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古代史ロマン(その 5 ) 天照族の伊都国と邪馬台国

2018-03-24 21:36:21 | エッセイの部屋

さて前回では南朝鮮から出雲にスサノオ族が渡来して武力で出雲国を征服した事を述べた。
そうなると、いよいよ記紀の神話にあるように、天照大神の天孫族の登場となる。
それは、このシリーズの初回にも述べたように、紀元前1世紀頃の事だった。
朝鮮半島南部の弁韓の地にいた天照大神の天孫族が日本の北九州に渡来した。
当時北九州には繰り返し述べたように既にいくつかの部族が渡来していて水田や集落等を作り、それぞれの小さな国を作っていた。
天照族は糸島半島に定住し、そうした近くの先住部族を次々に征服していった。
それができたのは最新の鉄器や技術、それに武器を持っていて、王を中心に攻撃的な部族だったからである。
当時の朝鮮半島南部には中国大陸の南からまた中央からまたは北から多種の民族が逃げて来たり、新天地を求めて来たりして狭い土地に多民族が善悪混交互いに覇を競っていた。
そのため、食糧となる多種の穀物や金属器等の文化面だけでなく、馬や馬具等の戦いの新しい武器や組織等も発達していった。
こうした最新の武器や技術を持って渡来した天照族は糸島半島を含む地域に強大な伊都国を作り、周囲の国を従えていった。
このことは、古事記、日本書紀では天照大神の孫のニニギノミコトが天下りして海の民の娘の木花咲や姫を娶り、その後も海の民の娘達を娶った話となっている。
現在、北九州には当時の小国の遺跡が多数発掘されているが、奴国等それぞれは元々海の民の渡来民族が作った国であった。
また、この天照族が作った伊都国跡には、弥生時代後半の豪華な副葬品を伴った墓が4墓もある。
この墓には、他の地域には見られないほどの大きな鏡や副葬品が驚く程多数あり、協力な王権が続いた証と見られている。(伊都国歴史博物館参照)
前にも述べたように、こうした新旧の渡来部族達はそれぞれの神を信仰していた。
元々日本に住んでいた縄文人達は、大自然の聖なる山に宿る神を信仰していて巫女や神官が主となってシャーマン的に願い事を祈ったり、お告げを受けていた。
しかし、この渡来人達は大自然の神より自分達の始祖である先祖達をそれぞれの神として祭り、巫女や神官は脇役だった。
また神々は神話の中だけに存在し、始祖もその神の一人だったので、王権はその直系の子孫のみが代々継承できた。
と言う訳で、祭事も王自信が主として行い、祭司権やすべての実権を王が掌握していて王権は絶大だった。
この事は王墓の副葬品の豪華さに表れている。
天照族が渡来した紀元前一世紀頃には日本各地に小国が百余国あった事が漢書に記されている。
そして、それらの国が定期的に朝鮮半島の前漢の出先国へ朝貢品を持ってきた事も記されている。
その後、時は過ぎ、北九州では、先進技術を取り入れたいくつかの小国が大きくなり、かなり込み合ってきた。
彼等は国同士の争いを避けるために、同じように「後漢」の朝鮮半島の出先国に朝貢品を届け国の認可をもらっていた。
紀元57年、奴国の王が朝貢して後漢の光武帝から金印をもらった事が漢書に記されている。(この金印が江戸時代に発見された)
また、紀元107年、倭国王のスイショウ等奴隷160人を安帝に献上した。
この先、倭国大乱と言う時代になる。
さて、その話の前に、この強権的な天照族はいったいどこから来たのだろうか?
彼等は王権が強く征服的な民族であるが、ルーツは北方の騎馬民族ではなかった。
やはり南の揚子江下流から来た稲作民族だった。
しかし、その元々のルーツはヒマラヤの古代シャンバラで、縄文人達のように自然を敬う平和的な民族であったと言う。
