波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

桂浜と坂本龍馬と花火大会(高知・高松紀行その3)

2018-08-29 01:03:35 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
今年のお盆休みは、私は一人旅で高知方面に向かいました。1泊3日の予定のうち、現在は2日目のお昼あたりで、高知市を代表する風光明媚な観光名所の桂浜にたどり着いたところです。前回の日記の終盤では、その龍頭岬の高台の上にある坂本龍馬の銅像を目指して、階段を上がっていきながら今回の日記に引き継いだのですけど……… あれっ?龍馬像がない。 もうちょっと東のほうみたいですね。そうしたら、いよいよ高い台座の上から桂浜を眺めている、坂本龍馬像とご対面いたします。



あれっ?今度は向きが違う。 私は過去に2度こちらを訪れたことがあるのですけど、記憶違いだったみたいで、実際の龍馬像は桂浜に背を向ける形で立っていました。今までこちらからじっくりと見たことはなかったのですけど、後ろ姿もカッコいいですよ。



お待たせしました またしても前フリが長くなってしまいましたけど、坂本龍馬像の正面に回りました。 この銅像は、長崎で撮影されたあの龍馬の有名な写真を参考資料にして、地元出身の彫刻家の本山白雲氏の手によって昭和3年(1928年)に完成しました。 像本体の高さは5,3mで、台座も含めた総高は13,5mにもなります。



せっかくなので、一緒に写ってみました。 しかし、我ながらポーズに芸がないですね。ここは龍馬に倣って、右手を懐に突っ込んだり、ブーツを履いたりしておくべきでした。



それはさておき、こちらは真夏の快晴の桂浜にございます 太平洋に面していて、龍頭岬と向こうに見える龍王岬の間に弓状に広がる海岸です。 その松の緑と五色の小砂利、紺碧の海が箱庭のように調和する風景は、まさに絶景 また、こちらは月の名所としても知られています。
しかし、波打ち際は急に深くなっているうえに波も荒くて危険みたいです。 そこに近付こうものなら、常駐の監視員にやんわりと注意されるのですよ。



なので、このようなことは絶対にやってはいけませんよ。 宴会を終えて、さあ帰ろうというときに、仲間の誰かが波にさらわれていなくなっているという事態になるかも。 いや、ヘタしたら全滅する恐れも。そうなってしまったら、歴史が変わってしまいますよ。 それはさておき、さらにその先まで歩いていき………



龍王岬の上に鎮座する、海津見(わたつみ)神社龍王宮のところにまでやって来ました。こちらから臨む太平洋も絶景なのですけど、私の地元の遠州灘より海がきれいで蒼い
桂浜の景色を堪能したら、次の目的地に向かいます。 それは桂浜から歩いていける距離のところにあるのですけど、立地している丘の上まで登っていかなければなりません。



ハアハア……… 最も暑い時間帯で汗が吹き出しつつも、なんとかたどり着きましたよ。 全体像を写すのが難しい場所にあるのですけど、県立の坂本龍馬記念館にございます。こちらは新館を増築したりして、今年の4月にリニューアルオープンしたばかりで、それにともなって入場者も増えたそうです。 十数年前に私が訪れた時は、右側のひょろ長い建物だけで、龍馬の手紙などが展示されていたのですけど、どのように変わったのでしょうか?さっそく迫ってみることにしましょう



その本館(従来のひょろ長いほう)の裏側には、坂本龍馬のシェイクハンド像が新たに設置されていたので、シェイクをハンドしておきました。
※敢えて言うと「ハンドをシェイクする」なのでは?(編集部注)
大きさからいって龍馬の等身大ぐらいで、さらに彼が本当に「しぇいくはんど(イメージとしては、ひらがな)ぜよ」と言っているような気がしました。そうしたら、私も「シェイクハンド(現代人なので、カタカナ)だに」。 いつの間にか、土佐弁VS遠州弁になってるに~。

坂本龍馬は天保6年(1835年)の11月に、高知城下で生まれました。幼少時代のことは不明なのですけど、鼻垂れ、寝小便、臆病者、………と、マイナスからのスタートだったとされています。 国内の流れが尊王攘夷に傾いていた頃、武市半平太が結成した土佐勤王党に入ったのですけど、程なく武市とは別の道を歩むことになり、さらに土佐を脱藩してしまいました。 それは、文久2年(1862年)3月のことでした。
この炎天下の中で立ち話を続けるのもナンなので、このあたりで龍馬記念館に入ることにしましょう。 その入口はこちらとは逆方向の新館側にあり、この時は特別展をやっていたので、700円(MY遊割引きで560円)を払い………



まずは、坂本龍馬に関する資料が展示してある部屋に入りました。 彼は筆まめで、行く先々で家族に宛てて書いた手紙が多数残っていることもあり、展示はそれらがメインとなっていました。しかも複製品なので、ストロボを焚かなければ自由に撮ることができるのですよ
ちなみに、こちらは脱藩してから最初に家族(乙女姉さん)に送った手紙で、「そもそも人間の一生は合点のいかぬはもとよりのこと、運の悪い者は風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬる者もあり。それにくらべては私などは運が強く、なにほど死ぬる場に出ても死なれず………」という書き出しが、くだけていますね。 それと同時に、その手紙には脱藩後に龍馬は江戸に行き、勝海舟に弟子入りしたことも報告しています。



また、翌年の文久3(1863)年6月に乙女姉さんに宛てた、こちらの「日本を今一度せんたくいたし申し候」という手紙はあまりにも有名で、彼の名言にもなっていますよね。 しかもよく見ると、日本に「ニッポン」と丁寧にルビをふっていますし。とにかくその文面からも、これから日本のために大仕事をするという彼の決意が感じられます。



これらの他に、新館には土佐出身のジョン万次郎のコーナーなどもあるのですけど、本館のほうはもっとくだけた体験型の展示がされていました。
討幕するためには、薩摩と長州が手を結ぶ必要があるということで、龍馬は奔走し、犬猿の仲だった両者の間を取り持ち、慶応2年(1866年)に薩長同盟を成立させました。



この絵は、ある意味芸術的にデフォルメされているといったほうが………
さらに龍馬は、日本で内乱が起きている間に外国から侵略されたり、薩長が幕府と全面戦争になることを避けるために、大政奉還に向けて活動しました。 大政奉還とは、幕府が自ら政権を朝廷に返上し、幕府による支配を終わらせるというものです。またそれによって、戦争を起こす理由をなくすという意義もありました。 龍馬の尽力によって、慶応3年(1867年)10月に、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還をおこない、徳川幕府は終わりを告げることとなりました。

あと、龍馬記念館には「幕末写真館」なるコーナーもあって、そこには龍馬と関わった人物などの写真が多数展示されているのですよ。桂小五郎(のちの木戸孝允)や久坂玄瑞がけっこうイケメンだったりして、いろんな面で楽しむことができます。
桂浜方面での用事が済んだので、あとはバスに乗って引き返すだけなのですけど……… 帰りはバラけていて、来た時のように道路が混むことはなかったものの、バスの車内が夕方になって一斉に帰ろうとする人でぎゅうぎゅうとなっていました。



それでも、なんとか高知駅前に到着。この流れからすると、これから列車に乗っていくトコなのですけど、この駅を出発点としている土讃線は、在来線の本数が少ないうえに接続も悪く、私の次の目的地の高松までは特急にでも乗らなければたどり着くことができないのですよ。 しかも、その列車を利用したら、自由席でも5000円近くもかかりますし。
しかし、心配には及びません。 この駅に併設されているバスターミナルからは、高松に2時間ほどで直行する黒潮エクスプレスという高速バスが出ているので。 ちなみにその料金は、3400円にございます。………なんてイチオシしておきながらも、乗る前に写真をとっておくのを忘れていました。

よく考えてみたら、今回は高知駅を観光の拠点にしながらも、そこで一度も列車を乗り降りしませんでした。 それから、MY遊バスのパスポートを買ったのに、メインのMY遊バスに乗ることもなく終わってしまいましたし。
ま、まあ、この高速バスが順調だから、いいでしょう。 どころが、それから間もなくして工事渋滞に巻き込まれ、予定が大幅に遅れてしまいました。



そ、それでも、あとは高松で晩御飯を食べて、同市内にある安宿に泊まるだけなので、多少遅くなっても大丈夫ですよ。 その渋滞を抜けてから、瀬戸内海に沈む夕日を眺めたりして………



予定より1時間20分遅れて、20時過ぎに高松駅前にたどり着きました。 運転手さんはすごく謝っていたのですけど、これもやむ無きこと。 しかしそこで、私にとってはまた新たに予定外のことが起こっていたのです。それは何かと言いますと………



駅から程近いところにあるサンポート高松の向こうで、「さぬき高松まつり花火大会 どんどん高松」なる大きな花火大会が、ちょうどその日のその時刻から始まったのです。



しかも露店もたくさん出ていて、ここから先はたくさんの人で混雑していますし。 そのような中でも私は、こちらに向かっている間に検索して見つけたお店に向かうことにしました。 ちなみにそのお店とは、サンポート高松の3階にあるTMチキンというところであります。 その頃は花火大会の真っ最中だったからでしょうか?そのお店はガラ空きで、貸し切り状態でした。



それからしばらくして、私の注文した料理が運ばれてきました。 香川県といえば讃岐うどんが有名ですけど、こちらの骨付き鶏も名物となっているのですよ 骨付き鶏とは、鶏の骨付きもも肉を一本丸ごと胡椒の効いた醤油だれに浸けて焼き上げたものです。それに、とりご飯、サラダ、スープが付いたセットが1080円(税込)と、手頃なお値段となっていました。 説明しているうちに、熱々だった骨付き鶏が程よく冷めてきたので、いただくことにしましょう。  はもっ

ほわっ スパイスの効いた肉汁が口いっぱいに広がって、これはクセになる味です。 薄く味付けされたとりご飯との相性も、いいですし。切って食べられるように添えられた大きなハサミを駆使しつつ、加速度的に鶏肉を消化していく私。その私には、フライドチキンや手羽先の類いは、箸と皿があれば手を全く汚さずに食べきる特技(?)があって、今回もその手法で骨だけにしました。
お店を出た頃には花火大会は終盤で、佳境に入るところでした。そうしたら、せっかくなので観ていくことにしましょう。



この先のエスカレーターを上がっていけば特等席になると思うのですけど、そこはビアガーデンのような有料スペースとなっていました。 私は晩御飯を食べ終わったばかりで、あと数分で終わるのにそこに入るのもどうかと。それに、多少視界を遮るものがあったとしても、迫力は充分伝わってきますし。なので、この写真でご了承くださいませ。
花火大会が終わった直後には、帰路に就く人の波が押し寄せてきました。これから電車やバスに乗って帰るとしたら、大変ですよね。 それでも、私はそこから歩いていけるところにある宿を押さえてあるので、心配要りません。 それは、サンポート高松や駅からは東のほうにあって………



その途中で、ライトアップされた高松城旧東丸艮櫓(きゅうひがしまるうしとらやぐら)が見えてきました。 ライトに照らされて、暗闇の中に白壁が浮かび上がる姿は、幻想的ですね。そこからさらに歩いていったら………



ようやくたどり着きましたよ 私がこの夜お世話になる、ファーストイン高松が。 ちなみに夜ではわかりにくいので、写真は翌朝に撮ったものを使わせていただきました。こちらはサウナ付きの大浴場がメインで、カプセルルームといった簡易宿泊施設も併設されています。 しかも、1泊朝食付きで3400円と、かなりお得ときたもんだ ちなみに、気になるそのお部屋は………



※かなり広そうな和室ですね。なんか、ホテルの外観や宿泊料金と合わないのですけど……… (編集部注)
しまった 写真を間違えてしまいました。こちらは坂本龍馬記念館の本館内に再現された、京都にかつてあった近江屋の母屋の二階の部屋であります。 そちらの部屋は、自由に入ったり写真を撮ったりできるのですけど………



そこは、慶応3年(1867年)の11月15日の夜に、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所でもあります。 襲撃したのは見廻組で、彼らに致命傷を与えたのは、のちに静岡県に移り住んだ今井信郎が有力とされています。それは大政奉還からわずか1ヶ月後のことで、奇しくもその日は龍馬の33歳(満32歳)の誕生日でした。 またしても、話も部屋も横道にそれてしまいましたけど………



本当の部屋は、こうです カプセルタイプのベッドスペースは上下の二種類があるのですけど、私は上段のタイプを選びました。それに椅子とテーブルが備わった小さな部屋が付いているのですけど、ドアはなくて通路とは厚いカーテンで仕切るだけとなっていました。 なので財布などの貴重品は、その中にある鍵付きのロッカーに入れるか、フロントに預けてくださいませ。
今回の一人旅は、早いものであと1日で終わりとなります。その旅日記も次回で終わらせるつもりですけど……… なるべくきれいに締められるように、簡潔かつ丁寧に書けるように努めさせていただきます。


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高知の名所と名物を堪能いたす(高知・高松紀行その2)

2018-08-25 01:35:05 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
私はお盆休み中の一人旅の真っ只中にいて、高知県高知市に来ています。 早朝に高知駅バスターミナルに到着してから、はりまや橋や山内神社を廻り、山内容堂公の銅像の下であぐらを組んだところで、前回の旅日記は終わりましたね。ということで、今回はその続きから始めさせていただきます。 その山内神社から歩いて行けなくもない場所に次の目的地があり、徒歩10分ほどで………



高知市のシンボルともいうべき、高知城にたどり着きましたよ 手前の立派な門はお城の正門の大手門で、高知城では追手門と表記します。 慶長年間に創建されたのですけど、寛文3年(1663年)に崩壊し、その翌年に再建されました。その後方には天守が聳え立ち、それらが一緒に視界に飛び込んでくる風景は壮観です。



そのすぐ近くには、土佐藩の初代藩主となった山内一豊の騎馬像があります。前の日記に出てきた山内容堂の酒飲み像とは対称的で、勇ましいですね。
高知城は、南北朝時代の14世紀に大高坂松王丸によって築かれたのが、最初と云われています。 戦国時代には、長宗我部元親が岡豊城から移ってきて築城に取りかかったのですけど、治水に難儀してわずか3年で本拠を浦戸城に移してしまいました。その後、関ヶ原の戦いの功績で、山内一豊が土佐24万石が与えられ、遠州掛川より入国し、慶長6年(1601年)から大改築を始めました。



………といったところで、いよいよ天守のあるお城の中心部に向かいますよ その第一歩となる杉ノ段の階段下には、板垣退助の銅像がありました。彼は明治時代に自由民権運動を推し進めた政治家として知られていますけど、土佐藩出身で幕末には山内容堂の側用人を務めたりもしました。 それにしても、高知城の天守を背にして、いい場所に立っておられる。 その先の杉ノ段には………



「山内一豊ノ妻」の銅像があります。彼女は「巧妙が辻」の主人公で、内助の功としてよく知られています。 どちらかというと一豊よりも有名で、しっかりと千代(見性院)という名前があるというのに、この呼び方はどうかと………
一方の一豊は、最初は織田信長臣下の下級武士でした。そんなある時に、馬揃えというイベントがあったのですけど、彼は出たくても乗る馬がなくて出られない状況でした。 そこで千代は、嫁入りの持参金(へそくり)で駿馬を購入し、それに乗って馬揃えに参加した一豊は信長の目に留まり、そのことが立身出世のきっかけとなったのです。



その向かいには、三ノ丸の高石垣が聳えています。 最近修理を終えたばかりで、材質は主にタモリさんの好きなチャート(珪岩)を使っています。高知城といえば、現存する建物に目がいってしまうのですけど、高くて立派な石垣にも見応えがあるのですよ。
さらにもう一段上の、二ノ丸に上っていくのですけど………



その石段の途中から見た本丸方面が、絶景なのですよ 下から続いている石段や高石垣、その上に聳え立つ天守が立体的で……… 城内でも屈指の、ビュースポットとなっております。 その天守には、すでに上っている人がいるみたいですね。8月は開館時間が早まり、8時には開くみたいです。そうしたら、まだ空いているうちに、そちらに向かいますよ



本丸へは、こちらの詰門の二階部分を通って入っていきます。 ちなみに、この建物も現存していて、国の重要文化財に指定されています。



その本丸には、天守と本丸御殿が揃って現存しているのですけど、この時間帯は逆光ぎみですね。 昔からの天守が現存するお城は、高知城も含めて12城。御殿は4城で、両方ともあるのは、高知城のみとなっております。それだけではなく、門や多聞櫓なども含めて、本丸の建物はほぼ完全に残っているので、スゴいことです。
しかし、江戸時代初期に建てられたそれらの建物は、享保12年(1727年)に起こった火災で全焼してしまいました。 ただちに復旧に入ったのですけど、財政難などの理由で20年ほどかけてようやく全容が整いました。それでも、藩主や庶民に愛着があったからなのでしょうか?それらの建物は、創建当初の様式をそのまま踏襲しているのですよ。うんちくはこのくらいにしておいて、いよいよその内部に入りますよ
本丸御殿や天守、東多聞、廊下門を合わせた入場料は420円(MY遊割引きで330円)でした。それから、入ってすぐのところに冷凍庫で冷やしたおしぼりを用意してくれたのは有り難く、思わず「はああぁ~」という声が出てしまいました。



