まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

1989年5月27日 日本は負けると・・ 再

2023-04-08 01:25:54 | Weblog

権力との関わり方である・・


1989年5月15日 ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が訪中した。国内の特権階級の腐敗、米国との軍拡争いによる経済の停滞、国民の怨嗟に敢然と取り組み、その改革の端緒が開けつつあるときの訪中である。

そもそも両国は共産党とは名乗っているが政治体制はともかく民癖が大きく異なる。また実験国家の如く一連の共産主義的政治仕様の試みが一応のデーター結果を集積し、かlつコミンテルンという不可思議な字句を掲げ様々な民族、地域に浸透させた。

一方は資本主義、自由、民主、人権、一方は解放、平等を謳ってつばぜり合いを行なってきたが、お陰で双方のお題目を食い扶持とする似非知識人を大量生産した。

それは学派となり兵隊ごっこ宜しく、覇を唱えつつ国家の連帯と調和を崩してきた。彼等も錯覚学説の実験材料でもあった。それは白人植民地の先兵であった宣教師の愛と許しを謳う美句を同様に添えていたのと似ている。

差別は階級闘争として人々をカテゴリーに囲い込み、詰まる所知識人に後押しされた運動家は食い扶持既得権に堕して、近頃では教師、公務員の世襲もまかり通っている。

自由と民主を謳う連中は都合のよい商基準や政治集約システムを最良なものとして影響圏に押し付け、それまで程よい掟、習慣で成り立っていた生業なり生活を煩雑な法規に囲い込み、これこそ法治だと隣国の人治を嘲った。

それは、どちらが繁栄し、もしくは衰退しているかをあげつらい、かつどちらの主義が人の幸せを獲得するのに佳いシステムなのかを問うものでもなく、たとえ貧しくとも、抑圧されていても人の人格の表す自尊なり、民族の矜持、正直で勤勉で忍耐強い人間を育てるグランドの有無如何かを冷静に見なければならないことではある。

群れとなって一方に押しやられた感のある思索と観照を失くした人々は「武」と「富」を駆使した双方のシステムによって第三局の選択肢を模索しつつある歴史の節でもあった。

それは、民を育てる、あるいは矜持を涵養するという主義にいう、根本的な正しいこと(義)を主(柱)とする精神を教授てきる環境を観るべきとの促しでもあった。

反面という説があるが、宦官、纏足、人食、作戯、圧政、は中国の歴史に赤裸々に記されている。そこに孔子、老子、孟子を始めとする儒家、道家が仁を説き、道を説く陰陽、表裏に戯れる柔軟性もある。

一方は戦火に明け暮れ、哺乳血を啜り、奴隷を使役し、植民地をつくる人々は救世主に「愛」と「許し」を請う掟と習性によって生きてきた。

俯瞰すれば我国も阿諛迎合性のある民に狡猾な官吏、放たれれば自尊心を亡くし人倫さえ自らの欲心で融解させてしまうところには、独り天皇は祷り、名利財物に恬淡として所有を拒んでいる。

いずれも必然性がある、孔孟、キリスト、天皇、言い換えれば懺悔のカウンターの様でもある。

駄考の拙論だが、いかなる言も彼等の精神の淵にも届かないだろう。
今を以てもあの頃の若者の表情を思い浮かべる。



             
      鉢巻きの「下台」は地位から降りろという意である


1989年、若者はその諦観を断ち切るように、また小欲を捨て、大欲に生命を懸けていた。掲げるプラカードには「官倒」と大書されていた。自らを民主化の救世主として行動を起した。北京大学、清華大学、我国の首校より難門である。一人っ子政策で九族(家族、親戚)の期待の星達が「生命」の使い方を知り、修学の試行として機会を逃さなかった。

長安街の横断は儘ならず、隊列は数時間に及んだ。ちなみに日本のデモのように待遇改善、賃上げなどはデモと呼ぶべきものではなくまさに闘うデモ・クラシーそのものであるが、我国のそれは意を変えてデモ・クレイジーと呼んだ師の言葉を実感させる。チラシが散乱し、薄い日当を懐に元気の無いスローガンを叫んでいるが、同じ呼称の主義にも色々あるようだ。



               
戒厳令下 5/24



北京駅には地方からの若者が列をなし、革命記念堂の石段には多くの若者が広場の様子を見守っている。

しかし、6月3日の未明、人民の尊敬を集めていた解放軍が水平発射をして鎮圧が始まった。多くの若者が広場に倒れた。事件後、指導者の一人紫玲は香港でそのときの様子を嗚咽しながら搾り出した。


【 9時ちょうど、全天安門広場にいた学生たちは、起ち上って
 「 私は宣誓する。祖国の民主化への行程を推進するために、祖国が本当に盛大に繁栄するために、偉大な祖国が、一つまみの陰謀家によって顛覆されないようにするために、11億の人民が、白色テロの恐怖の中で命を失うことが無いように するために、私は若い生命を賭け、死を誓って、天安門を守り、共和国を守るこ とを、宣誓する。首が斬り落されてもよい。血は流れてもよい。人民広場は棄てられない。私たちは若い生命を賭けて最後の一人となるまで戦う!」
と、右手を挙げて宣誓しました。

 10時ちょうど、広場の民主大学が正式に授業を開始しました。副総指揮の張徳利が、民主大学の校長になりました。
 各界の人々は、民主大学の成立に対して、熱烈な祝賀を表わしました
 当時の情況としては、指揮部の此処ではでは、続々と各方面からの緊急の知らせを受取っていました。情況は非常に緊張していました。
 しかしながら、広場の北部に於ては、私たちの民主大学の成立を祝う拍手の音が鳴り響いていました。民主大学は、自由の女神の像の附近に設立したのです。

 そして、その周囲の長安街では、すでに血が河のように、なっていたのでした。人殺したちーあの27軍の兵士たちは、戦車、機関銃、銃剣(催涙ガスは、その時には、すでに遅すぎた)が、勇敢に一句のスローガンを叫んだだけの人に、勇敢に一つの煉瓦を投げつけただけの人に対して、彼らは機関銃で、追い撃ちをかけてきたのです。 長安街のどの屍体にも、いずれも、その胸には、一片の血が流れていました。

 学生が指揮部に飛んで来ました。
 彼らの手に、胸に、そして彼らのももは、みな血で染まっていました。これ
らは同胞たちの命の最後の一滴の血だったのです。
 彼らは自分たちの胸に、これらの同胞を抱きしめて、やって来たのでした。
 10時すぎ、指揮部では、みんなに要求しました。

 一番大事なこととして、みんなに要求したことは、私たちが、この4月から学生を主体とした愛国民主運動を始めてから、5月に入って以来、全人民運動へと発展変化してきました。私たちの原則は、最初から最後まで平和的な請願をすることでした。 私たちの闘争の最高原則は、平和です。
 非常に多くの学生たちや、労働者、市民たちが、私たちの指揮部へやって来て、こんな事では、いけないのではないか、武器を取るべきではないのか、と言いました。 男子の学生たちも、やはり非常に憤激していました。

 しかし私たち指揮部の学生たちは、みんなに
 「私たちは平和的な請願をしているのです。平和の最高原則は犠牲です」】
・・・・・





・・・・・
【 一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
 私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
 「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
   ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
   彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
   その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
 彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
 共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)

 おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
 私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
 学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
 「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
 私たちの後ろの学生たちも
 「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か  ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。


 




私はみんなに少しばかりの話をしました。
 「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
 ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
 その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
 しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。

   学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
   私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
   私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。

 学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
 最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、 
 「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
 しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
 彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
 「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
 その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
 そして全学生を撤退させることを決定したのです。
 しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。


 指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
 「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
 大多数の学生たちは、撤退しました。
 私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
 「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
 「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)

 しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
 彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
 彼らは、あまりにも疲れていたのです。
 まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
 ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
 またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
 具体的な数字は、今もって私には解りません。
 しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
 彼らは最小限2~30人はいました。

 聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです】
・・・・




指導部も苦悩した。いずれ若者の唱える世界が訪れるだろう、しかし歴史に観る大陸人民の民癖が拙速に自由に似た放埓、民主に似たエゴが「利」に向かったら法も整備されていない現在、未曾有の混乱を超えて混沌(カオス)に陥ってしまう。「衣食足りて・・」に倣えば、法を司る官吏の技量は民度に順じる。
「もう少し待て・・」固陋な既得権を保持する高官さえ煩いとなっている状況を解決するまで私も雌伏している。そんな声が中南海の旧居から聴こえてくるようだった。







当時の北京の六月は抜けるような青空が名物だった。騒乱のさなか小学校では普通どおりの授業があった。たしか東大紛争でも居酒屋やマージャンが学生で溢れかえっていた。新宿ではナンパ学生が屯していた。そして社会に出て一日千円亭主となり食い扶持に汲々として女房に追い立てられる男子の姿があった。

現在十万人余の中国留学生が滞在している。その多くはあの事件のことを知らない。いや知らされていない。あの若者の尊い血はその後の東欧の共産主義を崩壊させる原動力となった。ルーマニアの大統領宮殿前の広場での青年の一言「人殺し! 」はチャウシスクを驚愕させ人々は群動し政権は脆くも倒れた。

あの騒乱のさなか気高き精神の行く末を憂慮しつつも、「日本は負ける・・」そんな直感が沸き起こったことを鮮明に記憶している。

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3 コメント

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陸羯南 (爽 秋)
2023-04-09 11:41:42
陸羯南を研究しようと「近時政論考」と「陸羯南」の評伝を買ったのですが、当時の政治制度、選挙制度、政党の歴史など、知らなければいけないことがあまりにも多く、本はなんとか最後まで読みましたが、断念することにしました。
よむこと (孫景文)
2023-04-18 02:50:31
成文を目で読む。先をヨム。時節をヨム。
確かにヨムことは基礎知識も必要ですが、既存の成文での基礎知識では、あくまで借り物の知識で、知るだけでは、知は備えても、識である道理を照らしてヨムことは適いません。
古教照心はできても、照心古教(己の心を照して、古来の知識を察知する)での自得、あるいは浸透は別の切り口が必要となります。
若い頃、師が勧めた本は漢文でした。読む気にもならず眺めてました。続けると要点が朧げに解るようになりました。それを行動体験すると物真似ではない自身の特徴が分かりかけてきました。あとは伸ばす体験を積むだけでした。学んで活かさない、行動しない、確かに師から伝えられた戒めです。
登場する人物(陸羯南)の生地逍遥や墓参は「感」を養い読書の助力にもなるはずです。
照心古教 (爽 秋)
2023-04-18 17:31:00
「明治粋侠傳」(久坂總三)の様な本(天田五郎は実在の人物だったのですね)を出したいと、必死に読んだのですが、先生の照心古教が出来ていないので読みこなせなかった訳ですね。外に出て、陸羯南ゆかりの地を訪れながら、明治に関する知識を発酵させるまで読み込む必要があったと反省しています。もう一度、挑戦してみます。ありがとうございました。

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