それが遠い昔にヒマラヤのチベットを出発して移動を繰り返す内に好戦的征服的な民族に変わっていった。
そして中国に入って南下し揚子江の下流域の稲作民族を征服し合体した。
何故好戦的な部族に変わったかと言えば、一時期、ネガティブな神のお告げを受け交流したからだった。
その神との交流によって天照族は選民思想を持ち、他民族を征服する事も臆せぬ好戦的支配的な民族に変わったと言う。
他にヘブライ民族も同じように交流したと言う。
その特徴は、自分達は神に選ばれた特別な民族だとの選民思想を持ち、他民族を武力で征服する英雄伝説を尊ぶと言う。
さて話をもどして、
2世紀になると日本に百余りあった小国も強い国に統合されて中ぐらいの国が30ほどになった。
前回も述べたように、出雲族は出雲の他に丹波、北陸、畿内、瀬戸内、中部に文化圏を広げていた。
北九州の伊都国等は出雲文化圏には属せず、単独に朝鮮半島から独占的に鉄を入手していた。
畿内には出雲族の国がいくつかあり、その最大の国が奈良盆地の唐子鍵遺跡だった。
それが初期の邪馬台国で、畿内の国々が従っていた。
出雲族は祖先の大国主命を神として祭っていた。
しかし、当時は近くの三輪山で縄文人が大物主神を竜神として祭っていた。
ところが、出雲族は縄文人と融和している内に大国主命と大物主を混同し一体の神と見なすようになった。
邪馬台国は初期には出雲族の主家からの男の王が続き周辺の小国を統合して大きくなっていった。
他の地域でも同様に小国が統合されて中程度の国ができていった。
その結果、出雲、吉備、播磨、畿内の邪馬台国、近江の出雲系に、丹波の海部氏、尾張、美濃の尾張氏の海の民系に、北九州の伊都国、奴国等の非出雲系の国々、その他にケヌ、クナ国等縄文系の国々等々。
こうして中程度の国が30国ほどになったと言う訳である。
さらに二世紀中頃になると、世界的な寒冷化で旱魃や飢饉が頻発するようになった。
そのため倭国だけでなく朝鮮半島南部でも小国間の争いが起こり多くの人々が九州へ流入し、一部は瀬戸内海沿岸へ流れ込み争いも増えた。(高地性集落)
これが「倭国大乱」と呼ばれる時代だった。
また中国大陸でも184年に黄巾の乱が起こり、後漢の中央政権が弱まって各地に軍閥が生まれた。
その時に遼東半島の地方官だった公孫氏が半独立政権を樹立し、朝鮮半島も勢力圏に収めた。(その語に魏に滅ぼされるまで50年治めた)
この公孫子の強力な拡大志向を恐れ、倭国では国々が連帯して共同で備えようと言う機運が高まった。
今までの後漢の後ろ楯を失った北九州の国々も加わる事になった。
その結果、話し合いによって、邪馬台国を盟主として邪馬台国連合を作る事になった。
また、その連合国の都も新たに造る事になった。
こうして、邪馬台国の王として選ばれたのが卑弥呼だった。
そして新たな都が纏向遺跡だった。
邪馬台国は出雲族の国であったが、王に選ばれた卑弥呼は出雲族出身でなく、丹波の海部族出身だった。
卑弥呼はシャーマンとして優れていたかも知れないが、ライバル関係にあった出雲族と北九州の勢力でなかったので皆が納得したのかも知れない。
もちろん、丹波の海部氏や尾張美濃の尾張氏の後ろ楯があった事は言うまでもない。
数倍も大きな新たな都として纏向遺跡が作られ、畿内の国の人々が移住し集合した。
北九州の伊都国等も連合に加わり、独占していた朝鮮半島からの鉄も畿内に大量に流れるようになった。
卑弥呼は元々海の民の海部氏の太陽神を祭る巫女だった。
そのため邪馬台国連合のトップである女王となった時も、三輪山の山頂で太陽神を祭るようになった。
それに伴い、それまで大物主竜神を祭っていた縄文系の神官が退き、また出雲系が祭っていた銅鐸も廃棄した。
このため出雲文化圏でも銅鐸が使用されなくなる。


(長くなるので つづく)