波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

牛川の叫び

2024-02-28 02:19:09 | 家族

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私はと一緒に豊橋市の北東部に位置する牛川町を訪れています。 実はこの地域では、昭和30年代に世紀の大発見があったのですよ

………ということで、私たちは豊橋東陵地区市民館にやって来ました こちらは牛川町にある公民館なのですけど、その入口には………

「牛川人骨」なるもののレプリカが展示されているのですよ 実は私たちはこの牛川人を探究するために、この地域を訪れました。 正確には、牛川人に興味を持ったのは私だけで、波と狛はそれに付き合わされただけなのですけど。 とにかく、ここからさらに歩いて調査に行きます 東陵地区市民館から南の方向へ、住宅地を8分ほど歩いていったところにある………

小さな公園に行き着きました。 その入口には………

「牛川原人史跡公園」という石碑が立てられていますね。 住宅地の公園ということもあって、ブランコやシーソーといった遊具も設置されているのですけど………

その中央には「牛川原人之碑」と刻まれた石碑が置かれています。 昭和32年(1957年)にこの付近の石灰岩の採掘場で、化石化した骨が発見されました。 東京大学の教授で人類学の第一人者でもあった鈴木尚氏は、発掘されたのは更新世紀後期の10万年前の地層で、国内最古の化石人のものと認定しました。 「牛川原人発見 」のニュースに人々は驚き、地元は大いに沸いたと思われます。
ちなみにこの石碑の文字は、鈴木尚博士の筆によるものです。 その後、牛川人は年代が下がって旧人のものとされたりもしたのですけど………

さらに技術が進み、年代の測定や分析がより正確で明確にできるようになった近年では、牛川人とされてきた骨は原人や旧人はおろか、ヒトのものであるかどうかも、怪しくなっていきました。 そして最近載った新聞の記事には、ヒグマのものであることがほぼ判明したと、ありました。 牛川人ではなく、牛川羆(ひぐま)だったなんて……… ヒグマは現在は本州には生息していなくて、それは年代的にも本州最後のヒグマということになるので、貴重といえなくもないのですけど。
牛川原人は幻だったものの、発見されてからの経緯や、それに対する人々の想いに、私はロマンを感じました。 学術的に否定されても、牛川原人は私の心の中にいます。 なので、この地を実際に訪れて、より牛川原人のことを身近に感じることができたので、よかったと思っています。 しかし、この小さな公園だけではナンなので、そこからさらに南の方向、歩いて15分程の住宅街の山側にある………

Google Mapに「牛川原人『美人の湯』跡」と記されている地点にやって来ました 調べたら、このあたりはかつては温泉付きの住宅地として売り出され、仮設で無料の露天風呂も設けられていたそうです。

さらに「原人神社」なる怪しい社殿もあったのですけど、そのまわりにひっつき虫を含む草が生い茂っていて、近づくことはできませんでした。 それから不思議なことに、牛川原人史跡公園の途中あたりから私のスマホに撮ったハズの画像が保存されてなかったので、「美人の湯」跡のあたりはストリートビューなどから引用させていただきました。

原人を追い求めて勢いが付いた私は、さらなる目的地に向かって牛川の住宅地を歩いていました。 するとそこに、電話がかかってきました。からなのですけど、何の用なのでしょうか?
「すぐ来て、お父さん死んじゃった」
その直後、自分でも驚くほどの大きくて悲壮的な声が牛川の街に響き渡りました。とにかく、自分の気持ちをなだめながら、急いでそちらに向かうことにしました。

81歳になる私のは、いくつかの持病を抱えながらも元気で、よく食べよく寝て、自らが創業したお店の2階で隠居的な生活を送っていました。ほんの2日前の病院での定期検診では異常はなく、普通に歩いたりしていたのですけど………

病院の救急外来の廊下には、一家、それに私から知らせを受けた箔母さんたつぴが集まっていました。母と姉によると、父は前日の夜まではしっかりとご飯を食べていたのですけど、その日の朝は体の具合が悪くなり、母に支えられてトイレに入ったそうです。病院に行くのを勧められても断わり、ベッドで横になることに。しばらくして母が様子を見にいったら息をしていなくて、ちょうど居合わせた姉が心臓マッサージをしている間に、私や救急車を呼んだそうです。
今思うと、牛川で写真が撮れなかったのは、父が亡くなった頃だったので、お別れを告げに来てくれたのかも知れません。

その後も救急隊員が心臓マッサージを続けても蘇生することはなく、10時47分に死亡が告げられました。それから間もなくして、死後の処置がされた父が霊安室に運ばれていきました。まだ温かくて、死んでいることが信じられなかったのですけど、遺体を自宅まで運ぶ業者を探したり、菩提寺への連絡や葬儀場の確保を急いでしなければなりませんでした。目の前で起こっている事実を受け入れながらも、気持ちはついていけませんでした。

父の遺体は一旦はお店の2階の居間まで私も含めた男手で運んだのですけど、階段や通路が狭くて、死後硬直したら降ろすことができなくなるので、1階のお店の片隅に棺を置いて、その中に安置することになりました。2月は亡くなる人が多いみたいで、斎場は予約でいっぱいでした。そういうこともあって、市の公営の斎場で5日後の9日に通夜、10日に葬儀がおこなわれることになりました。さらに、喪主は長男の私が担うことに。その1週間はお店は半分開けている状態で、その間に生前父と親しくしていただいた方たちが逢いに来てくださったりしました。いずれにしても葬儀が終わるまでは仕事にならず、晩年まで仕事に熱心だった父にとってそこはいい居場所だったと思います。それに一時的とはいえ、自宅にも上げられたので、父も私たちも満足&納得できましたし。そして9日の夕方に近所の方たちに見送られながら、父はお店から出棺しました。
ところで皆さんのところには、出棺の際に藁を燃やしたり茶碗を割ったりする風習はあるでしょうか?

湖西市の斎場まで来ました。父は生前に、自分の葬式は大きなところで派手にやって欲しいと言っていました。それは数ヶ月前に、父が参列した実兄の葬儀が身内だけの小さな家族葬だったことに反してでも、見栄からでもないような気がします。父は仕事関係も含めて、どんな人にでも気さくに話しかけたりして、多くの方から慕われていました。そんな大切な人たちにお別れの場を設けたいと考えていたと思います。通夜にはたくさんの人が参列して、涙を流したりしんみりとした笑顔で父との思い出を語ったりしてくださいました。

喪主の挨拶の文にも入れたのですけど、父は40年以上も前に親会社から独立して、身寄りもない新たな地で小さな小売店の会社を創立。以来、熱心に働いてきました。70歳頃に心筋梗塞になり、さらにその数年後にはステージ4の喉頭癌を患いました。それらは手術で克服したのですけど、ヘビースモーカーだったことから肺機能が低下し、79歳の時には老人性貧血で医師から余命宣告を受けるまでに。本人の希望もあって、治療を諦めて自宅に戻ることにしました。ところが、お店の様子を見ながら、母の美味しい料理を食べたり、ボートレーサーの孫たちの活躍に熱くなったりしていたら、奇跡的に快復 医師も驚くほど元気になりました。以後の2年余りは、神様から与えられた時間だったと思います。
認知症にもならず、介護の手もかからず、ほぼ苦しむこともなくポックリと逝ったので、なかには「理想的な最期」と仰る方もいました。

翌日の10日は、葬儀がおこなわれました。私は、ペットも含めて亡くなった者の葬式の日の天気は、その方の人柄を表していると信じています。その日は、雲ひとつない快晴でした。市の斎場は火葬場と一体となっていて、父の棺はたつぴらに抱えられて火葬棟に運ばれました。そして爽やかな青空の中、父は旅立っていきました。

ボートレーサーの光君は、「レースで頑張っている姿を見せれば、じいじは喜ぶし供養になるから」と言って、通夜や葬儀がある頃に予定されていたレースに出場しました。 その最初のレースでは、1着でゴールしたのです その姿を見た母は涙を流し、私も感動でいっぱいになりました。 こんなに泣けるレースは初めてでした。

翌週の休み明けから、私たちは父が興したお店で再出発しました。 小さい会社ですけど、社長は私が受け継ぎ、まわりの手を借りたりしながら名義変更などの後処理の業務などを少しずつ進めています。 お父さん、今までありがとう。 これからは母を守りつつも、残された者たちで遺志を受け継いでいくので、遠くから見守っていてください。



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赤岩寺の蝋梅と貴モーニング

2024-02-24 00:58:29 | お寺

こんばんは、白黒茶々です。

まだ寒い時季が続きますけど、皆さまはいかがお過ごしでしょうか? 春までもう少しなので、寒さに堪えて……… という挨拶をするところなのですけど、2月なのに寒くはないというよりは、むしろ暑い スキー場や鍋料理業界などにとっては、厳しい冬となりました。 その一方で、2月といえばの花が見ごろとなる時季でもありますよね 梅の名所にも行きたいのですけど、私は梅でも今年は蝋梅を見ておきたくなりました。 なので、近場で蝋梅があるところを調べていったら………

豊橋市の北東部にある赤岩寺さんに行き着きました ちなみに日付けは2月4日。 この日は曇りの予報に反して朝から雨だったのですけど、目的地に着く頃にはやんでいるだろう。 ………という希望的観測に則って、ここまで来てしまいました。 この段階では霧雨だったのですけど、間もなくしてやんでくれました。 後方に見える楼門形式の立派な山門には………

いかつくて力強い仁王像が収められていました。 さらにその先に続いている参道を歩いていったら………

朱色の門がある、お寺の主要部に至りました。 こちらのお寺の正式名は、高野山真言宗の赤岩山赤岩寺さん。 神亀3年(726年)に行基菩薩によって開創されたと云われています。 さらに、天安元年(857年)に弘法大師(空海)の弟子の杲隣(ごうりん)上人が中興し、高野山平等院の末寺となりました。

朱色の門の向こうにも見えていた本堂は、小規模ながらも深みがあって立派です。 その手前に見える托鉢姿の石像のお坊さんは、弘法様でしょうか?

その本堂の近くにある梅の古木の花は、満開となっていました。

こちらの朱色の建物は、愛染堂にございます。 この堂内に祀られていた木造愛染明王坐像は、国の重要文化財に指定されました。 そういえば赤岩寺さんに来た目的は、蝋梅でした。 梅園ならぬ蝋梅園のようなものはないので、境内を探していったら………

先程の朱色の門の近くにありましたよ 本数は少ないのですけど、特徴的な蝋細工のような黄色い花をつけていました。

せっかくなので、その風景の中に波と狛を入れてみました ところで皆さまは「ろうばい」って漢字で書けるでしょうか? 私の突然の問いに、狼狽されていることと思います。 もし書けなくても、大丈夫です。 私も、花のほうだけではなく、慌てふためくほうもあやふやなので。
それはさておき、朝のお花見を終えた私たちは、そこから一山越えた豊橋市東小鷹野にある………

以前から気になっていた、COFFEE SHOP 貴さんに向かいました。 こちらでの目的は……… もちろんモーニングですよ 店構えは小さいのですけど、駐車場からして混んでいました。

席のほうはなんとか確保できたので、メニューを選んで……… と言いつつも、実は私は前もって注文するメニューを決めてきたのですよ 写真に出ているたまごかけごはんも捨てがたいのですけど………

スペシャルモーニングは、レギュラーに50円追加するだけで、こんなに豪華になるのですよ 小さなおにぎりが付いているのも、嬉しいですね ただし、今回私が狙っているのはこれではなく………

