今回は取りとめもない話になる。
筆を執っても、なかなか本題に進めない。
今は、聖書や中東の古代史を読み漁っている。
まだいろいろと読みかけで中途半端であるが、神と人間との関係の歴史には繰り返しが多いと感じている。
人間は(特に支配層となると)、神に救われて心を入れ換えても、すぐに堕落し不幸を招く。
例えば、モーセに導かれてエジプトを脱出しカナンを目指したユダヤの民も、ダビデやソロモン王の後に堕落し、他民族に支配されるようになった。
またその後に聖ヨハネや聖イエスが現れて、悔い改めを説いたが、当時のユダヤの支配層達は聞く耳を持たなかった。
それどころか自分達を批難するとしてヨハネの首を落とし、イエスを十字架刑にした。
これはモーセの十戒等自分達の正当性の拠り所を自らが破っていると言う矛盾した悪行だった。
そのための神罰か、彼等はまもなくローマに反乱戦争を二度も起こして敗北した。
そしてエルサレムの神殿を破壊され土地を追われ、その後千数百年も世界を流浪する事になった。
またローマ帝国もこの時代を境に衰退の道を歩む事になる。
そう言えば、似たような例が日本にもある事を思い出した。
これは、現在のnhkドラマの「麒麟が来る」の影響で、最近読んだ本のひとつの内容である。
戦国時代に大勢力の比叡山の僧兵達が、小さな日蓮宗の寺を攻撃した。
その時に、その宗徒と家族を寺ごと焼き殺したようだ。
すると、その後に、その事を知ってか、信長によって同じような目に会わされる事になった。
この比叡山の焼き討ちでは、後世に信長の残酷さばかりが協調されるが、比叡山側にも相当の堕落した神罰を受けるべき面もあったようだ。
この信長も後に、テレビではまもなく?主人公の明智光秀の謀反で果てる事になる。
さて、こうした戦国時代の武将達は、よく地元の神社に参拝をした。
信長も今川義元との桶狭間の合戦では地元の神社から出陣する情景が毎回ドラマのシーンになる。
いわゆる戦勝祈願である。
そして戦いに勝つとお礼参りをし品々を奉納した。
この事はもっと古くから行われていた。
あの全国の八幡神社も、昔の源氏の戦勝祈願の由来がある。
同じような事が日本だけでなく世界中で、中東でも起こっていたようだ。
ローマ帝国は、自分達の守護神と信じているデウス神の神殿を支配地に建設しようとした。
そして中東のエルサレムでも破壊された神殿跡に新たにデウス神殿を建設しようとした。
これはヤハウェイ神を信じるユダヤ人達の大反発を産む事となり戦いになった。
ローマが守護神としたデウス神は、元々は古代ギリシア神話の神である。
ローマが興る前には古代ギリシアが経済的にも文化的にも栄えて中東や地中海周辺はギリシア語が共通語だった。
そのギリシア文化をローマが引き継いだ。
ギリシア神話にはデウスを始めオリュンポスの12神が存在する。
また古代エジプトにも古代シュメールやバビロニアにも多くの神々が崇められていた。
そして民族や部族や都市国歌でそれぞれの守護神を祭っていて、戦勝や繁栄を祈っていた。
こうした中でユダヤの民だけが他と違っていた。
それは、崇めているのが一神教の神だったと言う事だ。
一神教とは宇宙の創造主のみを祭る宗教で、他の神を否定し認めない。
また偶像崇拝も一切認めない。
改めて、一神教とは、天地を含む宇宙を造った創造主だけを崇める宗教である。
その存在は無限ですべての万物に及んでいて姿形は無いので崇める偶像を作る事は禁じられた。
しかし、それ故に一神教は一民族や一国家だけにとどまらず世界宗教になれたのだろうと思う。
この先はまだ勉強中なので・・
(キリスト教の十字架のイエス像やマリア像も厳密には偶像と言えるかも?
またお釈迦様も自分の姿の象や仏像は厳しく禁止されたが、入滅後ヘレニズムの影響でガンダーラから仏像が造られるようになってしまった)
(つづく)