まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

:憲法と元号 安岡正篤の鎮考する撰文

2019-03-22 12:43:03 | Weblog

 

         


以下 旧稿ですが・・・ 

 また、撰文で騒いでいる

いつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。

 

ことは憲法前文のことである

理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。

近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を変えなくてはならない。

 

もちろんその通りだが、どうも胡散臭い。

何年か前に色々な前文案が出た。中曽根試案というものもあったが、「我々は・・」と団塊の学生運動の臭いがする新聞記者が書いた説明調もあったが、市民革命の熱気がくすぶるような散文だった。

 

また憲法九条が争論となっているが、もともと軍閥や硬直した官吏が暗雲として時代を支配していたことが、頸木を除く意味で多くの人々が納得した条文である。当時はその構造転換を憲法に望んでいた。

自衛権だの交戦などはさらさら念頭にはなく、これさえ認めれば鬼(GHQ)の歓心を受けるという阿諛迎合の徒もいたが、この種の人間は往々にして弱きものには四角四面の薄情な態度で応ずる官吏や知識人が多いが、その系列を踏むものが時代や大国に再び迎合している。

 

それらには憲法前文などは、端からつくれない。撰文する情緒もないはずだ。だだ、いたずらに時と知労を稼ぐだけだろう。

 

安岡正篤氏は時節の岐路に多くの撰文や監修を遺している。

古人は「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と遺した。

もちろん天皇の御詠みになる和歌もそうだろう。

 

よく偽装弟子と称するものの屏風に安岡氏のエピソードが飾られる。

今どきは不朽となるべき公文書の改竄が頻繁に行われている、それも政権の恣意的都合によってだ。

条約にも密約がある。一部の者しか知らない、問題物は廃棄する。政治家や役人は凡そ二年ごとに変われば、知っているのは相手国だけ。

これでは言いなりだ。いくら知恵を絞った文章でも、裏があり、廃棄もあるのでは、意味をなさない。

 

安岡氏のことだが、

終戦の詔勅に朱(添削)を入れた

元号「平成」の起草者

中華民国(台湾)断交に際して蒋介石に親書撰文した

色々あるが、その理由の一つに依頼する側の訳がある。それは「安岡先生なら・・・」という安心と保全だ。


   

  吉田茂の岳父 牧野内大臣

 

大久保利通の縁戚で内務大臣だった牧野伸顕にあてた多くの建策。そのなかで「天子論、官吏論」が賢読され多くの重臣に紹介された。その縁で宮中派であった近衛首相、そして海軍、大東亜省との関係を築き、終戦工作にもかかわり、牧野の縁戚吉田茂から「老師」と敬重され、その吉田の系列である保守本流の代議士から、゛頼り゛にされ多くの撰文や添削監修を依頼されている。

 

ここに頼めば安全で保全にもなるという安岡ブランドに対する、ある種安直な考えもあったようだ。

 

だだ、安岡氏は筆者に「代議士は人物二流でしか成れない」「いまは、デモクラシ―変じて、デモ・クレージーだ」と言い聞かせるように呟いたことがあった。

 

あるとき靖国神社出版の「世紀の自決」を案内されたことがあった。

その巻頭は本人が撰文したものだが、戦前戦後の経過を知る当人が数日を要して鎮考した文は何度読んでも新たな感慨が甦る。

恩讐を超えて複(ふたた)縁が甦るとき・・

まさに、終戦の詔勅に「万世のために太平をひらかんと欲す・・」と挿入した継続した意志が読み取れる撰文である。

 

薄学を顧みず縁者の頌徳文をお見せしたことがある。

そのときは安岡氏のことを良く知らなかった。だだ、近所の古老に連れられてきただけだった。「その頌徳文をもってきなさい」と言われただけだった。

 

三回読みなおしていた。十分くらい静寂だった。

なおして宜しいですか

声も出さず頷くだけだったが、傍らの赤鉛筆を手に添削していた。またそれを二回ほど読みなおして頷いた。そして面前の小生を凝視して発した。

 

文書は巧い下手ではない。君の至誠が何十年経て、人物によって目にしたとき、その至誠が伝わり、それによって意志が継続され世の中も覚醒する。文とはそのようなもので時節の知識に迎合したりするものは文でもなければ遺すことはできない

 

虎やの羊羹をつまみながらの応答を取りまとめた内容だが、あの読み直す緊張感と集中力は、些細な対象でも真摯に向き合う厳しさと、初対面に係わらずいとも容易に応ずる優しさは、後日検索した巷間騒がれる氏の印象ではなかった。傍らの煙草は両切りのピース、「禁煙もよいが、欣煙,謹縁、ホドを知って歓び、謹んでたしなむことで毒にならん」と、洒脱さにも驚いた。

 

    

     郷学研修会     中央 安岡講頭  右 卜部皇太后御用掛


そして「郷学を興しなさい」、それには「無名でいなさい」、それは「何よりも有力への途です

嫡男の安岡正明氏が講頭となり「郷学研修会」を発足した。

父が描いたものはこの様なたおやかな集いです。目的をつくり、使命感を養い、そこから嶮しい真剣な学問が自発的に始まるのです」

 

「父は単なる教育者であり、自身は求道者です、ですから教場の掲額には「我何人(われ、なにびとぞ)」と、自身を探究することを目的としたもので、ステータスや名利を獲得する道具にしてはいけません」

 

いわんや、父の説や訓を寸借したり、我利に応用したりする方もおりますが、それこそ学問の堕落だと云うでしょう。父は時局を観照して古典の栄枯盛衰を鑑としましたが、政局は語ることはありませんでした。あくまで人物の姿を見たのです」

 

「時流に迎合するな」「歴史を俯瞰して内省し、将来を逆賭する」

※  「逆賭」将来を想定し、今打つべき策を講ずる

 

憲法前文はそのようなものだろう。なによりも陛下が声を発せられて御読みになってもおかしくない撰文であってほしい。心を共にするとはそのような深慮が人々にとっても必要なのだ。

 

 

 

参考《或るときの小会の研修要旨

元号平成は、『内(うち)平らかにして外(そと)成る』、あるいは、『地平らかにして天、成る』という中国古典よりの撰名ですが、この草案作成は小会、郷学研修会の提唱者であり、善き訓導を戴いた安岡正篤先生によるものです。

 大平内閣当時の元号制定法案の成立後、竹下内閣当時、あの小渕官房長官が元号発表会見で掲げた平成を覚えている方は多いと思います。

 当時、昭和天皇在位中の撰文では不敬あろうとの理由と、故人の撰文では不都合と云ことで伏せられてはいましたが、後年、竹下氏総理退任後、安岡先生を偲ぶ日本工業倶楽部での「弧堂忌」で懐古されていたのを筆者は記憶しております。

 

 数人の有識者の案が提出され、しかも誰が考案したかも判らず、キーポイントとなったのは、M明治、T大正、S昭和のアルファベットの頭文字と同じでは関係文書の年号記載の齟齬があるという事でした。

例えば「修文」のSは除外され、そこで「平成」の頭文字はH。そこに会議を仕切るのは竹下の腹心、小渕恵三官房長官。会議の雰囲気が一挙に傾き、選考の流れとなった。もともと、「平成」の草案は起草された後、官房長官室の金庫に保存していたものだ。

 その竹下氏は、地元選挙区の挨拶でも同様なことを述べている。


 ここでは、ことさら誰がとか、どんな理由で、とかを云々することではない。

 だた、前記(※)にある小生との応答で厳言した意に沿えば、「記されたものは天皇の権威とその由縁ある人々(邦人)の平和に暮らしを願い、時代の更新を表すものでなくてはならず、かつ世俗の雰囲気に惑わされず、後世に継承するものでなくてはならない」と、撰文考案の真意を察することができなければ、単なる元号騒動や古臭い記号表記としてしか思えない風潮になってしまいます。

元号制定法案は、その消滅を恐れて成文化したものですが、今の機会は、撰文の考案と、その真意や願望を想起する縁(よすが)として考えることが必要なことだと思います。

 

       


この平成の意にあります『内、平らかに(治まって)、外、成る』ですが、翻って地域の再開発に関する不祥事に際して賢人にその旨をお話したところ、井上靖著「孔子」の1頁に付箋を付け、一章に赤鉛筆の傍線を記した著書を頂戴した。それは孔子が「まちづくり」の要諦を弟子に問い聞かせている場面の言葉でした。

『近きもの説(よろ)こび、遠きもの来たる』

ならば、できないのはなぜか、と小生の拙問に

『トップリーダーのノンポリシー、とくに名利に卑しい人物では尚更だ』

いつもの問答ですが、根本を観た直言は「人物を得る」ことの大切さを説かれました。

 

今回、講師の説かれる備中板倉藩の改革者、山田方谷の誓詞にも同様なことが記されています。

『・・・あの人は真面目な人で、他人を騙さないから信用ができると、世間から信用されれば財はいくらでも流通する。だから、理財の道はまず信用からであります・・』
 これは単なる議論ではなく、貧乏で風紀も乱れていた板倉藩は山田方谷の改革によって、旅人がひとたび藩内を訪れるとすぐ分るというくらいの事績を上げています。

 当時、口を開けば金、金と言っているばかりか、各種税金は取れるだけ取り、また各種の節約も数十年になったが相変わらず借金は増大していました。

 果たして理財の運用のミスか、人間の知能の問題かというと、そうではありません。

【国家社会の大事を処理する者は、事件の問題の外に立つて、大事の内側にちぢこまらぬことが大切】、と説く。

これは方谷が説く「理財論」を通じて言わんとする根本的見識なのです。

 

社会は理財の流通がよく、安全で人が集まる、それは改革の当事者トップリーダーの胆識(腹の据わった行動見識)があってこそ可能なことであり、郷土(ふるさと)作興のための指導者像であるといっています。

それは改革に対する勇気と信望が集う清廉、そして鎮まりをもった姿勢なのでしょう。

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西行と東行 知の省き 08 6/4あの頃

2019-03-20 02:02:30 | Weblog


歌人「西行」は西に行く。それにちなんで高杉晋作は「東行」と号して東を目指す。その東行は「東行詩集」(漢詩)を詠むが、内容はまさに烈行の誓いと自身への鼓舞が胸を打つ。

