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菜食の薦め (その 19 ) 動物福祉より動物の権利 新しい文明?

2024-04-13 22:48:30 | エッセイの部屋

何年か前に、熊にも投票権を!と言うタイトルでエッセイを書いた。
その時はちょうど選挙の最中だった。
当時は大都市の人口が増えて、当選者の票の重みが地方の当選者の重みの3倍近くになっているのが問題になっていた。
飛騨は日本ではかなり広い土地を占めているが、人口が少ないため美濃地方の一郭を加えないと当選者が出なかった。
このように人間の選挙では、人口の多い大都市ばかりに当選者の議員が増えて、広大な地方にはわずかの議員しかいなくなる。
当然予算は議員の多い大都市に多く使われ、広大な地方には少なくなる。
地方は、人口は少なくても、広い土地が雨を蓄えて河川として水を供給し、緑の森林が酸素や涼しさを供給し、大自然の美しさを保っている。
なので人間の人口の多い大都市ばかりを優先する今の選挙や政治体制は本当ではないと思う。
おまけに、人間達は、太鼓からの天然林が保全されていた奥山の雑木林まで丸裸にして、将来の金儲けの企てをした。
それが、全国的な杉や檜等植林だった。
その結果、奥山の熊の餌となるドングリやトチなどの木の実が大減少したため、熊達が仕方なく人の縄張りの村や町まで出没するようになった。
もし、熊達に投票権があれば、当然、熊や動物達が代表者を議会に送るだろう。
そして、その議員達が、奥山の杉や檜を元の天然林にもどし、餌となるドングリ等の木の実の成る樹木を増やすだろう。
そうなっていれば、秋の日本の紅葉も至る所で今以上に美しい気色になり、国土全土が美しい自然公園のようになっている事だろう。
今以上に海外からの観光客達を驚かすほどの美しい国になっている事だろう。
そのためにも、是非、熊達にも投票権を!
と言う願いを込めたエッセイだった。
さて、以上に述べた近年の日本の植林事情の中に、私達人間が反省すべき点と大いなる大切な学ぶ点が含まれていると思う。
昔から、杉や檜は日本の家屋の高価な材料だった。
そして、檜や杉の植わっている山林は高額な資産でもあった。
そこで戦後、日本中で(天皇も植樹祭など通じてはげ山を植林し)天然林を伐採して杉や檜の苗を植林した。
しかし、その後は国の内外の状況が変わり、海外から安価な木材が輸入されるようになると、日本の杉や檜は切り出しコストが高くつき、とうとう見向かれなくなり、植林地も放棄されるようになってしまった。
そして、今では負の遺産のひとつとして春の杉花粉や檜花粉が日本全土で問題を起こしている。
これは今となってみれば、大自然や動物達の営みを無視した、人間のみの利益を優先した大きな製作の誤りだった事が分かる。
こうした人間中心の製作の誤りは、単に山林の分野だけではない。
衆知のco2による地球温暖化問題やプラスチック等の地球環境問題と同様である。
このように我々人間達はいよいよ目前の地球の環境問題に迫られてとうとう人類は方向転換をせざるを得なくなってしまった。
そして、環境に優しい在り方、地球に優しい在り方、動物に優しい在り方、すべての生き物に優しい在り方、このような社会や文明こそが、これからの新しい、持続可能な社会や文明だ!
と人間達は、今になってようやく気づいた。
今までの延長線上にはない新しい文明だ。
この新文明の中の、すべての生き物に優しい社会、文明
と言う事で、動物権利問題や動物福祉問題が出てきた。
この新しい動物権利問題と動物福祉問題は、根本的に考え方が違う。
動物権利問題は、「人間はすべての生き物の霊長類」と宗教的に言われていても、人間が他の動物達を殺す権利や食べる権利等無いと言う考え方である。
これは大変な、今までにない考え方である。
人間は昔から万物や他のすべての生き物の霊長類と言われていても、それはすべての動物達は仲間や兄弟のようなもので、人間は、そのすべての生き物の長や長男としての立場だ!と言う考え方だ。
つまり、他の動物達は兄弟のようなものだから命は尊重しなければならない、まして奪ったりはできないと言う考え方だ。
一方、動物福祉は、他の動物達の命を奪ったり、食べても良いと言う考え方の上に成り立っている。
ただし、命を奪うまでは動物達に苦痛を与えないように飼うべき(ここに福祉と言う言葉を使う)と言う考え方だ。
つまり、人間は万物やすべての生き物達の霊長類で、他の動物達とは違う特別な存在で、他の動物達を殺しても食べたりしても許される存在だ、と言う考え方で、根本的に違う考え方に基づいている。
(これは、私が思うには、現在世界中で行われている肉牛生産や養豚養鶏や、また医学実験のための大量のモルモット試験等を否定したら世界的に大変な問題と混乱を生じるので、それを避けるために、このような矛盾した苦しい解釈になったのだと思う)

さてさて、ここでようやく、菜食の問題が関連してくる。
もし、近未来に人類が菜食になるとすれば、現在食べられている牛や豚や鶏やその他の動物達の大量飼育が室用無くなる。
すると牛や豚や鶏もペットのように雑草対策として飼われたり、動物園のように観賞用として飼われたり遊び相手として飼われるだけとなる。
そうすれば現在の動物の大量策略も地上から消え、すべての生き物が自然に近い状態で生きられる世の中になる。
これこそが、人間にも、すべての生き物達にも優しい理想的な世の中ではなかろうか?

追加の参考事項

旧約聖書「創世記」の第1章第26節
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」

不完全な人間達は、こうした聖書など宗教的な神の教えを自分達の都合の良いように解釈して、それを神の教えとして支配の口実に利用して自分達の利益を求めてきた。
人間は万物の霊長と言う言葉も、人間はすべての生き物を支配できる特別な存在と都合よく解釈した。
しかし神は人間に対して動物達の命まで自由にしてよいとは言っていない。
またカトリックキリスト教徒の西洋列強は、アフリカの文化の遅れた人達をも同じ人類とは認めずに、動物のように扱って奴隷化支配した。

(以上)

(つづく)

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