台湾を興した男の付き合い 官でも…、軍でも、変わり者同士 後藤新平 児玉源太郎
食い扶持稼業なりには夫々「界」がある。政治の世界、経済界、また「壇」という奇妙なものもある。画壇、文壇だが夫々が「界」を構成している。その世界も狂気の世界、嫉妬の世界、批評の世界と「世」に関わると、「界」なり「壇」なりに棲み分け安住して粗餐をむしばみ兵隊ごっこよろしく「賞」なるものを設け商業出版の奴隷なりパラサイトとして世を惑わしている。世は変わり者を称賛し、汗を知らずして汗を書き、ヤブにらみ批評を斬新とするような、つまり童心から見れば滑稽かつ妖怪の世界を映し出している。
世に売文の輩、言論貴族と称す堕落した似非文化人を気取る者がいるが、隣国では「九儒」、や「臭九老」として蔑んだ。先進国と称するところでは知識人、いや今では「識」にいう道理もなく「知」のみの偽論、偽文が氾濫していることを文化の進捗というのだろう。
つまり彼の世界は「別世界」なのだ。
「智は大偽を生ず」という。言い訳、虚飾、に智が用いられ、その美辞麗句は文章の巧みさという巧妙な文術によっていたる所に錯誤を、錯覚を巻き起こしている。
「詐」を頭がいいと言いくるめ、「暴」を勇気と、贅沢を幸福と為すようなもので、しかも明け透けな様相や、もの珍しい事象、裏話や人の理性の働かない欲望を「人の在り様」として書き連ね、その結果辿り着くであろう複雑怪奇な世情を「人の世」と後書きする。
また「真理」探究と称して覗き、脅し、エゴなる欲求を虚なる物語として具象化しているが、それは単なる「心理」の読み込みであり、勝手な切り口の書きものである。
いたらぬ物書きの世界だが、近頃では教壇に身を置くものまでが故事を引っ張り出して訓話マニュアルを習文しているが、これらにも文化人としての褒め賞が与えられる。所詮、商業出版の世界の出来事だが、さすがに陛下の勲章ともなると「界」も「壇」も神妙になり、かつ別の顔を取り繕うようだ。
以下の章はある老作家の戯れ文である。
一風その世界を俯瞰しているようだが、おなじ壇や界の縁に生息している。それゆえ物書きの心情はよく読みとれるらしい。
その世界の、その話として理解いただき御高読戴ければと思う次第。
編者 孫景文
中央 平凡社 下中邦彦 右 小学館編集者
昭和四十五年だった
君は山本さんとお会いになった・・・
ええ・・先輩のおかげで一寸
僕も会った、一度だけど・・
はぁ
横浜の何とかイフ・・
はぁ
そりゃ、僕も若かった。まだ三十そこそこだった
山岡さん、壮八さんには・・・
いゃ
戦争中は貪るようにこの二人のを読んだ。若僧にも分かりやすかった・・ピタリときた
・・・・
君のはじめに読んだのは何だ
橋の下・・・、 ですね
山本さんが変わりだした頃だな
はぁ?
壮八さんのは
徳川家康,信長ものですね
二人とも戦後は書くものが大転換したなぁ
・・・・
僕が二十代で読んだ頃は二人ともまだ新進で、今みたいに有名じゃなかったから評論だの講談だの・・・そして講談クラブ、富士なんぞに戦争真っ盛りにやっと吉川英二や海音寺や白井喬二らに連ねた
・・・もうこうなると知らないから黙って聞くしかない・・・
戦争が終わってからか、敗戦寸前かね・・・二人とも呑み助だが打ち合ったときに夜呼び出して、山岡さんが壮八となった話は知ってるか
そんなことがあったんですか
二人とも、まだ四十前後で血気盛んだったなぁ
・・・・・
山本さんは横浜市に住んでいて、お子さんを空襲で亡くした。火葬したくても柩も葬儀社もない。幸い遺体だけは見つけて、そこいらの焼けた板片や枝で箱をつくって焼き場に運んでいる
へぇ・・・・
壮八さんのほうは海軍報道班員に徴用されて、鹿屋基地だか特攻基地に付きっきりで、このため特攻隊員を毎日見送り、その遺書、遺品なども渡され、敗戦後、渡せるものは遺族に渡し、残ったものは丁重に保存し、自宅の庭に特攻観音といったかなぁ…慰霊塔をささやかに祀って、いまもあるそうだ。
はぁ・・・
それも立派だが… 戦争は、゛御盾゛なんて小説知っているか・・
知りません
二・二六事件は
何とか聞いています
その二・二六以前の引き金になった陸海軍の少壮革新派の核となった藤井育少佐(当時は大尉)の作った連絡機関、゛王師会゛の動きを二年にわたって書きつづけた。終了が二十年四月・・・
・・・・
今から言えば軍国主義、天皇絶対主義、右翼革命家の話だ
・・・・
これを書いて随分ふっきれた。山本さんのほうは日本婦道記(直木賞に選ばれたが菊池寛社主が嫌いだとして蹴った)に次いで日本士道記(これは戦陣に赴くなか、その将校,兵士らの死への を促し、再来の心情を描いた粒よりの小説。二、三十枚の紙がないから作品も短かったが慰めや癒しとなった
・・・・
今からいえば戦争謳歌、反動、封建軍国主義だね
はぁ、知らなかった
それでだ、庭へ呼び出すと山本さんは・・、君は何だ、あんなものばかり書いて若い連中を無駄に死なせた。おれが代わって制裁すると壮八を殴った。壮八さんは黙ってその鉄拳を受けた。山岡さんはそれっきり絶交
・・・うーん
ところがだ,十数年後、とにかく再開した文人の酒の会があった
・・・・
この時、また呼び出した
・・・・
山本さんは壮八さんに、゛俺を殴れ゛と。黙っていると、゛あの時は俺も血迷っていた、早まった、悪かった、気の済むように殴れ、思いっきり。
・・・・
壮八さんは、殴らなかった。゛忘れよう゛山岡さんはペコリと一礼した。
・・・・
まぁ、正確じゃないがこのようなことだ
うーん
山本さんは、゛樅の木は残った゛を頂点に、その後大物になった。壮八さんも家康もので大成長だ
・・・・
書くものの傾向が大分変化した。とくに山本さんの戦前、戦中、敗戦後の文章、文体は作品がは町人もの、市井もの、人情ものに集中し、武士を描いても生活心情に則したもので、武士道ものやサムライ魂の昂揚したものはなくなった。とくに文体が快く吾々の心情に測々として染み入り流れるような文章から、西洋風の、゛ナニナニは言った゛と、確かに明確、明晰にはなったが、長くなるとしばしば息苦しい、ひどく言えばカンに障る文章を意識して書きだした。それだけ巧くはなった。短編、小編では効き目があるが長編になるとクドクてもたれ気味だ。
何を考えているのやら・・・ 香港
君は戦前ものと戦後代表作と文章を比較してみたことがあつたか・・
ありません
やってみろよ。例えば、゛橋の下゛゛あざみ゛(最高傑作だ、モーパッサンやバルザックの短編をも超える)と、士道記の、゛紀梅月゛や、゛粛々十八年゛などと、婦道記では、゛墨丸゛とか゛風車゛とかな・・思い当るところがあるはずだ。
・・・・・・
いちばん俺が山本さんに不服なのは禅をすこしコケ扱いしている。一方では一時流行ったラジオの三木鶏郎、丹下キヨ子、三木のり平らの冗談音楽をとらえて、日本神話を侮辱していると静かな声音だが罵ったことがある。そして君の会社の週刊光陽の山岡付きの記者の木村某に、戦中、戦前の作品を一切 廃棄焼却したいと言ったということだ・・
真意は確かめなければならんが、これだけは気に入らん。
若いころの作品や創作を有名になった後は刊行したくない、若気のいたり,愚劣痴気を残したくない、れいれいといった萩原朔太郎や北原白秋とは、これはチト違うようだ。
詩人の勘介も大木惇夫もそんなこと言わない。川田順なども老いらくの恋などと嘲られたが、営々と戦中作品も敗戦後刊行している。
比べりゃ壷井繁治、小野重治など左翼をはじめ三好達治や志賀直哉、武者小路,ゾロゾロと・・・
戦中、戦後、作品を自ら抹殺,無視、白眼視しているのは一般だが、そんなのと一緒にしたくない。