波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

今年のお花見は、豊橋公園の夜桜

2019-04-27 00:41:12 | 年間行事
こんばんは、白黒茶々です。
私のいる東海地方はもう桜の花の時季は終わり、日本国内は令和元年までのカウントダウンに入りつつあるのですけど、今回の波狛日記では今月上旬におこなわれたお花見の様子をお伝えします。 桜の花は見頃の時季が短く、それに加えて家族全員となると都合を合わせるのも難しく、さらにそこに休日を当てはめるのは三重で厳しくなります。 しかも、それらの条件を最も満たしている今月の7日(日)は、白黒茶々の男衆は東京に遠征に行ってしまいましたし。
そうしたら、平日の夜に行動するしかありません。という流れで、私たちは夜桜見物に行くことになりました。



あとはその目的地を決めるだけなのですけど……… 私は数年前に行った、豊川市の諏訪の桜トンネルを希望しました。 豊川市役所の近くに桜並木があって、そこでの桜祭りの開催中はライトアップや露店も出ていて、多くの人で賑わっています。 桜の美しさではそちらと勝るとも劣らない佐奈川堤にも近く、やはりそちらも再び行っておきたいです。 ちなみにそれらは、ウチからは車で1時間ほど行ったところにあります。

そして夜桜見物の日となったのですけど……… ここにきて、猫の晃ちゃの具合が悪く、食欲不振に加えてぐったりしていました。 息も荒くて苦しそうで、肺炎で亡くなった蒼ちゃの症状にも似ているような気がします。とにかく、動物病院に連れていかなければ



診断の結果は……… 彼は尿道結石で、適切な処置と、様子見のために入院させたおかげで快方に向かっていき、今ではすっかり元気です。 しかし、その騒動のおかげで夜桜の出発時間はかなり遅れてしまいました。 できたら豊川に行きたいのですけど、あそこは時間になると照明が突然落とされるので、なんとかたどり着けたとしても、あまりゆっくり見られないかも知れません。そうしたら、そこより近場で手軽に行けるようなところに変更するしかありません。 そのようにして、私たちが向かったところは………



ウチからは、車で30分ほどでたどり着けるところにある公園です。 こちらは市の中心部にあり、市民の憩いの場となっているのですけど、夜は鬱蒼としていますね。 怪しい空気に包まれているのですけど、大丈夫なので皆さんも私を信じてついて来てくださいませ。



こちらはかつてお城があったところで、現在でも園内のいたるところに土塁や空堀が残っています。



しばらく怪しいゾーン(?)を歩いていくと視界が開かれ、ぼんぼりの明かりが見えてきました。



が見つめるその先には………



暗闇の中に、ぼんぼりに照らされた桜が浮かび上がっていました。



目的地に到着したということで、まずは家族写真をば ただし、この場合撮影者の私は写ってないことを、どうかご了承くださいませ。



露店などは出てなくて、静かなところなのですけど、そのような中でも蓙(ござ)を広げてお花見をしている集団がちらほらいました。 そうしたら、ウチは………



切り株に座らせて、個別写真を撮っておきましょう まずは、波ちゃから。う~む……… 全体的に暗ぼったい写真になってしまいました。



次は狛ちゃで こちらはいい感じで撮ることができましたよ。



さらに満開の桜の下に、波狛ちゃを座らせてみました。 ここに来るまでに紆余曲折あったのですけど、今年もこの風景を見ることができて、本当によかったです。



先述した通り、豊橋公園は近世城郭の吉田城があったところで、その中心部となる本丸跡は、桜が咲き誇っている広場の北側の、奥まったところに位置しています。 その本丸を囲うようにして、今でも立派な石垣が残っていて、その一角には………



昭和29年(1954年)に建てられた模擬鉄櫓(くろがねやぐら)があります。 しかし、本丸の内側からはライトアップのようなことはされてないので、漆黒の闇の中に沈んでいます。 これでは鉄櫓が本領発揮(?)できないので………



ストロボを焚いて撮ってみました。 そうしたら、そのまわりにオーブらしき浮遊物も一緒に写っちゃった この写真で締めるのはナンなので………



漆黒の吉田城の風景の中に、白い子(狛ちゃ)を入れてみました。そうしたら、多少は中和されましたよ。 そういえば、彼にとってはこの吉田城は2つ目のお城となります。2月に初めて行った岡崎城も、同じ愛知県の三河地方でしたし。 そうとなったら、次のお城がどこになるのか気になりますね。それは私次第ですけど、お花見の時季が終わったら、今度はお城を含めた歴史探訪にも力を入れるようにしたいです。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「夜の豊橋公園は暗闇デートにも使える!」と思いつつも「実際には肝試しになりそう」と感じられた方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根津神社を目指して(谷根千お散歩オフ会その3)

2019-04-24 01:50:06 | ワンコイベントの類
こんばんは、白黒茶々です。
4月7日に、私・たつぴ・の白黒茶々家の2人と1頭は、福太郎さん夫妻と小太郎君梅太郎君、ゆきさん夫妻と雪丸君卯辰君らとともに、東京の谷根千(谷中・根津・千駄木)方面を散策しました。 前回は上野公園を出たところで終わっているので、お散歩オフ会レポートの3回目となる今回は、その続きから最後までお伝えいたします。



桜の花びらが散る、桜並木を歩いていった私たちは、谷中霊園に入っていきました。 その墓地には、横山大観牧野富太郎渋沢栄一らが眠っていて……… って、新しい1万円札の顔となることが決まって、今何かと注目されている渋沢さんのお墓がこちらにあったのですか そこまで行っていたのなら、お参りしておけば……… とはいっても、今回のお散歩オフ会は紙幣刷新が公表される前のことだったので、彼のことはまだ私の頭の中にはありませんでした。それよりも、こちらには私が以前にも行ったことがあって、また訪れたいお墓があったのですよ。



柵に囲まれていて、門扉には三葉葵の家紋が施されているこちらのお墓の主は……… そうです徳川幕府最後の将軍だった、徳川慶喜公であります。



昨年の春に、私はスピッツクラブ展覧会の会場に向かう途中で静岡市に立ち寄り、慶喜公にゆかりのある場所を訪ね歩きました。 後にそれらをまとめて大政奉還後の彼について書いたのですけど、そうしているうちに谷中霊園に眠っている彼をお参りしたくなりました。 ちなみに静岡市に在住していた頃の慶喜公は、地元の方たちから親しみを込めて「けいき様」と呼ばれていました。



2つあるのですけど、向かって左が慶喜公のお墓で、右側は美賀子婦人です。慶喜公は大正2年(1913年)11月22日に77歳で亡くなったのですけど、徳川歴代将軍の中では最も長寿となりました。



1台だけあったカートは、交代で使われていました。 乗っているのは、小太郎君と卯辰君でしょうか? 谷中霊園を出てから、私たちは………



大黒天経王寺に差し掛かりました。 こちらは明暦元年(1655年)に開山した日蓮宗のお寺で、大黒天を鎮守としています。



慶応4年(1868年)の上野戦争では、敗走してきた彰義隊をかくまったために新政府軍から攻撃を受け、その時の銃弾の痕が山門の門扉などに残っています。
さらに私たちは先に進んでいき………



谷中銀座に突入していきました。 こちらは美味しそうな商店が軒を連ねていて、たくさんの人で賑わっていました。気づいたら正午を過ぎていて、そろそろお腹が空いてきました。 それからしばらくして………



白ふわ一行は、サクラホテル日暮里の一階に併設されているカフェに入っていきました。 こちらは外国人客にも人気の格安ホテルが運営していて、テラス席ならワンコを連れて利用することができるのですよ。



また料理のほうも多国籍で、私は隠し味として鰹だしを使用している、日本とインドの合作ともいうべきよもだカレーにしました。 見た目に反してちょっと辛めなのですけど、それよりも隠し味と言いつつも、ほとんどの場合混ぜたものを隠していないような気がします。



食後のコーヒーで一息ついたら、再び散策に入りますよ。



その先に、可愛らしい人形がおみくじを持ってくる「萌神社」なるものがあったので、たつぴがそれに手を出していました。人形が導き出した、彼の運勢は……… なんと大凶 これはある意味貴重な体験となります。



そうしているうちに、私たちは根津のあたりまで来ていました。 こちらには、私がリクエストした名所があるのですよ。 それは………



根津神社であります こちらは今から1900年ほど前に日本武尊によって創祀されたと云われていて、現在の社殿は徳川幕府5代将軍の綱吉が建立しました。 銅瓦葺きに朱塗りの柱、それに彫刻が施されたきらびやかな建物は宝永3年(1706年)に完成し、現在国の重要文化財に指定されているのですけど、唐門から内側はワンコと一緒に入ることはできません。



それでもこちらの楼門は、ワンコとともに近付いたり潜ったりすることができます。 そういえば、この日は参加メンバー全ワンによる記念写真を撮ってなかったので………



ちょっと息が合っていないのですけど、その根津神社の楼門をバックにして写しておきました。 今回はいちおう、こちらの神社がゴールのつもりでいました。しかし、白黒茶々家が帰るまでまだ多少の時間があるので、もう1ヶ所どこかに寄っておきたいですね。 こちらからムリなく行けるところをゆきさんに聞いてみたら、近くにあるという岡倉天心の公園を紹介してくださいました。



その途中まで、卯辰君と一緒に案内していただき、ここで解散となりました。 ところで、皆さんは岡倉天心のことはご存知でしょうか?そういう私は、以前は知っていたのですけど、ほとんど忘れていて、この時点では「ほら、ヒゲを生やしていて………」ぐらいしか説明できませんでした。
※ヒゲを生やすぐらいなら、スーパーマリオでもできますよ。(編集部注)
と、とにかく、そこから徒歩3分ほどで………



岡倉天心記念公園なる、小公園にたどり着きました。 こちらは彼の邸宅があったところで、旧前期日本美術院の跡でもあるみたいですね。ゆきさんによると、向こうのお堂の中に、岡倉さんの像があるそうなので、さっそく見に行ってみることにしましょう そうしたら………



う~む……… 私が想像していたのとは違って、まばゆいですね。といったトコで、岡倉天心の説明をさせていただきます。 彼は明治時代の日本の思想家で、文人でもあります。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に関わり、また日本美術院も創設しました。 その黄金の岡倉さんを拝んだら………



桜の花びらが舞い落ちるその小公園で一休みしてから、帰ることにしましょう。 それにしても、この日はかなり歩きましたね。程よく疲れているので、狛は帰りの列車の中ではグッスリでしょう。彼だけではなく、私やたつぴもそうなりそうですけど。 福太郎さん、ゆきさん、この日は私たちにお付き合いしてくださり、ありがとうございました。 また次の機会にもご一緒していただけたら、嬉しいです。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 黄金の岡倉天心が料理の鉄人に見えて仕方がないという方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園をいざ出発!(谷根千お散歩オフ会その2)

2019-04-20 01:35:42 | ワンコイベントの類
こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記は、白黒茶々家がお散歩オフ会の集合場所となる上野の西郷さんの像の前にたどり着き、そこで東京にお住まいの福太郎さん家ゆきさん家と合流したところで終わったので、今回はその続きからとなります。 といったトコで、まずはその参加メンバーを紹介いたします。



福太郎さん家は、小太郎君(右)と梅太郎君(左)の2スピです。 小太郎君は箔とも面識があり、今回の参加犬の中では最年長の13歳。持病を抱えていながらも、まだまだ元気でした。 梅太郎君は、私は以前から存じていたのですけど、この日が初対面でした。



もう1組のゆきさん家は、雪丸君(右)と卯辰君(左)の、こちらも2スピ。 雪丸君はスピッツクラブ展覧会に出陳したこともあって、私は彼とは何回か逢ったことがあります。それから、昨年ゆきさん家にいた小辰君が12歳で亡くなり、そのあとにその家にやって来たのが卯辰君であります。 彼のことは、昨秋のスピクラ展でゆきさんから聞いていたのですけど、その頃はまだ生後2ヶ月で、まだその会場に連れてくることはできない状況でした。それが今では7ヶ月にもなって。 がウチに来たのもそのぐらいの頃で、まだかろうじて仔犬に分類されてはいるのですけど、大人っぽさも感じられました。 一方の、現在10ヶ月の狛は………



なんか、あぐらをかいていますね。 皆さんから「毛のボリュームがスゴい 」と言われ、確かに少し前よりその密度が増したように思えます。 ちなみに白黒茶々家は、たつぴの2人と1頭での参加となります。



顔合わせが済んだら、いよいよ谷根千(谷中・根津・千駄木)方面の散策に入りますよ この日の上野公園は桜が満開で、その下には大勢の人が集まっていたのですけど、それでも普通にワンコを連れて歩けるぐらいのレベルでした。 そのような中で「これから寄りたいところがあったら、仰ってください」と言ってくださったので、そうしたら遠慮なく このようにして、私が最初にリクエストしたところは………



大きな顔だけのこちらの仏像は……… 上野大仏にございます。 かつて上野公園一帯は広大な寛永寺の境内となっていて、その中に17世紀半ばに大仏が建立されました。幕末には大仏殿を伴った高さ6mほどの金銅仏となったのですけど、明治初期になって上野公園を開設するために、その母屋は撤去され、露座に。 さらに大正12年(1923年)の関東大震災で、頭部が落下してしまいました。 その後、大仏の胴体などは保管されていたのですけど、第二次世界大戦中に金属供出に遭い、現在は顔面の部分のみレリーフの状態で残っています。
また、こちらは「落ちない大仏」として受験生に崇拝されているそうです。



さらに白ふわ一行は、上野公園を縦断していきました。 混んでいる恩賜上野動物園をやり過ごし……… って、この1年の間にその正門は改修されたみたいで、ガラッと雰囲気が変わりましたね。



私たちは、旧東京音楽学校奏楽堂に行き着きました。 こちらは、明治23年(1890年)に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の校舎として建造されました。以来、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきました。 2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台であります。
昨年の11月に改修工事を終えたばかりということもあって、古い重厚感を維持しつつも、綺麗に仕上がっていました。 ここで、福太郎さんたちは「私たちは外で待っているので、中を見学してみてはいかがでしょうか?」と仰ったのですけど、私とたつぴは有料ゾーンに入る手前の、敷地内のみ見てくることにしました。 そうしたら………



「M義兄さん 」
私は思わずそう言ってしまいました。 銅像のモデルは、「荒城の月」や「花」、「箱根八里」などを作曲したことで知られている音楽家の瀧廉太郎なのですけど、箔母さんの実兄のMさんにあまりにもソックリだったのです。ちなみに彼は現在、農業を営んでいます。 そうしたら、この画像を箔母さんに送ってみることにしましょう それから間もなくして「本当にそっくり~\(^o^)/で、どこの誰?(原文ママ)」という返信がありました。 それだけではなく「その本人にも送ってやろう」とも言っていたのですけど、もし私にも同じようにして自分ソックリの銅像の写真が送られてきたとしたら、やはり照れ笑いをしてしまいます。 さらにそれ以来、私は「1万円札がムリなら、千円札でもいい。新しい紙幣の肖像画が、瀧廉太郎だったらなぁ………」と思うようになりました。
奏楽堂では、私たちにとっては予想外のモノが待ち受けていたのですけど、落ち着きを取り戻してから白ふわの輪に戻りました。



交差点の向こうに見える歴史的っぽい建物は、地下鉄ではないのに地下を走る、京成電鉄旧博物館動物園駅です。 昭和8年(1933年)の京成本線開通に合わせて開業し、平成16年(2004年)に廃止されました。現在は、たまに何かのイベントで内部が公開されるみたいで、洞穴や戦前の建造物などが好きな私はとても気になっています。



そこからほど近いところには、国立国会図書館・国際子ども図書館の巨大な建物が聳え立っています。 こちらは旧帝国図書館として、明治39年(1906年)と昭和4年(1929年)の二次にわたって建てられ、現在は東京都選定歴史的建造物に指定されています。国立国会図書館の支部図書館で、児童書を専門に扱っているのですけど、もちろん大人も利用することはできます。



さらに私たちは、寛永寺の根本中堂に。 かつての寛永寺は、その伽藍が現在の上野公園全体に及んでいたのですけど、慶応4年(1868年)5月の上野戦争で一部の建物を残して焼失してしまいました。 ちなみに今日見られる根本中堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)に川越喜多院の本地堂を移築したものです。 寛永寺の中心はかなり隅のほうに追いやられてしまいましたけど、新たな根本中堂は近くで見ると、かなり大きくて立派で風格のある建物です。
私たちは、かつて京成電鉄の寛永寺坂駅があった場所で営業しているコンビニをやり過ごし………



谷中霊園に続く桜のトンネルを潜っていきました。 上野公園のものに負けるとも劣らない見事な桜の並木が続いているのですけど、こちらは人が少ないのでゆったりと堪能することができます。 そうしていたら、桜吹雪の花びらがワンコたちの頭に……… と、またしてもいいところ(?)なのですけど、お散歩オフ会の話は次回で程よく完結させたいので、今回はこのあたりでよかろうかの?(なんか、懐かしい)狛どん、ちぇすとー きばりや。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「新しい五千円札の女性枠(?)は与謝野晶子がいい」と、密かに推されている方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狛の上京物語(谷根千お散歩オフ会その1)

2019-04-17 02:07:22 | ワンコイベントの類
こんばんは、白黒茶々です。
昨年の秋にスピッツクラブ展覧会が終了して以来、ワンコを連れて列車で遠出する機会が激減しました。 ………と思いきや、実は私は水面下で(?)それに代わる新たな計画を練っていたのですよ。 スピクラ展がなくなったぶん、時間と予算に余裕が生まれたことになりますよね。 これはある意味、別のチャンスができたと言ってもいいでしょう。
そのような状況の中で私は、ここ数年途絶えていた東京でのお散歩オフ会に再び参加したいと思うようになりました。 列車で東京まで行き、その現地で地元のスピ仲間に名所旧跡などを案内していただきながら、ちょっとした距離を歩くというのです。 白黒茶々家もですけど、これまでご一緒してくださったゆきさん家と福太郎さん家は、ワンコが世代交代しつつあります。そんな彼らにお願いしてみたところ、快く応じてくださいました。
そうしたら、列車に乗る準備をしなければ を高槻に迎えに行った時には、の列車用キャリーを使ったのですけど、両者を連れて遠征するとしたら、狛専用のものも新たに必要となります。



………ということで、通販で取り寄せましたよ ちなみに、楽天市場で1万6千円ほどでした。 そうしたら、さっそく狛に入ってもらいましょう



実は、うっかり対象が12kgまでのLサイズにしてしまったので、狛には多少余裕があります。彼は8kg弱なので、10kgまで対応のMサイズでも充分でした。もしこのキャリーを列車内に持ち込もうとしたときに、駅員さんに「規定より大きいからダメ」なんて止められたら、どおしよう………
いや、その商品の説明の中に「大勢の人がいる場所や建物内、電車やバスなどの公共機関の移動時には………」とあったので、大丈夫です。たぶん、きっと。

3:23


そして、お散歩オフ会の当日になりました。私は深夜に起きて支度を進め、まだ日の出前の3時台に波と狛の朝散歩、いや、未明散歩をしました。 さらに、浜松駅までは箔母さんに送ってもらうのですけど………



波は家に残ることに。実は、彼女はちょっと前からヒートで、まだその期間が残っていたのです。今回の参加犬は彼女以外はみんな男の子なので、安全的にもマナー的にもムリなのですよ。 すまない、波ちゃ

5:01


ということで、私たちは泣く波を振り切り、車に乗り込んで浜松駅に向かいました。 その頃はまだ夜明け前で、車窓からは浜名湖の夜景が見えました。

5:27


そして、浜松駅に到着。 まだ5時台だったのですけど、この時季にはもうかなり明るくなっていました。  そこからは始発列車に乗り込んだのですけど、駅員さんに狛キャリーの大きさのことで突っ込まれることはありませんでした。それから50分ほどで………

6:37


今回の立ち寄り処となる、藤枝駅に行き着きました。 この駅の1番線ホームには………



明治22年(1889年)の東海道線開通当時から現存している油庫があるのですよ この建物は、木造客車の車内灯に使うための軽油ランプが収納されていて、レンガはフランドル積という作り方が採用されています。
私はこのような歴史的な建物が好きなので、今からそちらに行きますよ



ところが、1番線ホームは現在は臨時のホームとなっているみたいで、私たちが来たときも含めてほとんどの時間帯は封鎖されていました。 そ、そんな……… だからと言って、このまま大人しく帰るのもナンなので………
※強行突破だけはお止めください!いや、それよりもまだ旅の途中なので、そこで帰ってはいけませんよ。(編集部注)



油庫を手の上に乗せちゃいました 私が巨大化して、油庫をあ~んとすることも考えたのですけど、さすがに人目もあるので、控えめな反撃(?)にしておきました。

そういえばこちらの駅前には、「ねじねじした何か」があると聞いたことがあります。 ねじねじって……… 中尾彬さん的なものでしょうか?とにかく、狛の小休止も兼ねて、そちらに行ってみることにしましょう

6:47


いや、この場面は時間表示は出さなくてもわかります。 藤枝市はサッカーの強豪校の藤枝東高校などを有するサッカーの街ということもあって、サッカー関連のモニュメントがありました。それらとは別の、私が狙っているねじねじは、駅の南側にあるみたいです。



非核平和都市宣言、交通安全都市宣言、………などの宣言を受け、1995年に造られた「生命の樹」なるモニュメントは………



う~む……… 確かにねじねじしていますね。 いや、ぐねぐねと言ってもいいのかも。 こちらも、これだけではナンなので………



狛も足して、この作品を完成させました。 彼は背景に合わせているのでしょうか?ポーズと表情が微妙ですね。藤枝でのミッション(?)をこなした私たちはさらに列車に乗り込み、東に向かっていきました。

7:57


富士川を渡る際には、うっすらとではあるのですけど、富士山が見え………

10:39


浜松駅で始発列車に乗り込んでから約5時間後に、東京の上野駅に到着しました。 実は、狛にとっては浜松から東は初めてで、波でも横浜から先には行ったことがないので、いずれにしても新記録となります。 そうしたら、これから集合場所となる西郷さんの銅像の前に向かいますよ



上野公園はちょうど桜が満開で、それを目当てに来た人で賑わっていました。 そういえば、昨春は東京見物でこちらに来ていましたし。奇しくも、私とたつぴは2年続けて上野の桜を見ることになりました。 それからしばらくして………



あった、ありましたよ 西郷さんの銅像が。 昨年の大河ドラマ「西郷どん」の放送を経て、一皮むけたようにも見えました。 やはり、ここに来たからには………



連れてきたワンコも加えて、作品を完成させたいですね 題して「西郷さんと犬と犬」。とかなんとかやっていたら、「あの(銅像のほうの)犬は、何て名前なのかな?」と言っている人がいたので、「西郷さんが最も可愛がっていたツンという子がモデルになっています」私は思わず出しゃばってしまいました。 さらに調子に乗って「種類は、今では絶滅してしまった薩摩犬です」なんてことも。本当は「ニホンスピッツのコマという子がモデルに………」としておきたかったのですけど、さすがにそれはやり過ぎかと。 そうしているうちに………



待ち合わせていた小太郎君を始めとした地元の白いお仲間が、続々とやって来ました。 そんな彼らに、狛は興味津々のご様子。 と、せっかくいい場面なのですけど、放送の終了時間が迫ってきている(?)ので、今回の日記はこのあたりで失礼させていただきます。 ということで、次回は参加メンバーの紹介と、谷根千散策の前半の様子をお伝えいたします。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 すでに油庫の調理法のことで頭がいっぱいの方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海道一の大親分・清水次郎長

2019-04-13 01:50:12 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
皆さんは、清水次郎長(しみずのじろちょう)という人物のことをご存知でしょうか? ひと昔、いや、ふた昔前の昭和34年(1959年)には、二代目広沢虎造氏が浪曲化し、ラジオ放送されたことで一躍有名になったそうです。



現在でも「彼の名前は聞いたことがある」という方は、たくさんいらっしゃると思います。 しかし彼が何をした人で、どんな親分だったのかという話になると「う~ん………」となってしまうのではないでしょうか? 彼の地元の静岡県民でありながらも、実は私もそうだったのですよ。なので、今回は実際に私が次郎長ゆかりの地を訪ね歩き、彼の生い立ちや彼が成した功績をたどっていこうと思います。



………ということで、やって来ましたよ 静岡市清水区に。こちらは漫画家のさくらももこさんの出身地でもあり、以前は清水市という地方都市でした。そのエスパルスドリームプラザから歩いていけなくもないところの美濃輪の街中に………



清水湊 次郎長生家はあります。 最近保存工事がおこなわれ………



間口は狭いのですけど、昔ながらの町屋らしく、奥行きがかなり長くなっております。清水次郎長は文政3年(1820年)1月1日に、薪炭を商う船頭・高木三右衛門の次男として誕生しました。



水は枯れてしまっているのですけど、その建物内にはその時に使用した産湯の井戸が現在でも残っています。 長五郎と名付けられた彼は、小さい頃から腕白かつ粗暴なガキんちょで、そのおこないを直すために、米穀商を営む母方の叔父の山本次郎八の養子に出されました。そして、次郎八の子の長五郎ということで「次郎長」と呼ばれるようになりました。
しかし粗暴な性格は直らず、入った寺子屋ではいたずらが過ぎて退塾させられ、さらには江戸で一念発起しようと叔父の家から大金を持ち出したのですけど、失敗。次郎長は次郎八から勘当を言い渡されてしまいます。 さすがの彼も、これには懲りたのかと思いきや「東がダメなら、西で成功してみせる 」と、隠し貯めておいた残りの金(百両)を持って、今度は浜松に行きました。 そこで米相場につぎ込んだら、大儲け そのことによって、次郎長は勘当を解かれました。 しかし、その翌年に養父の次郎八は亡くなってしまいます。 次郎長は彼のあとを受け継ぎ、米屋の仕事に精を出しました。それからきわを嫁に迎え、商売も繁盛して、彼は真っ当な道を歩んでいきました。
それから4年が経ち、20歳になった彼のもとに1人の旅の僧が訪れてきました。 彼は次郎長の人相を見るなり「これは……… 25歳までしか生きられないぞよ」と言ったのでした。 それまでおこないを改めてマジメに働いてきた次郎長の人生観はひっくり返り「どうせ早死にするのなら」と、任侠の道に走ってしまいました。 旅の坊さん、余計なことを………



清水港にほど近い清水区港町のエスパルス通りの西の端に、次郎長が開業した船宿末廣が移築復元されています。 かつては清水波止場にあったのですけど、その部材を多数転用して、平成13年(2001年)に清水港船宿記念館 末廣としてオープンしました。 入場無料のありがたい施設で、その館内に入ると………



明治時代に営まれた船宿の面影を今に伝え、展示品や15分ビデオで次郎長の生涯を知ることができます。 そのような中に………



等身大の旅姿の次郎長が再現されていて、旅人の小道具を借りて彼との2ショットを撮ることができるのですよ ちなみに、次郎長の身長は5尺2寸(約156cm)。その際に、私は係員の方にカメラのボタンを押していただきました。
ヤクザというか、渡世人として生きることになった次郎長。賭博場に出入りするようになったのですけど、博奕のもつれから人を殺めたこともありました。また、強盗を追ったり、斬り合いに加わったりして、重傷を負ったことも。さらに妻きわとも離婚し、清水を離れて西尾の今天狗の治助のもとに居候もしました。



そのような中、再び清水に戻った次郎長は、庵原川で津向一家和田島一家が対決しているところに1人で出向き、見事に仲裁することに成功 そのことによって、侠客としての彼の名声は高まりました。
その頃、次郎長はおちょうを妻に迎え、10人の子分を抱えていました。その中に、森の石松もいたのですけど……… 石松は次郎長の命で金比羅神社に行った帰りに、都田吉兵衛兄弟に25両を騙し取られたたうえに斬殺されてしまいました。そこで、次郎長のもう1人の子分の大政らが仇討ちをして、石松の無念を晴らしました。

それらの他にも、次郎長の武勇伝はあるのですけど、22人の次郎長一家が吉良の仁吉に加勢し、130人もの黒駒の勝蔵一家を相手にした「荒神山の血闘」はかなり有名で、そのことによって「清水湊に次郎長あり 」の名声を不動のものとしました。 そして時代は明治へ。しかし、時代が改まったからといっても、いいことばかりではありませんでした。

明治元年(1868年)に駿府町奉行が廃止されるのに伴って、次郎長は新たな組織のもとで東征軍判事街道警固を命じられました。そのような中で、旧幕府軍を乗せた咸臨丸(かんりんまる)が清水港内で官軍に攻撃され、幕軍の兵士が斬殺されるという事件が起こりました。 誰も港内に浮かぶ兵士の死体に手をつけようとしなかったのですけど、次郎長はそこに出向き、「死ねばみな仏」と言ってそれらの死体を引き揚げて埋葬し、手厚く供養しました。その姿に幕末明治に活躍した要人の山岡鉄舟は感服し、それをきっかけに次郎長と鉄舟の交流が始まりました。



次郎長の生家から歩いて7分ほどの清水区南岡町に、梅蔭禅寺という次郎長の菩提寺があります。 鉄筋コンクリート製の本堂は存在感ありありなのですけど、その片隅には………



小さな資料館が設けられています。 ここから先は、有料(大人300円)となります。その内部には………



次郎長が愛用していた博奕の道具や肘掛けなどが展示されています。
次郎長は鉄舟との出逢いをきっかけに渡世人をやめ、新しい時代の清水を考えるようになりました。 それに伴って、数々の事業を展開していきました。例えば、茶の販路を拡大するために、清水港に蒸気船が入港できるように整備するのに奔走したり、富士の裾野(現在の富士市大渕地区)を開墾したり、東京から医師を招き入れて、医院を開設したり、………と、清水の発展に貢献しました。



さらに国際化にも目覚め、英語塾を開いて外国との国際的な交流を奨励しました。 その様子は、船宿末廣の2階に再現されているのですけど、いきなりそのマネキン人形を目にしてしまった見学者は「うわっ 」と驚いていました。



再び梅蔭禅寺にワープさせていただきます。 そのミニ資料館を出たところには、池に囲まれるようにして清水次郎長の銅像があるのですけど………



「うわっ 竹内力さん
と、思わず叫ばれた方もいらっしゃるのでは?白目(?)の感じがなんとなく似ていませんか?それよりも、私が訪れたのは冬の夕暮れ時で、思いっきり逆光になっていました。 晩年の次郎長は子供にも慕われ(お菓子をくれたから)、すっかり好々爺となっていました。そして明治26年(1893年)6月12日に、74年の生涯を閉じました。



次郎長の葬儀はこのお寺でおこなわれたのですけど、彼を慕って3千人以上の参列者が訪れたそうです。彼は森の石松や大政、小政らの子分の墓に囲まれて、静かに眠っています。
順路は再び資料館に入り、土産物コーナーを通って出るようになっているのですけど………



そこには、別次元の若くて男前の次郎長がいました。 これをSNS等に投稿し、そのことを係員にアピールすると、ちょっとしたものがもらえるのですけど、それが何なのかは実際にその場に行ってお確かめくださいませ
義理人情に厚く、曲がったことが大嫌い。さらには先見の明があって、生まれ育った清水の発展にも貢献した清水次郎長は、男の中の男(漢)でした。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 次郎長が英語塾で「じすいず あ ぺん」とか言っている光景を思わず想像してしまった方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥山高原と○○○神宮

2019-04-10 04:32:14 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
前回からの続きで、私・の白黒茶々家の1人と2頭が乗った車は、マーシャちゃんフェリシテちゃんの車と連なって、浜松市北区の奥山方面に向かっています。 そちらには、この時季には昇竜しだれ梅と桜の共演が見られる奥山高原があるのですけど、私たちが目指しているのは、奥山高原とは似て非なる奥山公園のほうにございます。どちらも桜の名所なのですけど、果たしてそちらの地域の桜は花が咲いているでしょうか?



とかなんとか言っているうちに、奥山の駐車場に到着しました。 そこにあった桜は、前の日記の都田川桜堤よりいい感じで咲いていましたよ そこから徒歩3分ほどで………



奥山公園にたどり着きました。 この日は桜まつりで露店などが出ていたみたいですけど、その頃には撤収に入りつつありました。



それでも、無料の茶席にはギリギリ間に合いそうだったので、私たちは真っ先にそこに飛び込みました。 「すみませ~ん、3人(と4頭)でお願いします 」



岡崎公園での集まりはいつも茶席で締めるのですけど、奥山公園はそこから入ってしまいました。 それはさておき、さっそくいただくことにしましょう 茶菓子は「奥山まんじゅう」となっているのですけど、中身はこの地方の名物の味噌饅頭(みそまん)でした。それでも抹茶との相性はよく、私は満たされた気分でその席を立つことができました。



まずは、その近くにある奥山の大本山方広寺の総門の前(下?)で、集合写真を撮っておきましょう。



奥山公園は、方広寺の門前町のすぐ横にある公園で、池を囲うようにして多数の桜が植わっています。



その池には「夢の浮き橋」という橋が浮かべられているので、ワンコと一緒に渡ることにしましょう。 ただし、あまり端に寄りすぎると傾くので、ご注意くださいませ。まさに一休さんの「この箸渡るべからず」ですね。
※箸を渡れる人って、小人さん?(編集部注)



その浮き橋に乗ると、水上の高さから対岸の桜を眺めることができます。 この時季は、夜にはライトアップされた桜が池に映るという、幻想的な光景も見られるので、いつか遅い時間にも来てみたいです。
次の目的地は、マーフェリちゃんのママさんが以前から気になっているというところなのですけど………



新東名高速道路の上り線の奥山トンネルを潜る時、その頭上に看板が見えてきます。 なかにはすでにその看板を目撃された方もいらっしゃるかも知れませんね。



しかも、そいつは夜になるとライトアップされ、怪しさは増します。 カナメ神宮となっているのですけど、その実態は………



奥山公園から奥山高原に向かっていく途中に、そこに入る道があります。



その駐車場には源平しだれ桃なる木があって、その日はちょうどいい具合に咲いていました。 やはりワンコと一緒に撮っておきたいですね。



その下のほうにも綺麗に咲いているしだれ桃があって………



こちらにもありましたよ。 せっかくなので、みんなで並んで撮っておきましょう。



カナメ神宮の垣根から内側の境内は、ワンコは立ち入り禁止となっていました。 なので、私たちは交代で参拝&散策をすることにしました。



その本殿があるエリアはめったには入れないみたいで、鎖で仕切られていました。 神宮の説明によると……… 人間界の様々な問題は、見えない霊魂の世界に操られているとされています。カナメ神宮では、そのような神からの因縁を断ち切る法を天授された者が、尊い祈祷と、神の御力と仏の慈悲の力を併用する特別な供養をおこなうというので、他とはひと味違います。



こちらの桜は、満開に近いですね。 しかも静かな環境の中で観賞できるので、穴場的な場所です。



あとその境内には、ハチコロというワンコの石像もありました。 像とはいっても本物の首輪をしていて、冬場の寒い時季だからなのか、防寒対策もしっかりと施されていました。
ともに宮司にとっては大切な存在で、たとえ動物であってもその姿に教えられる事はたくさんあると、信じられてきました。それぞれの使命をまっとうした二匹の犬たちに対し、宮司は感謝の意味をこめて、この石像を造られたのです。



夕方になって陽が傾き出した頃、マーフェリちゃんのパパさんとママさんは、そこからちょっと離れたところにある、ドッグラン的な場所に案内してくださいました。 そこには、彼女らのドッグラン友達が来ていて………



狛はこちらの白い子と相性がよかったみたいで、一緒に走り回ったりしていました。 ドッグランを走るワンコは、今までの白黒茶々家にはいませんでした。



なのでそんな狛ちゃを、波ちゃは静かに見守っていました。



狛ちゃ、二足立ちしていますね。 マーフェリちゃんのパパさんとママさん、この日はマーシャちゃんやフェリシテちゃんともども私たちに付き合ってくださり、ありがとうございました。 また、案内していただいたカナメ神宮は、花の美しさに加えて微妙な怪しさもよくて、さらに秘密のドッグランでは、楽しく締めることができましたし。また機会があったら、ご一緒してくださいませ。

にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 カナメ神宮の看板を目当てに、新東名高速道路を走ってみたくなった方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サモスピで行く気賀関所と都田川桜堤

2019-04-06 02:16:06 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
前回から私はを伴って、浜名湖の北部に来ています。 プリンス岬を一周したあとは、今度はその足で桜が咲き始めた気賀関所都田川桜堤になだれ込む流れなのですけど、そこから白ふわのお友達と合流することになっているのですよ



では改めてご紹介いたします。 地元サモエドの、マーシャちゃん(9歳)とフェリシテちゃん(6歳)です!皆さんも拍手でお迎えくださいませ。 私が彼女たちと逢うのは、まだ箔がいた昨春の白ふわオフ会のとき以来で、約1年ぶりとなります。なので、狛とは今回が初対面ということに。



2サモと2スピが揃ったので、まずは気賀関所の前で集合写真を撮っておきましょう。 それが済んだら………



関所を見学しますよ 一昨年前に、この地域を舞台にした大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送され、関所のすぐ近くのみおつくし文化センターが大河ドラマ館となったことから、それ以来臨時駐車場からの導線上にある気賀関所は、入場無料となっていました。しかし、その効力は平成30年度で切れるので、3月31日のこの日が最後となりました。 えっ、ワンコは抱っこしていないと、その敷地内には入れないですって サモエドは抱っこして歩けるようなサイズではなく、私のほうは波狛ちゃを両脇に抱えなければならないので、もっとムリです。 なので、交代でその中に入ることにしました。



気賀関所は、陸路となる浜名湖の北部を通っていた姫街道に、江戸時代初期の17世紀に設けられました。 本来の関所は気賀の街中にあったのですけど、明治初期に廃止され、さらに本番所は昭和30年代に建物の一部を除いて取り壊されてしまいました。 貴重な関所の遺構だったのに、なんてことを………
ちなみに今日見られる関所は、平成2年(1990年)にふるさと創生の1億円の交付金をもとにして、新たな場所に復元されたものです。



そこで取り締まっていた御奉行様も、マネキンで再現されているのですよ。しかし、そこにいるとは知らずに彼らと目線が合って、思わず「ギョッ 」とした方も、多々いました。



特に、江戸に武器が持ち込まれる「入り鉄砲」や、江戸にいる大名の奥方が脱走する「出女」の監視を重視していて、こちらの女改めでは、大名の奥方が男装してしれっと通過しようとしていないか、身体検査をしているところです。



関所の構内にある小さな資料館の中には、気賀宿で出された献立の食品サンプルも展示されていました。



それから、江戸時代中期に江戸の将軍徳川吉宗に献上するためにベトナムから連れてきたという像に関する史料も その像は、姫街道と気賀宿も通っていったのですけど、その手前の急な坂で悲鳴をあげたそうです。 それ以来、その坂は「像鳴き坂」と呼ばれるようになりました。それよりも、江戸時代に像を初めて見た人が描いたこの絵は、グッときませんか?そんな気賀の像の話に、マーフェリちゃんのパパさんとママさんはとても興味津々のご様子でした。



さらに、関所には遠見番所という展望台のような施設もあるのですけど、そこから桜越しに外で待機しているワンコたちの様子を眺めたりもしました。 私を待っている間、波と狛はイイ子にしていたでしょうか?



う~む……… イイ子というか、狛はママさんにすり寄り、「よしよし」してもらったのですけど、それに対してフェリシテちゃんがヤキモチを焼いていました。 そんな感じで、気賀関所を満喫したら………



今度はその近くの都田川桜堤を歩いていきますよ こちらは都田川の堤防に植えられた桜がトンネル状になっているのですけど、まだ咲き始めたばかりでした。 翌週の7日には、こちらで姫様道中というお姫様が行列するイベントが予定されていて、その頃には満開になっていると思われます。 ここ数年は、その一大イベントの日が雨だったり花が散って葉桜になっていたりだったので、今年はベストな状態でできそうですね。



全体的にはまだまだなのですけど、場所によってはいい具合に咲いている木もありました。 それらの中でも、ほぼ満開となっている大きな桜の木の下で、マーフェリちゃんのパパさんにワンコたちを持ち上げてもらって、写真を撮ることになりました。 まずはマーシャちゃんです。



次はフェリシテちゃんですね。ちょっと重そうですけど、いい表情の写真が撮れるまで、パパさんはその状態でお堪えくださいませ



スピッツの段階に入ったとき、パパさんは思わず「わっ、軽い 」と仰っていました。よかったね、波ちゃ。



最後は狛ちゃとなります。彼は4頭のワンコの中では最も軽いのですけど、体が短くて太いので、ズッシリ感はあります。



あとは、桜のトンネルのいい具合のところをバックにして、こちらでも集合写真を撮っておきましょう このあと私たちは、さらなる桜を求めて奥山方面に向かいました。 それだけではなく、マーフェリちゃんのママさんがオススメする○○○神宮(この段階では、私はまだ名前を覚えていませんでした )にも行ってみることになったのですけど、それらの場所では桜はいい感じで咲いているでしょうか? それから○○○神宮は、他とはひと味違うという情報もあるのですけど、どのあたりのことがそう言わせているのでしょうか?それらの疑問は、次回の日記で解決する予定です。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 神宮って、明治?熱田?橿原?……… と、かなりビッグなところを予想された方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇室ゆかりのプリンス岬

2019-04-03 01:41:39 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
ついに新しい元号が発表されて、5月から「令和元年」となりますね。 皆さんの予想は当たっていたでしょうか? 見事、的中された方には……… 賞金などはないので、「すごい 」の誉め言葉だけでご了承くださいませ。 その改元と時を同じくして、現在の天皇陛下が退位されて上皇になられ、代わりに現在の皇太子様が新たな天皇に即位されるのですよね。 それに伴って、世間は祝賀ムードに包まれ、10連休をどのように過ごすのか悩む方もいらっしゃると思うのですけど……… 自営業の職場にいる私は、そんなには休めません 今年は昭和の日がないので飛び石連休にもならず、5月の4連休が精一杯です。 そもそも10日も休みをもらって旅行三昧だったり、逆にだらだらと過ごしたとしても、連休はあっという間に終わるもので……… スミマセン。話が横道にそれたというより、つい私の妬みが入ってしまいました。 この際、休みの長さはさておいて、今年のGWはみんなして時代の節目を跨ぐという、またとない体験ができるのですよ

話は変わって、その天皇・皇后両陛下は昨年の11月末に、在位中の最後の私的訪問地として、静岡県西部を選ばれました。その際には、私と箔母さんが結婚式を挙げたホテルに宿泊され、浜松市の外国人学習支援センターや浜松市楽器博物館を見学し、帰京されたそうです。地元民してはとても光栄なのですけど、実はこのずっと前から浜松市や浜名湖は、天皇ご一家とはご縁があったのです!



ということで私は波と狛を伴って、西気賀駅にやって来ましたよ!こちらは奥浜名湖にある、天竜浜名湖線の駅です。洋食屋のグリル八雲さんが併設されていることもあって、無人駅ながらもおしゃれで賑わいがあり、美味しそうな雰囲気が漂っています。



ちなみにこの駅舎は昭和13年(1938年)に建設され、その当時のレトロ感を今に伝え、国の登録有形文化財に指定されています。



こちらは無人駅ということもあって、ホームにも気軽に出入りすることができます。 それから間もなくして、列車がやって来たので、私たちがじ~~~っと眺めていたら、乗客のほうもこちらをじ~~~っと見ているような。はい、白スピ2頭がいますよ。



その列車を見送ったら、いよいよ今回のメインでもある、プリンス岬こと五味半島を一周しますよ しかし、その入口は普通の道路で、半島感も海沿い感もありません。



それでもそれから間もなくして、湖畔の向こうに西気賀小学校が見えてきました。 このあたりで、この地と天皇ご一家との関連について説明させていただきます。
きっかけは、現在の皇太子様が昭和40年代の学習院初等科時代に、社会科見学の一環としてこの地を訪問されたことに由来します。 みかん狩りや養鰻場の見学をされたそうで、その際にこの地を気に入られ、翌年からはご一家で来られるようになりました。 その滞在中に、皇太子様はこちらの小学校で地元の子供たちに混ざってソフトボールをされたみたいで、その時に使用されたユニホームやグローブ、バットなどの道具が、同校に大切に保管されています。



小さな半島なので、すぐにその先端に到達することができましたよ そのすぐ近くには………



天皇ご一家が滞在された建物があるのですよ 現在は、とある企業の保養所となっているのですけど、建物などは当時のまま残っています。皇太子時代の天皇ご一家にゆかりのある半島ということで、のちに五味半島は「プリンス岬」とも呼ばれるようになりました。



その保養所は「立入禁止」となっていて、敷地内に入ることはできないのですけど、外観だけならいくら見てもいいようになっています。 小ぢんまりとしてはいるものの、木造平屋建てで松の木に囲まれていて、落ち着いた佇まいとなっております。



さらにその庭には、東屋のような施設もありますね。 こちらの家屋は御用邸とは違い、天皇ご一家は保養ではなくて静養に利用されていました。なので、滞在中はまわりの住民と垣根越しに会話されたり、写真を撮り合ったり、………と、気さくに交流されたそうです。現在象徴天皇として活動されている原型が、すでにその頃からあったのですね。



そうそう、静養の場所というだけあって、そのあたりの景観は素晴らしくて、湖越しに舘山寺方面を臨むことができました。



皇太子様たちはこのあたりで海水浴もされたそうですけど、現在は波打ち際に牡蠣の殻などが溜まっていて、泳ぐ環境ではなくなっています。それでも、静かな環境の中に、岸に打ち寄せる波の音や潮の香りが漂ってくるのは、昔から変わってないと思われます。



滞在中の天皇ご一家のお姿を思い描いたら、さらにその先に進みますよ



半島の西側から見える風景は、こうです。 ちなみに湖上に並んでいる杭のあたりでは、牡蠣の養殖をやっています。



しかし、またしても半島感も海沿い感もない状況になったところで、プリンス岬一周コースはゴールに入っていきました。 その地点は西気賀駅にも近く、駅を出発してから30分ほどで戻ってくることができました。
今月末から来月始めにかけて、ついに天皇が交代します。それに伴って元号も変わり、カウントダウンなどで日本中がお祭りムードに包まれると思われます。 その一方で、天皇・皇后両陛下や皇太子様にゆかりのある場所ということで、プリンス岬も注目されるようになるのかも知れません。私たちが訪れたときには、誰とも出くわさないほど静かだったのですけど、そこが再評価されるといいですね。それから、皇太子様は天皇に即位されたらより自由が効かないようになりそうですけど、昔を懐かしみ、いつかまたこの地を訪問されることを、私は願っています。




にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「令和」を漢字変換しようとしたら「例話」と出てしまった方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする