尾張氏の後ろ楯があった事は言うまでもない。
数倍も大きな新たな都として纏向遺跡が作られ、畿内の国の人々が移住し集合した。
北九州の伊都国等も連合に加わり、独占していた朝鮮半島からの鉄も畿内に大量に流れるようになった。
卑弥呼は元々海の民の海部氏の太陽神を祭る巫女だった。
そのため邪馬台国連合のトップである女王となった時も、三輪山の山頂で太陽神を祭るようになった。
それに伴い、それまで大物主竜神を祭っていた縄文系の神官が退き、また出雲系が祭っていた銅鐸も廃棄した。
このため出雲文化圏でも銅鐸が使用されなくなる。


(長くなるので つづく)

熱さ寒さも彼岸越え? ぼた餅

2018-03-20 15:52:03 | 俳句日記の部屋

彼岸を 明日にひねもす ストーブかな  湧水

気がねなく 家にこもれる 春の雨  湧水

熱湯と 冷水交互に 花つぼみ  湧水

花さくら 今年は早き 寒さ故  湧水

雨降りの 朝から鼻水 花粉症  湧水

コーヒーにも 美味しきあんこの ぼた餅かな  湧水

うす寒き スニーカー厚く 見ゆる春  湧水

来し春も 吾ものろのろ 足踏みかな  湧水

せせらぎの 音もやわらか 春山路  湧水

爺上着 ぬぎすて体操 春山路  湧水

もう一度 踏みたき山の 春雪かな  湧水

村音が ズームアプなる 春山路  湧水

里人の くしゃみに驚く 春山道  湧水

春の昼 退院前の 高いびき  湧水

早々に めでたく退院 さくら咲く  湧水

隣の義兄もt爺さんの奥さんもめでたく退院できた。少し暖かくなったのでよかった!

百円代の 春の野菜の 立派さかな  湧水

近くのスーパーで、キャベツ、レタス、ブロッコリ、小松菜、ほうれん草、わが畑の小さな野菜に比べ立派だったので家庭祭にお供えした。

春散歩 ガタつく脚も 元もどり  湧水

遅啓蟄の 吾に声かける 散歩爺  湧水

春山や 杉にたずねて 深呼吸  湧水

春山路 わがダンス歩も よみがえり  湧水

川柳

買いだめし 値下がりしたる 春野菜  オール二百円以下だったのでいろいろ買った。

高いびき 退院前の 昼見舞い  で、何してるかって?幸運と安心を運んでるのさ!

いざさらば! 嬉し涙の 退院かな  いろいろ・・・学ぶんだから卒業では?

老夫婦 子猫がいれば 安泰かな  子猫は昼も夜もくっ付き夫婦ケンカする暇がない。

箱尽きて 食べたくなりし チョコと菓子 珈琲時のバレンチョコが無くなった、菓子も

爺さんの ぼた餅食べて わが身知る  柔らか過ぎ、わが作るケーキもあんなのかも?

尻腰胴 大木ごとき 春体操  冬の間に幹みたいに一体になったよ!

スリッパや 掃除機くっ付く ネズミ取り  お蔭でスリッパは新調、掃除機は?

敵討ち ふすまをかじる ねずみかな  父母の仇?大切な襖の黒い枠を!


古代史ロマン(その 4 ) すさのおと八岐大蛇

2018-03-14 18:39:51 | エッセイの部屋

さて、前回では、
「紀元前五世紀には多くの稲作民族が中国揚子江流域から直接または朝鮮半島を経由して日本へ渡来した。
定住先は九州一円、瀬戸内海沿岸、出雲、丹波、が主で、さらに北陸、東北の日本海沿岸へも定住を試みた。
その中で朝鮮半島から渡来した出雲族は中国地方を中心に、そこからやがて四国、畿内、東海地方まで影響し、当初は南朝鮮からの銅で銅鐸等青銅器を作り広大な出雲文化圏を形成するようになった」
と述べた。

以上のように、各地に渡来した稲作民族は川沿いの適した土地を探して水田と集落を作った。
そして、その水田の拡大と人口の増大と共に大きな集落に発展したり、また分かれて別の土地に集落を作ったりした。
特に出雲族は、繰り返しになるが縄文人達とは争う事なく共生し縄文人達の土地の神をも敬うようになった。
しかし、誤解しやすいが、渡来した稲作民族は稲作だけで生きていた訳ではない。
栗等縄文時代からの日本古来の食べ物や中国大陸朝鮮半島からの泡や大豆等の穀物も栽培し、混合した食生活をしていた。
そうした頃、朝鮮半島から鉄を求めてスサノオ族と言う小さな集団が出雲へ渡来した。
彼等は好戦的で新しい鉄の武器も備えていたので、たちまちに出雲族を征服した。
出雲神話のヤマタノオロチ伝説はこの様子を伝えている。
つまり、平地の出雲族の集落を征服したスサノオ族は、山奥まで勢力を伸ばし山麓で蛇神や竜神を祭っていた土着の縄文系稲作集落をも次々と征服したと言う事である。
ところが、このヤマタノオロチ伝説については、かつて読んだ司馬遼太郎氏の「街道をゆく」を思い出す。
確か、司馬氏は別の解釈をしていた。
朝鮮半島からタタラと言う製鉄を営む集団が出雲地方に渡来し、山間地へ入り、大量の立木を伐採し始めた。
タタラと言うのは製鉄の一種で、川の砂鉄から鉄を取り出す古代の方法である。
まず、山の立木を伐採し、乾燥させる。
次に地面に穴を作り、その上に乾燥した薪を組んで火をつけて燃やし大きな焚火をつくる。
その焚火に向って少しづつ砂鉄(川で採取した)をふりかける。
どんどん燃やしどんどん砂鉄をふりかけ続けると、砂鉄が高温で溶けて底の穴にたまり鉄の塊ができる。
この鉄は見かけ以上に高純度で高品質なので刀等にも使用され貴重な宝である。
しかし、獲れる鉄は少量なのでたくさんの鉄を生産するには大量の薪が必要となる。
こうしてタタラ集団が山の立木を伐採し、裸山にしてしまうので、谷は大雨が降れば濁流となって氾濫し、晴天が続けば水不足となった。
このため谷の下流で稲作を営んでいた村々が困っていた。
おまけに、この荒っぽい男ばかりのタタラの集団に娘までも差し出せと言われ、爺さんと婆さんと共に困り果て鳴いていた。
これを知ったスサノオは策力と武力でタタラ集団を退治し、鉄で作った刀まで差し出させた。
そして救い出した娘を妻にした。
と言う解釈である。
この司馬遼太郎氏の現実的な解釈に、当時の私は「さすが!」と感銘を受けた。
しかし、今回他の本も読んでいる内に考えが少し変わってきた。
やはりヤマタノオロチ伝説は、司馬氏の言うようなタタラ集団の話でなく、蛇神や竜神の話だと思った。
と言うのは、大雨で川が氾濫したり、長い間旱魃が続いたり、火山噴火や大地震の時に縄文系稲作民達の中には縄文時代からの山の竜神や蛇神に怒りを鎮めるために人身御供として娘を差し出す慣習があったのだろうと思ったからである。
おそらくスサノオは、この人身御供の話を聞いて、これお口実に山奥の縄文系稲作村を次々に征服した。
そして、娘を竜神に差し出すと言う伝統的な人身御供の慣習を止めさせた。
また最後に一番山奥の上流ではタタラ集団を征服して鉄の刀を差し出させた。
これには村の人々も大いに喜び、スサノオに服従した。
そして、スサノオは救い出した娘を妻にした。
と言う話だと思った。
このスサノオ族は好戦的であったが、小集団であったため、その勢力は出雲一国内からは外へ伸びず、やがて大きな出雲族に吸収されてしまった。
このスサノオ族は日本に渡来する前は朝鮮半島のサロ国(新刊)にいた。
紀元前四世紀から二世紀にかけて朝鮮半島の南部は馬韓(西南部)、弁韓(中間部)、辰韓(南東部)の三地域に分かれていた。
それぞれには小さな国がいくつもあった。
馬韓には後の百()345年済となる地があり、弁韓には後の任那、加羅となる地があり、辰韓は6国が後に12国となり、その中のサロ国が356年に辰韓を統一して新羅となる。
スサノオ族はサロ国にいた部族なので、同じく日本へ渡来する弁韓の任那の地にいた天照族とは接触があった。
この事が、記紀では高天原での天照神とスサノオ神の神話となっている。
さて、スサノオ族の渡来の後に海の民が丹波へ渡来した。
彼等は後に海部氏や尾張氏と名乗る部族である。
彼等は鉄とガラスと言う当時の最新技術を持っていたので、丹波地方(丹波、丹後、但馬)を中心に協力な国を作った。
そして美濃や尾張の東海地方へも進出した。
天橋立の神社の海部氏や熱田神宮の尾張氏や住吉大社の積もり氏等は末裔である。
この海の民の部族連合は、後に出雲族中心の邪馬台国の卑弥呼(出雲族でなく海部出身)の後ろだてとなる。

(つづく)

小中学校も卒業式 南北にも春?

2018-03-13 18:13:56 | 俳句日記の部屋

降り雪も 梅もさくらも 卒業式  湧水

卒業や 高校に雪 園に花  湧水

そわそわと こころ駆け出す 春のひる  湧水

朝の冬 午前は春に 昼に夏  湧水

卒業を 終え振りかえれば 母校かな  湧水

式終えて 出でし学び舎 はや母校  湧水

振りかえる 山河に雪の 卒業校  湧水

卒業は 乳配達の おばさんも  湧水

白菜の 切り漬けやばい 早春かな  湧水

切り漬さえ 載せれば二杯 どんぶり飯  湧水

ひよどりの わが世とおもう 早春畑  湧水

お日さまも 北風もぬがす 花粉服  湧水

枯れ乾し草 故に炎上 春の山  湧水

春あたたか 南北氷も 解かすかに  湧水

平昌の パラ南北には 春が来し  湧水

川柳

白菜漬 あまりの美味さに 樽は空 体が求めてるのか?畑の残り白菜も漬物に!

残白菜 穫らばひよどりの ブーイング ピーーッ!ちょっと、私の白菜を取らないで!

白菜の 青葉食べ尽くす ひよどりかな まあいいや、私は下の白い部分を食べるから!

丸干し芋 甘さひかえし 干し柿に  いや全く、区別がつかないほど甘い!

付き添いの 奥さんが助手席で 病院へ えーっ、病人の主人が運転して?そうよ何か?