波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

復讐の城・田峯城

2020-02-29 02:25:40 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

今月初旬の日曜日に、私がを伴って行ってきた新城・設楽方面の歴史散歩。 その第5弾となる今回が、最後となります。ということで、私たちは前回の日記の予告通りに田峯(だみね)城を訪れることになるのですけど………

そのお城は、私が五平餅に舌鼓を打った田峯直売所だけではなく、日光寺処刑場など、田峯のあらゆる場所から眺めることができます。 実は私は田峯城の存在は以前から知っていたのですけど、実際に訪れるのはこの日が初めてだったのですよ 皆さまもその新鮮で流行る気持ちを抑えつつ、私についてきてくださいませ

………という流れで、私たちは田峯城の真ん前まで来ました。 空堀に架けられた木橋を渡ったところが、このお城の正面入口となる大手門跡であります。

このお城を防御する空間となる曲輪(くるわ)は、大手門があった北側に集中していて、無名曲輪の他にも畷(あぜ)曲輪井戸曲輪蔵屋敷などを仰ぎ見ることができました。

ハアハア……… 始点となった駐車場からはそんなに険しい道ではないハズなのですけど、この登りはヒザにきますよ。 そんな私とは対称的に、グイグイと上がっていく波と狛の姿は、頼もしく見えます。 それから間もなくして………

お城の最頂点となる本丸跡にたどり着きましたよ ここから先は有料ゾーンとなるのですけど、同時にワンコの立ち入りも制限されます。なので記念写真を撮ったら、波と狛にはお引き取り願います。
………とはいっても、麓の駐車場の車の中で待機していてもらうことになるので、せっかく登ってきたのに私は彼女らをそこまで連れていき、またここまで登ってこなければなりません。

私が再び田峯城に来たところで、このお城について説明させていただきます。 田峯城は文明2年(1470年)に菅沼定信によって築かれました。 中世の山城なので、石垣や天守はなかったのですけど、標高387mの山頂に土塁や空堀をめぐらせ、杮(こけら)葺きの御殿厩(うまや)物見台などが建てられました。 そして、それらは後世になって復元されました。

当時の様子についは、正確な資料は残っていないのですけど、中世のお城の設備はどこも似たり寄ったりだったので、あながち間違いではないでしょう。 ちなみにこちらは、田峯城では中心となる、御殿です。

こちらの建物は城主の住居や客と対面する場として用いられ、中世の武家屋敷をしのばせる書院造りの様式で再現されました。 まずはその内部に入っていきます。

御殿は木造平屋建てで、畳敷き。こちらの上段の間は格式の高い部屋で、主に対面所として使われました。 そうしたら、せっかくなので………

殿の席に座ってみました ちょっと高くて優位な場所ということもあって、テンションも上がりますよ。

御殿を見終わったら、次はにお邪魔しますよ こちらはその名前からもわかるのですけど、馬を飼っておく小屋であります。

しかし、馬のマネキンのようなものはなくて、田峯観音でおこなわれた大祭の写真などが飾られていました。

今度は物見台を登りますよ こちらは昔のお城にありがちな急階段を登っていくのかと思いきや、スペース的な理由からでしょうか?その上を行く木のハシゴでした。 高所恐怖症の方にはちょっとキツいかも知れませんけど、そこを登って2階の外回廊に出たら………

まわりの山々と、眼下には寒狭川の流れが、開放的に広がっていました。 やはり、戦略的にも景観的にもいいところに築かれましたね。

………と、ここまでの田峯城はのどかな流れできていて、「どこで復讐劇がおこるのかな?」と思いつつ読まれた方もいらっしゃるかと思います。 ところが、ここから話が一転するので、どうか心してついてきてくださいませ。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、田峯城の5代目城主の菅沼定忠は家老の城所道寿とともに武田勝頼軍に従事しました。 その武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、その知らせは田峯城の留守居の将をしていた定忠の叔父の定直と家老の今泉道善らのもとにも入りました。
身も心も疲れきっていた定忠でしたけど、わずかな手勢となった勝頼一行を田峯城に迎え入れ、そこで休息してもらう手はずを整えていました。 ところが、留守居の定直らはそれを拒否するばかりか、勝頼らの身柄を拘束しようとまでしてきたのです ちなみにこの首謀者は、家老の道寿とされています。裏切りに遭った定忠は、勝頼らとともに命からがら武節城に逃げ込み、さらに飯田への逃避行を余儀なくされてしまいました。

「おのれ道寿、絶対に許さぬぞ 」
どん底に落ちた定直は、復讐の機会をうかがっていました。 そして翌年の天正4年(1576年)7月に田峯城に夜襲をかけて奪回 その際に定忠を含めた謀反の一族96人を惨殺し、彼らの首を城下に晒しました。

それだけでは飽き足らず、今泉道善にはより残虐な「鋸(のこぎり)引き」の刑に処したのです。 それは、生きたまま鋸で首を切るというものでした。田峯城が見えるその場所には、現在は供養塔が建てられています。もう一方の晒し首の現場となった首塚は、(私にとっては)道が険しくて近付くことができませんでした。ゴメンなさい。

血生臭い歴史を歩んだ田峯城は、それから6年後の天正10年(1582年)に、御家断絶により廃城となりました。
ローカルながらも見応えがあり、悲劇的な歴史も抱える田峯城。続々日本100名城を募ることがあったら、ぜひその中に加えてもらいたいです。


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田峯観音の賑わいと五平餅トーク

2020-02-26 02:09:47 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回、道の駅もっくる新城のランチバイキングで腹ごしらえをした私は、を連れて、次の目的地となる田峯(だみね)観音に向かいました。 山道の国道257号線を車で30分ほど走っていったら………

そこから入っていく脇道に、観音様の案内看板が見えてきました。 国道のほうはスキーに行く時によく通るのですけど、ここから先は私にとっては未体験ゾーンとなります。 それにしても、国道から外れてからかなり登っていきましたよ。 田峯観音がある田峯地区は「天空の都市」、いや、「天空の集落」に思えてきました。 そして、ひと山越えた私たちは………

道路脇に立っていた整理員によって、田峯小学校に誘導されました。 田峯観音にはかなり広い駐車場があるのですけど、この日は………

奉納歌舞伎がおこなわれることもあって、そちらは満車となっているみたいです。 こちらの小学校が臨時駐車場にされる程なんて、かなり賑わっているということになりますね。

設楽町立田峯小学校は、2018年度の児童数は11人となっていました。木造平屋のレトロな校舎は昭和2年(1927年)に建てられたもので、現在国の登録有形文化財に指定されています。 それから、同じ年にアメリカから日米親善大使として贈られた青い目の人形「グレース」が大事に保存されていて、学校のマスコットとなっているそうです。

 

そこから坂道を上っていったら、田峯観音の大きな石碑とそこに続く階段が見えてきました。 田峯観音の正式名は谷高山高勝寺(やこうさんこうしょうじ)で、文明2年(1470年)に田峯城主の菅沼定信によって創設されました。 定信は田峯城の鎮護として、このお寺に十一面観音菩薩を勧進し、松芽観音菩薩と合祀しました。

ここまで登りが続いていてかなりヒザにきているのですけど、ここを上がりきればゴールできるハズ そのようにして、私たちが目にしたのは………

う~む………  本来なら、真っ正面に本堂がどど~ん と見えるところなのですけど、思いっきり仮設の構造物が視界を遮っていますね。この日は木造茅葺き屋根の奉納歌舞伎舞台に、竹の骨組みにビニールのシートをかぶせた芝居小屋が造られていました。 その中はたくさんの観衆が入っているみたいで、演目の合間にざわついている様子が外にも伝わってきました。

そいつを迂回するように設けられた参道には露店が出ていて、お祭りムードをより引き立ていました。 それらを脇目に見つつ………

私たちは本堂に行き着きました。 まずはこちらを参拝し……… そういえば、田峯観音ってお寺でしたっけ?私はお賽銭を投入したあとに、つい2礼2拍手1礼をしてしまいました。 ま、まあ、それはさておいて………

こちらには狛犬があったので「狛さんと狛犬」をやっておきましょう

そうしている間にも、波と狛はたくさんの方に撫でたり写真を撮ってもらったりなどして、可愛がっていただきました。 その中でも、私と同年代と思われるお兄さん、いや、オジちゃんは彼女らを愛でつつ「酒臭くてゴメンね、毎年これが楽しみでね」話の内容から、地元の方みたいでした。それと同時に、そこから地元への愛着も感じました。 それからしばらくして、芝居小屋の方から舞台の始まりを告げる拍子木の音が聞こえてきたので、ちょっと覗きに行ってみることにしました。

その内部は活気に満ちていました。 椅子席は満席で、後方の立ち見でなんとか観ることができました。 この田峯観音の奉納歌舞伎には、古い歴史があるのですよ。 今から376年前の正保元年(1644年)に………

同じ田峯地区にある、日光寺が焼失しました。村人たちはこのお寺を再建するために段戸山の木を切ったのですけど、あとになってそこが幕府直轄の天領だということが判明 さらにそのことを耳にした御油赤坂の代官の鳥山牛之助が検分に来るというのですから、一大事です
窮地に陥った村人たちは田峯観音に「助けてくれたら、村が三軒になるまで歌舞伎を奉納します」という願掛けと約束をしました。

旧暦の6月というので、今の7月ぐらいでしょうか?予告通りに代官たちが検分にやって来たら、真夏だというのに雪が降り積もり、切株が覆い隠されました。 そういうこともあって、彼らは引き返していき、村人たちは盗伐の重罪を免れることができたのでした。 彼らは約束を守り、それから毎年歌舞伎を奉納しました。 それは戦時中でも途絶えることはなく、現在も続いています。 ちなみに奉納歌舞伎は、田峯観音の大祭の2日目となる2月の第2日曜日におこなわれています。
その歌舞伎の魅力と奥深さを垣間見た私は………

そのついでに、田峯特産物直売所(通称・田峯直売所)で五平餅(税込320円)をいただきました。 五平餅は中部地方の山間部に伝わる郷土料理で、粒が残る程度に半搗きにした粳米(うるちまい)を串や棒状の板に巻き付け、秘伝の味噌などのタレをつけて焼いたものです。
大ヒット映画「君の名は。」では、奥寺先輩司君が美味しそうに頬張っていましたね。さらにNHK連続テレビ小説「半分、青い。」のほうでは、主人公の楡野鈴愛(にれのすずめ、永野芽郁)が、人気少女漫画家の秋風羽織(あきかぜはおり、豊川悦司)に弟子入りを志願する際に、手みやげとして持っていきました。 秋風先生はその五平餅をいたく気に入り「これは……… 真実のたべものだ 」とまで称賛していました。 ちなみに彼の本名は、美濃権太(みのごんた)でした。

そういえば、私は五平餅は試食か何かで食べたような気がするだけなので、本格的に挑むのは今回が初めてとなります。 気になるそのお味は………

ふおっ 板に巻き付けられた粳米はやわらかいのですけど、ボロボロとこぼれ落ちることはありませんでした。 しかも、外はカリッと中はしっとりとしていて、さらにそれらを甘味のある味噌ダレが包み込み、あと引く美味しさです これはまさに「真実のたべもの」と言っていいほどの逸品です。 素材の見極め、焼き加減、味付けの三拍子が揃わなければ、ここまではいかないでしょう。やはりお店での焼きたては五平餅の最も美味しい状態で、私はいきなりハードルを上げてしまいました。

田峯地区は交通の便が悪く、お店や娯楽施設のようなものがない静かな田舎なのですけど、人の温かさや優しさなど、私たちが普段いる環境にはないような豊かさがありました。 今回の訪問に際して、年間で田峯観音が最も混雑する大祭の奉納歌舞伎の日を避けることも考えたのですけど、地元の方とも触れ逢えるこの日にして本当によかったと思っています。
この後私たちは、田峯にとってはもう一つのシンボル的存在である田峯城に行ったのですけど、その様子については次回の日記でお伝えします。


