まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

羯南も熊楠も真之も、そして正篤すら歎いた点取り官学の愚 10.6再

2024-04-01 00:55:41 | Weblog

            南方熊楠



世の中はかくあるもので仕方がない・・・

その手の人には以下の章は煩わしい内容だが、それらの人間にとって人生は既存のタガに悩みつつも安逸平穏に過ごすための常識として理解されているようだ。


彼らは情緒とか心情という目に見えないものはは解析しようが無いという。だがネガティブに裏読みすることは殊のほかピントとがあっていなくても得意なようだ。

解析しようとする習慣性は,具体的行動の多くを占めている覚悟なり自身の目的構成などは読み解けない。ただ経過の記録と結果の定説である。







               





明治以降の官制学の大きな欠陥は、人間を感じ悟ることへの無理解と無価値への誘引だった。しかし、彼等は少し違っていたが、世間は理解しがたき人物であった。

とくに官学という国家の行政が「策」として施す政策では理解の淵にも届かない問題でもある。文部省の政策にある制度に義務教育があるが、これは六、三という年限を定めた小学校、中学校までで高校、大学は任意である。

至極当然なことだが、これが勉強と称するものではあるとするなら人によっては標題の如くである。

与えられた教科書を習い試験を経て夫々のステージにたどり着く、それを学問なりエリートと冠する人の選別に用することは彼等にとっては、なんとつまらない行為なのか、あるいは愚かなことなのかを実感したに違いない。


いま龍馬が流行っているが、幼少から成長に合わせてどんな勉強をしたかは定かではない。
また、ウツケモノのようだった龍馬が江戸の千葉道場の娘と結縁を機に、あのような気宇壮大に転化したことは秘めた学術があったに違いない。

当時のことだから読み書きそろばん、彼なら武士の倣い超えてソロバンではなく人の心の在り処、ここでは希望という名の欲目を感じ取って器量を測り、度量を量り、状況を謀ったのだろう。つまり生き方、活かし方がみえてきたのだろう。

これは何も今どきの大学や、当時の藩校に隷属したものではなく、無位無官、無名をもつ柔軟なグランドで自得したものだろう。そもそも国家なり、会社をプロデュースすることは、その位置から超然とした精神を持つような、その種の涵養をするものだ。

また、つねに動くこと、つまり多動性がその種の人物に共通している。枠にはまらないのである。松陰は必要とあらば東北にも遊学と称して飛ぶ。しかも耳は海外にも飛び自身も密航をを企てている。そこには藩律や国法すら狭い範囲の掟や習慣の類として考えている。




               >

    高杉晋作の交渉力と突破力は学問の肉体化と「公」への靖献にあった






よく「命懸け」と当世政治家の言にもあるが、聴くことはあっても観たためしはない。
彼等は飛び込み行為として死を受容したのである。しかも松陰は成果をみることもなく斬首されているが、言い訳や人のせいにはしない潔さがあり、それを自身の学んだ学問と母の恩だと言い切っている。そして、゛するべきこと゛は行い、幾許の未練はないと。


辞めた後に郷里に戻らず勲章待ちやパーティーの座持ち石として大内山(皇居、首都)の近辺を徘徊する官吏、政治家の亡者とは趣が違う。つまり標記の人物とは異なる゛卑しさ゛゛さもしさ゛が、夏炉冬扇(役立たず)の群れとして浮俗を飾っているが、これが最高学歴のエリートとして選別されている官学制度は限界というよりか、そもそも人間の尊厳を護持するための任にそぐわないばかりでなく、社会悪を形成している群れのようである。




                        

            晩年、「これからは熊楠でなければ・・」と





「真に頭の良いということは、直観力の有無だ」とは安岡正篤氏の言だが,言論人羯南、研究者熊楠、軍人真之もその直観力に優れていた。また人を観るといった座標も同じだった。

よく賢者は「義に覚る」とあるが、この義の存在如何で人物を判断していた。それは言辞や文章観だけではなく、他に対する忠恕、突破力、忍耐力(継続)、邪に対する諫言なり抵抗、それらは常識に安住し安逸している人々にとっては脅威であり恐れとなるものだった。

そして変人ではあったが、自身にはその自覚すらなく、「変」ではあるが「偏」ではない自負があった。それゆえ官学の点取りを自身の意に照らして潔しとしなかった。それこそ人を「偏」する見方であり、学究なり自己研鑽の妨げになるとも考えていた。彼等はそれを時間の無駄と考えていた。

本来、「我ナニビトゾ」と自己探求し、不特定の他に属する歴史、社会、将来の利福に用いる学問が当時流行した立身出世主義という食い扶持学や妄想学に陥る他の学徒の姿を暗澹とした気持ちで観察し、将来を逆賭したとき立志という直感が肉体化された学識からほとばしったのである。







羯南を教導した東北の西郷と謳われた菊池九郎


               




舌鋒は伊藤博文をたじろがせた羯南は言論人として商業マスコミの将来を憂い、秀でた人を見る目は正岡子規を入社させ俳句を再興した。

みな人物を観る目があり、信じたら包み込むように,吾が事のように、協働した。

なによりも智や仁、そして不特定多数のために吾身をささげるような義の香る人物を見抜く見識があった。

翻ってわが国の政治家、官吏、経済人に「観人の則」の座標が定まっているのだろうか。

国民の選別眼、閣僚の登用、経済人のカウンターパート、師の選択、これらは全て人間の問題にかかわってくる。

昭和の怪物といわれた矢次一夫は「三トリになるな」と言いつづけた。
「サントリ」とは、給料取り、借金取り、年金取りである。

生活に必須なことはわかるが、それらに没頭して矜持すらなくす男子を嘆いた。かれは官製の学校歴はなかったが多くの人びとの役に立つことを自身の命としていた。

゛点取り官学゛の群れとなり我そのものを亡失してしまう愚は今なお続いている。

「仕方がない」といわれながら。

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