大同学院生徒 左中華民国梁立法院院長 右 丘昌河氏 1989,y
二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。
【以下本文】
※ 2007,8,12 より 其の九まで連載しています以後、御賢読のほどお願いいたします
月別記事一覧よりご覧になれます
(3)黙って死んでいった池端敏さん
1945年(S.20)8月15日、日本の敗戦、満洲国の崩壊
その時、池端敏さんは、ハルピンの北、北安省警務庁長の職にありました。新潟県、輪島の人です。拓殖大学の先輩の一人でした。彼は剣道四段か五段。体躯堂々、ほのぼのとした暖い雰囲気の人ではありましたが、何処かしらに、きりっとした威厳が漂うていました。
物静かで言葉数の少ない“情を含んで片元なし”といったタイプの人ではありましたが、流石、剣道で鍛え抜いた、まれに見る偉丈夫。心と体、心身一体に調和のとれた大人物でした。
ソ連軍の進駐と同時に、多くの要人たちとともに、池端さんも、ソ連に連行され、シベリアの収容所に、放りこまれました。
その池端さんと、同じラーゲルに生活を共にしながら、幸運にも生きながらえて無事日本へ帰国したある人が、私を訪ねて来て、池端さんの最期の様子を、つぶさにお話して下さいました。
そのお話によりますと、収容所では、毎日の食事は、一塊りの小さい黒パンと一椀のお菜。といった、全く粗末なもの、しかも一日二食。日本人たちは、一様に飢餓状態に追い込まれました。ことに体格のずば抜けて大きかった池端さんは、見る見るうちに痩せ細り、明らかに苦悩の毎日が続いていたようでした。
ところが、その池端さんの一塊りの小さい黒パンは、何時も、きまって、誰かに、ちぎり取られて、一段と小さいパン切れとなっていたし、お菜の中身も、ごっそりと減っていました。
池端さんと同室だった彼、つまり、生きのびて帰国し、私を訪ねてくれた彼は、あまりのことに、魂の屈辱を感じ、ある日池端さんに
「あなたの食糧が、食事の度に誰かに盗まれているのを、御存知ですか」
とたずねたら、池端さんは
「まあ、知っています」
と、かすかに微笑しました。
「なぜ、黙っているのですか」
と、問い返したのでしたが、池端さんは
「みんな、お腹が空いているのです。誰でもよい。一人でも多く、日本へ帰ることさえできれば、それでいいのです」
と淡々と答えていたそうです。死地に臨んで、なおかつ己の志を欺くことがなかったのです。
何時も池端さんの食糧を盗み取っていた人は、満洲建国以来、常に指導的立場にたって、王道楽土、五族協和の先頭に立って来ていた、政府の高官の一人でした。
その後、池端さんも、その高官も、ともに栄養失調のため、あい前後して、シベリアの曠野に、永遠に帰らざる客となって、しまいました。
あの頃の日本人たちは、その根底において、無条件で尽くせる道をえらびました。私欲を棄てて、何物かに尽くし切れる、生きがいに生き続けていました。
とくに池端さんのように修業に修業を積み重ねた人にとっては、人間の知慧をはるかに乗り越えた所にこそ、永遠に明るい世界が有りえたのでしょう。
その後、何年か断ってからのことでした。市ヶ谷会館で、シベリアで散華した人々の慰霊祭が行われたことが、ありました。そのため池端さんの奥さんと、娘さんが、上京して、私の家にお泊りになられた事が、ありました。
終戦直後のことでした。今の長春で、私は非難民の中から、池端さんの奥さんを探し出して、私の家へお連れして来たのでした。お奥さんは、非難民で、ゴッタ返えす私の家で、一人お嬢さんを安産されたのです。しかもそれは池端さんの一粒種だったのです。そうした因縁のある、池端さんのお奥さんとお嬢さんとが、市ヶ谷会館の慰霊祭に、お見えになったのでした。
慰霊祭では、池端さんの奥さんと、池端さんの黒パンを盗み取っていた高官のおくさんとが、親しく言葉を交わしていました。私はその情況を見ながら、“これでよいのだ”と、何かしら、ほっとしたものを感じました。
黙々としてシベリアの曠野に餓死して果てた池端さん。敗戦という冷酷な厳しい現実を“天地の戒め”として受けとめたからこそ、甘んじて死に就いたのでしょう。
池端さんこそ、時代の運命に殉じながらも、自らの信念に淡々として殉じたお方でしょう。合掌
以下 次号
内容についてのご意見は
sunwen@river.ocn.ne.jp
連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます
※ 2007,8,12 より 其の九まで連載しています以後、御賢読のほどお願いいたします
二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。
【以下本文】
※ 2007,8,12 より 其の九まで連載しています以後、御賢読のほどお願いいたします
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(3)黙って死んでいった池端敏さん
1945年(S.20)8月15日、日本の敗戦、満洲国の崩壊
その時、池端敏さんは、ハルピンの北、北安省警務庁長の職にありました。新潟県、輪島の人です。拓殖大学の先輩の一人でした。彼は剣道四段か五段。体躯堂々、ほのぼのとした暖い雰囲気の人ではありましたが、何処かしらに、きりっとした威厳が漂うていました。
物静かで言葉数の少ない“情を含んで片元なし”といったタイプの人ではありましたが、流石、剣道で鍛え抜いた、まれに見る偉丈夫。心と体、心身一体に調和のとれた大人物でした。
ソ連軍の進駐と同時に、多くの要人たちとともに、池端さんも、ソ連に連行され、シベリアの収容所に、放りこまれました。
その池端さんと、同じラーゲルに生活を共にしながら、幸運にも生きながらえて無事日本へ帰国したある人が、私を訪ねて来て、池端さんの最期の様子を、つぶさにお話して下さいました。
そのお話によりますと、収容所では、毎日の食事は、一塊りの小さい黒パンと一椀のお菜。といった、全く粗末なもの、しかも一日二食。日本人たちは、一様に飢餓状態に追い込まれました。ことに体格のずば抜けて大きかった池端さんは、見る見るうちに痩せ細り、明らかに苦悩の毎日が続いていたようでした。
ところが、その池端さんの一塊りの小さい黒パンは、何時も、きまって、誰かに、ちぎり取られて、一段と小さいパン切れとなっていたし、お菜の中身も、ごっそりと減っていました。
池端さんと同室だった彼、つまり、生きのびて帰国し、私を訪ねてくれた彼は、あまりのことに、魂の屈辱を感じ、ある日池端さんに
「あなたの食糧が、食事の度に誰かに盗まれているのを、御存知ですか」
とたずねたら、池端さんは
「まあ、知っています」
と、かすかに微笑しました。
「なぜ、黙っているのですか」
と、問い返したのでしたが、池端さんは
「みんな、お腹が空いているのです。誰でもよい。一人でも多く、日本へ帰ることさえできれば、それでいいのです」
と淡々と答えていたそうです。死地に臨んで、なおかつ己の志を欺くことがなかったのです。
何時も池端さんの食糧を盗み取っていた人は、満洲建国以来、常に指導的立場にたって、王道楽土、五族協和の先頭に立って来ていた、政府の高官の一人でした。
その後、池端さんも、その高官も、ともに栄養失調のため、あい前後して、シベリアの曠野に、永遠に帰らざる客となって、しまいました。
あの頃の日本人たちは、その根底において、無条件で尽くせる道をえらびました。私欲を棄てて、何物かに尽くし切れる、生きがいに生き続けていました。
とくに池端さんのように修業に修業を積み重ねた人にとっては、人間の知慧をはるかに乗り越えた所にこそ、永遠に明るい世界が有りえたのでしょう。
その後、何年か断ってからのことでした。市ヶ谷会館で、シベリアで散華した人々の慰霊祭が行われたことが、ありました。そのため池端さんの奥さんと、娘さんが、上京して、私の家にお泊りになられた事が、ありました。
終戦直後のことでした。今の長春で、私は非難民の中から、池端さんの奥さんを探し出して、私の家へお連れして来たのでした。お奥さんは、非難民で、ゴッタ返えす私の家で、一人お嬢さんを安産されたのです。しかもそれは池端さんの一粒種だったのです。そうした因縁のある、池端さんのお奥さんとお嬢さんとが、市ヶ谷会館の慰霊祭に、お見えになったのでした。
慰霊祭では、池端さんの奥さんと、池端さんの黒パンを盗み取っていた高官のおくさんとが、親しく言葉を交わしていました。私はその情況を見ながら、“これでよいのだ”と、何かしら、ほっとしたものを感じました。
黙々としてシベリアの曠野に餓死して果てた池端さん。敗戦という冷酷な厳しい現実を“天地の戒め”として受けとめたからこそ、甘んじて死に就いたのでしょう。
池端さんこそ、時代の運命に殉じながらも、自らの信念に淡々として殉じたお方でしょう。合掌
以下 次号
内容についてのご意見は
sunwen@river.ocn.ne.jp
連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます
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