まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

台湾を気遣う皇后の御心 園遊会  あの頃

2021-10-22 03:40:08 | Weblog

   台湾の日本語世代  礼儀正しく言葉も美しい

 

ここでも政治的問題が眼前に横たわっっているかのようだ。

台湾断行の時、情の薄さを 嘆いたのは中華民國台湾の国民、表面的には歓迎したが日本人の功利的、阿諛迎合をみて「本当の日本人はいなくなった」と哀れんだのは大陸の華人だ

 

春の園遊会で台湾選手と結婚した福原愛さんに陛下のお言葉につなげて愛さんにお言付けを依頼した。

東日本震災の時は台湾の方々にお世話になりました。よろしくお伝えください」と。

それは愛さんに会ったら必ず伝えようと、つねに意中に懐いていただいた皇后のお言葉だった。

 

以前、このブログで記したが、震災慰霊に当時の野田総理は台湾を国と認めず、会場の二階の一般席に駐日代表を指定して指名献花すらさせなかった。中国政府は一階席で国名を呼ばれての献花だ。

九州より狭い地域で三度の食事を一度にしてもと多くの庶民が義援金を供出し、かつ日本とは歴史的にも所縁のある台湾である。

 

中華街の台湾華僑も、台湾を自慢できるほど頑張った。馬総統は黄色いブルゾンを着てテレビて援助を唱えた。だか゛それにも増して国民は自発的に動いた。政府も思いもしなかった日本への人々の熱情だった。

台湾は志行義行という独特な共助意識が定着している。ある老人施設などは職員33人、居住している高齢者40名がボランティアとして受付や来館者の案内などで活躍している。ことさら資格や給与などは問わない。とくに日本人の来訪では昔を懐古するように丁寧な日本語が周囲を飛び交い和ませてくれる。

 

         

授業が終わると手洗い   衛生意識が高い     台北   

 

 

慰霊祭の政府の対応は大国となった中国に阿る人情のかけらもない応対だった。

だが、陛下は園遊会に駐日台湾代表馮寄台(ひよう氏を招待して、深甚な礼ををもって感謝のお言葉を述べている。筆者も訪れるたびに何度となく馮氏からその感激を聴いている。

 

 

                                            

 

 

今回は福原愛さんに皇后が台湾国民に含まれた意の伝達を依頼している。

台湾と皇后の秘話だが、妃殿下のころ一子の流産から体調を崩したとき、台湾出身で慶大医師の荘淑キ氏から心身ともに養生に預かったことがあった。それも二十年に亘って義志で度々参内した。師の提唱する宇宙体操と薬膳料理は今でも宮中では浸透していると聞く。

一昨年の暮れ荘師は100才で亡くなった。しかし国交断絶ゆえ公的交流は適わない。

 

                                            

              荘淑キ医師 御長女事務所資料

                                         

                                       台北のご婦人と松崎さん

その事を光文社女性自身の皇室記者で民間侍従と称された松崎としや氏から伺った折、国母が永年にわたってお世話になった師の弔問も叶わない事情を嘆くとともに、これは政治ではなく人の情として欠けると訪台を企図し、28年3月縁者に面会して日本国民として感謝の弔意を献呈させていただいた。心意を忖度した台湾の方々が訪問の手配をおこない、官域の方々の秘めた厚遇もいただいた。

   

園遊会での皇后陛下のお言付けの意味は、歴史の恩顧と日台の厚誼を願う意志だった。

政治は諸事情を盾に言葉すら隠している。

 

余談だが、台湾(中華民国)と断行して大陸中国に流れた日本および日本人を嘆いたのは台湾の日本語世代だけではない。大陸の多くの人々は「恩知らずの日本人」と嘆いていた。それは「恨みに報いるには徳を以て行う」と号令して、多数の船を用意して多くの邦人を帰還させてくれた蒋介石同胞への大陸華人のおもいでもあった。

戦後、議員団が蒋介石総統に表敬した際、「あの節は・・」と言いかけたら、「私に礼を言う事より、あなた方の先輩に言うべきだ」と、中国の近代化の魁となった辛亥革命に挺身した日本人を想い起して感謝しなさい、忘れてはならない、との厳命だった。

それは革命の先輩であり孫文の側近であった山田純三郎でもあった。孫文が山田に「この国民党を率いていく後継者としては、どのような人物が・・・」と問うた際、「蒋介石君が適任でしょう」と応えていることでもその縁は生きている。くわえて頭山、梅谷、宮崎、犬養、秋山将軍など、多くの日本人が中国の近代化を援け、日本と一緒にアジアを興すという孫文の大経綸にみな挺身した恩顧があったからだ。

