まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

貪りの民の必須学 「賄賂学」の提唱 11 1/20再

2024-03-21 09:55:17 | Weblog

2012年 夏


隣国、中国の専売かと思ったら、防衛庁、国交省、東京都まで騒いでいる。こちらもオスプレイ同様ヘリコプターや地下に潜った水道工事、どこにでもその種はある。尖閣竹島も大切だが、納税者にとってはこのバチルス退治の方が重要だ。

こんなことをしているから狡猾官吏の手玉にのった貪り議員の扶養費(生保)押し込み、便宜供与が目立ち、議会答弁でも官吏の不手際の言い訳を議員が負っている状態になる。
あえて極論、奇論のごときに映る「賄賂学」の提唱は、実に合理的実利の真理であろうと考える。どうだろうか・・・、体形化して論理付けたら面白い学説が現われるのではないだろうか。
今の時節、この教科に取り組むもの益々多くなること必然。

まずは東大法学部や警察大学校が魁となれば国家にとって有益なる効果が出るはず。


以下、再掲載

少々、長文だが・・・


これはアカデミック(学術)な経済論や学校のカリキュラムにはないものだが、隠された人間の所業として、重要な部分を占める問題でもある。金と便宜のやりとりは法律という成文法には犯罪もしくは抵触するものとして周知されている。それは表の数値を支え、もしくは支配する重要なポイントでもあるが、あからさまにされることはない。


その姿は、上に厚く、下に薄く、実利の量にあわせて配られる。
胡錦濤主席が訪れるところ首脳外交では各々数兆円の購入をおこなっている。飛行機をはじめとする高額なものだが、民主国家の経済を熟知した金の使い方だ。そのようにあからさまな使い方は日本では馴染まなかった。「金で頬を叩く」様な態度は成金か金貸しとして蔑まされた。近頃は「そうはいっても喰うのが先決」とばかり、抵抗感がなくなり、政府の消費税折込の御用金の配布に誰もが手を出すようななっている。「貰えるものは貰って当然」とより多くの御用金を強請るようになってきた。



               




つまり、貰い慣れるようになったのである。もちろん此処で記す賄賂にも抵抗感が少なくなったかといえば、逆に賄賂に関係した人間を徹底的、執拗に糾弾して嫉妬の溜飲を下げている。それは隠れて貰って判らなければ、という人間の質に似てくるようだ。

ビジネスに例えれば、成文化した契約書もその不可は、接待、便宜供与、賄賂というアンダーテーブルが有効さを増すことに似ている。


それは華人の商慣行が世界に周知され、市場確保のために順応せざるをえなくなった国々は、中国の善悪規範を超えた賄賂(人情、潤い)の考え方に驚愕の有効性をみている。とくに開発国であるアフリカや南米、南アジアにおけるアンダーテーブルの即効性は市場や資源の確保競争に群を抜いた力を見せつけている。またそれに倣うように賄賂に対して穢れ意識や宗教規範を持っていた諸国も、背に腹を代えられないとプラスアンダーテーブルの手法を陰ながら研究し始めている。

表立ってアカデミックの土俵に乗せられない厄介な問題のために遅々としてすすまないが、生活の習慣性となった華人の賄賂提供と人情の確保には足元に及ばない。華人はあからさまに、ダイナミックに、当然の如く行動できる柔軟性がある。

その理解はグローバル・スタンダードを提唱し、また追従した範囲では許されないダーティーなものだった。それはその世界のルール違反であった。あくまで表面的にだが。

賄賂には許容量もなければ、無知のためかセキュリティーもない。あるのは当世三百代言であるコンサルタント、弁護士の食い扶持であるコンプライアンスによって自身の智慧や突破力を自縛した結果でもある。またこれを倣い学び活用するすべもない。それは余りにもアカデミックな論証や検証に馴染まないからだ。

だか、経済のすすみ方がいままでの経済論にあるスタンタード(基準)を超えて出現したとき、どのように対応したら良いか戸惑っているのである。それは数値や成文化されたデーターなどに過度にこだわり、唯一の選択として考えたために、本来、人間のなりわいの根底にあるエスノペタゴジー(土着的)な考察を無意味なものとして忌諱してきた結果でもある。

金融資金によって生産を管理し為替、投機によって利潤を生んできた中東に根をもつ民が基準として広めてきたシステムが、人の所作応答と欲望を自然な営みとして実利ある人情(賄賂)を交換していた民族の勃興によって世界のいたるところで戸惑いと煩いを発生させている。

表相の力である政治力、軍事力が賄賂を添えることによって、相手国の政策まで転換し転覆さえおこす。日本でも戦後間もなくは戦後賠償で多くの相手指導者に資金提供をおこなった。あるときには女さえ提供した。また冷戦時には各政党のスポンサーは思想の類似した其々の大国からの提供だった。政党会館の建設資金数億円の現金を風呂敷包みで受け取ったものもいる。隠れているが当時の売国的行為は現金より利権だった。


                 


賄賂は商行為の契約、政治の政策も変える。関係する個人の懐にねじ込む、あるいは手を差し出すものにわたせば良いだけだ。海外口座に入金、親族の便宜供与など手口は様々だが、数人の総理候補者からそれぞれ金をせしめる議員も多いようだが、賄賂学でもあればで教師にもなれるが、あくまで上手に貰うための、゛さもしい゛部類だろう。

これほど認知され、効用もあり、相手も喜ぶ賄賂をいつまでも儘っ子するものではない。
いまのカリキュラムにない「人間学科」の「金銭哲学の認知とその手法と効果」として作ったらどうだろうか。
経済学科では、もっとも効果的な資金の活用としてシステム化し、その実例を背任汚職、贈収賄事件の前科者と検事、知能犯事件の捜査二課担当者に事件の表裏と、捕まらないためのセキュリティーを聴講したらいいだろう。


それは社会規範や法の運用者や執行者が弛緩して、賄賂成立の元となる日本人の「貰い慣れ」「渡し下手」が顕著になったこの機会に、是非とも表面化して、みなで学ぶ賄賂学が必要のようだ。経済も停滞し、政治もオボロゲ、加えて「金」という善悪を包み込んだモノに理解もなく、しかも弱く、金によって是非分別、公私の峻別もなくなる人間の本質を考えるべきだろう。



              






あの田中総理も権勢もさることながら、役人の本人家族やマスコミ、配下の陣笠の佛祝儀に現金を手渡し「人情だ!」といわれると皆、懐に隠し持つように受領する、ある意味では大らかさが金の穢れ意識を祓ってくれる。渡し慣れ、貰い慣れの賄賂なのだろうが、不思議と社会は活気があった。

その様態は、渡し方、貰い方、隠し方、使い方、と表の経済に増してダイナミックかつエキサイティングで、どちらも智慧を絞った、゛面白み゛といって良いほどの満足感があるようだ。十手持ちの袖を出す仕草や、岡っ引きのタダ酒も、お目こぼしの情けといったものだが、現在は執行者でも戸惑う煩雑な法を乱造して、合法的に小銭を召し上げる手法がとられている。十手持ちは御上のご政道を盾にしたが、いまは安全の為、公平の為と妙に口も挟めない納得性が添えられる。

マネーロンダリング(資金洗浄)ではないが、人情を添えた目こぼしが無い代わりに、投網のように細やかな法を駆使した合法的、組織的な徴収が行なわれている。あまりにも機械的なためか名目の公的題目を越えて国民の怨嗟の発生を膨らませている。

文明国家の体裁なのか、人も法も金次第という狭い範囲の一種の潤いの関係のようなものを、倫理道徳上、あるいは法治の守護として、あるいは我国の民癖であるという四角四面な構え方を法治の姿として、面前権力の執行者に委ねた結果、善なる施政との印象となった。しかし、間違いなく、善であるという見方とは逆に、運用者や執行者の専権として肥大化し互いに税利を貪るようになったことも現実だろう。しかも、それが止め処もなく増殖しているのである。

先に書いた口応えもできない怨嗟は選挙で選ばれた政治家に向かい、その体たらくから官吏コントロールの信頼は薄れ、国民各々も社会的貢献は官製イベントに括られ、個々の公徳心や他にたいする貢献などは官任せの状態となり厭世観すら漂わせている。

総じて観れば裏や陰のやりとりがある社会は民衆がダイナミックである。たしかに、あの高官は賄賂がすごい、あれは賄賂のお陰、と聞くし、それゆえの持たざる者と持つものの差は拡大するが、それでも生活力と人情の連帯はみるべきものがある。

古諺をひけば「平でないものを、平にすれば、平でなくなる」といって、もともと働けず、金儲けの手段もなく、貧しいものを、人為的に金持ちと平均化すれば、不平がおきる。また社会の連帯もなければ、立場の違いを超えた積極的な社会参加も乏しくなる。なぜならありもしないような、人に当てはめる「平」という考えは双方に苦しみの情(苦情)の種を蒔くことになるからだ。また平等分配を待つことは、「動かずにその位置にいなさい」、ということでもある。

この時代、職分はあっても身分はない。身分は貰う立場にも既得権益を与えるし、渡すほうにも専権から生じる既得益を与えるものだ。つまり、身分の固定化は自ずから発生させていることでもある。

賄賂は色々な姿に変えて立場を任ずる人間に潤いを与えている。法のあるところ賄賂は必然であるといっても過言ではない。また利だけでなく「便」を得ることでも賄賂は発生する。状況を容易にするために「利便を働かす」というが、配達人に荷物を速く届けてもらうにもインフォーマルな銭の提供がある。最近のバングラデッシュのことだが、郵便局の窓口や配達人にも当然の如く手を出すものがいるという。パスポート取得の手続き期間を短縮するのに便宜賄賂は多くの国で共通した官吏の姿だ。








               

  彼は与党の小遣い賄賂には無縁の位置に自らを置いた

  独り自民党案に賛成して起立する野党の渋谷修議員
      与野党談合忖度議会に反発し、55年体制の終焉の端緒となった
 





日本人の満州官吏は真面目だった。「しかし」と古老は笑う。「あの偽満州はよかった。泥棒も少なく役人も賄賂を受け取らなかった。だがお陰で俺達小役人には小遣いが下りてこなかった。これには参った・・」

「あの頃は多少の悪いことをしても金持ちは金を配った。「力」というものはそうゆうものだ。いまは賄賂を貰っても銀行貯金だ。ひどいものになると海外口座と子供を海外に出して永住権をとり、いつでも逃げられるようにしている。本当はみな考えていることだ。あの偽満州の日本人はこの地で死ぬつもりで頑張った。ただ泥水でも生きられる魚は清水でも生きる。しかし清水に生まれた魚は泥水では生きられない。早く負けて日本に帰ってよかった。そうでないと日本そのものが亡くなっていた」

渡すことと、召し上げられることとは自ずから異なる。
日本人からすれば五右衛門の「浜の真砂は尽きぬ・・」と思われるほど賄賂が流行っているが、中国の歴史に多く登場する宦官の賄賂は言葉を変えて「人情を贈る」という。
ただ、成文法ではご法度である。汚職の処刑はいまも絶え間なく続いている。

「上下交々利を征れば、国、危うし」というが、皇帝はもともと己の所有する国なので獲る理由が無いが、宦官は性器まで切り取って宮廷出仕するためか殊のほか賄賂に敏感である。忠臣蔵の松の廊下の刃傷沙汰も内規作法を、教えた、教えない、の争いだったが、これにも礼という貢物が絡んでいるという。大奥の寝所の睦み話しも口添えがあったようで、茶坊主と老女の監視のもとに秘事を行なうようになったというが、これにも便宜賄賂が絡んでいる。

宮廷でも内外の諸国から貢物が皇帝の前に並べられるが、一番目立つところに置くことが宦官の職権であり賄賂が発生する。この場合はお礼、つまりその世界の礼儀作法のようなものである。それが輔弼として権力を壟断するようになると賄賂どころではなく国家予算すら掠め取るくらいに強欲になる。

紫禁城とはいうが、ことのほか禁ずることが多かった。官吏が禁ずることを作ればつくるほど賄賂が増えるのは古今東西、いずれも同じだ。ただ地方官吏と紫禁城の宦官との官々のやり取りは我国の官々接待と同様だが、彼等はあくまで金のやり取りだ。それに引き換え我国は金では足が付くと、旅費、宿泊、宴会付の官々接待だが、民間が絡むとノーパンしゃぶしゃぶやゴルフ会員権贈与、天下りの予約など官吏らしい「さもしくも卑しい」饗応が繰り広げられる。

一時、規制緩和が叫ばれたが、隣国鄧小平の開放政策同様、政策などというものではなく、縛り上げた規制を「解き放った」だけのことだ。ただ解放されたときの民衆の姿は異なるため隣国はより慎重さを求められる。香港返還後も一般の自由往来はない。はじめは幹部の子息が基盤を作り、香港らしい自由を謳歌した。いまでも香港パスポートは中国にはない特別な効力がある。

 

              

 


我国でも晩節まで司直の世話になりそうで、なりっこないと見透かされている元大蔵の最高幹部は、ゴルフ場開発が盛んだったころ、労働省のノンキャリアを道連れにゴルフ場回りをして帰りには会員権を貰って帰っていた。ゴルフ場には労働省管轄の規制があるためだ。売れば数千万がざらだった会員権も、土産に会員権二枚とは恐れ入った所業だ。

これは、お縄になっていないが、便宜供与はある。それも認印一つの世界だ。
この大蔵、労働コンビは関東一円のゴルフ場の新規開場に絡んで、数億円の紙切れをもらい、労働官吏は数奇屋様式の豪邸まで業者の便宜を受けている。もちろん親族も公務員だが、生活費は管理下の売店の経理を操り、給料は手付かずの優雅な人生を過ごしている。

あのリクルート事件でも労働省幹部が逮捕されたが、地味な役所と思われている今の厚生労働省の規制権限も大蔵キャリアの威光に添乗するように、行政全般に投網のように広がっている。ともかく四角四面といわれる日本の官吏もその狡猾さをみれば、世界に冠たる秀逸さを誇っているようだ。立身出世を支える学校歴は文科省、命は医薬と医院を管理下におく厚労省、それが金主の財務省と個人的な関係になれば、治安官吏も手を出せない。

あのロッキードのときに裏道で車と車の尻を合わせて五億円を渡したといわれたが、国家予算さえくすねる国から見れば、なんと些細なことだと嘲笑される。
賄賂なりコミッション、はたまたチップを生活の足しにする倣いは欧米にもある、とくに暗黙の身分がある地域は、有る者が無い者に贈るのは対価ではなく宗教的にも人の在りようとして贈るようだ。





               

         『なにごとも、ホドが大事だ』



「言いえて妙」ということが当てはまるなら、官吏に対して民間が媚び諂ってモミ手で差し出す金を懐に入れることと、心や気遣いに対して「心付け」を差し出すことに日本人は公私の間の弁えはあった。また、貧しい人や対価にならないような偶像には喜捨という文字を当てはめた。

江戸っ子は掌に隠れるくらいのポチ袋に紙幣をたたんで、分からないように襟元に差し込んだ。あるいは連れの子供に小遣いとしてわたした。

大勢の前で財布を開けないことが常識人だった。もちろん、長(おさ)は早めに席を離れ、相当の金を店のものに預けた。金は隠れたものであり、隠してわたした。割り勘で上司に悪態をつけられては割りに合わないが、その割り勘も近頃では行儀の悪い若手のアドバンテージのようになっている。

日本人は金の使い方、渡し方がことのほか下手なのだ。使い方が己の趣味や嗜好に限定しては、他からの見返りも人情もない。交際費や雑経費に頼れなくなった社畜や貪官はコンプライアンスや内規に縛られて実質数値さえ激減させている。つまり精神も身体も気が抜けて弛緩しているのである。これも幾らかは女房の管轄下にない金で始末は付く。


華人国家はその得意とするインフォーマルな手法を、経済発展と共にスタンダードとすべく世界を足下に置きつつある。

我国の官製ODAのように日本企業の採用と国内既得権者へのキックバックなどのようにシステム化されたものではなく、金の効用を公私の別なく、しかもケチらず投下している。しかも天下思想を観とした民族性癖は世界のいたるところを住処にしてダイナミックに浸透している。
我が祖国、我がグランドは天と地の間として地球の表皮を縦横に躍動している。

四角四面に非難することではない。グローバルスタンダードを提唱したのは白人社会だ。それも国家のカテゴリーを超えて、その時代の強国をヤドカリにして食い荒らしている民族だ。双方、インフォーマルな財利の効用を熟知し、その状況を都合よく作るために情報、謀略を駆使できる狡知もある。また人間の弱さも習性として認知している。

つまり、色(性)、食、財という欲望の本質を、虚構の知欲を発信することでコントロールし、そして彼等の得意とするグランドである商工業と金融為替に誘い込み、その仕組みを成果あるものにするために、獲物である民衆を思索と観照を不可能にして、獲物のセキュリティーである固有の神や精霊の志操を弛緩させてしまったことだ。

賄賂(金)で志操を売る民族と、一時の人情の交換と考える民族の違いは、付和雷同、四角四面を性癖とする人々には峻別が付かないだろう。なぜなら賄賂は邪まなことではなく、使い方、貰い方、渡し方、隠し方を「粋」や「通人」の魅せる世の情とした江戸庶民を範とすれば容易となるだろう。

見え透いた、もったいぶった、格好つけた、没落成金の見せ金は、渡したところで効用が無い。「もっと寄越せ」と続くはずだ。賄賂は悪銭となるか良貨となるかは、日本人が野暮で古臭いと忌諱した古き人々の倣いにあるようだ。

やはり、賄賂効用の学は必要だろう。

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