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古代史ロマン(その 3 ) 弥生時代 埋められた銅鐸!

2018-03-07 17:11:29 | エッセイの部屋

話に入る前に、弥生時代と言うテーマで気づいた事がある。
先回述べた日本の大相撲もよく考えてみれば縄文と弥生をミックスした日本独自の文化だった。
まず、海の神様に大漁を願って裸相撲を奉納する「海人」の文化は、自然採取と言う縄文文化である。
それに対して、自然採取でなく野生羊を捕らえて人工的に移動させながら放牧飼育する牧畜の騎馬文化は、稲作や麦作と同じ人工的な弥生文化と言える。
そう、この両者の文化をうまく取り入れたのが現在の大相撲である。
要するに、大自然を畏れ敬い生活する態度は縄文文化である。
それに対して、大自然に負けず知恵で克服しようとする態度は弥生文化である。そして、それはやがて自然を征服しようとする現代の科学文化につながる。
この事については後半で触れようと思う。
ついでに、弥生時代に関して、私はもおうひとつ以前から素人的な考えを持っていた。
それは、越中、越前、越後の名前の由来である。
これは、古代中国の「呉越同舟」の故事にあるように稲作民族の「越」が滅ぼされた時に越の人々がボートピープルとして能登半島に流れ着いて定住した。
これが後に越前越中越後の名の由来となったと言う子供でも思いつきそうな説である。
今回いろいろな本を読んでいたら、この私と同じ意見を述べている人に初めて出会った。
それは、中国大陸から日本への渡来のきっかけとなった事件だった。
まず、紀元前479年に中国南の長江近くの呉王が遠征している留守に越王が都の蘇州を攻め落とし、一時北の三棟半島まで進出した。
この時、一部の越民族が朝鮮半島を経て日本へ渡った。
次は紀元前334年、越国は西方の楚国に滅ぼされ多くの越民族が船に乗って四散した。
この時、朝鮮半島へ渡った人達も、日本の方が稲作に向いていたので日本へ渡った。
それが、能登半島に着いたと想像する。
と言うのは、現在でも能登半島は対馬暖流に乗ると一番漂着しやすい場所のようだし、それにその手前の海岸線には後述するように、既に出雲族と言う稲作渡来民達が集落を築いていたからだと思う。

ちなみに富山県には昔に越と呼ばれる干潟湖があり、米の「越光」と同じコシと呼ばれていた。
またついでに述べておくと、この他にも中国大陸からの稲作民の渡来事件があった。
紀元前3世紀には、秦の始皇帝の命を受けて徐福等三千人が不老不死の薬を求めて日本に向って渡海した。
さらに、紀元前154年に中国の前漢王朝は「呉楚七国の乱」を平定した。
この時に呉や楚の難民達が船で逃げ朝鮮半島を経て日本へ渡来した。
このように古代中国の長江付近の稲作民族が何度も日本列島の日本海側等に渡来したようだ。
ここで、話を本題にもどす。
さて、前回では中期に栄えた縄文時代が2500年前に気候の寒冷化で日本列島の人口も激減したと述べた。
この頃から上記のように朝鮮半島を経由して稲作民族が北九州や出雲地方や日本海側に船で渡来するようになった。
また北九州から対馬や南朝鮮付近には海人と呼ばれた漁労民達がいたので航海も自由にできた。
縄文人の人口は元々西日本には少なかったが、末期は寒冷化の影響でさらに人口が減っていた。
東日本の大集落も既に消滅していて、残ったわずかの縄文人達は、食糧のドングリ等が少ないので互いに離れて暮らしていた。
このため、渡来してきた弥生人達との衝突も起こらなかっただろう。
さらに渡来稲作人達は縄文人達が必要としない川沿いの低地で水田耕作をしたので土地争いも起こりにくかった。
弥生時代の始まりは今まで紀元前300年(四世紀)ほどと考えられていたが、北九州の遺跡の水田跡が紀元前10世紀後半までさかのぼれる事が分かり早まりそうである。
いづれにしても繰り返しになるが、縄文時代末期になると中国の揚子江下流域から船で直接、または朝鮮半島を経由して稲作民族が多数渡来した。
その渡来先は主に九州(そこを経由して瀬戸内海沿岸部)と出雲、丹波(丹波但馬丹後を含む)で、特に九州北部西部南部には何派にも分かれて渡来した。
彼等は稲作技術と共に青銅器弥生式土器を齎したがグループによって異なる言語を話していた。
出雲族と呼ばれる集団は紀元前六世紀頃、南朝鮮を経て出雲地方(島根県)へ渡来した。
その後九州以外の中国地方や近畿地方へ広がっていった。
彼等は土着の縄文人に対して友好的融和的で征服的ではなかった。
また出雲族は縄文人とは全く異なる神を祭っていたが、縄文人達に押し付けたりしなかったので、縄文人達は自分達の神を祭り続ける事ができた。
やがて出雲族はしだいに縄文人達の神も祭るようになり、縄文人の神と出雲族の神が融合した神となり、後に国つ神と呼ばれるようになる。
現在の九州を除く、中国、四国、近畿、北陸、中部地方に渡る広大な地域で土着の縄文人と融合した出雲文化圏を形作るまでになった。
この出雲文化圏では稲の豊作を願って銅鐸を使用する祭祀を行い、各地方で独自の銅鐸を製造し保有した。
銅鐸は元々の原型は朝鮮の小さな鈴であるが、日本に青銅器として導入されてからは出雲文化圏では稲の生育を助ける土の神様と水を供給する山の神様に豊作を祈るための祭器として発展進化したと私は思う。
その理由は個人的であるが、以下の通り。
私の住む南飛騨には縄文集落跡が多数あり、私の村の山寺参道からは鉄道工事の際、銅鐸が発見された。
その付近では数年前まで春に豊作を願って山の神様を祭る慣習があった。
床の間に山の神を描いた掛け軸をかけて行うのであるが、おそらく弥生時代には山麓の土の中に埋めておいた銅鐸を掘り出して土の神様や山の神様としてごちそうをお供えして祈ったにちがいないと想ったからだ。
さてこの銅鐸祭祀も突然消滅してしまう。
その理由は後述するように、広大な出雲文化圏を含めた邪馬台国連合国が成立した時、その長となった卑弥呼が太陽神を信仰していたので三輪山や社で鏡を祭祀するようになったからである。
さらに北九州から東征して邪馬台国を攻略して王権を簒奪した大和王権も同様に鏡を祭祀するようになったからである。

(つづく)