まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

対談録「荻窪酔譚」 抜粋其の七 2010 8 再

2019-04-30 13:42:54 | Weblog



【この章はだいぶ以前の師弟酔譚ではあるが、誰も記述することもなく、あるいは理解の淵にさえ届くことの無い内容を含んでいる。】


第二宵  二座

S  資料、集めるのが大変。 
   アメリカ、イギリス、ソ連、中共、台湾の資料が要る。
   日本だけの資料じゃ駄目なんだ。


T  アメリカの問題も出てきましたね。 戦後五十年でようやく色々なことが出てきた。この間、アレ「報道2001」で、篠田監督が出演した。最後にゾルゲを題材に映画を作りたいといっていたが、尾崎秀実(ホツミ)を中心にするといっていたが・・・・
誰がどうゆう風にしてゾルゲ機関に協力して、どのような気持で西園寺公一から協力を得て情報を集めたか・・・・
      
  私はたとえ娯楽でも歴史のスポットを映像にした場合、曲解されることもあろうかと、監督に電話で
  「どこにも出されていない資料で、お役に立てるものがあったら使ってください」
  と伝えたら、
  「資料があまりにも膨大だから、今は忘れようとしている」
 
 そこで
  「日本のゾルゲ機関だけを捉えただけでは、本当の姿は分かりませんよ」j
  
  「では、尾崎はどこでゾルゲ機関と一番最初に接触を図ったのですか」
  
  「それは解りませんが、ただ、事実、国際問題研究所という機関がありまして・・・」
  
  「へぇ~」と。
   要するに解っていない。中国国内でのゾルゲ関係機関の謀略の仕込が・・・
   野坂参三、青山和夫らは中国のゾルゲ問題として関係づけないと尾崎も解からない。





                

           ゾルゲ氏




S  中国がむしろ、ゾルゲ機関として一番重要だ。 大陸の日本軍を満州から北支、北支から南支、そして東南アジアに出して英米とぶつける。 国際政治の対立になるわけだ。 そのように引っ張り込んでいった。

 ≪アジアにおいて日中相戦わせて漁夫の利を得た国際的勢力は戦後の版図を書き換え、その頚木は今以て打ち込まれたままである≫


T  一般の識者、そのような見方は少ない。単に満蒙支那の権益と陸軍の横暴と、まだ謝罪をやっていますからね・・・
   しかも、昭和十六年の御前会議の前の、六月の大本営決定の段階で北進から南進への変更が解っていたらしい。あれ、西園寺ですよ。いくらの横暴を避けるためといっても自滅の途への方策としては・・・・

S  あれが主役ですよ。  お父さんは偉かったから、喋らない。
   僕、尾崎・ゾルゲ事件はよく知らないけど、中国のほうが主役だよ

T  その間の中国の問題については、先生が検証しているわけですよね。






           

               尾崎氏



S  僕、北京の排日運動に参加したとき、劉少奇の指導とは知らなかったけど、向こうでは堂々と発表している。
   翌年、西安事件でしょう。苗(ミョウ 苗剣秋)さんは僕に知らせた。
   その翌年が盧溝橋事件。
   中国共産党中央本部統一戦線工作部副組長が、僕に知らせた。
   その人、いまアメリカにいる。

T  北京の無血開城をやった・・・ 

S  北京大学の全学連委員長だった。

T  尾崎秀実は満鉄の上海支店に・・・・・

S  尾崎から中西、中西から重慶へ情報がいった。


T   W、Wって誰ですか。

S  それが解らないんだよ。 中西から王精衛の秘書官で王キンゲン。 これ徹底したソ   連寄りの共産党員だ。

T  それ・・・  ボロジンに・・・

S  これ(王キンゲン)、日本語ペラペラだから、日本の要人の通訳やったけど、王精衛に対してどんな通訳やったかは分からん。
   これが全部重慶に電報を打っている。

T  王大偵(ボン生、草冠に凡とも)は、事故というが殺られたのか・・・
      (国際問題研究所責任者)

S  あとで発覚したんではないかなぁ。南京の飛行機事故で。
   詳しいことは知らないが、台湾で聞いた。

T  尾崎秀美のこと映画ですから、フィクションを交えた監督の考え方で描き出そうとしているんだけど、一片の明らかな部分しか触れられないと、彼が、単に情報を御前会議の決定より早く流したかどうかだけではなく、日本の南進への謀略工作にどう関わったかということが、監督の言う当時の時世と、彼の苦悩に近づくことだと思うのですが・・・

S  その基本線(南進誘導)が分かって行動していたかは、難しいとこだね。

T  青山は延安で、日本の天皇の用心棒は頭山で、だから軍部をひっくり返すんだ と・・・

S  日本では青山だけ国際問題研究所に入っている。
    ≪偽札製造≫


T  尾崎、中西は手先みたいなものですか・・・・

S  羅堅白によれば゜、情報は三ルート。一つは中西ルート。 
   一つは重慶ルート(羅自身)。 もう一つは王精衛の秘書官、王キンゲンのルートだ。蒋介石には情報機関、立派なものがあるんだ。

T  藍衣社ともう一つ・・・

S  「要らない」というのに無理に国際問題研究所を作った。
   その金、イギリスから出ている。 作ってみたら、藍衣社など問題にならない程、ものすごく正確な情報が蒋介石に入る。

T  あくまで中共に南進誘導があって、国内事情によって政策変化があるわけですけど、だとしたら共産党の謀略機関を蒋介石の情報機関として丸呑みさせで構図を作り、日本のゾルゲ機関は日本の国策を早めに知るためにある、ただの情報組織の一端でしか   ないということですね。

S  そうかも知れない。
   僕が聞いた話ではゾルゲは、はじめ郭末若を狙ったが動かないので、王ボン生を選んだと・・・  ≪郭は千葉県市川にいた≫

T  王は北京の宮元公館の宮元利直を選んだのですね。
   大倉財閥の金を蒋介石の北伐資金として用立てている。

S  僕としては総理報告を辞めて、これを本当にやりたかったが、一人の力ではでない。   お金も無いし・・・・

T  思うに、日本のマスコミは関心も無い。


S  北から南へのソ連の意図解らないし、考えもしない。
   日本の中国進出しか頭に無い。





             

         西安事件の立て役者  苗氏



T  篠田監督は昔の小津安二郎監督のように、すごく実直で朴訥な方で優しい方ですよ・・・、 こうゆう方が国際化のなかで民族の将来を憂いて、映画を通じて日本人の正しい歴史観を見抜く場面を見せて欲しい。だけど、裏づけがないと非難轟々だから・・・  
商業娯楽の限界かなぁ・・と。

S  監督さん、恐らく深いところ分からないんじゃないかなぁ・・・

T  そうする必要が無いと考えているのか、今回はやらないのか解りませんが。

S  西園寺。あれね・・・北京と天津を門戸開放するとき(蒙古の独立を含めて)、頭山さんも西園寺も動いているよ。  梶園が言っていた。

T  じゃ・・なぜ、西園寺は中共に情報を流すんでしょうかね。

S  そうなんだ。今度来たら(梶園)詳しく聞こうと思っている。

T  とにかく、中共を捉えないと実態がはっきりしない。ゾルゲを調べたことにはならないんですよ。

S  日本が世界の中で大きく流されていった。それがテーマになる

T  ゾルゲ事件がラストワークと聞いたので、それでは中国問題云々と訊いたら、尾崎秀実がテーマだと変わった。  それなら中国問題は興味が無い。


S  尾崎は単に情報をソ連に内通していたスパイ。

T  今度、台湾の李登輝総統が、日本のアジア大会に出席したいと・・・  
   ところが、江沢民は、よくないと。日本は弱腰で、来ないでくれと。 
   まずいことに九月末から十月にかけて台湾では建国以来の大規模な軍事演習。      そのころ金門島の付近で中国もやるんです。
   李総統は、いずれ独立を狙うんではないですか。






            

            台湾立法院







S  日本、台湾を捨てて駄目だよ。 異民族から信頼されないよ。

T  いわゆる日本人がこの戦争をもっと大きな全体像のなかで眺めて欲しい。
   例えば、石原莞爾の「世界採集戦争論」とか、孫文の東西文明を論じた「王道と覇道」の問題とか、そうゆうアジア全体、世界全体といった多面的、根本的視点での日本、中国を捉えないと見えるものが観えてこない。

S  孫文が日本を諦めてソ連に目をつけたのは、叔父によれば、日本が追いやったと。

T  王精衛の傍にいたボロジンが引き込んだ側面も・・・・

S  それもある。
   二十一か条を突きつけたり、袁世凱や段祺瑞を援けて利権を貰うとか、
まるで日本人小さい感覚だよ。
     
 

【二十一か条は孫文、山田、陳其美によって署名され、秋山真之の起草によるものであり、小池張造、犬塚信太郎も作成関係者であるが、佐藤氏は叔父、山田純三郎から聞いていなかったのだろうか・・・・】



T  李総統には、なにか孫文を彷彿させるようなメッセージがある。
   李さんの訪日不可なら台湾は不買運動をやるらしい。

S  日本は中共にばかり目がいって。あれ、田中と大平だ。

T  アジアの歴史観が観られませんね。
   共産党政府の体面は保っても、民衆は台湾も中国も日本も、アジア諸国も日本を利あって義亡き国として嘲笑していますよ。
   
   豊かだ、便利だは望むべきことですが、味わいを反復したときはたして充足感はあるか・・・ 人間はもろいものですから。

S  蒋介石のこと、僕は好きでないけど「華日は手を握らなければならない」と、死ぬまで言っていた。 残念だなぁ・・・・

T  でも、一つ将来に託す問題として、こうゆう幅広い歴史の見方を知るだけでもいいですよ。
  

    ・・・・・・・・






            


          佐藤慎一郎氏





T  アノね、正明さんが言っていましたよ。父のところにも色々な人が来て、道を説く人もいれば総理も満州浪人もいる。ところが裏に回って何をやっているか分からない。

S  安岡先生、王大偵の背景はきっと知らないよ

T  知っていた 王と兄弟分の宮元利直氏には安岡先生からの手紙が幾つもある。宮元は戦後、一番先に重慶に呼ばれている。戦犯回避に重要な役割があった。

S  えーと、苗さん知った理由、教えたね・・・
   渋谷の中華料理屋、そこが苗さんの家だった。

T  苗さん、一時、恵比寿にいましたね。
   国際問題研究所の資料に出ていますよ。

S  渋谷じゃなくて、恵比寿だったかなぁ・・・・

T  恵比寿って書いてありますよ。≪住所と駅の問題だった≫

S  彼が日本の情報を一番多く取っていた。

T  苗さんも安岡先生とのお付き合いがあります。
   苗さんの家で奥さんと写真を撮ったとき、偶然、写っていた。
      
S  安岡先生、政財界に顔が利くから、狙われているよ・・・・・
   羅堅白(国際問題研究所第一処長 no2)は、中国の古典をやっていただろう。

T  京大出ているぐらいだから・・・

S  学問やっていることは事実だ。

T  幾つぐらい?

S  僕より年上かな。彼の奥さん救けたら、西荻の引き上げ寮にものすごい剣幕でやってきたことがある。

T  彼は、その時点でもう中共に寝返っていたわけですね。

S  既に離れていた。

T  一時、国際問題研究所のスタッフも状況を見ながら最後に寝返りましたね・・・





                  






S  僕、まったく知らないのに向こうから知らせてくれた。
   この人(神戸 石原氏)だって、日本共産党の秘密書類を北京に届けた人なんて知らなかった。
   彼の子供が入管に逮捕されて二年、可哀想だから、僕、救けにいって釈放させた。
   それで、この人、御礼に来て
   「実は、僕は日本共産党の秘密書類を周恩来に届けにいった・・・日本革命のため、また派遣されてきた」と、告白した。僕のこと好きになって話をしてくれたんだ。

T  この人、石原エイジさん日本人じゃないでしょう。

S  台湾人といっていた。 日共の秘密書類を中共に持っていってきり、帰国させてれず、天津で情報の徹底訓練を受けた。今度、日本革命をやるために戻って来たらし い。
   昭和二十年頃かな、日本革命のために帰ってきた。
   彼の持っていった極秘書類は余程、重要なもののはずだ。


T  極秘書類の内容は・・・

S  ぜんぜん聴いてないんだ。アノ人日本への謀略詳しいよ。

T  この本、どこかにあるんですか・・・

S  今度、これ出すって、紹介状書いてくれと。

T  僕、これに興味があるんです。
   最後は此処(三民主義)でまとまる。「収斂」
   日本はつまはじきにされる要因を作っている。日本人の関わりを考えると、やっぱり辛亥革命が出てくる。 だから、この人の観かた、合っている。

S  新しいの出すから端書を書いてくれと。
   ところが、君のは、まだやっていないから・・・

T  先生。これね・・・こうゆう考え方、日本人の朝野の人は持っている。
   僕、最初の「三民主義が中国を統一する」という文字を見て驚愕しました。先生、    これはお書きになったほうが・・
   僕らのほうはいいですよ。  所詮、此処に辿り着くものですから・・・

S  僕もそう思う。
   蒋介石を叩いても孫文は叩けない。







              







T  ですから、李総統が三民主義を掲げていれば、中国は台湾を叩けない。最高のカードが三民主義ですよ。 内省外省の軋轢を超えてアジアを見据えれば、 日本もこれなら参加できる。 第三者が邪魔しなければ。

S  孫文が神戸で大アジア主義の演説をやったとき、神戸のオリエンタルホテルに一緒に泊まった。夜中、純三郎伯父が廊下に出たら孫文がウロウロしている。
  
   「どうしました?」と聞いたら、

   「頭山さんベットに始めて寝ているんだ。風邪でもひくといないから、僕、見回っている。山田さんも見回ってください」と。

    これが孫文だよ。
    天津へ行く前の晩、日本人に頼まれた揮毫をやった。
    最後に「亜細亜復興会」と書いて、「これ、山田君にやる」と。
    これが絶筆となってしまった。

    天津に着いた日に張作霖と会って、その晩、倒れてしまった。
    吉田茂総領事に頼んでコスガという医者が来たが、これが喋ってしまった。 
 






                







T  僕が、興味があるのは、良政先生の頌徳碑撰文にある、「この志、東方に嗣ぐものあ らんことを」という言葉。アノ言葉は僕らへの啓示ですよ。
   石原さんの言葉も台湾迎合ではなく匂いでわかる。
   三民主義、孫文がこれからの中国に必要なんだと、民族の歴史と性癖を踏まえて理解 している。

S  米英から武器と金を貰って反抗の準備ができても、蒋介石は命令を出さない。 側近の何応欽が、なぜ出さないかと、いったら蒋介石は
   「日中両国が提携しないと両方が駄目になる」と。

T  それと、満州工作から失敗して帰ってくると、「失敗して帰ってきました」と、日本人(秋山真之、犬塚信太郎)は蒋介石を「なんて清々しい奴なんだ」と。

S  船上で゜「亜細亜復興会」と書いて純三郎さんにやった。

T  そうゆう会を作れということですか。

S  日中提携して亜細亜の復興をやれと。 孫文の絶筆になったものだ。

T  それ、国父記念館にありますよ。

S  それ書いて翌日、倒れた。

T  この写真に×印をしたのは先生でしょう。これ、正解ですよ。
   あえて対立や生活水準の優劣比較は孫文の意思ではなく、三民主義の心ではない。  
   もう少し穏やかな心でないと・・・・国民党、共産党の問題ではなく亜細亜全体の問題ですよ。そうゆう意味で書いてある本なら、先生、端書をお書きになったらいい
ですよ。

S  神戸の中山記念館で出すんだって(孫文関係本)、僕、書くこと無いから孫文の人柄でも書こうと思っている。

T  国家間の立場もありますが多面的、将来的に亜細亜を観ればと・・・・・

S  あれっ・・・何処へいったかなぁ・・・これ、差し上げる。

S  それでいいんでないかなぁ・・・あっ、それから君から訊かれた詞の意味、紀さんに訊いたけど
 「よく解らないので、詳しく調べた上でまた連絡する」という紀さんの手紙が来た。


T  あれは、毛沢東の先生が書いたのですよね。

S  忘れちゃったなぁ・・・イ・コゥ・トン・ライ・ハオかな。
   日本、東から来て気が弱い。 八卦判断本にあるらしいが、僕、みな呉れてしまった。  民の時代の八卦判断本だ。

T  これ、毛沢東にやろうとした本ですか。

S  忘れちゃったなぁ・・・・

T  安岡(正篤)先生に訊いておけばよかったですか。




             







S  安岡さんは解らない。冗談が利かないから。
  「大観園」の本、某出版社が無断で発表した。その部長が謝りに来て、お金もってきたの・・・・
  「要らない」といったら、そのまま帰ったよ。
  
 あれ、中国では通用しないハナシなの・・・・
  「要らない」というのは、「足りない」ということなの・・・
   それで中国では、今度はドカッと、持ってくるわけよ(笑い)

T  貰わないと悔いが残り、断ると失礼になる。
   だから、貰っておきましょうと、そのこと戴さんに話したら、「そうなの」と云っていた。

S  賄賂のいらないということは、足りないということ。
   中国社会を見ているとひどいものだ。 僕、全満州の民生長官(竹内氏 姉の夫)の秘書でしょう。 朝から晩まで賄賂ですよ。僕は断るものだから相手は困る

T  あの李樹林の話、共産党の政府になった途端、向こうの政府要人になっていたんでしょう。


S  最初から密偵で入っていたんだろう。 国民党の副司令官でありながら、
   共産党の長春解放の最高司令官だからね。

 

以下次号

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再読  政治の座標を観る 《昇官発財》 其の六 2009

2019-04-20 19:32:03 | Weblog

        孫文の革命に協力した明治の日本人[中央が孫文]



      昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)
官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
  






桂林



【以下 本文】

(2) 金が裁く裁判
    
中国では大昔から
 「千金は死せず、百金は刑せられず」(周、尉繚子)
 千金を出せば、当然死刑の者でも死刑にならないし、百金出せば、当然刑せられるべき者でも刑は受けない。すべて金次第であると云われてきている。
 
漢の諺に、「廷尉(裁判を掌る官)の獄、平らからなること砥の如し。銭有れば生き、銭無ければ死す」  □
又魯褒(ロホウ)(晋南陽の人)の銭神論に、「死も生か使む可く、生も殺さ使む可し」(清、通俗論)とある。
砥石の面のように公平な裁判でさえ、金銭の力は人間の生命を左右するだけの力をもっていると云うのである。


(3) 銭で動く官吏登用試験
   
 唐の第六代、玄宗の天宝時代(742~756年)の進士で、礼部侍郎(礼節の次官)の職にあった張謂という人があった。彼の詩に
 「世人交わりを結ぶに黄金を須(もち)う。黄金多からざれば、交わり深からず。たとえ然諾暫くは相許すも、終には是れ悠々行路の心」と云うのがある。


(4) 同じ《、唐の第七代粛宗(756~762年)時代に、皇帝を諌める「諌議大夫」に抜擢された高適という人がある。彼は気節の高い人で、文字通りに皇帝に直言したため、君側の高官たちは、彼を正視することができず、みな横目で見たという。それは、金銭第一、人間不在の当時の世相を、諷したものであろう。

 
同じく、唐の人の書いた本に、
  「当今の選、銭に非ざれば、行われず」(朝野合載)とある。
 唐の鄭アンいう人が吏部侍郎(吏部の次官)となって、文官の採用とか、勲等の階級をきめたりする役目を荷っていた。
 その鄭アンが官吏登用の面接試験に立ち会った時、受験者の一入が自分の靴ひもに“百銭”をつなぎとめていたので、問い詰めてみると、“この頃の試験は、銭を使わなければ、どうにも、うまくいきませんからね”と答えたという。《明大の替玉事件、日本の選挙は銭挙》





               

                 桂林郊外




(5) 金で買売される官位
  
「生来読まず半言の書。ただ黄金をもって身の貴きを買う」
(末、黄堅編、「古文真宝」)
 生まれてからこのかた、一言半句の書も読んだこともない。ただ金銭をもって高位高官を買うだけだという。 
清朝時代でも、金銭を出して文武官員となった人のことを「損納出身」と公然と云っていた。政府に納めた金額に応じて官職を買ったり、一品以下従九品に至る品級を買うことは制度として保障されていたのである。  「例 補欠献金」

そればかりではない。官吏として当然やらねばならない任務にしても、金銭を「損納」することによって、公然と免除されることが規定されている。民を愚弄すること、甚しいというほかはない。

清朝は亡ぼされたのではない。自ら亡んだのである



(6) 中飽

中飽の「飽」とは、腹一杯に食べるということである。中飽とは中間に立つ者の腹が脹れるという意味である。具体的に云うと
 「凡そ公款は、上は国に帰さず、下は民に帰さず、中間の手を経た人が之を侵呑(公金をごまかして着服する)したばあい之を中仙と言う、」(六部成語補遺)
 この中飽という言葉は、韓非子(?~前233年)がすでに使っているが、ここでは清朝時代の中飽状況をお伝えしておこう。

 「其の地方官たるや、総督と巡撫は司道に取る。司道は府州県官に取り、府州県官は則ち人民より掊克(ほうこく)(苛税を課して搾取する)す。是を以て、人民の負担いよいよ重し。その官に輸納(納税)し、以て地方及び中央の公費に供するものは、僅か一分に過ぎず。その餘は則ち尽く官吏の手中に帰し、以てその私嚢(自分のふところ)を豊かにす。名付けて中飽と曰う」(清国行政法汎論)と記録されている。

 総督とは地方長官で、直隷総督一人、両江総督一入。巡撫とは天下を巡行して軍民を安撫する役。司道とは、布政司(清末には総督、巡撫に直属していた。

一省の民政を管掌)、按察使(按察使を以て一省の司法長官とす)塩運司(塩に関する事務を掌る)、糧道(運送事務を掌る)のごとである。
 要するに中飽とは、政府の倉庫は空になり、万民は餓えに苦しむが、その中間における姦吏たちの財布は一杯になるということである.

米・・現在の 天下りの公社、独立行政法人、あるいは補助金、委託事業頼みの社団などに類似

「飽暖必らず淫欲を生ず」腹一杯食べ暖かに着ている者には、淫心が起り、必ずロクなことはない。
ところが「官清衛役痩」上官が清廉であれば、役所の小役入たちは痩せてしまうと云う俗言もある。







              

              桂林



(7)賄賂は公然と行なわれていた

後漢に楊震という非常に博学な人で、関西の孔子とまで称された人がいた。
王密という人が楊震の所へ来て、金十斤を出して、暮夜だから誰にも分からないからと云って贈ろうとした。
楊震は「天知る、地知る、我知る、子知る」(後漢書、楊奥伝)
それなのに、どうして知る者が無いなどと言えるだろうかと言って、披を戒めた。王密は非常に恥じ入って去ったという。

なかなか味のある、さっぱりした一宵の清話である。

ところが実際の中国社会では、賄賂は、世間憚らず公然と行なわれていたようである

「官児不打送礼的」(官吏は贈物を持って来る者は叩かない)という俗諺は、今日でもそのまま生き続けている。
 ・
大体下役の者が賄賂を送り。上役がこれを受取る。大抵の場合は、みな密かに行なっている。ところが日が経つにつれて、大胆となり、入に知られることなど怖れもせず、公然と之を行なっている。
 法令を掌る役、人などが、色々探聞して、官吏の非行を指摘して懲戒を要請する公文書は、その罪を称して、「賄賂公行」と公然と書いている、と説明している(六部成赳)

  「閣官便佞(ベンネイ)の徒、内外こもごも結び、転じて相引進し、賄賂公行、賞罰無く、綱紀ホウ乱す」(南史、陳、張貴紀伝)という記録がある。

 宦官や口先ばかり巧みで実のない連中が、内外互いに結託し、さらに転じて互いに引き立てあい、賄賂は世間を憚ることなく公然と行なわれるようになり、賞罰は無く、国家の綱紀は乱れ切っていた。

南北朝時代、陳の後主 第五代(582~589年)の紀張麗華は、十歳の時選ばれて宮殿に入った。その性は聡恵(才智のすぐれたこと)で、多くの官署の悛入たちが奏上に来た時には、後主は何時も華麗を膝に抱いたまま一緒に事を決していた。遂には扱主の寵をたのんで、権力を弄び、綱紀を斎乱した。
 
陳の禎明(587~589)の末、隋兵が台城(江蘇省江寧県北)を陥(おとし)入れた時、後主は張、孔二入の妃と共に井戸の中に陰れたが、ついに捕えられて斬に処されている。

 とにかく、宮廷や政府に勧めている者は、互いにかばいあいながら、“昇官発財”だけを考えているのだから、どうにもならない。
「同悪相すくいあって、自ら天を絶つ」連中の巣窟が、宮廷であり、官庁であるようだ

私たちは
 「悪小なるを以て、之を為すことなかれ」
と学んでいるのに、彼ら役人どもは、たがいに競いあって
 「悪小なるを以て、之を為さざること勿れ」と励んでいるようである。

 現在の中国大度の一般社会や官界を見ても、賄賂をうけて法を枉(ま)げたり、私腹を肥やしている実状は、目に余るものが多いようである。
 例えば、日本に留学に来ている留学生に、聞いてみればすぐわかる。賄賂を出さずに来ている者が居るとしたら、それは大幹部の子女であろう。




内容についてのご意見は
sunwen@river.ocn.ne.jp

連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再読  政治の座標を観る 《昇官発財》 其の五  2009

2019-04-19 08:16:51 | Weblog

          清朝打倒に燃えた孫文青年  (宋慶玲記念館)

 

昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)
官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
  

【以下 本文】


では、そのような官庁に働く、官吏たちはどうだろう。
中国では、政を正しく実施するには、民に直接接する官吏たちを清浄なものにするのが、最もよい方法であるとされていた

「敢を為すは、その吏を清くするより善きは莫し」(群書治要)と云っている。
 
官吏とは、一般には「君に仕える者」(説文)とされているが、「天子の吏」(礼、曲礼)とは、天子から直接指示を受ける臣、大臣たちのことである。したがって、官吏とは、皇帝の政治を代行する、すべての人のことである。

中国には清廉潔白な官吏もおる。歴史の記録から拾ってみることにしよう。


(1)貪らざるを以て寶(タカラ)と為す
   
春秋時代、宋の宰相に子カンという人がいた。廉潔を以て聞えた人であったという。ある人が、この子カンに玉(ギョク)を献上しようとした時、子カンは
「私は貪らないことを寶としている。あなたは玉を寶としている。もしあなたが献上しようとしている玉を貰ったら、私は貪らないという寶を失ってしまうし、またもしあなたが献上しようとしている玉を私に献上してしまえば、あなたにも宝は無くなってしまう。結局、二人とも宝を失ってしまうことになるから、お断りする」
と言って之を退けたという(左氏、襄、十五)


(2)廉にして化有り

 戦国時代、斉の第三十一代宣王(前456~前405年)の時、田稜(テンショク)という宰相がいた。その時、彼は下役の者から莫大な賄賂を貰い、その金を母に贈った。

ところが彼の母は、その金の出所を問い詰め
「不義の金は受け取ることはできない。不孝の子は我が子ではない」
と云って、これを拒んだ。

 田稜宰相は、心から恥じ。そのことを宣王に言上し、断罪を願い出た。

宣王は、田宰相の母の清廉なのに感動し、母には賞金を賜い、田宰相の罪は許した。
  「穫母廉にして化有り」(列女伝、母儀伝)
田稜の母は清廉で、ついに息子の田稜宰相を感化したという言葉が残っている。


3)子牛を留む

後漢の第十四代献帝(1 8 9~220年)の時、時苗という人が安徽省寿春県の県令となった。時苗は若い時から清廉な人であった。時苗が転勤する時、
「私がこの県に来た時には牛を連れてやって来たが、その牛が、此処で、一匹の小牛を生んだ。この小牛は、この土地のものである。だから、私はこの小牛は、此処にこのまま留めて置いて去る」
といって転勤していった。(三国志 魏志 常林伝 注)

 

(4)「清白宰相」(清廉潔白な宰相)

 北宋時代の進士で杜衍(トエン)いう人がいた。第四代仁宗(1o22~1o63年)のとき、多くの弊害を改革した名宰相である。

 彼が宰相の時も、贈答品や贈物などを、彼の家に届けに来る者が一人もいなかった。それで、その時の人々は、彼のことを
  「清白宰相」(清廉潔白な宰相)と称したという。

笣苴(ホウショ)(贈答品、賄賂)、貨殖(金儲けをするような品物)、敢えて門に到らず」(渕鑑類函)と記されている  《貨殖伝》

 

   

 

 

(5)両袖清風

明代には、地方官が参内して拝謁する時、その地方の特産物を、時の権力者や皇帝に贈るのが慣例であった。
 明の第三代永楽帝(圭402~1424年)の時の進士、干謙が、巡撫(主として軍務を掌る)に任ぜられた時、その悪弊を断つべく、一物も持たずして入京した。

そして自分が、北京に持って来たものは
 「面袖清風」(干謙、入京詩)
だけだ、という詩を作ったという。それ以来、清廉な官吏を形容するのに「両袖清風」と云うようになった。



銅臭紛々の官界

 後漢の第十一代桓帝(146~1 6 7年)、第十二代霊帝(168~189年)時代の童謡に
 「寒素清白も濁れること泥の如し」
 とある。貧しい生活をしていても、代々操を保っている家のことを「寒素」といい、また代々清廉潔白を保っている家のことを「清白」といって、昔はこれを表彰してきたが、後漢の桓帝、霊帝の時代には、それが乱れてしまった。これを歎いた童謡である と云う(諸桟敷次著、「中国古典名言事典」、500買)
「五寒」参考

いくつかの事例を拾ってみることにしよう。

以下次号

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 再読 政治の座標を観る 《昇官発財》 其の四 2009

2019-04-18 10:31:35 | Weblog

 

         「官倒」を掲げ天安門に集った若者たち
   「官倒」は汚職腐敗した役人を倒すこと


昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)
官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
  

【以下 本文】

 欧陽修(1007~1072年)、司馬光(1019~1086年)、朱喜(南宗等二代孝宗の侍講)(1 1 3 0~1200年)、程明道(1 1 3 2~1085年)、程伊川(1033~1 1 0 7年)、陸象山(1 1 3 9 ~ 1 1 9 2年)……いずれも北宋第三代真宗皇帝(997~1022年)直後から現われた大学者たちである
 こうした宋代の学者たちが学問にその生涯を賭けたことと、真宗皇帝の勧学文の教えとの、因果関係については、私は知らない。しかし何となく、なるほどと思われる節が全く無いわけでもない。


    

 桂林の友より


(2)宦官になる目的一金儲けのため(昇官発財)

質問は私、返答は、宦官沈徳元(1943年2月10日、於北京)

?「宦官になる目的は、何ですか」
「金です。金儲けができるからです」
?「その外の目的は、ありませんか」
「金以外に、何があるものですか」

?「名誉欲とか、権勢欲……はないのですか」
「それもみな、お金が欲しいからのことです」

?「相当の金があって、宦官を希望する者はありますか」
「あるにはありますが、少ないです」

?「あなたの両親は、なぜあなたを宦官にしたのですか」
「昇官発財、宮廷に昇って金を儲けるためです」

 なるほど、宦官と、は、たしかに官吏の仲間である。

「昇官」とは、官に昇る。官等が昇格することであり、「発財」とは財を発する、金を儲けることである。人事や生涯賃金を常に巡らせている当世役人だが、その頃と同様、いや増すます法の援用のよって狡猾になっている。
 
「仁者は財を以て身を発し、不仁者は身を以て財を発す」(礼、大学)
 心のやさしい人は、金が有れば、それを施して、わが身の徳性を磨きあげ、心のきたない人は、道にはずれたことをして、わが身を亡してまでも、金儲けしようとするものだという。


【去勢した宦官】陰茎を切り取って官吏登用試験に臨む
 宦官を志して、去勢手術をしたばあいには、まずその割取した陰茎、陰嚢は、油で揚げられる。これを「宝」(BAO)と称している。次に柳の枝で編んだ一升マスに、半分ほど石灰を詰め、その上に、その油で揚げた宝を置く。そのうえで更にその「宝」の上に石灰を一升マス一杯に詰める。

一升ますの入口の外側の木には、その宦官の姓名、年令、手術した年月などが記入される。最後に、その外の入口を赤い布切れで包み、梁の上とか、できるだけ高い所に架けておく。(嫌ってしまって置く人もある由)

・その意味は、一升マスの「升(マス)」は、昇とか同じ発音、同じ意味の字である。できるだけ高い官に昇って、『できるだけ多くの金を儲けられるようにと云う願いをこめて、自分の「宝」を「升」の中に入れて、高い所に掛ておくのだ』と、披は説明していた。
 なおこの「宝」は、その宦官が死んだばあい、その棺桶の中の屍体の股間に必ず戻される。それは、彼が今後完全な入間として「再生」するために、絶対必要な処置であるという。さもなければ、来世には、馬なって生まれてくるとか、色々云われている。まさしく、本人にとっては、かけがいのない「宝」である。
 
またこのように貴重な「宝」については、それを質草とした話もある。またある男が質屋へ行って、自分の着物を抵当に金を借りようとしたが、思うような金を貸してくれなかった。憤慨した彼は、突然その場で自分の男根を切り取って、「三角」(三十銭)借せと叫んで倒れたという記録など色々残されている。
 


要するに、男根を切り取ってまでも官吏となって金儲けしたいのだという。
 中国では、官吏の実態は、その最初のうちは、君主の利益を守るための道具にすぎなかった。しかも官吏を任命するにしても、代々同じ家柄の人々の世襲で・あった
 ところが隋代(581~6 1 8年)になると、科挙試験(官吏登用試験)制度が定着し、官吏の地位、俸給は、世襲によらず、本人個人の能力によって決定されるようになった。
しかも、官吏の地位と俸給は密着しているため、官位が昇れば昇るほど俸給も高額となる。それで「昇官発財」は、官吏の魅力ある目標の一つとなったのである。
しかも、そのためにこそ、学問が非常に盛んになってきている。

    


(3)宮中、官界 官吏の実態一賄賂公行

1.清廉潔白な官吏もいる 
中国では、天子は必ず「南面して立つ」。つまり南向きに位置して、天下の政を聴くことになっている。南は陽であり、陽は人君の位置だからである。 そのため天子の政を代行する官庁は、必ず南面して門が開かれていた。

 清代の例に見ると、府県のお役所の長官の居る部屋のまん前の庭には、役人たちを訓戒するための言葉を彫った「戒石」と称する石碑が建てられていた。

 その石の南面には『公生明』(公は明を生ず)
という三字が彫られている。これは「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(闇とは、くらい、明らかでない、おろか)(荀子、不荀)という発子の言葉からとったものだろう。つまり、公正無私の心をもって、人に接すれば、明知が生じて世の中が明るくなり、偏頗(へんぱ)な私心にとらわれると、万事暗くなるといった意味であろう。


石碑の北面には
  「爾俸爾禄、民脂民膏、下民易虐、上天難欺」
(北宋、第二代太宗976~997年の戒石銘)の十六文字が彫られていた。意味は
爾の俸、爾の禄は、民の脂、民の膏。下民は虐げ易く、上天は欺き難し。
お前たちの俸禄は、人民の膏血を絞った税金の一部分だよ。下々の人民は虐げ易いが、天の神様は、ごまかすことはできないよと戒しめている。  

 そして更に官吏の具体的な心得としては「清、慎、勤」の三つが要求されていた。
  「清。|とは「請宿財を愛さず」で、清廉な官吏は、心から潔白で、金や物には淡々として見向きもしないものだ。清浄は天下を正す根本だと云うこと、「慎」とは、法令に従い、失敗のないようにするためには、まずその身を慎め。「勤」とは、精勤は、価の知れないほどの宝だ。骨を惜しまず勤めよ、励めと云うことであろう。

こうした戒石の心得の前では、官吏たちも悪事を働こうにも、手が出ないようである。

ところが、そのように厳粛公平なお役所のことを、民衆はどのように評価しているか、中国社会公認の俗諺に聞いてみよう。

「ハ宇児衛門、朝南開、有理無理銭来」(俗諺)
お役所の門は南向きに大きく開かれている。理屈があろうと無かろうと、金を持って来い。あるいはまた

「八字児衛門朝南開、有理投銭莫進来(俗諺)
お役所の門は、南向きにハ文字に大きく聞かれている。理屈が有っても銭の無い奴は、入って来てはいかん。と云うのである。

これが一般民衆が下した、お役所に対する定義である。

以下、次号へ


一部イメージはOsny/melo氏より

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再読  政治の座標を観る 《昇官発財》 其の三 2009

2019-04-17 09:05:48 | Weblog

           

           神奈川県江ノ島の児玉源太郎を祀る児玉神社

昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・


【以下本文】

北宋の第一代太祖(960~976年)は、
 「宰相とする者は、必らず読書入を用いるべきである」(宋史、太祖紀)
 と言ったため、その後は非常に儒者を重んずるようになったと記るされている。
 
ところが、北宋第三代の真宗皇帝(997~1o22年)は、非常に熱心な道教の信者であった。泰山に対称の儀(封は、天を祭ること。禅は山川を祭ること。これは天子自らが、国威を中外に誇示するために行う祭りである)を行ったり、玉清昭応宮を創建して、道祖神を祭ったりしている。

 このような道教の熱烈な信者、真宗皇帝に、学問を勧める文、「勧学文」がある。これには、学問の目的が、はっきりと示されている。
真宗皇帝の学問を勧める第一の教えは
 「家を富ますに良田を買うを用いず、書中自ら千鐘(一越は、六石四斗)の栗あり」である。 

家を富ますために、良い田を買って、一生懸命耕すようなことは、必要のないことだ。それよりも一心に本を読みさえすれば、高位高官となって、厖大な俸給を手にすることができる。そうすれば、莫大な量にのぼる粟、つまり食糧が、ひとりでに、どっさり入ってくるのだ、だから、学問に励めというのである。


論語には、孔子の言葉として
 「君子は道を謀って食を謀らず。耕すやタイ(飢餓)その中に在り。学ぶや禄その中に在り」(衛霊公)とある。
 指導者たる者は、道の修得につとめ、人格を完成させた上で、それを、他人に及ぼしていこうとすることを、まず第一に考えるべきで、食べていくこと、生活のことなどは考えない。
 田、畑を耕すと、自然災害などで、飢餓に襲われることがある。学問は生活のための手段ではないが、徳を完成しさえすれば、ひとりでに俸禄がついてくる。だから、食うことなぞ心配せんで、一心に学問をせよ、というのである。
真宗皇帝の勧学文では、学問は完全に生活のための手段となっているようである。


      


真宗皇帝の第二の教えは
’「妻を娶るに良媒なきを恨むこと莫れ。書中女あり、銀玉の如し」
 妻を娶るのに良い仲人がないなどと恨みがましいことを言う必要はない。真剣に本を読んでおりさえしたら、高位高官となり、金もたまる。そうすれば玉のような美しい銀をした女たちが、幾らでも押しかけてくる。だから学問に励めと教えている。ここでも自らの徳性を修得するためとは、一言も言っていない。

 「婚娶して財を論ずるは、夷虜(野蛮人)の道なり」(隋、文中子)
 結婚しようとする時には、たがいにその相手の徳性人柄を最大の問題とするのが本当だ。地位だとか、財産だとか、そんなものを問題として決めるのは、それは野蛮な種族たちのやることであると、文中子も、はっきりと言っていたはず。

 真宗皇帝の第三の教えは
  「安居高堂を架するを用いず、書中自ら黄金の屋あり」
 安らかな生活ができるようにと、大厦高楼を建てる必要はない。本気で学問に打ちこんでおりさえすれば、立身出世して、黄金の一杯つまった部屋が、ひとりでに生まれてくる。だからこそ学問に専心打ちこめと教えている。つまり、学問即黄金だよと教えているようである。

 私は中学時代
  『財に臨みては、いやしくも得んとすること勿れ』(礼、曲礼)
 お前らはお金を見ても、欲しいなどとは思うな。専心学問に打ちこめと学んだ。頭の悪い私ではあったが、この教えを、身体で覚えてしまった。私たちの先生は偉かった。先生自体、言葉で教えず、身体そのもので教えてくれた。だからこそ学生自身も、身体そのもので覚えたのだ。

「経師は遇い易く、人師は遭い難し」(宋・司馬光撰・資治通鑑)
 というが全くその通りだ。経書を解釈してくれる先生は、いくらでもおる。しかし、身体そのもので教えてくれる、すばらしい先生は全く少ない。

・要するに真宗皇帝は、学問こそは人間の「食、色、財」の三つに直結していて、しかもそれを最高に解決しうる根本であると教えているようである。
 しかもその結果、万世にその芳名を留めるほどの大学者たちが続々と現われたのである。

以下 次号へ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間考学」不確実性原理  Ⅲ

2019-04-15 08:53:12 | Weblog

     津軽   桜は集い、5月の林檎(リンゴ)花は、独り静寂を愉しむ  


日米開戦の二カ月前、山本五十六(長岡藩士高野貞吉の六男)が海軍の無二の親友、堀悌吉(当時は予備校)に宛てた遺書とも思える手紙がある。以下要約する。

 

昭和十六年十月十一日

一 留守宅の件、適当にご指導を乞う

二 大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。・・・これが天なり。

  命なりとは、情けなき次第なるも、いまさら誰が善い、悪いといったところで始まらぬ話なり。

三 個人としての意見は正確に正反対の意志を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。これを命というものか。

 

傍線部(村岡)は、山本個人としては、三国同盟に反対し、日米開戦にも猛反対してきたが、歴史の巨歩が万年を決した今となっては、日米開戦に突進せざるを得ないと、海軍の一員として山本長官の覚悟と決意を語っている。この手紙は、組織(規律)と個人(良心)との関係を考察する上でも貴重で深刻な史料となっている。

 

      

桂林



Ⅳ 安岡正篤氏(48才) (結)

更に四年の歳月が流れた昭和二十年八月十五日、大日本帝国(明治国家)は崩壊(滅亡)した。国内の大都市は空襲で焼け野原となり、広島・長崎には十五日の正午、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を流し、国民の日本の敗戦と、終戦を知った。

その三日前の十二日、大東亜省顧問の安岡正篤氏は、迫水書記官長が内閣嘱託の川田瑞穂氏の起草依頼した草稿に朱筆(監修修正・加筆)を入れている。

「万世の為に太平を開(拓)かんと欲す」(拓)は筆者挿入

この言葉、敗戦後の日本の政策(経済重視・軽武装)を見事に象徴した表現ではないだろうか。このように元老山県の伸吟は、敗戦を経て四半世紀(25年)の時空を経て、顕現したわけです。

 

寳田先生の備忘録では、安岡氏は敗戦間際、旧知の哲人(岡本義雄)に漢詩を贈っている。それは大東亜省の顧問であり、文京区白山の町会長でもあった安岡宅に早朝訪問時のことだ。

「先生、先生は偉い人だと聞いた。毎日の空襲で国民はもがき苦しみ亡くなっている。軍は聖戦だと騒いでいるが、このままだと日本および日本人が滅亡してしまう。・・・」

安岡氏は大東亜省の迎車を四十分も待たせて、側近には『来客中!』と告げ、岡本の烈言を聴いている。

数日して秘書から一幅の漢詩が届けられた。

 

漢詩簡訳

春の朝、夢を破って空襲警報が鳴る

殺到する敵機は雲のように空を覆っている

炎はすべてのものを焼き尽くしているが、嘆くことではない。

塵のような害あるものを掃って、滞留した忌まわしい風を除くだろう

 

傍線は、明治以降伸長し、ときに増長し、組織的には立身出世を企図した上層部エリートで構成する組織の止め処もない増殖は、国家の暗雲として天皇の権威すら毀損するようになった。

これを、国家の暗雲として、いかんともしがたい内患として安岡氏は観ていた。その憂慮の根底は天皇を象徴とした多くの国民の安寧だ。

また、邦人が支え、醸成し永続した国柄の護持への危機感だった。

漢詩では、「君、歎ずることはない」とある。劫火同然(焼き尽くすことによって暗雲は祓われ、新世界が訪れるという激励の漢詩でもある。

終戦の詔勅に挿入した、万世・・は、「世が続く限り平和であることを願う」意味は、まさにこの継続した意志によるものだ。と、寳田先生は記している。


              

 

Ⅳ 歴史の特異点

要するに、山県が憂いたように、駅員、中岡艮一(こういち)の短刀一突きで(歴史の特異点)を契機として、事後、明治国家は崩壊したことになる。

そんなバカな・・」と思う方は大勢いると思う。

では、私も聴いてみたい。セルビアの一青年の短銃一発によってオーストラリア皇太子が暗殺され、これを契機に第一次大戦まで発展し、人類に未曾有の不幸をもたらした訳です。

これは歴史的事実であり、世界史の教科書にも記載され、ほとんど常識化されています。

ルーマニアの独裁者チャウシェスクも集会に集まった群衆の一人の青年が「バカヤロウ」と発声したことで群衆はおののき、混乱して、終には栄華を誇った独裁政権はなんなく崩壊しています。

事後はさまざまな観点から原因を研究されていますが、貧困、軍の膨張、他国との軋轢、国内の政治事情など様々ですが、もしそこに沸点、飽和点、があるとすれば、一刀、一発、一声は、現状崩壊、覚醒、更新の端緒として、また研究者には歴史の特異点(分岐点。キーポイント)として、かつ問題意識をもった人間の行為として記されるものです。

 

第一次大戦に至る因果関係は諸説あり、専門家の間でも紛糾しますが未だに確たる定説がない。つまりよくわからない訳です。結局、歴史学(人文科学)岳からのブローチでは、自ずから限界があり、納得のいく合理的説明ができない訳です。やはり、社会科学、自然科学の成果を取り込み「腑に落ちる」説明に努める必要があると思います。

つまり「思考の三原則」に順って、根本的、多面的、に思考し、もって歴史の特異点として回想することだと思います。

 

以上は「歴史の特異点」に接近するための一般的、描象的な方法論を説明したものですが、より客観的、実際的な方法論として、二つの処方箋を提示したい。

 

①     まず第一に、或る小さな事件が発生したら、それは、もしかすると「歴史の特異点」かもしれない、と直観を働かせることだ。元老山県のように「人間考学」を学ぶ意義はここにも存在している。

敷衍(ふえん)すれば、「人間考学」は、単に記号(文字)の順列、組み合わせを表現しているのではなく、直感(カント流にいえば先験的認識)を前提にした直観(絶えざる学修、経験による後天的認識)を働かせることを主題としている訳である。

つまり、「実相観入して神髄を極める」ことである。

 

➁ 現代数学の一分野である「複雑系数学」(フラクタル理論=自己相似、べき乗数の理論、バタフライ効果など)の基礎概念について理解を深め、それを「歴史の分析」活用してみることである。

たとえば、ヒットラーのモスクワ侵攻(失敗)をナポレオンの同様な侵攻と比較考察しても、(失敗要因として双方、極寒には勝てなかった)これはフランクタル(自己相似)の関係にあると考察することである。一駅員の中岡良一の短刀とセルビアの青年の一撃も然り。

このように複雑系の数学を活用することによって、歴史を多面的、根本的、将来的に分析し、現代の現象に活かすことが大切なことである。

 

以上のように論考しくると、何となく「腑に落ちる」ような気がしますが、実は現実には厄介な問題が水面下には存在しています。

「歴史の特異点」において、発生は偶然の産物であり(必然性はない)、それが「歴史の特異点であるか否か」を認識できるのは、元老山県有朋のように、ごく一部の例外を除いて事後的に結果を知っている未来の人であって、渦中のほとんどの人は「歴史の特異点」を認識することは適わないという事実である。

このように論を進めていくと、「慧眼の士」は、「なんだ、結局、理解にならない説明をしているだけではないか。それは要するにトートロジー(同義反復)じゃないの?」と思うでありましょう。であるならば。とりあえず「然り」と応えざるを得ない。(認識論理の限界)

 

ここで皆さんに質問したい。曹洞宗の開祖である道元の「不立文字」(文字によらない)と、「正法眼蔵」(仏教哲学の書物)の関係は如何かと。

その解答(回答にあらず)のヒントは、「人間考学」のなかに存在している。

認識の論理(合理的思考のプロセス)と実在の論理(正反一如)とを比較考察してください。そして繰り返しになりますが、直感と直観の大切さを理解ください。


       

桂林




寳田先生の抄

碩学といわれた安岡正篤氏も、「真に頭の良いと云ことは、直感力の鋭敏な読み解き」と言っています。

その意味では、地に伏し、天に舞うような俯瞰力(眺め意識)をもって事象を考察することを勧めたい。

また、前記した「逆賭」(将来起きることを推考して現在、手を打つ)だが、難儀な労を費やす論理の整合性を求める前に、東西の学風にある同義的研究を対峙することではなく、南方熊楠が希求した東西の融合を通して、異なるものの調和を図るような寛容な人間(人物)陶冶こそ、人間考学の理解活学と目指す万物への貢献かと考えています。

その上での理解の方策として、東西の学風を用とすれば、各々の説家(研究者)も大局的見地で協働が適うはずです。

山県氏でいえば、土佐藩主山内容堂の見方として、幕末維新の騒動は、多くは無頼の徒の行動だったと感じていました。維新後は名利衣冠を恣(ほしいまま)にして、政官軍の上位に納まり曲がりなりにも国なるものを操ってきた。

その経過は、当初、出身郷(藩・地域)の競争をエネルギーとしてきたが、少し落ち着くと軍閥、官閥を蟻塚のように作り、威勢を誇り、なかには功名争いをするものまで出てきた。胸章や褒章で身を飾り、職位が名利食い扶持の具になってきた。

 

その中で名利に恬淡で剛毅な鉄舟に縁をもち、維新功臣から除外された旧南部藩から原敬が台頭してきた。

似たように児玉源太郎の慧眼もあり台湾民生長官として功績のあった後藤新平も岩手水沢出身の、官界の異端児(変わり者)だった。愛媛松山の秋山真之も然り、みな不特定多数(国内外を問わず)の利他に邁進し、人情にも普遍な日本人だった。

その気概は、我が身の虚飾を忌避して、物に執着せず(拘らない)、名利に恬淡な人物だった。


            

神は己の心宮に在る     岡本老


     

老成した山県が有用とみたのはその至誠ある人物だった

武を誇り,威を振りかざし、竜眼(天皇)の袖に隠れて権力を壟断する明治の拙い残滓は、危機を誘引し惨劇を異民族の地にも演じた。

また、それが明治創生期にカブレたようにフランスから借用した教育制度の成れの果てでもあった。とくに数値選別では測れない、本来有能な人物を見出すすべのない教育制度は、戦後の官域に残滓として残り、現在でも同様な患いを滞留させている。

 

山県の危惧は自身の成功体験が時を経て、善悪、賞罰の見方を転換させる状況が生まれてきたことを表している。それは西郷が「こんな国にするつもりはなかった」と言ったという事にも通じます。

 

つまり、勝者の奢りから安逸になり、組織の規律は弛緩し、模範とする人物は亡くなり、増長することによって自制するものもなく、終には自堕落となって、白人種の植民地経営を模倣し、大義を弄して異民族の地に富を求めるたが、老境に入り、かつ死後のいくすえを思案する精神的境地に至ったことで、人物の真贋や無私の観察ができるようになったと思います。

そのとき、掃きだめの鶴のようにオーラを発していたのが原敬だったのです。

 

山本海相は、地方司令官の東郷平八郎を連合艦隊司令に登用した理由は、「運が良い」と観たからでした。その運の良さは、部下にも恵まれました。参謀の秋山真之ですが、これも緻密な作戦を立てますが、最後は「天祐」(天の祐け)と述懐しています。

児玉は国家の危機に二階級降格までして日露戦争の参謀長として心血を注ぎましたが、司令官は愚鈍とも思える大山巌でした。それが東郷や大山の涵養した国家に有効な「観人則」つまり人を観る眼力だったのです。

 

思考の多様は、意図すれば目くらましになる。あるいは目を転じさせる興味があれば人間は、深く、落ち着いた思索を疎かにしてしまう。

それは、他があって自己が存在するという「自分(全体の一部分)」の確立を妨げ、連帯の分離、コロニーからの離脱、排斥、といった茫洋としたところでの夢遊な自己認識しか、できなくなってくる危険性をはらんでいる。

 

清末の哲人、梁巨川は「人にして人でなくば、国が何で、国たり得ようか」と。

その「人」とは、どのような人間をみて感じ、察するのか。いまどきの人格とは何ら係わりのない附属性価値でいう、地位、財力、経歴、学校歴(学歴ではなく)を人間判別の具にしたのでは見えてきません。

今は、食い扶持保全のために高学歴エリートが、その知を、我が身を護るための用として虚言大偽を弄し、文を改竄し、責任回避します

≪文章は経国の大業にして,不朽の盛事なり≫

 

          

桂林の友より



昨今の現象は山県でなくとも「タマッタものでない」と思うところです。

いかがですか、人間考学は、あなたの内心を怖がらずに開け、無駄なものは省き、器を大きくしたところで素直に事象を観察することです。老境の域にならなくとも、童のころに戻れば醇な心は還ります。

それで眼前の事象を眺め。考察することです。

「人間考学」は、思索や観照の前提として、まず自らに浸透しなくてはならないことへの促しです。それは「本(もと)立って、道生ず」まずは、その内心に本を探り(己を知る)、特徴に合わせて伸ばし、道を拓くことです。

 

その道の歩みも、やたら巧言を語らずに、体験を糧に内心に留まった考察を反芻して、利他のために発するのです。

口耳四寸の学といいますが、口と耳の距離は四寸くらいですが、聴いた、見た、知った、覚えた、この簡単なことを身体すら巡らすことなく口から発することは「話」言べんに舌ですが、「語」りは、「吾」を「言」うです。

つまり梁巨川氏も言うとおり、吾のわからないもの、知ろうとしないものは、彼の云う意味での「人」ではないのでしょう。

その「人」を考える、人の織り成す現象の行く末を想像する、それが「人間考学」命名の由縁でもあります。

 

平成の結びに

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間考学」不確実性原理  Ⅱ

2019-04-12 09:25:43 | Weblog

 

国策研究会 村岡聡史元評議員の稿  Ⅱ

 

➁元老、山県有朋の呻吟 (承)

政友会と元老山県の連絡役として水面下で活動していた松本剛吉(後の貴族院議員)は、事件を知ってすぐに山県邸に急行した。山県は八十五歳の病体を横たえていた。以下は松本と山県の会話である。

M 閣下、原首相が東京駅で暗殺されました

Y 何・・・、原が殺られた・・・、本当か。

M はい、犯人は大塚駅の若い駅員とのこと。

山県は呻(うめく)くようにして

Y 原が殺られては・・、原がやられては・・・、日本はタマッタものではない。

そう言って呻吟した。(参照 松岡剛吉政治日誌 岩波1959)

 

問題は『タマッタものではない』のスケールの大きさである。単に「国益のマイナス」レベルではないのか、「国家の崩壊」レベルなのか、という問題である。

前者ならば、人為的な政策で対応可能であるが、後者ならば、人為的な政策では対応することは極めて難しい。最悪の場合、歴史の自動律的な巨大な慣性に押しつぶされ、国家崩壊への坂道に転落していくことになる。元老山県の伸吟はどちらを意味するものなのか。結論からすれば後者である。それは山県の更なる呻吟(うめき)に耳を傾けたい。

Y 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 (再び) 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 

何度も伸吟(うめき)を繰り返している。元老山県をして、うなされるように。この呻吟を吐かせる根本は何なのか、と自問自答したとき、結論は一つ、山県は「明治国家の崩壊」を予感(予知)したわけです。

幕末維新の動乱を辛くも生き残り、下関戦争、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦等々、幾山河の修羅場を経験し、国際社会のパワーポリティクスと明治憲法体制の構造的欠陥をも冷厳に認識していた山県である。世俗の老人から聴こえる呻吟とは同列に論ずることは絶対にできない。

以下は、元老山県の真理と予感を村岡流に分析してみた。

〈松陰先生以下の名前の連呼は、幕末維新以来心血を注いで営々と建設してきた明治国家が、この暗殺事件を契機に崩壊の過程を歩み始め、自分〈山県〉には、もはやその歩みを押し止めるエネルギーはない。だから、連呼した方々に祐けを求めたい、これが理由ではないだろうか。

 


   

後藤  児玉

もう一つは、みなで建設してきた明治国家が早晩崩壊していくだろう運命に対して、無力な己の境遇に「申し訳ない」という謝罪の意味

 

第三に、山県は次世代の人材に対しても危機感を持っていたと思う。つまり、明治の第二世代〈官製学校エリート〉にあっては、知識の量は増えたが、それを内外の大局的見地から政策に活用するべき、智慧と勇気と経験が欠けているというクールな認識がある。その有為なる人物の問題に関する危機感が呻吟として現れた。

 

第四に、以上の三点と「明治憲法体制」の構造的欠陥が結合すると、国家は物理現象のように自動律的に崩壊の過程を進んでいくことになる。山県は瞬時にそのことを見抜いていた。

 

明治憲法は、建前上では「天皇は統帥権の総覧者、大元帥」と規定されていたが、運用は英国流の「君臨すれど、統治せず」であって、政府が輔弼責任を負い、天皇には責任が及ばないようになっていた。

しかも、厄介なことに首相は各省大臣の同輩中の酒席程度のポジションであり、各省大臣の任命権を有せず、ゆえに内閣(政府)は憲法上、極めて脆弱な権力基盤の上に立っていた。

考えは簡単。薩長土肥に代表される維新の功労者たちが、成文化された明治憲法体制の欠陥を、補って余りある政治的手腕を発揮したがゆえに、「ボロ」が顕在化しなかったわけです。文字は無機でも、人物に依って有機的機能を発揮したのです。

彼らが次々に世を去っても、元老として山県等は内外の政治を支えていました。

 

ところが、元老も次々と世を去るにつれ、明治国家は扇の要を失ったように弱体化してきた。次代は立身出世を企図し、その用として官制学校歴の数値選別に励み、官位は名利のために用とする風潮がはびこってきた。この段階から遺産の食いつぶしが始まったといってよい。

山県が描いた次代の元老を原に委ねようと考えたとしても、不思議ではない。もはや、歴史を俯瞰して内外を総攬する見識を有した人材は原の頓死でいなくなった。

「原が死んだら日本はタマッタものではない」という伸吟は、明治国家建設の参画者としての危機感の表れであり、明治国家の将来への危機的憂慮として元老山県なりの逆賭でもあった。

   逆賭・・・将来起こりうることを想定して、いま手を打つ。

山県は本件の三か月後の大正十一年八十五歳で亡くなっている。

 

     

東郷平八郎               秋山真之


➂ 長官 山本五十六の手紙

山県の没後、二十年の歳月が過ぎた。

その間、明治国家は内憂外患の諸問題を継続的に受けていた。内に於いては関東大震災、昭和恐慌、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、外においては満州事変、日中戦争、日米通商航海条約破棄、ハルノート等々。それは内憂の政治的要因、外患の経済的、軍事的要因など、明治以降の外征的政策と前記した国家構成上の構造的問題が一挙に出てきたような時代の流れでもあった。

とくに外憂の要因を惹起する国内の政治的抗争を誘引するような軍事的(人事、陸海の歴史的軋轢)など、多くは明治創生期に勃興した軍事を中心にした国力伸長を期すという政治構造が内憂の大きな部分を占めていたようだ。その行動形態は民生、経済、政治がバランスを欠くこととなった。

つまり、国家統御の弛緩(人事、組織のゆるみ)は弱点として外患を誘引する問題ともなった。

 

結局、昭和十六年十二月一日の御前会議で、米英に対する開戦を決定することに結び付いた。要因の切り口はさまざまだが、ここでも各界の要路における人材、つまり用となる人物登用の問題として、山県の伸吟に現れているのだ。

満鉄調査部、総力戦研究所などの部署では、正確な資料分析(総合国力の比較)の結果、日米開戦不可論を提言(山本五十六等)していたが、もはや歴史の運動量が万事を決していた時点では、諸組織,諸個人の抵抗力(抑止力)では止めることは不可能な状態だった。

以下、それを象徴する「山本長官の手紙」に着目して歴史を学んでみたい。

 

次号につづく 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間考学」の不確実性原理  Ⅰ

2019-04-04 13:54:18 | Weblog

           

 

「人間考学」の不確実性原理

              元国策研究会評議員 村 岡 聡 史

 

 はじめに・・・

今年の正月明け、寳田先生から1通のEメールが届く。

それは、「人間考学」を現代人の思考形態(慣性)に理解対応できるように体系化することは可能か否かということだった。

「たぶん可能です」と気軽に応えてしまったが失敗だった。途中で背負いきれない程の重いお荷物を抱え込んだ自分に気が付いた。放り投げたい気持ちは山々だが,時すでに遅し。私に対して奇人(貴人)怪人(快人)と高い評価を与えてくれた寳田先生の期待をいまさら裏切るわけにもいかない。

したがって以下は対応の体系化(第一歩)であると同時に、私の悪戦苦闘の軌跡でもある。

 

 

序 孔子の学風

2015年12/16から昨年の11/23日までの5年に及ぶ防衛関係に向けた寳田先生の講話聴講者の所感に対する応答集(備忘録146P)を拝読しました。

読み進むうちに、ハタッと気が付いたことがある。これは平成の「論語」ではないかと。むろん2500年の時空の隔たりがあり、その内容もまったく異なっている。しかし、講話聴講の所感に対する応答という研修形態は完全に一致する。

すでにご存じの方も多いと思いますが、論語は孔子と弟子たちの「講話応答」を後世になって編纂したものである。結局、普遍性の高いものは2500年の時空を超えて生き続け、おそらくこれからもそうであろうという訳であろう。

この聴講者との協働した名著「講話応答備忘録」(新論語)そのものに私が新たな知見を加える必要性は見当たらない。しかし、これでは約束を破ることになる。寳田先生とは20年来の道縁でもある故、約束は履行せねばならない。

そこで、「人間考学」をより正しく、深く理解するために村岡流「人間考学対応の翻訳」を謹記することにした。以下、テーマを3つにしぼり、歴史・組織・文明、についての拙論を展開する。

 

Ⅰ 歴史と人物

①    歴史とは何か

「歴史とは現在と過去の対話である」(E.Hカー)

「歴史とは過去の時空におけるエントロピー増大法則(エネルギーの劣化、無秩序の拡大)に抵抗する人間諸活動の総体である」(村岡流の定義)

戦争はなぜ無くならないのか。答えは2つの要因である。

 

1つは物理学的要因として、人間はエントロピー増大則に順っているからだ。戦争によって破壊され荒廃した国家社会はエネルギー劣化の象徴だ。その逆に平和を維持するには莫大なエネルギーの投入(ポテンシャル増大)が必要だ。人、モノ、資金、情報、システムの構築などだ。

 

次に考えられるのは生物学的要因としての「人口調節作用」がある。人道的見地からはあまり認めたくはないが、人間も生物である以上、無為無策であればこの原理に順わざるを得ない。

その点、経済学の立場からマルサスが説いた「人口論」(人類は幾何級数的に増加するが、食料は算術計算的にしか増加しないから、早晩人間社会は崩壊する)は鋭い点をついている。

幸いにも科学技術の発展によって食料は生産量を増大させ、マルサスの預言は外れたが、最近の人口と食料、気候変動の危機に直面してみると、その理論的根拠は今でも実証性を担保しているといえます。

 

Ⅱ  歴史を学ぶ

 ①    前段では歴史の定義に順って歴史理解の補助線(理系の発想)について記しましたが、ここでは歴史を学ぶ基礎的な心得について記します。

②    まず第一に「事」系と、「言」系に分けて考えてみます。

「事」系・・・本物、事実(静的、長期的)、事件(動的・短期的)

「言」系・・・記憶、記録、記述(論述、物語)

前記の両系統を時間軸に対応して織れば立体的な無歴史叙述になる。注意すべきは両系が必ず一対一に対応しないケースがあるということだ。

たとえば、日記などの記録では本人の記憶違いもあるし、伝聞を確認せずそのまま記載するケースもある。

一級史料といわれる文章類も然りだ。

 

    

   自衛隊ペルシャ湾へ掃海艇派遣を急ぐ中曽根総理に

   後藤田氏は「国民はいざとなったら覚悟はできているのか」と、断念を迫る。



だた、ここで寳田先生は、

【・・面前に起きる血肉飛び散る戦闘や革命の臨場は、いずれの第三者の筆になる歴史ともなるが、体験者の行動は記録記述のためにあるものではなく、まして、゛歴史なるもの゛を鑑とし、かつ糧とする後世の人間のために企図したり想像する推定の行為ではない。

客観視も大切なことではあるが、記述の検証や論拠の立て方などに労を費やすだけでなく まずは面前の瞬間的行為、あるいは肉体的反応の仮の臨場想像として考えるべきものだと,一考察を述べている。

くわえて、そこには個々の身に降りかかる肉体的衝撃や森羅万象の驚愕、恐怖、歓喜の事実をもって、ときに沈黙にある「言外の意」を汲みとるように情感、あるいは我が身に譬て肉体的浸透されなければ、たかだか人間の言や章とて次世の評に耐え得るものではない。それは、たとえ脳漿に染め付けられたとしても、それは学び舎の机上学の類でしかなく、深層の情緒性の集積(歴史)として遺るものではない、と・・。】

 

日本は明治以降、ドイツのランケ史学(資料実証主義)を導入したが、落とし穴が二つある。まず第一に史料を重視するあまり、その真意があまり重視されないという傾向を生むと同時に、その真意があたかも不定方程式を解くがごとく、解答が一つに決定されないという弊害がある。

歴史学から科学的精神(観察→仮説→思考実験のプロセス)を奪うという欠点があった。最悪の場合、薄暗く生命力の乏しい博物館のような歴史学(又は歴史叙述)になってしまう。

私は資料を拒絶しているわけではない。要するに資料を尊重しつつ拘泥せず、これがスタンスである。

 

➁第二にマクロの視点(大きな事実・事件)とミクロの観点に分けて考察すること。

たとえば前者では、昭和十六年大本営発表「本日未明、帝国陸海軍は西太平洋において米英と戦闘状態に入れり・・」後者では、大本営発表当日前夜七日の夜、日比谷の映画館でアメリカの西部劇映画を愉しんでいた或る観客の翌日の心理状態など。

 

➂とりあえず、「歴史学」と、「歴史文学」に分けて学習に資する文献を提示します。前段では「歴史とは何か」(EHカー岩波新書)「西欧の衝撃と日本」(平川裕弘 講談社学術文庫)、後段では吉村昭の一連の歴史文学作品を提示したい。

同氏の作品は歴史学と文学の見事な結晶であり、かつ何よりも人間そのものが描かれている。また司馬遼太郎の「坂の上の雲」は明治期の「歴史の流れ」と人間群像を感知するための好個な作品であると思います。

 

   

    原敬


Ⅲ  歴史に学ぶ

本節では、歴史(客体)を学びつつ、歴史(主体)の中に教訓や知恵を発見するという課題について論考します。やや大胆な発想になるが、ここでは大日本帝国崩壊をミクロの視点(小さな事系)から分析していきます。

 

①    青年 中岡艮一の短刀 (起)

大正十年(1921) 11/4 大阪毎日号外。「原首相、東京駅で暴漢に刺され絶命」翌朝の見出し、「狂刀、心臓をえぐる。犯人は十九歳の鉄道員(大塚駅)中岡良一」

ちなみに、中岡艮一の出自はそれほど低くはない。彼の父は土佐山之内容堂家の藩士中岡精で、伯父中岡正は維新の志士で、故板垣伯の先輩である・この暗殺事件が中岡艮一の単独犯七日、あるいはまた、なにか複雑で大きな政治的背景をもった犯行なのか(黒幕説)、近代史の専門家でも諸説あり、現在でも不明である。

いずれにしても、大正期の大政治家原敬は頓死してしまった。

事件当日、原首相の周囲には警視庁、政官界の随員など三十人がいたが、あっという間の出来事であり、気付いたときには既に瀕死の状態であった。(凶行後15分死亡)

当時の原敬(南部藩)は内外で期待された大政治家であった。彼は伊藤博文が結成した政友会を藩閥、官閥などの人材を取り込み、結党以来最大、最強の党にまで発展させた。その剛腕というべき政治手腕(マキャベリスト)の一方で、議会制民主主義にも深い理解を示し、多くの国民から平民首相として歓迎されていた。(デモクラット)

その原敬が無名の青年の「短刀一本」で頓死してしまった。

 

英紙デイリーメール(大正10  1/4) は書いた

≪原氏の死によって氏の堅実な勢力がワシントン会議の上に影響する日本の不運を悲しまなければならぬ。原氏は内政に外交に偉大な抱負、経綸をやり遂げる不僥不屈な精神をもった偉大な政治家であった

たまたまシベリア、山東等の問題で非難を受けたが、これは人格云々するものではない。氏の死は日本、否、世界にとっても悲痛な事件であるとともに、世界平和の世界的運動の上に、日本の公平な態度を了解させ、また外国に日本の地位を了解させるために努力し、日本の地位の向上に力を尽くした公明な人である≫ 傍線は村岡

英紙の論調は元老山県の呻吟になって現れる。

 

次号につづく

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「元号考」撰文は、うまい、と、立派がある

2019-04-02 17:24:22 | Weblog

    次の世は・・・・ 悠仁親王殿下


さっそく話題になっている。

「レイワ、だってさ、知ってる」

まさに嫁入り騒動の井戸端はなしのようだが、この手のハナシは噂期限も短いようだ。

なによりも万葉集だの、国史、漢文、歴史など、普段のタレントの離婚話やイチローの引退話の枠に慣れた人たちにとっては、ことのほか難解かつ面倒な話題なのだろう。

 何ごとも見馴れない、聴きなれないものは異物扱いだが、これも慣れればその時代の人々の歴史に沿って馴染み深いものになるのだろう。

 

電話も入ってくる。

「どう思いますか・・?」

凡そはネガティブ(懐疑的。批判的)な雰囲気も漂うお尋ねだが、ブロクによく登場する「安岡先生なら何というかな・・?」などの尋ねも幾つかあった。

聴きなれ、使い慣れすれば何のことはない、なんと決めようが、改元の意味を知っていれば陛下の譲位へのお言葉を聞いた段階で、この問題は始まっていることゆえ、いまさら騒ぎ立てることはないことは承知していると思うが、そうではないらしい。

 

    

       皇居東御苑


小生はその方面の研究者ではないのでアカデミックなことの理解は微かだが、ずいぶん難儀な選定をしたものだとの思いはある。

たとえば、アルファベットの頭文字が重複しないもの、企業名や著名人に類似なく、漢文古典、日本史記述、の範囲で二文字の漢字、「峠」などの邦字ではなく、あくまで外来漢字。

邦家の情緒をと採用したのだろうが、明記はやはり隣国の漢字だ。隣国の文化に必然として発生し造形された象形が漢字となり、記述として、オンとして、また韻ともなって、理解や感受として用いられているが、似て非なる意味つかいがあるために、意味錯誤もあるようだ。

 

また元号として重複はなく、あるいは噂された当代権力者の一字「安」も避ける等々、さまざまな縛りのある環境の中での撰文だった。今後、元号法制がなくなるまでこの縛りの範囲はより狭まってくるだろう。

 

「レイワ」は来客中であったのでリアルタイムでは聞きもらしたが、コンビニのコヒーを抽出操作していた時に背中越しに聞いた。「レイワ」、毎日唱和していれば慣れるだろうが、事務所に戻ってパソコンで官房長の発表を視聴して「令和」ということを知った。

記者会見はセレモニー、つまり準備された応答だった。産経とフジテレビの系列が代表として質問していたが、前もって準備していた質問と、これまた準備していた応えが絶妙だった。節目の一日なので嫌味を言いたくはないが、産経もフジも、菅さんも、妙に慣れた手順で、さもあらんと感じたものだ。ついでに、東京新聞に質問させたらと想像した。

 

     

                琉球緋桜


天邪鬼の筆者の感覚だが、「レイワ」どこかオンがきつく聞こえる。ら行のラレルレロで始まことが少ないためなのか、これも慣れの範疇だが「令」と「和」のバランス感覚が整っているのか、内心(腑に落ちる如何)に掛かるものがある。制約や事情の縛りも理解できるが、撰文や選別感覚はインスピレーションの世界もある。

つまり、安岡氏が説く「真に頭に良い人間は、直感(直観)がすぐれている」と。

ことさら「天の啓示」とは通人では理解に届かないが、以前はそれもあったと聞く。

元号だけでなく、撰文は縦横無尽に研ぎ澄まされ、肉体に浸透した智慧を瞬時に発想することだ。選別はそれから始まる。逆になるとバナナの叩き売りではないが、どれが美味いか思案しても、売り子が「裏も表もバナナ」と連呼されれば、同じバナナの中から選ぶことに真剣に思案するようになる。これは秀才でも思考の三原則「多面的・根本的、将来的」から外れて。眼前のバナナに夢中になるはずだ。最後は些細なキズや長さ、太さの違いで選ぶようになる。たかだか人間の選別とはそのようなものだ。

ゆえに、輔弼たる為政者は皇居に参内したのだろう。そこに秘奥な意味がある。

 

明治以降は官製の学制を唯一の頭脳価値とし、かつその選別を数値評価によって人間を選別してきた。体系、分類、実証、いまは論拠を証(あかし)て反証したり説明責任を問うようになっている。

それは、タガの緩んだ桶の水漏れ穴を懸命に抑えるが、別の場所から漏れ出るようなもので、与えられた桶の欠陥も調べる問題意識もなく、水を入れることに汲々としている。つまり、桶の漏れを確認しないことの瑕疵より、漏れを押さえる方法や手順を問題視する妙な学びの習慣性があるようだ。現象把握もそうだが、まさに「桶」をして、頭であり社会であり国家のようなものでもある。

それは情報漏洩、財政の洩れ、政策のもれに現れる。

 

平成元号は起草者で問題になっているらしい。

輔弼の礼として起草者は死者の案は不吉だということだった。「平成」は、選者として記された書類が残っているが、その選者は平成の御世に亡くなっている。一方の選者と噂された安岡氏は昭和五十八年、まさに死者だから当然、範疇に入らないという。

 

前号ブログでも、誰でもよいと記した。入念にも残された書類も存在している。

ただ、筆者が直接聴いた備忘録として竹下氏のことを記した。もう一つは、安岡氏の秘書、林繁之氏の言だが、ある時期車の後部座席で「ヘイセイ、ヘイセイ」とオンを確かめるように何度もつぶやいていたことを話している。

その「ヘイセイ」は、どんな意味で、何のことか解らなかったが「平静」と思っていた、と。

 

      

   桜はどこにでも・・  津軽の五月は一面リンゴの花


そのオンだが、大勢の僧侶が合唱する真言の声明(しょうみょう)も、気が合うと一つのオンとして聞こえる。つまり聴く者は意味も難解で分からない部分も多いが、オンが心地よい。心に届き留まる。

ハーモニーともいうが、JAZZも巧みになれば即興(セッション)も、その異なる音の調和が決め手となる。いくら個々の楽器が巧みでも、調和が無くては雑音でしかない。

不謹慎だが、聴きなれたこともあるが、安倍晋三さんが、晋一、晉作、晉太だとしたら聞き手はそれぞれイメージが異なる人物を想像する。信長、秀吉、家康、英樹なら膨らむものも大きくなる。

 

筆者は、慣れてきた時、馴染んできた時が勝負だと語ることがある。

被災地に向かう大勢のボランティアの活躍は人生においても貴重な体験だが、ある時期から潮が引くようになると、縁をたどっての被災地からの個々の相談に、「重くなる」ことがある。皆で行ったその時の高揚は素晴らしい行為だが、時を経て個々に依頼される問題となると、その依頼も負荷となることもある。あの熱気で、四方八方の友に協力を求め、いかに解決に向かうか、善意はあっても熱気は持続することは難しいようだ。依頼者は当時と同じ、神のように思っていても、なかなか応えることは難しくなっている。

その時こそ我が身に問いかけ、真の己を知る機会だと伝えている

 

いまは元号が金になるチャンスと騒いでいるものもいる。これも熱気だ。

いや、社会の熱気であり、躍動と考えても良いが、これも潮が引く。

記載は西洋暦の2019年。オリンピックも2020年。令和元年とは新聞でも記載は少ないはずだ。まして安倍さんが説明した「令和」の意味などは忘れるはずだ。

説明する為政者は元号に託して、政権発足時から謳っていた「美しい国」になるためにと、希望を述べている。

 

    

   


その「美しい国」の前提に、「清く」「正しく」ならなければ、美しくも空虚なハナシでしかない。まさに吾を言う「語り」ではなく、舌の上下が言う「話(ハナシ)」でしかない。

以前、オバマさんの眸と言葉のバランスを記したことがある。「イエス・ウィ・キャン」政権はそのようにしたいと思っていたが、期待通りの突破はできなかった。

 

記憶に残るのは、他の主権国家(アフガニスタン)の内陸まで特殊部隊を送り込んでビンラディン氏を襲撃殺害したときに、米国内施設で、リアルタイムでその成果を固唾をのんで待ち望んでいた顔と、殺害成功したときの笑い声が、まさに「ウィ・キャン」が「アイ・キャン」になった瞬間だった。あの時は眸と言葉が一致していた。

 

米国は、元号はないが、オバマの国でありトランプの国なのだ。

はたして、「我が国」とは言うが、国なるもの「日本」は、如何なるものなのだろうか。

無関心と浮遊に似た国風ともいわれるが、有りもしない、できもしない期待と想像を膨らませて、行き着く先さえ見通せない、いや、もともとそれが諦観として沁みついている大方の民情に取り付く島はあるのだろうか。

 

改元の慶事に不謹慎な拙文だが、いずれの期の備忘抄として吾がままを遺す。



一部イメージは関連サイトより転載しています


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする