まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人を知らずして国を語ることは・・

2019-01-27 13:34:42 | Weblog

     桂林 

 

 

よく隣国を語るとき、時の政権の政策、経済、その意図などを科学的根拠として数値を用いて説明し、歴史的経緯の中での事柄も互いに我田引水のように争論さえいとわない、つまり些細な応答の隘路まで一方は四角四面、相手は白髪三千丈のごとく止まることのない外交だが、どちらが猫かわからないが、ネズミをいたぶるように楽しんでいる。

たしかに歴史では夜郎自大化した一部の無頼の徒は他国の庭でそのような狼藉を働いたが、相手は巨大になり武力をもって脅かしても、未だに押し寄せてこない、いや白人のケツ持ち頼み(他国の盾)の半植民地根性では嘲られるという負け犬根性が哀れに見えるのではないだろうか。

 

      

 

子供の頃に貧乏ゆえに苛められたが、その辛苦がゴム紐のように引っ張られ、離した瞬間のエネルギーは、ぬるま湯で育ち集団で苛めた連中より躍動感もあり、幸福感の異なりはあっても、その集合体のパワーは巨大になる。苛めた方は晩年の同窓会のように窓際でコソコソとその成功者を嫉妬交じりで眺めることと似ている。

 

それは国があって民がいるという形態と違い、地球の表皮のいたるところに生存できる民族の姿として、いまや世界を席巻している。一方は国なるものの庇護に不満を持つが、そこから離れられない悲哀のようなモノをもって人生さえ描いている。まるで政府の扶養保護から抜け出せない依頼心と怠惰の入り混じった一部の民情に似ている。まさに民癖だ。

 

    

    桂林

 

よく言われるのは、日本人は一人では猫、大勢集まれば虎。大陸の華人は一人でも虎だが、集まれば収拾がつかなくなり、猫になる。大陸の虎は国家なるものの意識は希薄で、元(モンゴル族)や清(満州族)が中原(北京のある地域)を占拠しても、色・食・財の実利的欲望は、永い歴史のほんの一刻とばかり悲嘆にくれるどころか、嬉々として為政者と戯れ、その果実のみを獲んとして躍動している。「言うことは聴くが、邪魔しないでくれ」ということだ。

四角四面の民は「嘘つき」「だまされた」と騒ぐが、たかだか列島の中のこと、今日の嘘は明日の真実とばかり、常に狡知を磨いている民の鋭敏さは理解が届かない。

面従腹背」の熟語は知っていても意味は半知半解。せいぜい官域で生涯賃金を企図する貪官の上司や政治家に用いるだけで、用を成さない。これを賢さとか知的とほめたたえる性根は、まさに小人の器だ。利があるところに集い、利が薄くなれば散りぢりになる、どこでも高官とはそんなものだと民は知っている。

このところ官吏や政治家、商売人まで同化したかのように似てきたが、狡知にかけては月とスッポンのごとく似て非なる群れになっている。

泥水に棲むことのできる人たちは清い水にも馴染むが、清水の魚は泥水では生きていけない

本能的欲望を明け透けに生きる環境に多くの異民族が同化し、満族(清)やモンゴル(元)も衰亡した。

早く負けて日本に帰った方が良い、そうでないと日本そのものがなくなってしまう

新京の魔窟「大観園」の親分の憂慮だった。(佐藤慎一郎談)

 

   

           桂林の子供

 

友好は「誘降」ともいう。その種(タネ)は、色(性)と食と金の三欲だ。

小人、利のために殉ず(小者は金のために死ぬ) 大人は義のために殉ず

今どきは、「小人、利に集い、利薄ければ散ず小者は金に集い、なくなれば離れるような交友

利は智を昏からしむ利ばかり考えていると、智慧が廻らない愚か者になる

国内でもその傾向だが、なおさら他国に行けば嘲られる。

要は「人情は国法より重し」だろう。  普遍的な人情は、国の法律より優先される行為の範だ。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生命」は原種の保存 「財産」は貨幣の価値

2019-01-24 15:55:58 | Weblog

防衛省関係サイトより転載 

 