和食の朝定食でした 御飯のお供が充実しているうえに、目玉焼き焼き鮭まで乗ってくるときたもんだ さらにドリンクまで付いて550円なんて、まさにコスパ最高で至れり尽くせりです そんな私に、お店の方は「ご注文は何にいたしましょうか?」と聞いてきたので、待ってました とばかりにオーダーしようとしたら「御飯がなくなったので、レギュラー(モーニング)だけとなります」と、前もって断られてしまいました。 ぐ……… すでに1択ではありませんか。 ということは、お店の方が聞いてきたのは、ドリンクのことだったのですね。 しかし、私のテーブルにはメニュー表がなかったので、無難で私にとってはいつでも受け入れOKなホットコーヒーにしました。 それから間もなくして………

私の席に、レギュラーモーニングのセットが運ばれてきましたよ トーストオマケのパンも付いてきて、しかも両方ともしっかりと焼いてありました。 さらに小倉あんも添えられているので、パン類で味の変化を楽しむことができますよ 450円でも、このレギュラーメニューは侮れません
レギュラーは味も内容も満足できるものでしたけど、今回食べられなかった朝定食のほうも気になります。 それに、たまごかけごはんも食べてみたいですし。 さらに、後になってからお粥モーニングがあるということも知りました。 なので、これからは間を置かずにCOFFEE SHOP 貴さんを訪れなければなりませんね。

モーニングで朝の活力を注入した私は、その地域であるものを探究していきました。 その「あるもの」とは何なのか?それについては、次回の日記でレポートします。


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どうする家康 浜松大河ドラマ館CCと崖の上の波狛

2024-02-21 02:12:35 | その他

こんばんは、白黒茶々です。

せっかく節分の話をしたばかりなのに、季節ネタの都合で半月ほど前にまでさかのぼらせていただきます。 なんか「3歩進んで2歩下がる」か「七転び八起き」みたいになってしまいました。 いや、それらは少しは進んでいるのですけど、これはすごろくの「○○前まで戻りなさい 」のような後退となります。 それでもそれは一時的なもので、次回は節分の翌日のネタを用意しているので、どうかご安心くださいませ。 それと、今回の日記のタイトルに出ている「CC」はカントリークラブではなく、クロージングセレモニーのことであります。 全部記したらタイトルが長くなってしまうので、省略させていただきました。 ということで、時は1月14日の日曜日、所は浜松市の浜松城公園から入らせていただきます。

私はその日は朝から、を連れて浜松城に来ていました。 ということは、私たちにとっては今年3つ目のお城となりますね。 そうしたら………

本丸跡にある「若き日の徳川家康公」像を仰ぎ見て………

石段の先にある天守門をくぐっていったら………

模擬天守が私たちを出迎えてくれました。 ただし今回はワンコ連れで、ここだけの話、浜松城はついでに寄っただけなので、外から眺めるだけとさせていただきます。

それでも、その模擬天守がある天守曲輪で記念撮影をしておきました。 その際に、「わぁ~、白くてふわふわ 」とか「おとなしく座っていてエラいね 」という声が聞こえてきて、私の心は浜松城より高いところにまで浮遊していました。

それと天守曲輪の西側の埋(うずみ)門跡を出たところでも、往来が少ないところを狙ってワンコ写真を撮りました。 ほとんどの時季は木が茂って模擬天守が隠れているので、冬枯れのこの時がチャンスだったのですよ さらに西に向かって歩いていき、浜松市美術館を越えた先には………

お城を模した建物が これは浜松城公園の西の入口にある交番で、私は久しぶりに見ました。 さらに、どうする家康 浜松大河ドラマ館がある浜松出世パークになだれ込んだら………

浜松徳川武将隊の皆さんが太鼓を叩いていて………

大河ドラマ館には、入場待ちの長蛇の列ができていました。 その施設の開設期間はこの日が最後で、浜松市民には無料で開放されていたのです。 私は地元民ではなくて、閉館を惜しんで入るつもりもありませんでした。 それでは、なぜこちらに来たのかというと………

大河ドラマ館の前ほうの特設ステージクロージングセレモニーがあって、そのイベントを波&狛と一緒に見届けたかったのです ゲストとして、徳川宗家19代当主で大河ドラマ館の名誉館長でもある徳川家広公と、松潤ならぬ松若こと松本若菜さんが来ることになっていたのですよ ちなみに「どうする家康」では、松若さんは阿茶局役をやっていました。 彼らの出番までまだ時間があったので、そのあたりをブラブラしていたら………

信康さんと行き逢いました 徳川家康の長男で非業の死を遂げた、徳川(松平)信康をモチーフとした信康さん。 彼と逢うのは、3ヶ月前の家康楽市&家康公祭りの時以来となります。 さらに出世大名家康くん出世法師直虎ちゃんも見かけたのですけど、後回しにしていたらいなくなってしまいました。

そうしているうちに、特設ステージのまわりに人が集まってきたので、私もセレモニーの開始時刻の30分以上も前から待ち構えていました。 波と狛は、私の側でカートに乗っているので、大丈夫です。 このくらい視野が開けていたら、しっかりと見えると思っていたのですけど………

場所を動いていないハズなのに、いつの間にか背の高い人が私の前方に立っていたりして、見辛くなっていました。 それに加えて「セレモニーの撮影はご遠慮ください」とこかれてしまいましたよ そして、13時に浜松市長の挨拶を皮切りにして、セレモニーは始まりました。 さらに、家康プロジェクト推進協議会の会長や徳川家広公のスピーチのあとに………

松本若菜さんが登壇しました 皆さまには翌日の新聞記事でしかお見せできないのですけど、確かにあの時の服装あの時のお姿の通りでした。 そのステージでは、彼女は記念品を授与されたり、浜松まつりの法被を羽織らされたりしていました。
「どうする家康」は最新の研究に基づいていて、最初はどこにでもいるような平凡な人間(むしろダメ人間)が、有能な家臣たちに支えられて成長していくというストーリーでした。 そのドラマとリンクして、私たちのほうも家康に関する地元の史跡などを巡ったりして、楽しませてもらいました。 その反面、話の展開の都合もあって、本多作左衛門重次松平忠輝の出番はなくて、天海は最終回にちょっと出ただけでした。

クロージングセレモニーが大方終わったところで、私たちは一旦ステージから離れました。 それにしても、こちらにもかなりたくさんの人が集まりましたね。 そんなクロージングセレモニーがクロージングしたところには………

家広公のお姿が 大河ドラマ館の建物はそのまま残され、徳川家に伝わるお宝の展示施設にリニューアルする計画があるそうです。 そのオープニングセレモニーなどで、是非また浜松にお越しくださいませ
今回のイベントを見届けた私たちは、居合わせた人たちが大挙して押し寄せて、帰りの道がぐちゃぐちゃに混む前にその場を離れ………

浜松城公園から西北に1.5km程のところにある、犀ヶ崖古戦場跡にやって来ました 元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、徳川家康が率いる織田との連合軍は、武田信玄の軍に大敗。 その後、この犀ヶ崖に夜営していた一部の武田軍に家康は奇襲をかけて、一矢報いました。

現在は小さな公園となっている犀ヶ崖には展望台が設けられていて、そこから下を見ると………

深い崖となっています。 現在の深さは10m程ですけど、かつては20mはあったそうです。 徳川家康はこの崖に布を渡して橋に見せ、夜襲された武田の兵はそれにダマされて谷底に転落。 その際には、多くの死者を出したと云われています。

さらにこちらには、入場無料の犀ヶ崖資料館があって………

三方ヶ原の戦いや犀ヶ崖に関する資料が展示されています。 それと、その戦死者の亡霊や祟りをなだめるために発足したという、遠州大念仏のことについても知ることができます。

私は今までスルーしてきて申し訳ないのですけど、その公園の奥のほうには本多忠真顕彰碑が立てられています。 忠真は本多忠勝の叔父で、三方ヶ原の戦いでは徳川軍のしんがりを務めて犠牲になった人物です。 「どうする家康」ではその時の様子が丁寧に描かれていて、忠真の役の波岡一喜さんの演技も見事でした。

その本多忠真の顕彰碑の前には、「どうする家康」で徳川家康役だった松本潤さんと、瀬名役の有村架純さんがいますね。 彼らは昨年こちらを訪れ………

三方ヶ原の戦い関連の場所として特定できる犀ヶ崖で、記念碑の鍬入れの儀式に参列したのですよ 私はこの石碑を今回初めて見ました。 「平和への祈りを込めて」と刻まれた裏側には………

「どうする家康」の主要メンバーの名前が記されていました。 これは記念になりますね

このドラマが終わっても、時々思い出したりして、今後も変わらず徳川家康関連の場所を訪れるようにしたいです。



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節分の夜に3種3様の鬼出現!

2024-02-17 02:21:05 | 年間行事

鬼は~そと、福は~うち!、白黒茶々です。

もう2月も下旬に入っているのですけど、波狛日記はようやく節分を迎えたところです。 節分といえば、鬼のお面をかぶったり、太い巻物を無言で一気喰いしたり、鬼に手加減ナシで思いっきり豆をぶつけたり、………と、子供だけではなく大人も楽しめる行事となっています。 果たして今年の節分の夜は、白黒茶々家にはどのような鬼が現れるのでしょうか? そうしているうちに、いよいよその2月3日になりました。 毎年その夜には定番の節分ディナーが出てくるのですけど、その支度ができるまでの間は………

ウチの全てのペットに鬼のお面をかぶせて遊びましょう 正確には、かざすのですけど。 まずはワンコ部門(?)では最年長のお波さんからです ちなみに今年の節分の時の年齢は、9歳10ヶ月にございます。 それよりも、私から何の説明もないまま鬼化させられたからでしょうか? 何かを訴えるような目でこちらを見ています。

次は5歳7ヶ月のお狛さんです こちらは不本意そうというか、難しそうな顔をしていますね。 あ、申し遅れましたけど、今年の鬼面のデザインは、眉がバットで鼻がボールになっていますよ。 これは、大谷翔平君がエンゼルスにいた頃に、ホームランを打った際にチームメイトに兜をかぶせられたのを題材にしていると思われます。 狛ちゃ、大谷君の兜ですよ ありがたく思いなさい

猫部門のトップバッターは、お京さんにございます。 波狛日記では、ニャンズの出番がなかなかないのですけど、彼女らは元気にしています。 そんな京ちゃはこの部門だけではなく、現在の白黒茶々家では最高齢の12歳9ヶ月(推定)にございます。 食欲は旺盛なのですけど、最近は寒さに弱くなり、冬場は猫用のホットカーペットの上で過ごしています。 そうしたら、節分の試練(?)を………

鬼面撮影には拒否的だったので、2人がかりでムリヤリ……… いや、箔母さんと一緒にお願いして(?)、なんとか撮らせてもらました。 似合っていますよ たぶん、きっと。

次はお晃(こう)さん(推定8歳10ヶ月)の番なのですけど、彼は人懐っこ過ぎてすぐに私に体をスリスリしてくるので、単独の姿を撮るのは難しいです。 なので、お面装着前から抑えつけ写真となります。 そんな彼の頭に鬼面を乗せたら………

晃ちゃがこうなりました2代目水戸黄門西村晃さんの名前から1字いただいたお晃さん。 冬場のこの時季はもふもふの毛のボリュームが増して、ずっと触っていたくなります。

最後はお緑(りょく)さん(推定8歳10ヶ月)ですよ!この段階から警戒していますけど、彼は基本的にビビりです。 模様は白黒猫というか牛柄で、額のハチワレがスゴくいい感じです。 晃ちゃとは対照的で、冬場は肉や脂肪のほうのボリュームが増し増しとなっております。 もちろん鬼面の宿命は避けて通れないのですけど、そんな緑ちゃにかぶせたら………

このような姿に。 絶叫マシーンがニガテな人がムリヤリ乗せられて、恐くて目を閉じたら余計恐くなった。 ………という感じでしょうか? 勇気を出して目を開ければ、新たな世界が広がりますよ どうか鬼面化した自分を受け入れてくださいませ
とかなんとかやっているうちに、節分ディナーの用意が整ったので、ご案内致します。

この日の献立は、そば恵方巻にございます。 恵方巻だけでは寂しいし足りないので、もう1品チョイスしたのですけど、本来そばは節が切り替わる際に食べるものなので、しっかりとした意味もあります。 代わりに豚汁を薦める方もいますけど、こちらも恵方巻との相性が良さそうですね そんなそばを平らげたら………

恵方巻に取り掛かりますよ 皆さまもご存知の通り、この節分食はその年の恵方を向いて、願い事を念じつつ無言で一気に食べなければなりません。 ちなみに今年の恵方は東北東。 では、こちらもいっただきま~す もごもご………
全員が恵方巻を平らげたら、お待ちかねの(?)鬼の出番となります 皆さまも拍手でお迎えくださいませ
※それはちょっと違うのでは……… (編集部注)

待ったナシで最初の鬼が現れました 箔母さんたちにはナイショですけど、この鬼の正体は、実は私なのですよ。 手には、最強の武器の黄金の鮭のぬいぐるみこと、VICTORYしゃけまる 北海道日本ハムファイターズが試合に勝ったあとにのみに出現するという、貴重なアイテムでもあります。 これがあれば鬼に金棒、どんな相手でも負ける気はしません ところが、豆で秒で退治されてしまいました。

入れ替わるように、次の鬼が襲いかかってきました こちらの鬼は、巨大なしゃけまる(ノーマルタイプ)を手にしていますね。 そういえば、箔母さんが見当たらないような。 とにかく、鬼1号の敵を打ってください ………って言っておきながらも、よく考えてみたら私は攻守交代して、豆をぶつける側にまわっていました。 それならば、おには~そと!おには~そと!

その直後に、鬼3号がやって来ました こちらの鬼は凶悪なのですけど、「すずめの戸締まり」サダイジンとサメのぬいぐるみを武器にしていて、なんかユルい そういえば、たつぴが見当たらな………
※もう鬼の正体はバレているので、そのおとぼけはおやめなさい!(編集部突っ込み)
経費節減のためでしょうか?それぞれの鬼がかぶっていたお面は年々小さくなってきていて、ギリギリ顔を隠せる状態でした。 その一方で、この激戦を物語るように、床には大量の豆が散らばっていました。 それでも心配要りません!ここで再び、の出番となります。

廊下、いや、鬼との決闘場に放たれた彼女らは、一心不乱に豆を食べまくりました。 白黒茶々家の節分をよく心得ているみたいで、豆をまく段階からこの時を待ち構えていました。 しかも、鼻がよく利いて取りこぼしがないので、掃除をする手間が省けて大助かり
このようにして、今年の節分はつつがなく終わりました。 昔、長野県の貧乏神神社でも同じような退治法だったので、疫病神と一緒に貧乏神も退散していってもらいたいですね。 それと、波と狛は歳の数以上の豆を食べたと思いますけど、彼女らが健康で長生きできますように~


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西尾城の続きと常福寺の大仏様

2024-02-14 03:13:13 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

前回の終盤あたりから、私・の白黒茶々家の1人と2頭は西尾城に来ています。 そのお城には………

かつては3層の立派な天守があったのですけど、明治初期に取り壊され、天守台の石垣も失われてしまいました。 実は前回の日記では、その天守をバーチャルで浮かび上がらせてみたのですよ 近年になって、天守台のみ復元されたのですけど、二之丸の内側から見たら低いので………

見栄えがいい外側に回ってみました。 しかし、近くの橋を架け変える工事をやっている影響で、まわりがごみごみしている上に近付くこともできませんでした。

それでも、その天守台から続いている屏風折れの土塀と、その先に聳える二之丸丑寅櫓の眺めは壮観です 丑寅櫓は消防法や安全上の理由で中には入れないのですけど………

日中は入口が開けられていて、そこから1階の内部を覗くことができます。 ここまできても、波と狛がなかなか出てこないと思われている方がいらっしゃると思いますけど、写真に写ってないだけで彼女らはしっかりと私のすぐ側にいます。 それでもせっかくなので、キャラクターショーなどでヒーローの登場を待ちわびているちびっ子の観客みたいに、皆さんも波と狛を呼んでみてください。 では、私に続いて大きな声でお願いします。

せ~のっ なみちゃ~ん!こまく~ん!

………なんか、仰々しく呼んでいただいたのに地味な登場となってしまって申し訳ないのですけど、今回の日記でようやく姿を現しました。 ちなみに彼女らの後方に見えるのは、本丸のほうの丑寅櫓にございます。 私たちが訪れた1月は15時を過ぎたあたりから日が陰ってきているので、急いで撮影と見学を済ませなければなりません なので、せっかく波と狛に出てきてもらったのですけど、屋内型施設はワンコ禁止なので、駐車場の車の中で待機していてくださいませ。 この丑寅櫓は小ぢんまりとした建物ながらも………

東側からの眺めも良くて、さらに………

日中は無料で開放されているのですよ ちなみにこの建物は平成8年(1996年)に鍮石門と一緒に木造で復元されました。 現代の一般的なものより角度が急な階段を上っていったら………

最上階の3階に到達しました。 さらにその窓からは………

周辺の町並みや、先程見てきた二之丸のあたりを眺めることができるのですよ さらに、波と狛が入っているウチの車が見えるのも、嬉しいですね ここまできたら………

姫丸門跡の近くに建てられている西尾市資料館も、見学していくことにしましょう 城郭建築を思わせるような外観のこの建物も入場無料で………

内部は、最近改装されて綺麗になっていました。 展示されている西尾市や西尾城に関する史料のほうも、以前より見やすくなっていました。 日没が迫っていて、今回の蒲郡・西尾方面の名所旧跡めぐりは西尾城で締めるのかと思いきや………

あともう1ヶ所寄っていってもいいですか? やはりこちら方面に来たら、ここもハズせないので。 ということでやって来たのは、西尾城からは南西に5kmちょっと行ったところにある、常福寺さんであります。

こちらは、今から1000年ほど前の長徳年間に創建された浄土宗西山深草派の寺院で、その境内には………

存在感ありありの大仏が露座しているのですよ そうしたら、西日を浴びて輝いているその大仏様に迫っていきます。

昭和3年(1928年)に建立されたこの大仏様はコンクリート製で、台座を含めた高さは14mもあります。 地元では「刈宿の大仏(おおぼとけ)さん」と呼ばれ、親しまれているそうです。 私たちが訪れた3年ちょっと前は、赤銅色だったのですけど………

金銅色に塗り直されていました。 それでも、ポーズは変わっていませんね。
※誰もが同じ突っ込みをしたがっていると思いますけど、敢えて言わせていただきます。当たり前だ!(編集部注)
前に来たときにもやったのですけど、指を伸ばしたこのポーズを見ていたら………

失礼ながら、角度を変えて「鼻ほじり大仏」をやってみたくなります。

この大仏様は立派な光背も備えているのですけど、さらに台座の裏側には入口が開けられています。 実はそこから入って胎内めぐりができるのですよ 入ってすぐのところには阿弥陀如来像が祀られていて、さらに両脇にある細くて狭い階段を上がっていくと………

内部の2階に出ることができます。 この空間は台座の上部と大仏様のお膝のあたりでしょうか? こちらも祈りの場となっていて、照明はなくても天窓からの明かりを受けて輝いていました。 さらにその天井部分を見上げてみたら………

コンクリートむき出しの空洞となっていました。 材質と構造がわかったというか、おかげで納得することができました。
昭和天皇が即位し、全国がお祭りムードで浮かれていた年に建立された常福寺の大仏様。 海難者の冥福を弔うのと、漁師の安全を祈願して造られたとも云われています。 そのため、大仏様は海の方角を向いています。

常福寺の大仏様はオマケというか延長戦みたいになってしまいましたけど、日が暮れる前になんとかお参りすることができました。 ということで、今回の波&狛との散策シリーズはこれをもってお仕舞いとなります。 皆さまは最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 物好きな私が計画するので、一貫性のないコースとなることが多々ありますけど、これからも懲りずにお付き合いくださいませ。



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今年の城初めは東条城、それと黄金堤もっ

2024-02-10 02:03:57 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私・の白黒茶々家の1人と2頭は歴史散策モードに切り替え、西尾市に狛を、いや、駒を進めました。 その勢いで向かったところは………

東条城……… の見学者用駐車場でした。 しかし、こちらはGoogle Earthを見ながら探しても見つからなくて、まわりをグルグル回ってしまいました。 それでも、この駐車場に行き着いたらもうこっちのもの その次に私たちが向かうところはもうおわかりですよね?

そうです 東条城跡です。 お城に続く幅の狭い坂道を上っていったら………

模擬復元された冠木門がありました。

その先の二の丸跡には八幡社が鎮座していて………

そのまた一段下の三の丸跡は、広い空間となっていました。 ちなみに後方に見える土類や木柵は、本丸跡のものです。
東条城は13世紀初期に、足利義氏によって築かれました。 以降は東条吉良氏や東条松平氏が居城としたのですけど、天正10年(1582年)に廃城となりました。

私たちはその本丸跡に入っていきました。 こちらには平成4年(1992年)に模擬城門模擬物見櫓が建てられ、より中世の砦を感じられるようになっていました。 しかし、それらは令和3年(2021年)に老朽化のために取り壊されてしまいました。 先程くぐってきた冠木門や目の前にある木柵は、一緒に建てられたものでしょうか?

その本丸跡には、「東條城址」と刻まれた古くて立派な石碑が立っていました。 はい、こちらは正真正銘の東条城があったところです。

そこは、三の丸跡以上に広い場所でした。 かつてはこの空間には御殿屋敷が建てられていたと思われます。 その西側からは………

三の丸跡の全体の様子や、遠くに西尾市の街並みを臨むことができました。 今回の日記のタイトルに出ている通り、私にとってはこの東条城が今年初めて訪れたお城となります。 城郭自体も今回が初めての訪問で、土類や曲輪の跡などがいい感じで残っていて、見応えがありました。 それに加えてお城からの眺望もよくて、また来たくなりました。 そんな東条城をあとにした私たちは、北に1.7km程行ったところにある………

黄金堤というところに行き着きました 現在こちらは、駐車場やトイレを備えた公園となっています。 私は以前にも来たことがあるので、こちらでは先程みたいにGoogle Earthを見ながらまわりをグルグルするようなことはありませんでした。

その公園内には「黄金堤」と刻まれた立派な石碑が立てられていて………

昔の堤防の遺構が残っています。 その片隅に「吉良の里」と示されている通り、この黄金堤がある西尾市の旧吉良町のあたりは、「忠臣蔵」では悪役にされている吉良上野介義央(よしひさ)公の領地でした。

せっかくなので、堤防の上を歩いていきましょう 義央公が治めていた17世紀の末頃、このあたりの村は大水の度に被害に苦しんでいました。 義央公は水害から領地を守るため、領民とともに長さ約180m、高さ約4mの堤防を一夜で築いたと云われています。 その後は水害がなくなり良田となったことから、人々は堤防を「黄金堤」と呼ぶようになりました。 今は冬枯れの状態ですけど、そこには桜の木が植えられていて、春にはお花見に来た人で賑わっています。

その黄金堤の下には、馬に乗った義央公の銅像があります。 これは、江戸から離れた領地を視察に来た様子だと思われます。 彼は地元では黄金堤の築造も含めて、数々の善政を敷いた名君として愛されています。今でも親しみを込めて「吉良さん」と呼ばれているみたいですね。 そんな吉良さんに敬意を込めて………

白犬2頭を従えさせてみました 銅像が小さいのか?波と狛が大きいのか? それはさておき、今度は混むことを覚悟してでも、桜が満開の時季に来たいです。 黄金堤でのミッション(?)を終えた私たちは、今度は西尾市の中心部に向かっていき………

西尾城に到達しました そういえば、こちらのお城は私にとっては今年2つ目となりますね。 ちなみに波と狛の後ろに見える建物は、鍮石門(ちゅうじゃくもん)にございます。 二之丸御殿に至る表門で、平成8年(1996年)に復元されました。

こちらは二之丸丑寅(うしとら)櫓であります。 丑寅は北東の方角のことで、この建物は令和2年(2020年)に復元されました。 私たちがその年の秋に訪れた時にはまだ新築だったのですけど、なんとなく深みが出てきました。

さらに、私たちは二之丸跡 波と狛の視線の先には、平成26年(2014年)に積み直された天守台があります。 予算などの都合で天守本体の復元はまだ実現しないのですけど、公園の案内板に載っているQRコードをスマホで読み取って、出てきたアプリを起動させると………

バーチャルで天守を再現させることができるのですよ!さらに立ち位置を調整すれば、一緒の画面に入り込むこともできます。 しかし、スマホの調子が悪いのか、今回は何回やってもイマジナリー天守との記念写真を保存することはできませんでした。 なので、これは3年ちょっと前に訪れた時のものとなります。 波と狛も、今よりはちょっと若く見えませんか?
西尾城は見どころが多くて、紹介したいところもまだあるのですけど、夜も更けてきたのでこのあたりで一旦筆を置かせていただきます。
※文学的表現というか、今どきブログを毛筆で書く人はいないと思います。というより、どう考えてもムリです!とにかくこの名所旧跡探訪シリーズは次回まで続くので、どうかお付き合いくださいませ。(編集部からの突っ込みとお願い)


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竹島に響く海風の歌

2024-02-07 03:05:31 | ワンコ

こんばんは、白黒茶々です。

前回の予告通り、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、子安弘法大師の巨像に見送られながら、蒲郡市の竹島に向かいました。 竹島といえば………

竹島水族館が有名ですよね こちらの水族館は古くて小規模ながらも、その不利な条件を逆手に取って、スタッフが面白くて人気のある施設に再生しました。 具体的には、思わず吹き出してしまうようなユーモアのある手書きの説明書きや、グソクムシなどの海の生物に直接触れられるコーナー、間近で観られるアシカショー、………などがあります。 しかも、入場料はワンコインの500円ときたもんだ しかし、今年に入ってから増築を伴った大改築が始まるので、見学することはできません。 ………と思っていたのですけど、実はこの日までやっていました。 私はスケジュールを決める段階から早々と諦めていて、この日のコースには入れていませんでした。 急遽組み込みたいところですけど、そのようにしたら後に予定しているところに行けなくなってしまうので、後ろ髪を引かれながらも断念しました。 とにかくリニューアルされて、より魅力的な水族館になることを願っています。
そんな竹島水族館を通り過ぎて、三河湾の海側に歩いていったら………

藤原俊成(としなり or しゅんぜい)卿の銅像がありました。 俊成卿は平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した歌人で、「千載和歌集」の選者としても知られています。 さらに三河国司を務めた際には、荒れ地となっていた竹谷荘や蒲形荘を開発し、「蒲郡開発の祖」となりました。 そんな俊成卿の像が見つめる先には………

竹島が浮かんでいました 私がその島を見たのは3年1ヶ月ぶりで、波と狛にとっては初めてとなるので………

この景勝地をバックにして、記念写真を撮っておきましょう すでに気付いている方もいらっしゃると思いますけど、こちらの岸壁と竹島は橋で繋がっているので、歩いて渡ることができるのですよ 前回の私はまさに島を見ただけなので、今回は久しぶりにそちらを目指します。かつては、船でしか渡ることができなかった竹島。

その橋は歩行者専用で、道幅が広くて安定感もあるのですけど、冷たい海風が強くて寒い さらに、橋のフェンスに吹き込んで「ヒュ~」とか「フヨヨヨ………」とかいう音楽を奏でていました。 タイトルをつけるとしたら「海風のハーモニー」ってトコでしょうか? とにかく、風と音楽(歌?)のダブル効果で寒さは倍増しました。 そんな過酷な状況の中で、387mもの距離を歩いていったら………

途中で、先ほど行ってきた弘法山の上の子安弘法大師像を臨むことができました。 存在感アリアリで、大いに目立っていますね。 そんな巨像に見守られながら………

ようやく竹島に上陸することができました すでに案内板やのぼりに名前が出ているのですけど、さらに石段を上ったその先には、八百富神社があります。

………ということで、その境内に行き着きました。 こちらの神社は、安徳天皇の養和元年(1181年)に創建したと云われています。 その頃に三河国司だった藤原俊成卿が、琵琶湖の竹生島弁天を勧請したとされています。御祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)で、開運・縁結び・安産にご利益があるそうです。 神域となっている竹島はパワースポットとしても知られています。 その島内には八百富神社も含めて5つの神社があり、すべてをお詣りすると、なおよろしい その一方で………

八百富神社の狛犬と、私たちにとっては今年初となる「狛(犬)と狛」をやっておきました これで、私たちの運気も上昇するでしょう ………たぶん、きっと。

そのあとは、「ようやく竹島に上陸することが………」の地点から、竹島の外側を時計回りに歩いて一周することに。 まずは、出発地点から近い岩場の上で、写真を撮っておきました。 ちなみに対岸の丘の上に見える建物は、蒲郡クラシックホテルにございます。 それよりも、私の記憶が修正されていたのでしょうか? そこから先は難なく歩けると思っていたのですけど、歩道のようなものはなく、島の東側は岩をよじ登ったりと、道なき道を行くハメに。

それでも、八百富神社の境内から階段を降りて行ける竜神岬から先は、歩道が整備されていました。

この島は全体が天然記念物に指定されているということもあって、自然が豊かで景色もいい なので時々海辺に降り立って、写真を撮りたくなります。

そうしているうちに、ゴール地点が見えてきました。 歩道の先に見える、蒲郡クラシックホテルの眺めもいいですね 島の西側は、島自体が風よけになって穏やかだったのですけど、帰りの歩道では再び凍えながら海風の歌を聴かされることに。 それでも10分後には………

もとの陸地に戻ってくることができましたよ そこには、ちょっと人馴れしたユリカモメが飛来していました。 そんな彼らに、興味津々の波と狛。 同じ飛来地の浜名湖佐久米駅のホームでは「ワンコはダメ 」と言われたので、こちらでは驚かさない程度に眺めていてくださいませ。

さらに、竹島は縁結びのスポットにもなっているみたいですね。 想い人と一緒に海風が歌う歩道を1度も振り返らずに渡ると、結ばれるとも。 竹島を渡ってから、竹島水族館でデートして、弘法山のラバーズヒルで愛の鐘を鳴らせば、恋愛成就コースが成立しますよ
そんなカップルの姿を想像してから、私たちは西尾市の歴史散策コースに突入していきました。



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祝日のモーニングと子安弘法大師さま

2024-02-03 01:48:17 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

年が明けて最初の祝日は1月1日の元日ですけど、その次は成人の日となりますよね。 私が成人した頃の成人の年齢は20歳で、成人の日も1月15日に固定されていました。 しかし祝日法が変えられて、成人の日は流動的となり、さらに多くの自治体ではその前日の日曜日に成人式をやってしまおう という流れになってしまいました。 その後はそれだけにとどまらず、成人の年齢が18歳と規定されたものだから、成人式に該当する集まりも「20歳の集い」と呼ばれることに。 なので、成人の日という名の祝日は有名無実化しているのでは……… と、私は常々思っています。 そんな今年の1月8日の成人の日は、私は仕事が休みだったので………

波と狛を連れて、今年初めてとなる名所旧跡めぐりをすることにしました。 そうしたら、どの方面に行くのか考えた結果……… しばらく足が遠ざかっている蒲郡市の弘法山竹島、西尾市の吉良地区、西尾城などを訪れることにしました。 さらに、せっかく土日以外の日に動けるので、それらの曜日以外にしかやっていないお店でモーニングを食べるところから始めましょう

………という勢いで、以前から気になっていたコーヒーハウスSさんにやって来たのですけど……… 閉まっていますね。 まだ正月の休みが続いているのでしょうか?
※編集部調べによると、こちらのお店は日曜・祝日がお休みでした。なので、どちらかにしか休みが取れない白黒茶々さんは、お手上げということに。(編集部注)
こちらは今回の通り道からかなり外れていて、私は遠回りまでして来たというのに、いきなり出鼻をくじかれてしまいました。 それよりも、ひもじいです。 こうなったらやむを得ない 目的地方面に向かう途中にある初めてのお店に寄って……… ぐ、こちらもやっていません。 最悪の事態になることを恐れつつ、豊橋市の西の端っこまで来たら………

キッチン磯路さんはやっていてくれました こちらのお店には、私は以前に1度来たことがあるのですけど、何度でもOKなところなので、迷わずに入っていきました。

前回は私1人だけで貸切状態だったのですけど、今回は常連と思われるお客で賑わっていました。 この店内の様子は、そんな先客が帰っていって、少し空いているところです。

モーニングのメニューは1種類のみ 来る度に一部の内容が変わるみたいですけど、今回は何が出てくるのでしょうか? それからしばらくして………

私の席にモーニングセットが運ばれてきました メインの一品は、ピザトーストですね。 さらにゆで玉子マカロニサラダフルーツプリン乳酸菌飲料などに、お菓子も付いてきました。 ちなみに前回は、カレートーストでした。 確かその頃は400円台だったのですけど、500円になっていました。 それでも、美味しいのはもちろんのこと、品数が豊富な上にお得感もあって、満足いく内容でした。 キッチン磯路さんで朝の活力を注入した私は、波&狛とともに蒲郡市内に入っていきました。

………ということで、蒲郡市の三谷温泉の背後の弘法山に上ってきました こちらには、平安時代初期に弘法大師(空海)によって開かれたと云われている、三河高野山金剛寺さんがあります。 しかし、今回私たちはそのお寺の主要部は仰ぎ見ただけで………

南の峰にある、子安弘法大師が目当てでした そうしたら、さっそくその像に迫っていきます。

皆さまには像のスケールの大きさをより実感していただきたいので、じわりじわりと台座の裏側から近付いていきました。 さらに正面に回ったら………

こうなりました 本体の高さは18m。 錫杖は22m程で、台座も含めた高さは30mにもなります。 コンクリート製で、昭和12年(1937年)に滝信四郎氏によって建立されました。 東洋一の大きさと言われるだけあって、かなり離れないと、全身をフレームに入れられません。 そんな弘法様に、私の甥っ子夫婦の間に子供ができたので、安産を祈願しておきました。

さらに、そこからの眺めは絶景 三河湾や蒲郡の街、竹島などを臨むことができます。 そのあとは………

せっかくなので、すぐ近くのラバーズヒル(恋人たちの丘)を見ていくことにしました。 実はこの場所には………

かつては麓の乃木山との間を繋ぐ、蒲郡三谷温泉ロープウェイ山頂駅があったのですよ しかし、車で行ける登山道が整備されたこともあって、昭和50年(1975年)に廃止されてしまいました。 それでも、現在でも見晴らしがよくて………

のちに恋人たちが愛を誓う聖地となる、ラバーズヒルが造られました。 ハート形のプレートにメッセージを書いて、南京錠でフェンスに取り付けられるようになってしまいました。 そうしたら、そのうちの1つを見させてもらいましょう

なんか、2人の熱い想いにウルっときてしまいました。 好きな人とは、ずっと一緒にいたいですよね。

私は既婚者で、今回はワンコを除いたら単独で来たことになるのですけど、恋人たちの幸せを願って、愛の鐘を鳴らしておきました。 ただし、この鐘は近所の住民に迷惑になるので、夜景が見られる時間帯は鳴らしてはいけないみたいです。
それはさておき、次に私たちは弘法山からも見えていた竹島に向かいました。 神域となっているその島に上陸するのですけど、その方法や現地の様子などについては、次回の日記に綴ります。


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