順路は、本丸御殿からとなっていました。 お城の御殿は、城主が政務を執り行ったり、生活空間となる場所で、二ノ丸御殿三ノ丸御殿よりはこぢんまりとしているのですけど、納戸のスペースや城主の指定席となるこちらの上段の間などがそのままの形で残っています。それからその左奥には、武者隠しの間という、お殿様の護衛が待機する小さな隠し部屋も備えられているのですよ。



それからちょっと見づらいのですけど、欄間には黒潮の波のような彫刻が施されていて、とてもおしゃれです。 それらを見て廻ったら、いよいよ天守へ



高知城の天守は外観3層の、こちらもこぢんまりとした建物なのですけど、内部は6階となっております。1階には床下収納があり、天守の中に天守を中心とした高知城の復元模型があるのがなんとも。



上に上がっていくにつれて、徐々に狭くなっていくのですけど、殿様気分に浸れる最上階が近付いてくることもあって、テンションはしだいに上がっていきます。



5階は窓のない屋根裏部屋なのですけど、こちらと全く同じ空間が私の地元の掛川城にもあるのですよ。 山内一豊は、高知の前任地だった掛川城も手掛けていました。 その天守をいたく気に入っていたみたいで、高知城を築く際には掛川城と同じようにするように命じたのです。平成6年(1994年)に掛川城の天守を木造で復元するにあたって、そのお城のコピーのコピーとなった現在の高知城天守を大いに参考にしたのでした。つい、暗くて狭い空間でお城噺をしてしまいましたけど、いよいよ開放的な最上階の6階に行きますよ



※白黒茶々さん、上り詰めてホッとしたからって、ここで寝ないでください。「昼寝を禁ず」となっていますよ!(編集部注)
ふああぁ~……… 吹き抜ける風が心地よくて、つい夢の世界に入りかけてしまいました。 こちらの空間も、やはり掛川城と全く同じとなっております。さらに………



外には高欄と回廊が廻っていて、そこに出れば高知市内やまわりの山々などを見渡すことができるのですよ それに、まわりに遮るような高い建物などがないので、開放的で空中散歩をしているみたいですし。
しかし、現存天守でこのように歩いて回れる回廊があるのは、高知城と犬山城だけなのですよ。豊臣政権下の安土桃山時代には、天守に回廊と黒漆塗りの高欄を付けるのが流行ったのですけど、それらはメンテナンスが大変なうえに腐食しやすかったので、しだいに疎まれるようになってしまいました。 新たに築く際には高欄&回廊を省くならまだしも、もともとそれらが設けられていた天守の最上階を、木の板で覆ってしまうところも。高知城の原本となった掛川城天守は、そのような運命をたどることになってしまいました。

しまった 絶景なこの場所で、またしても長い話をしてしまいました。そうしたら、こちらから見えるスポットを、少し紹介させていただきます。 お堀端にあるのですけど、森の上に見える大きな建物は、最近できたばかりの県立の高知城歴史博物館です。山内家に伝わる歴史資料や大名家資料の数々を展示していて、そちらからの高知城ビューも見ておきたいところなのですけど、今回は端折らせていただきます。

その東側……… 斜め左奥の、高欄の横のあたりの近代的なモダンな建物は、オーテピアという高知図書館高知みらい科学館などが併設されている施設であります。 7月下旬にオープンしたばかりで、プラネタリウム以外は入場無料となっています。そのみらい科学館には、絵本にもなったヒョウのハチの剥製があるのですよ。 私もこの機会にご対面しておきたかったのですけど、この日は月曜日で休館していました。
高知城は以上で、今度は高知名物に舌鼓を打つ段取りとなっているのですけど、その前に………



こちらも高知名物のアイスクリンを味わっておきましょう 高知市内の観光名所には、アイスクリンの出店がいくつか出ていて、高知城にも二ノ丸などにありました。ちなみに値段は200円~となっております。炎天下のお城を歩きまわったあとのアイスクリンは、ささやかなご褒美みたいで、ありがたいですね。 ちなみにそのお味のほうは素朴で、シャーベット感のある昔懐かしのアイスクリームという感じでした。



次の目的地となるひろめ市場は、高知城から程近いところにあります。天守からは判りづらかったのですけど、位置としてはオーテピアの手前となります。



こちらは新鮮な魚介類や加工品などの直売の他にも、それらを食べられるお店がフードコートのように入っています。 まだ10時台なのですけど、ほとんどのテーブルはすでに埋まっています。 そのような中でも、なんとか1人ぶんの席を確保し、森光水産というお店に行き………



やっぱり高知に来たら、鰹のたたきを食べておきたいですよね こちらの鰹タタキ定食(税込1080円)は、鰹は醤油漬けとなっていたのですけど、お店には塩たたきもあるみたいです。ちなみにお吸い物は、鯛汁にございます。そうしたら、ネギやニンニク、大葉などの薬味も添えて、いっただきま~す   はむっ
ほわっ、程よい弾力の中に旨味が凝縮されていて、美味しいですよ それに、鰹とニンニク、鰹とご飯、………など、いろいろなバリエーションも楽しめますし。 この値段で5切れはお得なほうなのですけど、至福の時間はあっという間に終わってしまいました。

ひろめ市場は昼時にもなると、さらに混雑すると思われるのですけど、その近くの商店街にも鰹のたたきを食べられるお店はあります。 さらに、店頭で食べさせてくれる魚屋もあるので、食いっぱぐれる心配はないでしょう。
お腹も心も満たされた私は、今度は市内でも屈指の観光名所となっている桂浜に向かったのですけど、MY遊バスはすぐの便がなかったので、とさでん交通のバスに乗っていきました。 所要時間は前者は約50分、後者は約30分なので、こちらで正解だったのかも。

ところが桂浜の近くで、同じ目的地に向かっていると思われる車が溢れていて、なかなかたどり着くことができませんでした。 予定時間から22分ほど遅れて、私はようやく桂浜界隈に降り立つことができました。その土産物屋をかき分けて………



いや、ちょっと寄り道してこんな坂本龍馬になってみました。 やはりこのような場面では、反対側に立って顔の向きや体の隠し方などを指導しつつ、カメラを操ってくれるアシスタントが欲しいですね。



この階段を上っていけば、有名な坂本龍馬の銅像を仰ぎ見ることができると思うのですけど……… またしてもこんないいトコで電池切れとなってしまったので、今回はこのあたりで電源を切らせていただきます。 次回の日記は、冒頭から龍馬祭りとなることが予想されるので、特に坂本龍馬ファンの方はお付き合いくださいませ。


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南国高知を目指して(高知・高松紀行その1)

2018-08-22 01:37:32 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
夏といえば、行楽の時季でもありますよね。 その中でも、お盆休みに遠方の実家や旅行に行かれた方もいらっしゃると思います。 そういう私も、毎年そのまとまった休みを利用して、お城をメインとした旅……… いや、この性格からして、乗る列車や立ち寄る場所を綿密に調べていくので、行き当たりばったりで行き先でのハプニングも楽しむというようなことは決してしません。多分、きっと。
そうしたら、肝心な目的地ですけど……… 一昨年前は世界遺産も込み込みの岩国・広島方面(山陽)、昨年はラーメンやさざえ建築も込み込みの白河・会津方面(東北)に行ったので、今回は西のほうがいいですね。 そういえば、青春18きっぷを主な移動手段としている私にとっては、高知県は在来線の便が悪くてなかなか行きづらく、もう十数年も前に訪れて以来となるので、思い切ってそちら方面にしましょう その時には、JRの臨時夜行快速列車のムーンライト高知を利用したのですけど、その列車はかなり前に廃止となってしまったので、今はありません。 というワケで、その代わりとなる交通手段は……… 私の旅にはしばしば登場していた、夜行バスにしましょう。さらに、旅の3ヶ月前には宿も予約して、計画はとんとん拍子に進んでいき、いよいよそれを実行する日となりました。

今回は神戸から夜行バスに乗っていく予定なので、18時半頃に最寄りの駅から列車に乗り込むことになります。 家族で外食してから………



二川駅で見送ってもらったのですけど……… 箔母さんと一緒にたつぴも手を振っていますね。 実は今回は彼と都合が合わなかったので、ここ数年続いた親子珍道中とはならず、私だけによる一人旅ということになりました。



本来なら、この旅で最初に乗っていく列車を撮るところなのですけど、こちらは豊橋駅で乗り換えたものとなります。 その車内には、私のような旅人や大きな荷物を持った帰省客が大勢乗っていました。新幹線や飛行機ではなくても、このような光景が見られるのですよね。 そこからもう1回、米原で乗り換え………



二川から約5時間後に、神戸市の三ノ宮駅に到着。 さらにそこからは………



先述したように、夜行バスに乗り込みます。 ひと昔前は、ブルートレインなどの寝台特急が活躍していたのですけど、あれは例えるなら走るホテルでした。 その運賃も、特急列車にビジネスホテルの宿泊代を加えたぐらいで、けっこう高くつきました。 一方の夜行バスは、走る簡易ベッドといったトコで、その運賃はビジネスホテルの宿泊代相当だけで済み、かなり手軽で格安となっております。 それでも、今回私が利用したものはリクライニングする3列独立シートタイプで、それぞれの席がカーテンで仕切られているうえに、膝掛けやスリッパも備えられています。さらに、スマホや携帯が充電できるようにコンセントも付いていて、まさに至れり尽くせりです。
しかし、いざ寝ようとしてもなかなか寝付けず、すでに消灯しているので、カーテンをめくって外の景色を眺めるのも憚られました。あ、それでもスマホのナビ機能のおかげで、現在どのあたりを走っているのかはわかりますよ。



私を乗せた夜行バスは、神戸から高速道路に入り、明石海峡大橋を渡って室津パーキングエリアで20分間のトイレ休憩と相成りました。それにしても、隣のトラックの運転手が怖い。
再び動き出したバスの中では、その環境に慣れたのか、頭のホジションが定まったからなのか、とにかく自然に寝入ることができました。 寝てしまえば、こっちのものです 時間的な感覚では一気にワープして………



次の瞬間には、バスは高知市内に入っていました。 そして予定通りに、6時ちょっと前には終点の高知駅バスターミナルにたどり着きました。 そこでまずやることといったら………



やはり朝御飯ですよ 駅に併設されているこちらのウィリーウィンキーというパン屋は、この時間には開いているのですけど、私が楽しみにしていたモーニングセットは、お盆の期間中は販売していませんでした。 そういうことなら仕方がない、美味しそうなパンを見繕って、それらにコーヒーをつけていただきましょう。
お腹が満たされたら、いよいよこちらでの名所旧跡めぐりに入るのですけど、その前に………



最近できたばかりの、高知の郷土が産んだ偉人三傑の銅像を仰ぎ見ておきましょう。 それにしても、かなり大きくて存在感がありありですね。ちなみに左から武市半平太坂本龍馬中岡慎太郎であります。しかもそれら全部の台座に「⚪⚪先生」と刻まれているので、こちらではみんなして英雄なのですね。



そうしたら、お待ちかねの観光に入りますよ 市内に点在するスポットを巡るには、こちらのMY遊バスの1日パスポート(ガイドブック付きで税込1000円)を買っておくと便利です。 市内の観光名所を廻りながら桂浜に行くMY遊バスだけではなく、路面電車まで乗り放題で、さらに別ルートから桂浜に行くとさでん交通のバスも1回だけなら利用できるのですよ それだけではなく、このパスポートを提示すると、博物館などの施設の入場料が割引きとなるので、まさに至れり尽くせりです。 例えば、とさでん交通バスで高知駅から桂浜まで普通に行くと、片道690円するので、そこを往復するだけでもとが取れ、しかも行く先々で小銭を用意しなくてもいいので、とてもありがたいです。 ちなみにこのパスポートは、高知駅のバスターミナルやみどりの窓口、はりまや橋デンテツターミナルビルなどで購入できます。
………なんて説明しているうちに、路面電車が出発する時間が迫っていたので、急げ



私は最初に、はりまや橋で降りました。 こちらは、漫画家のやなせたかしさんの出身地ということもあって、彼の代表作のアンパンマンの石像がありました。 そのすぐ近くには………



立派な擬宝珠と赤い欄干の、はりまや橋が再現されています。 私が初めてこちらを訪れた頃には、このはりまや橋が懸かっている川は暗渠となっていて、大通りの歩道の手すりが赤い欄干風となっているだけでした。



なんか、ヘンな感じで物思いに更ける人が立っているのですけど……… そうそう、はりまや橋を「はりやま橋」と言い間違える人もいるみたいですけど、これを漢字表記すると播磨屋橋となります。播磨は現在の兵庫県西部のことで、播磨屋は越後屋のようなお店の名前でした。その播磨屋がとても繁盛していて、店の前の川に私財を投じて架けたのが、はりまや橋であります。
またこの橋は、純信お馬の悲しい恋物語の舞台ともなり、民謡の「よさこい節」では「坊さんかんざし買うを見た」と唄われています。それからこのはりまや橋を、がっかり名所に挙げられる方もいるそうですけど、彼らはこの橋に何を期待されているのでしょうか? 島田市の蓬莱橋のような長さなのか、それとも川根本町の塩郷の吊り橋ほどのスリル感なのか?今日見られるはりまや橋は、モニュメント的なものとなっているので、市内随一の交通の要地に、物語を感じさせ、かつシンボル的なものとして置かれているとお捉えくださいませ。
そこから私は、さらに路面電車に乗っていき、県庁前で下車。そこから程近いところには………



代々高知城主だった、山内家の別邸となっていた下屋敷の跡があります。そこは現在三翠園という天然温泉旅館の敷地となっているのですけど、屋敷の門と長屋は現存しています。 さらにその長屋は一般に無料で公開されていて………



朝の7時から、見学することができるのですよ こちらは幕末に建てられた足軽長屋で、国指定重要文化財。その内部には、江戸時代後期の土佐藩士や、庶民の生活を知ることのできる、用具や和船の模型などが展示されています。 その勢いのまま、私はそこから西のほうに歩いていき………



鏡川沿いにある、山内神社というところにやって来ました 高知城内にかつてあった藤並神社が起源で、初代藩主山内一豊とその妻の千代を始めとした、歴代の土佐藩主を祀っていて、昭和9年(1934年)に現在地に移転&変遷。現在の社殿は、昭和45年(1970年)に建てられました。 さらにその境内には………



平成14年(2002年)に建立された、山内豊信(容堂)の銅像があるのですよ 彼は土佐藩の15代藩主で、慶応3年(1867年)に坂本龍馬が発案した「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白したと云われています。 銅像の台座には、「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」と刻まれているのですけど、ギヤマンの盃で一杯やっていますね。 彼は酒と詩をこよなく愛し、自らを鯨海酔侯と称していました。



その一方で「酔えば勤王、醒めれば佐幕」とも言われ、態度がハッキリしない面も。 さらに、土佐勤王党のリーダーで坂本龍馬の親友でもある武市半平太をさんざん利用しておいてから処刑し、その党を崩壊させたこともあって、漫画の「お~い!竜馬」ではあまり良く描かれていないのですよね。



なんか、妙な旅人が近付いてきたのですけど。
その酔鯨殿は、明治に入ってから政府の要職に就いたのですけど、低い身分出身の役人を受け入れることができず、すぐに離職。 その後は酒に溺れ、明治5年(1872年)に酒の飲み過ぎによる脳溢血で、46歳で亡くなったそうです。どちらかというと彼は嫌われキャラなのですけど、大好きな酒を飲んで緩くなっている姿は、どこか憎めません。

まだ高知の本命は出ていないのですけど、そのプロローグというか準備段階でかなりの行数を使ってしまい、かなり長くなって夜が更けてきたので、このあたりで一旦仕切らせていただきます。 それでも、次回には⚪⚪城や坂⚪⚪⚪が出てくるので、引き続きこの旅日記にお付き合いくださいませ。


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洞穴企画の締めは愛宕平古墳ナリ

2018-08-18 00:59:35 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
早いもので、私と波による夏の洞穴探検企画は、今回が最終話となります。
※洞穴めぐりが今回は「探検」にすり変わっていますよ。それはまあいいとして、とにかくきれいに完結させてくださいませ。(編集部注)
古墳や鍾乳洞などの洞穴を求めて、浜松市北区三ヶ日町のあたりを巡っていた私たちは………



今回はみかんのトイレがある天竜浜名湖鉄道の駅にやって来ました。 確かに、このあたりは三ヶ日みかんの産地なのですけど。 ちなみにこれ以外には、三ヶ日牛、浜名湖のうなぎ、繋がりが不明な象のトイレなどがあります。



