湧水はうとうとしていた。
フト気づくと列車は、もう濃尾平野を北へ通り抜けようとしていた。
車窓の右側に木曽川が見え、小高い向こう岸に国宝の犬山城がそびえていた。
(ああ、いよいよ山国の飛騨か)
湧水は、乗客の少ない梅雨最中の特急の座席で、ひとり思った。
まだ若く健康だった。
やがて美濃太田駅に着くと、湧水は急にトイレへ行きたくなった。
通路に立つと白杖の人が近づくのが見えた。
幸い空いていたので、湧水は先にトイレに入った。
トイレを出ると白杖の人の姿は無かった。
列車は出発すると、木曽川沿いに走った。
そして、飛騨川との合流地点にくると、そのまま飛騨川沿いに北上を続けた。
だんだんと周囲の山が高くなると、梅雨の曇り空からポツポツと雨が降り始めた。
そして、一気に激しく降りだした。
(ああ、なにか嫌だな、もうじき昔にバスが転落した飛騨川事故現場だ)
と嫌な予感がした。
列車は、そんな心配などかまわず雨の中を走り続けた。
雨音がさらに激しくなり、見下ろしていた激流の飛騨川も両岸の崖も何も見えなくなった。
「お客様にお伝えいたします、只今豪雨警報が発令されましたので、この列車は緊急停車いたします」
アナウンスと同時に列車のブレーキ音が床に響き、少し体が前のめりになった。
(えっ、停車だって?こんな所に停車するなんて、ここは崖の鉄橋の上じゃないか、すぐに引き返した方がいいんじゃないか)
湧水は心配になり周囲を見た。
窓の外は音だけで真っ白で何も見えない。
わずかの乗客達も、心配そうな蒼い顔でおろおろしていた。
「ゴーーゴー!」
突然の轟音と共に、列車が前へ傾き出した。
(わーーっ、しまった!この列車は飛騨川に転落するぞ」
湧水は、以前のバス事故の二の舞だと感じた。
「ああ、どうして俺は、こんな列車に乗ってしまったんだろう?)
湧水は心の中で叫んだ。
「ゴーー、ガッガッガガー!」
突然客車全体が床から吸い込まれるように落ち始めた。
「ああ、神様、助けて!」
訳が分からない轟音の中で、湧水は夢中で叫んだ。
「・・・」
「もしもし、お客さま、切符を拝見いたします」
突然、肩を叩かれ、湧水は眠りから醒めた。
目を開くと静かな車内だった。
「えっ?夢、夢だったのか?」
気づいた湧水は、車掌に見せる切符をポケットの中に探した。
切符を拝見すると、車掌は少し迷惑顔で、
「下呂液への到着時刻は、少し遅れていますので約50分後です」
と言って立ち去った。
(ああよかった!夢だったんだ)
湧水はホッとすると、急に腹の痛みを感じた。
「下痢だ!急がなきゃ」
通路に立ってトイレへ急ぐと、白い杖の人が歩いて来るのが見えた。
(あれっ、何か、前にも見たような光景だな)
と思うと、しばらくボンヤリしてちまった。
すると、その白い杖の人が先にトイレへ入るのが見えた。
近づくとトイレは二つともロック中だった。
下腹がゴロゴロと鳴った。
「いや、これはまずい!下痢だ、急がなきゃ」
次の客車のトイレまで行こうと思ったが、間に合いそうもなかった。
ホームの向こう側には、停車中の別の列車が止まっていて入口が開いていた。
そこへ湧水は慌てて駆け込み、トイレのドアを叩いた。
幸いトイレは空いていて、かろうじて間に合った。
しかし、なかなか腹痛は収まりそうもなかった。
その内に、特急列車の発射ベルが鳴り、アナウンスと共にドアの閉まる音がした。
(おおーい、ちょっと待ってくれ!ここにひとり乗客がいるよ!ああ、もう駄目だ、もう間に合わない)
トイレで嘆く湧水を後目に、無情にも特急列車は出発してしまった。
ようやくトイレを終え、さっぱりした湧水は、仕方なく駅員に告げ、その普通列車で行く事にした。
案の定、雨が激しく降りだし、周囲が真っ白になった。
その不通電車が、次の停車駅に着くと、アナウンスが鳴った。
「お客様にお伝えします。ただいま豪雨警報が発令し高山線は、不通になりました。この列車はしばらくこの駅で停車いたします」
それを聞いて、湧水は夢を思い出した。
「もしかしたら、あの特急列車に、あの事が?」
すると、続いてアナウンスがあった。
「お客様にお伝えいたします。たった今、豪雨でこの先の鉄橋が崩落いたしました。列車ごと飛騨川へ転落した模様です・・・」
「えっ?」
湧水は体が震えてきた。
「ああ、あれだ、あの事が実際に起こったのだ・・もし、私があの列車に乗っていたら?」
と思うと、湧水は脂汗や震えが出てきて生きた心地がしなかった。
「・・・」
「お客さん、お客さん、起きてください、切符を拝見いたします」
「えっ?」
肩を叩かれ目が醒めた湧水は、列車の座席にいた。
車掌が湧水の顔をにらんでいた。
「えっ、今のも夢だったのか?」
「キンコンカンコン、下呂ー、下呂!、まもなく下呂温泉です、只今より列車は下呂駅に到着いたします、降車口は左側ですー、お忘れものの無いようにご降車ください」
湧水はあわてて降車した。
(夢で良かった、手に持つも無事だったし、汽車も無事着いたし、、、もし、あんな事故が実際に起こったら何もかも大変だった)
湧水は、昔からの飛騨の夏の山や花火や盆踊りの事を想うと心は軽く楽しくなった。
下呂駅から路線バスに乗ると、飛騨の空は晴れ晴れとしていた。
そして、久々に見る飛騨の野山は、「万緑」と呼ぶのに相応しいほど青葉がまぶしく輝いていた。
「・・・・」
窓際の机のパソコンから音が聞こえていた。
「・・と言う訳で、私達は、この世の中を何通りかの平行世界(パラレルワールド)を選択しながら生きているのです、ですから、私達個人の未来も、地球や人類の未来も、努力次第で自由に選択できる訳ですので、・・」
知らない間に湧水はパソコンの横で居眠りをしていた。
ようやく目が醒めた。湧水は、
「あっ、つい眠ってしまっていた。ずいぶん変な昔の夢だった。
そう言えば、今は昔には想像できないような便利な時代になったな」
パソコンの画面には、ユーチューブのパラレルワールドの検索結果が開いていた。
(おわり)