まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人心が微かになった政府 2015 6 あの頃

2019-10-23 20:41:33 | Weblog

野島からの遠望



現在はまさに現状追認政府といったところだろう。
あの頃満州事変、日中戦の泥沼化に対して政府にチェック機能を有す国会の機能が現地の戦況報告に対して現状追認に陥った様子に似てきた。>

ただ、あの頃はまだマシだった。軍や議員の本人なり家族縁者に肉体的衝撃なり惨禍を体験した人物がいたことだ。いまの構成員は戦後70年経った今、その体験も、また生存者から聴くことも少ない世代となった。それらが貿易なり国防なりの海外案件を政府要員が勝手な約束事を相手国と行い、しかも議会にもかけられていない状態で海外舞台(場面)において気勢をあげる姿は、再三コラムに書く「五寒」にある「内外」に符合する亡国の兆候だ



「内外」とは内政が思わしくなく、よって海外、とくに近隣諸国から弱体化したと見透かされ圧力を掛けられると、深い深慮もなく表面的争論や、軍事力などの数値の多寡を争うようになる。つまり.そのことが政治に国民の信頼を背景とした自信と耐力が乏しくなった証左であり、それは為政者としては恐れ気質の単純反応なのだ。

        

              

     田圃アート    田舎館村


「外の人来たる、内の人よろこぶ」とは孔子の云う郷づくりの要諦だが、逆に、外に遣いに出る邦びとのことも言っている。
あの田中総理が日中交流の調印式のときに周総理から色紙を頂戴した。
「言、信を必す 行、果を必す」言うことに信用がおけ、行うことに結果が出る,という意だが、これも孔子でその後に「硜硜然として小人なるかな」と章は続く。つまり信用ができて潔いだけでは小者だと・・・・

ならば一等の人間は、君主の遣いで四方の国に行って、君主を辱めることのない義のある人物だといっている
ついでではないが毛主席から屈原の楚辞をもらっている。世をはかなんでベキラの淵に入水自殺した人物だ。
それぞれの国には様々な格言とともに、面白い対人遊戯があるものだ。

その夜の万歳は、日本は友好万歳、彼の国は万歳は、万に砕く「万砕」と同音だ。出席者は周恩来の色紙の意味を会場中の参加者が知った。
「さすが周総理だ!」と万砕を大声で唱えた。
田中総理も傑物、それでも国交の端緒は出来たと日本人の許容として振る舞った

あの石松も次郎長の元を離れたらあの状態だった。ちなみに税金の使途であるODA
は、支出したら外国政府の内政となり、たとえ繋ぎを取った議員にキックバックや便宜供与があっても関与できない、まして昨年の汚職摘発0件の内政専門の捜査2課である。
一時の農協の海外旅行は爆買だった。品物もイロモノも買った。成金の大風呂敷だが、大方は先祖の田畑を売った土地成金だ。それらが選んだ地方、国を問わず議員も大風呂敷を広げて、やたら約束事をしてくる。貰う方は座布団を重ねての接待だ。なかには空手形もある。しかも約束してから議会に諮るという。

これでは国際連盟の会議おいて国家のメンツにおいて気に沿わないと、堂々?
と退席して日露不可侵、日独伊三国同盟を牽引した松岡外相や満州事変の首謀者石原参謀の現地状況に追認したことと同じだ。

混沌とした欧州情勢を読めず、「まことに不可思議・・」と、辞めた首相もいた。
ならば、もし外交によくあることだが、敵の敵は味方風に北朝鮮と米国の軍事産業が裏談合して日本海にミサイルを飛ばせば、日本はミサイルディフェンスシステムを莫大な費用で買うだろう。資金の足の速さでは似ている中国と米国が煮えきらない外交を続ければ、日本は米国の庇護を期待して、より寄り添うだろう。ヨーロッパでもドイツがロシアと関係を深くすれば、米国でさえ付け入るスキはない。ウクライナの状況だ。


         

 

 日本の外交はいつも背伸びをして、広言して金を配っている。ことのほか景気のよいそぶりをして並ぼうとする。細事だが家庭や人付き合いで親父がそんなことをしたら破産するか家族にも相手にされない。とくに三代目が危ないという。
伊達男も見栄えを気にして中身が伴わない。人の噂を気にするあまり八方美人になり、風評を飛ばす人たちを飲み食いで懐柔する。政治ならマスコミ懐柔だ。


内では忍耐強くも呆れ気分が混じる、おとなし気な人に囲まれているが、くれぐれも外に出て国民のお遣いには慎重になるべきだ。ましてや帰国したら陛下にご奏上(報告)されるはずだ。その輔弼として大御心を具現できないお遣いなら行かない方がいいだろう。

天皇親政ではないが、諸事総覧すれば大御心の何たるかを掴めるだろう。
民主(国民)が頼り無いから有司(官僚)経国といわれるが、これも近ごろは弛緩している。しかもそれを頼りにしている議員は有司の理屈に戸惑うばかりだ。
なかには意見もなく、喋らされ、引責辞任役になる議員もいる。



まさに「人心は微かなり」の状況に加えて、智が衰え、狡知はびこる状態になってきた。

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もし、人間を支配するとしたら・・ 再

2019-10-15 07:41:43 | Weblog



国家は繁栄を目標に、平和を理念とする、という。
そのために自由(フリー)と民主(デモクラシー)が最良という・・・が。

二十世紀、独裁、共産主義はその実験を終えた。
それはコスト的にも民衆を支配するにしても、多くの反抗とそれに費やす時を労してしまう。民衆は本能的に群れる。そのターゲットヒーローは富と好き勝手な自由と愛、そして自身を主人と思わせることだ。

世界は彼らが作り上げていると錯覚させることだ。
過度な自己愛は、より広く深い考えを失わせ、問題のありかを探すことも無く、終には生き方さえ解らなくなり、他人に責任を問い、自身さえ傷つけてしまうようになる。

世界は混乱し、人間を理解できなくなった民衆は、海、山、空気という自然にもその原因を求めるようになり、それさえも金で解決するようになる。

自己を犠牲にして他を援けるような「愛」は変質し、際限の無い自己愛(欲望)はそのコントロールを失い、自らをも滅ぼすようになる。












そこで・・・


われわれはすべての【信仰を破壊】し、民衆の心から【神】と【聖霊】の思想を奪い、代わりに【数字的打算】と【物質的欲望】を与える。

【思索】と【観照】の暇を与えないためには民衆の関心を【商工業】に引き付ける。 そのようにしてすべての人々は【自分の利益】のみに没頭して【共同の敵】を見逃してしまう。

【自由】と【民主主義】が社会を瓦解させてしまうためには商工業を【投機的】基盤におかなければならない。

そして商工業が【大地から取り出した富】は民衆の手から【投機家】を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は【人情薄弱】な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な【政治や宗教】に対して【嫌気】がさし【金儲け】に対する執念だけが唯一の【生き甲斐】になるだろう。

民衆は金で得られる【物質的快楽】を求め、金を【偶像視】するようになるだろう。 

 そこで彼ら民衆は高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した【上流社会への嫉妬】にかられ、われらに付き従い、われわれの【競争者】である【特権的立場】のものに反逆するだろう

そして【時間のスピード】を速め、【管理】ることによって人々から考える時間を奪い、我々が支配する宣伝、マニュアルの流す虚偽に無意識に随うだろう

与えられた自由と民主に人々は飛びつき、【連帯をなくした民衆】は、終いには孤独の恐怖におびえ【正邪に疑問】を持つことなく我等に下に自然に集まってくる

われわれは、ただそれを【管理】するだけだ。

そのようにして国家や民族を【融解】された民衆は、ことごとく【数字的な管理下】におかれ、自ずから地球上の国家や民族愛は【無意味】なものになってしまうだろう

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簡略な人の判定と区別に陥った組織 2018 1 あの頃

2019-10-10 06:05:49 | Weblog

 

 

先日、行政機関の某現業職の幹部に特別講話を行う機会があった。

三回になるが以下の標題だった。

多くは官制の学校制度から忌避されたような「人間学」であり、自案の「人間考学」である。

よく「土壇場になって学問の質が解かる」とか、「人間の本質(本性)がみえる」とあるが、まさに平時の無事と有事ではその学問の有効性が試される。

智は大偽を生ず」といわれ、集積された学びを、責任回避や立身出世の道具として用いるエリートがいるが、まさに智は己を虚飾し欺くために使う者もいる。

それが土壇場における責任者になったなら、政治では腐敗堕落、戦争なら惨禍を招くこと必然である。

最後は人間の問題となり、その証は歴史の栄枯盛衰に数多の例があり、また倣うべき事象でもある。

また色、食、財の三欲に自己制御について、その学びの幹として、人間の人情や情操の養いについても伝えている。

それは従前の問題意識から、新たな覚醒をもって柔軟な思索のもと、あらたな問題意識の喚起につなげる作業でもあった。

 

      雄姿

 

初回は「組織の統御」についてだが、あらゆる組織での世代間、職掌上下、法令など、複合的に考えるための「本(もと)」となる内容だった。

第二回は、「機略」縦横無尽や臨機応変について、機会を逃さない知力、資力、能力など、現在の職掌のみならず人生を活かす手立てを知る内容だった。

そして、第三回は 

 平成29年 冬季講話 (概案)

 学びを肉体に浸透させ習慣化する「自得」について

  副題「集団の統御と任務の機略を、より有効にするには・・・・」についてだった。

 

以下はその資料として配布し、例として「学術的」(アカデミック)な説明と、企業の成功例を添付した。

 

 

         岩木 嶽温泉   

      

 

現代社会はその人間の問題の解決を成文法、理学的(病理)、もしくは普遍化された数値教育的な援用を求めて彷徨(さまよう)っているが、それらの引用はすべて人間の言葉や行動によって表現されている。

当然なことだが、その透過する人間と受ける人間の接する機微や情感については、数値ある論証にそぐわない、いや表せないからと、対象が知ったか、覚えたかのみの数値判定で解決したかの如く問題の本質を看過している。

 

教えない教育」がある。賢者は「背中学」とも言った。

人は往々にして事象を「察する」ことができるという。動物的反応なのか直感も磨けば優れるという。しかし「察する」とか「直感力」は自身の問題だ。

とくに肉体的衝撃など危機を想定したり、面前での突発的変化に際して、事前認知したり、発生の原因を想像したりすることの端緒となるものだ。

 

しかし、直感は他にとっては合理とならない。かつ、説明すら難しいものだ。かといってリーダーの素養には、ここで云う俯瞰視から導く感性が必要だといわれる。まして様々な要因を複合した事象の出現に対処するには、その様々な部分ないし場面での人の観察感にある「感性」が必要となる。リーダーに集約するまでには数多の職掌と多くの人間を透過する。しかしリーダーはその集約とは別の判別力や事後の推考を加えなければならないだろう。つまり「責任」に適う判断であり、歴史に耐える判断を求められることもあろう。

説明を求められれば証拠を添えることも必要となる。

それが可能だとしても、人それぞれ優劣問わず感性があるゆえ、体系的な合理を得たり、人の統御には難解なシステムが必要となってくる。ここまで来ると直感は夢想となり、選択の範囲には留まらない。

ゆえに直感を既存の定理や遵法にトレースしたり、前例になじむようにと難解な人間解明作業が発生する。しかも、これでは既存の突発的行動にそぐわないと、既存の概念に責を求め、回避し、拘泥する。

あとは自ずと勇気と突破のパワーだが、ここに「背中学」と「教えない教育」が必要なのは言うまでもない。それを可能にするには古来の賢人が謂う、知学ではなく教えを養う(教養)学びを、行動を以て具現する耐力と明白な意志の醸成に他ならない。

それは、あくまで人間の資質の問題でもある。人は育つまでもなく、直感を衰えさせ、動物的感性や突破力をもつ良性のバーバリズムすら磨くことはできない。

・・・・統御を整え、機略(縦横無尽、臨機応変の具申や行動)を活かし、目的を遠望して使命を達成するすべとして「小学」的思索の援用を試みてみたい

 

ブログでは省略した引用の概要2例

知識としての古典「小学」の説明 (抜粋引用)

応用としてのトヨタの「5S」について (抜粋引用)

 

はじめの例は、習慣化された作法や礼としたものを学術的に説明しています

次の例は、トヨタの5Sで産業の効率化のために引用しています。

先の例は「知識」と「効率」についての例ですが、切り口を変えて人生考察の幅を増やし、職掌においてときに想定する死生観の感受を考えて一考察を呈します。

 

「礼」とは、以前お伝えした孟子の「四端」に簡潔に説かれています。

心を譲ることが礼の端(はじまり)であり、生まれながらもっている人間の情(こころ)と説いています。

礼は修練などで形式から始まるものもあるが、心が備わらなければ、それこそ形式的です。国家もスローガンがあり、技芸や組織集団も特有な形式があります。

現代人は、その形式に問題意識を持ち、ときに怨嗟の気持ちで反抗さえします。集団行動の必要な組織は必要において掟や習慣のなかで形式を作り、人を当てはめます。連帯や共助に必須なことでも始めは戸惑いつつも慣れてきます。理解はともかくそれを成立させるのは別の要因もあります。

職掌の応じた報酬や集団の安堵感、いずれも逆な反発要因ともなりますが、目的意識が欠けても曲りなりに維持機能は保持できますし、その意味では形式が整います。

そこで、生まれながら保持している人間の情や能力についてですが、孟子も自己と他人の存在を前提において説いています。

 

慈しみ,可哀そうと思う(惻隠)の心は「

忌まわしいもの、汚れたものに正しく向かう心「

人に我が心を譲る「

善悪の是非「

※説明のため簡意

 

                       

                弘前城

 

これらの四つの情(こころ)は誰でも備わっている。しかし心が放たれる(放心)してしまう事がある。

その原因は「我欲」であり、現代では人格を何ら代表しない附属性価値である、地位、名誉、財力、学校歴への奔走だろう。

小学での習慣性は「仁義礼智」の四字の知識や理解だけではなく、浸透し特徴ある行為として具現されなければ無用な記学でしかない。

礼」についても、無条件に心を譲る、分ける、情(こころ)が自然な行為として行われなくては、それこそ形式でしかない。

ありがとう、お世話さま、お疲れさま、などの挨拶、「分ける」に「譲る」気持ちが添えられると「分配」となり、強弱を四角四面な平等感に拘らず配慮(思い量って)「分ける」ことは何ら型式的不平等であっても「礼」の効用は計り知れない。


平ならぬもの、平すれば、平ならず」

もともと、身体の大きい人、肉体的に弱い人、など千差万別がある。暗記の得意な人、足の速い人、気が利く人、人にやさしい人、みな人間は無駄に生きてはいない。またみなが同じ人間だとは思わない。

それを、もともと平らでないものを、無理に平らにしようとすれば、不平が起きるのは当然のことだ。

だからといって制服職掌に背広を着せたり、事務の得意なものに野戦訓練などは適さない。考え方も習慣も異なるものを囲うことは有効性を損なうだろう。区別や分別も人物の器量だが、異なることを認めることも度量如何だろう。

つまり、「分ける」ことに情があれば配慮となり、言葉や形式がなくても個々の情感はふれあい反応し、全体の融和に導くことになる。

数値で比較する国力の評価はいくばくの努力でまかなえるが、目標に向かう全体の融和は情操涵養という、深層の国力に潜在する人の情感にある

形式に情感(情理)がなければ魂の欠けた組織といっても過言ではない。

それは土壇場の醜態として歴史の栄枯盛衰に記されてもいる。

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1999年 あの頃 【読者の声】特定という名の不特定--臨時暫定特定国家

2019-10-06 00:16:44 | Weblog




1999年02月17日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 1999年02月15日付萬晩報「特定という名の不特定--臨時暫定特定国家」に興味ある2通のメールが届いたので紹介したい。ひとつは使命を失ったまま存続を続ける通産省の外郭団体の実態であり、片や飲料用に転用できるからと医療用アルコールに酒税相当分が"課税"されているというとんでもない話である。


 中央官庁や地方政府の外郭団体にはほとんど世間から忘れ去られた団体が多い。OBたち の定年後の格好の天下り先であるというだけでひどい話なのに、時代錯誤の国の基準認証の隠れ蓑になっている場合が少なくない。医療用アルコールを飲んでい たのは終戦直後のモノ不足の時代である。今どき、飲酒目的で薬局でアルコールを購入する人がいるとは考えられない。こんな時代錯誤は即時、廃止すべきであ る
。【伴 武澄】

 

       

●国産OSシグマを死滅させたまま存続するIPA

 米国カリフォルニアにて、ソフト関係の仕事をしております。職場は5名だけのスタートアップベンチャーです。「特定という名の不特定--臨時暫定特定国 家 」を読ませていただきました。日本において、ソフトウェア産業もまた通産省が"仕切って"いるわけですが、やはり官僚丸出しの体制だと実感しております。

 1980年代後半に「西暦2000年にはソフトウェア開発者が30万人不足する」とか いうキャッチフレーズを掲げ、IPAなる団体を立ち上げたのは通産省です。そのIPA主導で開発された国産OSシグマは、2000年問題を待つまでもなく 絶滅した模様です。仮に存続していたとしても、2000年問題はクリアできなかったことでしょう。仕組みとしては、どうしようもない代物でしたから。

 10年ちょっと先の技術動向など読めるはずもない連中が2000年には何人の技術者が 不足するなどと豪語して特殊法人を立ち上げる。そして、そのIPAは実質上、ソフトウェア技術者があぶれて、今も立派に存続しています。いつの間にやらそ の役目はコンピューターウィルスの情報収集などに変わったようですが、セキュリティーに関する情報なら米国のCERTなどをウォッチしている方がよっぽど 迅速・確実な情報が入手できます。

 つまりは、IPAなどという団体に存在価値はないわけです。シグマOSが存続していない以上、彼らは収入源を持ってないはずです。逆にその団体が存在するということによって、納税者からのお金が流れているということが容易に推定できます。

 あるいは、情報処理技術者試験なども、同様の位置づけですよね。昭和40年代に「情報 処理に従事する技術者を育成するため」という目的で一種、二種情報処理試験からスタートしたわけですが、今や特種・ネットワーク・アプリケーション・シス テム監査などのメニューが追加されています。

 つまり、当初の目的だった情報処理技術者の育成などという理由はすでに達成されている わけです。あとは、その仕組みの維持そのものが目的となるだけです。そして、その情報処理技術者試験に合格するためには、開発現場ではまず使われることの ない知識の習得が強制されます。Microsoftのやっている試験のほうがはるかに実用になります。

 ソフトウェアに限らず「一旦たちあげた以上はなにがなんでも外郭団体は存続させよう」という連中が産業を仕切っているわけですから、私は日本の将来には悲観的です。「身内の首を切らない」ために、全員が危機にさらされる仕組みの縮図がそこにあるからです。

 だからこそ、競争原理が存在し、元気のあるカリフォルニアにて働くことを決心した次第 です。実際、こちらは面白い。自分の実力を向上させ続けないと生き残れない社会というと大袈裟かもしれませんが、会議ばかりで何も生産しない日本の会社に いた頃よりは、毎日がはるかに充実しています。(パロアルトにて 匿名希望)

 

 

    


●酒税相当分が課税されている医療用アルコール


いつも萬晩報を興味深く拝見しております。最近、2月15日号と同じような経験をしましたのでメールいたしました。消毒に用いるエタノールに酒税がかかっ ているという話を聞きまして、河野太郎衆議院議員にメールしてお尋ねしたところ、大蔵省いわく「そのような事実はない」との返答が来たそうです。
 

再度調べてみたところ、エタノールは通産省の外郭団体「日本アルコール販売」が専売し ており、医療用途に用いられるものは酒税相当分の上乗せがされていました、確かに大蔵の言うとおり酒税ではないのですが、同じ税率のものがかかっておりま す。大蔵が知らないはずはないのですが、酒税がかかっているかと聞かれたのでそういうことはないと答えたまでだとのことでした。

 エタノールの販売価格には一般価格と特別価格の二通りがあります。一般価格は医療用などの価格、特別価格は工業用として酒税相当額の上乗せがないもので、 両者には大きな価格差があります。

95度のエタノールの場合、医療業者は1リットルあたり966円で買っており、工業用途で使う場合は146円です。この差額820円が酒税相当分になります。本体価格を100とすると酒税相当額は84.8% 税率にすると560%以上に相当します。

 一般に使われている消毒用のエタノールは若干濃度が低いものの酒税相当額が81.5% を占めていると聞いております。先に述べた特別価格は法令で定められた物品の製造用途に使用するアルコールに適用される価格で、残念ながら消毒用エタノー ルは飲料用に転用可能との趣旨で適用除外されております。

 液体消毒剤であるアルコールにはエタノールの他にイソプロパノールがあり、前者の方が 広範囲に作用します、後者の酒税相当分の上乗せはありませんが、毒性があるため口腔内では使えません。致死量が定められ、消毒に用いられる薬剤にほとんど の医療従事者が知らずのうちにこんな酒税まがいのものを取られているのは納得がいかないものであります。またアルコールは多くの医薬品の製造に用いられま すが、一部を除き一般価格で納入されていると聞いており、価格に上乗せされております。

 消毒用のアルコールは飲料用として転用できるから酒税相当分をかける、しかも文句の出ないように大蔵ではなく通産が価格上乗せをすると言う構図です。215号をみていて根は同じだなと思ったのでメールさせていただきました。

(東京都小金井市、医師)

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2011 あの頃   官僚の「ご説明」の復活

2019-10-03 08:05:52 | Weblog

岩木山神社




伴氏は回顧する

「共同通信の看板をもって政治家や官僚、企業人を取材すると、いつの間にか業界用語や財務省の専門用語に慣れてくる。すると、なぜか一人前の専門家になったように錯覚する。それは国民目線と云われる下座観を失うことになる。それが【マスコミ業界人】として生計を食むことと当たり前なこととなり、社会に対する問題意識も乏しくなる」



萬晩報主宰 伴 武澄


 東日本大震災のための第三次補正予算が国会を通過し、復興債の償還期間を25年とすることで与野党合意した。TPP参加は曲折を経たが野田佳彦首相が大勢の慎重論を押し切ってハワイでのAPECで参加表明した。

 この1週間、相次いで国家の重要政策が決まっていった。野田首相の手腕ではない。官僚の手際である。政治の社会に再び財務省ペースが復活した感がある。このまま行くと、12月の予算編成に向けて消費税増税を含めた税制改正の過密スケジュールになだれ込んで行くような雲行きにたってきた。恐ろしいことだ。

 思い出すのは11月から年末にかけての次年度予算の編成である。新政策を検討する各種審議会の報告が次々と出され、省庁はそれを「大綱」という形で政策化する。圧巻は自民党税調と政府税調のハーモニーである。これも相次いで発表となる。次年度の税制大綱が決まると、予算編成が本格化する。

 本格化といっても財務省が原案を発表した後、復活折衝(局長級、次官級、閣僚級)が3日ほどあって政府原案の発表とあいなる。その間、経済部の記者はそれこそ寝る間がない。というより考える間がない。

 意図的かどうか分からないが、日替わりに次から次へと重要ニュース、つまり一面トップの記事書いた経験からすると、当時の大蔵省の陰謀としか思えないスケジュールなのだ。

 霞ヶ関の官僚はこの予算編成というゴールに向け大蔵省が書いたスケジュールに乗って、4月からベルトコンベア的作業を強いられる。マスコミもその被害者だし、考えようによっては政治家も被害者なのかもしれない。


 このベルトコンベアを動かす潤滑油の役割を果たすのが官僚による「ご説明」である。主に政治家に向けたものだが、大物記者にも「ご説明」部隊はやってくる。だいたいが課長クラスである。よもやま話から始まって、なぜこの政策が必要かということをてきぱきと説明する。

 大方の政治家や新聞記者はまず霞ヶ関の幹部がわざわざ自分一人だけのために足を運んでくれることに感動する。背景説明の中に公表されていない情報でもあれば、なにやら仲間になったような気にさせられる。ここらの心のくすぐり方が巧妙である。

これを官僚によるフォーマットと呼んで来た。一度思考パターンが財務省的になるとなかなかこれから抜け出せない。そもそも多くの政治家や記者は系統的に政策を考えるなどということには慣れていないから、ご説明を受けると自分が異次元にワープしたような気になる。つまり頭がよくなった気分にさせられるのだ。







岩木山の麓 嶽温泉


筆者考

消費税、年金、介護など、内政問題に官僚が行う「ご説明」成果で多くの法案が転化した、政治家のそれは変節である。外交は米国や中国への「ご説明」と意向のお伺い。いよいよ中国封建の「宦官」に似てきた。その後は亡国だ。

現代の亡国は宦官の食い扶持身分は担保され、より狡猾な状況にある。ソ連はノーメンクラツーラという特権階級、中国は共産党員、我が国は公務員・官僚特権、江戸も御家人の弛緩で衰亡した。その後は軍人と官吏の専横が国家を衰えさせた。この国の「親方日の丸」体質は抜けきれない。これを国家を覆う暗雲というのだろう。

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