以前、防衛関係(幹部指揮官クラス)の講話で、政治家が唱える「国民の生命財産を守る」ことについて、伝えたことがある。

「生命」とは個々の生命とすれば、社会的生存を有効かつ成功価値の確保による幸福感、ここでの多くは財の多寡が効力を発揮するようだが、だだ単に健康で長生きを求め、時には快楽に身を沈める風潮に、それらを対象とした身を賭した職務の戸惑いが少なからずないだろうか。もっと明確に手段を収斂することはないのだろうかと考えた。それは民族種、原種の保持であろうと。

人間種以外は多種との交配が恣意的にすすみ、動物なら長い胴体や珍奇な顔と鳴き声、あるいは狩猟用に適した体形、肉食ならいかに美味いか、大量生産できるかなど人間の作為がすすんだ。人間とて戦争に負ければ他民族の軍隊による民族浄化として婦女子が凌辱され混血種が生まれた。勝者の男系なら、何々系の何人として種別される。交通手段の利便性と,愛と平等に自由と人権が謳われると、人種のグローバル化が進み、国家なるものの国籍さえ重要性がなくなりつつある世が出現した。

近ごろでは戦略的食糧として他国に有利な形で環境に棲み分けれらた食料(植物種)の種までが薬品添加されたり、経年農作が継続困難な「種」が経済的に取引され、細々と原種を収穫することさえ禁止するような他国との契約さえ行われるようになった。

防衛はなにも戦闘機やミサイルの争いではなく、その結果おきる異民族や異種の交配を強圧によって、かつ抵抗するすべもなく行われることの危惧を事前に排除することだ。歴史を刻み、生活習慣の本となる暦の変換、言語の変換などさまざまな変化を強いられるが、今では利便性、流行、孤独の恐怖など、内心の防衛も必要となってきている。

領土は取られても持っていくことは出来ないが、人間は移住させられ、言語は亡失する。19世紀はその連続だった。また、差別感は、考え方によっては区別され、排斥されることで、却って種を護ることができる。あえてその環境を望むこともあるが、第三者の好奇な目も種や固陋な規範を護るすべともなっている。

環境に順化し、棲み分けられた民族だが、国家の長を廃し、国家なるものを融解させ、固有な民族種を失くした人間は何れ流浪し、飛散してしまう。

これを固陋にも守っている民族は、長として貴種を敬することで種を継承している。規範としては成文法より、掟や習慣を陋規として遵守している。

いずれ地球上には原種がなくなり、人間にとって有効な生産性や嗜好の用となり、人間種特有の潜在する情緒さえ失くしてしまうだろう。自己破壊でもあろう。

 

「財産」は経済的成功で勝ち取った貯金通帳の額でもなければ、国家から使用権を抱かされた土地でもない。それを有効せしめるべく国家が交換対価として流通する貨幣の価値だ。戦争に負けて貨幣が使えなかったら預金も国債も土地も用を成さない。外国預金や株もあるというが、一部の者たちだ。

ちなみに、リーマンショックで一瞬にしてなくなった額は、先の大戦で支出した額と同様だと聞く。何百万の生命が亡くなり、多くの資財を破壊し、歴史に禍根を残した戦争の対価は、コンピューター上で簡単に消失した。また、その機に乗じて為替を操作し莫大な利益を得た群れもいる。これが勝者だ。つまり、防衛は戦闘員だけではなく、何を護り、何を行うべきか、守られる側の意識によることだろう。まして面前の興味のみの無関心では衰亡は避けられないはずだ。

 

 

津軽 子守っ子 木村ヨシ作

 

以下は、「種」の護持に関する問題ですが、人間種も異種が多量に流入すると同様な排除が起きる

京都新聞 1/2(水) 11:35配信より


《交雑種サル、不妊手術か安楽死か 問われる人間の功罪》

 和歌山市周辺に最近まで、変わったサルが生息していた。タイワンザルとニホンザルの交雑種。いずれも見た目は似ているが、しっぽの長さが異なる。「日本在来の霊長類は、人間とニホンザルだけ。世界的にも貴重な環境は維持しないといけない」。霊長類学者たちは強調する。今は、交雑種もタイワンザルも姿を消した。和歌山県が捕獲して安楽死処分したからだ。

 「環境保全も研究者の重要な役目。積極的に県に協力して、わなを仕掛けて駆除しました。サルにはかわいそうでしたけど、仕方ない」。県に協力した京都大理学研究科の中川尚史教授は説明する。