そして国交断絶だ。それから日本人を信用できなくなった、いや、真の日本人がいなくなったと嘆いた孫文同様、日本人への愛顧すらオボロゲニしてしまった。

体制は寄せる心情が微かになったから「友好」が、「誘降(ユウコウ、誘い降ろし)」になったのは当然のことだ。

 

それでも多くの大陸華人や台湾の人々が日本に往来している。

それは、何処か通底する人の情のなせることでもある。

人情は国法より重し

 

今回は、また両陛下の忠恕心に救われたようだ

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我々の憲法前文についての考え方  2007年12稿 再

2021-10-18 07:57:13 | Weblog

日本国憲法 前文 (私案)


 四方(よも)蒼海(そうかい)の鎮まり(しずまり)に在(あ)る我国の美風は、国家創立の礎(いしずえ)として顕示(けんじ)されている古代律令にある矩(のり)を範(はん)として、人間の尊厳を祈護(きご)する心を継承したものである。

その意思は万物(ばんぶつ)隣邦(りんぽう)の共存と安寧(あんねい)を謳う皇道(こうどう)の祈念を国維(こくい)として、国民に於いては等しくその目標のために勤めるべく、志操の涵養と相(あい)慈(いつく)しみあう姿を願うものである。

 それは人々の連帯と調和を司(つかさど)るために古人が宗(しゅう)とした我国の 徳目である、勤勉、正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳(とく)威(い)の修練を求め、歴史の栄枯盛衰に標(しる)された内省を鑑として、地球史に普遍的な恒心(こうしん)の自得(じとく)に他ならない。

 この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣好誼(こうぎ)において有効な日本国民の意思として掲げるものである。



                      平成17年2月9日 謹撰







 上賀茂





前文は民族の象徴たる御方の音読にたえうる含意でなくてはならない

ゆえに、中曽根試案にある「日本国は・・・」は遵守宣誓の部類であり、かつ地球儀上での所在説明などは論外である

まさに戦後の憲法下において謳歌したアカデミックに擬した放埓した表現であろう

いまこそ連帯と調和を司る政官の信頼を前提にするような自制的な矩の顕示が必要だろう





【憲法前文私案について】

元総務省大臣官房補佐官(CIO)
現 蜆の会代表  大 塚 寿 昭

永い歴史を繋ぐ我が国にあっても、「憲法」と呼ばれるものを持ったのは、わずかに二度しかない。聖徳太子の十七条憲法は当時、「憲法」とは呼ばなかったようだが、これを含めても史上三度しかないのである。

現在、国会を始めさまざまなところで憲法改定の論議が喧しいが、そのいずれもが時代に合わせた文言で、長々と説明するような「前文」を試案として掲げている。

読売新聞試案のように、数年のうちに三度も改訂を試みるなど、何か思慮浅く、いつでも改訂できるような風潮も感じられる。諸外国のうちには戦後かなりの回数で改訂した国もあることを例に挙げて、こうした考えも許されると考えている人もいる。

果たして、国の根幹法である憲法を軽々と変えていく国は、他の国から見て信頼が得られるものであろうか?

憲法前文とは、国格、つまり国の品格を自ずと現すものでなければならないと思う。
また、安易に変えないことを旨として、それに相応しい文章でなければならない。
日本国民には一度発した言葉を簡単には変えない、言葉一つひとつを大切にする伝統的な精神もある。

江藤淳氏の著作の中に、魏の文帝の言葉が書かれていた。

「文章ハ、経国ノ大義ニシテ、不朽ノ盛事ナリ」

また、文章そのものにも国の言葉の伝統を汲むものがなければならない。小学生の子供でもわかる文言にするなど論外である。

ここに我が畏友、寶田時雄氏が起草した憲法前文がある。
各位は一度お読み頂いて、憲法改定論議の参考にして頂きたいものである。






陛下は「我国に祖をもつ方が人々のために活躍されていることを嬉しく思います」

応えてフジモリ大統領は
『わたしは勤勉、正直、礼儀、そして母から忍耐を学び、それを国政に役立てています』






  フジモリさん




【憲法前文について「憲法前文私案」読後感】
     
               国策研究会 元評議員 村岡聡史

老子曰く、『大道廃れて仁義あり』

寶田時雄氏の「憲法前文考」の読了後、呻吟の中から忽然と浮上してきた言葉である。
実は、この寸言を以って一件落着したかった。
なんとなれば、文字化すればする程、当初の感激と直感が薄れ、本質が遠心的に離れていくからである。是は老子自身がもっとも戒めたことでもある。