ともに俗世を絶ち一方は嵯峨野の大原野の世捨て人となり、一方は世俗の患いごとを断ち切るかのように功山寺で維新回天の鞭を振り下ろしている。


東行(晋作)は浮世の欲心を払うためか「女房を敵とおもえ」と、決起のためらいを絶つ為か、つまり後ろ髪を引かれる心の弱さを押し込めるかのように語った逸話がある。

筆者がまだ若輩の頃、松下村塾を清掃している老婆が「晋作さんは高下駄をはいて城下からカラコロと鳴らして此処に通っていた・と母がよく話していた」語ってくれた。

同類のオーラルヒストリーだが、安岡正篤氏(旧姓堀田)の妻の本家所在の土佐では、よく母が「リョウメ(坂本竜馬の童呼び名)とよく遊んだと語っていた」

歴史は身近に引き寄せ臨場感を味わってこそ人物が良く解る。

西行に戻るが、出家したけれど世俗を捨てきれず、いつまでも都をウロウロしていた頃、多くの歌を残している。順を辿るとこんな歌がある。
「捨てし折り心をさらに改めて、みる世の人に別れ果てなん」
今時なら、゛ぐずぐずしないで勝手にしなさい゛といわれる駄々っ子のようなものだが、今のように拙速軽薄な世の中ではなく、鎮まりのあるゆったりとした世の中のせいもあった。

その点、東行は師の松陰の薫陶よろしく、゛止むにやまれぬ大和魂゛と行動している。時の回転は追い立てるように事の心を動かすことがわかる。

時々に湧きだす心の発露は、その先に訪れるものがオボロゲだとしても、亡羊な世俗に押し流されるよりマシと脱出の希望をかきたてる。
出家と烈行、それは突破力であり、「知」を超えた至情と至誠の姿だった。

共通していることは良なる、゛世捨て人゛になることだろう。
そのための覚悟、その妙案は地位、名誉、財力、官制学校歴などの附属性価値に無いものだと教えてくれる。

ましてや情報という知の集積は混沌を増すばかりだ。
また近頃の「知」は肉体的衝撃を回避する為に使われたり、狡猾な行為しか描けない。

白色の律にあるアダムとイブの食欲は、「知」の美味しさだった。
これを彼らは創生の頃に認知していたはずだが、未だ「知は大偽を生ず」の状態が続いている。知を盾にして人を欺き、己さえ欺き、我をも無くしている。

それを思うと、時に羞悪とも毒とも化す「知」の省きこそ、西行、東行の「行為」だったのだろう。

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滅ぼすのは悪ではなく、愚かさである  2010 5 あの頃

2019-03-18 18:26:21 | Weblog

まさに標題のごとくの世相である。

何をして悪党と呼ぶのかは様々だが、ならば小悪党でなく大悪党のほうが解りやすい

古には石川五右衛門や鼠小僧もいた。平将門も関東の悪党と西では云われていた。

悪党ではないが、清水次郎長やその配下も当時はヤクザ侠客といわれたが、山岡鉄舟や勝海舟との交遊は面白い。

人のことではないが、悪所といわれた遊び場が至るところにある。

浅草や通天閣あたりのことだが、別に悪人が屯っていたわけではない。かえって潤いのある遊び場だった。

屁理屈だが偽善者は有っても偽悪者とは言わない。

それは、往々にして善を表わすのは偽なる装いであり、真意は意味も解らず習慣化された善なる姿に、隠れた己が見えなくなるからなのだろう。

翻って、無礼とざっくばらんは紙一重という。

これこそ真の自由であり、あけっぴろげの姿だと勝手な振る舞いをするものもいるが、野原に放たれた犬が犬らしい顔をしていることとは趣が違う。

松陰でさえ士規七則の冒頭に「禽獣と異なること・・」を記している。動物とは異なる規範と抑制を則としている。

つまりい犬や猫も、喰ったり、交尾したりするが、グルメや風俗などは無い。

たしかに昔の日本人は宣教師が渡来して、「造物主が創った最高のものは人間」と説教しても、「可愛い犬や牛は同じではないのですか」と、疑問を呈した醇なる理性があった。人間だけが高邁にも野放図に生きてよいとは思わないと当時の庶民は判っていた。


聖書では牛は喰ってよいと記されているのだが、日本人は、囲いをつくって大きくなったら喰うために牛は育てなかった。

彼らは、クジラは神の使いだからと喰わないが、死体から油を搾った。

人間なるもの、まさに面倒な生き物だとおもう。



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刑務官が矯正局長になった話

2019-03-15 17:09:07 | Weblog

 

高知出身の元空将の平田氏から、「面白い人物がいる、前矯正局長で西田博さんという方です」と、連絡があった。

 

親が刑務官だったわけではないが、選択肢のないまま刑務官になった。

役人の昇進はそれぞれの職位に応じて試験がある。偉くなろうとは思わなかったが、目の前の課題を解く探究心にまさる好奇心があった。

受刑者の矯正ということで緊張と即応力を考え、己にも意識の向上を課した。

そして運と縁が転がれば逆にもなる人生もあると、いろいろな施策を提言した。

現場あがりの役人との自負は、刑務官の声、入所者への心慮、関係する民間への配慮など、下座観から眺めることができた。

著書出版の関係でその親会社の役員にも誘われた。己の身の名利を案じることもないが、好奇な探究心が縁を運んでくる。

幼い頃、酔客が身障の母親の真似をして、不自由な姿で歩く姿を見て今でも悔しさは残っている

それは町の保護司もしている有力者だったが、法務行政の保護と矯正に係わる立場に立って、なぜか寛容のすべを学べるようになった。

苦労する刑務官や入所者のことをつねに考えていると、役務を超えた人としての共感が湧いてくる。

まさに、同じ釜の飯を喰うという関係なのだろう。保護司さんも同じ釜だ。

人は対価をもって贖うことがある。自主的、強制的、色々だが、社会からの隔離、労働、あるいは死をもって贖うこともある。

その特殊環境から人の人生を観て己を内省したり、取り巻く社会を観察する。

まさに自得の環境に学びを求め、かつその行く末を遠望すると有難い人生かと思えるようになった。

 

    

 

 

保護司会 講話隋聴余話

 元矯正局長という厳めしい経歴を伺い、保護事業に係わる会員にとって、従前の行政的研修かと想定した方も多かったと思います。

今回の提案は、そもそも無機質な法の世界の運用だけでなく、経歴に鑑みて、どのように縁を活かし、運ばれた人生をいかに矯正事業に新発想を導入できたのか、裃を除き各々に共感でき得ることとして、西田氏の醇なる人生観を語って頂くことでした。

また、縦割りといわれる官域の世界で、保護司より長期間関係する受刑者へ思いについては、いかに処遇なり行く末に心を砕いたのか、あるいは、刑務官から局長という職掌から、多面的、根本的、社会との調和など、くわえて、西田氏の篤い情感の生成由縁を添え、保護、矯正という枠を超えた理解と協働意識を喚起できればとの願いもありました。

それ故に、氏の個人的おもいを忌憚なく語って頂けたことで、会員にも望外な効果があったことだと推察します。

とくに障碍者であった母へのおもいと、保護司への印象や、縁あって辿った法務行政への回顧など、余すところなく語っていただきました。

生まれてから亡くなるまでの「生死の間」に、さまざまな縁の作用と欲望のコントロール次第で、誰もが被収容者となる可能性もあります。しかし、更生や生活再建の途は閉ざされてはいません。それゆえ西田さんは「ゆっくりと、諦めずに」と就労支援の気概を説きます。

そして法務省は、その支援の旗を降ろさない、と社会に唱え続けています。

驚くことは、いまだ向学心が豊かで、好奇心というべき童のような感性を保持し、先日も区内の城北高校に明治の監獄法の和綴じの資料があると伝えたところ、早速、訪問して図書館で熱心に閲覧していました。

官職を辞し、民間の社長業繁忙でも学ぶ意欲は衰えていません。

また、その興味は海外にも及び、今期は台湾の矯正施設や青少年の事情を識るために渡台し関係者と交誼を深めます。

その意味では、異なる民族に普遍な「人情は国法より重し」という、法は人間の幸せのためにこそ存在意義があると、確認の訪問です。

それは、まさに西田教学の行動表現だと実感した次第です。  

                     寳田時雄 記

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 人間考学  「布仁興義」 その倣うべき姿  11 4/22

2019-03-11 16:16:37 | Weblog

筆者 拙刻





「仁を布いて義を興す」  よき心を自ら広げて、正しい心を喚起する

「布仁興義」東洋では政治の様態を問うときこの意を標識する
その標識は世間では法の掲げる標(しるし)として乱立しているが、いまはこのシルシが罰金徴収の題目となっている。

標(しるし)は、識(しき)にいう道理がなくては掲げるべきものではない。道徳心を喚起し己を自制する、あるいは想い起こさせる標でなくてはならない。

孟子の説く「四端」がある。ことの心(情)の端緒を収斂すると四つあると、それぞれ「惻隠、辞譲、羞悪、是非」として仁、義、礼、智を説いている。

仁は惻隠の情が心や行動の端緒となる、という。
他人の困窮を見たら察する、心を想うことが陰ながらの意識の発動であり、それが「仁」の姿だという。

ちなみに「礼」は心を譲る、「義」は羞悪をみたら本来の姿を想起する。

「智」良し悪しの分別、その心を育てることが学問なり教育だが、もともと誰でもある心(情)が欲望によって失くした (忌避、忘却、放心)心を取りもどし純なる己を再考する、それを成すべき学問だという。それは形に表れるものとは異なり、また心の説明責任などという類には馴染まないことでもある。

よく「我、何人ゾ」と、自分は何なのだろうと自分探しをすることが言われるが、学問修得の一面でもあり、多岐な行動を促がし発起、躍動、自省、あるいは自傷もあるが、詰まるところ「自分はどの位置にいるのか、ところで何なのだろう」という探求でもあろう。

自身が善いと考えたことを不特定多数を対象に布く、つまり口舌や行動で提供することによって、人々に義に表れる正しい行動が喚起される。その調和と連帯が家族、社会や国家であると多くの為政者が好んで揮毫している。

近頃の日本の政治家は「一隅を照らす」と流行り挨拶になっているが、そもそも政治家は一隅の光を連帯させて、万灯に構成し世の中(国家)を照らすことが責務である。
一隅の意は下座観である。世の中を多面的に俯瞰するために必要な部分ではあるが、部分の考察のみてではいつまで経っても全体俯瞰にたどり着かない。

つまり一党一派を支えても、国家は担えない為政者の蔓延である
その結果は判例主義の裁判官、前例執着の官吏の出現である

もともと官制学の暗記学やマニュアルを唯一の人間査定として生きてきたものにとっては、その考察の入れる箱は狭い。それゆえ一隅は重箱の隅と化し、灯火は似非貧者の一灯となり、名利食い扶持の擬似同感となっている。

これでは「布仁興義」にはならない。
人々は易きに倣う。当世政治家の仁は予算確保であり、義は美句スローガンでしかない。
それは社会を弛緩させる。つまり人が怠惰になり、愚かになる。逆に緊張ある社会は、たとえは悪いが、真の悪を生み、却って心の善を甦らせ羞悪に抗する義を喚起する。

緊張した社会は、言い方が悪い、態度が悪い、と政権を糾弾しない。弾が飛んできても無駄な議論で延々と会議などはしない。
そんな為政者に習い逆な立場におかれると、また同じことが繰り返される

現実の例えだが、福島原発の被災は近隣住民に避難を指示した。茨城県つくば市は行政がその避難者を同情で迎えなかったと騒がれた。国民は優しさが無いと非難した。
それは以前、茨城東海村の原発事故のとき福島県境では避難する茨城県民を同様な態度で軋轢を生んでいたことの意趣反しと考える意見もあった。
仁が乏しかったから義が起きなかった。


真の善政は「」という。
官を太らせ、国民に金を配るものではない。
孟子は、生まれながら誰にも教えられなくても、その四つの収斂された心(情)は保持している。しかし人間は心が放たれている(亡くしている)。
それは人のあるべき姿(人格)と何ら関係しない附属性価値の欲望に、過剰に翻弄され競い、恨み、悩みを発生させている。その価値とは永遠なる命と持て余す富であり、現代のその具は名誉、地位、学校歴となり、だれもそれを矯正できない。

つまり「」を遂行しようとする人物がなく、西洋の造物主が説く「人間は至高なる存在」を拝借して生命財産を侵すべからぬ価値として汲々と擁護している。
だから家畜を置き去りに避難を指示する。緊急時でも一顧ある余裕もない。あるのは責任が及ばない為に数値のみでの策であり、動植物と共生する継続社会の情緒の理解も無い。
人情は人の為のみにあるものではない、たかだか区切られた地表は人間の為にあるものではない。しかも人の役に立った家族のような動物を忌避する為政の策に情(こころ)は無い

生きていることは何のためか、財なり富は何のために用とするものか、ここに至誠の心で一隅を照らすご家族を紹介して本章の意の一助としたい。

感動や感激は見るものではなく、行為を倣うものだ





吉永君のよき理解者 麻生太郎氏


吉永拓哉さんの示す「布仁興義」

サンパウロ新聞福岡支局長 吉永拓哉氏の筆者への便りを掲載  23・4/23 

≪今年は10月に父親、弟、妹とアマゾンへ行ってきます。
アマゾン川中流域にあるパレンチンスで高拓移民入植80周年記念式典に出席する予定です。
あまり世間では知られていませんが、戦前、日本の国策で「アマゾンに第2の満洲を創る」という壮大な計画がありました。
そのため、政府は東京に高等拓殖学校(略して高拓)を創設し、我が国の優秀な家柄の子弟たち(高級官僚の息子など)を集め、子弟たちに「オノ一本でアマゾンの原始林を開拓する」訓練を行なったのです。
こうして実に300名ほどの高拓生たちがアマゾン奥地の原始林に送り込まれました。
高拓生たちは苦難の末、原始林を切り拓き、新種の麻の栽培に成功しました。
当時、麻はコーヒー袋の原料として重宝され、需要も多かったそうです。






 
          移民渡航


しかしその後、第2次世界大戦が勃発。そのため、高拓生たちの血と汗で築いた財産は、すべてブラジル政府に没収され、高拓生たちは本拠地を失い、散り散りになってしまいました。
それから数十年が経った1961年、私の父親が学生時代にアマゾンを放浪したときにふと手に取った高拓生の帳簿を見ると、かつての高拓生が「無に帰す」と記していました。

恵まれた家庭に育った若者たちがアマゾン開拓を志すも、夢破れ、最後は無に帰るという詩を拝見し、私の父親は「アマゾン移民との交流」を一生の人生テーマとしました。
ちなみに私の弟の名は、この「高拓移民」から字を取り、「吉永高拓」と名付けられました。

300人もいた高拓移民ですが、あれから80年経った現在は、生き残りが5人に満たないそうです。おそらく入植80周年が、高拓1世にとって、最後の周年式典になるでしょう。

こういった日本の歴史は、残念ながらほとんど世に知られていません。
今度の80周年式典もおそらく日本からは他に誰も行かないでしょう。
しかし、こういった先人がいるからこそ今日、日本人は世界から認められる民族となりえたのだと思います。私もブラジル邦字新聞記者としての使命を果たすべく、今年は高拓移民の取材で再びアマゾンへ行ってきます。≫

 

    

吉永氏はフジモリ元大統領が収監された監獄に一人で面会に尋ねています。隣は大統領候補のケイコさん

 

 

現在、彼は少年院退所者の更生援助を援けるために「セカンドチャンス」という活動をしています。

受け入れ運営者も吉永さんと同じ非行入所体験を持つ方々で、建設業関係社長さんなど多くのボランティアが支えています。

父から促されたブラジルですが、まさに彼のセカンドチャンスは、人のためのささやかな行動として若者に引き継がれいてます。

まさに、善い行いを広げて、人々に正しい行為を喚起する。それは彼の背中を魅せる伝え方でもある。

 

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人間考学  「いじめ」 2016 1/16 あの頃

2019-03-07 01:31:12 | Weblog

      青森県 鶴田の舞橋

 

苛め イジメ 虐め 

 

女偏のつく漢字は多いが男編は少ない

ちなみにイジメに似ているナブルがあるが、嬲と嫐がある。

昔は男二人が女を挟んで、゛いたぶって゛いたが、今は、女房と娘に挟まれる男が増えた。

なかには、房中(寝室)でイジメ合う睦み事がある。

声を張り上げて嫌だ厭だと云ったと思うと、涙と歓喜に変わるのは視聴覚の学びだが、これもイジメと称すが、イライラと虐げは男女共通の鬱憤発露としてよくあることだ。

 

それが上手くいかないと子供にアタリ、登校拒否になったりもする。男は部下にアタリいじいじして酒で紛らすものもいる。

十七条の「和を以て貴しとなす」は、それ以前の隣国の房中の要にある「夫婦相和し、拒ばまざるを以てむねとする」を拝借したのではないかと古人が言っていた。

つまり、調和は「素直に拒まない」ことからなのだろうが、イジメる人間の鬱積は夫婦でさえ、色・食・財の三欲のコントロールができなくなっているからだろうが、それを認知する自分の能力、相手の理解度、社会の位置、などの「分(ぶん)」が解らなくなっている。

 

教育現場の事件や事故には子供どうしのイジメが絡んでいることが多いが、どうも教育機関という 昔は治外法権のような、はたまた聖職者といわれた教師がいたころとは現場が変わってきている。

教師は教員と呼称が変わり労働者とも自認している。用務員さんは校務員になった。昭和三十年ころの団塊と言われている世代はひとクラス40人以上、土曜はハンドンといわれた午前中のみだが 授業はあった。 女教師は少なかった。授業参観も着飾った父母はすくなく、普段着の母親が多かった。生徒は着たきりで一週間とおす子供も多かった。もちろん受験なども小学校は数えるほどしかなく、高校進学率も今ほどではない。身なりもジャージーだが、筆者の頃の上級生は学生服に帽子、ズックの掛けカバンは登下校は姿勢が歪まないように左右を変えた。

 

学校現場の環境が改善され整うと、教師が教員となり労働条件が変化するとともに、数値成果による学校の経営評価や生徒の進学率を競うようにもなった。外注の全国模試による競争は教員の評価として表れ、とくに私立高校はその数値評価を上げるために血眼になった。余談になるが、あの田中角栄さんが教員の待遇を他の公務員と比べて上げ、教科書も無償にした。

 

今時は使用人たる文部省の下げ降し教育カリキュラムと課題について、なんら問題意識もなく汲々として答えを数値として出すことに勤しんでいる。くわえ、手厚い補助金などで教育が商業ベースに乗り、教員の待遇が改善され、しかも補完的二次産業となった塾の乱立は、いかに教育が利益を図れる簡便な産業になったかの証左だ。

今更ながらの考察だが、標記のイジメが高低の差が大きくなったエントロピー曲線の底部を表わしていることに、国の行政だけでなく、就学児童を扶養している家族の一過性の期間経験は世間の無関心などが相まって、常に繰り返しの問題として社会に停留している。体験は活かされない問題になっているのだ。

 しかも、受益者である子供の動向や社会的推移などお構いなしに、課題そのものの設定すら疑問を持たず、数値に依って人間を判定することを何ら不思議におもわない教員が増えている。問題意識がなければ探求や学びも無くなるのは当然のことだ。

 

                岩木

 

 

摸倣ストレスなのか、大人同士の職場のイジメも甚だしい。多くは無視が多いという。

いっとき、その職域を狙って消費者金融が動いた。自衛隊や警察官、看護婦も狙われた。なにしろ安定給与で担保は公務員共済や自宅がある。つまり普通の客より担保があり優雅で世間知らずだからだ。とくに公立の小中学校の教員はそのターゲットだった。

しかも、職場では相談もできず、判っていても声すら掛けない非人情もある。

それらの職域からは数多の相談が筆者にあった。多くは女房にも内緒のことだ。

顕著な例だが、それらの職域は問題の把握と解決能力に乏しい。つまり課題に従順な解答を求められているためか、浮俗の諸問題に感応しないことが多い。 また、不思議と親が教員なら子も教員になるケースが多く、その点は医者や警察官も同様だ。

 

昔は論理が先行し、赤い旗を振って権力を忌み嫌っていたが、こと己に向かう問題について、例えば校内暴力、非行などについては、知恵を出し、協働して解決することなく、先ずは110番で、彼らが抗した警察の権力にすがるようだ。高潔な建学の精神や校訓を掲げている私立でさえ、自己解決力も乏しくなり、゛何でも警察゛と、まるで掃き溜めのように子供に対して警察権力を利用するようになった。 是非はともかく、昔は敷地内では治外権力として威を振り回していた教員だったはずだが・・・

 

 

                                            台北

 

 

当初は尋常と冠を付けた小学校も、「常を尋ねる」という、平常心すら習慣化されなくなった。

平常心とは教科書(知識)を学ぶ前に、慌てず、むやみに競わず、騒がず、など連帯の調和に必須な精神を肉体に浸透させる(習慣性)をつける、社会性の端緒を小学校で修得べき成長過程と考えていたことだ。助け合い、正邪の判別、長幼の礼儀なども習慣性だ

 

それが無くなり、そのまま中学校に送り込まれたら、中学校の教職員も堪ったものではない。

だから落ちこぼれも、登校拒否も、非行も発生するのだ。おおくは数値選別機関のコンベアーの規格にハマらないために排除されるからだ。加えて画一化した課題の答えしか目に入らない教育労働者と上司の、彼らなりの苦痛や煩悶となって徒労感のある職場となっているようだ。もちろんモンスターと蔑視される和製PTAの一群もそれに加担している。みずから聖職を棄て、教育労働者として闘争を繰り返し、管理職を吊るし上げたころの元気さはない。また待遇確保や賃上げの熱情を教化できたらと思うが、そんな教科書は無い。

 

                 

 

 

地方自治の教育は、郷の特徴を付加した郷学のようなものでなくてはならないと考える。

しかし、中央集権統治の効率的教育方針は、その付加を逸脱として見るきらいがある。

それは、つねに教育価値とか効果とかいわれる人間の数値選別を、唯一の有効性ととらえ、安易簡便に、知った、覚えた、類の記誦学を教育の要として、社会の有効なる個々の人間の特徴さえ、平準化の流れに埋没させている。

これでは官制学校の教員は試験監督に動員されるアルバイトでも間に合うようなもので、有名高校ですら大学受験のための大型塾の様相になってきている。

「記誦の学は学にあらず」と云われてきたが、ますますその傾向は烈しくなっている。

 

韓国もそうだが、中国はコネや優遇に加えて学位による身分制度のごとく、かつ親族内で一人が官位が上がれば九族(親族)に繁栄するという歴史上の科挙現代版とした狂騒に陥っている。それは「一官九族に繁栄する」といった、親族が公位に就けば関係者は繁栄するという実利だからだ。ここには孔子や孟子のある仁や義などはなく、銅臭紛々とした金の臭いだ。

そして発生するのは排除もしくは無視だ。「仲良く」などというものは無意味なものだからだ。どんな手を使っても競争から勝ち残り、教員に賄賂を使っても学位を手にすれば財を招く手段はある。たがら、たとえイジメがあっても就学期間だけで、社会に出れば取り戻せるのだ。

 イジメは排除といわれるが、茫洋としてつかみどころのない現実の憂慮は鬱積として堆積している。そして、無くならない。

政治に当てはめれば、独裁強圧には面従腹背がある。政策には対策がある。

ここでは虐めを批判したり抵抗しても無理がある。彼らはそれが一過性で、死ぬまで耐える事ではないと鷹揚さがある。

ならば、いじめに対して柔和に避けたり、逃げられなければ同化して馴染むこともある。

イジメは現存する。しかし虐めではなくても、そう感ずることもあればストレス被害者となる。

 

                  北京1989

 

教育とは負荷に弱らないことと、我が身に発する欲望に誘引される精神のコントロール、そしてイジメに挫(くじ)けない強靭な精神を作ることなのだ。

社会には排除、圧力はつねにある。組織や人間もそれによって知恵もつき強くなる。ただし経済的事情もあるが離脱の自由もある。しかし制度となり履修しなければ受け入れない社会も考えものだ。またそれに括り、情緒すら変容させる学び舎にさも当然のごとく順応を強いる風潮もある。

己の存在を識ることが学びとするなら、置かれている環境の是非の戸惑いと矛盾こそ学びの端緒となることであり、環境批判にこだわる事なく、負けない強い人間を自身の力でつくるべきだ。隣国では、人の社会には生きている間はイジメも排除もある。だから他からの恩恵もある社会では非難する前に、「負けない強さ」を得る、それが学びと考えている。

流行りに乗る大衆の群れは意識もなく、そのものが個々に負荷環境を作ることがある。

その加害は意識もなく世俗の成功価値として人々は昂進している。

また、長い人生、禍福は転換し、罪の評価さえ置く処を変える。

 

稚拙ながら一方の切り口として、時節の備忘記とする。

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 安倍晋三さんの忘れもの 2913 再

2019-03-01 18:09:40 | Weblog

 

フジモリ元ペルー大統領は陛下との応接で「勤勉、正直、礼義、そして母から忍耐を学び、政治の根本としています」と。


「美しい国にっぽん」
あの時も今回も目標理念は一緒だが、今回は景気にまつわる唱えが多い。
ところで昔から三つの異なる意味を連ねて納まりのよい拍子言葉のようにしていた。
「美しい」の前に「清く、正しく」が入ると調子(リズム感)が良く音(オン)もいい。
政治家や商売人には気恥ずかしいからと外したわけではないだろうが、゛美しい゛だけではオンが良いが、意味が薄い。

なぜ「美しい」は「清く、正しい」からだ

江戸っ子にはこんなセリフが似合う。「義理と人情とやせ我慢
今時の義理ごとは金がかかる。女房を質においても義理は大事だ、自分でも困っているのに人に分ける、など、寄席にある我慢噺は江戸っ子のイイカッコシイの意気地だった。ここでは「やせ我慢」ができなければ義理や人情もままならない。

 

      

      残置された台湾の日本語世代

 


美しく見せたければ、清く正しくなければならない。先ずは塊より始めなければ民は倣わない。
政、官、財、のたとえ名目要職であっても、「清く正しく」を唱和しなくてはならないだろう。今までは笑話と嘲っていたはずだ。

よく魚のくさやや厠に対する五感は「臭う」だが、香水は「かおり」という。またその方が美しい言い方だ。なかには草花のように、いい匂いと当てはめるが、唇の動かし方は「かおり」が綺麗だ。あるいは政治家の演説も「上手い」より「立派」といわれた方が気分が良い。要は使い方だが、宰相の言葉としては長くはなるが「清く正しい国と美しい環境」というべきだろうが、分かりにくければ「清く正しい国ニッポン」のほうが実利はある。

それは国民にとっては気恥ずかしいと思っているのかもしれない。片腹がくすぐったい。
では、その美しいだが、漢字では羊が大きいことは美しいと教える先生がいるが、その大きい羊は首を切られ丸焼きにして神に捧げ、大きければ大勢の人で食べることができる、とは教えない。佐藤慎一郎氏は二十年にわたる大陸生活では日本人とは異なる庶民の感覚を体感している。そのなかで「美しい」ということは、女の子が素直に「ハィ」と応える形容を美しいことだという。

そのことからすれば、素直で明快をも表している。美しいとは、清く正しく、素直で明快、そのような人々が棲むニッポンを目標としているなら素晴らしいことだ。

日本人は官制義務教育の慣性なのか漢字は辞書を引く。それゆえに意味は共通語として情報交換に役立つものだが、同じ外来語で「love」を辞書で引くと「愛」と出る。
みんなが「愛」といえば意味は知らぬとも「愛してる」とつぶやけば、これも「愛されている」と考える。ならばあなたの愛の表現はと尋ねれば、百人いれば百通りある。応えられれば良い方で「愛は愛でしか・・」と辞書から抜け出せない若者がいる。ちなみに「個性」もそうだ。数人集まって、゛個性的ね゛といえば、どことなく納得するが腹はみな違う。

ならば誰がloveを愛と訳したのか。辞書が共通訳の働きがあったとしても、俺の愛はこの様なものだ、と差別化しなければ個性もなければ優劣,高低、多少で判断しなくてはならない。当ブログの初稿に記したが、二葉亭四迷は「私はあなたのために死ねます」と訳し、そう思っている。アイラブユーは、私・あなたを・愛しています、と誰もが訳すようだが、斯様に「愛」は人間の選択意志が入るといい加減なものになる。

ましてや異性と食い物と金が条件に入ると愛は殺意さえ起こすこともある。



             

台湾総督 児玉源太郎                    民政長官 後藤新平

【軍、官の異端児だが、まさに、清く正しく、美しい台湾を目指した。】


安倍さんが唱える「美しい」は政治家としてではなく、日本人の誇りを対外的にも観照して美しく感じられる国柄にしたいという願いだろう。異を唱えるものではないが、ついでに調子を合わせて「清く、正しい、美しいニッポン」と唱えるなら、その行動は緊張感と集中力をもって国民に「清新なる信」を想起させるだろう。

政治家ならずとも大人になるとなかなか口に出しにくい言葉だ。いくら当選のために、あるいは失業対策選挙だとしても、余程の厚顔でなければ大声で言えまい。なかには役者も運動家も人寄せで選挙を戯れるようだが、子供が唱和するような純で透き通った声で「清く正しく美しい政治」と、全国津々浦々で唱えれば幾らかは教育改革の助力にもなるはずだ。

本当は「清く、正しく、立派な政治」というべきだろうが、なかなか・・・

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