波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

牛久保駅舎に導かれて

2022-12-24 00:32:38 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

話は少し前にさかのぼりますけど、今年の9月の新聞にこのような記事が載りました。

豊川市にあるJR飯田線の牛久保駅の駅舎が、老朽化により来年の春に取り壊されることになったとのことです。 その建物は昭和18年(1943年)に完成し、戦時中はその市内にあった軍需工場の豊川海軍工廠の工員が通うのにも利用されていたそうです。 築80年にもなる木造の駅舎には歴史と風格があり、古い建物が好きな私はとても気になりました。 解体を免れられないのなら、せめて写真などの記録や私の記憶に残しておきたいですね。
………ということで12月18日の日曜日に、私は朝からを連れて線路ではなく道路を通って牛久保駅に向かいました。 とはいっても、その前に………

その近くにある牛久保城……… ではなく、お城を模したような喫茶シロさんに寄っていきました。 こちらでの目的は、もちろんモーニングですよ こちら方面に行くのなら、モーニングを食べられるお店はないのか? と、前もって入念に調べていったら、こちらのお店が見つかりました。 9時ちょっと前なのですけど、駐車場は混んでいて、ギリギリ1台止められる状態でした。

外観だけではなく、店内も昭和のレトロ感が漂っていました。 そこは昭和に生まれたであろう常連と思われるお客で賑わっていました。 そういう私も、昭和生まれなのですけど。

席に就いたら、メニューを選びましょう。 とはいっても、すでに心に決めてきたものがあるのですけど。 それから間もなくして………

コーヒーに続いて、モーニングセットが運ばれてきましたよ シロさんで朝にドリンク類を注文すると、これらのメニューが付いてくるのですよ 種類は1つだけで、厚切りの半トーストにはあらかじめバターが塗られているのですけど、イチゴジャムが添えられています。 また、コーヒーのミルクはピッチャーに入れられていて、砂糖もポット入り。 そのあたりも昔ながらの昭和的なのですけど、ついコーヒーに入れ過ぎてしまうので、注意が必要です。
そのお店はどこか懐かしく、初めてでも居心地がよかったです。 もちろん、モーニングも美味しかったですよ 喫茶シロさんで朝の活力を注入した私は、駐車場の車の中で出番を待っている波と狛を伴って………

今回のメインともいうべき、牛久保駅の前にまでやって来ました。 建て替えの際の通路を確保するためでしょうか? 北側の庇やトイレ、東側のホームの屋根などはすでに取り払われていました。

それでも、駅舎の立派な佇まいを見ることができました。

ちなみにその内部は、このようになっています。 私たちの他にも、この駅舎が失くなるを惜しんで写真を撮りに来た方がいくらかいました。 そんな牛久保駅舎を見終わったら………

せっかくなので、その付近を散策していくことにしましょう 牛久保駅の周辺には、私が気になる歴史スポットがいくつか散在しているのですよ ということで、私たちはまずその近くにある、牛久保城跡に行きました。 あ、先ほど喫茶シロさんのことをその名前で言いかけたのは私のギャグなので、あまり気にしないでください。

それはさておき、牛久保城は享禄2年(1529年)に牧野成勝が最初に築いたと云われています。
今川氏の拠点となっていたのですけど、桶狭間の戦いの翌年の永禄4年(1561年)に、徳川家康軍の奇襲を受けました。 その際、お城は持ちこたえたのですけど、家康が自立を目指して今川家に立ち向かうという意思表示をした、最初の場となりました。

元禄13年(1700年)に廃城となり、現在はお城の遺構はほとんど残ってないのですけど、この付近には「城跡」や「大手」、「城下」といった地名が伝わっています。

次に私たちは、牛久保城跡の北のほうにある大聖寺さんに向かいました。 Google Earthのストリートビューにはコンクリートブロックの山門が写っているのですけど………

私たちが訪れた時には、このようになっていました。 スッキリさっぱりしたというか……… さすがに車では通れないと思って、裏側まで回したというのに。 やはり構造的に危ないので、撤去されたのでしょうか?

そのお寺は小ぢんまりとしていました。(失礼っ )大聖寺は永享11年(1439年)に一色刑部時家が一色城を築いた際に、城郭の一角に堂宇を造営したのが始まりとされます。 文明9年(1477)に時家が家臣である波田野全慶に討たれると、境内に彼の墓が建てられました。

実はこのお寺の見どころは、奥のほうにあるのですよ ということで、今からそこに向かいます。

その途中で、猫のミケちゃん(仮名)と行き逢いました。 そんな彼女に、猫が好きな波は大興奮 しかし、猫は波のことを嫌うのですよね。 ………なんて言っているうちに、波は私の手からリードを振り切り、ミケちゃんに迫っていったのです 逃げるミケちゃんを追いかける波。 さらに波を追いかける私。 そんな私に引っ張られて、走らされる狛。

ハアハア……… 大聖寺さんの核心に迫る寸前に取り乱してしまいましたけど、私たちが目指していたのは、こちらの「胴塚」とも呼ばれている今川義元公墓所でした。

義元は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、織田信長軍の奇襲を受けて敗死。 家臣達が首のない遺体を背負って駿河へ帰る途中にひとまずこの地に葬り、手水鉢を置いて墓印としました。 永禄6年(1563年)、義元のあとを継いだ今川氏真は、義元の3回忌を大聖寺で行い、改めて墓碑を建立して寺領を安堵しています。 そんな今川義元公の胴塚をお詣りしたら………

さらに私たちは、長谷寺(ちょうこくじ)さんを訪れました。 こちらのお寺には何があるのかというと……… って、すでに看板に出ていますよね。 はい、山本勘助のお墓にございます。

静かな境内を、奥のほうまで進んでいったら………

お目当てのお墓がありました。 山本勘助は武田信玄の軍師を務めていたのですけど、永禄4年(1561年)の4回目の川中島の戦いで討死。 彼と親交があった長谷寺の念宗和尚がその死を悼み、遺髪を納めてこのお墓を建立しました。 信玄に仕えるまで、勘助は全国を転々としたのですけど、その前にはこの牛久保に住んでいたそうです。 長谷寺から近いといえなくもないところの街角には………

山本勘助の養父だった大林勘左衛門貞次屋敷跡があります。 勘助は明応9年(1500年)に八名郡賀茂村(現在の豊橋市)で生まれ、15歳の時に貞次の養子となりました。 しかし、26歳になって武者修行の旅に出て、9年後に戻ってきたら、貞次には実子が生まれていたのです。 居場所を失った勘助は貞次と親子の縁を切り、関東に旅立ちました。 そちらのほうで、武田信玄と出逢ったというワケです。
そんな屋敷跡のすぐ近くの、かつてその敷地だったのかも知れない寺町公園には………

このようなインパクトありありの猫のトイレが 親子の縁を巡っての愛憎劇が起こった地が、なんかユルくなってしまいました。 いや、もしかしたら今川義元の胴塚の手前で波が追いかけたミケちゃんは、この猫トイレの化身だったのかも知れません。 まったくその可能性がないとは言えないので、私は先程の波の狼藉を謝っておきました。
牛久保地区の散策は以上で終わりなのですけど、私が思っていたよりも見応えがありました。 ただし、道幅が狭いところが多いのに加えて車を止めておけるところが少ないので、歩いて巡ることをオススメします。


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 桶狭間から牛久保までは50km余り。その距離を、首なし死体を背負って歩いた彼の家臣達に「ご苦労様でした!」と言ってあげたい方は、こちらに投票してやってください。


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2 コメント

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Unknown (袈裟切り地蔵)
2022-12-29 23:53:04
 こんばんは。Twitterのほうに出没してたので、
こちらに来るの久しぶりですわ。

3月に、イオンモール豊川が、スズキ豊川工場の跡地に出来るのでお越しください。
袈裟切り地蔵さん♪ (白黒茶々)
2022-12-31 10:50:32
袈裟切り地蔵さん、こんばんは~
こちらにもコメントをくださり、ありがとうございます。

イオンモールができたら、豊川はより活気づきますね。オープン後の混雑が落ち着いた頃に、行ってみたいです。

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