然しながら、他方に於いて、郭末若の「歴史小品」に登場する現世利益追求の老子の意外な姿にも充分敬意を払う必要がある。若干、迷った結果、郭末若のいう老子先生の生存を賭けた健気な御姿に勇気付けられ、独言徒然に文を運んだ次第です。

以下、憲法前文私案と中曽根試案とを素材に次の二つの視点から「歴史的文章とは何か」というテーマに就いて、追ってみたい。
まず第一に、文章の威厳、格調、芳香について、憲法前文私案を一読して「是は徒者の筆ではない」と感ずる人は炯眼(けいがん)の持ち主である。
人によっては、読後感は異なると思うが、私は次なる感慨を持った。
即ち、前文考は水面下に老荘的な哲理が鎮まりを以って棲息し、言外の言から清涼で厳かな芳香がひそかに漂ってくるのである。

他方、中曽根試案ではあるが、たしかに平明で理解しやすい文体となっており、趣旨も共感できるところが多い。然しその反面、重厚性に欠ける点は否めない。
日清日露の開戦詔書、大日本帝国憲法の前文、そして終戦の詔書にしても、当代随一の碩学が精義入神をもって筆を入れ、永い歴史的風雪に耐えうる格調、芳香、威厳を兼備した重厚な名文のなか、国是の趣旨、理想、目的等を明示されている。
中曽根元総理は国政から退かれたといえども、平成日本の政界の太綱の役割を果たされている。願わくばその点に関して、試案の再考を望みたい。

次に、言葉の選択と思想の深遠について述べてみたい。
憲法前文考については、安岡正篤氏の一節を引用して、私の独言に代えたい。

国家というものは、非常に複雑な自然社会、本然社会であって、人間が勝手にこしらえたものではない。色々な因縁で人々が相集い、生活を共同にし、その間に、思想だの、感情だの、利害だのいろいろな関係が成立して、それが永い年月を経て、次第しだいに複雑な内容を持って発達してきたのが国家だ。だから、国家のなかには共同生活、共通利害、共通感情、共通理念、歴史的因縁、いろいろな内容があります  

                                                   著、「運命を開く」から


この安岡氏の文章を氏流に翻訳すれと、この「憲法前文私案」になるのではないか、私は斯様に考えている。
なお、この前文考に「皇道」という言葉が登場する。之に就いて一部の方々から批判の声があるかもしれない。この問題を私なりに考えて見ますと、
大切なことは全体をトータルに評価して、然る後に細部を静かに点検することが重要である。
この観点からすれば、憲法前文考の「皇道」は、全体の趣旨から「大道」と解することができる。要するに、「大道」とは自然界や人間社会に普遍的に貫徹している哲理や、道徳を意味するものであって、それが我国では「皇道」スメラギの道という言葉で表現されるわけです。

 ところが、批判の声の大部分は今述べたことを一切棄てて、動物の条件反射と同じ類の空騒ぎを演じている。知恵と理性を備えた人間の論とは思われない。海舟の言ではないが『空論は腹が空くのが関の山』である。
こうなってしまった根本原因は、議論が弁証法的に展開できない日本民族の特質をみる。

つまり、日本人の多くは、対話(欧米におけるダイアログ)が不得意なわけであります。従って生産性のある議論は期待することは難しい。
言葉の洗濯(選択)に忙殺されている間に、肝心な赤子を流してしまわないように心がけたいものです。

畢竟の所、言葉は記号に過ぎない。重要なことは、その言葉の無限の組み合わせによって不可思議に生成し、文全体が内在的、主体的に包含している、格調、芳香、威厳、思想、哲理などの深淵を烔察することである。

二十世紀を代表する理論的理学者のハイゼンベルグは喝破している。
「部分の算術的総和は、必ずしも全体にならない」と。
文章も然り、前文考を賢読する場合もこの点に留意したい。

中曽根案に就いては、言葉の選択も思想も標準的であり、これでもよいと思う。ただ憲法前文考を「木」に喩えれば、百年に一本、乃至は百万本に一本在るか否かの原木である。
欲を言えば切がないが、この原木の意義と価値を一人でも多くの人々に正しく理解、認識して頂くには、この原木に名工による彫刻を若干施す必要があるかもしれない。
其のことは、この原木の銘木たる所以を、決して減ずるものではない。なんとなれば、この原木は「大道」であり、彫刻は「仁義」(人為)に過ぎないからです。

最後に告白しなければなりません。
この原木の第一発見者は、官界の風雲児たる大塚寿昭氏であり、大塚氏の直感に優れた発見、カント流に申せば、先験的認識に基づく発見というものが無ければ、私の読後感は表明し得なかったでありましょう。
見出す人も、見出される人。憲法前文考は国家にとって不朽の原木である。

平成十七年三月 記

 

参考 中曽根私案

◆自民党新憲法起草委員会の中曽根小委員会がまとめた前文素案

 日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化をつくり伝え、多くの試練を乗り越えてきた。
 日本国は、主権を持つ民主主義国家で、国政は国民の信託に基づき、国民の代表が担当し、その成果は国民が受ける。
 日本国は、自由、民主、人権、平和、国際協調を国の基本として堅持し、国を愛する国民の努力によって国の独立を守る。
 日本国民は正義と秩序による国際平和を誠実に願い、他国とともに協力し合う。国際社会において、圧政や人権の不法な侵害をなくすため不断の努力を行う。
 日本国民は、自由とともに公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造と地方自治の発展を重視する。自然との共生を信条に、美しく豊かな地球環境を守るため力を尽くす。
 日本国民は、大日本帝国憲法および日本国憲法の果たした歴史的意味を深く認識し、現在の国民とその子孫が、世界の諸国民とともに、さらに正義と平和と繁栄の時代を内外につくることを願い、日本国の根本規範として自ら日本国民の名においてこの憲法を制定する。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間をして禽獣との異なりは敬重にあり. 09. 1/21

2021-10-10 17:03:50 | Weblog

 

昨今は公文書でも改竄隠蔽を想定し、狡猾な知恵を巡らして起文するという。

文は経国の大業にして不朽の盛事也と。

文は民族の歴史綴であり、その時代の盛衰を書き遺す事である。

 

 

以下は筆者が30代のころ文京区白山の安岡正篤邸書斎にて、初めての面談にもかかわらず、監修を願った頌徳文である。

文中、笠木良明(満州建国精神的支柱)氏と大川周明氏は一時期運動を共にしていたが、その後、袂を別かった間柄ではある。安岡氏とも関係も深く、三度も読みかえして「直して宜しいですか・・」と丁寧に一部添削され監修して頂いた。

余談だが笠木氏の葬儀に一番先に駆けつけたのは安岡氏である。持参供物は笠木の好きだった月餅であった。

そして「文は上手い下手ではない。また浮俗や時世に迎合するものではない。百年先でも君の至誠が通ずるものでなければならない。そのときの一人によって国は興きるからだ・・・。文というものはそういうものだ。」

文はできるだけ短く、読み音(オン)を大切にするようになったのはそれからだった。

その意味で、ブログ文章は難しい。

易しく記すように努力するが、長々と説明調になってしまうため心根の半分も表現できない。

以下の普段聞き慣れない頌徳文は眺めると難解だが、人の経年表層の変化を織り込んで百年先の人間を逆賭できる。そして何度か読むと経文のようにオンがつっかえなくなる。

そもそも石碑彫(刻す)り後世に偉業を遺す文体として、書面に記すものとは趣を異とする碑文となっている
碑を読んで習う、慣れる、すると何となく人の世が上空の鳥の眼のように時空を超えて俯瞰できるようになる。ある意味では真贋が見えてくるということだろう。

思わぬ縁に誘われた碩学とのオーラルヒストリーは、吾が身を溶け込ませることだと教えてくれた。



【頌 徳 表】


明治維新の大業は吉田松陰先生の指導に因って成就す、蓋し過言に非ず、先生は夙

に国難を憂ひ日夜肝胆を砕き有能なる子弟育成に心血を注げり  

憂国の忠魂今尚長州に脹る、村本忠言翁は明治三十年八月九日長州に生れ五十一年

三月三十日長州に鎮す  

翁は幼にして憂国の志厚く長じて学び順って忠魂の気概益々旺んなり  

秋恰も昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降るや我国古来の道義 美風 荒廃せり翁

は憂慮し決然と起つ

抑々翁は笠木良明先生の知遇を享け爾来国一を憂うる同志相集いて諮ること婁々なリ  

時節到来日本再建法案大綱の編纂に当りその発起人に名を列ね国家の発展に貢献す

る処実に少なからず、然も尚翁の志操の遠大を遺さんと欲すれば則ち奮って翁の記

された言辞を以ってその極みとす

曰く 草芥の一声は天下に隆々として鳴り響くと、翁は争いを避けて和を尊び終

始、尽而不欲、施而不受の気節に富み又先人言う所の第宅器物その奇を要せず有れ

ば即ち有るに随って愉しみ無ければ無きに任せて晏如たり  

而して然して語らず菰蓄を啓いて袴益することを太だ多し  

俊英の志行半ばにして七十八才を以って長ず、児孫等日夜其の遺風を懐い憤んでそ

の遺徳を肝に銘じ競々として其の志操を忘れず、翁の生前を偲び永くその功を敬ひ

謹んでその徳を頑し以って紀念と為す


    撰文      寳 田 時 雄

    老師    安 岡 正 篤 先生添削監修 




              

            孫文撰書 山田良政頌徳碑  弘前貞昌寺



頌 徳 表 ルビ  (徳を讃え明らかにする)

明治維新の大業(たいぎょう)は吉田松陰(しょういん)先生の指導に因って(よって)

成就(じょうじゅ)す、蓋し(けだし)過言(かごん)に非(あら)ず、先生は夙(つと)に

国難(こくなん)を憂(うれ)ひ、日夜肝胆(かんたん)を砕き有(くだ)能(のう)なる子

弟(してい)の育成に心血(しんけつ)を注げり(そそ) 憂国(ゆうこく)の忠魂(ちゅ

うこん)、今(いま)尚(なお)長州に脹(みなぎ)る、村本忠(ちゅう)吉(きち)翁(お

う)は明治三十年八月九日長州に生れ 五十一年三月三十日 長州に鎮(ちん)す 

翁(おう)は幼(よう)にして憂国(ゆうこく)の志(こころざし)厚く(あつく)、長じて

(ちょうじて)学び順(まなびしたが)って忠魂(ちゅうこん)の気(き)概(がい)益々旺

(さかん)んなり 

秋(とき)恰も(あたかも)昭和二十年八月十五日終戦の詔勅(しょうちょく)降るや

(おり)我国古来(こらい)の道義(どうぎ)美風(びふう)荒廃(こうはい)せり 翁は憂

慮(ゆうりょ)し決然(けつぜん)と起つ(た) 抑々(そもそも)翁(おう)は笠(かさ)木

(ぎ)良(りょう)明(めい)先生の知遇(ちぐう)を享け(う)爾来(じらい)国を憂(うれ)

うる同志相(どうしあい)集いて(つど)諮る(はか)こと婁々(しばしば)なリ  

時節(じせつ)到来(とうらい)、日本再建法案大綱(たいこう)の編纂(へんさん)に当

り(あた)その発起人(ほっきにん)に名を列ね(つら)、国家の発展に貢献(こうけん)

する処(ところ)実(じつ)に少なからず、然も(しか)尚(なお)、翁(おう)の志操(し

そう)の遠大(えんだい)を遺さん(のこ)と欲すれば(ほっ)則ち(すなわ)嘗て(かつ

て)翁(おう) 記された(しるされた)言辞(げんじ)を以って(も)その極み(きわみ)とす 

曰く(いわく) 草莽(そうもう)の一声(いっせい)は天下(てんか)に隆々(りゅうり

ゅう)として鳴り響く(なりひびく)と、翁(おう)は争いを避けて和を尊び(とうと)

終始、尽而(つくして)不欲(ほっせず)、施而不受(ほどこしてうけず)の気(き)節

(せつ)に富み、又先人(せんじん)謂(い)う所の、第宅(だいたく)器物(きぶつ)その

奇(き)を要(よう)せず、有れば(あれば)即ち(すなわち)有る(ある)に随って(した

がって)愉(たの)しみ、無ければ無きに任せて(まかせて)晏如(あんじゅ)たり 而

して(しこうして)黙して(もくして)語らず薀蓄(うんちく)を啓いて(ひらいて)袴益

(ひえき)することを太(はなは)だ多(おお)し 俊英(しゅんえい)の志(し)行(ぎょ

う)半ば(なかば)にして七十八才を以って(もって)長(ちょう)ず、児孫(じそん)等

(ら)、日夜(にちや)其(そ)の遺風(いふう)を懐い(おもい)、慎んで(つつしんで)そ

の遺徳(いとく)を肝(きも)に銘じ(めいじ)、競々(きょうきょう)として其(そ)の志

操(しそう)を忘れず(わすれず)、翁(おう)の生前(せいぜん)を偲び(しのび)永く

(ながく)その功(こう)を敬(うやま)ひ謹んで(つつし)その徳(とく)を頌し(しょう

し)以って(もって)紀念(きねん)とす

昭和五十八年九月吉日

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする