まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

嫉妬は正義の仮面をつけてやってくる、とはいうが・・

2020-03-25 14:30:07 | Weblog

陛下の祷りも通じない群れの醜態だが、これは国家のバチルスの一例である。社会はますます重症化している。

 

標題はその趣としてよくあることだが、昔なら国賊とかいわれた類の群れの一人だ。

組織でも人事の恨み、蟻塚を作って対立し抗争したり、排除されたとおもっている側は、組織の、゛そもそも゛目的を掲げたり、反論もできないような、民主、自由、平等。人権を掲げてその正当性を突いてくる。

しかし、以下に掲載する事例は狡猾な上級職公務員の所業である。しかも学び舎エリートの醜態は後の東電・関電幹部、後の佐川理財局長の国税長官への褒賞的栄転などの因となる隠蔽改竄行為など、金品や文書情報についての恣意的行為がはびこっている。

これに湧くのは嫉妬ではなく、公の憤慨である。それを助長するのは迎合しつつ血税を吸い合う政官の狡猾な「狡務員」の醜態である。以前知人から送られてまた雑誌の抜粋資料だが、現在も似たようなことが性懲りもなく起き、しかも、蔓延している。

これでは政策も資金も行きわたることはない。まさに「四患」の見本のような姿だ。

当ブログ《四患は五寒にすすむ》 宰相の選択と覚悟 2017 3 2 掲載

 

    税と警察の姿によって政治の信頼が左右される 

        安岡正篤氏

 

元国税庁長官に脱税疑惑 民主党大物議員や、ミッチーから「お小遣い」?

 財務省主税局と国税庁で一貫して税制改革に携わり、「税と社会保障の一体改革」と「国民総背番号制」を唱え、今の消費増税案の礎を築き上げ、国税庁長官 まで上りつめた大武健一郎氏(65)に脱税疑惑が持ち上がった。大武氏の妻・満里子さん(61)が、12冊にも及ぶ夫の現職時代の"黒革の手帳" (1986〜96年の間)を持参し、週刊朝日に告発したのだ。

 中にはビッシリと小さい文字で、小泉純一郎、安倍晋三両元首相ら自民党議員、菅直人前首相、仙谷由人政調会長代行、大蔵省出身の藤井裕久元財務大臣、松本龍元復興相ら民主党議員との面談などのスケジュールや、毎日の感想などが克明に記されていた。

 そして、夫が国税庁長官に就任した2004年までの銀行預金の通帳のコピー、確定申告書控えなどの物証を添え、満里子さんはこう訴えた。

「手帳にあった現金メモの記述は、家に残されていた確定申告音の控え、納税通知書、通帳記載額と照らし合わせても、正確でした。3年間だけで1千万円近くを過少申告し、"脱税"していた疑いが濃厚です」

  税制2課長時代の92年の手帳には講演料、勉強会謝礼など給与外所得(雑所得)と思われる記述があった。合計すると、457万円分になるが、その年の確定 申告額は約188万円しかなかった。同様に、93年も360万円分、94年も350万円分が確定申告されていなかった。

 さらに、確定申告されなかった手帳に記された現金メモには興味深い記述があった。

<92年3月14日藤井ひろひさ:5万円><93年10月27日安倍晋三:5万円><94年7月5日松本龍:10万円)など政治家からのものだ。

「故・渡辺美智雄元外務大臣からは92〜94年に計30万円を受け取ったようなメモがありました。夫は家で元外相を"渡辺みっちゃん"と呼び、『今日、ほめられたよ』などとよく自慢していました。政治家の方々からもお小遣いのような現金を頂いていたんだなと驚きました」

 政治家たちは本誌の取材に対し、「20年ほど前のことであり、資料もなく、記憶にもありません」(安倍事務所)、「全く知らない話」(当時は渡辺美智雄氏の秘書だった渡辺喜美議員事務所)などと答えたが、松本氏は事務所を通じ、

「大武氏へ10万円を現金で支払ったのは事実です。当時のスケジュール帳にも同様の記載がありました。松本本人も渡した記憶はあると話していましたが、名目はハッキリ覚えていません。恐らく、勉強会のお車代だと思われます......」

 とコメントした。

※週刊朝日 2012年7月13日号

   

 

週刊朝日が脱税疑惑指摘した元国税庁長官 ご自身は・わたり・で破格の待遇

 元国税庁長官の脱税疑惑、・脱法重婚・を追及してきた週刊朝日の記事が財務省に衝撃を与えている。元長官が極秘で歴代財務事務次官(25人)、国税庁長 官(25人)の退官後の「納税額調査資料」を作成し、財務省OBたちの「退官後の高給ぶり」がリアルに明らかになったからだ。

 国税庁長官時代に先輩らの納税額を・極秘調査・した大武氏は、調査理由について、週刊朝日にこう釈明していた。

「もし、(先輩たちに)不正があったら嫌だな、そんな先輩がいたら注意しなきゃいけないと思って数字を出した」

 だがそんな言葉とは裏腹に、大武氏も先輩を見習って、05年7月に国税庁長官退官後、商工組合中央金庫副理事長へ天下り。08年には大塚ホールディングス代表取締役副会長という超高給ポストへ華麗なる"わたり"をしていた。

 同社の2011年度の有価証券報告書によると、大武氏への年報酬は約1億2千万円で、歴代OBの中でも破格の待遇だ。

 そのうえ、大武氏は国税庁の有力天下り先のTKC全国会(税理士、公認会計士1万人以上が加盟する組織)会長、税務大学校客員教授、人事院公務員研修所客員教授などを歴任していた。

※週刊朝日 2012年8月3日号

タグ:政治

    民主化ではなく「官倒」だったデモ

 

元国税庁長官が極秘作成 幹部の「天下りリスト」と「生涯賃金10億円」の証拠

 本誌が追及してきた元国税庁長官の記事が波紋を呼んでいる。元長官が極秘で歴代財務事務次官(25人)、国税庁長官(25人)の納税調査資料を作成し、財務省に衝撃を与えているのだ。

  この元長官は、財務省主税局、国税庁で一貫して税制改革に携わり、"税のスペシャリスト"として、現在も永田町、霞が関、財界に強い影響力を持つ大武健一 郎元国税庁長官(66)だ。週刊朝日に告発した妻(61)によると、大武氏は国税庁長官在任中(2004~05年)、「先輩の資産を辞めるまでに調べ上げ てやる」と語っていたという。

 その資料には、歴代国税庁長官、財務事務次官の01~04年の天下り先と、納めた所得税額が記されている。税理士に依頼し、その所得税額から、03、04年に得た給与収入を推計した。

  推計年収は内部資料に記された所得税額が、すべて給与収入によるものと仮定し、算出した。不動産、株など、他の収入は考慮していない。たとえば、国税庁長 官から公正取引委員会委員長に天下り、現在も在職中の竹島和彦氏は03年の推計年間給与収入が2983万円。また、国税庁長官と大蔵事務次官の経験者で、 天下り先が日本たばこ産業会長やイオン社外取締役であった小川是氏は、03年の推計年間収入が5427万円だった。

 事務次官、国税庁長官経験者らの退職金は約7千万円で、「わたり」をうまくやれば、生涯で8億~10億円を稼げるとも言われる。大武氏の・極秘調査・のおかげで、その実態がリアルに明らかになった。

※週刊朝日 2012年8月3日号

 

     

    黒船とマッカーサーだからできたこと。(東京裁判) (厚木到着)

 

民主に打撃 元国税庁長官のスキャンダルで新マニフェストに暗雲

 大武健一郎元国税庁長官の妻が、夫の現役時代の脱税、憤報漏洩、愛人との"脱法重婚"など数々の疑惑を週刊朝日に告発した記事の余波で、政界に激震が走っている。

「税と社会保障の一体改革」と「国民総背番号制」の提唱者で大物官僚だった大武氏は自民党の故・渡辺美智雄元大蔵大臣、塩川正十郎元財務大臣、古賀誠衆院議員、仙谷由人・民主党政調会長代行、菅直人前首相、公明党の太田昭宏前代表ら幅広い人脈を誇った。

 それだけに政権与党へ与えた打撃は大きかった。

「大 武さんは財務省時代からベトナムと太いパイプがあり、ベトナム国税庁顧問にも就任。ベトナムへ原発輸出をごり押しする仙谷さんの知恵袋的な存在で、勉強会 にもよく講師として招かれていた。週刊朝日の発売後、ベトナム関連の会合に大武さんは仙谷さんと一緒に出席していたと聞いたが、スキャンダルは仙谷さんに とって大きな誤算だったようです」 (政府関係者)

