まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

当世知識人の「言、二貨無シ」  再

2023-10-30 08:13:31 | Weblog



言うことに二貨はない、つまり「掛け値の無い値段」ですよ、という意味だが、二貨はないが、三貨、四貨は有るとのことだ。


 良いも悪いも無い、面前応答を楽しんでいるのである。

『大人(タイジン)、まけとくよ』
 終いには半値、七掛けまで値下げして、『大人には参ったょ』、と破顔笑する店の主人の愉しそうなこと。ついつい要らぬものまで手を出してしまうことがある。

たとえは変わるが、時の経過に集積された事例を根拠とした肴をネタに、言や文という表現方法によって虚を実のように思い込ませる技を生業にしている知識人と称する一群がいる。

それは、単なる無知と有知の違いだが、土壇場の勇智にならないのが常である。

縁と機によって修得した「知」が、いつの間にか「識」となり、食い扶持の「職」となったものたちだが、真の知に格たる教養の有無を問うわけでもなく、物珍しい異なる視点で誘導する偽情報や、無知は悪と錯覚した恐怖の扇動は、単なる物知りの商いでは済まなくなっている時世でもある。

ことさらに、利学、術学がもて囃されるカルチャー世代だが、一方、撒餌に跳ねる雑魚の一群を食い扶持として名利を貪る卑しい売文の徒、言論貴族を輩出している現状もある。まさに、゛言、二貨無シ゛の様相である。







              




以前のことだが、北京の商店の目の付くところにぶら下がっている札のなかに、゛言、二貨無シ゛という売り文句が、ことさら大きく掲げられていた。この品物の値段は間違いなく安い、変ることのない真実の値段だ、ということだが、そこは交渉やり取りによって客の目方(財力、知力)を量りつつ、客を意のままに扱う醍醐味を遊戯のように愉しんでいる人たちである。いたるところで駆け引きが行われているが、もちろん゛言、二貨無シ゛などはどこかに忘れたかのように口角泡を飛ばして言を駆使している。

つまり゛二貨無シ゛だが、三貨、四貨はあるということだ。また二貨も三貨も四貨も、至極当たり前にナルホドという理由がつく。労の大きなものはクチである。耳で聞いて口から出る、まさに口耳四寸の学である。耳と口の距離四寸の商いである。

走狗に入る物知り知識人も、名利のためにはその四寸を磨かなければならない。講演と称する漫談も巧言、麗態を駆使して、゛二貨無シ゛を説いているが、その錯覚した言の心地よさは女郎屋の客引きに似てなくもない。

それと同様に、女性の貞節を飾る言葉に、゛ニ夫に交エズ゛とある。
まさか北京の商人とは違うとおもいきや、近頃では三夫も四夫もあるらしい。
本能のなせる業か、色、食、財を選り分けて夫々を、若い男、旦那、小金もちの老人と、まさに哲学的?に時と存在に泳いでいる女性が多くなった。
北京商人のように二貨の大義?を取り繕って分別した欲望を得ているが、あのおおらかさはない。

男にとっても面妖と姿態に狡猾な意図を隠した女性の本意には頓着することもなく、小心にも浮俗に漂いながら心地よい場面に身を隠しているようだ。
悪妻、空閨より勝る、とは恐妻家や濡れ落ち葉と揶揄される男の悲哀を隠す慰めのようだが、近頃では内心、空閨のほうが望ましい姿かと思う男が増えているようだ。

(空閨・・・一人者)


ことに昨今の経済状態と就労事情の影響は、気概とか気骨といった懐かしい言葉にある男子の姿が衰え、いや枯渇しているかのようである。

そこは、「言、二貨無シ」を夫婦の大義として謳いながら、姑息にも蓄積された名利の権利交錯が働いて、゛謀って動ぜず゛の怠惰な宿命論に身を委ねて、男妾(ヒモ)のように生息している姿もみえてくる。





               





一時「青春とは云々・・」と外国詩人を名言としてを地位も名もある老人たちが大唱していたが、一世代前の諦観と無常観に比べて、なんとも覚悟のない哀歌のように聞こえる。
そんな輩に限って、大英帝国衰亡に表れた民情の嗜好である、温泉、旅行、グルメ、低俗なカルチャーに囚われた思考範囲でしかない。

また、それを売文、言戯によって食を得ている浮俗の知識人を取り込んだ商業プロパガンダは、それに群れ集う人々の群行群止を促し、社会に大きな流れを作り出し、一過性のはやりもの文化を形成せしめている。

俯瞰なき知識人の堕落は民情を惑わし、社会を支える深層の力である男女の情感をも衰えさせ、身勝手な功利に導いているようだ。売るも、売られるも正に「言『ハ』二貨無シ」の様相である。

「話」は舌が言うと書き、「語」るは吾を言うと書く。世は「ハナシ」ばかりである
名利をおもい謀って「ハナシ」を食い扶持にする知識人の老害もその表れでもあろう。
たしかアダムとイブの禁断の実は「知」だった。
まさに、「智は大偽を生ず」とあるが、大義を唱えて利を貪るような当世カルチャーの餌食にならないよう呉々気を付けたいものです。
         「智は大偽・・」(自らを虚飾し相手を偽る、用学としての智)官僚答弁など

「利は智を昏からしむ」  (金ばかりを目的とすると真の智が衰える)

「小人の学は利にすすむ」 (小者の学びは地位や金に向かう)

どこか解りやすいハナシでもある。

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衰亡の歴史を感知する習近平の国内政策   その①

2023-10-24 15:17:34 | Weblog

 

のごとは、是は是,非は非と分別されなければならない。

ロシアや中国の行うことはダメ。米国や西欧圏の唱えることは善。

あるいは独裁国家だから自由がない国民は可哀そう、自由のある米国や日本は幸せとの感覚も同様にある。

もしも、そのような印象でみれば、努力更新すらすべて歪んで感覚でしか見えない。

筆者がはじめての訪問時に遭遇した天安門事件の頃、当時、日本人の浅薄な中国への印象は、汚い、遅れている、自由がないと。地方から都会に来て、しばらくすると同郷人を田舎者と嘲ることに似ている。

あるいは戒厳令下の小学校訪問での印象を帰国後説明した際のこと、休み時間は文具か机の右側に揃えられ、パソコン教室は種類の異なるメーカーのディスプレイに白い布で覆われ、整理整頓、清掃が行われていた。なによりも教師に対して尊敬し従順だった。天安門では「下台」(腐敗した高級幹部は辞任しろ)だった。そう説明すると、共産主義だからだと。

デモの学生はビラを配布して庶民は大事そうに受け取り読み上げると何重にも人の輪ができた。

日本の政党主催のデモは一日の手間をもらい、配布したものは道路や公園を汚した。唱えるのは待遇改善、政権批判だが、日本の労働貴族が主催するデモと中国の高級幹部の腐敗を訴える国民デモ(軍人、官吏、労働者、医者、学生など職域の服装で参加)、まさにその場にいなければ解らない実感だった。

筆者の周りの声は、遅れている、共産党だから、中国人は他人のことは考えない、道路など掃除しないと、侮ったり懐疑的な内容が多かった。

だが、帰国後、直ぐに「日本はいずれ負ける」と題して起稿したことを覚えている。

 

派閥名「宏池会」は隣国古典の倣いだ。

後漢の学者・馬融の「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学安岡正篤が命名したものである  (ウィキペディアより転載)

 

民衆は「力」の源泉を財貨として成功者を偶像化するが、憧れ、自己期待から嫉妬、失墜を願うという、これも循環思考として劣性な意識がはびこっている。

劣性は経済においてもリターンの速い投資に向かう。それは、現世、治政、他人、将来を信ずることなく、いままで信頼していた近親縁者すら遠避けるようになり、国家(中国共産党)なるものへの帰属意識すら、単なる利殖のグランドであり、危うくなれば他国へ逃避する。稼ぎのなくなった大地からは移動する、それは文化圏を問わず地球の表皮の至るところに棲む柔軟さはある。

財が貯まると三分割して、日本、香港、米国、本土に分散し、子息は留学先の永住権を取得、万一の棲み処を企図している。

それゆえ、現世で、大陸で、機を見て際限のない財の集積に邁進する。

 

以上は切り口の異なりはありますが、さまざまな情報が到来し、多くの事実と推測をよんでいますが、人間の織り成す行為は古今東西、何処も似寄りの内容が情報空間を飛び交っている。

憧れるもの、嫉妬するもの、義憤を感ずるもの、身を引き締めるもの、さまざまですが、ここでは、あらゆる場面で度々言辞を発している衰亡の兆候、そのとき表れる人間の姿(とくに官吏、政治家)、次に進んで亡国に至って表れる現象などを、人間の誘引、弛緩、劣化、堕落、没落として、それを感知なり歴史の事績から読み解く為政者の施策として、中国の政策(対策)の流れを例に考察してみることにしたい

また、わが国の政治担当者、行政官吏、大衆の姿を比して考える縁としたい。

 

 

明治維新では文明開化、近代化の範として標された資本主義、大戦後の民主主義、現世流行りの新自由主義、理屈は合っても国民には馴染まない、いや解らないが馴染まされているのが現状だ。

そして「釜中の民」のように、徐々に衰退することも感知せず、茫然として他の目新しい流行りごとに目を奪われている。

与えられたものは視るが、広く深く考えなくなったといわれて久しい。

しかも、動物のように群れになって動き、止まるが、実態として連帯は融解し孤独は進捗している。

安全・安心と叫ばれているが、自由度は狭まり国民の情報収斂は官民を問わず進捗し、かつ商業的流用で内心まで露呈されている。

情感は歪み犯罪は多岐にわたり頻発し、近親の関係まで虚偽と糜爛な関係に陥っている。まさに「人心は微か」というべき、体感不安と危険性がいたるところに漂っている。

政府はスローガンを掲げて整風ムーブメントを唱えるが、周知されることも乏しく、どんよりとした雰囲気が世を覆っているようだ。

懐が豊かになれば解決するか、そうでもないらしい。

 

桂林郊外

 

中国事情

北京の古老が呟いていた。

もともと弱いものが強いものを倒すには機略、謀略、つまり欺き、そして仮にも対象から信頼なるものを得ることが鍵となる。

我が国は政治の腐敗と堕落で列強に踏みにじられた歴史がある。戦争のあと腐敗した国民党は自ら滅び、台湾に逃げた。解放と名をつけた共産軍は農民を要として当初は国民党より政治を行い民の歓迎をうけた。

あとは衰退した社会は外からの侵入に弱い、とくに北からのソ連だ。

 

国民党が強かったときは地続きのソ連に援助を求めた。信頼を得るために同じ顔をして装った。人民にはよくわからない、馴染まないが、共産主義を看板にした。ソ連の農業政策をまねて人民公社をつくったが、陽が昇ったら農地へ、沈んだら戻る、勤勉な民は「続くはずはない・・」と、時を待った。

ソ連でも新しい思想なので色々な人が様々な意見を言い始めるとまとまらなくなるのは何処でも同じだ。

スターリンは理屈を言うもの、反対する邪魔者は、みな殺した。毛沢東はそれに倣った。

意見のあるもの、言いたいことを云いなさいと号令して(百家争鳴)、それらが判ったらみな捕まえて殺してしまった。

他の共産主義国もそれを真似した。ポルポドのカンボジアも毛沢東に倣った。

大躍進の号令で村々で小さな溶鉱炉をつくったが、粗悪で使い物にならない。スズメが稲穂を食べるといって全国でスズメ退治が始まったが、害虫が増え不作になり餓死もでた。4000万との数字がある。

毛沢東が臭九老(九儒)といって蔑んだ知識人も蔑まされた。身分を十に分け下から九番目の鼻つまみ者の知識人、十番目は乞食だ。その頃はタクシーの運転手よりか教員や学者は給料が低かった。

色々あったが、鄧小平の開放も、共産党が人民から預かった権利を手放したに過ぎない。

さて、そこからが舵取りは難しい。

もともと看板への面従腹背が起きた。政府の政策には、人民の対策が有る。四角四面の政策では生きてはいけない。だから鄧小平が四つの近代化(四化)を云えば、あれは四つの話(ハナシ)と嘲笑する。化も話も発音は同じ。小平のシャオビン、小瓶も同じ音、ビンを壁に投げて割るものもいたが、ひそかな楽しみだが混乱は好まない。

いくら共産党でも権力をとれば国民党と同じ腐敗がはじまる。まさに色、食、財への欲求だ。それも際限のない欲望が亢進する。昔から一人の高官が一族から出れば、一官九族に栄えるといって、親兄弟だけでなく一族郎党が繁栄するようになっている。民もそれに倣う。

日本に行ってひと稼ぎするとなれば、親類縁者は渡航費を集める。それは投資のようなものだ。隣の朝鮮民族もそれに倣っている。

財は「貝」と「才」、才能のある奴が貝(こやす貝・昔の貨幣)を貯めることができる、つまり学問の目的は財を蓄えることに目的があるということだ。

だから孔子や孟子は看板にはなるが、単なるハナシなのだ。

宦官の試験でも聖賢の古典だが、目的は金しかない。「昇官発財」

それが官僚になり、裁判官になり、教師になる、世の中は裏の方が広いし深い。

それが、実利であり、隠すには都合の良い看板がある。孔子先生、孟子先生だ。

日本の役人もそれに倣った。着実に、勤勉に、忍耐強く、いたるところで蟻塚をつくった。

だが、少し利口なのか政治家を騙してその担保をコソコソと法律にした。どこの国も逃げたり、守ったりするのは不埒な役人の姿だが、多くは気弱な小人だ。その点、やることも、貰った賄賂も共産党幹部は大きい。日本は小泥棒のように税金をくすねたり、勝ってな法をつくり、政治家を交えた還流だが、中国は数千億、一兆円を超えるものもいる。そして仲間に分け、親族も潤う。(一官九族に繁える)

 

 

「生きる、活かす狡知」

佐藤慎一郎氏は云う。

満州崩壊のとき午前中までは満州国旗が掲げられていた。だが日本が負けたとの報が入ったとたん青天白日旗が翻った。触ると今までと違った良質な綿地の旗だった。聴いてみると、東北軍の張学良だったころ少しは長持ちすると思って作った。

他に持っている旗は、ソ連国旗、解放軍旗、満州国旗、日本国旗だ。

それぞれがこの地に来たら、用意している旗を思いっきり振った。

忍耐力。力の存在を感知する。色、食、財への本性。実利の追求。政治との絶妙な間(マ)。地球の表皮に何処でも棲める天下思想。それらは穏やかで柔和な応答に隠された、いや当然のごとく陰と陽の合理と厳存を熟知し、表裏に戯れる鷹揚さがある。しかも他者は、それこそ人間なのだと認める姿がある

それは「上善如水」老子(一番上手い生き方は水のように生きることだ)

雨が小川となり,大海になる。その流れは万物(生物、農作物など)に潤い、泥水や清水に容易に混じる。どのような形(政治体制、環境)にも納まり、大河となって海に注ぎ、天に昇って雨となる循環を人生に模した生き方。

しかも、大海を民、浮かぶ船は皇帝、為政者として、海が荒れれば船は転覆させることができる

 

では「信」は何処にあるのだろうか。

人情は深く、命は儚いものだとも思うような達観もある。

逆に力を持てば、なかには夜郎自大になり群れ(班や会、閥)となって異郷を侵食するようになる。

 

つづく

一部資料写真は関係サイトより

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至る処 青山在り 07 5/31 あの頃

2023-10-24 01:41:17 | Weblog


 

人は生地は判っていても、死に場所までは解からない。ただ三島氏のように死に場所を決めて、その自裁する意味を最後の言葉として発する華々しさもあれば、一瞬な事故や他人から殺害されたり、あるいは、自宅の床や病院で死を待つ最期もある。

ここで記す革命家の死を想定した覚悟は、たとえ誰にも見取られない側溝泥水や異郷において斬首されることも想定しているが、彼らには肉体消滅に勝る覚悟が本懐となっている。

死生観など望むべくもない昨今、説法や語りもの、あるいは医学的に骸となった死に意味合いを持たせ、知った、覚えた、類の知学と理解はしているが、生命や行為に死というすべてが無に帰す時と存在、あるいは生きた証を利他に提供する気概は、キナ臭くなった近未来に新たな課題として現代人に問いかけている。

謳われる平和や自由は、どこに、本当に在るかも知らず説や論として漂っている。理念や共同目標とするなら然りではあるが、虚構に近くなりつつある浮俗においては、みなが忌避する戦争だけでなく、善男善女の社会において競い、争い、急ぎ、成功価値を求める世界において淘汰という姿で現出している。そこには長命や死期をビジネスとして考える者も多くいる。

誰のせいでもない。互いに相乗、相関して舐めあい、ときに排している人の問題に帰結する。

以下の章は、不特定多数の人間の利他に自らを靖んじて献じた歴史の一コマではあるが、明治の日本人が隣国の近代化に挺身し、列強の植民地の頸木から解き放たれた暁には、国境を撤廃して協力してアジアを再興しようとする人々の逸話です。そのアジアの意志は決して偏狭にならず、西洋と協力して世界平和に導く大経綸でもありました。

世界の中のアジア、その地域の連帯と協調は歴史の縁として、現況の姿を別の切り口で考える糧ともなるのではないでしょうか。

 

         山田純三郎 孫文    

 

ブログ版「請孫文再来」 kindle版「天下為公」 寳田時雄著 より抜粋

■孫文が観た「真の日本人」

 中華民族から敬愛をもって国父と称される孫文は、近代中国の魁になった辛亥革命の先導者であり、植民地として抑圧されたアジアの解放に多くの日本人が賛同し革命に挺身している。その孫文は側近の山田純三郎に、「真の日本人がいなくなった」と嘆息している。

 唯一日本人として孫文の臨終に立会った純三郎、その兄良政もアジア諸民族の解放を求めて孫文に従っている。運動会で使うといって日本で作らせた革命党の旗を一番先に押し立てたのも良政である。
 革命当初の戦闘において恵州で亡くなり、その敢闘精神に感動した孫文は頌徳碑を建立して、その末尾に「東方において此の志 嗣ぐものあらんことを」と撰書している。

 孫文は側近純三郎に何度となく「満州は日本人の手でパラダイスを築いてロシアの南下を抑えたい。しかしシャッポ(帽子)は中国人だ。そして中日提携し西欧に蹂躙されたアジアの抑圧された民族を解放し、許されれば中日が国境を撤廃してでも未来永劫に仲良くしよう」そして、「そもそも辛亥革命の端緒は明治維新であり、辛亥革命はその後果である」とも述べている。

純三郎の懐顧には必ず「大きい。だから孫さんに参ったんだ」と、続くのがつねであった。

事実、山田は石岡という日本名を装った蒋介石らとその孫文の意志通り満州工作に二度も向かっている。失敗して帰ると顔を真っ赤にして報告する蒋介石の真摯な態度を見て、秋山真之や満鉄理事の犬塚は「こんど何かあったら応援しよう」と約束している。


 

児玉源太郎

 

当時、活躍した日本人の多くは今の官制学歴ではなく、塾、藩校、あるいは郷学において学び、その独立心と死生観、目的の確立といった学習成果は、草鞋、髷、二本差しが、三十数年を経てロシアの無敵バルチック艦隊を撃滅していることでも分かる。

要は目的の共有、集中力、緊張、突破力を縦横無尽、臨機応変という「機略」を覚悟を添えて養う人物の養成だった。多くは数値評価の学歴ではなかった。共通意識は目的を貫徹する強い意志と大きな目的だった。
 それは抑圧されたアジアの光明であり、有色人種の勝利としてアジアの民衆は挙って歓喜した。孫文、アギナルド、ケマハパシャ、コンディ、オッタマ等が独立蜂起し、戦後インドネシア独立に参戦した残留日本兵の姿にもアジア全体を俯瞰した連帯をみることができる

 秋山真之、児玉源太郎の智謀もさることながら、乃木の敗者に対する労りの情、後年台湾施策における後藤新平の忠恕と胆力など、勤勉、正直、礼儀、忍耐に培われた平等互恵の精神は孫文をして、「真の日本人」と呼ぶにふさわしい人物の姿があった。
 

台湾民生長官 後藤新平

就任後、先ず初めに手をつけたのは、植民地官吏として緩んだ日本人一千人余りを罷免、内外の俊英を採用して台湾の礎を造っている。

 

援助を請う孫文に対して当時、台湾民生長官であった後藤は「孫さん、革命が成功するかしないか分からんものに借款はできない。対岸のアモイに台湾銀行がある。その地下には銀貨がある、革命なら奪ったらいい」といって、「ここにあるよ」とばかりに靴で床を何回も鳴らした。

 敗戦を迎えた日本の帰国者数百万を「怨みに報いるに徳をもって行う」と安全に日本に送り届けた蒋介石に、後日我が国の政治家が礼を述べたところ、
私はいい、君たちの先輩に感謝することだ」と叱責したという。ちなみに孫文から次の領袖を問われたとき「蒋介石君が適任かと・・」と純三郎と応えている。孫文側近の山田の許しがなければ蒋介石ですら孫文に会えなかった関係である。

 

最近、南西諸島(沖縄等)の領有について当時の新聞記事で蒋介石が断ったとあったが、それが本意だろう。その蒋介石と新聞記事の齟齬は、国民党の情報機関は国際問題研究所(構成員・コミンテルン)に操作されていた事実をまさに物語っているといってよい。

 孫文が信頼しアジアの光明として期待を持ち、辛亥革命を闘った同志である純三郎、良政、あるいは多くの明治人が顕した列強に蹂躙された異民族への死を賭けた熱情は、「真の日本人」への感謝として、革命同志蒋介石の言葉によって戦後の日本に問いかけているようだ。

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対支二十一箇条要求をたどり観る 2009 12 再

2023-10-22 04:04:29 | Weblog

 

2021 4/13 日刊ゲンダイ連載で保坂正康氏が、対シ二十一カ条要求は大陸シナの植民地化と書いている。

以前、安岡正篤氏道系の埼玉県東松山にある郷学研修所で保坂氏とお目にかかったとき「国際問題研究所」の私冊子をお渡ししたことがある。それは当事者から直接、佐藤慎一郎氏が聴取した内容である。

泥沼化、日本軍部の横暴、北進から南進、政治の動向、いろいろ記載するも、その謀略企図や、それによる情勢の変化などは参考とされなかったようだ。国民党幹部の聴取もある中で、蒋緯国氏の記述もあるが、来日時には佐藤氏と自身の出生についての秘話など語り合っている。

また、氏の著書にもある孫文と山田兄弟の逸話は、山田純三郎氏子息の保管していた資料からの転用記述ではあるが、この資料は行動を共にした佐藤慎一郎氏の膨大な資料の一部子息に寄託されたものであり、多くの関係性や史実にある臨場事実を複合したものとしては不足感があるようだ。

今回の稿、袁世凱に宛てた二十一カ条要求についても、同様なことが散見する。

 

    秋山真之

 

本章

袁世凱政権にむけた対支二十一か条要求というものがある。いまでも国辱として中国の歴史認識に刻まれている。
もう一つ孫文と交わした日中盟約というものがある。アメリカの公文書館で発見されたものだが、その署名孫文と側近陳基美、日本側は満鉄理事の犬塚信太郎と山田純三郎である。また起草は外務省の小池張造と秋山真之があたっている

その模様は以前NHKのドキュメントでも紹介されているが、その内容は日本政府が袁世凱に突きつけた要求と極似している。

この署名がされた場所は頭山満が孫文の隠れ屋として用意した隣家であるカイヅマ邸の奥座敷である。そこは頭山邸を通らなければ入れない処ではあるが、当時の官警は分刻みで事細かに監視している。

その状況は、まず山田が呼ばれ、次に陳基美が入室する。盟約本文は山田が持参している。
そこで孫文、陳基美が連署、そして山田が署名し後刻別の場所で犬塚が署名している。ドキュメントにはその時系列はないが筆者はそう見る。






北一輝 陳基美(右端)



なるほどと思うのは、先ず山田が呼ばれ次に陳が入る。署名後、今度は陳が先に退出し、暫くして山田が退出する。通常、そのような重要事案なら先ず国籍をともにした陳が入り、そこに山田が呼ばれ署名し、その後陳が退出するのが自然だろう。

その陳基美だが上海の山田の家で袁世凱の刺客に撃たれ亡くなっている。
《その家は世界中の華僑から送られてくる援助金や武器弾薬を受け入れるようになっている。もちろん責任者は山田だ。それを都度乳母車などに革命党に運び込んでいる。そのとき山田は二階にいた。突然の発砲で階下に降りると陳は袁世凱の刺客に襲われ撃たれた。抱えていた民子を床に落としてしまった。それ以来民子は不具(身障)になってしまった。ちなみに山田の子供は民子と国子、つまり民国だ》    
佐藤慎一郎  談

下世話な話だが彼の国は同民族を信用していないのか、それとも「実利」については民族を問わず選択肢は、゛今、必要とする゛ものなのか。

あの満州皇帝の溥儀は工藤鉄三郎を皇帝秘書長としている。関東軍への盾なのか工藤も公私にわたって溥儀に仕えている。










工藤は津軽の板柳に生家が現存している。青年期に志を立て樺太に渡り結氷をまって徒歩でロシアに渡っている。司馬遼太郎の「北のまほろば」にある十三湖の安東水軍は、今と違い日本海側が表日本だったころ大陸と盛んに交易をしている。津軽は進取の志を持つ独特の人間をつくるようだ。

その工藤は甘粛省まで行き、しかも同様なことを再度試みている。
溥儀との端緒は食事のときに毒を盛られているかと躊躇していたとき、工藤は一番先に手を付けて平然として食した。溥儀は感心して「忠」という名をつけている。つまり工藤忠である。甘粕が迎えに来るといったら「あの、人殺しが・・」と頑として動かなかったが工藤は容易にできた。  (佐藤慎一郎氏 工藤との録音記録)

だからといって、あの忌み嫌った関東軍と同族日本人を最も重要な位置に付けるだろうか。そう思うのがもまた日本風である。
フビライも北京で見つけた色目人(異民族)の耶律楚材を宰相に就けている。

たしかに異能だろう。また幕末維新もそのような異国人がオブザーバーに就いたが、中枢の側近には付けられない独特の「陋」というものがあった。

山田の兄良政は恵洲の戦闘で亡くなっている。しかも当時は外国人だったら助命されたものを、あくまで「中国人」と言い張って斬首されている。果たしてそのような気風は日本人だけなのだろうか。










資金も武器もみな上海の山田を経由している。戦後、蒋介石は満州の国内財物の処理を全て山田に委ねている。もともと財利に鷹揚な山田のこと、財閥、軍官吏、浪人の詐欺的搾取にあいうやむやになってしまったが、革命の先輩である山田を蒋介石は問い詰めてはいない。ただ、孫さんの指令で満州問題に行ったときのことを、「そろそろ話してもいいだろう」と呟くと蒋介石は「そうしたらいい」と全幅の信頼を寄せている。









戦後、訪台した国会議員が大陸帰還の礼を述べると「それは君たちの先輩に向けたほうがいい」と中国革命に挺身した日本人を民族の歴史に刻むように促している。

満州問題とは孫文が唯一日本政府に歓迎された鉄道全権で訪日した際、東京駅の喫煙室で桂太郎と会談した内容の遵守であった。
「・・・満州を日本の手でパラダイスにして欲しい、そしてロシアの南下を抑えて欲しい。時が許せば、シナと日本は国境を撤廃してでも協力していきたい・・・」

ロシア革命の領袖ゲルショニとの会談では
「シナの革命が成就したらロシアの革命に協力して欲しい」というゲルショニには頑なに断っている。「われ、万里の長城以北は関知せず」との信念である。それは数百年に亙った清朝満州族を万里の長城以北に駆逐して漢民族国家をつくるという革命本来の目的があったからだろう。

一次革命成功の宣言にはその勢力圏を長城以北にまで言及しているが、このとき孫文はハワイに滞在して関知していない(山田談)。これをペテンと称し、かつロシアと結ぶことを裏切りというが、ロシアに向かわせたのは孫文を相手にもしなかった当時の日本である。









                

                  アヘン戦争




そして日本と協力して白人の植民地に喘ぐアジアの民を救うという大経綸があった。そこに日本朝野の志士達が協力を惜しまなかったのである。
もちろん、あの秋山真之もその一人だ。山田の「国おもうこと国賊」と題する論文に秋山将軍のことが記されている。

「戦争の後、秋山将軍は神かかって虚ろだったと人はいうが・・・」、戦争の美酒に酔う国内よりまだやり残していることがある、ということだ。
東郷さんでさえ明治神宮の参道を頭を垂れて歩いていた、世間は凱旋将軍のようではないというが、児玉も間もなく亡くなっている。








戦争はまさに天運というべき辛勝であった。数多の兵も亡くなっている。浮かれる軍部と民衆の行く末を彼等は見据えていた。秋山はこの勝利をきっかけとしてアジアの諸民族に勇気を湧かせて植民地の頚木を自らが取り去る自助の心を持ってもらいたかった。
その端緒が中国革命の成就によって虎視眈々と狙っている西洋列強の盾と願っていた。
それゆえ巷の官位褒章を願う処世のものからすれば、理解しがたい人物に見えたのだろう。

中国人にこう云われた事がある。
<日露戦争ではなく「亜細亜解放戦争」とすればよかった。皇国の興廃・・は、亜細亜の興廃は此の一戦にあり日本海軍はその目的のために・・・、そのほうが日本にとっても近隣にとっても実利になったはずだ。四角四面の軍人はともかく、そういう智者がいなかった。まことに惜しいことだ。>

つまり、日本は対ロシア戦争を日露戦争と呼んでいるが、秋山氏は白人の植民地政策に喘ぐ亜細亜民族のアジア解放戦争と考えていた。単なる日本防衛ではないということだ。
乃木も朝鮮の子供に「他国の軍隊がこの地で戦うことは忍びないことだ・・」との意を語っている。
今でもそうだろうが、資源や宗教や行きがかりの戦争が絶えないが、縁も微かな人々が命令によって殺し合いをした果てが勝者としての美酒を交わすだけでは平和とはいえない。

平和はpeaceというが、本来は力の強いものが弱いものを平定することを指していう言葉だ。中国ではこれを「和平」という。平和とは戦争と戦争の一時の間(あいだ)を言うのである。本来は未来永劫「安寧」「太平」だろう。これは文字解釈をいうのではない。その真意を理解する人間達の行為だからだ。つまり彼等はVサインではなく敗者に対する哀悼と民族への忠恕だったからこそ、当時のアジアは日本を光明として倣ったのだ。
余談だが、カンボジアのPKOの隊員がバスの窓からカンボジアの人々に向かってV
サインをしていたが、乃木や秋山、児玉はなに思うだろうか。

日中盟約はその日本人の連携が帝位を窺った袁世凱政権に向けられたのである。それゆえ、あのメンバーだった。現代中国人識者でさえ「孫文を考え直さなければ」というが、何おかいわんやである。付け加えれば袁世凱も人物だった。氏の詠んだ漢詩は日本人がみても胸を打つ素晴らしいものだ。彼も愛国者だった。







解放を謳った共産党ですら専制独裁を描いたように、砂にたとえられるように纏まりのない民俗、あるいは特徴ある性癖を読み取る為政者は一極専制しかこの国をまとめられない、と考えるだろう。民族独特の力の論理は「力こそ善」であり、良し悪しはその後の問題と考え、また力や自然に対する諦観は各々独自の世界観を有している。いくら複雑要因を以って構成されている「国」といえど、連帯と帰属性がなければ意味が無い。

ただ、首領にふさわしい、゛らしさ゛はある。袁、孫、毛、もそれらしいものがある。それは後の縁や能力という人爵、でなく天運を宿命的に保持する天爵のようなものだ。
人々は、゛それらしい゛人物を推戴する。継承皇帝ではないので尚更なことである。

山田、小池、秋山、犬塚、夫々立場は異なるが中国革命の領袖孫文と一体になった行動があった。犬養、頭山、宮崎、萱野、末長もそうだ。
孫文は大法螺吹きでペテン師、浪費家で女好きという評がある。ネガティブな証憑ではない、その通りだろう。ならば秋山も山田も頭山も騙されたオッチョコチョイだったのか・・・
それとも小説という嘘実読み物である「坂の上の雲」ではあるが、孫文にだまされた愚者のような登場人物を描いたものなのか。



             



革命家や歴史上の英傑は大法螺吹きといわれている。後藤は大風呂敷だった。騙されたほうはペテン師というが一方は戦略家だ。ただ負けるが勝ちの時間軸が永いかどうかの問題だ。勝たせて、奢らせて、弛緩させて、為替を操作したり外来のルールを歓迎する国は戦わずして軍門に下る。これこそペテンを知らぬ輩ではないか。浪費家、女好き、応答するに馴染まないことだ。

ただ、あの頃の人物はアジアに普遍な目標を描くことのできた柔軟なグランドを闊達に動いていた。家計のごとく国家の財布を按配するような男子とは違い、豊かな識見を涵養し、異民族だろうがその経綸に賛同する実直さがあった。データーや情報に惑わされず意志を発信する精神と肉体的衝撃を超越する「他」への安寧の希求があった。

それはノスタルジック、センチメンタル、懐古趣味、という部類ではない。人間を知り民族を知るとき普遍な姿として孫文的(的 のような)人物の再復が実利的国家経営にも必然とされるだろう。ことさら孫文を誇張するものではない。己が異民族にも普遍な意志をもち、他の文明圏との調和を描ければ自身もその「的」にも当るだろう。

もちろん大ホラ、ペテン、女好き、浪費家の評を恐れず、浮俗と異なる世の中を俯瞰して経綸をたてるような、異なることを恐れないなら、その任は自ずと吾が身にある。

どうだろうか、潜在する良心に懸けてみては・・・

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可愛い女傑たち 2017 2 再

2023-10-20 00:45:37 | Weblog

                                            

 可愛いか、可哀いのかはそれぞれだが、事と次第によっては熱狂と偏見、悲壮感さえ漂う雰囲気がある。街中では歩けないような原色スーツで身を装い、赤絨毯を闊歩する女性閣僚たちの予備軍のような方々であった

 

 

俗人は「贅沢をするものに憧れ近づき、妬み、そして不幸を待ち望む」という。

しょせんロシュフーコのいう自己愛の観察なのだろうが、どうも、そもそも人間は・・・との問いに頓首せざるを得ない。

まだ頭を傾げる姿ならまだしも、おおよそは当てはまる心の深層だろう。まして逆に考えれば、己が幸せの羨望を集め、嫉妬されるような幸福感を求めていることなのだろう。

 

以前、政治評論家の板垣英憲氏の主催で「可愛い女傑たち」というパーティーに誘われた。普段は政治の裏側や政策評論などを生業としていた板垣氏の呼びかけだったが、参加者はそれなりの女性だが、みな一堂に揃うのははじめてらしく利発さと相まって、どこかツンと澄ましていて気弱な小生などは会話もままならぬ雰囲気だった。

 

三分一の男子は役人か企業サラリーマン風情、渡された名刺には公正取引委員会と厳めしい。女傑と公取の関係は知らないが、鼻の下ではないらしい。

板垣氏の人脈構成も多種多様なようだが、さて、゛可愛い゛という定義はともかく、男勝りの女傑を集めて何をするのかは聞きもらした。

和んでくると会話も進み、積極性ある起業家女性らしく名刺交換も席を超えて活発になる。

 

後日、何人かの女性から連絡が入ったが、ビジネスの前段によくある会食の促しが多かった。美容・医療・飲食とさまざまで総じて30から40代の美麗女傑だが、積極性は並ではない。集いでは女性らしく華を競っていたが、どこかイザとなれば烈しさが噴出する、その意味では弦が張ったような凛とした女傑が多く、軟弱そうで鷹揚な応答をする小生に不思議感があったようだ。

江戸っ子は女に優しくても野暮は嫌われるが、銭儲けの対象には適さないためか、銭と大樹に寄り添い覇を競うような女傑らの音沙汰は途絶えた。

弱き男の防衛的免疫反応は、まだ有効だった。

 

それは女性のビジネス起業のはしりだったが、分野においては男が足元にも及ばない展開能力を発揮する女性が増えてきた。また選挙目当てなのか外国模倣なのか、国の政策も、゛目玉゛と称してアダ花的に数多増えてきた。それは従前の扶養政策とはことなり、起業を積極的に応援するという方向に向かった。

            

              

青森県黒石市 こみせ祭り  キツネの嫁入り行列

 

女性の社会進出といえば保険勧誘員、医療従事、飲食サービス業、技芸教授などだったが、そのころからIT、健康補助食品、などの女性特有のネットワークを活用した企業の現場従事、あるいは総合職から企業経営と広がり、公務員でも管理職、大学教授など社会慣習上においても今までは女性から忌諱された職掌まで幅広く進出してきた。

 

また男女区別において、あるいは機会均等においても偏狭な女性観から閉ざされていた職業であり、単なる色どりや助手的な位置におかれていた現場作業(自衛官、警察官、土木作業)などでも管理的職掌を得て指揮監督する有能さを発揮するようになった。

教育分野では東大合格率や他の教育分野での上位合格者は女性が多くなった。

俗に「女に負けるものかと馬鹿が云い」が現実になってきた。

 

負なのか当然の帰結なのかはわからないが、就業に伴う政府の援助的施設である保育園などの幼児教育施設などの施設費や経常管理費などが増大して、支出とGDPや税収の関係が問題になった。この分野はことさら費用対効果を云々するものではないが、家族構成では夫婦の家庭内の役割分担や諸事の決定権が女性に移り、人生観の合理性なのか、自由、平等、人権、均等が家族間の判断慣性となり、経済的観念も変化してきた。

 

するべきことより、ヤリタイことが家族間でも個々の単独人生観となり、情感より合理性に移り、その表現である家族や継続した家の連帯や調和まで意味の薄いものとして乏しくなってきた。種の保存や継続や夫婦間あるいは父子間の関係も守護するべきと考える側からすれば論をはばかる状態になってきた。

婿とり、嫁とりも入るものからすれば、習うより慣れることから新規参入の人材として経済的能力が求められるにつれて、非生産的なことはアウトソーシング(施設扶養)が増えてきた。

 

           

         インド ラダビノード・パル判事 「日本の若い女性に」

 

それは、「しっかり者」から「烈しい女性」に映る女性の姿でもあり、世俗の要求でもあった。セクハラやパワハラが問題となったり、アラフォー(around 40 活躍する35~40代の女性)がもてはやされ社会の進出範囲も拡大した。今では女傑などという言葉も禁句のようになり、あの更生保護婦人会も女性会に名称を衣替えした。

浮俗では飲食やホテルの支払いが女性と割り勘が珍しくなくなり、家計も別管理、育児もイクメン(育児する男子)が分担するようになった。もちろん夫婦別姓が叫ばれ、男児雇用機会均等法も施行された。

 

戦後の高度成長期からマスコミ宣伝は家事の便利さを唱えるものが多かった。三種の神器(家電ほか)、化粧品や健康食品、はたまた痩せ薬やエクササイズ(健康体操)まで、その多くは女性の労働軽減と余暇の活用と美容が順を追って提供される。

ちなみに若者向けには男性のファッションや美容などもあるが、やはり女性向けとでもいおうか、生命保険や傷害保険など、生活担保の提供が多くなった。病気やケガはたまた亡くなったら困るという類だが、離婚に伴う年金分割ともなると一家団欒などは空々しくなるようだ。

また、高根の花を咲かして消費を進捗させる、比較、羨望、嫉妬、無理なローンを昂進させ、架空現実エンターテイメントの提供とともに温泉、グルメ、旅行、イベントが宣伝提供された。追うは女性、従うのは男性が多くなり、付きまとう濡れ落ち葉などと揶揄されるようにもなった。それが世俗の一面であることも判るし、しかも鮮明になってきた。

善し悪しはともあれ、自由は孤独とうらはらと知り、贅は自制を破る。

分かっていても止められなくなったのは、この頃からだったようだ。

 

写真提供 Chikako Kogawa

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家督と家業、そして国家を担うこと   2016 8 あの頃

2023-10-19 00:51:55 | Weblog




昨今の権利意識は家督と家業を混在させ血縁親族が相争う様相である。
とくに、「経済生活での競争は人情薄弱な世の中をつくるだろう・・」と、以前に拙章で記した社会の構成と流れがその因だろうが、民主と自由という恣意的な喧伝は人々を、゛易きに流れる゛方向に向かわせている。

つまり家督でいえば、親子や兄弟姉妹の分裂を招き、「個」の発揮というこれまた自由の屏風をたてに個別財の確保、あるいは家財の分散確保に向かうようだ。もちろん財を税務管理する「法」を建前として個別権利、個別相続といったことがしごく当然といった考えで個々の齟齬を発生させ、より分断や分裂を進捗させている。

ここでは成文法の「清規」と掟や習慣にある「陋規」の分別の無理解であろうが、そのことの有ることすら認知しない人々の煩い事でもある。

よく長兄の家督というが、商人の家業においては能力ある実子の中から長兄でも次男、三男でもその任に就かせたが、肉親に相応しいものがいなければ娘に婿養子なり、あるいは夫婦養子なりを縁戚に入れて家業を継がせている。

よく、商人でも資本なり家督を預かる本家といわれるものは家業と家督を明確に分け、家業においては支配人、社長、、あるいは御用商人は官吏の天下りなり、警備に岡っ引き、いまでは警察OBなどを雇用し、家督は血縁によって護持してる。

家督においては祭祀を司り、家業は創業なり伝承された規範の倣いとして商いのバックボーンを護り、互いの相互関係の補完を担っている。









武術、技芸など和芸には「一子相伝」というしきたりがあった。だれでも超えられない、触れられない立場を構成するすることによって術なり芸を伝承してきた。
近頃ではその、゛一子゛が放蕩で財を欲しがるようになると、相伝も名を売り、褒章をねだり、弟子の優劣より多少にこだわる妙な跡取りが増えてきた。

政治家も同様で、口数の多い雄弁家も煩いではあるが、長(おさ)の人情、忠恕の涵養に有る世襲の優れた姿が乏しくなり、都会育ちのひ弱な官製学校の在籍を屏風に立法すらはかどらない稼業政治家が多いが、これも善き家督の相伝を無意味とする部類である。
゛でしゃばり゛゛派手好み゛を選挙サポートの雄弁家、活動家と女房を表に出すのもこの類に多い姿だ。
ここでは善き習慣性が世俗に阿諛迎合した、つまり芯を軟弱にして家督を稼業にした政治家の行く末は昨今の二世政治家にみられる姿でもある。






台湾で殉難した六人の教師 「六士」




ある碩学と謳われた父をもつ家族のことだが、長兄は他界し妻と嫡男が家督を相続している。相続といっても敷地は次男と長女で分割し、碩学の形見は夫々が分け合っている。
だだ、碩学の膨大な著作の権利が問題となった。税務上相続者が保有するという建前だが、一部は関係する団体の運営に、他は兄弟で分け合うことになっていた。

長兄がなくなると何ら碩学の薫陶も受けなかった次男が団体の責任者に就任。学問に相伝は無いと父も再三厳言していたが、名前がブランド化しているため、ついつい次男も呼び出され亡き父の逸話を弄して、ときには相伝されたかのような学識を口耳四寸の言として吹聴し、聴衆も有り難がって傾聴する姿が常態化した。

父母の生前は「計算ができるあの子は心配だ・・」と、官域に入れず民間に就職させたが、その会社の研修会にはその碩学の父を懇請して研修会などを開き、自らの保全と出世の助けにしているような目先の利く人物である。

企業でも創業家の名前はブランド化しているようで、中身の無い軽薄な経営者はブランド頼りに床の間の石の如く利用しているのを散見するが、碩学の次男は名利に目ざとい性格なのか、父の兄であった高僧ゆかりの本山に分骨安置してあった「骨」を分家である次男の墓に移動を謀っている。

父である碩学の学風からすれば、世俗の筋違い、そこは道理に適わない名利を意図した邪な所業である。
望むところは碩学の名跡を、鎮まりを以って護持する本家家督の強奪である。

長兄が亡くなったときは父の所蔵していた遺品や父の著した軸装などを自宅に持ち出している。

商業出版が持ち上げ、ただ名を冠しているだけの形骸のような人物を利用して監修に名を記し、本人も錯覚する人生は父母が「心配だ・・」と漏らしたことが的中した。




            

            日露出征  松下、山縣、児玉、大山
           
                   横浜 野島 伊藤博文別邸蔵




この類のことは各種技芸や芸能、はたまた政治の分野に蔓延している。これらが走狗に入ると、漂流するかのごとく寄生する、゛すきもの゛にとっては金で買える学識、技芸となり、社会悪の家元、本家の類になってしまう。

これも時代風潮といってしまえばその通りと納得する事柄だが、先に記した善なる習慣性の護持を知らず、また触れることさえ避けてきた世代が不特定多数を担う国家の指導者になったら、その混迷は将来を逆賭(先見)するまでもなく国民の錯誤を一層深いものにしてしまう恐れがある。

それは些細なことだが習慣は面妖と音声と眸に表れる。
時宜に合うので名を記すが、先の鳩山内閣の閣僚新任記者会見のとき、その設定は壇上と講台と背後の国旗があった。
内容はともかく福島議員と管議員は国旗には一瞥もせず演台に向かい、終わるとそのまま下がった。




                 






台湾の民進党の陳総統ですら国民党の創立者であり両岸から国父と仰がれている孫文の掲額に拝礼して誓いを宣誓している。台北の小学校の朝礼も国家と国旗掲揚を生徒が行なっている。
米国も、いや大部分の諸外国のおいてもその姿はある

日本国内での日の丸談義に埋没するつもりは無いが、ふと国家の家督を担う長(おさ)の修治した姿への潜在する敬重の心に満たされないものがあったと同時に、この人物の危惧する闇路が予見できるのである。
もちろん、それらは往々にして面妖はオボロゲで、音声は多弁で軽薄、眸は落ち着きが無い。

宰相は家業ではない。家督の代行者である。
多くの縁者の羨望と嫉妬に晒され、真意を理解されることも乏しく、だからこそ財利の詮索と無理解な説明責任とかいう亡羊な淵に置かれるのだ。

ならば何の代行者なのか。
それは「本(もと)」を前提として初めて習慣性の意味が理解され、過去の善例に倣うことができるとしたら、国民の下支えとしての辛苦を共にして、国家を多面的に俯瞰することができるだろう。

ちなみに市川房江氏は赤尾敏氏と昵懇の仲だった。
表層ではない。本当に気が合った仲だった。市川氏のことを語るとき、あの赤尾氏の好々爺のような顔は印象的だった。

彼等は面妖は善かったし音声は厳かだった。もちろん眸は透きとおり奥は優しい。
そして両氏は夫々の一家言を家督として護持してきた。
くわえて、何よりも日本人としての矜持をもち不特定の庶民がつねに描かれていた。
衆愚を恃むような反対や反抗のみではなく,魂の発する反骨の気概だった。


果たして家業を継ぐのか、家督を護るのか、国家を担うということは舌でいう「話」ではない。吾をいう「語り」でなくてはならない。

安岡正篤氏は某社長が就任挨拶に訪れたときこう告げた。
「辞めるときのことを今から考えて励みなさい」

見事、家督を相続して、果たして悲哀か賛辞か・・・

しばらくすると都心一等地の社屋は就職斡旋業となり、これも政界汚職で世間を騒がした。 

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嵌って慣らされる、課題(えさ)には喰いつくな。  あの頃 23 2/7

2023-10-16 20:37:22 | Weblog

嵌って・・・ハマって

 

読者からの資料を含む

 

友人の税理士から届いた知らせを転載します

Q&A(質問と応え) これは課題ではなく、今の時点では仮題である。

消費税そのものを論ずることは課題だが、想定問答を徴収するする側が仮題であってもクイズもどきの質問と答えを出されると従順と随う民癖には、さぞ丁寧に感ずる国民もいるはずだ。

最近、国家を具体的に表す権力為政者の姿は、それに問題意識もなく面従腹背を従順に装う役人、ここでは税官吏の無謬性(間違いがないとの前提)が疑われている昨今、たとえ仮のケースであっても、クイズもどきにして混乱を整える作為には、とこか腑に落ちない。代議士が争論談合して、なんとなく決まったようだが、国民の多くは、どうにかなるだろう、これも慣れるしかないと、種々繰り出される政策同様な諦観(あきらめ感)をもっている。

売文の輩やマスコミで騒がしい言論貴族の騒ぎも、食い扶持を気にして戯れている状況で、集め方、使い方より、タックスペイヤ―(納税者)、タックスイーター(税金食い、徴収者)の分別論議が見受けられない。

バナナの叩き売り(台に上にバナナだけを並べ、調子よく棒で台を叩きながら売る香具師)ではないが、種類は一種類のバナナだけ、国別種や生産地部もなく、大方フイリッビンバナナを山のように並べ、「裏も表もバナナ、美味いよ、今でだけだ、買ってけ!」」と房の表をみせたり、裏かえしたり、人目をひく。

口上につられて興奮している客もつられて買ってしまう。しかもスカートではないが、包装の新聞紙をバナナの上で隠したり見せたりヒラヒラさせると、余計に引き寄せられバナナしか目に入らなくなる。何のことはない、それでバナナは飛ぶように売れる。

軽減税率というのもあると囁かれれば新聞社は押し黙る。老後が大変だよ、国庫も借金で大変なことになる、しまいにはミサイルが飛んでくるのでと、口上巧く語らせれば三兆円近くはすぐ手に入る。あの期待されていた進次郎くんでさえ家庭をもち子供もできれば、官吏同様に巧言宜しく上手に立ち回るようになる。これは狡猾の患いだ。

なかには一万円で200円上がるだけと不埒な議員はいうが、一万円で1000円とは云わない。だから軽減2%は大したことないと慣らされるのだろう。面倒だから一律10%になるに違いない。

諸外国は・・・」と、いまだカブレているが、前記の「イーター」と「ペイヤー」の峻別は欧米の方が厳然としている。納税者は税という参加料と担保を払っているという考えで、つねに「イーター」を監視している

漢字の印象だが「納税」「徴税」は義務だというが、善や義を背景にした権利の理解は乏しいようだ。

昨今、公平と正義をその職掌において表現する、税官吏と警察官の姿が変質した。「税と警察の面前権力の姿が劣化すると、国家は深層から衰える」とは元税務大学校長の安岡正明氏の言だ。つまり正義と公平の観念の亡失だ

もとは、それらを指揮監督する行政のトップ、総理大臣の国家観ではあるが、それを選ぶのも納税者。

厄介な似非民主主義の責任循環のようだ。

 

    

 

以下は<情報提供:エヌピー通信社>の税率についての章の転載です

◆食べ歩きの消費税率は? 

- ◆東京ディズニーランドでミッキー型のワッフルを買い、歩きながら食べたら消 費税はいくらになるか――。

こんな場面を想定したQ&A集を国税庁が作ってい ます。

8月1日にも拡充し、並んだ事例は224問になりました。10月の消費増税 で初めて導入される軽減税率の周知のためで、ホームページ上で公開中です。

◆軽減税率は、酒類を除く飲食料品や、定期購読の新聞の税率を現行と同じ8% に据え置く制度。飲食料品はスーパーなどから持ち帰る場合にのみ8%が適用さ れ、店内で飲食すると外食扱いになり税率は10%となります。ただ、持ち帰りと 店内飲食の線引きがあいまいで、税率に迷うケースもあるため、国税庁では事業 者から寄せられた具体例をもとに、Q&A集で規定を解説しています。

◆8月には、遊園地内の売店で飲食料品を購入した人が、園内で食べ歩いたり、 点在するベンチで飲食したりするケースを紹介しました。各売店が管理するテー ブルや椅子を使わなければ「持ち帰り」となり、軽減税率の対象となることを明 記しました。「遊園地の施設自体は『店内』に該当するのか」という事業者の問 い合わせに答えた形です。

◆同様の考え方で、野球場などでも、売店前の椅子などを利用すれば10%ですが 、観客席で飲食する場合は軽減税率が適用されます。一方、遊園地内のレストラ ンで飲食したり、野球場や映画館にある個室で飲食メニューを注文したりすれば 10%となるので注意が必要です。

◆また、ファストフード店などに多い食事とドリンクのセット商品は「一つの商 品」とみなし、一部でも店内で飲食する場合は外食扱いとなって10%を適用しま す。ただ単品で購入すれば、持ち帰りのハンバーガーは8%、店内で飲むドリン クは10%といった支払いになります。

◆低所得者の負担軽減をうたって導入される軽減税率ですが、事業者や消費者の 混乱は必至と言えそうです。

<情報提供:エヌピー通信社>

参考URL: 国税庁 http://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/zeimokubetsu/shohi/keigenzeiritsu/02.htm

 

イメージは北京の知人の作品です

 
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民情を変質させる面前権力である税と警察の自堕落   10 11/26

2023-10-12 16:14:40 | Weblog

末尾次章に安岡正明氏 「地方行政官の心得」掲載  

税吏の職務日誌抄【電子書籍】[ 五十目寿男 ]

 

江戸の仇は長崎で・・・・

狡猾な官吏は時を置き、場を変え、しかも大義を謳って仇を返す、昔は江戸の恥をかたちを変えて長崎で遂げるそんな譬えだろう。官吏同士ならまだしも、こと官吏と庶民の関係にあろうものなら庶民は抗弁する間もなく残酷な苦しみを味わうことになる。

こうも煩雑で怪奇な法を駆使されて懐中を召し上げられると、つい反論したくなる。

諸情報に例を引くと、曰く・・・
裏金、便宜供与、交番勤務が専ら切符切り、選挙法による議員のコントロール、関係現業への天下り、親族の就職登用の便宜、等まさに紫禁城の宦官のような「禁ずるところ利を生ず」の有様だ。

税官吏も同様だ。
己の源泉税を操作して背任横領、OBの税理士斡旋や恣意的節税ならず帳簿偽装、成績効果の強権徴収、差し押さえの乱発から納税への怨嗟助長、いまだ横行する官々接待、など狡猾惰性官吏の横行に国民は手も足も出ない。

もし本当なら隣国の宦官をしのぐ狡猾さと多種多様の陋習慣である。この場合の「陋」は狭い範囲の秘密性を帯びた「性」となったものである。

警察は国民の「正義」への啓発、税は「公平」の姿を表すものだろう。
その正義と公平が彼等の組織なり個人の食い扶持利便に堕した時、深層の国力に涵養される連帯と調和への種々情感が倦怠すること必然である。

国家の予算は数値項目に表れるし、犯罪種目の件数なり反則金、罰則金の類は予算化できないものではあるが、これも定収となれば自と数値目標になる。

この数値というものが厄介なもので、あくまでトガ人と岡っ引き、農民と代官のごとく人と人の問題に御法が介在し、そこに斟酌という情があった江戸と違い、マニュアル管理され、しかも安定した俸給と生涯を保全された、志願ならず生涯賃金計画官吏が群れとなったとき、その狡知による便法を乱造し、取り締まりなり徴収を金嵩「(かさ)量」に計られ、しかも其のことによって立身出世が満たされるという、一種奇怪な群れを作り出すようだ。

それが国家権力を面前で行使するのである。
香港やニューヨークと違い、日本人は赤信号で当然の如く止まる。召集令状に似た赤い字で印刷された税の徴収通知が届けば、有る無しに関わらず疑問を抱かず納入する。

お年寄が交番に道を尋ねたり、子供が拾った小銭を届けても近頃の交番は不在。息を弾ませて帰ってきたと思えば交通切符の整理に勤しむ。昔と違い管轄地域の住人の認知や変化を調べることも少なくなり、捜査の初動にかかせない土地柄、居住傾向の現認データーは希薄になり解決を遅延させる結果となっている。

道路は金になる。街道の十手持ちの親分の再来のようなもので、篭屋がタクシー、トラック、宿場女郎は風俗、博打場がパチンコ、矢場がゲームセンターならば、現在の差配は御法を威光とした警察である。

自治体と国は税の呼称が異なる。
たとえば本税が期限内に滞れば延滞という。自治体は延滞金、国税は延滞税、つまり延滞も本税も税に変わりは無く、其の徴税は本税と変わりなく厳しい。
自治体とてあの勇ましい石原氏になったら都税の徴収は厳しくなり、徴税官ですら数字評価に追われ「差し押さえ」を連呼してあらゆるものを召し上げた。
もちろん、理由があって税が発生するが、人の生き死にや不慮の出来事で税が発生してもその斟酌は無く、ここぞとばかり公平普遍の大義を謳って「差し押さえを」を連呼する。

カジノもオリンピックいいが、慎ちゃんがはしゃぎ、突飛な発想をするとき差し押さえは増発する。この怨嗟は都民ならず徴収官吏の愚痴と比例して慎ちゃんに忍び寄っている。
「どうせ上のほうのおべっかいだょ」飲み屋での都税官吏の戯れハナシが聞こえた。

翻って徴収される側も、゛とられる゛と思っている。
小会(郷学研修会)の講頭だった安岡正明氏(安岡正篤長男、税務大学校長歴)は、「税は社会の参加費」と述べている。その使い道は納税者の選挙において選ばれた議員の合議という建前だが、その劣化は納税意欲を衰えさせ、公平さや連帯意識を失わせる。







          

       郷学研修会

    左から下中邦彦氏 安岡正明氏 筆者 卜部皇太后御用掛



「税と治安警察の姿は国民の意識を映す鏡のようなもので、これが堕落すると真の国力である確固な帰属意識すら失くしてしまう。だから警察と税はより慎重な姿で国民に対応しなければならない」

また「縁によって税官吏と納税者に立場を置いているが、権力が委任されているということを自身に真摯に向き合わなくては怨嗟を製造する機関となってしまう」とも述べている。

正明氏は試験に落ちたとき
「試験は落ちるものかね」と皮肉交じりに言われたことがあった。
あるいは少年期に冒険ダン吉に夢を馳せ漫画を大切に保存していたら、母に焼かれてしまった。これは自身の焚書のようなものだとも・・・

縁があり国税庁に任官して地方の署長になったときのこと、居酒屋で飲んでいたらつい立の向こう側で自営業者と妾の話が聴こえた。
「税務署の取立てが厳しくて手当てをまけてくれないか・・」
そんな話だった。「税」の使い道は色々あると・・

父である安岡正篤氏の周囲には警察や大蔵官僚が係累をつないでいた。
戦後、新日本協議会の創設時には元法相、木村篤太郎、戦前の警察自治を司った終戦時の内相阿部源基との縁だろうか、多くの治安官僚や、福田、池田、大平の各総理、あるいは愛知大蔵大臣、戦前では賀屋蔵相などの縁故で多くの税官僚も出入りしていた。

それは総理なら施政方針演説における施政の骨格や民風を考えた訓導として、無機、アカデミックな文章に潤いと鎮まりの考察を沿えている。また明治以降、国家と国民と呼称を換えた統治形態に、従前から営みのである棲み分けられた「郷」の連帯と調和の情感を滲ませることによって、法と機能による無機なる統治を有機性のある関係に整えることでもあった。

それを前提として警察と税、それを統括する宰相のありよう、つまり相には「宰相学」、官吏には「吏道」として多くの著書を遺している。

筆者にも「今のデモクラシーはデモクレイジーに変質している。それを改めるには倣いとなるものが必要だ。とくに人は人物から倣う。面前権力である税と警察の姿勢は社会の風潮さえ如何様にも変化させることができる。権力は慎重にならなければならない」

その「吏道」だが、その小論文は氏のデビュー章というべきもので、当時の内相牧野伸憲をはじめとして多くの有力者の目に留まる建言でもあった。それは常に下座観を基として、陛下の「大御宝」である国民の生活の安寧を旨としたものである。

遡れば聖徳太子の十七条に記されている権力者、あるいは権力を構成する政治家、官吏、教育者(知識人)、宗教家などを律することと同意であり、ひとえに人間の尊厳を毀損するであろう人々に対して、より深い考察と公正な行動への促しを記していることに他ならない。

※ 「文は経国の大業にして不朽に盛事なり・・・」
近ごろは日本国の経国の証を思うがままに改竄、隠蔽、廃棄、裁判所も判決の証を焼却。

まさに国家の祐筆として多くの影響を与えている。しかも執行者としてのエリートのあるべき姿について厳しく訓導している。

哀れむべきかな、そのエピソードを増幅して虚像を作りそれをチャッカリ借用する輩も散見するが、往々にして謦咳に接した、弟子と称して金看板にしたり、ひどいものではそれを利殖の具にする取り巻きも数多存在する。著作権や印税なとど存命中は陰に隠れていたものたちも亡くなると蠢きだして師の実像を虚像として装っている。

「父は教育者でした。直接学んだことはありませんが背中の学というものです」
父は常々「学問は食い扶持の用に堕してはならない」といっていた。

そして自身の体験を通じて
「税と警察という面前権力の姿で国民の意識は変化する。それは父も心に置いていたことだ」

しかし善良、不良に問わず国民にとっては難儀な問題でもある。
何しろ、謳う大義の屏風が背景にあるからだ

 

 

資料

安岡正明氏の「地方行政官の心得」税官吏 編

 


昭和天皇の終戦の詔勅を刪修(さんしゅう=手を入れて調える)したことで知られる思想家安岡正篤の長男安岡正明氏(1927~2003年)は、大蔵省入省後、国税の世界にも長く身を置かれた。税務署長は仙台国税局管内の水沢税務署(岩手県)で1年経験されている。
 
 筆者が初めて税務署長になった際に、何か署長の心の持ち方として参考になるようなものがないか探して行き着いたのが、この「地方行政官の心得」である。これを常に手元に置いて考えるよすがにした。不思議なことに国税組織には幹部向けにこうしたものはないと思う。元国税庁長官の講演録みたいなものは時々散見されるが、これはあまりあてにはならない。なぜかというと、皮肉のように思われるかもしれないが、言行がまるっきり一致しない元長官を筆者は複数知っているからである。

 さて、安岡正明氏の心得はどのようなものか、概略を引用する。ただし、氏はこれを熟読したからといって、地方行政官として何ほどかの利益があることは保証できないと断っている。その上で、幾分か爽やかに世に棲むことだけは可能になると信じている、と結んでいる。

1 地方行政官とは、行政の第一線にあって国法を遂行する位にある者である。この地方行政官の誠実と勤勉が、国を支えていることは疑いを容れない。
2 地方行政官の職は聖なるものである、と心に固く信じていなければならない。それは地方行政官にとって密かな戒律と誇りの源泉である。運命共同体の僕(しもべ)であり、正義と公平を具現すべき国家倫理機能の一勢力であって、株主のために営々と働いて妻子を養う職ではない。

3 国民が、納税者が、行政官に要求するものは、潔癖と公平とやさしさである。行政官の処分に誤りがあったことは稀で、異議のほとんどが、やさしさの欠除に対する感情的なものだった。例えどれほどの才入を確保しようが、納税者に国家に対する怨恨を生じさせてしまっては無意味である。
4 行政官の、自分の立場に対する理解とは、【2】で述べたことのほかに、自分の行政官としての権限と、自己の人間としての力に対する、謙虚で正確な分別である。正義を背負ったものの驕りと尊大さは、不正を隠すための虚勢より、遙かに非人間的である。

5 地域単位の機関の長の立場は、主観的にはともかく、客観的にはまことに微妙なものである。一年くらいしかその職に居ない場合、一回の春秋は、定められたスケジュールに乗って、またたく間に過ぎ去ってしまう。そこから事が始るべきなのに、そこで事が終わってしまう。なまじな知識で総合調整を行使しようと欲しても、なかなか思うように行かないのではないか。時には、混乱の痕跡だけが残ることもある。鏡のように無私の心で対する外ないだろう。
6 人には、その心中の花の早く咲く型と遅く咲く型がある。行政官には早咲きが向いている。しかし、そのために早く枯れて、心豊かな晩年が送れぬ場合が多いように見受ける。

7 時折り、真面目な能吏と言われる人に、部下と全く等質な事務を熱心に行っている人を見ることがある。これでは、決裁の技術的ミスの発見に止まって、方向や理念の誤りを修正することはできない。管理者は指示し、質問し、決裁文書を読むこと以外にも大事な仕事がある。思うことである。
8 人の上に立つ者は、おおむね性急な性格がある。彼等は、限られた時間で、前後の脈絡なしに飛び込んでくる仕事を判断し指示しなければならない。判断に必要で十分なデータは、少なければ少ないほど良い。税務職員には、往々にして、これを勘違いして、データは多い程良いと思っている人がいる。

9 法律の文章は、解釈が多岐に分かれないように、内容が限定された言葉を用いざるを得ない。勢い語数が多くなる。短い、解り易い文章で、エッセンスを表現し、全体の姿を浮き彫りにする、要約と表現の能力は、身につけておいて損はない。
10 上司から、あれは便利な男だ、と思われる人は、中間管理職に早くなれる。それ以上の地位に進む人は、あれは便利な男だが、どこか底知れない所がある、と思われる人である。人間的な力である。

11   若い時は、群れの中の個として見られている。群れの中から個が選ばれるのは、専ら、知識と性格の比較による。中年になると、個々の中から個が選ばれる。それは個性と人格の差によってである。
12   個性の差は、税務大学校が、ついにそのカリキュラムに組み入れることのできない無用の学の差から生じる。それは本から学び、人から学ぶ外ない。がんじ搦めの身分である行政官にとっては、友人を選ぶためには、厳しい選別能力が要る。自分独自の人相学を学ぶべきである。

13   他人が自分に下す評価と、自分が自分に下す評価には当然誤差がある。それは全くの誤認もないわけではなかろうが、評価の基準の差である場合が最も多い。人事は、その人のためではなく、組織のために能力を判定する。評価の基準の差の最も著しい点である。不遇を嘆く人の大部分が、この差に気づかない。また、いかに正しい能力判定が行われようとも、人間には運がつきものである。めぐり合わせ、というものから逃れられる筈はない。自ら不遇なりと思う人は、組織の要求する所と、自分を評価する人の能力と、自分自身の能力を冷眼をもって比較計量し、万止むを得ずと思ったら、肩をすくめて天を仰げばよい。雲の行末は誰も知らない。
引用:安岡正明「随想 苦笑い」1979年財務出版刊P59~69

注・これをお読みの皆さん、ここには省略した部分もありますが、それも含めて2022年7月20日に「新任の税務署長さんへ 地方行政官の心得」として再掲載しておりますのでご参照ください。


税吏の職務日誌抄【電子書籍】[ 五十目寿男 ]

 

 

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「教員の待遇を良くして給料を上げよ」と、北野たけしさんは言うが・・ 15 8/8 再

2023-10-11 00:59:05 | Weblog

北野 武さん

≪3/10  また教員が頭を下げている。≫


筆者がガキの頃、毎月爺さんと浅草に行った。本堂の足場が架かっていた頃だが、普段は教えもしなかった爺さんは「あの瓦の裏には名前が書いてある」とぼそぼそ語っていた。どこに行くのも、いつも、゛なっぱ服゛を着ていたせいか、本堂から六区に行く途中の路地の呑み屋で一杯入れていくが、店の婆さんが『税金の都合でお銚子一本になっているんで・・』と、浅草でも着なりをみるのかと不思議になった。爺さんは孫の前で恥かしそうだったが、余分にスズメという串刺しの小魚をたのんでくれた。

六区では石井きん、大江美智子、浅香光代、大宮デンスケの人気者が看板を掛けていたが、総なめした。そのうち明治座で曾我廼家五郎八まで連れて行ってくれた。ロック座があったようだが、爺さんは早足で劇場側を歩いて見せないようにしていた。大人になってから寄席に行って三平を聴いた。新国劇も島田正吾や辰巳柳太郎が渋く格好良かった。妙な縁て鎌倉の別邸の改築に一カ月泊って朝の地引網を愉しんだ。

当時は東上線もイモ電車といわれ、埼玉の年寄りが油を塗ってある床に新聞紙を敷いて酒盛りしていた。熱海か伊東、成田山が相場だ。上板も進駐軍の引っ込み線があり秩父のセメント貨車や薪や墨俵も運んでいた頃だ。池袋からはトロリーバスで雷門まで一時間ほどかかった。まだ武さんも足立で頑張っていた頃だ。

筆者も見上げる大人が視界を遮っていた頃だが、境内のバナナの叩き売り口上やガマの油売りが見えないので、爺さんは肩車をしてくれた。「裏も表もバナナだよ」と、いま思えば滑稽だが、新聞紙にくるむとオッチョコチョイは財布を出す。ガマは武士の衣装で何故か猿が付き添って?いる。刀で腕を切り付け油を塗ると傷がない。肩車から大人の姿をみていると、首を出したりひっこめたり、頷いたり、手を叩いたり、この興奮は寅さんに引き継がれた。

当時の役者や露店の縁者は、真剣だった。相方もそうだが、客も真剣だった。想いだせばバカバカしいが記憶が鮮明だ。相対の面白さがなくなったというが、これはテレビやネットのせいでもない、人間の厚みと許容が乏しくなったのだろう。とくにデン助や均さんの面白さは、懐かしさだけではなく、江戸の悪所と云われたエンコ(浅草)に集まる当時の善人が醸し出す風があったようだ。ヤクザも芸人も吉原のやり手婆さんや女郎まで、当時はまともだった。そのまともが悪をやり、笑いをやり、春を売っていた。そして゛まとも゛には物わかりよく付き合い扱った。たが、゛まとも゛でないものにはきつかった。

             

    物わかりのいい親父 勝海舟

 

週刊ポストの北野たけしさんのコラムで書いている、いや、゛云っている゛
彼の商業出版の多くはしゃべりの文章化のようにみえるが、ノッているときは前後のまとまりがあるが、ときおり俗っぽい風があるときがある。
金に困った、女がばれそうだ、朝まで飲んだ、人並みな男はそれに影響される。

たけしファンに合わせて易しく(人を憂う、優しくではなく)書こうとすれば、ひら仮名を駆使して行間を空け、短い句読点でまとめると、これまたよく売れる。難点はもっと易くしようとすると読者の層は増えるが、一過性の記憶として流されるような羊のような群れを作り、作者としてはより世俗に迎合した突飛な解釈と表現が求められるようになる。

ときおり難解な表現や能力を見せれば、賞味期限のラベル張替え可能だが、仮借した下座観は、古典落語の重鎮が真っ赤なキャデラックに乗って金鎖をしているようなもので、お昇りの江戸っ子風な、野暮風袋を被るようになる。







林家三平 さん





三遊亭園朝  

落語も口が良く回ることが、頭が良いと思わせる。先代の三平さんとてカタギが呑み席でもしない愚かを芸として騒ぎ魅せることに、カタギはさも有りなんと溜飲を下げるが、所詮は下卑たこととして嗤っているのだ。あの世界では大御所だが、この手の嗤いは、笑ではない。通人ぶった客は三平さんを、あそこまで出来るのは余程の人格者だと想像する。どちらに転んでも木戸銭は入ってくる。
あの人情家の三平さんが人情噺に取り組んだら、園朝なみだと筆者は思う

近ごろでは子供のやんちゃがイジメになる時世だが、大人が人前でやると観客は面白がる。熱湯ならぬ温水を熱湯らしく演技して飛び込ませたり、若き女性に時間内の着替えをさせたり、滑ったり転んだりするのを見て笑う。まだ六区のドタバタ喜劇の方が、品がある。
わざと池に落とした帽子を裸になって取りに行かせたり、向こう岸まで泳げと囃したてた中学生の事件も多いが、それと何ら変わることはない。

いくら遊惰な浮俗でも人前で演技として見る番組が増えたが、この傾向を金もうけの手段とする一方もあれば、他方、惰性ながらテレビをつければ否応なしに飛び組む風潮に嫌気がさしてきているという。近ごろのテレビは・・・・、の類だ。
かといって、視なければいいのだが生活慣性となっているためか、音と絵の変化が傍にあるだけで安心する現代人の姿もある。

どこか、子供をとりまく状況と逃避すらできない世俗の感性は、問題意識の喚起として良く似ている状況だ。安物の番組は企業の景気にもあるというが、雛壇で騒ぐ番組にそうそう宣伝費を出すことも憚るだろう。だからと言って低俗に合わせた低能の番組を生産しても、決して積み重ねることのできる情緒の涵養にはならない。

あのたけしさんのお母さんの逸話や生まれ育った足立区の憧憬は、別物への脱出を描かせた。貧乏や子沢山、親父の機嫌、母の剛毅、今では語るみのとなっているが当時はまだいい方だ。これを苦労とは言わない。
だだ、食い物も着成りも行儀良くては暮らせない。あるのは野暮か粋だが金を持たせればすぐに判る。いくら稼いでも実直な苦労人の親がボロを着ていればロールスロイスは乗らない。親は子供に魅せたのだ。いわんやそんな世界では見栄をはってもたかが知れている。せいぜい座りのよい床の間の蛙石だ






ゲームセンターの開店を待つ生徒  弘前



だからと言って待遇を良くすればその気分(遊惰慣性)が整うとは限らない。もともとそれを売り物にして成功価値を企図して、あえて衒いがあるのか成金を装っているが、その浮俗の影響力は、気真面目から不真面目に転化させることもできる力がある。とくに今はそうだ。
それらに勲章や教授資格や食い扶持担保や生涯賃金を保障したら、演技は変わるのだろうか。粋と野暮と書いたが、野暮が頑張って粋がるから野暮になるのだ。
粋はとこかでかた(形・型)をとることがある。辛抱ややせ我慢だが、エエカッコシイとは違う。

標題だが、子供の苛めなどの教育問題は教師の給料を良くして待遇を上げれば良くなると、たけしさんは言う。田中角栄総理も教科書を無償配布にしたら教科書を大切にしなくなったと嘆く。教育は大切だからと教師の給与を特別優遇したら、教員、労働者と自称する様になった。ついでにゆとり教育で銀行、公務員と一緒に週休二日にして、なお且つ研究日と称して、終いには、たけしさんの頃に習った教師の勤務時間から比べれば半分近くになった

芸能人と似ているのは二世が多いことだ。目のうるさいところは遠慮しているが、教員の子は教員、公務員の子は公務員。しかも試験もせず臨時採用から本採用も地方では多い。
もちろん政治家、警察官などはその範となる。いま騒いでいる安保法案ではないが、国内では安定賃金、身分保障、生涯賃金の保障、国費を過負担した年金など、その連中には国民とは別枠の安全保障が整っている




広州の子供たち




台湾台北 生徒が運営(自治会)する朝礼の国歌斉唱と国旗掲揚式



そこで、たけしさんは教員の賃金を上げることを解決の一助としている。
金を出せば優秀な選手が集まるプロの興行だが、高校野球やサッカーがどれだけ毒されたか・・・。映画キャストでもギャラを多く出せば善い演技が出来るとは限らない。まして監督が有名なら一族郎党を安いギャラで集めてもチケットは売れる。
虚構を売り物にして食い扶持を得る世界は、別世界なのだ。とくにバーチャルリアリティー(虚構現実)を視聴覚に打ち込む世界によってどのように世俗が変化したかを分らないはずはない。



金、地位、名誉、学校歴、それらは人格とは何ら関係のない附属性価値だ。
その虚飾された価値観や成功価値を嘲け笑い、喝采を得て食い扶持を得ることに現世芸を認めるなら、あえて附属価値を金銭の多寡によって変化が起きるだろうと思うことは、そもそも「人として成る」ことを諦めているかのようで寂しい限りだ

小人、利に集い、利、薄ければ散ず

小人の学、利にすすむ」

そんな世界にいると、ときおり麻痺することもあるようだ。
人の気(人気)とは儚いものだ。


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外交とは・・・日本人はどこに  08 1/02 再

2023-10-10 16:18:55 | Weblog

 
【請孫文再来】寶田時雄著 より  (kindle版著名 天下為公)

≪日本人はどこに・・≫

 山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げれば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。

 孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。

 それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくるだろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 “ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で
60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」

「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」

 孫文は毅然として
北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです

 鶴見は問う。
「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」

そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。
私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」
「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」
 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)

私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」

「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです

 日本の対支那外交について問う
「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」

それは必ず統一できます

                  

                     桂林

「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する
その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です

第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」

「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」

「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」

それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか

そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです

ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」

 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。

 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。




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舌鋒火を噴くベンガル魂

2023-10-07 07:30:45 | Weblog


                東條英機首相



少々間を置いた寄稿だったが、他ならぬ理由があった。
以前、ベンガルの虎のことを記した。そして近代史の中でベンガルの有志と交流のあった岡倉天心とタゴール、頭山満とビハリーボーズ、下中弥三郎とラダ・ビノード・パル、東條英機とスバス・チャンドラ・ボースとの交流でベンガルと日本の関係の深さも記した。

その関係史とインド亜大陸のなかでのベンガル地方の教育と、輩出した英雄や賢人などを紹介する「知ってる、知らない日本」という本が在日20年のシャーカー氏の筆で出版された。

政治、経済、はたまた江戸文化吉原まで、彼曰く、゛下座観゛を駆使して記されているという。今回はベンガル語の出版だが、予定では英文、和文と作られる。
本来、ODA(政府開発援助)による援助に添えて前記した貴重な人間関係を讃え、感謝する関係になりそうなものだが、色々事情があるようだ。

シャーカー氏は

「ODAによって却って貧しくなるものがある。この時代に日本人の貴重な税金は日本人に使うべきだ。いま日本は病み、疲弊している。私達の国も貧しいが、これからのアジアを支える日本が弱くなっては困る。」

そしてこう付け加えた。

「独立以来36年バングラディッシュは貧困のままだ。お米は4回取れる、水も豊富だ、働く人もいる。なぜ貧しかったか。政治家が歴史を知らなかった。そして貧しいことを宣伝して外国から援助を貰っていた。」

「いま祖国では静かな革命が実行されている。それは歴史を知る有能な軍人は問題意識を人間の問題にあるとして、政治家、官吏、悪徳商売人、など皆刑務所に入れた。外国テロ組織との関係のあるものも重罪にした。日本の皆さんが一生懸命働いた援助は、もうポケットには入れさせない。」

「私は来日して日本の職工として印刷技術を学び、いや倣うようにして技術を習得し、素晴らしい日本人も知った。日本人と結婚し、子供の目を通じた世の中も勉強させていただいた。その目で日本の知識人、役人、政治家も観察した。」

「これ等の体験は、良きにつけ悪しきにつけ、人間の問題として祖国にも応用できることだ。その意味でバングラの行動を、むかし日本がアジアの光明だった明治維新の頃を思い出して見て欲しい。そしてお世話になっている日本の人たちと手を携えてアジアを考えてみたい・・」

「舌鋒火を噴く」とはこの様な弁舌を云うのであろう。

参会した東條由布子さんに尋ねてみた。
「このシャーカーさんのように真摯に心情を吐露し、かつ熱情を以って唱えたら、あの生真面目なお祖父さん(英機氏)も動かされますよね。きっとスバス・チャンドラ・ボースもシャーカーさんみたいな人物だったのでしょうね」

「スバス・チャンドラ・ボース記念館を訪問した折、東條さんのおかげでインドは独立の端緒が生まれました、と感謝していただき光栄でした・・」

インパールの行軍は戦術、戦略を超えた大計だったようだ。それは歴史を逆賭(物事の結末をあらかじめ観る)する女神のようなものだ。そういえば東京裁判の判事パール博士は・・「時が熱狂と偏見を過ぎ去った暁には、女神は秤の均衡を保ち、賞罰の置くところを変えるであろう・・」と述べている。つまり善悪が反対になるというのである。

彼もインパールでのインド国民軍、日本軍諸兵の戦いは、植民地二百年の刻印を消し去る歴史の使命を負った行為とみたに違いない。

何よりもそのことを知り、伝え、活かす、ベンガルの青年に期待したい。

 

2008

 

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ひと括りに、「暴力団」といわれて久しいが     08/7再

2023-10-05 21:59:04 | Weblog

  
                清水の次郎長


暴力団といわれるが、これを以ってすべからく犯罪集団と思えない現象があった。
通称、犯罪集団は各々の行為を冠して、詐欺団、窃盗団、集団行為に痴漢、ワイセツはないが、強盗あるいは暴走族など犯罪種別によって団や族に括られているようだ。
あの族議員も同様な意味を含んでいる。

余談だが「党」もある。旧字では「黨」、賞と黒だが、黒を賞する。隣国の古老の語りだが、党は悪党はいても善党とは言わない。党はそのような徒の集まりだから善いことをは行わない。


近頃では、秋葉原事件など「堅気(かたぎ)」の凶悪犯罪が多発しているが、昔は刀剣、銃といった道具を用いるのはプロの仕事とされてきた。それは、あくまで気質の如何が重要視されたものだが、そこの境界を、゛義理と人情とやせ我慢゛で分けたのが、渡世をはるものの矜持だった。

清水次郎長、大前田栄五郎、国定忠治など名のある親分は「侠客」と呼ばれ、御上御用の土木事業や町内見回りなどの治安まで行なっていた。それは浪曲、芝居などの、ある意味では道徳表現であった人情話や、家族を捨てても弱きを援けるといった、「人のあり様」などで庶民のヒーローにもなっていた。

その侠客も戦後のコワモテ利権に変化してから、狭い範囲の共通項である、民族、出身地、思想、など、彼らにとっては、゛辛抱゛゛掟゛゛習慣゛などを理解共有できる集団が、今まで区割りされていた博打、神農といった役分の中に借権利として混在し、歴史、矜持はともかく、先ずは経済的成果(しのぎ)を優先した「しにせ」とは異なる集団が発生している。

よく、「シマ借り」といったものがそれである。行政区割りではないが、「シマ」と称して私たちの目に見えない管理地域が全国に張り巡らされ、昔は神社仏閣、遊郭、妙な共通だが昨今の議員、警察域の道路利権のように、街道(道路)にもその類のものがあった。
それは土木の人集め、祭礼などの花博打、用心棒、岡っ引きまで幅広い,゛食い扶持稼業゛や、゛男の意気地゛と称する気風があった。

しかし、あくまで旦那と仕事師、御上とヤクザという境目は、彼らの誇りともなって存在していた。決して乗り越えない各々の関係での「礼」が厳然として存在し、それを守る事をヤクザの第一義としていた。弱きを援け、強きをくじく。

カタギは苛めない。御上には逆らわない。強いリーダーのもと流浪渡世人や徒人とは異なり、草鞋を脱いだ親分には恥をかかせない連帯感(きまり)があった。時によっては庶民から頼りになる存在として各所に名親分が存在していたのもこの頃である。
親分は強いだけではない。学問に務めたり子分の更生にも尽力している。

単なる暴の武勇伝やナリ(衣類)、車、組織の人数、組織内の地位、などは当時の侠客には、「形だけとって実が無い野暮な奴」と仲間内で嘲笑されていた。これはカタギ世界でも見習うべき人物の見方と成功価値への考え方だろう。





仕事師、鳶頭の粋な刺青 銀座 金春湯


異民族の混交する社会はギャングを生むという。ニューヨークならずとも戦後似非侠客の多くは、人に優しい「仁」と、邪なものには命を投げ打つ「義心」が失われ、復興資金を奪い合う経済ヤクザや、狡猾な金融家に使われる金融ヤクザとして跋扈し始めた。

とくに戦勝国民だった外国人が特異な集団を作り「仁」「義」とは似ても似つかない「団」「班」を構成し、侠客の棲み分けされた「一家」を変質させ、まさに暴と衆を恃んだ「団」として社会の表層に出現した。つまり表と合体したのである。

筆者の知人は老舗組織の有名親分だったが、娘の結婚式にも「カタギに煩いを掛けられない」と、披露には出ず、衆人の中には入らなかった。また殊の外、子分の教育には厳しく「分別を守れなければ、ヤクザは辞めろ」と始終教えていた。
無論、ベンツやキャデラックは御法度、カタギ衆を泣かせたら破門と厳しいものだった。

いっとき映画ヒーローのように、ヤクザは女にモテルといわれ、擬似ヤクザ、アウトローが世俗に流行ったが、彼らに求めるものは確かに庶民の心に潜在してた。
水戸黄門やマツケンの暴れん坊将軍も、格好はいいが最後はゲンコツと殺しの世界だ。
「彼らが代わりになって懲らしめてくれる」、要は肉体的衝撃を代わって受ける実利の世界がそこにある。

いまは、覚せい剤、詐欺、民事介入、など、見るからに苦しい台所があるが、3兆を超えるパチンコ博打(いまでも法的には遊技場)の景品利権が暴力団追放の掛け声の下、警察の影響下に組み込まれ、台の認可、各種機械の強制導入、警備、清掃など多くの警察関係者によって占められた。

以前は射幸心を煽ると一台の制限を約二万円にしていたが、彼らの管轄後は数十万、はたまた無制限の出玉を放置し、未だ博打場ではなく遊技場として恣意的に法を運用しているように見える。

あの飛込みを助け殉職した実直な宮元さんも、助かった女性はパチンコ狂い、いや恣意的(思うがまま)に射幸心を高めたために起きたパチンコ中毒だった。その意味で宮元さんを愛おしくも慙愧の念で銅像を見上げる人は少なくないはずだ。

侠客と愚連隊、無頼を百羽一絡げにして、゛暴力団゛と呼び、その伝統的効用までも忌諱した様子は、文明開化と称して武士の自制、自裁の精神構造(魂)を固陋として捨て、官僚軍閥を作り上げ自滅したあのアンチョコな意識に似てはないだろうか。

庶民が、官吏あるいは擬似官吏、そしてそれに纏わりつくパラサイト集団を、単に安定した食い扶持集団、あるいは国家を食い荒らすバチルス集団もしくは狡務(公務・コウム)集団と呼び、それらが狡猾にも清規(成文法)を振り回すなら、陋規(掟,習慣)によって守られるのが歴史に随った適切な生活法がある。昔は法律と掟、習慣、が表裏を支え調和した営みがあった。
いまは、裏仕事として利用し合い、ときに食い合う世界である。

長々と章を割いたが、実は街の侠客にその効用を認めたゆえ、前段として記したのである。







安岡氏を慕い、教えを請う人物は様々だった。政治家、警察官僚、浪人、商売人(財界)、その中には名をはせた侠客もいた。とくに紳士の振舞いを見せ、安岡氏をうならせた侠客もいた。人物は「人の価値は名位衣冠や職域ではない」と実感させられたと語る。



都内近郊の古い町でのことだった。ご他聞に漏れず妙なボス体質が蔓延り、お役人の人気取り補助金や、石原君に迎合する五輪宣伝啓蒙費など、庶民の自立を妨げる「御下し金」の使い道に、物珍しいイベントやおざなり行事に鼻を膨らませ、御用意識に染まっている街に唯一、オリジナルな地蔵供養の縁日が昔から続いている。

毎年七夕は近郊から人が集まり、歩けないほどの人混みで、普段人通りの少ない町が一挙に騒乱のように盛り上がる。近在の学校の卒業生が各々集団を作り屯して、制服姿の女子高生が路上ら胡坐をかいてたこ焼きを頬張っている。いくつもの集団が睨み合い、タトゥーを見せびらかして挑発している。

当日はサミットの関係で警察官も制服二人。PTAのお母さん達は腕章を巻いているが、若者達は敢えてコワモテな行動をみせている。
昨年は終了後、場所を変えて集団で喧嘩している若者達である。

しばらく様子を見ているとS君が挨拶に来た。かれは筆者の勉強会に友人を連れてきた好青年である。父親は広域指定組織の親分で、かれは実子(じっし)と呼ばれ、幹部である。
昨年も誰に頼まれることなく自主的行動をとってくれた、この現場である。
「S君、本来このような場所で制服警察官が目立った行動をしたり、民間警備と称して計画行事のように行なうのは本来馴染まないものだ。昔はS君たちが自分達のシマ廻りで酔客や粗暴な若者を注意して、子供やこの町に訪れる人を守っていた。それが本来S君たちの誇りある仕事だったんだ・・」

「わかりました」と言うなり、雑踏の中を若い衆をつれて入っていった。
しばらくして、「煙草を吸っている連中や、行儀の悪い連中を注意しましたょ」
お陰でコントロールが効かなかったイベントが大過なく行なわれた印象があった。

今年は、総勢10人以上のいかつい仲間を連れて、睨み合っている各々の若者集団の間に張り付き、まるで監視するように彼らを黙視していた。そして交通規制が解除されテキヤさんたちが清掃を始める頃、時間を惜しむように屯する若者達を帰途につかせたのは彼らの一声だった。
「掃除の邪魔だから、もう帰れ!」「ハイー、解散」
反抗的に映る彼らも、その声に順々と随った。

オセワサマとS君に声を掛けると、「こんなことでも問題が起きなければ子供達が安心してくることが出来る。僕らがやっていることを知ってくれれば良いですょ」
何十人いる配下の若い衆も同じ気持ちだという。








「永く風儀を懐かしむ」蒋介石筆 山田純三郎称徳碑文



ヤワで屁理屈を述べるものが、暴力追放の屏風に隠れ、いたずらに彼らを人括りする民情は、かすれた環境をより粗暴で狡猾な勢力を生み出すことは集積された歴史のいたるところに記されている。とくに当局の一部は彼らを使いその一部と同衾し、より狡猾な姿を社会に浸透させ、善なる義侠心をも融解させている。

高倉健や鶴田浩二のように格好のいいものではないが、どっこい侠客は社会の一隅において善男善女の生活を、敢えて目立たぬ姿で支えている。

どこの世界にも飛び出し者はいる。また似非(えせ)によって名利を貪るもいる。
利権政治屋、腐敗した公務員、堕落した教員、これらは人間の尊厳を毀損、収奪するために生きる輩であるし、侠客にも財貨のみに堕した一群もいる。みな反社だ。

しかし、人の在り様を問い、敢えて稼業社会に其のスジを認め、人から蔑視され呼称される「暴力団」に身を置く彼らの姿の中に「任侠」を認める筆者も同じ日本人だと、妙な安堵を覚える臨機だったことを、眼前の備忘としてここに記す。

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再読 2001年には多くの反論を頂いた拙論だが・・

2023-10-04 01:34:41 | Weblog

     「名山の元に名士在り」と詠われた 青森県岩木山


2001年初頭の寄稿で「今、地方への下放の時代?」という題名だった。
今、地方は疲弊しているという。そして都市に人々が集まってくる。

何かおかしい、近代国家日本・・・


以下、本文

 糜爛(ビラン)文化の写し絵でありながら中央思考の強い雑薄な人間が集い、情報というガセネタが飛び交う東京を中央と勝手に呼び、その他の地域を身勝手にも地方と錯覚している。
 地方といえば「文化程度が低い」はたまた「インフラ整備が遅れている」だから「食っていけない」などと評価したり、そんな御仁に限って隣国やアジア地域を「遅れている」「後進国」などと呼称している。地図上の呼称である「何々地方」はあるが、都会人が哀愁なのか、それともたまに出かける物見遊山の想い出からか、「地方の文化」などと褒め上げても鼻白む思いがする。

 中央と呼んでいる都会とて,一旗上げようと上京したものや、何代前は鹿児島だとか、北海道だとか、江戸にさかのぼれば三河から連れられてきた職人さんだとか、所詮,寄り集まりの「無い混ぜ文化」でもある。

 そんなところでも居心地がイイのか,功成り名を遂げ、ついでに利を得た政治家がいつまでも中央に滞留している。待てば海路の日よりかな、褒賞狙いもいればパーティの挨拶役など、早く出身地に戻って後進の指導でもすればいいものを,そんなのに限って何年前かの悪事が露呈してお縄になる勲章持ちもいる。地方としても帰ってきて威張られたのではかなわないとばかり,揉み手で床の間に座らせ利権獲得のメッセンジャーに仕立て上げている。

 もともと中央というものが政治の中心とはいっても江戸築城のころは開発地域であり職人飯場のあつまりのようなもので、女性は飯盛り女か遊女。まともなのは?大店の女中か武家の腰元ぐらいで,男も熊さん,八っあんの長屋話のようなもの。約8割近くが独身だったそうで、ときおり嫁話があると「越後屋のお手つき女中をもらった」などと自慢の種になったようだ。立身出世の絵物語ではないが、家柄や出身校という風袋を自慢する昨今とひとつも変わりがない様相であったようだ。

 あの鬼平犯科帖で有名な長谷川平蔵が活躍した前後は、今と同じく若者が集まれば衣類やかんざしといつた装飾品を自慢しあったり、男は何々道場で稽古をしているとか、脇差は誰の銘があるものだとか、今と変わらない浮俗の態であった。余談だが、徒人と称して,罪まではならないが日がなブラブラしている遊び人を石川島に連行して石組みなどの殖産事業を行ったのも平蔵である。

 そんな江戸の庶民ではあるが,しばらく住むと地方出身者を「田舎もん」とか「きたれもん」呼んだりしているが、どうも似たり寄ったりで変わりがない。面白いことに当時の感覚も、北を背にして西を向き,文化は西からといった考えが強かったようだが、大いなる田舎人、まさに「江戸東京人」の面目躍如といったところである。

 維新の薩長とて,先ずは進駐軍の威光もさることながら江戸武家や庶民文化の習得に努め一時の中央風情に浸ったものだ。

 出身地では出目とか家柄があり、なかなか『旅の恥は掻き捨て』といった解放感は無いが、その『掻き捨て場』はいたる所にあるのも煩雑とた中央の特徴でもある。なかにはのっぴきならない事情を抱えて東京に来るものがいるが、ここでは民主とか人権意識がはびこり,虚勢と錯覚によって程いい営みができる重宝な地域でもある。

 ないよりはあったほうが良いと思われるくらいで、なんら人格を表現することのない地位,名誉,学歴、財力は附属性価値として本質とはかけ離れた虚勢の道具立てにはなる。あるいは暴力,詐欺、奢を、勇気や知識、幸福と置きかえる錯覚に安堵するような出稼ぎ根性の一過性価値も、自由と人権と民主の名のもとに゛生き生きと活力を持って゛細菌の如く繁殖している。それらは本物の゛出稼ぎ゛の真摯な労働まで蔑んでいる。

 もともと国内の文化交流は物質交易や、体制制度としての交替。庶民においては神社仏閣等の講による代参などがあるが、戦国時代などは公家落ち,平家落ちが各地に散り、鎮まりをもって特徴のある地域文化をつくりあげている。

 それは゛落ち゛という境遇に加え情報の集約地域であった京の地域性からくる広い知見や、やもすれば糜爛した中央の諸芸や裏返しの゛はかなさ゛や風雅が、寂寥な心の境地と豊潤な自然とあいまって,より高度な心の゛置き所を゛薫醸している。

 しかも、そのなかでも棲み分けがあり、分別もある狭い範囲の掟(陋規)である地域独特の生活規範をつくりだしている。心底には京への望郷や回帰への願望が強靭な精神の持続をたすけ、また゛落ち゛の遠因となった爛熟,糜爛,堕落を戒めたしきたりを伝統化して回帰と誇りの精神維持に勤めたのです。

 現在はその地方にスポットをあて,中央のシステムや権限を移す動きがあるが、つまるところ、自制の欠如から有り余る陳腐な富と煩雑な情報に息が詰まった中央の自堕落した姿の塗り替えに他ならない。なかには偽の地方もあって権限拡散を利権の拡散として予備段階での受け皿として既成事実を作り上げているものもいる。

 地方的とは地方なりに何を学び何を覚醒するかが問題である。なにもインフラが整備されたから設備を地方に移すとか、ゴミ処理事業に 補助金をつけて自営させることが地方ではない。

 山が高いから削り,谷が深いから埋める。これは政策ではない。自然の循環をなぞっているだけだ。 故事に『平ならずものを平すれば平ならず』とあるが,平らでないものを平らにすれば不平がでるということだ。能力や特徴の違いがある地方や、あるいは人物をたかだか人間がつくつた評価基準で耳障りのイイ平等観念を振りまかれたのでは、おのずと不平は出る。

 はたして地方のどこがよくて地方と言うのか。地方的なのか地方性なのか、自然なのか人間なのか。どうも判別がつかない流行言葉だが、それとも中央が難儀なので帰りたいのか。そんな婿養子の戯言にも聞こえる。

 よく改革は地方からといわれるがシステムや制度が整っているからではない。簡単に言えば「躾」という習慣学習ができている人間が多くいるからだ。それは中央の集約される情報を価値として迎え入れるだけではなく、情報の中にあるインテリジェンスを選別する習慣学習の基礎となる分別と、自然の循環を栄枯盛衰の習いとして見分けることが可能な゛鎮まりの英知゛があるからだ。

 つまり地方をどうするかより厳存する地域文化から学ぶことがマニュアル化されヒステリックになった飽和国家の応用力ではないだろうか。

 科学的根拠と言う代物に生活スタイルそのものが安易にマニュアル化され、政策頓智すら編み出せない中央の環境。その環境にあるものを「中央」と呼び,地方政治も同様に中央集権の分配ステーションとして各地の功利的デリバリーを呼びみ、法人で言えば現地法人として見られている名目自治体も、体裁はいいがシステムの内情は似たり寄ったりの機構の小型化が大部分である。

 最近,石原都知事も自治の回復を唱えて脚光を浴びているが、足元の実態は生半可な事では覚醒しない。どこでもそうだが公選の弊害か出先首長の腰が落ち着かない。

 こんなことをいうと時代が違うとか現地を見なければ、などと゛なるほど゛という舌ハナシが飛んでくるが、どうも世間の騒情が気になるのか、鎮まりのなかで孤高な精神の涵養が適わないようだ。まるでお茶ッ引きの麗女が入り口のドアを気にする風でもあるが、そんな首長に限って盛大な送別会の宴のあとに悲哀をかこうものだ。


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彼らの低俗で卑しい手段と態度 11.11再

2023-10-03 01:36:28 | Weblog

   「なでしこ」   関係サイトより転載




よく政治家が庶民に親しむと称して記者を引き連れ居酒屋談義をする。
似たようなことだが、台風や震災などにみまわれた災害地に現地視察と称して真新しい作業着を羽織って、行列を組んでいる。

作業着が慣れないせいか、生地がなじんでなく恰好悪い。着心地良くするには、一度洗濯してから着るのが普通だ。なかには襟を立ててファッションを気取っているが、国会で作業着ファッションとはさまにならない。
たしかに自衛隊は制服の隊員として被災地で神々(こうごう)しい姿を魅せたが、一方の制服マニアにはその風はない。

民主主義の国民代表は大衆から選出され、議員としてその任に就いている。内閣を組閣すれば官僚を統括し戦闘命令さえ出せる負託された権力をもっている。その代議員になるためには平身低頭、街頭に立ち笑顔を振りまき、ビラを配る。選挙中は選挙法を盾に警察から狙われ税務署からも身体調査をかけられる。それは現役宰相も同様だ

当選して内閣を組織し、税と治安を指揮監督する立場になると。一転して官吏はその代議員の指揮下になる。なかには揉み手で懐のなかに入ろうと切り取り情報を抱えてくる官吏もいる。マスコミは「昔のお前はこんなだった」とばかり、権威などそっちのけの醜態や、ときには痴態までのせて引きずり降ろしに懸命となる。その理由は、公人はプライバシーはない、と開き直る。




                      

             櫻はどこにもあるが、リンゴの花は五月の津軽は静かで美しい

              

それゆえ女房もターゲットになる。男と違い、衣装や嗜好、ひどい時には食べ方や歩き方、体型まで俎上に載せられ、おちおちジャージでゴミ出しなどできない、いやゴミさえ探られないかと心配になる。

その女房だが、総理の外国訪問に同伴するようになった。べつに儀礼ではないが独身を除いて通例のようだ。なかには仲が悪く、口も利かない女房でもタラップを降りるときは手をつなぐか、脇を歩く。しゃしゃり出る女房もどうかと思うが、どうも日本の男子はなじまない。それは「私ごと」は潔しとしなかった男子の矜持があったためだ。
「奥さん」「内儀」とは奥にしまっておくものだ。いや裏のほうが権力はあるし、妙な媚びを振りまかなくてもいい。その分、大事にされたともいえる。

余談だが、内閣には女性閣僚が必須となっているようだ。名目は人権や平等、雇用均等を唱えてのことだろうが、権力イメージや選挙が多くの理由だと大衆は分かっている。
ファッションショーではないがカラフルな原色スーツが議場を闊歩している。なかには国営放送の出身のアナウンサーが当て職大臣になった途端、管轄省のアナウンサーとなって得意の原稿読みをしている。
ここまでくれば,もつと若い各省の広報女子アナでも養成したらどうかとおもう。

隣国の逸話だが、哀公が孔子に面白い話をした。
「引越しに女房を忘れて置いてきた奴がいる」
孔子は応えて
「女房ぐらい何のことはない、いまは自分を亡くしているものが多い」


役にありつけたが、中身の無い者は形式にこだわるという。まして、近頃では腰の落ち着かない、いや落ち着けないほど任期も短くなると形式世界に踊るようだ。そして滑稽な演技の振り付けは、狡猾な官吏でありセリフまで用意してくれる。しかも一つの演目に二つも三つも台本がある。近ごろはロングランもなく幕引きも多くなり、次の出し物や役者を選ぶのに忙しい裏方とプロデューサーの二役もこなしている。

隣国のことだが、官僚OBが北京に行ったときのこと、タクシーに忘れ物をした。
いつも聴いている民情ゆえ、まず見つからないと思っていたところ、帰る前にホテルに届けられていた。官僚は正直で名も名乗らぬ運転手にいたく感激した。
帰国してそのことを吹聴した。「安全だ!」と。
ところが、なぜホテルが判ったのか考えもしなかった。









翻って(たちもどって見る)我が国の要人といわれる者にもSPがつく。昨日まで繁華街で女を追いかけていた者も役がつけば警護付きの要人である。総理経験者も就いている。
隣国のそれは、たしかに安全だが、監視付きだと思えば合点(がてん)がいく。
組織警護は「監視」と「調査」が表裏一体に付いてくる。力関係では要人監視になってしまうのは当然のことだ。演ずるものは作業着で、部下の警護はブランドスーツである。

ことさら服装にこだわるつもりはないが、ならば自衛隊の観閲式には陸、,海、空の指揮者らしく宰相の礼式制服を制定したらどうだろうか。明治以降、軍人は陛下に軍服をまとわせた。武断の武家社会でもなかったことだ。軍は陛下に軍服を着せ統帥の権を、参謀本部との直接関係に置いた。だれが言い出したか平成の御世は宰相に作業服を着させた。みな唯々諾々として前任に倣った。

国民にとっては慇懃(いんぎん)な迎合に映っている。権力者が形だけでも下々に降りてきたと思っている者もいる。昼飯は幕の内弁当かおにぎりだが、夕飯は取り巻きや女房と豪華なホテル晩餐だと新聞の動向記は書いている。誰と何時間、何を食ったかSPは報告書に書く。本人も「総理になるとそうゆうものか・・」と納得している

総理も配下の閣僚もやわな身体をつかえまい。君たちは頭を使うことが使命だ。作業着は作業をするために着るものだ。先に書いたが、どこの世界に親分が作業服でお付きがブランドスーツ、可笑しいと思わないのだろうか。
それが、日本の権力者と云われる人間の姿であり、それを囲む狡猾な群れなのだろう







心を痛めているのは、自らすすんで平服で避難所の板間に膝を折り、国民をねぎらい激励し、荒廃した大地や海に頭を垂れている御方と妻、そしてその姿に畏敬の念をもつ人々だ。

低俗で卑しい一群はそれさえも感応することはない。
いや、いずれ形式のために、いずれその御方さえ利用するだろう。


江戸っ子から「野暮な格好つけ」と嗤われるのがオチだ。

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その人は任侠の薫がした 13  4/9 

2023-10-02 14:46:29 | Weblog
 

青森県は県下を南部とよばれる地域と西方の津軽とよぶ二分する地域があるが、その津軽氏を藩祖とした城下町に弘前という市がある。
あの「名山のもとに名士あり」と詠んだ明治の言論人陸羯南の生地でもある。

その弘前で幾度か訪れた居酒屋でのことだった。
「わっ(我) が作った漬物だ、旨いよ」
カウンターの隣に座った客が近ごろ心地よくきけるになった津軽弁で女将に持ち込んだ漬物をしきりにすすめる。酔客にもこだわりを持たないせいか、また旨かったためか話がはずみ、カラオケが始まった。この地域の人たちは歌が巧い。
よく男は陰気で頑固、足の引っ張りが特徴だと津軽の女性はいうが、ここには威勢よく威張るような、あるいは開けっぴろげで粋な江戸っ子のような軽妙さは少ない。
だが、腹は同じだとおもえる素振りがみえる。女に好いかっこしい、酒が好きで歌が巧い、違うのは時折みせる「にんまり」の感覚だろうか。

その騒ぐ旦那が席を立ったあと、カウンターの端に座っていた70代の客が「迷惑かけましたね」と、こちらに話しかけた。
黒々した短髪で眸は優しく透きとおっている。若いころはそれなりの人生を渡ってきたのだろう、初対面の客に気を遣ってくれる。
「この店の女将は俺を叱ってくれるんだ」
女将も70を少し越したくらいだが、張りのいい肌はきっぷのよさと、色気とよぶには、こちらが気恥ずかしくなるような落ち着きがある。料理の手さばきや酔客の扱いなど、そこいらの居酒屋にはなくなった見事なこなしがある。









その客に惹かれたので隣に移動して挨拶をした。なにも、どこから来たのか、何をしているのかなどの野暮な挨拶もなに、 その気遣いに礼を言った。
「言っていいかい」
女将に何事か伝えている。カウンターの上に置いた左手は中指が根元から欠けている。
その筋なら普通は小指だがこの客は不自由な左手を器用に使っている。
「わしは貧しくて学校にも行ってない。北海道で土木工事をしていた。人を出して上前を撥ねるようなこともしなかったが、 いつの間にか大勢付いてきた。いっぽんどっこだ。」

その「いっぽんどっこ」は組織を頼りにせず、また徒党も組まないことだ。
「学校も行ってなく、それを一生懸命にするだけだった」
「当時は今と違って大変だったでしょう」
「北海道の現場でやくざだか土方の荒くれが何を思ったかナタをもって脅かしてきた。わっ(我)は、ちょっと貸せととりあげて自分の中指をみてる前で断った。小指だとやくざになるが、わっはこれを落とした」

決して武勇伝を語るような烈しさと高揚感は無い。
「一緒についてきた連中はこれで苛められなくなった。医者にいって二三日して帰ったら目の前に一千万が置かれた。そんな意味はなかったが、彼らのしきたりなんだろう。連れて行った連中からははじめから礼など貰わなかったが、皆が貰ってくれという。だがわっは無学のいっぽんどっこ、そんな料簡は無い。わっの喰い扶持は、わっが働いたモノだけでいいと貰わなかった。世話してもらったら商売人だ。」

そんな気分だから刑務所にもながい間世話になった。それで82にもなってもその気分が抜けない。人に迷惑をかけたらいけないという気持ちは行儀のよくない酔客にも向けられる。
『迷惑かけましたね』
「つぎはゆっくりとお話をお聞ききしたい」
無言で差し出した右手は温かかった。添えられた左手は心なしか弱かった。

いっぽんどっこの津軽の任侠、枕詞のように添えられた「俺は学校行ってないんだ」
律儀で生真面目な人生は、任侠の徒の眸に映る世間のうつろいを見透かしているようだった。
畏敬すべき無名な任侠の徒に随うように、戸口から道路まで添う己の自然な仕草に、吾ながら昂揚した稀な酔譚だった。

また、津軽が楽しくなった

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