まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学 「国おもえば国賊」 今も続くその暗雲   08 3 再

2023-04-30 00:56:18 | Weblog

        台風一過


祖国といわれる我が国の人々に宿るものなのか、公位に就くものの集団的慣性は現在、因りその劣勢を深めている
 




 当事者聴取 所持資料による あくまで推考だが・・・・

牧野伸顕、近衛文麿、安岡正篤、西園寺公一、尾崎秀実、それぞれの立場にあった人間が、諮らずも、いや偶然にも意を一つにして振り払おうとしたもののなかに、国家を覆った暗雲があった。
遠くは聖徳太子が憲法と冠位を制定したころの、蘇我、物部ら世襲豪族による権力の専横によって、今では伝統という言葉に括られているような、遡ればカミゴトに由来する太綱というべき歴史の継続が侵害される危機感に似ている。



これは、あまりにも大きな権力を持ってしまった軍官吏の行き着く先にある亡国を、異なった座標で押しとどめ、あるいは敗戦後の国家の在りようを鎮考したものであった。
敗戦後というのは、敗戦が確信であり、またそうでなければならないという考察があった。
それは、ある意味で明治維新以降の教育制度のボタンの掛け違いというべき、指導階級エリートの速成によって積み残したカリキュラムにあった人間学の再復を求めたものでもあった。
明治天皇は帝国大学の教科内容を推考して将来訪れるだろう国家の行く末を、まるで予言するかのように、元田侍従に痛烈に諭している。天皇だからこその先見可能な直感でもあった。(聖諭記参照)


近代化を急ぐために西洋のアカデミックな理論が、ときにエスノぺダゴジー(土着的指導理論、アカデミックとは異なる人間関係を大切にする学習)によって培われた五計【生計、身計、死計、】から導かれた自己成立と分別を基とした我国の経国システムが、選択的統制組織(中央管理集権)に埋没して、単に合理的と思われているものが大義という包装によって国家目標にされてしまったことでもあった。それは綱維をつなぐ責任の存在を単なる組織の役割責任にしてしまうことでもあった。
明治天皇が危惧した「相」の存在の喪失でもある。

その既得権力と化した組織勢力は、富国強兵というスローガンをもってかき消すように邁進し、しかも、天皇の直感は活かされることはなく、平成の現代まで続いている







その暗雲は、目的のために作られた組織が、目的創出の根底にあった公意から離れ、まるで竜眼の袖に隠れるようにして増殖したためにおきた忌まわしい風のようなものであった。

軍は竜眼の袖に隠れ・・・云々といわれたような、軍を取り巻く権益構造と止め処もない国家伸張意識、あるいは誇張された大義に抗することのできない官僚の意識構造と既得権益にしがみつき肉体的衝撃を回避するための錯覚した学問思考にもその因があった。

もちろん政策決定機関である議会機能の崩壊及び議員の現状追認、傍観的看過もその類であろう。
それは知識修得の後に訪れる妙なニヒリズム、いや肉体的衝撃を回避するといった武士(モノノフ)の覚悟とは異なる死生観があったのだろう。


その深層の企ては歴史の真実としては無かったことのように、数人かの登場人物による別の事件にスポットを当てることによって、その秘めた意思は覆い隠された。近衛は自殺した、いやそれによって秘匿された企てがあった。
いや余りにも多い犠牲とエネルギーの浪費によって巻き起こされた戦争遂行への大義名分は、より「別の事件」の秘匿性を深めざるを得なかったといって過言ではない。






その別の事件とは国際謀略団による事件とも言われている、ゾルゲ事件との関連性を深めた尾崎、西園寺の動きと、近衛、尾崎等によるロシアの仲介による停戦交渉をコミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかも、これも一端でしかない。

西欧の情勢は不可解、と内閣を投げ出した政治家がいたが、それくらいに情勢観察に関する政治家の座標がおぼろげであったとともに、ヨーロッパから見ても蚊帳の外にあった東洋の小国のステージは狭く軟弱だった。

それは、利用するつもりで、逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾とも映るような構図を描いたのである。

その企ては、自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない










あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった。
もちろん封建といわれた武士社会も江戸の末尾には、武士(モノノフ)の気概が薄れて、姿形だけの怠惰な既得権者に成り下がり、外的変化に対応できなくなったことは、後の維新を呼び起こしていることに見ることができる。

だか、人間の分限を弁えた習慣や掟に内在していた自己制御と相応する生活守護に慣れ親しんだ庶民にとっては、維新のありよう云々より、穏やかなときの流れに懐古するには、そう時を要することがなかったことは、国家、国民の創生した明治の集権に馴染めないものがあった。
それは亡くしてしまったことへの哀れであり、そのために招くであろう国家の衰亡を予感する人間の憂慮でもあった。

国家なり社会に賞味期限があるとすれば、まさに幕末と太平洋戦争の敗戦は人間力の衰退と、歴史の残像にある資産の食い潰しのようにも考えることができる。
譬えそのことが産業革命以降に勃興した資源問題、あるいはそれ以前の植民地の支配を既得権として継続させようとする巧妙な戦略的謀略に飲み込まれたとしても、また西欧を知り、富国強兵政策の選択が当時のごく普通の近代国家の在りようだとしても、明治初頭の人的資質の変容は、さまに知識、見識、胆識にある人的資源の枯渇であり、歴史が培った資産の存在を認知しない行動であった。

しかも、混乱の後、結果として訪れた戦後の国家形態は「負」を排除するとともに、「正」もひと括りにして融解してしまう誤算があった。

この企ては専軍権力者からすれば反逆者であり、当時の国情からすれば国賊であろう。
それは大謀によって大綱の方向を直す作業であるが、一方、国際謀略との必然的接触による錯誤を誘い、歴史そのものから抹殺しなければならない企てとして忘却されようとしている問題でもある。

この暗雲の停滞を憂うる人たちは、往々にして現実問題の解決を謳い権力を行使する議会人及び調整役に成り下がった宰相とは異なり、また国家の護るべきものの見方が異なる思考の人間たちである。








筆者は縁ある市井の哲人から一幅の書を見せられたことがある。そこには
『春宵、夢を破って空襲を報ず 
殺到敵機 鬼ヨウの如し 
劫火洞然 君、嘆ずる勿れ 
塵餘却って 祲氛(シンプン)の絶するをみる』と撰書されていた。
《カタカナ、ひらかなは条幅が所在不明のため記憶をたどる》
 注目は結行にある塵餘だが、国家の塵(チリ)を除くということである。前行の劫火洞然はすべてを焼き尽くすことであるが、それによって国家に巣食う塵をはらって祲氛(忌まわしい気)が絶えてしまう、だから君、嘆くではない、という意味である。





平成10年撮影 岡本義雄



 市井の哲人岡本義雄は述べる
 20年の春、文京区白山町の町会長も務めたこともある安岡正篤氏を早朝訪ね、こう嘆願した。「聖戦ということだが、町では大勢の人が空襲で死んでゆく、先生は偉い人と聞いているがどうにかならないものか。このままでは国が亡くなってしまう」
 当時、安岡氏は大東亜省の顧問であり、政財界でも氏を慕う人多く、それゆえ戦争遂行の任にある軍、官僚に少なからず影響力を持っていた。

岡本の述懐は続く
「止むに止まれぬ訪問だった。だから突然だった。先生は無名な私の言葉を聞き入れ、大東亜省から差し向けられた車を40分近く、来客中!といって待たせた。数日して書生から届けられたのがこの漢詩と巻紙に記された手紙だった。それから先生を師として終生続いている。今でも人助けがあると名刺に「憂国の士、差し向ける」と書いて、どこそこへ行きなさいと導いてくれる。先生が旅行で留守にするときは、前もって電話で直接連絡を戴く。どこへ行って何日に帰ってくると。いつも日本人としての学問と精神の継続を語ってくれた」
  