「消費税増税はマニフェスト違反」と小沢グループが造反し、新党を結成したこともあり、民主党は目下、新しいマニフェストづくりに取り組んでいるのだが、実は"大武スキャンダル"はマニフェストにも少なからず影響があったのだ。民主党幹部がこう言う。

「民 主党のマニフェストの中の『税と社会保障の一体改革』『税制改正』などの項目については大武氏が前からアドバイザーを務めていた。彼は東日本大震災復興構 想会議検討部会の委員も務め、復興財源、臨時増税などの提言も積極的に行っていました。記事の影響で今は大武氏から助言が得にくくなりました」

 民主党や財務省内部のゴタゴタは勝手にやってもらえばいい。だが、増税なんて痛くもかゆくもない「高給取り財務官僚」たちによる、「消費増税」という"三文芝居"に付き合わされる私たち国民は、いい迷惑である。

※週刊朝日 2012年8月3日号

   

    「下台」汚職校務員や政治家は辞めろ

 

元国税庁長官・大武健一郎氏の脱税スキャンダルに国税庁が大揺れ

 脱税疑惑や「国民年金なんか払うな」発言などを妻・満里子さん(61)に暴露された元国税庁長官・大武健一郎氏(66)のスキャンダルが、永田町や霞が関に衝撃を与えている。

 大武元長官は取材に対し、「当時、学生は任意加入で、国民年金の将来は大変難しいので学生時代はいらないよ、というのが僕の意見だった」と答えたが、財務官僚の一人は頭を抱え、こう嘆く。

「あの記事が出た後、ネットで『元国税庁長官が言うなら、年金を払うのやめよう』と書かれまくっている。消費増税法案が衆院を通過したのに、元国税庁長官が脱税疑惑などで妻に告発されるなんて前代未聞です」
 
 大武元長官のスキャンダルに見舞われた国税庁は、政府、与野党、関係省庁などへの対応に大わらわだったという。

  さらに、大武氏の"古巣"国税庁内では、東京国税局調査部に所属するエリート特別調査官のW氏が大武氏の取材に同席していたことが大問題になっている。朝 日新聞記者として長年、国税庁を担当し、『徴税権力』(文藝春秋刊)などの著作があるジャーナリストの落合博実氏がこう指摘する。

「大武 氏が当事者でもない現役国税局幹部を取材に同席させたのは極めて不穏当で、きな臭い話だ。新聞社・出版社も国税局の税務調査を受ける立場であり、取材記者 や編集部にプレッシャーをかける狙いがあったとしか考えられない。現役職員が出てきたことで大武氏個人の問題にとどまらず国税組織全体の問題になった。国 税庁長官経験者2人から私に電話があり、『驚愕の記事だ。現役職員を取材の場に引っ張り出したのも最悪』と嘆いていた」

※週刊朝日 2012年7月20日号

タグ:政治

    社会は私することなく、公に為す。(孫文)

        たしか麻生財務大臣の政治団体も「為公会」と名付けたが・・・

    

国税庁職員が暴走 脱税疑惑の大武元長官擁護のため現役職員が取材班を恫喝?

 週刊朝日7月13日号の記事により、脱税疑惑や脱法重婚疑惑が明らかになった元国税庁長官・大武健一郎氏(66)が、6月29日、週刊朝日のインタビューに応じた。

  しかし、そのインタビューには弁護士とともに東京国税局調査部に所属するエリート特別調査官のW氏が同席した。W氏が取材に口を挟む回数は弁護士よりはる かに多く、早口でたたみかけるような口調で、大声だった。たびたび、「国税庁長官を務めた人間の申告漏れとなれば、大きな問題になります。よくよく調べて から記事にしてもらわないと」と言葉は丁寧だが、高飛車なもの言いを繰り返した。まるで、記事掲載を見送らせるための"胴喝"のようだった。

 インタビューの終盤になると、W氏と弁護士ははっきりと「掲載の見送り」を迫ってきた。

「ご 夫婦の話に口出しするつもりはないが、記事が出てからじゃ全然、遅い。我々はすべてのデータを目で確認してない。本当に申告漏れがあったかを調べるため、 奥様が2年間かけて作ったデータのすべてを見せていただかないと。通帳の現物、確定申告書などもすべて突き合わさなければなりません」(W氏)

 国税庁に対し、W氏の同席問題について質問をすると、国税庁報道係は書面でこう回答した。

「元秘書ということで日程などを確認するため、大武氏から要請され、年次休暇を取得し、同席した。当方としても、(同席は)報道を見て初めて知ったものであり、指示したものではない。同席は誤解を招きかねず、不適切であったと認識しており、厳正に対処したい」

※週刊朝日 2012年7月20日号

    西郷は。このような国にするつもりはなかったと鹿児島帰郷

    

元国税庁長官 「俺は年金スペシャリスト、国民年金なんか払うな」

 元国税庁長官・大武健一郎氏(65)は「税と年金のスペシャリスト」(財務省関係者)と呼ばれてきた。それは、1976年から2年間、厚生省(当時)年 金局年金課で年金を、大蔵省では主税局一筋で竹下内閣の消費税(3%)施行などから20年近く、税制改革に携わった他に例のない人物だからだ。その大武氏 が「年金は払うな」と発言していたことが、妻・満里子さん(61)の告発でわかった。

 満里子さんによると、長女が20歳になり、区役所 から国民年金を納付するよう連絡がきたとき、満里子さんが相談すると、大武氏は繰り返し、「国民年金なんか払うな。将来は破綻してもらえないから損をす る。俺は厚生省で年金のスペシャリストだったんだぞ」と言い放ったという。

 満里子さんの証言によると、家族に対して金銭面ではかなりシビアだったようだ。

「結 婚以来30年以上、夫は私に預金通帳、給料明細を一切見せず、収入の一部を現金で手渡してきました。子供たちが小学生のころは18万円程度しかもらえず、 エアコンも買えないほど生活は苦しく、同じ官舎に住む同世代のノンキャリアの部下のほうが生活水準は高かった。私が文句を言うと、『あの人は悪いことをしている』とはぐらかしていました。そして都合が悪くなると、『俺も悪いことをするぞ』と威嚇し、暴力をふるうようになりました」

※週刊朝日 2012年7月13日号

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碩学の双心と憂鬱 その三

2020-03-22 07:43:41 | Weblog

      箱根、バル・下中記念館蔵 東條英機氏



安岡正篤氏は「続、人間維新 明治維新百年の変遷」でこう著している                         

《スパイの一番大きな目的は相手国の国策を誤らせることである。
とにかく大東亜戦争で日本は国際謀略というものに引っかかって敗北した。
謀略に対して暗かったという、不明がある。決して物量に敗れたとか、何とか言うような簡単なものではないということを、諸君たちは知っておいてよろしい・・》  

文頭に戻ってみよう
苗剣秋の大書の意味とガラスケースの中の敵国資料の持つ意味を推察して欲しい。

ここに佐藤慎一郎という人物がいる
辛亥革命の領袖孫文に共鳴して恵州の戦役で日本人でありながら、あくまでシナ人と言い張って処刑された弘前出身の山田良政、孫文の側近として日本人唯一孫文の臨終に立ち会った弟純三郎を叔父にもち、大陸二十年の経験から日中史の歴史的証人として、また安岡氏との親交があった人物である。

解りやすいエピソードを記してみよう
安岡氏を囲む全国師友会の研修が毎年日光の田茂沢会館で行われていた頃、研修後少数の者が師を囲んで小宴を行うのが慣わしとなっていた。
もちろんその場は安岡氏の独断場であり、頷くばかりの弟子である。
ところが佐藤氏が講師として招聘されたときは、佐藤氏の独断場で安岡氏は弟子同様興味深く聞き入っていたという。つまり、従前の邦家流の古典解釈ではなく大陸生活の中での古典のとらえ方と、彼ら独特の活用の方法を俗諺を交えて語るのである。

まさに生きている学問であり生活そのものの体験の語りなのである。
色、食、財の本性を自然に認め、それを前提として生じた学派の様相と意味を愉しく語るのである。もちろん俗諺にあるY談や官吏の明け透けな実態、あるいは処世の巧みさを机上、口上にない真の活学として吾を言う、つまり話しではなく語るのである。

それは異民族に普遍な至情としての交誼を促すものであり、知識の浅い、深い、を超えた人情の在り処、つまり安岡氏の説く人物人格の存在を学問と実践によって習得するべきと教えている。

安岡氏はとある講義で資料中にある王ボン生(王大禎)を大人物と褒め称えた。
普段、歴史上の人物はともかく、現存の人間を褒めることなど皆無に近い安岡氏だが、この時ばかりは違っていた。
偶然出席していた佐藤氏は驚愕した。そして講演後くつろいでいる安岡氏を控え室に訪ねこういった。
『先ほど王さんのことをお話していましたが、王さんは(資料内の内容)です。しかも責任者ですよ』
安岡氏は瞬く間に蒼白になり暫らく押し黙っていた。
控え室には佐藤氏と安岡氏のみであったが、次の言葉も見つからず佐藤氏は黙って部屋から出た。

苗剣秋氏はその組織の日本駐在工作員であり、戦時中は恵比寿に住んでいた。あの郭末若も市川に住んでいてゾルゲに誘われている。
それらが安岡氏は利用できる人物として認定したのが、あのガラスケースの資料の事実なのである。戦後の戦犯回避も王の工作であり、もちろん蒋介石も知っていただろう。

当時安岡氏は大東亜省の顧問として多くの情報に触れる立場にいた。また尾崎から近衛、王ボン生の末端として位置づけられた尾崎、そして安岡氏と近衛のロシアに託した終戦工作、ロシアとゾルゲと王ボン生と苗剣秋や尾崎、王と宮元利直と安岡氏。

それは複雑にも、大義と夢と謀略と畏友の関係を歴史のエポックとして幼児的知識人を今なお混乱させている。


小生はこれから教学の師となるだろう面前の安岡氏に初対面でしかも唐突に問うた
『宮元利直さんをご存知ですか』

目は小生の眸を外し、同席している岡本氏との取り留めない話題に変わった

『うちの人を騙すのは易いですょ』
後年、縁者のエピソードとして聴いたとき、より恩顧の念を抱いたことは言うまでも無い。

それは無垢でいることによる観測眼の有り様に措いてである

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碩学の双心と憂鬱 その二

2020-03-19 06:35:48 | Weblog

       

          若き蒋介石と辛亥革命の先輩山田純三郎



苗剣秋氏について参考
拙書 「張学良鎮す」より抜粋

・・夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。
すると、「苗先生は西安事件は関係無いんです」突然の言葉である。
「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する
「あのとき先生は天津にいたんです」
只,黙って口元を注目するしかなかった

西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている
北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。
また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。

小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもののなかに、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。

苗氏は張学良に言う
「おまえの親父は誰に殺された」
「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」
一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といった言葉にも表れる。
東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、目的の明確さを鮮明にした上で将兵や民心の助力を本としたもので無ければ,単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なってしまう。
張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具とした国民党の敗北と同様に、抜けがたい権力性癖を表している。

「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、小生の元に河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している・・・


・・・・西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。
確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。

しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏や郭末若の名がある。

組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。
また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。

有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。
国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏である。

西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。

近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾将軍の預言的「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が一層鮮明として今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。

張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。
それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。
 
苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。
「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」
そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と・・・・

そして【天下、公のため、その中に道あり】との色紙揮毫を著者に差し出した


・・・ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。

「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」 

遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。
病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。
次ぎの言葉を待った。刻が長い
「張サン(張学良)はねェ お坊ちゃんですョ」
歴史は探求する事だけにあるものではない。
眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ・・・

何度か好物のケーキを持参して伺った。また友人が訪台の折「具合が好くないと○○に伝えてください・・・」との報に急遽訪台したこともあった。

敢てこちらから聞くものはない、実在が心地よいのである。
しかし夫人の語りは否応なしに残像として記憶された。

以上参考資料

次号に続く

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碩学の双心と憂鬱 再読

2020-03-17 23:55:05 | Weblog

 
           苗剣秋婦人(1989台北)


武蔵嵐山の郷学研修所に併設されている安岡正篤記念館に驚愕する資料遺物が展示されている。
一つは縦3メートル横1メートルという全紙様の漢詩文である。内容はともかく作者は苗剣秋と記されている。
関連するものとしてガラスケースに米国側資料として、終戦に導くため影響力ある日本人の筆頭に安岡正篤氏が記されている英文のタイプ様の資料がある。

小生は早速、記念館関係者に撤去を促した。
もしも、諸外国の評価が影響力ある人物の第一人者という増幅された価値と、苗剣秋という日本人には馴染みの薄い人物からの贈物の意味を、これまた評価の金屏風にすることはよくないことであり、かといって四角四面の考察を建前上述べる苦渋の深慮を理解されるとの期待からでもあった。

苦渋の深慮とは、昨今浮上してきた観のある安岡氏への錯誤した興味と、浮き足立った歴史評価に対する危惧である。
つまり苗剣秋とガラスケースの一文の意味するところから、秘してなお安岡氏の果たした役割、つまり公的、私的、学問的興味、人物観の錯誤、あるいは近衛文麿をして、「何か引きずられるような・・」と困惑させた戦争誘発と続行が、現状追認せざるを得ない止め処も無い流れを、すき目の粗い網目の浸透性と弛緩を前提として、氏の深窓の知識人としての真の大局、誠の人物観を氏の一方の面として観るからである。

心ならずもとは奥歯に物がはさまった言い回しになるようだが、章をすすめている最中でも、猛然と押しとどめる魔物があることに気づく。

それは人情であり愛顧であり報恩の念でもあろう、そしてその念を抱かせていただいた数々の訓導に遵えば随うほど、現世の事象に抵触した部分において ゛生き物としての人間゛の切ない悲哀を感ずるのである。

しかも昨今の安岡学などと呼称しているものの中には、商業出版の著作権やそこに集う軽薄な世俗観の偶像視は、近年少なくなった特異かつ有効な学域の牙城を融解させているようにも観えるのである。

しかも学問の成果と人間の実動をことさら混交することは軽薄なスキャンダルによって成果に導かれた真理まで毀損させてしまう。とくに商業出版に踊る妙な学派にみる表層マニュアルや心地よい言葉の響きに其の学利を描き、宴の跡の一過性の流行モノとして忘却される危惧を先見するのである。
「小人の学は利にすすむ」
「利は智を昏からしむ」
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
そのような世情の戸惑いこそ安岡氏の危惧した、かく在るべき人間の亡失なのであろう。

ここでは土壇場の肉体的衝撃、地位や価値の滅失、など行動に於ける知識人の限界点と言論、成文の為せる思考と身を滅しても行うべき行為の臨界点、あるいは其の岐路における自他の勘案という、つまり氏の説く「六錯」にある守りと怯え、あるいは論理と言い訳の隘路を、氏の隠れた一面を考察して標題の意に沿いたい。

安岡氏は自らの学風に集う人々を集めて講演を行っている。エピソードが一人歩きするほど深窓において興味を抱かせる氏の実像と肉声を求めて人は集う。
ときにその学風は中村天風の宇宙観、安岡正篤の古典活学と政経人のマスコット的バイブルとしてもてはやされ、謦咳に接したとか、はたまた揮毫を戴いたと金屏風にする輩も多く排出している。

それもこれもお題目は、牧野伸顕と吉田茂 以下佐藤栄作など門下生、歴代総理のご意見番、終戦の詔勅の朱筆、平成元号起草者、双葉山と木鶏など枚挙あるが、昨今の耳目は細木数子との縁も世俗の井戸端会議の種になっている。

最近では総理候補と模されている福田康夫氏の父、元総理の福田赳夫氏も終生師と仰ぎ様々な岐路には教えを仰いでいる。

余談だが対抗馬として名の挙がっている麻生太郎氏の祖父は、戦前武蔵嵐山の菅谷の荘跡に農士学校(現在 郷学研修所、安岡正篤記念館)の創設資金を拠出している。(現在の価値で約60億円)
牧野伸顕、吉田茂、麻生太賀吉の縁戚の系譜と、安岡氏の婿入り先である土佐も吉田氏との関係もあり、くしくも福田、麻生両氏の縁はその政治意識と座右に現れている。

麻生氏は孫文が好んだ「天下為公」(天下は私するものでなく公にある) 意であり、福田氏は父が座右としていた「任怨分謗」(怨みは吾身で受け、謗りは他に転嫁しない)を同じく座右としている。
 政策はともかく、その安岡氏の遺志は両立した候補者の政治信条として権力を執り行う人間同士の奇縁を取り持っている。

以下 次号

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