 ■原因つくった側が生死判断

 タイワンザルが広がったのは、人間が原因だ。タイワンザルを飼育していた和歌山市付近の動物園が1950年代に閉園した頃、タイワンザルが逃げ出したと推測されている。2000年頃には数百頭のタイワンザルと交雑種が確認された。
 日本霊長類学会は、交雑種の拡大を危惧し、01年に県へ全頭捕獲と安楽死を求める要望書を提出した。
 和歌山県のサル問題は、通常の外来種の広がりとは趣を異にしていた。外来種が在来種を駆逐する訳ではないが、交雑が進むことでニホンザルの「純系」が失われることが懸念されるという点だ。ただ自然界では、近縁種の交雑は知られている。進化の過程では、種が分かれるだけでなく融合する現象も重要とされる。すべての交雑が忌避されるという訳ではない。
 ではなぜ、和歌山の交雑種の駆除が必要だったのか。大きな理由は一つ。人間が原因で交雑種が生じたからだ

人間は船や飛行機といった交通手段を手にして、自然な状態よりも圧倒的に早く動物を移動させられる。「現代の人間はかなりほかの動物とは違う存在。その人間の手が加わってできた新たなサルが日本に根付くのは自然を乱す」。中川教授は、説明する。
 駆除への反対意見が多く寄せられたこともあって、県は01年度、交雑種やタイワンザルに不妊手術をして飼育する案と、全頭を安楽死する案について県民にアンケートを実施。全頭処分が6割を占める結果となった。この結果を踏まえ、県は02年度から駆除を始め、17年度には同市周辺で根絶宣言を出した。

 ■守護者で仲間 二面性抱え

 和歌山県は市民の理解を得ることに苦労したが、05年には、日本の生態系に被害を及ぼす外来種の駆除などを盛り込んだ外来生物法が施行。外来生物に対するスタンスが、法律で定まった。環境省は「人為的な原因で入ってきた特定外来生物は、許可を出した場合をのぞき原則として殺処分対象」とする。現在、タイワンザルなど148種類が特定外来生物に指定されている。
 人間の場合、海を越えて自由に行き交うことは「多様性」の実現とされる。しかし人の手を介して海を越えてきたサルや、その結果生まれた交雑種は、殺処分の対象となってしまう。そこに釈然としない思いが残りはしないか。

 ニホンザルに名前を付けたり、チンパンジーの「心」を研究したり、日本の霊長類学には、人間もほかのサルたちと同じ「仲間」だという価値観が脈打ってきた。しかしサルの暮らす自然を守ろうとすると、事情は変わる。自然の一部であるはずの人間が、自然の守護者でもあるという側面が浮かんでくるのだ。もちろん
いずれの立場も重要だが、そんな人間の抱える二面性を、サルたちにじっと見られている気がする。



 1948年12月、今西錦司ら京都大の研究者が宮崎県の幸島でニホンザルの調査を始めたことから日本の霊長類学は始まったとされる。70年の歴史を刻む間、ニホンザルの芋洗い行動の発見からチンパンジーの「心」の解明まで世界をリードする成果を上げてきた。研究で明らかになった霊長類の多様な生態は、人間に何を教えるのか。「家族」や「平等」「暴力」といった現代人が抱える課題を、サルの視点から考える。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間がおるじゃないか 2008 12/19 再

2019-01-10 10:05:36 | Weblog

物理的な問題もあろうが、いま若者は車に興味が無く、酒も飲まなくなったという。゛エンジョイ・カーライフ゛などともてはやされ、゛一気飲み゛が流行った世は移り、世界的な博打投機が破綻し、金貸しは資金を膨らますことに没頭し、おんぶに抱っこの柔和な公的という資金がその宴を掃除している。

どこ吹く風と思いきや、小銭入りを探りながら寒空の公園でカップ麺をすする若者の眸に虚ろさは無い。これも慣れなのか。だが、ここにも学びはある。

私事だが、妙な縁で「狭間の学び」を体験した。

それは、この人生備忘ともいえる当ブログに再三登場する安岡、佐藤との邂逅である。

時を違えての縁だが、偶然両者は学びにおいて学風・体験こそ異なるが、互いに歴史の恩恵を利他の増進に役立たせるための人物教育に共通した意志があった。学びの姿は、行ったり来たりのキャッチボールを両者の縁者を交えて、まさに廊下トンビの風のようでもあった。

それゆえ、「学」の方はともかく、珍奇変異な筆者なる者が形成されたのかと、縁の不思議さを感じている。

以下は、その佐藤先生の小会での講話の一部ではありますが、ご紹介します。

 

 

 【人間がおるじゃないか】 
          佐藤慎一郎氏の郷学研修会での講義録より


               

               佐藤慎一郎

 さて、私は、これからの日本の進路の一つは、どうしても、すでに開始されて
いる太平洋時代の充実、完成と申しますか、アジア民族の興隆による世界平和へ
の貢献ということに重点をおく可きだと考えています。
 太平洋時代を考える場合、どうしても忘れられないのは、中国近代革命の父、
孫文という人です。孫文こそ、現在の太平洋時代に対して、その先鞭をつけた大
先覚者の一人です。

 孫文は、革命につぐ革命によって、清朝の専政体制を倒して、中華民国を創立
した人です。彼は、中国共産党すら、これを無視することのできない、全中国民
族から「国父」として尊崇されている、すばらしい大人物です。
 その孫文という人は
 「中国革命は、第二の明治維新である。日中の提携がなければ、アジアの復興
はない。アジアの復興がなければ、世界の平和がない」
 と言い続けて、その一生涯を日中提携によるアジアの復興と興隆とに尽した第
一人者であります。つまり、現代の太平洋時代の開幕に先鞭をつけた達見の持主
であります。



                
           
           佐藤氏の叔父 山田純三郎と孫文


 孫文は、その自序伝の中で、自分とその志を同じうして、その生涯を中国革命
に協力してくれた日本人は6名あると、書き残しています。
 「その革命のために奔走して、終始怠たらざりし者は、則ち山田兄弟、宮崎兄
弟、菊池、萱野らがある」
 と書きとめています。山田良政、純三郎兄弟、宮崎弥蔵、寅蔵兄弟、菊池良一
、萱野長知の6名です。
 
 しかも、この6名の中で真先に挙げられているのは、山田兄弟、これは青森県
弘前出身です。次に菊池良一、これも弘前出身です。


               

                  山田良政

 さらに孫文は
 「山田良政は、外国人で中国革命のための犠牲となった第一人者である」
 と感謝しています。
 と云うことは、その当時、その出身地弘前では、そのような時代にさきがけた
素晴らしい教育が行われていたということでしょう。

 山田兄弟の父は、浩蔵。明治13年、弘前に漆器授産会社を興して、津軽塗の
名称で、全国に売り出した最初の人です。その山田浩蔵は、私の母の父であり、
良政は私の母の兄、純三郎は私の母の弟です。菊池良一は、菊池九郎の長男で、
私の母の従弟です。
 菊池家は、熊本県の菊池武光の一族で、長慶天皇が南朝を復興しようとして、
全国をおしのびで歩かれた時、そのお伴をして津軽に来て、そのまま此の地に留
まったものと言い伝えられています。西郡の岩崎には、菊池の城跡が残っている
ようです。


               

                  菊池九郎


 菊池九郎は、弘前の長坂町で生まれています。
 21才の時、藩命を帯びて庄内藩に使いをし、奥羽列藩同盟に加入し、使命を
果して津軽に帰ってみたら、津軽藩は、勤王に組することに変っていた。九郎は
藩主の命によるものとは云え、庄内藩をだましたことに、なったのです。それで
は武士としての面目はたたない。九郎は庄内との約束を果すべく、脱藩して庄内
に赴くことになったのです。

 九郎の母の幾久は、他国で屍をさらすのであろうと、羽二重の嫁入り衣裳をく
ずして、鉢巻と下着を作り

 「かねてより言いし言の葉忘れめや、ふかく思え武士の道」

 と和歌をしたため、金子をそえて、その門出の祝いとして贈っています。
 九郎は庄内藩に出向いて違約の責めを一身に引き請けて処刑を願い出たのでし
たが、庄内藩では、それどころではない。官軍と戦ってくれと懇願され、西郷軍
と戦ったのです。やがて庄内は官軍に降り和議が成立したのでしたが、九郎は西
郷隆盛の庄内藩に対する処置に感銘してしまった。要するに九郎は、時代に開眼
されて津軽へ帰って来たのです。


             
            庄内と西郷

 しかし庄内藩に組した九郎は朝廷に刃向った賊軍の残党であると見なされたの
です。九郎には許婚者の恋人がいたが、破約となったのも、そのためでした。そ
れで、山田浩蔵の妹を嫁に貰うことになったのです。浩蔵の妻は九郎の姉であっ
た。山田家と菊池家は、二重に結ばれたのです。要するに山田兄弟は、そのよう
な家系と菊池家の深い影響の中で成長したのです。

 私は中学時代、勉強はきらい、寝小便はたれる、人一倍悪たれる。もて余され
て九郎爺さんに引きとられ、九郎爺さんと同じ蚊帳の中で寝起きしていたのです
。九郎爺さんからは「慎坊、慎坊」と可愛がって貰っただけで、叱られたことも
、教えられた記憶も、何一つありません。

たった一度
 「慎坊、お前は体は弱いから、ベコヤ(牛の牧場)ででも、働けばいいよ」
 と言われた記憶があるだけです。
 にもかかわらず、82才になる今日まで、何か問題にぶっつかる度に、九郎爺
さんなら、きっとこう教えて下さるだろうと考えながら、善処してきていたので
す。九郎爺さんの「不言の教え」が身にしみて感じられるのです。


            
             満州 佐藤慎一郎


 私が今回みなさん方に、こうしたお話を申し上げるのも、実は青森県にもう一
度菊池九郎のような偉大な教育者が出現して欲しいものと念願しているからです
。 長い長い封建社会も、世界の大勢の前に崩壊し、世は明治の世となりました
。その明治4年8月には、廃藩置県、やがて青森県もできましたが、県にはこれ
と云った特産者とて無かったのです。当時の人々は、これからの見透しについて
は、全くお先まっくらで、一体これからどうなるんだろうと悩んだものだという

 
 そのような時に、西郷隆盛に心服して鹿児島へ留学して津軽に帰って来たばか
りの、弱冠25才の菊池九郎は、毅然として

 「人間がおるじゃないか」

 とたった一言。有志と計らって従来のしきたりを大きく破って、知識を広く世
界に求めようとして、アメリカ人ウォルフ夫妻を教師として招請し、東奥義塾を
創設したのは、明治5年のことでした。すべて問題の解決は、これからどうなる
かではない、どうするかにあるのです。

 今日のように、まだ小学校すらなかった時代に、しかもこの東北の北端の片田
舎に外国人教師を招いて教壇に起たせたのです。時代を背負って起つとは、こう
した事を云うのでしょうか。

 「百年の計は、人を樹うるに如くはなし」
 
まず人材を養成することだと云うのです。


                 
                  ジョン・イング


 明治7年に着任したアメリカ人ジョン.イング先生は、一度教壇に起てば、そ
の「一言一句は、みなその肺腑より出で、その歴史の講義において、忠孝節義の
条に至れば、音声顫(せん)動、両眼に涙を浮かべ、一堂の学生も亦ために鳴咽すること屡々であった……」
 と記録されています。

 文字や文章を解釈する先生は、いくらでもおる。しかし人間の師となる先生は
極めて少ないのです。本当の教育とは、今日のように先生がしゃべり、学生に暗
記させることではない。それは、「記誦の学」と云って、学問のうちには入らな
いのです。

 教える者と自ら学ばんと志す者との魂と魂との触れあい、交流の中でこそ、学
生たちをして感動奮起せしめることができる。それが教えである。青年学生たち
に感激を与えうる教えが有ってこそ、はじめて青年学生たちをして奮い起たしめ
、その志を継がしめることができるのです。

 学問をするのは、今日のように良い学校に入り、良い会社に入り、専ら出世栄
達を計るためではないのです。まして男子たる者は、永遠の大計に志すのが、本
当でしょう。使命観に生きる者であってこそ、永遠に生きる者であると言って然
るべきでしょう。

 そのような教育をうけて育ったのが、山田兄弟であり、菊池良一たちだったの
です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数多の主義とのつきあい方   08/1,17再

2019-01-07 11:35:45 | Weblog

         孫文 

主義なるものはともかくにして、先立つものは金だと・・・

歴史をあれこれ言ってもも、生きているうちが華だとも聴く・・・

人はそれぞれ、抗論するお節介も江戸っ子には野暮ったい。

しばし旧稿を眺めることにしたい。

 

   

 

≪2008の章ですが・・≫

社会構造の変革は産業革命に匹敵するという情報化社会だが、何れも人知れず人間の悲哀が潜んでいる。

当時のイギリスは生産性も上がり消費地を確保する為に国外、とくに野蛮で未開の地と彼らが思っていたアジアに進出した。そこからのアジアの歴史と悲哀も言を多くするところだが、国内に目を転じると労働力確保のために多くの少年少女が日に十数時間と過酷な労働があった。

日本でも紡績工場や炭鉱など産業発展の影には多くの労働者の物語がつくられた。

それは海外への市場拡大と国威伸張を描き、また背伸びであってもその能力を保持していた邦人の姿だった。

その中でも特筆される出来事として田中正造の義行によって衆目を集めた足尾銅山鉱毒事件があった。

経営者の古川家と政府重臣の縁故もあったが、紡績、炭鉱同様に軍需物資もしくは産業の種といわれた銅の確保という国家的な問題であった。

誰が名づけたか資本主義、それが民主と自由による人の変質によって消費資本主義、はたまたその変質した人間を一方向に収斂する必要から便利さを謳ってデーター化した管理、つまり消費資本管理主義のようなものに姿を変えてきた。

個性を謳いながらも婦女子は同一方向性の流行に没頭し、高学歴の青年はビジネス留まりのない欲望のスパイラル的惰性にその覇気を集中させ、唯一無謬性を感じさせていた官吏も食い扶持、貰い扶持にその志を沈めている







  桂林の友人より




以前、筆者は民情は似て非なる国中国に棲む方々との同化を危惧したことがある。
色(性)、食、財の欲望が解き放たれたとき、かりそめの領土はあっても日本人が存在しない邦になってしまう憂慮だった。

個別の欲望とその経過は様々な現象によって説明を省くが、その変質したものを悟る理解もなくなろうとしている。
景気もよくなれば考える余裕もできる。官吏の待遇も気にならない、とはいうが、時のスピードと阿諛迎合性を性癖としてもつ多くの日本人にとっては、その同化の進捗は驚くほど早くなっている。

なにも隣国だけではない。人間の尊厳を護ることを前提とした主義も、収斂管理を目的とした網目はより細かくなり、投網に跳ねる雑魚の自由はあるが水から上がってしまってはお終いの状態である。ユーロー参加と東西ドイツの合併を駆け引きにされたドイツは国内通貨マルクを消滅させられた。


平ナラヌものを平スレバ、平ナラズ
つまり、それぞれの特徴は平らではないが、無理して平ら(平等)にすれは不平を生ず、というものだが、不平が出ないうちに力の差を付けようとするのであろう。
その力とは足踏みするユーローを尻目に国家民族を融解させる情報と金融である。

翻って我国、いや民族は今の主義に合うのだろうか。
かといって学者の整合性を追う従前の各種主義という代物に、人間の尊厳を護り、かつ描けなくなったような日本人像と理想の方向性を見出せるものはない憂鬱もある。

いっそのこと外国製の主義を理解もせず政権運営の具とした隣国と我国の政権政党のように、主義にとりつくバチルスのように食い扶持を得るか、また付き合っていくのか。まさに理屈は美醜混濁する借り物の主義に聞けとのことだろう。

いまは無理かもしれないが、何れの期にアジアの真の意志と独立は、再び謳い、掲げるべきことを要求されるに違いない。

近頃はとくにつき合いづらい主義という代物である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある切り口 オトコの付き合い

2019-01-03 09:05:28 | Weblog

 

 

台湾を興した男の付き合い   官でも…、軍でも、変わり者同士  後藤新平 児玉源太郎

 

 

 

食い扶持稼業なりには夫々「界」がある。政治の世界、経済界、また「壇」という奇妙なものもある。画壇、文壇だが夫々が「界」を構成している。その世界も狂気の世界、嫉妬の世界、批評の世界と「世」に関わると、「界」なり「壇」なりに棲み分け安住して粗餐をむしばみ兵隊ごっこよろしく「賞」なるものを設け商業出版の奴隷なりパラサイトとして世を惑わしている。世は変わり者を称賛し、汗を知らずして汗を書き、ヤブにらみ批評を斬新とするような、つまり童心から見れば滑稽かつ妖怪の世界を映し出している。

 

世に売文の輩、言論貴族と称す堕落した似非文化人を気取る者がいるが、隣国では「九儒」、や「臭九老」として蔑んだ。先進国と称するところでは知識人、いや今では「識」にいう道理もなく「知」のみの偽論、偽文が氾濫していることを文化の進捗というのだろう。

 

つまり彼の世界は「別世界」なのだ。

「智は大偽を生ず」という。言い訳、虚飾、に智が用いられ、その美辞麗句は文章の巧みさという巧妙な文術によっていたる所に錯誤を、錯覚を巻き起こしている。

「詐」を頭がいいと言いくるめ、「暴」を勇気と、贅沢を幸福と為すようなもので、しかも明け透けな様相や、もの珍しい事象、裏話や人の理性の働かない欲望を「人の在り様」として書き連ね、その結果辿り着くであろう複雑怪奇な世情を「人の世」と後書きする。

 

また「真理」探究と称して覗き、脅し、エゴなる欲求を虚なる物語として具象化しているが、それは単なる「心理」の読み込みであり、勝手な切り口の書きものである。

 

いたらぬ物書きの世界だが、近頃では教壇に身を置くものまでが故事を引っ張り出して訓話マニュアルを習文しているが、これらにも文化人としての褒め賞が与えられる。所詮、商業出版の世界の出来事だが、さすがに陛下の勲章ともなると「界」も「壇」も神妙になり、かつ別の顔を取り繕うようだ。

 

以下の章はある老作家の戯れ文である。

一風その世界を俯瞰しているようだが、おなじ壇や界の縁に生息している。それゆえ物書きの心情はよく読みとれるらしい。

その世界の、その話として理解いただき御高読戴ければと思う次第。

 

                                 編者 孫景文

 

 

        中央 平凡社 下中邦彦  右 小学館編集者

 

 

昭和四十五年だった

 

君は山本さんとお会いになった・・・

 

ええ・・先輩のおかげで一寸

 

僕も会った、一度だけど・・

 

はぁ

 

横浜の何とかイフ・・

 

はぁ

 

そりゃ、僕も若かった。まだ三十そこそこだった

 

山岡さん、壮八さんには・・・

 

いゃ

 

戦争中は貪るようにこの二人のを読んだ。若僧にも分かりやすかった・・ピタリときた

 

・・・・

 

君のはじめに読んだのは何だ

 

橋の下・・・、   ですね

 

山本さんが変わりだした頃だな

 

はぁ?

 

壮八さんのは

 

徳川家康,信長ものですね

 

二人とも戦後は書くものが大転換したなぁ

 

・・・・

 

僕が二十代で読んだ頃は二人ともまだ新進で、今みたいに有名じゃなかったから評論だの講談だの・・・そして講談クラブ、富士なんぞに戦争真っ盛りにやっと吉川英二海音寺白井喬二らに連ねた

 

・・・もうこうなると知らないから黙って聞くしかない・・・

 

戦争が終わってからか、敗戦寸前かね・・・二人とも呑み助だが打ち合ったときに夜呼び出して、山岡さんが壮八となった話は知ってるか

 

そんなことがあったんですか

 

二人とも、まだ四十前後で血気盛んだったなぁ

 

・・・・・

 

山本さんは横浜市に住んでいて、お子さんを空襲で亡くした。火葬したくても柩も葬儀社もない。幸い遺体だけは見つけて、そこいらの焼けた板片や枝で箱をつくって焼き場に運んでいる

 

へぇ・・・・

 

壮八さんのほうは海軍報道班員に徴用されて、鹿屋基地だか特攻基地に付きっきりで、このため特攻隊員を毎日見送り、その遺書、遺品なども渡され、敗戦後、渡せるものは遺族に渡し、残ったものは丁重に保存し、自宅の庭に特攻観音といったかなぁ…慰霊塔をささやかに祀って、いまもあるそうだ。

 

はぁ・・・

 

それも立派だが… 戦争は、゛御盾゛なんて小説知っているか・・

 

知りません

 

二・二六事件は

 

何とか聞いています

 

その二・二六以前の引き金になった陸海軍の少壮革新派の核となった藤井育少佐(当時は大尉)の作った連絡機関、゛王師会゛の動きを二年にわたって書きつづけた。終了が二十年四月・・・

 

・・・・

 

今から言えば軍国主義、天皇絶対主義、右翼革命家の話だ

 

・・・・

 

これを書いて随分ふっきれた。山本さんのほうは日本婦道記(直木賞に選ばれたが菊池寛社主が嫌いだとして蹴った)に次いで日本士道記(これは戦陣に赴くなか、その将校,兵士らの死への を促し、再来の心情を描いた粒よりの小説。二、三十枚の紙がないから作品も短かったが慰めや癒しとなった

 

・・・・

 

今からいえば戦争謳歌、反動、封建軍国主義だね

 

はぁ、知らなかった

 

それでだ、庭へ呼び出すと山本さんは・・、君は何だ、あんなものばかり書いて若い連中を無駄に死なせた。おれが代わって制裁すると壮八を殴った。壮八さんは黙ってその鉄拳を受けた。山岡さんはそれっきり絶交

 

・・・うーん

 

ところがだ,十数年後、とにかく再開した文人の酒の会があった

 

・・・・

 

この時、また呼び出した

・・・・

 

山本さんは壮八さんに、゛俺を殴れ゛と。黙っていると、゛あの時は俺も血迷っていた、早まった、悪かった、気の済むように殴れ、思いっきり。

 

・・・・

 

壮八さんは、殴らなかった。゛忘れよう゛山岡さんはペコリと一礼した。

 

・・・・

 

まぁ、正確じゃないがこのようなことだ

 

うーん

 

山本さんは、゛樅の木は残った゛を頂点に、その後大物になった。壮八さんも家康もので大成長だ

 

・・・・

 

書くものの傾向が大分変化した。とくに山本さんの戦前、戦中、敗戦後の文章、文体は作品がは町人もの、市井もの、人情ものに集中し、武士を描いても生活心情に則したもので、武士道ものやサムライ魂の昂揚したものはなくなった。とくに文体が快く吾々の心情に測々として染み入り流れるような文章から、西洋風の、゛ナニナニは言った゛と、確かに明確、明晰にはなったが、長くなるとしばしば息苦しい、ひどく言えばカンに障る文章を意識して書きだした。それだけ巧くはなった。短編、小編では効き目があるが長編になるとクドクてもたれ気味だ。

 

 

    

       何を考えているのやら・・・ 香港

 

 

君は戦前ものと戦後代表作と文章を比較してみたことがあつたか・・

 

ありません

 

やってみろよ。例えば、゛橋の下゛゛あざみ゛(最高傑作だ、モーパッサンやバルザックの短編をも超える)と、士道記の、゛紀梅月゛や、゛粛々十八年゛などと、婦道記では、゛墨丸゛とか゛風車゛とかな・・思い当るところがあるはずだ。

 

・・・・・・

 

いちばん俺が山本さんに不服なのは禅をすこしコケ扱いしている。一方では一時流行ったラジオの三木鶏郎、丹下キヨ子、三木のり平らの冗談音楽をとらえて、日本神話を侮辱していると静かな声音だが罵ったことがある。そして君の会社の週刊光陽の山岡付きの記者の木村某に、戦中、戦前の作品を一切 廃棄焼却したいと言ったということだ・・

真意は確かめなければならんが、これだけは気に入らん。

 

若いころの作品や創作を有名になった後は刊行したくない、若気のいたり,愚劣痴気を残したくない、れいれいといった萩原朔太郎や北原白秋とは、これはチト違うようだ。

 

詩人の勘介も大木惇夫もそんなこと言わない。川田順なども老いらくの恋などと嘲られたが、営々と戦中作品も敗戦後刊行している。

比べりゃ壷井繁治、小野重治など左翼をはじめ三好達治や志賀直哉、武者小路,ゾロゾロと・・・

 

戦中、戦後、作品を自ら抹殺,無視、白眼視しているのは一般だが、そんなのと一緒にしたくない

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする