まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

 資本主義の大罪 2013 再

2019-11-26 04:36:58 | Weblog

哲学なき政治

道徳なきビジネス

労働なき富

人格なき道徳

人間性なき科学

倫理なき快楽

犠牲なき宗教


識者はかってマハトマガンジーが指摘した資本主義の七つの大罪に達していると。







東京工業大学の芳賀教授は「いまこそ深層の国力を蓄えるとき」副題に「高学歴無教養社会の反省を踏まえて」として説明している

「一般的に国力といえば経済力や軍事力を指摘する。物的、外形的にとらえた国の力、これを表層の国力といおう。次にメンタルの面で見た民度、すなわち国民の頭脳の力で国力を測る。・・」

「たとえば学力テストに表れる知識の量や水準。種々分野・レベルで人々が所有する情報量や技術力など、これを浅層の国力とする」

表層も浅層も統計数学に示せる量の次元で、国際比較も行なわれ政策的努力の対象にも出来るものだ」

ところが、もっと深層に数量化できない国力がある。モラルの感覚、道徳水準、理非曲直の判断力、みずみずしい感性、ふくよかな情操、精神の安定度など、国民の質である。」

深く静かな国力というものは、人的資源などの概念には収まらない、まさに人の力の内奥の力であった。学問の広い知見、諸芸のシュウレン風流のたしなみなどによって自ずと備わった心の持ち方の豊かさ・・それが教養であり、その総和が深層の国力になるのだ」

二十世紀の後半の日本人はその重要さを亡失した。経済力の驕り、生活の便利さを無限に求め、高学歴化に酔い、前のめりに暴走した。浅層の学力・偏差値などは問うが、深層の国力に思いをいたすことなく、貧相な《高学歴無教養社会》を生んでしまった。心の錘(オモリ)を失った儚い漂流社会の出現である」      

  平成12年(2000)12月31日の産経正論欄より

現代日本における最高の教養人の正鵠を得た指針である。

経師遭いやすく、人師遇い難し
(知識の説明をする教師は数多いるが、人の師となる教師はめったにいない)

筆者は手立ても判らずも、切に面会を希望している。
しかし、未だ其の機を得ることはない。

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まるで息をするように嘘をつく 2018 6 再

2019-11-19 08:46:12 | Weblog

   広州

 

 

どこの新聞だったか「まるで息をするように嘘をつく」と大文字で書いていた。

その通りだが、不思議がっていること、そのことが不思議になった。

 

嘘は「キョ」、空気を吸って酸素を取り入れ、必要のない二酸化炭素を吐く、その吐きだすことが嘘である、と佐藤慎一郎氏は説く。

つまり、嘘は正邪拮抗する、あるいはバランスをとる自然な作用だということです。

 

先ずは己を知らずして、己に嘘をつくことです。

自分が決めたことでも、守れないこともそうでしょう。

学生の頃、夏休みの宿題は間際にならなければ手につかない。

翌朝の起床タイマーを余裕をもってセットして、起動してもウルサイとばかり寝ぼけリセットして、まだ余話の五分あると寝過ごしてしまう。

就職の面接でも得意でないことまで「できます」と自身を売り込むこともある。

 

ここでの嘘は、相手には被害感はすくない。また「あの人は嘘つきだ」とは言えない状況だ。

それは、自身への嘘は自身に還ってくる問題であり、己に課した要求であるからだ。

 

しかし、人を貶める嘘は自身の信頼を毀損するばかりでなく、相手にも被害が及ぶ。

いま、官僚は隠していることでも問われなければ話さない、これを「嘘」ではなく、問われなかっただけ、と平然としているが、これが彼らの隠ぺい手法の慣性だとしたら組織内官吏としてなら認知されるようだが、公務員としたら、狡務員、公無員として、いただけない人間だ。

 

その嘘だが、己に課したものに出来なかったからといって嘘つきとは言われないが、相手の心情や約束事を違えると「嘘つき」とレッテルが付く。加えて「嘘つきは泥棒のはじまり」と昔から言われているが、そこに行き着く人柄への印象も芽生えてくるだろう。

また、嘘をつかれた方は「嘘」は悪と断定して交わりは断捨離になる頑なさもある。

己を内照すれば、人の活かし方もあろうが、四角四面な性癖はなかなか直らないようだ。

 

筆者が香港駐在していた頃に三人の秘書が附いた。

その時の「」について彼らに語ったことがある。当ブログにも掲載した小章から抜粋してみたい。

              

               素直で能力があったスタッフ

 

≪ じつは彼らスタッフも私を懐疑的にみていた。彼らビジネスマンは無報酬では動かない、つまりどれくらいの報酬対価があるかについての興味だった。
 永年の懸案だった上場に伴う前提として、堆積していた海外事業所の整理に関する好奇な目と不思議さであった。
 もともとTMSChinaコーポレーションはトッパン・マルチ・ソフトの略だが、子会社整理に伴って戴麗華が横浜の馬氏の投資資金で購入した会社だ。だだ、麗華がトッパンフォームの社長付顧問ということで、個人的に安請け合いした案件だった。
 

これが成功すれば上場企業となり、社長も安泰、ついでに麗華も信用を勝ち取り、社員も晴れて上場企業の花形となる。しかも、特別配布の株券の資産価値は膨大な金額になる。そのストックさえ考慮に入れない私の行為が彼らの不思議さでもあったが、ともあれ、その前提としてどうしても解決、整理しなければならない海外の懸案だ。
 株式上場の宴はお前たちが勝手に考えればよい、という気分だった。

 ただ、器は見栄えができても、人材の資質は変わるものではない。いくらか上場して変化はあるだろうとの安易な考えもあっただろうが、以後は社長の弛緩と個人的案件というべき思い付き、唯々諾々としたがうサラリーマン根性はなくならなかった。
 それは今回の懸案と同じ状況が、以後も現地法人で繰り返されていることでも分る。

             

 スタッフはこの別会社の懸案解決を、彼らの所属するTMSの副総経理が行う疑問と不信感だった。しかも、この成果を麗華の名前で報告する気持ちが理解できなかった。

 だだ、対価は相手の心算段で、有っても無くてもいいと、一種の利害無境にならないとできないものだった。しかも滞在4日間である。大手企業の上場が懸っているプロジェクトには相当の対価があると考えるのも普通だった。だだ、私の方が普通ではなかったから、より不思議さが増幅したのだった。
 これをコンサルタントに依頼すればどれだけの報酬を請求されることも、彼らは敏感に計算しての観察だったようだ。

 もともと自腹で空気を吸いに来ただけの香港だった。文革時に師の佐藤慎一郎氏が海岸に泳ぎ着く大陸からの数多の逃亡者を待っていた海岸に行きたかった、それが唯一と云ってよい目的でもあった。それが着いた途端、このありさまだが麗華の祖父王荊山へのささやかな恩返しなら、それも縁だと乗ったことだ。

 

 

           

          恥ずかしながら撮られてしまった  

 


 TMSの担当社員には迎合するつもりではなかったが、二日目に彼らと昼食を共にした。知らなかったが、長い昼食だった。この地では当たり前と思っていた。ほかの席もハイトーンな言葉のなか二時間席を温めていた。

日本人の女性職員はこういった。
嘘はどう思いますか?

こう応えた
嘘は大いに結構、嘘を言わなければ生きられない国がある、だから皆利口になる。人を貶める嘘はいけないが、評価を高く売る嘘などは可愛いもの、見抜けない方が嘘つきよりひどい愚か者だ」

でも、困るときがありませんか」

「いや、自分は嘘で飾ることはできない。できないこと、できることは知っている。幸いにも親から嘘をつかない勇気を持ちなさいと言われてきた。時折、お金がないときは好きな女性からデートの誘いがある。そんな時は腹が痛いとかいったことはあるが、これは若いころの格好つけだ。いまは嫌われることより嘘を言って信頼がなくなる自分が恥ずかしい。だから君たちには嘘はつかない。」

 翌月の香港再訪には誰も彼ら流の嘘つく人はいなかった。爽やかだった。
 コンプライアンス、セキュリティー、服務規則、香港らしくない。
 これも日本企業の常套だが、人間を知らずして金を扱うことこそ愚かなことだ。後藤新平も児玉源太郎台湾総督もそんなことはやらなかった。まずは、育てて信ずることだ

 

彼らは自らを隠し偽らなければ生きられない歴史があった。

政治的謀略は難しい内なる統治にあった。

お父さんは毛(沢東)先生のことを何と言っていますか

党員の教師が尋ねた。子供は意図ある質問に素直に応える。

ときどき悪口を言っています

早速、生徒から信頼されていた党員の先生は規律担当に報告すると、家族は拘束され査問された。よくあることだった。

これでは親は子供にも嘘をつかなければならない。

家族は分離して、子供は紅衛兵となり、密告された親族、教師などを罵倒し殺害されたりもした。 あの頃はそうだった。

    

つまり、真意を隠し嘘をつかなければ生きられない社会となった。

そして為政者の政策には、人々の対策が育った

それは対人関係で狡猾に生きなければならないということだった。あの働き者で人情の深い人たちだったが、もともと政治についても「あの人たちのこと」と口にすることもなかった。そしてごく狭い身内しか信用できず、信用できるのは財貨とわずかな人との人情に信をみた。

もともと、人情は国の法律より重いものであり、生きるところは国家より、地球の表皮のいたるところにあるという感覚だ。

また、政治には独特の諦観も生まれた。「しかたがない」「自分とは関係ない」そんな気持ちだ。

 

            

                桂林

 

 

くわえて人情は同種同民族にかかわらず、異民族にも信を認めると厚く深い人情を明け透けに見せてくれる人たちだ。その意味では中国という国家は、利用できる間は看板となる。とくに力をつけた現在は看板を押し出す。力が無くなれば天下思想によって世界中に活躍の場所を求めることができる。

 

香港駐在の頃は「昼は鄧小平、夜は鄧麗君〈デン・リージュン〉テレサテン」といわれていた。おなじ「鄧」の権力は昼にあり、夜の愉しみはテレサの歌にあり、寝室の睦みにあるということだ。面従腹背とは彼の国の熟語だ。

 

それは反発するまでもなく、避ける、除ける、感覚の表層の偽りなのだ。

これを「嘘」と決めつけるのが四角四面の我が国の観察だが、為政者とて解っていながら専制的政治を執らざるを得ない都合もある。

多民族と広大な領土、もともとの過剰対応も為政者の習性だ。

田中角栄首相は周恩来氏に「共産党政治は歴史から見れば便宜的選択だ。家族でも子沢山だと親は相当厳しく決まりを作り監督しなければ治まるはずはない」と語っている。

 

彼の国の異民族(漢族以外)の侵入は多くは北の異民族だ。

古代は匈奴、モンゴル族の元、満州族の清がそうだが、みな中原の北京に都を定めた。

しかし、色(性)と食と財の欲求は漢族も負けてはいない。抑圧された漢族はより狡猾にならなければ生きられない。

しかし、弱さを見せるとすぐに反発反抗をするようになる。

おおくは前記の三欲に同化して為政は怠惰腐敗して弱体する。つまり同化しやすい欲望に誘引されて衰退するのだ。

 

嘘も方便とはいうが、国家さえ転覆させる雄弁さが彼の国にある。

以前の小章で、我が国は三欲に誘引されて彼の国に同化しつつあると記した。

我が国も、勤勉、正直、礼儀、忍耐の徳目とは言うが、これも看板になりつつある。

孔子や孟子の国、儒教の国、が看板なら、それが発生しなければならない民情を観なければならない。我が国もその徳目を掲げなければならない民情がある。

好奇心、迎合心、依頼心は、群行群止する民癖があるだろう。

しかし、彼の国は好奇も迎合も依頼があっても群れでは動かない。

彼の国は一人では虎、我が国はウサギ、集団になるとその逆に転化する

 

いまは嘘をつかなくても良いくらいに自信をもち、力を蓄えてきた。

他への迎合や依頼も少なくなった。

まさに息を吐くように嘘を実態にして拡大している。

 

わが国では「政治家は人を騙(ウソをついて)して雄弁家という」

官吏は「嘘を巧くなぞって能吏という」

そして国の資材を掠(かす)め取る。

 

隣国は哂えなくなった。逆に、笑われ、嘲られる政官吏の幼児性だろう。

数値比較だけでは国力評価ではない。深層に蓄えた真の国力である情緒性を毀損する

彼らの醜態こそ民族の危機なのだ。

 

それでも、競い、騒がず、鎮まりをもって眺める良機ではないだろうか。

それは、世に起きるさまざまな現象を自らの責として受容内照してみることでもある。

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播磨明石の異形なる逸材の一声 2010

2019-11-15 08:46:10 | Weblog


 2019 現世を「人物と学び」から読み解き、たどり着くと旧稿があった。

 

以下は2010年の稿

兵庫県明石から発信される「爽秋の春風駘蕩ならざる日々」と題する稿は薫醸された学びを自身の章として余すところ無く著している。

応答反復、悩みと自得、確固たる座標と更なる問い、すべて順を追っている。つまりスキップしていない。

通常、ネット情報によるアンチョコな検索収集が当然の如く行なわれているが、自らが読まれず、読み込みかつ肉体化する読書の慣性は松陰の謂う「万巻の書云々・・」と同様に、真理を探究し、その過程での問題意識は肉体と五感によって自得することでもある。

つまり「覚悟の学」の追求である。たかだか人間の脳髄の記憶の問題ではあるが、いまは記録の覚え込みであり、それさえもPCメモリーに委ねる人たちには理解の淵にさえ届かない学びの姿勢である。


≪「智は大偽を生ず」というが、嘘偽りは口舌なり文を智を用いての排出である。真に必要なものは排出しない。
嘘(きょ)は空気を吸って酸素と二酸化炭素を分類し、酸素を残して二酸化炭素を排出する、つまり有用なものを残して無用なものを出す吐く作用である。嘘はハクという意味でもあるが、まだ自身を高く大きくみせる嘘はいいが、貶める嘘はよくない。ともあれ妙な智がなければ偽りも無い≫
                           (佐藤慎一郎先生伝)




               

          8月15-16 日本三大流し踊り 黒石よされ



考えと行動の間には我欲がある。それを隠す為に智を使うことがある。責任を取りたくない、どう思われるか心配、などさまざまな事情があるだろうが小欲の働きだ。
それを前提として「大欲」なり「大義」を確立する,それが良知の働きだ。

孫文は「天下、公の為」、山岡鉄舟は「私(小欲)を忍び、以て大業(大欲)を行なう」と揮毫している。

誰でも持っている小欲だが、超えるなり、除けるなり、伏すなり、忘却するなりするために大目標なり、大経綸を立てている。侠客、吉良の仁吉は大喧嘩に際して女房に離縁状を書いている。晋作は「女房を敵と思え」と大義に後ろ髪をひかれる惜情を敢えて断ち切っている。

酒やオンナを絶つ、博打を絶つ、色々だろうが、事のほか小欲には弱い。どんな美辞麗句を並べても、体裁を繕ってもなかなか断ち切れないものだ。
江戸っ子は「義理と人情とやせ我慢」とはいうが、それも、゛ホド(程度、按配)゛が大事だと・・・

つまり土壇場に望んだ覚悟なり所作がどうなるか、みな心配なのだ。

佐藤先生は満州崩壊の折、官吏軍人の醜態をみてこんな言葉を思い出したという。

「われ汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

「物知りのバカは無学のバカより始末が悪い」

そして行為として成らなければ学問は意味が無いと、その土壇場で痛感したと。

「知って教えず、学んで行なわず」現代の学風だろう。

賢人にならなくてもいい、愚か者にならなければ・・・



         
        
               津軽平川の朝


以下、明石の一声にその薫りを察し、学ばせていただいた。
筆者の拙意としての手前勝手な応答学習ではあるが、ご参照願いたい。



「昇官発財」は、中国の歴史を材料に、エリートが国益に資するという純粋な動機ではなく、財力、性欲、地位といった欲望によって動機付けられ、難関をくぐりぬけ、国家権勢を握る。

つまり「手段と目的の逆転現象」が中国の歴史では既に発生していた事実を述べる。

「国益を任せるに耐えうる人材を選び抜く」試験という「手段」が、パスすれば栄達を得られる、つまり試験にパスすることが「目的化」しはじめる現象が古来中国にあり、教師もそのような欲望を駆り立てることによって勉強をさせていた、という実例が示されている。

そして、徐々にその指導層のおこないが国民の生き方にも反映されていく、ということの危険性に警鐘を鳴らした資料である。

魚は頭から腐る」との諺のとおり、国を代表するものが利に溺れるようになれば、下の者もそれに倣う。

この状態を資料の漢文からぬきだせば、

天下は壤々として(集り群がって)みな利のために往き、天下は熙々として(喜び勇んで)みな利のために来る」(六韜)

ことごとく、仁義を去り、利を懐いて相い接わるなり。かくの如くにして、亡びざるものは、未だこれ有らざるなり」(孟子・告子)

勢を以って変わる者は、勢傾けば別ち絶つ。利を以て交わる者は、利窮すれば則ち散ず」(文中子、礼楽)

今のエリート層に言えることは、幼稚園の頃から一般庶民と、スタート・ラインからことなるという事である。エリート層は、隔離された特別な社会の中で育ち、一般庶民との触れ合う機会がない。

私が日経新聞の「わたしの履歴書」を読んでいて驚かされたのが、住友の大番頭だった伊部恭之助さんが東大在学中に学徒動因でかりだされて、二等兵として上官の背中を流すことから始めていることである。

流し方が悪いとか言ってはブン殴られたりした、とアッケラカンと語っている。

戦後、住友の大番頭として采配が振るえたのも、こういった経験を経てきたため、下々のこころを慮る度量があったからであって、決して頭が良かったからだけではないのだと、私は思う。

伊部恭之助さんの善政も、寶田さんが大切にする言葉、視線は常に「下座視」であり、「常に立場の弱い一般庶民と同じ目線で」あったためである、と私は考える。人間、それでなければ感じ取ることができないものが数多く存在する。

蛇足であるが、小生が今精読中の”Japan's First Strategy For Economic Development"(Wrirtten by Ichiro Inukai)にも、明治維新の成功の要因として、

”successful implementation of conservative change depends primarily upon two factors: the elite's familiarity with social condition, and its ability to determine what elements of value structure are indispensable to the continuity of the culture"

意訳させていただきますと、

日本が国体を維持したまま改革に成功したのは二つの要因による。
一つは、エリート層の社会状況の十分な理解、もう一つは文化の継続性の為にはどのような価値体系が不可欠かを決める能力があったからである。

講義の最期は、寶田さんが尊敬する孫文の言葉でしめくくられた。

「日本はアジアの希望。日本民族は、西洋覇道の爪牙となるか、東洋王道の干城となるか、それはあなたがた日本国民が選択する道である」

 

                        

     桂林の友より


最期に思ったのは、一般的に思想というものは危険なものとみなされるが、思想がなければ人間、機軸のない独楽のようなもので、方向性もなく常に軸が揺らぐ(私がそうである)

こういった啓蒙活動こそが、人間に機軸を与え、「人はパンのみに生きるに非ず」という乾ききった日常から救ってくれるのではないかと。

禅は自分自身をテーマにして、現実の自分の中に、もう一人の自分を探索する“自分探し”をおこない、そのために坐禅をします(坐禅と言う漢字は、人が二人座って坐禅となっています。現実の自己を「感性的自我」、もう一人の自己を「本来の自己」と呼びます)

郷学研究会にせよ、八木博さん率いるチーム・ヴァイタリジェンスにせよ、アプローチは異なるとはいえ、日常の雑踏の中で埋もれてしまっている本来の自己(セルフ)を発見させ、人を活性化させるところに変わりありません。

縦割りの社会ではなく、このような横断的な社会活動に参加することによって、人は一箇の独立した精神を持った人間としての尊厳と自覚を持ち、賢明なる市民に変貌してゆくキッカケをつかむのではないか、と考える。

ヘーゲルは、人が歴史的に意味のある仕事に情熱を持って取り組むときに、

「個人は一般理念のための犠牲者となる。理念は存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱を持って支払うのです」

つまり、一般社会を変革するには、過酷な現実と対峙せず、宿命としておとなしく受け入れる日常ではイカン、情熱をもって立ち向かえ、という事である。

日本流ソーシャル・キャピタル構築の新潮流が胎動しつつあることを感じています。

コメント (3)
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生身の応答辞令 2010 12/12再

2019-11-11 23:22:09 | Weblog

                           写真は桂林近郊

昔の人の応答は立派だった

応答辞令とは間と呼吸、詳しくは相手への理解と忖度の試みである。
それは長幼などにもみる譲り合う礼の交感にもあれば、国家間の外交担当者の応答、あるいはインタビューのようなマスコミ取材など様々な状況がある。

あの沖縄返還の端緒だった佐藤栄作首相のホワイトハウス執務室における大統領との懇談や、明石元三郎と山縣有朋との懇談で、真剣さのあまり失禁した明石の小水が山縣の外套に滲みる情景などは国家の尊厳や興亡をかけた応答であった。
それは相手の琴線である立場の矜持を敬し、かつ自身の意を口舌なり,あるいは言外の意志の察知を容易にするための、信頼と目的の同感をつくりだす真摯な姿である。

よく文献考証というものがあるが、背景を云々するより著者に面会することのほうが的を得た考証だろう。しかしこれにも難問がある。
当世知識人の限界として、雑誌記者や研究家の矮小化された部分検証や関係論の類は遮眼帯をかけた競走馬のような取材なり収集が特徴となることがある。
それは人物を知らずして成果のみを評論する類の問題である。

碩学、南方熊楠は粘菌の研究だが、大英博物館で「熊楠の椅子」と称するものがあるくらいの東西の学識に長け、あの明治の神社合祀によって多くの産土神が取り壊され、神木だったクスノキ(樟)を伐採し、ショウノウを精製して輸出するという企てに猛反対運動を起こしたことでも有名である。

その熊楠に会うために昭和天皇は軍艦で和歌山まで来航している。それは共通した生物学の研究ということもでもあったが、人物としての熊楠に興味を持たれた。人払いをして多くの刻を過ごしていと、同郷の研究者が秘話を伝えている。
あの粘菌の標本をキャラメルの箱に入れて御覧に呈している熊楠の人物を実直に受け入れる陛下ならではの応答エピソードであ。

活きている情報なりを読み解く感性なりを考えると、人の織り成す歴史の事象を記述なり口舌によって世の中に発するという欲望が、商業出版やマスコミのトップ引きを担っているために、覗き、恐れの類が誇大に表されて、読者の軽薄な知の充足に用いられたり騒がしい争論の具として使われたりするようだ。

応答辞令は口舌や文の巧みさとは異なる、いやその巧みさという優位性が有ればあるほど乏しくなるであろう、人の隠れた意思の忖度や、口舌には表れない内なる意志を感ずることができなくなってしまうようだ。「語ったら事実」それは「語れない史実」の観察すらできないことでもある

応答は「礼」という辞譲を司るものだ。その礼の中に「合わせる」ことがある。「間」を合わせ調子をとることだが、自身の研究のために取材なり聴取の意欲が先行しては、往々にして聞いたことしか応が無い。「間」は老若男女で大きく異なる。応答のリズムや符丁であろう。つまり、せっついたりするように穏やかさが無い。それでは偏った答えを導き出してしまう。ここでは許容性、多面性、時節観、体験への尊敬などが必須の涵養だ。とくに知識収集家や競争エリートの応答はドライだという。

「人の体験などあてにならない」と証拠集めなり文献検索で裏を取るが、そもそも現象を構成している人の心情や事情などは論拠の証にはならないと考える一群は、実利でなく人情で構成された関係から発生する現象などは読み解けない。

趣味の世界もあるが、志操の同感から死をいとわない関係となるような、人の深いところの理解から発する行動など理解の淵に届かない。浅い見方からすれば動機のない浮遊行動のように見えるのだろう。






                






そして、ここが重要な観点となる。
動機は裁判でも重要だとはいうが、近頃は理由のつかない犯罪が多いという。それは理解積み重ねを反知半解にして通り過ぎる速度のある刻の進み方にもあるようだが、往々にして「意味のないこと」と考えるようになっているからだろう。不特定多数への説明が付かなくては、地位も、知歴も用を為さないと考えているように、つまり動機がわからないのである。結果となる非行なり犯罪から動機を読み解こうとするが、どうしても判らない。もちろん解決などは一時の理解満足でしかない。

アメリカ映画の「理由なき反抗」があるが、世代の異なりもあろうが親や警察では理解できない反抗(非行、犯罪)が描かれている。それは大人たちの対応変化への戸惑いだった。
母の小言と父親の忍耐、青年は刑事に泣きながら「お父さんが勇気を出してママを叱る勇気があったなら・・・」と言葉を絞り出す。

゛君も大人になったら判る゛という人生相談では埒明かない。ならば表れるすべての行為を非行の原因にするのか。あるいは世俗の垢や風潮が非行の原因になるのか。どこに非行行為の動機があるのか。

いつも青年と仲間が屯して話している話題なのだろう、どうしようもない社会の風潮が青年達の戸惑いの解決に逡巡する。
この場合の応答は難しい。とくに両親では難しい。

刑事は日本の烏帽子(えぼし)親のように問いかける。思春期に有効な社会の相談役として親離れに、子離れに戸惑う対象者に問いかける。そして罪は社会の参加資格として自制をも促している。

それも時代の風潮として後世に語られる。そして、その文化的傾向は諸外国に広がって「理由なき反抗」が続発している。当時も様々な専門家が得意分野で部分検証に勤しんだ。どれもあの刑事と青年のような応答も叶わず、的を射る内容ではなかった。

あの応答におおくのアメリカ国民が、゛陰ながら゛共感した。でももう修復不能だった。そして、共感し、納得したが家族の気遣いに似た忖度は、時と共に青年の成長で消滅した。

それは「理由なき・・」ではない。皆判っていたが問題にできない煩いだった。

当事者は過ぎるのを息を潜めていた。どうも戦争の緊張と集中が途切れると男女の関係も弛緩するようだ。それは、幾度となく当ブログに書く「五寒」にある女の現れのようだ。付随するのは「愛」を騒ぐが「尊敬」がない。 

※「女厲」ジョレイ   女性が荒々しくなる、烈しくなる。
 「敬重」長(おさ)を平等、人権で平準化する。社会的な父性や指導者をあげつらうようになる。






        






家庭の安寧、ここでは夫婦と子供の関係にある「分りすぎる関係」を明確にはしなかった。それも吾が身を考える実利なのだろうか。
母の小言は増し、父の忍耐は増した。それでも当事者は騒がなかったが、対岸の教育評論家や物書きは騒がしかった。親、子、教育、すべて分離した部分考証だった、それは彼らの溜飲を下げることでもあった。

国交の歴史となると口舌なり著述されたものは何の用となるのか、はたまた具となるのか。
それは曲がりなりにも棲み分けられた民族が普遍的意識や価値を共に抱いて関係を継続し、現世に至っている事実に照らしてみて、異民族や同胞の安寧に供するものでなくてはならない。歴史には敵や味方が定まり、争いが戦禍となる場合がある。しかし、ただ乾いた因を探って史実らしきものを浮上させても大局的には人の営みには意味の無いことだろう。

兵士なら、よく戦った。謀略なら、互いに智慧を絞った。そして、あの頃は、皆大変だった。とならなければ彼等の行動の善なる意思は無意味になる。勝った、負けた、騙した、騙された、は後世の肉体的衝撃をしらぬ売文の徒なり言論貴族に任せればいい。それも関連性ある歴史の継続であり、人間の有り様なのだ。

応答の当事者はその体験を遠くに眺めるような人物の涵養が有った。
もちろん理由なき反抗の青年も解っていたが、もう独りの自分が哀しく悔しかった。
童の心には両親でさえ、そう映ったのだろう。         

青年達は目の前のことを童心で考え、大人社会の「前例」を踏襲せず、忌まわしいことを避ける「善例」をつくるべきと考えていただろう。醇な疑問である。

大人になると応答が難しくなる。それは外の賊には大声で唱えても、内なる賊の退治ができないために隠すからだろうか。
青年は隠すことを知らなかった。

あの佐藤栄作も明石元三郎もことのほか純真だった、相手の心の的に当たった。
「紅心がある」先ず相手はそこを観たのだろう。

応答の礼は、すべてはそこからだ。

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復、恩讐を超えアジアに良縁が甦ることを期して  2008 11再

2019-11-10 11:15:06 | Weblog

 

時を経て、復(ふたた)恩讐を乗り越えたとき、正邪を問う声は途方も無い謀や力を眼前にして協調と連帯の声に変わるだろう。

内患や外圧の煩いごとに表れるであろう、世俗の、゛面子゛とか、゛やせ我慢゛の世界から、俯瞰した歴史を眺め観る余裕に変化し、共に歴史の先人を懐かしむこと、それが共生する地域の安寧を図る唯一の情(こころ)であろう。

一方の文明観に偏して歴史の栄枯盛衰にある戦禍の因を論うことを先人は望んではいない。なぜなら「哀悼」はそれを超えて己に問いかける事でもあるからだ。




以下は11月15日の章だが、曖昧な内容ゆえ改めて参考として拙文を提示したい

《内容については紙面が少なかったせいか、尽くせない忸怩たるものがあろうが、筆者に寄託された未公開資料をなぞっても、概要は理解できる。その上で理を立てたいことがある。》

これは田母神氏の収集知識を問うものではない。一方の切り口からみた未公開資料の紹介抜粋である。



『世界を征服するにはアジアを征服するにあり。 アジアを征服するには支那を征服するにあり。支那を征服するには満州を征服するにあり』
この機密文書にある一章は、日本の政友会田中義一首相当時の参謀総長 金谷範三陸軍大将の満州征服計画を基幹として、慿玉祥顧問の松室孝良少将の満州問題についての一文であり、現地中国の新聞紙上に公表された文章である。
 またこれは田中上奏文として日本の満州侵略計画として天皇への上奏文として決定されたものである。


                


この文は中国の特務工作によって手に入れたものだが、極東軍事裁判における「共同謀議」の動機として法廷で調べられ、米国や日本の研究者も注目したが、この征服野望の観念は頭にこびりついて払うことができなかった。
いかに、謀略宣伝が人心に影響を与えるかをこのことでも知るのである.
              田中義一伝 下p665 「田中上奏文の真相」


            


現在の通俗では「なるほど」と看過してしまいそうな一文でもある。
要は、先の大戦は日清、日露の勝利によって列強の仲間入りをして、その驕った軍部は天皇中心とした全体主義を打ちたて、その権益保護のために満州侵略、その後の盧溝橋の謀略によって対中国への戦端を開き、その蛮行を制裁する欧米に対し権益確保と支配地の防衛を理由に真珠湾奇襲、また東南アジアにその戦端を開いたのである。その謀略の根底にはこのような陰謀があったことが明確である。

以上が日中、対連合国との戦争を考える大前提であり、戦後の「極東裁判」の根底にあった考えであり、そこから生み出される裁可の趣旨や戦後教育に一貫として流れている歴史概念の前提にもなり、歴史の岐路にタイミングよく登場した田中上奏文の効力でもある。

謀略にもさまざまな場面を想定し、その効果を計るものである
この上奏文の作者は松村孝良少将の作ではない。
満州軍閥の頭目であり東北軍を率いた張作霖、張学良二代にわたって秘書を務めた湖南省出身の王大禎(草冠に凡、ボン生とも)によって偽造されたものである。
王は蒋介石率いる国民政府軍事委員会 国際問題研究所の所長であり、特務機関「藍衣社」とならぶ二大情報機関であり一方は国内、研究所は国際情報の謀略機関である。


           
                 尾崎氏

しかも王は国際共産党員であり、その組織には青山和夫、加持、満鉄調査部の尾崎、国内では西園寺らの連携と、資金源はイギリス情報部パイル中佐。日本では知識人として高名な郭末若や西安事件の陰の主役であり、張学良と同年で張作霖の援助で日本留学した苗剣秋がいる。

蒋介石の懐刀というべき特務機関が、共産党特務工作の責任者周恩来の手中にあったという驚くべき実態と、王が中華民国大使館員として駐在中の安岡正篤をはじめとする朝野の実力者との交流や、蒋介石の北伐資金の大倉財閥からの中継組織である北京 宮元公館主宰者 宮元利直氏との義兄弟の交わりなど、王の真摯な姿勢と学識に裏打ちされた人物識見は、謀略機関の責任者としての意図を察知させないものがある。

王は安岡正篤をして「人物」といわしめている。また戦後、渋谷の東急アパートに住んでいた宮元利直氏の書斎には安岡氏から数通の書簡があったという
宮元と王の関係、王と蒋介石、周恩来、張学良、東北軍顧問の苗剣秋、そして盧溝橋事件の真の首謀者劉少奇と周恩来のかかわり。
盧溝橋から西安事件から国共合作 極東軍事裁判後の国共内戦から毛沢東の国内制圧など、まるで計画通り絵に描いたような歴史の経過図である。

国際問題研究所と王大禎については組織、歴史経過とともに著すとして、なぜこのような秘すべき実態が露になったかを辿ってみよう。

佐藤慎一郎氏との対談より  聞き手 筆者

それは普段の何気ない思い出話からだった。
「昔、よく中国人と遊んだ」

「どんな人と・・・」
  
「横浜の譚覚新という日本革命の責任者もいたが、あの時は『今度 稲山(経団連)を招待する。そのあと角栄は必ず来る。周総理はやってくれるだろ』と、いっていた」
 
「あの、時折中国に苦言を呈している譚路美のお父さんですよ」
 
「判りにくいことは沢山あるが、人の人生と人情が問題なんだ」
 
「苗さんは」
 

            

「苗さんも僕には何でも話してくれたが、国際問題研究所のことは言わなかった」
 
「でも、苗さんの奥さんが『張さんは、お坊ちゃんですよ』と、嘆息していましたが、その張学良氏に向かって『お前は今誰と戦っている。お前の親父を殺したのは誰だ』と、西安事件の役者を演じて、周恩来と打ち合わせどおり国共合作によって国民党を日本に当たらせ疲弊を誘うという謀略演技は日本人には真似できません」
 
「いや、周恩来は演劇出身で右で泣いて左で怒ることは朝飯前だよ」
 
「でも、周さんが命を張って毛沢東に諫言すれば革命後の数千万人と文化大革命での劉少奇も犠牲にならなくてもよかったとおもいますが」
 
「それは『逢場作戯』といって、自分を守ることに演技しなければならないことが習慣化している情感だ。だから、ささやかでも本当の人情を求めるし、信じることに慎重なんだ 周さんのその雰囲気は語らずして民衆は分っている」

「苗さんは知識人としても人物だった。安岡先生とも交流があった。国際問題研究所の王大禎もその関係とおもいますが、この国際問題研究所の存在とその行動によって現在の定着した観念と歴史があるとしたら、この機関の欧米とのかかわりと意図など、これを整理することで現在の国際情勢の推考が容易になるし、より多面的な歴史が観察できますね 日中史、いや世界史の観点がひっくり返りますね」

「ある意味では表すことの勇気だ そして他国を巻き込んだ世界史を書き換える騒ぎの帰結するところを直視することだ。 また日本と近隣の騒ぎを利用する遠大な意図を確認することだ  それは既存の歴史観を書き換えることが目的ではなく真実を探求し伝えるという科学的な学びなのだ  ただ、おのずと歴史は生きている たかだか人間の騒ぎだということもアジアの自然科学だということだ゛」

「結果を想定して導き出す謀略意図も歴史のなかでは行きつ、戻りつの感がありますね。 強いものはそのままでも良いし、その力が善か、悪かは動機如何にかかわらず結果事実に拘束されてしまいますが、それに対抗する弱者は弱点を衝く、しかも多面的な意図、能力、実績の他に、民族の性癖までをその戦略範疇に入れた多角的な戦術謀議は、弱いものが強いものにあたる唯一有効な手段ですね」


            


「それに大切なのは愛国心だよ 親兄弟や妻子もそうだが、一方ではその地を護るという思いと楽土への夢だ  あの密約というべき秋山真之が草案したあの二十一カ条だが、もとは孫文の案で山田の叔父さんと満鉄の犬塚氏が連署が密約(日中盟約)としてある。外務省の小池張造、秋山真之将軍も関係者だ。  

これは袁世凱政権に圧力を掛けることもそうだが、満州を日本に任せてロシアの南下を押さえ、日支共同でパラダイスを築こうとした大経綸なんだ。

ところが、ロマンもアジア観もない軍部のやり方が本意を変質させ、馬鹿げた干渉圧力になってしまった。押し付けられた民族にとって、どれだけ民族の面子が汚されたか。 しかも同じアジア人にだ。 山縣を頂点とする思い上がった軍部と、陛下があれだけは総理にしてはいけないと言ったとかいう逸話のある大隈首相の見識のない大風呂敷 そして今と同様に堕羅漢の外務官僚の思い上がった愚行が、欧米の侵食を許したのだ。蒋介石の援助にかかわる国民党の堕落や共産党政権下の数千万人の惨禍など日本を含めたアジアそのものが侵した自制力の崩壊だ」

「この国際問題研究所の一例もその一端ですね。 歴史を穿り出すというということだけではなく、相手の立場に立てば「よくここまでやったな」と考えられる歴史の俯瞰と、本当の意味で自らの身をを切るような検証の糧にならなければ意味がないですね」
 
「その意味でこの検証は、孫文の唱えた『世界の平和はアジアの安定にある。アジアの安定は日中相提携してはじめて成る。明治維新はその魁であり、中国の革命はその後課であり、『真の日本人はいなくなった』と、山田に嘆息し、遠大なアジア志操の涵養にもなる資料なんだ 』


 数日して届けられた茶封筒のなかには、ぼろぼろの方眼紙に書かれた組織図
粉々になりかけた口実筆記された修正、なぐり書きのわら半紙、発言者羅氏との経緯が精細に記録されていた

自分たちが習った歴史は何なのだろう
あの大戦で亡くなった人たちのことが脳裏をよぎる
トラウマと財布の按配を巧妙に取り繕う言論、出版に人物なし
しかし、時節の様子が変化していくなか、ともかく備忘として記すこととした。


2008.3.26 「国思えば国賊・・」参照
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=1427536c4f0658e41a80ead6e7e2a4d4




国際問題研究所(王梵生(王大禎、とも)の役割)  (□)は判読不明

略歴 国際共産党員 日本軍需学校卒 中将 交通部次長
駐日大使館参事官 トルコ代理大使 等歴任

1 ゾルゲの中国機関 ゾルゲ機関とともに日本の北進論を南進論に転換。
2 太平洋戦争(真珠湾攻撃)の情報を米武官に知らせ、一躍有名になる
3 ソ連に満州参戦の機会を与えるように努力する。
4 英米をして、ソを呼んでヤルタ協定を結ばせた。
5 この機関は情報機関ではなく謀略機関である・

日本関係各機関 満鉄上海事務所 調査室
西里龍夫 中西、ゾルゲ機関で集めた情報の殆どは、満鉄在支全機構を通じて全て集めた情報      

国民党中央軍事委員会 国際問題研究所

これは研究所の第一所 羅堅白氏の独白記録である。
当時、渋谷の中華料理屋の主人であった羅氏と交流があつた佐藤慎一郎氏が面前筆記をしたものの読み取り清書である。

(省略)

なぜ話したか…・・
当時,羅氏は妻帯であつたが,日本に愛人がいた。
羅氏は「実は女房が中国から来たが、スパイの容疑で拘留されている」との相談。
各方面に掛け合って国外強制退去になった。
横浜まで見送りに行った際、羅氏は「女房はスパイではない。愛人がわかると大変なので,自分が密告した」
羅氏は一生懸命に掛け合ってくれた人物に申し訳ないと考えたと同時に、女房にも罪悪感を認めたのだろう、暫くすると「自分は国際問題研究所の上級責任者だった」と告白。

ここで佐藤氏の聞き取り経過から追ってみよう


・・・・・

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無頼者の支配 2014 9 あの頃

2019-11-02 08:37:54 | Weblog

青森県黒石市 中野のもみじ



幕末の賢候といわれた土佐藩主山内容堂は明治維新を、無頼の徒の政権奪取だという。
つまり寄せ集めの人間は、おおかた無頼人が多かったと容堂はみていた。
万機公論と謳ったが、機会は均等とは云えず大方は私論だった。
元勲から華族,侯爵、伯爵、男爵と新たな階級ごっこが没落藩主や威勢のよかった無頼の下級武士によって一時の栄華を楽しんだ。

この見方は当時の無頼仲間のハジカレ者や、現代の市民権力を謳歌する人々が、暇つぶしや嫉妬心から要らぬ欲望を想起して、書き物に遺されている賢人や勇者を横目、覗き見するものではない。かといって高貴な立場からの褒章や市民選出代議員からの感謝状や表彰状に首を垂れ恐々として拝受する市民も社会構成上欠くことのできない要員にもなる。

歴史好きにはいたたまれない不埒な考察ではあろうが、概ねはそこの人間観察から歴史に切り込まなければ明察はないと思う。

毛沢東は階級闘争と云ったが、無頼でも縁あって為政者になって権力を持つと世の倣いか、大自然の摂理に順じて為せることか闘争循環に晒される。所詮、人間は骸になると解っていても、その欲望についての学習効果は乏しいようだ。

一方、別の立場におく人物もいる。虚構の階級ごっこに人物(人格陶冶)をみる人たちだ。
「私を忍び以て大業をおこなう」己はさておき、公(おおやけ)に身を献ずる
鉄周が好んで揮毫した章だ。同様な気風で西郷も云う。
「命もいらず、名も要らず、ことのほか始末に困る人間だが、大事を成すのはこのような人物だ」と。
地位に恬淡(無欲)な児玉源太郎もいた。総理候補の陸軍大臣だったが二階級降下して参謀長として日露戦争に従軍している。
学者にもいた、南方熊楠だ。
神社合祀鈴によって多くの産土神が破壊され鎮守の森が伐採された。おおくは楠(クスノキ)だが貴重な輸出品として樟脳になった。大社になると護符を売り祈祷料を取るようになった。
産土神は自然神が多かった。崖下の洞、大木、巨石、馬頭観音、海神など津々浦々いたる所にあった。神々は生活だった。政府はそれを大社にまとめて妙な神威を高め、軍人まで神様にした。



南方熊楠



吉田茂

吉田茂首相には吉田学校と称して政治家が群れを成していた。寄らば大樹の倣いだが、死後に子分が銅像建立を言い出した。場所は皇居の敷地だ。建てるところも知らず安岡正篤氏は頌徳碑文を撰した。奏上文の末に「臣茂」と記す吉田のこと、「よりによって陛下の皇苑に建てるバカなことを」と叱ったに相違ない。高山彦九郎や龍馬でさえ土佐桂浜だ。

吉田の心底を忖度できない弟子、つまりその後の総理の微かな歴史感覚と狭い度量なのだ。安岡氏は「建立する場所までは・・、慙愧に堪えない」と、吉田の気持ちを思い測っている。それにしても吉田の取り巻きは高学歴無教養の愚か者が多いようだ。

昨今は割り勘議員ならまだしも、狡猾な横領も当たり前になった。むかし井戸塀といわれ私財を使ったが、いまは小商人に頭を下げて献金哀願だ。
為政の指南役と云われ多くの政治家に接した碩学が筆者に呟いた
「代議士は有能ではあるが、人物は二流でなければできない」







安岡正篤

生身の人間の為すことゆえ嘆くことではないが、社会の慣性が及ぼす社会の疲労劣化は、いずれ又、無頼の手によって国家の暗雲として漂うことを憂慮する。
何よりも昨今の無頼の徒は、矮小で一過性の目的しか描けず、使命感も私的に拘泥し、死生観も乏しい。「他を頼りする事は無く」の独立気概ではなく、「頼りがいのない」群れだからだ。
やはり、明治の無頼の徒には劣るようだ。

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