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もっくる新城のランチバイキング

2020-02-22 08:02:03 | 美味情報

こんばんは、白黒茶々です。

久しぶりの歴史散策で新城・設楽方面に繰り出した、私・の白黒茶々家の1人と2頭。 そのうちの新城市内の調査を午前中に終わらせた私たちは………

道の駅もっくる新城にやって来ました こちらは新東名高速道路の新城ICを出てすぐのところにある、道の駅であります。 今回の目的は、すでに日記のタイトルに出ているので皆さんにはバレバレですよね。 ただし、お昼の時間にはまだ早いので、もっくる新城の食べるところ以外をざっと紹介させていただきます。

こちらはドライブの中継点にするのにもいい場所にあるので、自動車はもちろんのこと、たくさんのバイクが止まっていました。

併設されている観光案内所にはスタッフが常駐していて、新城市とその周辺の名所やイベントなどを教えてくれます。 また、それらに関するパンフレットももらうことができます。
それからこちらの道の駅には、近くの湯谷温泉から運んできた足湯もあるのですよ そうしたら、お昼の前にひとっ風呂浴びて………
※おやめください!足湯で体まで浸かったのは、今のところ「テルマエ・ロマエ」のルシウスだけですよ。(編集部注)

そ、そんな……… 今回は入る気マンマンだったのですけど、臨時休業なら仕方がありません。足湯がやっている時にこちらにいらっしゃった方は、私のぶんまでほっこりしてきてくださいね。

道の駅といえば、地元で採れた野菜や地場産品、それとそれらの加工品などが多数取り揃えられていて、ついつい目移りしてしまいますよね。 それらの中には、冷凍ながらも馬や鹿、ウサギ、猪、熊などの肉もありました。
それから、こちらのランチバイキングは人気で、休日ともなると行列ができると聞いてきたので、私はお昼のレストランが開店する時間(11時)の15分前から待つようにしました。 そうしたら………

一番乗りで入ることができましたよ 地元産の食材をふんだんに使った料理は品数豊富で、いずれのものも美味しそうなので、自分の消化能力と相談しなければなりません。 といいつつも、あれもこれもと盛っていったら………

第1陣が揃いましたよ 鹿肉カレーを始めとして、炊き込みご飯という名の菜飯、野菜たっぷりミネストローネ、なめこともやしの味噌汁、子持ちししゃもの味噌マヨ焼き、新城で育てられた鶏の唐揚げ、野菜の天ぷら、オリーブトマトのサラダ、麻婆豆腐、………など、これぐらいならいけるでしょう  ではいよいよ、いただきま~す

(あ~ん………) 私にとってはメインとなった鹿肉カレー。「鹿肉のようなジビエは、探してもなかなか見つからないほど小さく刻まれていたり、本来の風味が辛い味付けでごまかされていたりするのだろう」と思っていたのですけど、違いました。 鹿肉は盛る際に意識しなくてもしっかりと(ダジャレ?)入っているぐらい加えられていて、しかもビーフカレーやポークカレーと同じぐらいの大きさの肉であられる。赤身がかっていて、明らかに今まで食べたことがない分野ながらも、程よい柔らかさで臭みもなく、カレー自体も程よい中辛で、あと引く美味しさです これなら、もう誰にも「鹿だから仕方がない」なんて言わせません。 私はこのカレーは3杯(3杯目は少なめでしたけど)いただきました。
これらの他にも、冬季限定と思われる鶏つくねと白菜の豆乳鍋も食べておきましたよ。 お腹が満たされてきたら………

別バラに突入しますよ
右から、生クリームがかかったコーヒーゼリー、餅ではなく白玉だんごのおしるこ、もっくるロールことロールケーキにございます。 このうちのもっくるロールは、たっぷりの生クリームが、新城産の生卵とクルミが練り込まれたスポンジで包まれていて、何個でも食べたくなります。 売店にも置かれているのですけど、本来のものは長さが50cmもあるのですよ!ちなみに完全体の値段は2250円(税込)にございます。
それらのお供として、私はホットコーヒーを淹れてきたのですけど、その他にもコーラ、オレンジジュース、ウーロン茶、………などのドリンクバーが付いてきます。 それらを含めた、もっくる新城のランチバイキングの気になるお値段は……… 1300円(税込)なのですよ
お腹も心も満たされた私は、車の中で待機していた波や狛とともに………

次の目的地となる田峯(だみね)方面に向かいますよ 田峯は設楽町の山あいにある集落で、私は今回初めて訪れます。果たして、そちらではどのような出逢いや発見があるのでしょうか?次回の日記に続けさせていただきます。


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実は蛇女だった!?亀姫と、新城城

2020-02-19 02:20:26 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記では、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、野田城址を散策したあとに新城(しんしろ)市の中心部に向かいました。

………ということで、新東名高速道路の長篠設楽原PA(下り)にやって来ましたよ こちらのPAは歴史的にも有名な長篠の戦いの織田・徳川軍をモチーフにしていて、その際に織田信長が構えた本陣跡にも直結しています。 さらに、PAの建物を入ってすぐのところには………

この地方にゆかりのある奥平信昌亀姫の象が据えられているのですよ。 それにしても、信昌の眉ふとっ 鼻の穴でかっ 対して亀姫様はとても穏やかなお顔をしておられる。 といったトコで、今回はそのうちの亀姫にスポットを当ててみようと思います。

次に私たちは、新城市の中心部にある新城小学校を訪れました。 こちらはかつて新城城があったことを意識したからなのか、建物の一部がお城のような形をしております。 ここで、本題に入らせていただきます。
亀姫は永禄3年(1560年)に松平 元康(のちの徳川家康)と瀬名(のちの築山殿)の長女として生まれました。 その頃、元康一家は今川義元の支配下の駿府(静岡市)におかれていたのですけど、2年後の桶狭間の戦いで義元が織田信長軍に討ち取られると、その混乱に乗じて岡崎城に移住。 その後、元康は名を徳川家康と改め、信長と同盟を結んで武田信玄と攻防することになります。

戦国時代にこの地方は、奥平氏が治めていました。 奥平定能の頃には武田方に属していたのですけど、武田信玄軍が野田城から撤退し、信玄の死亡説が流れると、貞能は徳川方につきました。 ところが、信玄のあとを継いだ武田勝頼が勢力を巻き返すと、武田方に寝返ったのです
奥平氏の力を必要とした家康は、信長の進言もあって、定能の嫡男の貞昌(のちの信昌)と亀姫を婚約させることなどを条件にして、再び両家の間に同盟が成立 その際に貞昌は、武田方に人質として差し出していた妻のおふうと離縁しました。 これに激怒した勝頼はおふうと貞昌の弟の千丸を処刑 それだけでは飽き足らず、さらに勝頼は天正3年(1575年)5月に1万5千の軍勢を率いて、貞昌のいる長篠城を攻めました。

ということで、私たちは今度はその長篠城にやって来ました こちらのお城は現在国の史跡に指定されていて………

本丸を囲む土塁や空堀などが残っています。

ただし、ワンコの散歩で踏み入ることはできないのですよ。 これは散歩ではなく歴史の調査で、波と狛はワンコではなく歴史のコーディネーターで、………く、苦しい。
武田の大軍に対して、貞昌とともに長篠城に籠った城兵はわずか500人。 この絶体絶命のピンチの中で、彼は足軽の鳥居強右衛門を伝令役に任じ、岡崎の家康に援軍を求めました。 強右衛門の働きによって、3万8千もの織田信長と徳川家康の連合軍が駆け付け、武田勝頼軍1万5千との対決となる長篠の戦いが始まりました。

合戦は必ずしも兵の数で決まるとは限らないのですけど、近代兵器の鉄砲をうまく活用し、地の利などを活かした織田・徳川連合軍が勝利を収めました。

援軍が来るまでの間長篠城で持ちこたえ、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した奥平貞昌は讃えられ、信長の名前から一字を賜って「信昌」と名乗ることになりました。
信昌は長篠の戦いの翌年に新たに築いた新城城に移り住み、亀姫を正室として迎え入れました。

場面は再び、現在の新城城跡に。 その後の新城城は規模を縮小し、江戸時代に入ってからは陣屋として存続しました。新城小学校の校庭の片隅には、お城の土塁の一部が残っていて、その上には城址碑が立てられています。

その近くには、旧校舎を利用したしろあと資料館が開設されているのですけど、この日は閉まっていました。
信昌は天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴って上野国宮崎(現在の群馬県富岡市)3万石の領主となり、さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により、その翌年に美濃国加納(岐阜県岐阜市)10万石に栄転となりました。 そこで亀姫は「加納御前」と呼ばれるようになり、側室を一切もたなかった信昌との間に4男1女をもうけたのでした。めでたしめでたし。

………と、ここまでは亀姫は文句のつけようのないイイ女に見えるのですけど、実は彼女は殊のほか嫉妬深かったのですよ。 信昌は側室をもたなかったのではなく、亀姫のおかげでもつことができなかったのでした。 加納城の近くには侍女のお墓があります。「今、そなたは殿のことを誘うような目で見ましたね、決して許しませぬ 」とか言って、嫉妬に狂った亀姫が彼女たちを惨殺しまくったとも云われています。 その数は12人にも及びました。

※私が10年ほど前に訪れた宇都宮城

それだけではなく、亀姫は歴史的にも有名な「宇都宮の吊り天井事件」の黒幕だったという説も。 信昌や長男、次男亡きあとの慶長19年(1614年)には、亀姫(その頃には剃髪して盛徳院と名乗る)は10万石の宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主となった孫の忠昌の元に身を寄せていました。 しかしその時の忠昌はわずか7歳でした。幕府は忠昌がその地方を治めるのには荷が重いと判断し、彼が12歳となったときに11万石の古河城に移封させてしまいました。 代わりに徳川家康に寵愛されていた本多正信の嫡男の正純が15万石に加増されて新たな宇都宮城の城主となったのです。 その前には、亀姫の一人娘の嫁ぎ先の大久保家が不可解な改易に遭っていて、それには本多親子が絡んでいるという疑いがあったので、彼女は心中穏やかではいられませんでした。 国替えの引っ越しの際には、せめてもの復讐のためにと、彼女は襖や障子、畳などに加えて庭の竹木まで引き抜いて持っていこうとしたのですけど、さすがにそれは引き止められてしまいました。 亀姫、大人げないですよ

※白黒茶々家が5年ほど前に訪れた日光東照宮

元和8年(1622年)当時の宇都宮城は、日光東照宮に2代将軍徳川秀忠が参拝する際の宿所にもなっていました。 そこで復讐の鬼と化した亀姫は、「正純殿はお城の寝室に吊り天井の仕掛けをして、将軍を暗殺しようとしておられる」という根も葉もないデマを流したのです これによって、正純は失脚。 代わりに、亀姫の孫の忠昌が再びそのお城の城主に返り咲いたのでした。 これらには諸説あるのですけど、説得力があるのでつい信じてしまいます。

新城城跡の近くには、大善寺というお寺があります。こちらは亀姫が新城城にいた頃に大膳庵を移して建立したこともあって、境内の至るところに徳川の葵の紋が見られます。 彼女はこの大善寺で築山殿や長篠の戦いの戦死者を弔いました。
亀姫の嫉妬深い性格からのドタバタ劇もありましたけど、その一方で彼女には慈悲深いところもあることが窺えて、私はホッとしました。

大善寺の墓地の一角には「亀姫の墓」と称する五輪塔があります。これは奥平信昌と亀姫の4男の松平忠明が、彼女を供養するために、ゆかりのあるこちらのお寺に建立したものです。
亀姫は寛永2年(1625年)に、加納で66歳の生涯を閉じました。 彼女のお墓はこちらの他には、岡崎の法蔵寺など2ヶ所あります。 「遺骸が納められていなくても、その人を祈る場所であればお墓である」という規定に則れば、こちらも正真正銘の亀姫のお墓であります。 私たちは彼女の生涯に思いを馳せ、彼女に手を合わせてから次の目的地に向かいました。


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悲しげな笛の音が聴こえる、野田城

2020-02-15 01:25:02 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

2月初旬の日曜日に、私はを連れて、愛知県東部の山間地の新城・設楽方面を訪れました。 久しぶりの歴史散策なのですけど、その手の企画は昨冬にブログを再開して新装開店(?)してから初めてということになります。 果たして今回はどのような出逢いや発見があるのでしょうか?

………ということで、私は波と狛とともに、JR飯田線の野田城駅にやって来ました。 今回の最初の目的地となる野田城跡は、ここから徒歩20分ぐらいのところにあります。

そのお城に、なんとか到着しましたよ なんか、ここまで歩いて来たような演出となってしまいましたけど、実は私たちは車で来ていて、それに乗ってひとっ飛び、いや、ひとっ走りといかせてもらったのですよ。 こちらには見学者用の駐車場は設けられていないのですけど、お城の入口付近の路肩に2台ほどなら止められるスペースがあります。

野田城は永正5年(1508年)に菅沼定則によって築かれた、中性の平山城です。 そして、定則の孫の定盈(さだみつ)の代まで菅沼氏の居城となりました。小高い丘の上に本丸、二の丸、三の丸が連なっているのですけど、現在そのうちの二の丸と三の丸は雑木林となっているので踏み入るのが困難で、それらの輪郭を確認することはできませんでした。

それでは、さっそくその城内を散策しますよ 二の丸跡からこの土橋を渡っていけば、本丸跡に至るのですけど………

その両側には、曲輪(くるわ)を仕切る堀切が現存しています。

本丸跡は、広い空間となっていました。 さらにその南側には………

柵に囲まれた「井戸」がありました。 もちろん、皆さまに代わってその様子を確認しますよ

今では枯れ井戸となっていて、底が見えるのですけど、けっこう深くなっていました。

その本丸跡を囲むようにして現存している土塁の上には城址碑が設けられていたので、こちらで記念撮影をしておきましょう。
元亀3年(1572年)12月の三方原の戦いで徳川家康に圧勝した武田信玄は、翌年の1月に3万の軍勢を率いて徳川方の属城となっていた野田城を攻めました。 これに対して、城に籠った菅沼定盈の城兵はわずか500人。 圧倒的に不利だったのですけど、武田軍は攻めあぐね、1ヶ月ほど経っても攻略できませんでした。そこで信玄は甲斐から金山の坑夫を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採ったのです。

これによって定盈は野田城を明け渡し、武田勢の捕虜となりました。三河の守備の要の野田城が武田の手に渡ったら、徳川方の重要な拠点となっている吉田城(豊橋市)や岡崎城(岡崎市)は風前のともしび。 まさに絶体絶命でした。ところが、そこで信玄が重い病に冒され、武田軍は引き揚げていってしまったのでした。

野田城が築かれた丘の西側は深い谷となっていて、現在そこには法性寺というお寺があります。 その山門は、野田城の城門を移したものと云われています。

さらにその境内には「⇐= 武田信玄が鉄砲で撃たれたという場所」なる案内がありました。 もちろん、皆さまの好奇心を満たすためにも、そこまで見に行ってきます

ハアハア……… 深い谷を挟んだ対岸ということもあって、かなり登らされましたよ。 ちょっと管理の手が入っていないみたいですけど、それっぽいところとなっていて………

そこには、新しい案内看板も立てられていました。 落城寸前の野田城からは、松村芳休が吹く美しくも悲しげな笛の音が毎晩聴こえてきました。 それに聴き惚れて誘い出された信玄を、鉄砲の名手の鳥居半四郎が城内から狙撃 お城側には撃った地点を示す案内看板があるそうですけど、私はそいつを見落としてきてしまいました。 その時のケガが原因で、信玄は亡くなったとも云われています。
野田城は小さなお城なので、1時間足らずでサラッと見学できてしまうのですけど、このお城をめぐっておこなわれた攻防戦に思いを馳せると、それは濃厚なものとなります。 といったトコで、私たちは次の目的地となる新城市の中心部に向かいました。

話は変わって今月の10日に、の3代に渡って岡崎公園などで交流し、仲良くしてくれたサモエドのアルファ(アル)君が亡くなりました。 享年12歳と8ヶ月。彼や飼い主のアルパパさんは、犬種が違っても分け隔てなく箔たちを受け入れてくださり、スピッツとサモエド界の橋渡しをしてくださいました。

 

また、その大きくてもふもふした体は、箔母さんも含めた多くの人を優しく包み込み、魅了しました。 岡崎公園では春は五万石藤の下で、秋には紅葉狩りでいつもいたアル君にもう逢えないなんて、すごく寂しいです。 それでも、アル君が遺していった楽しい思い出や、彼を通してできたワンコのお友達は、私たちにとっては大事な宝物となりました。アル君、今までありがとう。そちらでは辛い病気から解放されて、お母さん犬のCooちゃんや箔と再会できたでしょうか?アル君のご冥福を心からお祈りします。



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京ちゃの異変

2020-02-12 02:18:52 | ニャンコ

こんばんは、白黒茶々です。

前回の節分の話にもチョイ役で出てきましたけど、は白黒茶々家にいる茶トラのメス猫です。

2011年の4月ぐらいに生まれたと推定され、ウチでは最年長の銀ちゃに次ぐ8歳です。 その彼女は、茶トラ猫に思い入れのある私があらゆるところに里子の情報を求め、その2011年の7月に熊野のほうで農家漫画家をやっているへげたれ妻さんに連れてきていただいた子でもあります。体重は3kg台と、我が家では最も小柄なのですけど、犬のより強い銀姉さんには場所取りなどで勝っているので、ウチのワンニャンの中では最京、いや、最強なのかも知れません。
それから、ウチの子となってからは病気らしいものになったこともありませんでした。その京ちゃに異変が見られるようになったのは、昨年の9月頃のことでした。

ある日、いきなり京ちゃの身体が左に傾き、まっすぐ歩けなくなったのです。 それから数日間様子を見ても、少しもよくなりませんでした。

これはイカンと思った私と箔母さんは、彼女を動物病院に連れていくことにしました。 そこで獣医さんが出した診断は………

「高いところから落ちたりしたら、一時的にこのような症状になることもあるのですけど、脳や神経に原因があったとしたら、大学病院のような大きなところじゃないと調べられません」というのでした。田舎の町医者(失礼)では、厳しいみたいです。 それでも「この症状に効きそうな抗生物質系の注射を打ってみますか?」と提案してきたので「少しでも良くなる可能性があるのなら」私たちはお願いしました。

それから京ちゃの異常な傾きは少しずつ治っていき、数日後には以前と変わらないようにまっすぐ歩いたり高いところに飛び乗ったりできるようにまでなりました。 あの注射が効いたのでしょうか?それとも、あの症状は一時的だったのでしょうか?いずれにしても、これにて一件落着です。

………と、私たちが安心できたのはほんの束の間のことで、それからさらに数週間後には、再び京ちゃはまっすぐ歩けなくなってしまいました。 その偏りは以前より悪化し、階段を転げ落ちたり、ご飯を食べてもすぐに吐いてしまうまでになってしまいました。脳か三半規管が病魔に侵されているのかも知れません。とはいっても、私たちが信頼しているあの病院にまた連れていっても、原因を突き止めることはできそうにありませんし。 先生が仰るような大病院はアテがなく、県内やその近隣まで探しても見つかりませんでしたし………

そうしているうちに、京ちゃは普段は踏み入ることがなかったたつぴのドラムの練習器具の下に入り込み、そこから一歩も出てこないようになってしまいました。 それ以来彼女はずっと飲まず食わずで、トイレに入った形跡も一切見られませんでした。心配になった私は、彼女の口元に水やほぐした猫缶などをもっていったのですけど、一切受け付けてくれませんでした。
京ちゃはこのまま衰弱して、死に向かっていってしまうのでしょうか? それならば、痩せ細って見るに耐えないようになる前に、せめて今の彼女の姿を写真に残しておこうと、私が涙を堪えながら撮ったのが………

こちらになります。猫の場合は犬のように一緒にお出かけするようなことはなく、家で日常の中にいることもあって、なかなか写真に撮ったりしませんでした。 過去に撮ったものは年数が経ち過ぎているので、これを彼女の遺影に使うことになるのかも知れません。

ところが、京ちゃはその後少しずつ動くようになってきて、生命の維持に必要な飲食や排泄を普通におこなうようになり、ふらつきながらも家の中を歩き回ったりもしました。 それからさらに4ヶ月ほど経った現在は………

首を少し傾げた状態ながら、まっすぐ歩いたり高いところに飛び乗ったり、銀姉さんにちょっかいを出したり、………と、以前と変わらない生活を送っています。 完治はしていないと思われるのですけど、京ちゃは現状に身体のほうを対応させているのかも知れませんね。
今回の日記を読んでいくうちに「京ちゃん、死んじゃうの? 」と心配になられた方もいらっしゃるかも知れませんけど、前回の節分の回で元気な姿を見せていたので、ご心配には及びませんでした。 今回の日記は回顧録というか、事後報告なので。 何にしても、これからも彼女がムリなく穏やかに過ごしていけることを願っています。


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節分、今年もおこないました。

2020-02-08 02:11:10 | 年間行事

こんばんは、白黒茶々です。

2月3日は節分でしたよね。 節分といえば、私のいる地域では夜になったら子供が集まり、家々をまわってお菓子をもらうという行事がありました。 しかし、夜の外歩きは何かと危険という声があり、子供の数も減ってきたことから、その風習はいつの間にかなくなっていました。 それでも、各家庭では任意で恵方巻の丸かじりや豆まきがおこなわれます。日頃の鬱憤を晴らす……… いやいや、これには、子供だけではなく大人もテンションが上がりますよね。 といったトコで、今回は白黒茶々家の今年の節分の様子をお伝えします。

まずは節分の士気を高めるためにも、ウチのペットたちには総出演で鬼のお面をかぶっていただきます。 先頭打者は……… 私と最初に目線が合った、京ちゃでいかせていただきます。この日のために、猫にちょうどいいサイズのお面を用意しましたよ

※でん六豆を買ったら、たまたま付いてきたものです。ちなみに今年のデザインは、スイマー鬼であります。(編集部注)
そうしたら京ちゃ、このお面を頭に乗せて……… こら、嫌がらないで

動きを封じて(抱っこして)褒めまくって、なんとかここまで持ってきたのですけど、どことなく神妙な表情となっていますね。 続いては、銀ちゃです 銀姉さん、お覚悟なさいませ

こちらは、こたつの中で寝ていたところを引きずり出しされたこともあって、とろ~んとしていますね。 その状態を間髪入れずに撮らせていただきました。

今度は晃ちゃの番です 彼は冬場になってから、毛のボリュームが増しています。

ニャンズのラストは、緑ちゃに飾ってもらいましょう こちらの彼は、脂肪のボリュームを増やして、冬に対応しているみたいですね。
そうしたら、いよいよワンズの鬼化に突入しますよ 波ちゃも狛ちゃも、お面を頭の上に乗せて撮影に応じてくださいませ えっ、イヤだって そこをなんとか………

しかし、何回やっても振り払われてしまったので、私がお面をかざしてそれっぽく見えるようにしました。 それでも、波ちゃが神妙な表情をしているのは何故?

大トリは狛ちゃであります おおっ!こちらは正面を向いてキマっていますね。ただし、オニの角のあたりが切れてしまったところは、お見逃しくださいませ。

それらが済んだら、お待ちかねの恵方巻の出番となります。 大晦日と同じように季節の節目の節分にもそばを食べる風習があるみたいですけど、やはり恵方巻のつけ合わせとしても合っていますよね。 そのそばを平らげたら………

恵方巻にかぶりついてくださいませ 願い事を念じつつ、そいつを無言で一気に食べ尽くせば、その願いは叶うそうですけど……… 私は食べることに夢中になってしまい、願掛けをするのをすっかり忘れていました。 こうなったらやむを得ません 節分のその時間に戻って………
※「逆再生をする」なんて決して言わないでください。茶々さんがもぐもぐやっている口元から恵方巻がニョキニョキ戻っていく光景を想像しただけでも……… おぇっ (編集部注)

節分の一連の行事は、豆まきをもって締めさせていただきます。 やはり今回も人間全員に鬼の役をやってもらいますけど、その順番を決めなければなりませんね。 そうしたら、最初はグー、じゃんけんホイッ あいこでホイッ ………

このようにして、まずはたつぴ鬼の出番となったのですけど、なんかテンションが低いですね。 20歳の難しい年頃になったので、ムリもないかも。それでも私たちに合わせてくれたので、遠慮なく豆をぶつけさせてもらいます。

続いて箔母鬼が出てきたのですけど、この鬼は金棒(メガホン)で豆を打ち返してきよる。 それならば、こちらも顔を狙って投げろ 投げろ 投げろ

最後は茶々鬼なのですけど、なんか豆の勢いが先ほどとは大違いですよ あいたたた……… ま、まあ、中途半端で終わらせるのもナンなので、大いにぶつけなさい。 これで、みんなの心の奥に潜んでいる鬼は退治されたでしょうか?
これら3鬼が退散したあとの部屋には、当然のことながら豆が散乱していました。そこで、波と狛の出番となります。

その部屋に放たれた彼女らは、床に落ちている豆を一心不乱に食べまくりました。

私たちの目につかないところにあるものも探し出してくれるので、とても助かります。 彼女らも、宝探しみたいに楽しみながらやっていることでしょう。たぶん、きっと。 それでも豆はよく噛んで、歳の数だけ食べるように……… って、ムリか。
人間だけではなく、ワンコにとっても楽しく美味しい節分。 来年もこのフルメンバーでできることを願っています。


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今年初のシャンプー

2020-02-05 01:47:26 | ワンコ

こんばんは、白黒茶々です。

突然ですけど、皆さんは愛犬をどれくらいの間隔でどのようにして洗っていらっしゃるでしょうか? ちなみに白黒茶々家は、トリマーさんに任せることもあるのですけど、箔母さんの協力も得て、月に1度くらいのペースでをカインズホーム内にあるセルフウォッシュに連れていっています。 その施設は愛犬や愛猫をシャンプーするためのシンクやシャワー、業務用のドライヤーなどが備え付けられています。 事前の予約は不要で、シャンプーやブラシなどの道具を持ち込み、自分たちの手でペットを洗います。 それから、有料でスタッフに手伝ってもらうこともできるそうです。あと、作業に要した時間ぶんの料金を、後払いするシステムになっています。

波と狛にとっての今年初のシャンプーは、1月の中旬に実行することにしました。 その日は準地元の海岸で、サモエドのお友達と思いっきり走り回り、砂や潮っ気にまみれた身体をドボンとやるつもりでいました。

というワケで、やって来ましたよ カインズホームY店に。 私たちは波と狛の2頭を、毎回2時間半ほどで洗っています。セルフウォッシュに先客がいなければ、すぐにシャンプーに取り掛かれるのですけど、今回はどうでしょうか? 「2時間と1時間半の2組の予定が入っているので、それらが終わってからになります」「そ、そんな………」
その日私は、夕方から町内会の集まりに出ることになっていたので、あまり時間の猶予はないのですよ。 というよりは、合わせて3時間半も待っていたら、その集会の時間になってしまいますし。 いや、集会をゴメンナサイしたとしても、閉店時間までに波狛洗いに必要な時間を確保できないのですけど。
この日はY店の次に近いM店に走るという手段も時間的に厳しくて使えませんでした。 とはいっても、このまま何もしないで帰るのもナンなので………

店内に設けられていた撮影コーナーで写真を撮っていくことにしました。 まずは波ちゃから う~む……… これは小型犬用のセットでしょうか? おケツから羽が生えておられる。

もちろん、狛ちゃも同じようにして撮りましたよ ああ、さっきよりは(位置的に)いいですね。 そのあとは彼らのおやつを買って、引き揚げました。

洗うタイミングを外してそのままズルズルといくワケにはいかない ということで、私たちはその翌週もカインズのY店にやって来ました。 今回は時間的にも余裕があるので、多少のことがあったとしても大丈夫です。

この日はすんなりと入ることができて、洗っている様子をネタにするつもりだったのに、作業に夢中になってしまったおかげで、写真を撮るのを忘れていました。 ほら、よくあるでしょう?目の前にある美味しい料理を多くの人に広めるつもりだったのに、食べ終えてから写真を撮ることを思い出すってヤツとか。


なので、前回(昨年の12月)にM店のほうで写したものでお許しくださいませ。 全身をシャンプーしてから、すすいでトリートメントを刷り込み、さらにすすいで………

業務用のドライヤーで念を入れて乾燥させれば、一丁上がりです これによって、ふわもこが最大限に引き出されるのですよね。 最終の確認作業として、この洗いたてをモフっとやるのが、スピッツのシャンプーの醍醐味というか、私たちにとってはまたとないご褒美となります。
引き続いて波のほうのシャンプーにも取り掛かったのですけど、こちらは以下同文とさせていただきます。

このようにして、スッキリさっぱりした姿でカートに乗せられて出てきた波と狛。 道行く人に「わぁ、白くてふわふわでキレイ 」と褒められたら「そうでしょ、そうでしょ 」と返したくなります。

「ああっと、このままではイカン 」
と言って、今回のセルフウォッシュからの帰宅後に大慌てで撮ったのがこの1枚なのですけど、波狛ちゃが少しボケてしまっています。 それでも、来月ぐらいになったらワンコのイベントや集まりなどに波と狛を連れていく機会が増えるでしょう。たぶん、きっと。 それらの席で、できるだけキレイな状態のまま彼女らを持っていければと思います。ネタに

ここでお知らせです。 3月1日(日)に静岡県浜松市西区の渚園で、ジャパンケンネルクラブ主催のFCIインターナショナルドッグショーがおこなわれます。

800頭規模の多くの犬種が集まり、しのぎを削るこのイベントはクオリティーが高く、ワンコ図鑑を見ているようでもあり、見応え充分 自分ん家の愛犬を連れて見学することもできるので、皆さんもお誘いあわせの上お越しくださいませ。 次のシャンプーを経た波と狛は、ドッグショーに出陳……… ではなく、見学組で会場に参上いたします。


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らーめんカフェ・ワコーさん再び

2020-02-01 01:53:25 | 美味情報

こんばんは、白黒茶々です。

今は一年のなかでは最も寒い時季でもあるので、今回はほっこりする話をしようと思います。 とはいっても、ハートウォーミング的な話題ではなく、久しぶりに食べ物を採り挙げさせていただきます。やはり、寒風が吹きすさぶ中で見つけたラーメン屋の暖簾を潜り、カウンターで熱々のラーメンをすするのは、冬ならではの光景ですね。 しかも、それがワンコと一緒に入れるお店だったら、なおよろしい ということで、今回は波と狛を連れて、浜松市の舘山寺地区にあるラーメン屋を訪れます。

………ということで、やって来ましたよ らーめんカフェ・ワコーさんに。こちらのお店は、温泉街として賑わっている舘山寺の界隈の脇のちょっとわかりにくい細道を入っていったところにあります。 駐車スペースも限られているので、開店時間の11時になったらすぐに入れるようにしたいですね。

こちらには、私はを連れて3年ほど前に訪れたことがあるのですよ その際には、ワンコ好きなお店の方に写真を撮っていただいて、ブログにも載せていただきました。

ワンコ同伴の客は、こちらのテラス席にのみ入ることができるのですけど………

寒くないように開口部はビニールで覆い、さらに薪ストーブまで入れていただいて、まさに至れり尽くせりでした。

ワコーさんは舘山寺の内浦にあり、湖岸に接しているということもあって、船で来店することもできるのですよ なので、「海の駅」とも名乗っています。 私たちはこの日、このお店に一番乗りだったみたいですね。 

そうしたら、いよいよメニューを決める段階となります。ここは「たくさんのジャンルがあって、迷うわ~」と言うべきところなのですけど、実は私はその日の気分ですでに注文するものを決めてきていたのですよ。 「マスター、いつものを」
※3年ぶり2回目の来店で「いつもの」は、さすがに通用しないでしょう。それに、ラーメン屋でマスターって何ですか!?(編集部注)
一度は言ってみたいセリフなのですけど、ここでは使えませんよね。 というよりは、その時の私にはそのセリフを発する勇気はありませんでした。いや、むしろ「かしこまりました」なんてお店の方がその流れをグイグイ進めていって、何を出されるのかわからなくて不安になるほうがイヤなのですけど。

はっ、つい「いつもの」にまつわる妄想で勝手に盛り上がってしまいました。 ただし、今回はメニューにあるものをちゃんと注文したので、どうかご安心を。 それからしばらくして、出てきたのは………

醤油つけ麺(税込800円)であります やはりこれには小ライス(税込100円)も付けておきたいですよね。 ちなみにつけ汁は温かいのですけど、麺の下には氷が敷き詰められています。 今回の日記の冒頭の「熱々のラーメンをすする」という文面から、スープに入ったラーメンを期待された方もいるかも知れませんけど、その時の私はつけ麺の気分だったので、どうかお見逃しくださいませ。
それよりも、下から出ているマズルは波ちゃか?狛ちゃか?

もう1枚撮ろうとしたら……… これこれ狛ちゃ、テーブルに前足をかけてはいけませんよ それでも、なんかいい感じなので、写真を撮り終えるまではその状態のままいてくださいませ。
前フリが長くなってしまいましたけど、いよいよラーメンをいただきます  ずずず………
氷でしめられた麺に温かくて濃厚なつけ汁が絡まって、あと引く美味しさです それから、麺、麺、ご飯、麺、……… のように、途中にご飯のアクセントを加えると、なおよろしい さらに波と狛の物欲しそうな視線を感じることもあって、私が食べる速度はしだいに上がっていきました。
ぷはぁっ、ごちそうさまでした

それから少しして、お店の方がこちらに来て「ワンちゃんの写真を撮って、店のインスタに載せてもよろしいでしょうか?」と持ちかけてきました。「いいですよ、大いに載せてくださいませ 」というよりは、実は私にとってはコレも目的の1つだったのです その頃はまだSNSの類いはまだ自粛していて、活動を再開するタイミングを窺っているところでした。 他力本願とはいえ、ワコーさんのインスタに載せてもらって、少しでも波と狛の元気な姿を皆さんに見ていただけたらと私も思っていたので、話はトントン拍子に進んでいきました。
ちなみにその際に載せてもらった記事は………

こちらになります 波も狛もいい感じに撮ってくださり、ありがとうございました。 また、その時にはお店の方の口から、スピッツ仲間のレオン君とくまちゃんの名前も出てきました。しかし、レオン君はその年の3月に亡くなり、今は新たに迎え入れられたひめこちゃんとボーくんとの3ワン体制になっているということを伝えておきました。
そういえば、彼は箔と波のこともよく覚えてくれていました。 その当時のお店のブログにも………

しっかりちゃっかり載せてもらっていますね。 やはりこちらのほうでも、代替わりして、箔が亡くなったあとに狛が新たな家族になったことを話しておきました。

正午が近付いた頃には駐車場は埋まり、入れなくて困っている車もあったので、私たちは早々と退散することにしました。 それでもその前にもう1枚、湖畔のデッキで撮らせてもらいました。 らーめんカフェ・ワコーさんは浜名湖のビューポイントにあり、メニューの美味しさはもちろんのこと、お客にもワンコにも優しいお店なので、また訪れたくなります。 皆さんもこちら方面にお越しの際には、ぜひお立ち寄りくださいませ。



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