こちらは東都筑(ひがしつづき)駅で、白黒茶々家が大晦日にゆりかもめに餌付けをしている浜名湖佐久米駅の1つ西にある、無人駅であります。



待ち合い室も昔ながらで、特に長椅子にはレトロ感があります。



さらに、そのホームに出てみました。 列車は朝夕は上下線ともに1時間に2本ずつなのですけど、日中はそれぞれ1本の間隔となっております。それからしばらくして………



貴重な列車がやって来ましたよ 今回は波連れで他に目的があるので乗らないのですけど、気を抜いていたらついつい引き寄せられて乗車してしまいそうです。



話の前フリはこのくらいにしておいて、そろそろ今回の目的地に向かいますよ 東都筑駅のすぐ東側には、踏切とその向こうに東名高速道路を潜るトンネルがあります。 北に向かってそれらを通過していくと………



トッパンパッケージプロダクツという会社の手前に、古墳の石室の入口らしきものが見えてきましたよ



しかし、勢い余ってちょっと行き過ぎてしまいました。というよりは、石室愛好家(?)の皆さんが待ちわびていることをいいことに、つい焦らしてしまいました。 ちなみにこの石碑は、この地方に畳表産業を導入・普及させた玉庵禅師という人の頌徳碑であります。



………ということで、大変お待たせしました。 いよいよ愛宕平古墳の登場となります こちらの古墳は7世紀後半に造られた直径約11m、高さ約2mの円墳であります。都築神社の山麓の愛宕平一帯には古墳が群集していたのですけど、現在はこの1基しか残っていないのですよ。 さらに、その石室の入口は固く閉ざされているのですけど………



なんとか内部の様子を撮ることに成功しました。 そこからは、勾玉・直刀・須恵器が出土したと伝えられているのですけど、現在それらは所在不明となっています。
※それよりも、この写真はどう見ても外から覗き見たって感じではないのですけど。(編集部注)
それは……… きっとカメラが勝手に飛んでいって、内部を写して戻ってきたに違いない、うん



※石室の中に、波ちゃんも入っているではありませんか!こうなったらもう言い逃れはできませんよ。(編集部注)
………はい、波も道連れにして、古墳に侵入しました。 それはさておき、こちらでも石室の立派な構造を観察して、無事に今回のミッションを終えることができました。しかし、この薄暗い密室の中で締めるのもナンなので………



私たちはそこから程近いところにある、東名高速道路の浜名湖サービスエリアに場所を移動しました。 夕方なのですけど、賑わっていますね。ひょっとしたら、旅のスピッツと行き逢えるかも………



………ということを意識していると、ほとんどの場合何も起こらないのですよね。 そもそもこの日は、ワンコ連れも少なかったですし。それよりも、スピッツが稀少種だということを忘れてはいけません。
オフ会やワンコイベントをおこなうにはまだ厳しい時季ではあるのですけど、皆さまも私たちのように(?)涼しい場所を見つけたりして、乗りきってくださいませ。………と言いつつも、私と波が訪れてきた古墳や鍾乳洞のような洞穴に興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非お申し付けくださいませ。 私たちが奥のほうまでグイグイとご案内いたしますので。


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波ちゃ初めての鍾乳洞

2018-08-15 00:05:11 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
箔波日記が洞穴シリーズに入ってから、ちょっとブラックな古墳の石室が続いたので、そろそろ多少は広いところに行こうということになりました。 「起承転結」の位置付けでは、今回は「転」に当たるので、ここは心機一転して浜名湖を一望できる高台のお花畑……… といきたいところなのですけど、やはり洞穴にこだわらせていただきます。
※また暗くて怖いところには行かないでくださいよ。それよりも、洞穴シリーズは次回まで続くのですか!?(編集部注)



今回の目的地への道順としては、愛知県新城市に至る国道301号線を北上していき、さらに宇利峠に行く途中にある平山小学校付近から農道を西に入っていくのですけど、台風12号が通過した直後ということもあって、その道には木の枝や葉っぱが散乱していました。 もしこの先が倒木や土砂崩れで塞がれていたら、ムリはしないで引き返すようにします。



………なんて言ってみたのですけど、なんとか到着することができました。 ということで、私が思い描いていたネタは打ち切ることもなく、実行できそうです。その道沿いに「祥月洞」と描かれているのが、おわかりでしょうか?そこから山に続く坂道を上っていくと、その洞穴はあるのですけど、果たしてこちらではは喜んでくれるでしょうか?



もうタイトルからしてバレバレですけど、「祥月洞」とは平山祥月洞という鍾乳洞のことであります。 こちらの洞穴は、平成4年(1992年)1月1日に地元の農家たちに発見され、元日でめでたいということから平山祥月洞と名付けられました。
竜ヶ岩洞のような観光鍾乳洞ではなく、農家たちによって現在でも発掘&整備がおこなわれているそうですけど……… 入口付近は草が生い茂っていて、かなり長い間人が踏み入った様子はありません。 それから休日に訪れれば、洞穴愛好家の農家のおじちゃんが気さくに案内してくれるそうですけど、そのような方は見当たらないのですよね。



なので、今回はムリのない程度に見学させていただきます。 平山祥月洞は、こちらの1号洞の他にも、山の中腹に口を開けている2号洞もあるのですけど、そちらは通路に狭いところがあったりして中級者向けなのですよ。さらに3号洞もあるそうですけど、そちらはどこから入ったらいいのかわかりません。今回は私は波連れなので1号洞だけにしておきます。
その洞内は天然のクーラーなうえに足元には冷たい地下水が流れているので、真夏に涼むには絶好の場所であります。なので、私に導かれれば、波も喜んで入っていくと思っていたのですけど、彼女は怖がってイヤイヤをしたのです。



真っ暗な穴の中から水が流れ出ていて、なんかゴボゴボ言っていますし……… 初心者が中に入るのには、ちょっと勇気がいるのかも知れません。 それでもせっかくここまで来て、波ちゃにも鍾乳洞の魅力を味わってもらいたかったので、私は彼女を抱えてその穴に入っていきました。



その途中の適当なところに波を降ろして、証拠写真をば。 まだ彼女が生まれる前の話になりますけど、私はを連れて浜松市天竜区にある小堀谷鍾乳洞というところに入ったことがあります。そちらはいちおう観光鍾乳洞となっていて、無人で見学用の照明はセルフ方式となってはいるものの、足場は舗装されていて、ワンコが泥まみれになる心配はありません。



その一方で、観光地化されていない洞穴は、汚れる覚悟をして入らなければならないのですけど、平山祥月洞(1号洞のほう)はそこそこ広くて下に水が流れているので、その心配はないのですよ。 それでも、いちおう長靴等は用意しておいてくださいませ。



その最深部に差し掛かったところで、コウモリが飛び出してきましたよ そう、前回の日記の最後で予告した「⚪⚪⚪⚪がパタパタと飛んでいる」の4文字は、コウモリだったのですよ。しかし、彼らの動きがあまりにも速すぎて、写真に収めることはできませんでした。いや、うまく撮れたとしても、自主規制でモザイク加工をせざるを得なくなるのかも。
それから、ここから先は埋もれていて行き止まりとなっているのですけど、水が流れ出ているので2号洞と繋がっているのかも知れません。



引き返す途中で、もう1ヶ所波を安全なところに乗せてみたのですけど………



このまま帰るのもナンなので、地下水の流れの中に波ちゃを降ろしてみました。喜んでいるかどうか、微妙な表情ですね。 そういえば、今まで彼女はプールはおろか海や川で水遊びをさせたことがなかったような気がします。ヴィヴィアル家に弟子入りするのには、水練の心得が必須だというのに。

それはともかくとして、今まで体験したこともない環境で、少なくとも涼むことはできたと思います。 せっかく地下水の清流で足先と心を清めたのですけど、今回の日記の冒頭で伏線を張った通り、次回は私たちにとってはまた新たな古墳が登場します。 洞穴探訪シリーズの最終話となる次回の調査報告書、いや、日記。せっかくなので、その際には周辺も巡ってみようと思います。


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廃校とみかん畑と石室と

2018-08-11 01:27:44 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
真夏に突然巻き起こった洞穴(マイ)ブームのまっただ中にいるは、次の目的地を目指して愛知県から本坂トンネルを経て、静岡県側に入っていきました。 その浜松市北区三ヶ日町の国道362号線沿いには………



旧三ヶ日町立西小学校日比沢分校がありました。 日比沢分校は、明治31年(1898年)に西浜名村立西浜名尋常高等小学校日比澤分教場として開設されました。 昭和25年(1950年)に建造された木造平屋の校舎は、昭和44年(1969年)に閉校したあとも残っていて、町工場に転用されていたのですけど………



この日久しぶりに訪れたら、その建物は跡形もなくなっていました。



あれっ 確かこの場所でしたよね。数年前にはまだあって、次にこちら方面に来る機会があったら、スピッツを連れてきて、分校校舎をバックにして昭和のノスタルジックな風景を撮りたかったのに、まさかこのようなことになっていたなんて……… これは、昭和の廃校(マイ)ブームの前兆なのでしょうか?とにかく、学校としての役割を終えた建物はいつ姿を消すのかわからないので、近いうちに巡ってみようと思います。



そのような中でも、二宮金次郎像はまだ健在でした。 こちらの像は、戦前は銅製だったのですけど、戦時中の金属供出によってコンクリート製になったそうです。



それでもこの金次郎さんは、こちらがかつて分校だったということを伝える証人でもあるので、これからもこの場所に居続けてもらいたいです。 ただし、夜に勝手に無表情のまま動き出すっていうのだけは、やめてくださいよ。



その廃校から近いといえなくもない浜松市北区三ヶ日町の釣地区の道の脇には、このような案内看板が設置されています。 その矢印に誘惑されて、入っていくと………



(釣)西山古墳群の案内板と、少しばかりの見学者用の駐車スペースがありました。 それらの他にも、すぐ手前の岩場は古墳の残骸とのことですけど、これは石室の石なのでしょうか?



ここから目的地の西山古墳までは、歩いていきます。 まわりは現在みかん畑となっていますね。いうまでもなく、こちらは三ヶ日みかんの産地でもあります。



そのみかんの木をかき分けるようにして………
もしそれらが実っている時季に訪れていたら、私の悪い手が美味しそうなみかんを失敬する恐れがあります。 もしその現場を押さえられたとしたら、何を聞かれても言い訳などしないで「みかん 」と答えるようにします。



………なんて妄想をしているうちに、西山古墳にたどり着きましたよ 大木が生え、古い案内看板がある小さな丘が、その古墳です。こちらの古墳は、7世紀に築造されたと推定されていて、直径14,5m、高さ4,5mの円墳であります。 さらに、その中腹には………



石室に入れる穴が開いているのですけど……… 羨道は土砂で埋まっていて、その天井石が1ヶ所だけ外されていて、そこから入れるようになっています。それにしても、私が思っていたよりはかなり狭く、這う姿勢でいかなければ通過できませんよ。さらにその先は漆黒の闇となっていて、さすがの私でも少し躊躇してしまいました。 波も不安そうですし。 こうなったら………



思い切って入ってしまいましょう 入口というか、侵入路のあたりは土砂が堆積しているのですけど、奥に行くほど広くなっていました。 ただし中は真っ暗で、カメラのストロボかスマホのモバイルライトで照らして、ようやく石室の石積みの様子を観察することができました。



そんな私に波ちゃも付き合わされて大変……… というか、私に付いてきてくれて、感謝しています。
西山古墳は明治初年に発掘され、その周囲からは円筒埴輪が、石室の内部からは刀身の破片や須恵器が多数出土したと云われています。しかしそれらは散在してしまい、現在は残っていません。



そうしたら古墳の登頂部に立って、今回の調査を締めることにしましょう。 かつてはこのあたり一帯に17基もの古墳があって、古墳群を形成していたのですけど、それらはみかん畑の開拓によって破壊され、現在はこちらの西山古墳と、駐車スペースのところの2号墳の残骸しか残っていません。
それよりも、こちらはちょっとした高台となっていることもあって、まわりに広がっているみかん畑を見渡すことができますよ。 暗くて狭いところもある石室の中から這い出てきたので、より開放的に感じます。とはいっても、決して石室内では怖かったとか不幸だったというワケではありませんよ むしろ私は自ら好んで入っていきましたし、その内部は涼しいと言えなくもなかったですし、波も私と一緒なら安心していたでしょうし………

次回は一転して、自然が造形した岩の下に小川が流れ、⚪⚪⚪⚪がパタパタと飛んでいるようなところに行きます。 も行ったことがなかったその場所に波を連れていったら、彼女は喜ぶでしょうか? そこは古墳の石室ではないのですけど、地下の空間ということだけはお伝えしておきます。


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洞穴ブーム再び(馬越火塚古墳郡)

2018-08-08 01:15:37 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
8月に入ってからも、暑い日が続いていますね。 なかには「『暑いですね』という挨拶はもう聞きたくない」とか、「『暑い』と言ったら罰金」という方もいらっしゃると思います。 そういう私は、7月は炎天下の中でも毎週のように高校野球の観戦に行っていて、と行動を共にすることがほとんどありませんでした。 その彼女は、あまりの暑さにグッタリしているのかと思いきや………



私が休みで家にいる日は落ち着かなくて、勝手にお出かけしたいモードになっていました。 とはいっても外は暑いので、あまりワンコを連れて行けるようなところはないですし………
いや、涼しくて歴史への誘いもできるところがありました 私は最近、その存在を知ったばかりなのですけど、いずれは洞穴好きなワンコ友達も案内できるようにしたいと思っていました。 ということで、この機会にその下調べも兼ねて、波と一緒にそこを訪れることにしました。

その洞穴……… といっても、すでに今回の日記のタイトルにも出ているのですけど、そいつは愛知県豊橋市の市街地の北東の外れの石巻本町にあります。私のいる静岡県側からは、国道362号線を西に走っていき、本坂トンネルを潜った先にある石巻中学校のところにの交差点を右に曲がり、県道81号を北上していくと………



その道沿いに、このような案内看板があります。 下の注意書きを無視して、乗っていった車でその細道に入っていったら、すぐに後悔。 古墳に至る道はあまりにも細くて、軽トラックぐらいしか通れないみたいです。
※現在、案内看板から逆方向に入っていったところに、見学者用の駐車場が設けられています。古墳に行くには、そこに車を止めて7分ほど歩いていってくださいませ。(編集部注)



………ということで、車を乗り捨てた後に、先ほどリタイアした地点から仕切り直しと相成りました。 こちらにも目的地の名前が出ているのですけど、おかげで迷わずに行けそうです。



その古墳までは、柿畑の中に続いている道を歩いていかなければならないのですけど、木陰などがないので暑くて少々キツいです。 それでも、そのまた先に小さい丘と何かの看板が見えてきましたよ 波どん、あと少しぢゃ。ちぇすとー きばりや。………じゃなくて、とにかくガンバレ



とかなんとか気合い入れまくっているうちに、たどり着きましたよ こちらは、馬越火塚古墳郡の中心となっている、馬越火塚古墳であります。 こちらの古墳は、6世紀末から7世紀初に造られた前方後円墳で、この地方の豪族の穂国造(ほのくにのみやつこ)のお墓と考えられています。



その各所には、このような説明板が設置されています。 私たちは、後円部から入ったみたいですね。それにしても、まわりの柿畑から古墳に吹き抜ける風が涼しくて、心地よいです。



さらに、前方部にやって来ました。 手前はやや低めに四角く土盛りされていて、その後方に円くて高めの小山があるのが、おわかりでしょうか?



その前方部の上に登ってみたら、より前方後円墳っぽく見えてきました。 こちらの古墳は全長が70mと、豊橋市内では最大規模で、平成28年(2016年)に国の史跡に指定されました。それだけではなく、そこから出土した金銅装馬具や玉類、須恵器などの副葬品は国指定重要文化財となったので、二冠ということに



先ほどの前方部の上をずいずい歩いていったら、再び後円部にたどり着きました。 さらに、その横っ面(つら)となる右側には………



羨道を伴った石室が口を開けています。 その長さは、埋蔵保存されているぶんも含めると17,4mもあって、こちらは愛知県内では最大規模とのこと。もちろん、今からその内部に入っていきますよ 波は少々ビビっていますけど、これも歴史案内犬に任命された者の宿命。腹をくくって、私に付いてきなさい。



それにしても、立派な石室ですね 地下に設けられた石積みの空間ということもあって、その内部は夏でもやや涼しいです。私の思惑通り、こちらは「涼しくて歴史への誘いもできるところ」となっていました。 しかしよく考えてみたら、古墳の石室は大きな墓穴みたいなものでした。なので、違う意味での涼しさもあるような……… そういうこともあって、箔母さんはこのような穴には決して入ろうとはしません。一方の私は、冒険心が掻き立てられるので、進んで潜っていきます。



その広さと歴史を堪能したら、外に出よう……… と思ったのですけど、その日の天気は台風の直後で不安定ということもあって、雨がザアッ ときてしまいました。ということで、しばらくの間その石室で雨宿りをすることに。



これにて、馬越火塚古墳の調査は終了 しかしせっかくなので、最頂部となる標高5,5mの後円部に上ってその高さを確かめてから、その古墳をあとにしました。
国の史跡に指定されたことに伴い、馬越火塚古墳は大塚南古墳口明塚南古墳のも含めた古墳群として整備されることになりました。 2030年を目安にして、古墳の調査&保存はもちろんのこと、散策道を整えたり、ガイダンスセンターやトイレ、駐車場などを設置したりするそうです。それらの古墳がこれからどのように発展していくのか、目が離せませんね。

オマケといってはナンですけど、もう1古墳紹介させていただいてもよろしいでしょうか?
※皆さまから有無を聞く以前に、「古墳」が単位になっているような……… (編集部注)



馬越火塚古墳から行くと、県道81号の向かい側となる東の方には、このような案内看板があります。 宮西といえば……… 私は真っ先に、宮西尚生選手のことを思い浮かべました。彼は北海道日本ハムファイターズの中継ぎ投手で、10年連続50試合以上に登板。 今シーズンもすでに21ホールドをあげている鉄人、いや、鉄腕です。



それはさておき、その細道を東に進んでいくと、素戔鳴神社に行き当たります。 この神社の西側には………



道に向かって古墳の石室が口を開けているのですよ。



はい、こちらが案内看板に出ていた宮西古墳であります。今から約1400年前に造られた円墳で、直径約12m高さ約2mの規模でした。しかし、道路を通すために古墳の南側と石室の入口の羨道が削られてしまいました。それから、鉄の扉で塞がれているってことは、中には入れないのでしょうか?



その石室内は昭和54年(1979年)に発掘調査がおこなわれ、ガラス製勾玉、琥珀製棗玉、耳環などの装身具、太刀、鍔、刀子などの鉄製品、甕などの須恵器が出土しました。



あれっ?波ちゃも一緒に中にいるっていうことは……… きっと私たちの「中に入りたい」という気持ちが、鉄の扉をすり抜けさせたに違いない、うん

夏の肝試しシリーズということで、私と波の洞穴めぐりはまだまだ続きますけど、次回はどのような穴に潜入するのでしょうか?
※白黒茶々さん、夏でも涼しい洞穴が、いつの間にか肝試しにすり変わっていますよ。 (編集部注)
とにかく、読者の皆さんはいろいろと想像しながら更新をお待ちくださいませ。


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台風の前の手筒花火

2018-08-04 01:08:13 | 年間行事
こんばんは、白黒茶々です。
夏といえば、花火が真っ盛りな時季でもあります。 しかし、全国各地で花火大会が予定されていた7月最後の週末を狙っていたかのように、台風12号がやって来てしまいました。 しかも、上陸後は東から西に移動するという、変化球台風ときたもんだ



白黒茶々家はまわりの樹木の枝葉が庭に飛んできた程度で済んだのですけど、皆さんのところは被害などなかったでしょうか?
話は変わって、その前日の金曜日に隣町で手筒花火がおこなわれていたので、私は観に行くことにしました。



………という流れで、やって来ましたよ 手筒花火の会場となっている、市立新居(あらい)小学校に。 現在の時刻は、19時46分。その花火は始まったばかりなのですけど、会場にはたくさんの見物客が来ております。ちなみにこちらの学校は、私の母校でもあります。



まずは、暗闇の中に佇んでいる二宮尊徳さんにご挨拶。真夜中に歩き出す尊徳さんもいるという話をよく耳にするのですけど、こちらの彼はどうなのでしょうか?いや、もしかしたら翌朝になったら、背負っている薪が手筒花火になっているというオチがあるかも。 とにかく、心霊スポットの巡礼(?)はこのぐらいにしておいて、いよいよ本命の手筒花火に向かいますよ



反射して校舎が真っ赤に染まっているというよりは、明るく光っているその向い側では………



夜空に手筒花火の火の粉が舞い上がっていました。 手筒花火とは、乾燥させた竹筒にムシロや縄を巻き、火薬を詰めたもので、その花火を上げる若い衆が警察の講習を受けた後に自分でやるか、地元の町内が仕上げるそうです。 手筒花火といえば、豊橋市の吉田神社のものが有名で元祖なのですけど、あちらの花火は点火したあとは直立不動で抱え、「はね」という底が抜けたところで終了となります。



一方の遠州新居の手筒花火は、江戸時代中期に吉田神社から伝わったと云われています。 その流れをくみながらも、こちらは点火した花火を脇に抱えながら、練り歩くスタイルとなっております。 また、その際には「ソラダセ、ダセヨー 」という威勢のいい掛け声も出しているのですよ。火の粉を浴びながら、4mほどの火柱が上がる逆噴射を片腕だけで支えるのは、かなりの力がいるハズ。私も若い頃に一度はやっておきたかったです。



その上空には、ときおり打ち上げ花火が そのうちの一部を、なんとかカメラに収めることができました。



そうしているうちに、同時に次々と花火に点火していく「乱点け(らんづけ)」と呼ばれるものに入っていきました。 遠州新居の手筒花火は2日間に渡っておこなわれ、初日となるこの日は「試み」といって、花火の出来栄えを確かめる意味が含まれています。その2日だけで2000本も上げるというだけあって、この乱点けはかなり長く続きました。



そして、参加している6つの町内が同時に点火する「6本揃え」でもって、手筒花火は締められました。今回は台風の前とはいっても、火柱を煽るような強風が吹くようなこともなく、きれいに上げることができたと思います。



しかし、まだ終わりではありません。この後に「試み」にだけあるお楽しみが用意されているので、帰る前に皆さんも観ていってくださいませ。
………なんて言っているところで、若い衆が長い棒の先に花火を点けて乱舞……… というよりは、陽気にスキップしております。 彼に続く連中も、やはりスキップしてますね。 このときにも太鼓とともに「ソラダセ、ダセヨー 」が聞こえてきました。ちなみにこれは、聖火ランナーのトーチみたいなもので………



彼らは、この日のために作られた細工花火に点火しました。その直後に「サッカーのキャラクターの何か」の絵柄が浮かび上がることになっているのですけど、私にはアレしか思い付きませんでした。 果たして、その答えは………



これが最もよく撮れた写真なのですけど、皆さんはおわかりでしょうか?絵だけでは不安なのでしょうか?下に「つばさ」という字もありますし。 はい、正解は「キャプテン翼」の主人公の、大空翼君であります 「キャプテン翼」とは、サッカー漫画の金字塔ともいうべき人気作品で、翼君はボールとお友達。 また、彼がゴールを目指して走っていくと、グラウンドに地平線が見えるのですよね。 それから、登場人物の顔がみんな同……… も、もごっ………
※白黒茶々さん、そう思っていてもそこから先は絶対に言ってはいけません!(編集部注)



細工花火のあとは、櫓に固定された3本の大筒に点火されて、それらの天を突くような火柱を観て、手筒花火の初日となる諏訪神社奉納煙火の「試み」は終了となりました。

翌日に予定されていた、新居中学校での手筒花火は台風の後に延期されたのですけど、滞りなくおこなわれたのでしょうか?私は毎年、細工花火につられて初日のほうだけに行ってしまうのですけど、いつかは2日目のほうにも足を伸ばしてみようと思います。


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映っちゃった♪フレ~フレ~大平台!

2018-08-01 01:27:44 | 野球ネタ
こんばんは、波ですワン
7月下旬の日曜日に、お父さんなみを家に置いて、たつぴ君と一緒に高校野球を観に、球場に行ってしまったのなの。



その試合はテレビで中継されているので、もしかしたらスタンドで応援しているお父さんとたつぴ君が映るかもと思って、ずっと観ているのなの。 お父さ~ん、そちらの様子はどうですかなの~?

はい、白黒茶々です。
波から話を振られたので、ここは今私たちがいる⚪⚪球場から現地レポートをする流れなのですけど、皆さまにもわかりやすいように、話は15日前の第100回全国高等学校野球選手権記念静岡大会(な、長い )の開会式にまでさかのぼらせていただきます。 開会式といえば、参加校が入場行進していき、その球場に勢揃いする光景が圧巻なのですけど………



やはり選手宣誓も見逃せません。 抽選を経て、今回その大役を担ったのは、たつぴの母校の浜松大平台高校大桑主将でした。そのような場面では、たくさんの人に注目されてテンパるところなのですけど、彼は堂々と落ち着いて「節目の大会に恥じぬよう最後まで諦めずに戦い抜き、未来につなげていく」ような内容を、ノーミスで宣誓しました。この経験は試合にも生かされたみたいで、最後まで諦めない粘りでチームを引っ張り、初戦を突破したのです。



それによって、私はたつぴと一緒に浜松大平台高校の2回戦の試合を観に行くことになりました。 その試合がおこなわれるのは、こちらの島田球場。暑い中だったのですけど、私たちは待ちきれなかったので、前の試合からその球場に詰めていました。 しかし、そちらの試合には地元愛が並大抵ではないほど強い島田商業高校が出ていたこともあって内野席はほぼ満席で、外野席も無料解放されるほど賑わっていました。 ちなみにその対戦校は、富士高校でした。

その試合が終わったときに、たまたま私たちの後ろの席の人の会話が聞こえてきました。 「次の試合は、韮山(高校)と浜松だい……… 何て言ったっけ?名前はあまり聞いたことがないけど、新しい学校だったよね」 私たちは「浜松大平台だよ 」と声を大にして伝えたかったです。 確かに、韮山高校は甲子園の出場経験もある伝統校&名門校なのですけど、大平台高校は創立13年目の新参者。 それから夏の大会は、たつぴが1年生のときの4回戦進出(ベスト16)が過去最高記録となります。



それだけではなく、島田商の出番が終わるとともに観客がゾロゾロと帰っていってしまい、球場がガラ空きに。 遠方のチーム同士がその中間地点の島田市で対戦するのでやむを得ないのですけど、こちらもきっと面白い試合になるから、みんなも観ていこうよ~



さらに私たちに追い討ちをかけるように、大平台の応援席も少ないような……… たつぴによると、1回戦は1年生は全員参加なのですけど、2回戦以降は自由みたいです。その1回戦が炎天下の中での延長14回の長い試合だったので、懲りた人が多かったのかも知れません。ま、まあいいでしょう 私たちが彼らのぶんまで盛り上げるので。 そうしているうちに、試合が始まりました。



先攻の韮山は青野君、後攻の大平台は佐藤君の先発で始まったこの試合。 2回裏に大平台がスクイズ(バントで3塁ランナーをホームインさせる戦法)で1点を先制しました。



対する韮山は6回表に1点を返し、同点に追い付きました。 高校野球の流れは自由自在に変わるので、このまま韮山に持っていかれてはいけない 大平台はなんとか韮山の後続を絶ち、その裏の攻撃に望みを託しました。



1塁にランナーを置きながらも、その回はすでに2アウト。写真には開会式で選手宣誓をした大桑君が写っているのですけど、ここで打席に立ったのは長打力もある畑君。なんと彼はボールをレフトスタンドに叩き込み、3対1と再び大平台が勝ち越しました。



そよか~ぜ~の~かおりのなかにく~る~まれ~て~………」
大平台高校は得点する度にアップテンポで校歌を歌うのですよ。 その際に私とたつぴは、肩を組んで左右に揺れる動きはさすがにテレがあってできなかったのですけど、一緒になって声高らかに校歌を熱唱しました。



佐藤投手はそのリードを守りきり、そのまま大平台が勝ち、2回戦を突破しました。 ちなみに今回は、1時間37分の省エネ試合となりました。そういうこともあって、父兄の方からも「今日は早く帰れる」という声が聞こえてきました。

浜松大平台高校の次の3回戦の相手は、浜松湖東高校。両校は近いこともあって、練習試合などで何回か対戦したことがあり、お互いのことをよく知っているそうです。 果たして、その試合の行方は



浜松大平台高校がなんとか振り切り、4回戦進出を決めました 3年ぶりの快挙ですね。その次の大平台の出番となる4回戦は、次の日曜日に予定されていました。



しかし私は炎天下の中、3週連続で球場での野球観戦はキツく、その試合は地方局のテレビ中継があるので、お茶の間で観られればいいと思っていました。 そのような中で、たつぴと高校野球の話になったのですけど、私の「大平台、勝ったね」から始まり、彼は「(4回戦をやる)草薙(球場)に(父ちゃんは)行くの?」と振ってきました。 「たつぴは行きたいのかい?」逆質問したら「できれば(行きたい)」と。そういう私も、実は行きたかったので、次の日曜日は急遽予定を変更して、たつぴと一緒に浜松大平台高校の応援に行くことにしました。



………ということで、やって来ましたよ 県営草薙球場に。こちらは、昭和9年(1934年)に日米野球で沢村栄治ベーブ・ルースと対戦した、伝統の球場でもあります。



さらに数年前に大改修がおこなわれ、両翼100m、中堅122mの国際規格を満たす、立派な球場となりました。 こちらを舞台にして、この日はどのような勝負がおこなわれるのでしょうか?

そうそう、大平台高校の対戦相手は、シード校(春の大会で上位に入ったので、組み合わせなどで優遇される)の島田商業高校(略して島商)であります。そう、大平台とは2回戦の島田球場でもご一緒していて、戦前に夏は4回の甲子園の出場経験がある、いわゆる古豪です。 昭和15年(1940年)の夏には甲子園で準優勝し、翌年も地方大会で優勝したのですけど、戦局が悪化して甲子園での大会は中止となってしまいました。
相手のほうが格上なのですけど、この試合に勝てば大平台にとっては初めてのベスト8になるので、頑張ってもらいたいですね。 そうしているうちに、いよいよその試合が始まりました。果たして、勝負の行方は………



初回にヒットなどで1点を先制した島商は、さらに4回表にも足を絡めて2点追加し、3対0とリードを広げました。



さらに、島商の放ったファールボールが、3塁側の大平台の応援スタンドに飛び込んだのですけど……… その際に、打球の行方を追っていたテレビカメラが、私とたつぴの姿も捉えていました。



対する大平台も負けていません。その裏にタイムリーヒットでランナーを返し、3対3の同点に追い付いたのです もちろん、その際には「 そよか~ぜ~の~かおりのなかにく~る~まれ~て~………」の校歌も飛び出しましたよ



それから応援レポートでは、開会式で選手宣誓をした大桑主将の両親がインタビューされていました。 その後ろのほうには、なんと私の姿が レポーターのお姉さん、ついでに私にもマイクを向けてくださいませ



その後は膠着状態が続き………
たつぴは仲のよかった後輩を見つけ、彼と一緒に応援することにしたみたいです。試合のほうは、1アウト1塁3塁など、大平台に勝ち越しのチャンスもあったのですけど、得点に結びつけることはできませんでした。 そして、試合は9回の攻防へと移っていきました。



9回表の島商の攻撃。大平台の佐藤投手は、2アウトまではあっさりと取ったのですけど、デッドボールでランナーを出し、その直後に連続で長打を打たれ、2点のリードを奪われてしまいました。
しかし、まだ諦めてはいけません その裏の大平台の打順は、2回戦で外野スタンド決勝打を叩き込んだ畑君からです。彼は私たちの期待に応えて、2塁打で出塁しました。 大平台の反撃開始なるか



しかし、あとのバッターが凡退し、3対5で浜松大平台高校は負けてしまいました。 ヒット数は島田商業高校の半分だったのですけど、勝負の行方は最後までわからず、古豪、いや、強豪校を相手に善戦しました。
別の場所で最後まで声を枯らして声援を送っていたたつぴにも、悔しい気持ちはあったのですけど「島商には、大平台のぶんも頑張って、甲子園に行ってもらいたい」と言っていました。彼の応援が届いたのか、その後も島田商は勝ち上がっていき、常葉大学菊川高校との決勝戦に挑むことになりました。



その試合も、1点を争う展開となったのですけど、最後に島商は力尽き、6対5でサヨナラ負けしてしまい、戦後初となる78年ぶりの甲子園出場は叶いませんでした。 一方の常葉大菊川は、2年ぶり6回目の出場ということに。その日、結果だけ知らされた私は、失礼ながら「残念でつまらない結果」と言っていました。
しかし、家に帰って録画しておいたその試合の中継を観ていたら、その勝負にかける両チームの選手や応援団たちの熱い想いが伝わってきて……… 強豪校も、新鋭校も、弱小校も関係ありません。 どの高校球児も野球が好きで、遠い近いはあっても、甲子園に憧れていることに変わりはありません。 その甲子園での大会となる、第100回全国高等学校野球選手権記念大会(やっぱり長い )は、8月5日に開幕します。 今度は郷土の代表校となった常葉大菊川がどこまで行けるのか気になるのですけど(先頭打者の奈良間君は打率が9割近いので、要注意ですよ~ )、高校野球の1つの試合、1つのプレーにもドラマがあるので、そのあたりも最後まで観ておきたいです。


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