民主を掲げている現在、国家権力が守るべきものは、『国民の生命と財産』といわれているが、現実問題に対処する政策の分かりやすい大義名分としては有効だが、こと靖国問題、憲法問題、あるいは外交問題における首脳同士の応答辞令になると、はなはだ軽薄な話題に終始してしまうことも、この大義の奥に踏み込めない、あるいは存在すら認知できない部分に多くの要因があるようだ。

『国民の生命と財産』は何のためにあるのか。
なぜ、生命と財産を守ることが為政者の命題なのか。

豊かな各種財があり、それを以って生きる糧とする理屈は、人間の織り成す文明の栄枯盛衰を鏡としない戦後教育の姿ではあるが、あまりにも軽薄な国家像のように観える。
民主は、守るものも守られるものも同一である。
守られることの権利と守る義務も同一である。
ならば生命と財産は何のために要するのか、生命は長命を願い、財産はプロパガンダに翻弄された豊かといわれる生活のための消費の用に置かれるのか。
政治家の言葉足らずもあるが、それで用が足りると考える国民の政治意識は、民主政治の劣性である、゛とりひき゛゛欲望の充足゛を交換条件として定着させている。







国家としての政治形態は客観的には社会主義、共産主義、独裁主義、民主主義があるが、民社主義以外は近代政治形態の実験期間であった二十世紀を経て衰亡あるいは機能不全のレッテルを貼られ、それらを選択、もしくは他から定義付けられた国家は武力強圧によって敗退している。良くも悪くも民主主義という統治方法によって駆逐されている。

それは、あの人民解放軍を率いて地主階級から農民に農地を移管するという、主たる耕作利用人に解放という名目で民衆の支持を得ている。それはあくまで土地の私有ではなく、管理者である党権力の統治形態のスローガンであったことは人民公社の政策経過によって見ることができる。あくまでスローガンは選択肢は支配者の都合の範疇にある。

第一次大戦後のヨーロッパの農業国家も同様であった。国家、商業に貸し出すことから、そのユーザーを土地耕作者である農民におき、今でいう消費者金融のごとく金利事業に邁進した金貸しの一団はドイツ経済をも席巻する勢いであった。
まさにヒットラーの登場する土壌はあった。総統になった彼は僅か3週間で借金を棒引きにするという試策をおこなったという。高金利にあえぐ国民は喝采を挙げ独裁政権を支持している。
それはある意味でヨーロッパを席巻していた国際金融資本との戦いでもあった。








そもそも国が存立する意義は何なのか、為政者の役割とはどんなものなのだろうか
そのスローガンにある生命財産を守るのが宰相をリーダーとする政治権力者なら、殺伐とした無機質な権力に対し、国民が組成した多面的有機的な人間の情緒との調和の触媒として存在するものが必要になってくる。

それは無形への祷りではないだろうか。精神も心もそうだろう。
為政者の政策を有効ならしめるものは、信なくば立たず、信に対する依頼であろう。
そこには根源的というべきリーダー論や統治者としての政策論が発生すると同時に、一方は紙に書いた規範とは異なる口伝、習慣、陋規(一定の範囲の掟)があり、それらが複合して国家として成らしめている。

内外問わず栄枯盛衰に表れた戦争の後、そして鎮まりをもった時、その根源的リーダー論の蘇りや歴史に循環回帰に導かれた、そもそも国家としての在りようを覚えた意思が再復することがある。終戦の詔勅は戦争の義と将来の平和を謳い、小泉総理の言う「米百票」の小林虎三郎ば人としての学問を、インドのパル判事はアジアの在りようと正義を説いた。

憂国、再興の選択肢は、一方の退去を謀によって促し、復古に描かれている深層の国力である万古の知恵の登場を企てたのであろう。
彼らは日本という国家を、国家としてなさしめる存在の崩壊を危惧したものである。
軽薄な国体護持という論ではなく、国体の謂うところの真の目的であり、聖徳太子が願った人間の尊厳の護持であり、その連帯と継承を俯瞰し、司る存在の守護にあった。
それは肉体的衝撃の届かない位置での企てであったがために、大が小を倒すには他力による謀略しかないと認めた末のことではあった。
また、大謀であるからこそ、見えないものであり、まさに大謀は計らずでもあった。


しかし、彼らもそれを上回る国際的大謀に利用され翻弄された。それは近衛の死によって覆い隠された。近衛の意図を具現しようと奔走したのは尾崎秀実である。尾崎は本願を懐にして満鉄調査部に席をおき、蒋介石国民党軍事委員会国際問題研究所との接触、北進を南進に転換させ英米と衝突させて早期和平に結ぶ意図が、逆にゾルゲの意図にあった日本軍ソ満国境から南転、ソ連精鋭部隊は陥落直前であったモスクワ戦線に転進、謀略によって描いた歴史の事実はそのとおりになった。

国際問題研究所の資金は英国諜報機関M16のパイル中佐を通じて拠出されている。もちろん北進から南進に転ずることも、あるいは真珠湾攻撃の3週間前から配置、司令官名まで筒抜けだった。
尾崎のあまりに純粋な精神は、意図する結果にはなったが総て利用される結果となった。
尾崎の意図は安岡の漢詩にある国内の「塵」の排除にあった。近衛もそうだったろう。






ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するにある。トップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。

盧溝橋、通化、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のために蒋介石打倒の国内闘争に利用されているようにみえる。国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そしてルーズベルトには伝わっている。

満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。

尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉に投宿して懇談している。
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか大きな謀略構図は、悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を、一足飛びに異なる方向に着地させた。

尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。


登場人物、関わりのあった人々は愛国者であった。それが結果として稚拙な謀だとしても恥ずべきことはない。被害者はアジアの民であった。総てその渦のなかにある。
只、考えられることは、戦後安岡が心血を注いだ国維に基づく真のエリートの育成は、結果として辿り着いた安岡の運動だった。俗世の浮情を憂い、地位、名誉、財力を忌諱して郷学作興に賭けた熱情は歴史の栄枯盛衰を教訓とした実学でもある。

しかも、無名でなければ有力に成りえず、と導く考えは、地球史、世界史を俯瞰する多面的、根源的歴史観であり、かつ、そのことを理解するには人間の尊厳と営みに対して自らを下座に置く沈潜の勇気が何よりも重要な学問だと促している。
空襲下、あの市井に潜む無名な岡本に応対する安岡の真摯な姿勢を歓迎したい。

あの企ては間違っていなかった。謀と言うには余りにも実直な行為だった。

まさに、「邦おもえば国賊」の境地であった。そして彼らは鳴らした警鐘は未だ途切れることなく聴こえてくるようだ。

 

イメージは関係サイトより転載させて頂きました

 

 

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天聴に達した「郷学」の淡交録   07,6 あの頃

2023-04-29 02:33:10 | 郷学

 

人はその力を数値評価に置き換えることがある。たかだか努力すれば上下したり、ときに嫉妬や怨嗟の対象になったり、まことに気の抜けない問題である。

しかし、たとえ2世であっても、あるいは独特の出自を以って恬淡に生き、その姿をして安心と鎮まりのある雰囲気を醸し出す人物が存在する。

写真の三方はいたって洒脱な粋人ではあるが、信念と目標の明確さは人後に落ちない。左は平凡社の邦さんこと下中邦彦氏、出版会の大立者であった父弥三郎の意を受け、あの東京裁判のインド判事パル博士と義兄弟であった縁でパル・下中記念館を運営している。隣は安岡正明氏 碩学と謳われた父正篤氏の意を継承して郷学作興に意志を添えている。一人置いて皇太后御用掛の卜部亮吾氏。入江侍従亡き後、皇室の語り部として、゛奥゛を切り盛りしている。つねに郷学に留意して、社会の真の力の涵養に心を砕いている。

古い言葉だが「天聴に達する」という。
天皇陛下にお伝えしているということだ。
小会の安岡講頭が園遊会の折、『かわらず勉強しておられますか』と、お声を掛けられた。もちろん侍従は「奥」を支える卜部氏である。
その卜部氏は横浜から拙宅に来訪されたり、節目には小会「郷学」の激励と期待を書簡にて御送達していただいた。

余談だが、御尊父正篤氏も園遊会で先帝陛下に『勉強されていますか・・』との御下問があった。親子二代にわたって「勉強していますか・・」とは昭和、平成二世にわたる稀有な期待でもある。


一時、鉄は国家なりと悲壮な国家観を抱いて経営に邁進した経済人は多かったが、近頃では流通、金融、通信、あるいはベンチャーといわれるような拙速とも見える経営は、市場の絶え間ぬ欲求から、一時の風雅を漂わすことの無い経営者が持て囃され、お上御用の委員に選任され御政道にも口ばしを入れている。

また大衆の人物観も一昔前の、゛大きいものはいいことだ゛から、゛目立つもの゛゛カッコいいもの゛と変化してより人間の流動性を高めているようだ。

郷学も三氏を始めとして多くの先輩に督励助力を戴いておりましたが、その出自や背景を口の端の看板にする政治家、経済人の輩の侵入に一時の休息を余儀なくされたことがあった。

君子の交わりは淡交とはいうが、利交、術交、詐交、熱交、の余りにも多いことか。『ゆっくり鎮まりを以って・・』言葉を同じくした三氏の意志を懐かしむ次第。






佐藤慎一郎先生




以下は発足時の「郷学研修会」の構成である
セミナーや人脈作り、はたまた看板知学の類ではない。
参会者は自由参加で、高校生、商店主、政治家志望、官僚、外国人など呉越同船の集いだった。

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/home 

※ 上記は更新されていませんが・・・

事務所 東京都港区元赤坂1-1-7-1103
    tel 03-3933-3475 fzx 03-5922-6400

 

郷学研修会 創立時構成

[顧問](発起督励)
     安 岡 正 篤    漢学者
     ト 部 亮 吾    皇太后御用掛り
     佐 藤 慎一郎     中国問題研究家
     安 倍 源 基     元内相
     五十嵐 八 郎     吉林興亜塾

[相談役]    下 中 邦 彦    平凡社相談役
        中 村 武 彦   古事記研究家
        岡 本 義 雄   思想家
       一 水 伝         環太平洋協会主宰

[講頭]     安 岡 正 明   長野銀行会長 郷学研修所理事長

[代表世話人]  寶 田 時 雄   (財)国際平和協会主任研究員 

主な講師、上記構成員(附属名称略)ほか

柳橋良雄 (安岡正篤記念館館長)   小関哲也  (時事通信内外情勢調査会)
ニック・エドワーズ (ジャーデンフレミング証券)  稲葉修  (憲法学者 法相)

ほか内外有識者


[規約等] それぞれの良識に任せる

[費用]  当日の必要経費の参加者分担 講師料は3万円を限度とする

[予算]  当日限りとして残金留保しない

「会場]  憲政記念館 渋沢別邸 瀬田大山クラプほか

[研修]  定例は毎月一回 一泊研修年1回

[会議]  総会等の組織会議は行わず運営は篤志世話人によって随時企画構成する



【郷学】きょうがく とは

〈 監修 安岡正篤〉


明治以来の富国強兵政策のための知識、技術のみに偏る官制学ではなく、地域、職域に基づく人間教育といった方が分かりやすいとおもいます。

 たとえば、学問や体験習得を生涯のことと考えた場合、官制大学へ入学する18歳までの知識修得で人生が決定され、しかも錯覚された地位、名誉、学校歴、それによる財力によって自動的に指導的立場におかれた場合、社会に妙な弊害を生じます。  

何のために知識が必要なのか、どのような場面で発揮すべきかが分からないまま、組織の一部分に安住していては、「何のために生まれたのか」「何を行おうとしているのか」「自分は社会(世界)のどの部分なのか」といった「自分」(全体の一部分の存在)が解らなくなり、ついつい地位や物によっての表現しかできない人間になってしまいます。

肩書のなくした退職後や、狭い組織や地域でしか通用しない地位、学校歴では世界に通用することもなければ、人生そのものを固定観念に置いてしまい、夢や希望といった爽やかで無垢な自分を発見することなく人生を終えてしまいます。

 偉人と称され、当時の列強の植民地化から日本を救った明治の賢人たちは今流の学校歴もなければ地位は下級武士、財もなければ肩書もありませんでした。

加えて、時代を見抜く見識と利他に貢献する勇気、そして何よりも日本および日本人として、またアジアと欧米の調和といった全体を考える許客と包容力を養い、そのために死をも恐れない献身がありました。

その根本は単に知識、技術の習得だけではなく感動、感激をつうじた人間教育の浸透的体験がありました。

それは、人と比較するものでなければ、中央に寄り添う迎合もなければ、財のみを日的にする行動ではありません。つまり修得の前提となる「本」となる精神の涵養でした。

そんな入間を育てた郷士の環境、歴史の恩恵にもう一度、価値を見いだす相互学習の場、それが「郷学」の楯唱でもあります。

                          



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生徒はお客さんなので・・・ 12 9/12 再

2023-04-25 06:07:52 | Weblog

日本農士学校



名古屋の大学講義に行った折、粗雑な態度をした生徒に注意したところ、表記の言葉で制された。

たしかに需要と供給を成立させる対価として授業料があるとすればそうだが、筆者はどこに行っても対価は受領しない。法人組織のしきたりだとしても、一旦は預かって生徒同士の交歓費用(コンパも可)もしくは、後日相応の関係書籍なり資料を送付することにしている。

だからという訳ではないが、生徒に叱るまでもなく、注意さえできない関係とは何なのだろう。生徒とて遊び半分の学校生活なら教職人は食い扶持安定職、教育環境の崩壊どころか人間粗製乱造の施設になり下がっている。

余談だが、国立大学の経済分野の教授だが毎夜単身赴任を慰めるようにカラオケスナックで遊んでいた。有価証券(小切手、手形)関係の専門だというが、カラオケは旋律の約束事であるリズムもテンポも不渡り手形のようだった。その教授はいつもホステスにうそぶいていた。「月に四日で月給は七十万・・・、住まいは官舎で家族は北陸だ・・・」
これは国立なので生徒は客どころではないが、教授の待遇と生活態度はシロ蟻だ。

その後、いくつかの私立大に招請されたが、施設内は都心の繁華街のように、厚化粧に流行りファッション、コンビニに喫茶店。芝生では女生徒がパンツ、スカートを問わず胡坐をかいて、なかにはタバコをふかす生徒もいた。

もちろん教場では手鏡化粧は当然なことだ。だだ、問題意識への感度は男子より優れている、いや男子の感度も発言力も乏しくなったのだろう。なかにはディぺ―トを学んでいるというが、強いものと女性にはからっきし弱いようだ。

どうも見たくないものを観た感想だが、「生徒はお客さん・・」大学当局についての学び舎はスーパーの特売に並んだジャンク品を扱わざるを得なくなるのも仕方がないことなのだろう。そして知識の販売員(教育労働者)の手にかかる生徒の成績数値など無意味な状態になり、商業施設に類似した大学そのものは崩壊すること必然である。

大学の崩壊、教育衰亡、この類を専門とする教科は未だ無いようだ。

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刑務官 有馬四朗助 「説教をしないキリスト教」 再

2023-04-22 08:45:16 | Weblog





当ブログでは知識技術の習得は、好き嫌い、向き不向きにかかわらず多くは自習、自得であり、与えられた課題に強いて勉める(勉強)のみでは人物は出来上がらないと記す。

しかも他人と己の分別(自他の厳存)については、頭で覚えたり、知ったりするだけでは成り立たないとも記す。

簡単なことは己と異なる人なり成果の仕組みをや経過を「習う」ことだけでなく、ことの行為として「倣う(模倣)」ことを促すことに知識技術の前提としてあるべきであり、それが高等教育への自発的発意や己の学問として特徴を伸ばすことだとも書いた。

その縁あったものが、郷のお巡りさんや医師、教師、あるいは菩提寺の僧侶であり、ときに外来の学問であり宗教だったりする。

人の縁だけでなく、刑務所を出所した翌朝の朝日の眩しさを見たり、風呂屋ののれんを通る涼風の爽やかさに覚醒することがある。そのように人は一瞬で変わる。男子 三日会わねば括目するとあるが、それは一瞬で訪れる。

後に来るのは恥ずかしさや慚愧の念だが、超えてみれば何のことはない、先ずは童のころの素心の甦りだ。そして人は優しくなれるし、強くもなる。つまり峻別と座標が明確になるのだろう。古典の「大学」とて「徳(己)を明らかにする」明徳を説いている。
行儀も悪く、調和心もなく、己も知らずに「知った、覚えた」類の学校歴をつけても何の意味もない人生になってしまう。

ここに転載する有馬四朗助氏の人生ですが、囚人(施設収容者)たちは縁の変遷にある転機に、彼らが倣うべき人物像として有馬氏を畏敬し、かつ自身の境遇を回想した。それは悔悛の芽生えでもあった。
そこにキリスト教があった。しかも日本の武士道にも似た忠恕や覚悟、使命感があった。

囚人たちは有馬の人物を倣った。あの人になら、あのようになりたいと。
今どきの他からの保護や生活再建ではなく、自らを変えることで自立自生することの大切さを知ったのだ。

教育でも「教えない教育」と云うものがある。武士の親子は「背中で教える浸透学」があるが、今どきのカリキュラムや数値評価もなく、たとえ文盲無学で立派な人物を養成することができた。それが津々浦々の郷に、しかも無名で散在することでこの国の深層の国力である情緒を涵養し、維持していたのだ。

人は立身出世を成功価値として夢を見る。しかしその座標はつねに下座におくことだと古代から賢人は云う。
有馬はキリスト教だったが、それもふとした縁だった。
万象、いたるところにその触媒となるものがある。
それを発見して己を自省したり、高度なステージに己をおくこともできるし、己に潜在する善な良心や能力を発見するすべともなる。

だだ、それに気が付くかどうか、学問とはそのようなものだ。







街の駐在さんと親しまれる警察官




以下、日本基督教団作成
キリスト教人物小伝(18)

有馬四郎助(1864-1934)



■ 網走刑務所の鬼典獄

 網走刑務所の初代所長、有馬四郎助(しろすけ)は鬼典獄と言われ、囚人たちに非常に恐れられていました。

 当時、網走刑務所は、釧路集治監の分監として開設されました。集治監とは刑務所の前進ですが、刑務所というより強制収容所に近い存在です。北海道には開拓政策の一環として多くの集治監が作られ、受刑者が開拓事業の苛酷な労働に従事させられました。

剣と銃とに見張られながら、足につながれた鎖をきしらせての重労働で、苦役に耐えかねて脱走する者も後を絶たなかったと言われます。獄内の秩序も乱れに乱れ、各地で殺傷、放火、暴動などが起きていました。そのような荒くれ者たちを扱うには、鬼のような厳しさをもって秩序を教え込むのが一番であると、彼は信じていたのでした。


■ 回心


 有馬は鬼典獄として受刑者から恐れられるだけではなく、キリスト教に大反対の人としてキリスト教教誨師から警戒されていました。しかし、そのような有馬が一転してクリスチャンになると、愛に満ちたクリスチャン典獄として、受刑者たちが敬愛されるようになります。

 有馬をキリスト教に導いたのは、釧路集治監で教誨師をしていた大塚素(おおつかひろし)という牧師でした。当時の北海道ではキリスト教の教誨が盛んで、後に女子学院の創設者となる原胤昭や、同志社総長になる牧野虎次など一流のクリスチャンが多く活躍しています。そのような中で、有馬もキリスト教に触れる機会が多くあったと思われますが、なんといっても大塚牧師が有馬に与えた友情と影響は大きなものでした。

 大塚牧師は、教誨の仕事のかたわら有馬のために『マルコ伝』の講義を郵便で書き送るという大変な仕事を始めます。この手紙は、北海道の厳寒中に指先を暖めながら深夜まで筆を走らせたものであり、講義の前後に祈りや助言が記されており、真理を伝えようとする熱意と友情に満ちたものでありました。有馬はこれをむさぼるように読み、キリスト教を謙虚な気持ちで学ぶようになったのでした。

 大塚牧師によって神の教えとキリストの愛を知った有馬は、巣鴨監獄に転任し、霊南坂教会の留岡幸助牧師より洗礼を受けます。そして、ひとたび洗礼を受けると、彼は非常に徹底した信仰生活を送るようになり、彼の典獄としてあり方も本質的に変化していきました。

囚人たちを力で抑えつけてきた態度を一変させ、刑務所における囚人たちの劣悪な環境を改良したり、社会復帰のために職業訓練の場をもうけたり、世の人々の監獄への理解を高めようとしたり・・・現在の民主的な刑務所のあり方の基礎を築いたのは、すべて彼の功績であったと言ってもよいでありましょう。


■ 巣鴨教誨師事件


 巣鴨教誨師事件は、有馬を鬼典獄としてではなく、クリスチャン典獄と世に知らしめるきっかけとなった事件です。巣鴨監獄の典獄に任ぜられた有馬は、教誨師事業が東西両本願寺の僧侶に独占されており、教誨をするにしても囚人たちを荒筵の上に一時間も正座させ、囚人たちはその苦痛のために教誨の言葉も耳に入らない様子を目の当たりにします。

 それを見かねた有馬は留岡幸助牧師を教誨師として迎えたのでした。ところが、これまで教誨師を独占していた本願寺の僧侶達がこれに猛反発し、全員揃って辞表を提出し、教誨堂から仏像を搬出し、事態を本山に伝えたのでした。

本山は、これを僧侶を解雇し、牧師を教誨師をした有馬の暴挙として非難し、政府(大隈内閣)にまで檄文を送る大騒ぎとなったのでした。新聞もこれを取り上げ、世論は沸騰し、議会に建議案が出されるなど、「帝国議会まで巻き込んでの事件となりました。

 そのような中、有馬や留岡は悠然と構え、囚人らのために日々の多忙な仕事を落ちついてこなし続けたといいます。結局、事件は本願寺側の空騒ぎであり、何ら合理性もないことが明らかになって事件は終息するのですが、これによって刑務界や世間に教誨師事業への関心を喚起させ、教誨師事業が真剣に考えられるようになるきっかけとなったのでした。

 

伝道師  賀川豊彦 (貧民救済 生協運動)



■ クリスチャン典獄として


 有馬四郎助は、監獄事業に対する市民の理解を深めるために講演活動などを行ったり、「監獄デー」運動を展開して、教会の礼拝で監獄にちなんだ説教をしてもらい、その日の礼拝献金を釈放された囚人たちの更正のために寄付してもらうなどしました。


■ 好地由太郎の交わり

 好地由太郎は以前にこのクリスチャン小伝でも紹介したことがありますが、殺人、放火などの罪で無期懲役となった囚人です。監獄の中で字を習い、聖書を読み、キリスト教信仰を持ちました。その陰には留岡幸助牧師や有馬の愛と計らいがあったと言います。恩赦を得て、好地が出獄する時、有馬は身よりのない彼の御許に引受人になりました。

そして、好地が23年ぶりに監獄の裏門から外に出ると、そこに制服ではなく和服姿の有馬の姿があり、「今日は署長ではない、君の友達だ」と言って、自分の家に連れて行き、家族に「お客さんだよ」と言って、座敷に案内したと言います。


■ 小田原幼年保護学校の設立

 有馬の管轄下にある横浜監獄は小田原に幼年監を併設し、幼年犯罪者を収容していました。有馬はこの非行少年少女たちをどのように教育し救済するかということを典獄としての職務上の責任を越えて、一人の人間、クリスチャンとして思い悩みます。

刑務官吏としての立場にはどうしても限界があることを悟り、私人として小田原幼年監のすぐ近くに一軒の民家を借り、幼年監を出た少年少女たちの更正施設として「小田原幼年保護会」を設立するのです。さらに女子専門の「根岸家庭学園」を設立するなど、公務の余暇を少年少女の保護訓育事業のために費やし、努力をしました。


■ 『窓の光』の発行

 当時の囚人はラジオを聞くことはもちろんのこと、新聞や雑誌を読むことも禁じられ、社会に対する耳や目を完全にふさがれていました。それらの中に囚人たちの悔悟心を妨げるものがあるという理由もありましたが、何よりもそうすることが、それが囚人たちへの刑罰であると考えられていたからでした。

 しかし、有馬は監獄の目的は囚人たちをいじめることではなく、囚人たちが再び社会の中で生活できるように更正させることであると信じ、囚人たちのための新聞『窓の光』を発行します。『窓の光』には、諸新聞からの切り抜きなど囚人たちに社会の出来事を知らせる記事が載せられていました。これはやがて全国の監獄に配布されるようになります。また、日本における行刑史上初の映画観覧を実現させたのも有馬でありました。


■ 有馬と聖書

 有馬の聖書には、至るところに感想や所感が書き込まれており、日付まで入っているものもあります。それを見ますと、旅行中、病気療養中も聖書を持参していたことがわかります。

 巻末の余白には、最初に聖書を通読し終えた日の日付「明治三八年全巻読了」と記されており、また大正七年一月三十一日「ここに第十一回の読了をとげ給ひしを感謝し奉る。御旨の高遠なるを益々仰ぐ、益々高く、いよいよ進めば益々遠し。願くば終生これを尋ねて倦まざらしめたまへ」とあります。

 八歳の四男が病死したときにも、彼は聖書をむさぼるように読み、御言葉に慰めと励ましを得ていたことが、彼の聖書の書き込みによって知られます。孫が生まれたときの喜びもまた、彼は聖書の余白に「公用にて豊岡刑務所にあり、この報に接し、驚きかつ喜べり」と書き記しました。

 また有馬の力量手腕を買われ、横浜市助役の就任への誘いがあった時には、有馬は「大いに心動かされ、いささか方向に迷ふところなき非ず」と心の迷いを記しています。聖書は、まさに有馬の人生の終生の伴侶であったのです。



■ 関東大震災

 聖書の中に、刑務所にちなんだ有名な物語があります。

 主の弟子であるパウロとシラスがフィリピで迫害を受け、牢に投獄されてしまいます。それでも彼らは牢の中で神を讃美し続け、他の囚人たちはこれに聞き入っていました。すると真夜中、大地震が起こり、獄舎が倒壊し、すべての牢の扉が開き、囚人たちを繋いでいた鎖も外れてしまったのでした。

 看守は囚人たちが皆逃げてしまったと思い、責任をとって自殺をしようとします。その時、「死んではいけない。私たちはみなここにいる!」と大声でパウロは叫びました、看守があかりをもってきて調べてみると、たしかに一人の逃走者もいませんでした。みな、パウロとシラスの感化を受け、二人の指導に従ったに違いありません。これを知った看守は自らも洗礼を受け、一家で洗礼を受けたといいます。(使徒16章)

 これと同じ事が、1923年の関東大震災の時に、小菅監獄でおこりました。小菅監獄は激震のために煉瓦造りの建物が倒壊し、三人の受刑者が下敷きになって死亡しました。残りの受刑者たちは壁も鉄格子もない小菅原に避難しました。このような大混乱のなか、有馬四郎助の恩義に応えるのはこのときとばかり、受刑者が自ら率先して自警団をつくり、互いに逃走を戒め合い、ついに一人の逃走者も出さなかったというのです。

 五年後、ウシスコンシン大学社会学教授ギリン博士が来日にして、有馬に大震災で一人の逃亡者も出さなかった秘訣について尋ねました。有馬は次のように応えています。

 「あなたは多分、私がクリスチャンであることをご存じでしょう。私は各人の善に対する可能性を信じ、彼らを囚人としてではなく、人間として処遇します。彼らが不平をもてばよく聞きただしてやります。できれば彼を直してやります。私は彼らと友人になろうと努力します。

彼らが生活方法で気のつかない過誤があれば、教えてやることにします。私は彼らを釈放するに際し、正直な生活につくよう助力します。私はキリスト教について説教は致しません。ただその教えが生きるように試みました。」


「日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp」




ウィキぺディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%9B%9B%E9%83%8E%E5%8A%A9



矯正図書館ホームページ

http://www.jca-library.jp/gallery/tenjisitu/saigai/jishin.html#kosugephoto


資料は関係サイトより転載しました

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嗚呼 素晴らしきかな民主という主義の選挙

2023-04-20 08:21:08 | Weblog

 

 

 選挙が近くなると選挙区事情に一喜一憂するのが議員大多数の常だが、選挙民の姿や地域既成勢力といわれる主だっ者や有力者の影響如何で様々なタイプの議員が選出される。

衆偶政治と揶揄されるような選挙であっても、いったん選出された議員は所属の範疇において多くの影響を及ぼす事ができる。 国家でいえば戦争の遂行,終結にも関わることも可能であり,国力次第では他国の生存さえ脅かす政策遂行も可能になる。

 

選挙民の資質といえば一昔前は、おにぎりの中に5000円、一家まとめて箪笥(たんす)一さお、運動員には当選したらPTAの会長や委嘱御用委員など,せっせと無党派,無関心層の増殖に貢献したものである。 津軽選挙という有名な方式?があるが、分配の手立てが公共事業に任せている地方では、落選派は当選者の任期中は仕事の「おこぼれ」がないために、双方の就職や仕事に口利き斡旋が幅を利かせる運動が展開される。

この手の話は地方ばかりが取り上げられるが、大都市でも中小企業の公的資金斡旋や施設入所の便宜見返りなど,最近では保証融資の斡旋で刑務所の塀の上をフラフラ歩いている議員を多数見かけている。

利に関わるものだけではない。 名利の「名」にしても、選挙の論功褒賞で運動員がオネダリすものもあれば、大きいのになると各国の駅弁大学や交流都市から名誉博士や市民といった称号を外務省の協力で取り付けるのもあるが、ひどいのになると腐敗した司法,行政と結託して法さえも饗に添えるものがいる。

国家の質は議員,選挙民の質とはあるが、馴れてくると公憤するのも億劫になるものだ。

 

 

 しかし、こと戦争になると自国,他国を問わず少なからず緊張が蘇えるようだ。

心が緊縮と高揚に制御が難しくなり、経済(商い)も戦争で一儲けを企むものがいれば、財産と共に隠忍退守するものも出てくる。

政治家も「国民の生命,財産を守る」ことを大一義の繰言にしているが、本当の危機が身近に迫った時、その生命と財産は如何ほどの価値を持っているか知るところではないだろう。

満州国崩壊の土壇場に居留開拓民を棄て電話線まで切断して遁走した高級軍人、勅任官の醜態は確かに自らの「生命,財産」の守りであった。

 

青森県黒石市  狐の嫁入り

 

しかし,日本人の心は守れなかった。 明治維新、日露戦争にあった精神発露とアジアが光明として映った日本人の姿は護れなかった。

護るべきは歴史の残像を礎とした『魂』であり、生命財産といった現物だけではない。

 

終戦の詔勅の一章に「時運の赴くところ」とあるが,確かに彼等の行動は時の流れるままに対処した,現在の既成事実の追認という役人,社畜体質にそのまま受け継がれている。

余談だが、その「時運は…」あまりにも国家の意志が希薄であり、曲がりなりにも共同体として国家を信じ、戦禍に没した国民の将来に活かす残像ではない、と「義命」と撰文したところ、重臣たちは『難しくて理解できない』と、時の流れで戦争になったという意味の「時運の赴くところ…」としている。

今まさに『時運の赴くところ・・』である。

この理解は学歴にはない,正に教養の範疇だろう。

情報を追いかける,探索する事は往々にして時の流れの中にあり学歴技術のマニュアルでも補えるが、時の存在を知り思考の座標を確定するには独特の教養が必要になってくる。

 

さてこの教養だが、考えているだけでは意味が無いものだが、前段の政治家にあてはめてみたい。

「聖戦の美名に隠れて,曰く国民主義,道義外交,共存共栄,世界の平和,雲を掴むような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るような事があれば,政治家は死してもその罪は滅しない。この事変の目的はどこにあるかわからない。

国民は悲憤の泪を流しつつ従順に,黙して政府の統制に服従し、事変を解決してくれることを期待している。国を率いる政治家はここに注目するべきである」

これは,昭和15年2月20日 支那事変処理に関する粛軍演説として有名な斎藤隆夫議員の演説である。

今で言う反戦ではない。なぜならその演説でこうも述べている。

「つまり力の伴わざるところの正義は弾無き大砲と同じことである。争いの正義論は狼の前に何の値打ち無い…・

国家競争は道理の戦争ではない,正邪曲直の戦争でもない、徹頭徹尾の競争である。世にそうでないと言うものが有るとするなら,それは偽善である。われわれは偽善を排する。もって国家競争の真髄を掴まなければならない…・

欧米のキリスト教国は内にあっては十字架のまえに頭を下げていますが、1度,国際問題に直面しますとキリストの博愛精神は蹴散らされてしまって,弱肉強食の修羅道に猛進する。これが歴史であり,奪う事ができない現実であるのです。この現実を無視して唯徒に聖戦の美名に隠れて…」と続く。

そして国際法がある以上それを遵守する為には,国内の兵力を充実させなければならない、と述べている。

 

 

ここで重要な事は、戦争の理由付けのために大義美名を取り繕い国民に向かって『偽善』を働くことの是非である。

もちろん人殺しの大罪は避けなければならない。ことさら平和ボケの物見ごとでもなければ反戦題目ではないが、周知理解を得るための偽善は国家の為すべき行為ではない、と唱えている。

 

 斎藤議員の演説に当時の翼賛と化した議会は除名処分としている。しかし選挙区へは多くの激励が届けられた。そして再び立った。もちろん斉藤を最高点で送り出している。

 

東北の西郷と謳われた津軽弘前の菊池九郎も除名こそなくても選挙民は同様だった。

津軽の県会議員だった佐藤要一は病床に臥せっていても選挙民が押しかけて寝たまま当選。米 味噌、醤油などの兵糧は買ったことがなかった。元気になって議会に出れば貪り議員などには直ぐに鉄拳が飛んだ。それでも選挙民は喝采を挙げた。その息子が佐藤慎一郎氏である。陽気と剛毅が同居している性格は良く似ている。

 

総じて彼らには覚悟があった。押し通す気力と勇気があった。斉藤はネズミの殿様と揶揄それるくらいの様相だったが、長時間の演説は数週間前から草稿を練り、添削、音読の後、暗記して登壇した。そのポーズもきまっていた。これこそ政治主導のはしりだった。

今は唱えは巧いが役人のスジ書きどおりの原稿を読まされている。反対弁論も役人の筆によるものでは三文役者の公演のようでもある。しかもアゴ(食い扶持)、足(旅費、経費)付の殿様のようなものだ。

 

聴くところによると、問題議員の選挙区土地柄はその議員そのものの姿を映すという。悪党なら悪が蔓延り、愚かなら愚か者が多い、という。座っているだけなら問題意識が少ない土地柄だという。小才が利く小悪党は落ち着きのなく騒がしい土地柄だという。

一生懸命なら泥棒とて汗をかく。

官僚の腹話術や操り人形でいれば、大臣、勲章にも手が届く。

多くの政治家とは、そのようなことだと庶民は嘲りながら諦めもあるようだ。

 

イメージ提供 tikako kogawa

 

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1989年5月27日 日本は負けると・・ 再

2023-04-08 01:25:54 | Weblog

権力との関わり方である・・


1989年5月15日 ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が訪中した。国内の特権階級の腐敗、米国との軍拡争いによる経済の停滞、国民の怨嗟に敢然と取り組み、その改革の端緒が開けつつあるときの訪中である。

そもそも両国は共産党とは名乗っているが政治体制はともかく民癖が大きく異なる。また実験国家の如く一連の共産主義的政治仕様の試みが一応のデーター結果を集積し、かlつコミンテルンという不可思議な字句を掲げ様々な民族、地域に浸透させた。

一方は資本主義、自由、民主、人権、一方は解放、平等を謳ってつばぜり合いを行なってきたが、お陰で双方のお題目を食い扶持とする似非知識人を大量生産した。

それは学派となり兵隊ごっこ宜しく、覇を唱えつつ国家の連帯と調和を崩してきた。彼等も錯覚学説の実験材料でもあった。それは白人植民地の先兵であった宣教師の愛と許しを謳う美句を同様に添えていたのと似ている。

差別は階級闘争として人々をカテゴリーに囲い込み、詰まる所知識人に後押しされた運動家は食い扶持既得権に堕して、近頃では教師、公務員の世襲もまかり通っている。

自由と民主を謳う連中は都合のよい商基準や政治集約システムを最良なものとして影響圏に押し付け、それまで程よい掟、習慣で成り立っていた生業なり生活を煩雑な法規に囲い込み、これこそ法治だと隣国の人治を嘲った。

それは、どちらが繁栄し、もしくは衰退しているかをあげつらい、かつどちらの主義が人の幸せを獲得するのに佳いシステムなのかを問うものでもなく、たとえ貧しくとも、抑圧されていても人の人格の表す自尊なり、民族の矜持、正直で勤勉で忍耐強い人間を育てるグランドの有無如何かを冷静に見なければならないことではある。

群れとなって一方に押しやられた感のある思索と観照を失くした人々は「武」と「富」を駆使した双方のシステムによって第三局の選択肢を模索しつつある歴史の節でもあった。

それは、民を育てる、あるいは矜持を涵養するという主義にいう、根本的な正しいこと(義)を主(柱)とする精神を教授てきる環境を観るべきとの促しでもあった。

反面という説があるが、宦官、纏足、人食、作戯、圧政、は中国の歴史に赤裸々に記されている。そこに孔子、老子、孟子を始めとする儒家、道家が仁を説き、道を説く陰陽、表裏に戯れる柔軟性もある。

一方は戦火に明け暮れ、哺乳血を啜り、奴隷を使役し、植民地をつくる人々は救世主に「愛」と「許し」を請う掟と習性によって生きてきた。

俯瞰すれば我国も阿諛迎合性のある民に狡猾な官吏、放たれれば自尊心を亡くし人倫さえ自らの欲心で融解させてしまうところには、独り天皇は祷り、名利財物に恬淡として所有を拒んでいる。

いずれも必然性がある、孔孟、キリスト、天皇、言い換えれば懺悔のカウンターの様でもある。

駄考の拙論だが、いかなる言も彼等の精神の淵にも届かないだろう。
今を以てもあの頃の若者の表情を思い浮かべる。



             
      鉢巻きの「下台」は地位から降りろという意である


1989年、若者はその諦観を断ち切るように、また小欲を捨て、大欲に生命を懸けていた。掲げるプラカードには「官倒」と大書されていた。自らを民主化の救世主として行動を起した。北京大学、清華大学、我国の首校より難門である。一人っ子政策で九族(家族、親戚)の期待の星達が「生命」の使い方を知り、修学の試行として機会を逃さなかった。

長安街の横断は儘ならず、隊列は数時間に及んだ。ちなみに日本のデモのように待遇改善、賃上げなどはデモと呼ぶべきものではなくまさに闘うデモ・クラシーそのものであるが、我国のそれは意を変えてデモ・クレイジーと呼んだ師の言葉を実感させる。チラシが散乱し、薄い日当を懐に元気の無いスローガンを叫んでいるが、同じ呼称の主義にも色々あるようだ。



               
戒厳令下 5/24



北京駅には地方からの若者が列をなし、革命記念堂の石段には多くの若者が広場の様子を見守っている。

しかし、6月3日の未明、人民の尊敬を集めていた解放軍が水平発射をして鎮圧が始まった。多くの若者が広場に倒れた。事件後、指導者の一人紫玲は香港でそのときの様子を嗚咽しながら搾り出した。


【 9時ちょうど、全天安門広場にいた学生たちは、起ち上って
 「 私は宣誓する。祖国の民主化への行程を推進するために、祖国が本当に盛大に繁栄するために、偉大な祖国が、一つまみの陰謀家によって顛覆されないようにするために、11億の人民が、白色テロの恐怖の中で命を失うことが無いように するために、私は若い生命を賭け、死を誓って、天安門を守り、共和国を守るこ とを、宣誓する。首が斬り落されてもよい。血は流れてもよい。人民広場は棄てられない。私たちは若い生命を賭けて最後の一人となるまで戦う!」
と、右手を挙げて宣誓しました。

 10時ちょうど、広場の民主大学が正式に授業を開始しました。副総指揮の張徳利が、民主大学の校長になりました。
 各界の人々は、民主大学の成立に対して、熱烈な祝賀を表わしました
 当時の情況としては、指揮部の此処ではでは、続々と各方面からの緊急の知らせを受取っていました。情況は非常に緊張していました。
 しかしながら、広場の北部に於ては、私たちの民主大学の成立を祝う拍手の音が鳴り響いていました。民主大学は、自由の女神の像の附近に設立したのです。

 そして、その周囲の長安街では、すでに血が河のように、なっていたのでした。人殺したちーあの27軍の兵士たちは、戦車、機関銃、銃剣(催涙ガスは、その時には、すでに遅すぎた)が、勇敢に一句のスローガンを叫んだだけの人に、勇敢に一つの煉瓦を投げつけただけの人に対して、彼らは機関銃で、追い撃ちをかけてきたのです。 長安街のどの屍体にも、いずれも、その胸には、一片の血が流れていました。

 学生が指揮部に飛んで来ました。
 彼らの手に、胸に、そして彼らのももは、みな血で染まっていました。これ
らは同胞たちの命の最後の一滴の血だったのです。
 彼らは自分たちの胸に、これらの同胞を抱きしめて、やって来たのでした。
 10時すぎ、指揮部では、みんなに要求しました。

 一番大事なこととして、みんなに要求したことは、私たちが、この4月から学生を主体とした愛国民主運動を始めてから、5月に入って以来、全人民運動へと発展変化してきました。私たちの原則は、最初から最後まで平和的な請願をすることでした。 私たちの闘争の最高原則は、平和です。
 非常に多くの学生たちや、労働者、市民たちが、私たちの指揮部へやって来て、こんな事では、いけないのではないか、武器を取るべきではないのか、と言いました。 男子の学生たちも、やはり非常に憤激していました。

 しかし私たち指揮部の学生たちは、みんなに
 「私たちは平和的な請願をしているのです。平和の最高原則は犠牲です」】
・・・・・





・・・・・
【 一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
 私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
 「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
   ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
   彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
   その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
 彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
 共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)

 おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
 私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
 学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
 「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
 私たちの後ろの学生たちも
 「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か  ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。


 




私はみんなに少しばかりの話をしました。
 「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
 ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
 その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
 しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。

   学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
   私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
   私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。

 学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
 最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、 
 「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
 しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
 彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
 「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
 その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
 そして全学生を撤退させることを決定したのです。
 しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。


 指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
 「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
 大多数の学生たちは、撤退しました。
 私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
 「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
 「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)

 しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
 彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
 彼らは、あまりにも疲れていたのです。
 まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
 ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
 またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
 具体的な数字は、今もって私には解りません。
 しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
 彼らは最小限2~30人はいました。

 聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです】
・・・・




指導部も苦悩した。いずれ若者の唱える世界が訪れるだろう、しかし歴史に観る大陸人民の民癖が拙速に自由に似た放埓、民主に似たエゴが「利」に向かったら法も整備されていない現在、未曾有の混乱を超えて混沌(カオス)に陥ってしまう。「衣食足りて・・」に倣えば、法を司る官吏の技量は民度に順じる。
「もう少し待て・・」固陋な既得権を保持する高官さえ煩いとなっている状況を解決するまで私も雌伏している。そんな声が中南海の旧居から聴こえてくるようだった。







当時の北京の六月は抜けるような青空が名物だった。騒乱のさなか小学校では普通どおりの授業があった。たしか東大紛争でも居酒屋やマージャンが学生で溢れかえっていた。新宿ではナンパ学生が屯していた。そして社会に出て一日千円亭主となり食い扶持に汲々として女房に追い立てられる男子の姿があった。

現在十万人余の中国留学生が滞在している。その多くはあの事件のことを知らない。いや知らされていない。あの若者の尊い血はその後の東欧の共産主義を崩壊させる原動力となった。ルーマニアの大統領宮殿前の広場での青年の一言「人殺し! 」はチャウシスクを驚愕させ人々は群動し政権は脆くも倒れた。

あの騒乱のさなか気高き精神の行く末を憂慮しつつも、「日本は負ける・・」そんな直感が沸き起こったことを鮮明に記憶している。

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人間種の考える、ランド・シー・エアー、それぞれのパワー  2017

2023-04-05 02:17:13 | Weblog

 

 

あくまで、いまだ人間の及ぶ理解の淵にも届かない無限界において、太陽系と呼ぶ一群の惑星として周回巡行する地球生物種の一つである人間と称する種の、たかだか微細な思索ではある。

 

この種の思索は夢想もあればリアルな現実もあり未来の推考もあり、まるで右往左往で無体系の書き連ねのようようだが、他人の珍奇な思考の一端に触れ、難儀な問題を巻き起こすことを期待するものである。

 また、種としては人間種、民族別には黄色人種の、これまた日本と呼び複雑な要因をもって構成されている国家なるものの中で、諸国から異端とされている日本人の、これまた異なることを恐れない小人の思い付きとして看過していただければ幸いである。

 

            

                    千葉

 

この国の歴史では異種、異郷、異教の白人宣教者が遠路お節介にやってきたことがある。

造物主が造った最高のものは人間である」と、彼の国ではまかり通る説教をした。なんでもかんでも「オー・マイ・ゴット」と叫び、ノコギリも押すのではなく、曳く習慣技法をもった神の遣いである。しかも、彼らからすれば野蛮で未開で多くの愚か者がいる異郷だ。まして犬を使って羊の群れを追い立てる牧畜なる羊飼いの逸話を神の言葉繋ぎとして聖書に書いている人たちだ。羊に模されたのは肉食を禁じられ、屁理屈学さえ知らぬ邦人である。

 

反抗はしないが不思議な感情はあった。

面倒な対案ではないが、上から目線は役人同様、生意気な「反対提案」として聴こえた。

あの~、家族同様に役に立っている牛や馬、可愛い犬も同じではないのでしょうか

つまり、゛人間だけが最高なものではなく、互いに補い合い共生する動物も同じではないか゛、という意味だった。

 

あの滅ぶことさえないと思われたギリシャ、ローマ、大英帝国も衰退した。軍事力や経済力、はたまた植民地版図の広さではない、市民と呼ばれた人たちの繁栄に付随する弛緩と堕落が衰退の多くの要因だった。

その生活思考は、支配地から収奪した財を蓄え、消費(浪費)傾向は、温泉、グルメ、旅行、イベントと共通していた。そして金持ちは財のゲーム(博打)だ。

 

そして、疲弊すれば「オー・マイ・ゴット」と「LOVE」、そして「神は赦す」という。

近代文明は西洋模倣(カブレのような)と価値観の共有でアベレージは評されるが、その考え方や仕組みを学ぶことまで数値の評価によって決定されるようになった。

 

彼らの云う未開で野蛮な民は、潜在する生存感で、それを闇雲に是とすることなく地上と海と宇宙を感知し、その則を求め、倣った。

いまはそうだ。しかし、いつかその感知力を甦らせ、取りつく島として復(フタタ)戻ってくる。そのために変わらない深層の情緒を維持しなければならないと逆賭し、考えている。

 (逆賭・・・将来起きるであろう出来事を想定して、現在手を打つ)

 

仕官もままならず流浪の旅にあった孔子が弟子に尋ねられた。

どうして先生ほどの人物が仕官もできずこのような難儀にあっているのでしょうか

学問は衣食のためにするものではない。若くても運よく仕官できるものもいるが、たとえ仕官できなくても人生を諦めず学ぶことが大切なことだ。一生恵まれないもしれないが、それも運だ」(拙意訳表記)

 

まさに自然界の森羅万象は人間種にとっては運と縁のようなもの。他の生物にとっては人間種に遭遇して愛玩されるものもいれば、群れとして育てられ衣食になるものもいる。だからといって生きることを止めない。たとえ捕食の循環を縁や運だとしても循環は途絶えることはない。

 

ゆえに人間種の豊潤と考える繁栄・享楽生活の欲望の一隅に、その立地し飛翔する舞台であるとの認知と、感知で、ランド・シー・エアーを観るのも一考かと思うのだ。

 

                    

 

地上と海と空(宇宙)におけるパワーは、それぞれの領域における軍事的考察というよりか、歴史的な力の変遷と分別(分際)としてみることができる。

ここでは力の及ぼす基本的な背景について分けられ、かつ地球の環境循環、あるいはその循環から生ずる事象に生存し、一粒として蠢く人間なるものの積層され、その、゛たかだか゛人間の歴史なるもの経過の習慣性やそこから生ずる宿啊がいつの間にか宿命となり、怠惰感や偏向したパワーの用い方など、思いつくまま拙いの論拠の立て方で考えてみたい。

宿啊・・・前々からかかっていて、治らない病気。持病。痼疾こしつ。宿病

 

ユーラシア大陸を席巻したモンゴル騎兵やローマの侵攻はランド(地上)を主戦場とした。大航海時代は植民地を求めた西洋列強のシー(海域)を道とした戦闘・運輸など天文や航海術など科学に目覚めた時代でもあった。

その科学だが今や海上を制覇することから海中や深海まで及んでいる。ランド・シーは異境への興味となり支配欲は覇道とともにパワーの強弱によって棲む領域を変化させた。

そして現在はエアー(空)だが、鳥のように天空から見たい(鳥瞰)という夢の希求はランドやシー同様に欲望の侵攻や防衛(矛と盾)の手段として未知の宇宙まで及んでいる。

 

一方では、科学技術の利便性が軍事汎用の多岐にわたる応用性に用いられ、その有効性が民生社会の文化なり、はたまた文明性の担保や民度の亢進などと謳われることでパワーすなわち「進歩した文明」の具備なり担保として前記したパワーによる資財の獲得こそ国家なり民族維持の唯一有効性として考え、その支配を肯定してきた。

加えてそれを援用するべきアカデミックな論拠が是非善悪を肯定的かつ恣意的論証すべく看板根拠が数多模作された。つまりパワーの学術的論拠である。

 

ここでは一国一民族、あるいは集団的行為を題材にしてそのパワーを論じるものではない。換言すれば地に伏して天に舞う、あるいは海中や地にうごめく動植物や空に舞う鳥や虫の観点から人間種を観ることで、一方の意図であるランドとシーとエアーで繰り広げられる人間たちの地球観を想起してみたい。

また、人間種同士の肌の色や習慣の異なるものの排除や支配のために智を狡知と変異して科学を乱用し、パワーの質や量を論ずることに人間種の存在意義と他種に及ぼす弊害を童心に相似して考えてみたい。

 

それは、経年集積や進捗のスピード、あるいは圧力などが加わると、異なる刺激で変化することもあるが、人間界のパワーに依存した栄枯盛衰における時々の政治と称するものの維持生存にかかわる境際を越えた争いには、通底する問題があり、かつ、そこに相似する思考があると考えるのだ。

 

よく地政学的考察とあるが戦後わが国では禁忌に近い学問であった。地図上の東方の小島が扇型にある種のパワーなりを西方に向ける理由として地球自転の則に沿うように西洋は東から到来し西に流れる一方の姿と、ユーラシア大陸を経て西から到来する両方向の文明の交差点として特異なすり合わせの後、発展と没落、その間の混沌を経験した。

 

古来は漢民族を主とした隣国から文化習得のため唐学(漢学、統治形態、政治制度)が必須となり、近代では科学を便宜的に応用するために洋学(医科、法科、教育、軍略等)の拙速な到来とともに従前の思考慣習にも情緒的な戸惑いすら発生させている。

また、営みの主流も一次産業からサービス、金融となり、人心の志向が財貨となり、単なる群盲の流に近い拙速な動きとして国柄さえ変化させてきた。しかもその姿を数値変換した比較競争として覇を競う風潮も顕著となってきた。

ここでの視点は、背景であるパワーの質であり、その在り処である。

 

                 

                   千葉

 

そんなことを呟いたとき変わり者の友人が辞書サイト「コトバンク」から引用した筆者が苦手なアカデミックな説明文を送ってくれた。化学や物理を説明する文章は頭が痛くなるゆえ忌避していたが、ときに自然界の循環や定則をもって人間の精神世界を分かりやすく説く例として用いることがある故、その相似する由縁をトレースしてみることにした。

ついでと言っては恐縮だが、パワーの衝突が問題となっている昨今の情勢における各々の政治体系、為政者(人間)の問題、パワーへの信奉と力学など体系的に整理することへの面白さに気付かされた。

以下に関係するものを拾い出してみた。筆者の拙い考察はさておき、縁ある方々のそれぞれの立場での援用を期待したい。

 

≪相似・・・生物学用語。類縁関係の遠い異種の生物において,個体発生上まったく別の起源から発生し,したがって系統発生的にも無関係の祖先型から別々に生じたものでありながら,一見類似した形態と機能をもつ器官が見られるとき,この類似を相似という。器官の形態と機能が異なっても,その起源が同じであることを指す〈相同〉と対をなすことばで,生物界における類似性を説明する概念の一つ≫

 

L を流れの中の物体の代表的な長さ,U を速度,g を重力加速度とするとき,自由表面をもつ流体の流れに関する無次元数 をフルード数という。幾何学的に相似な固体境界をもつ2つの自由表面流をべるとき,もし2つの流れのフルード数が相等しければ,流れの場全体が力学的に相似になる。すなわち,2つの流れは,長さと時間の単位を適当に変えれば,完全に一致する。≫

 

≪ある瞬間において,二つの物理系が幾何学的および運動学的に相似であり,かつ物理的構造が相似であるとすれば,その後の対応する瞬間においても,それぞれの独立した力に対するフルード数*が,二つの物理系に対して同一の値をもつという条件が成立する限りは相似性が保たれるという原理相似の原理*ともいう≫

 

                

                  タゴール

 

考えてみれば多くの諸士が考えている不思議感や疑問に、拙くも整理のつかない表現で発する言の葉に前記の学術的論拠を引用し重ね合わせると、面白くも合点のゆく理解に届くことが解る。定説となった論拠を仮借するだけで何ら学徒とは変わらない説を立てられることと、世俗体験を喩えすることでより解りやすい表現が可能だろう。つまり部分や分派された学派に拘らない「応用活学」でもあろう

 

法理裁判ではないが、幾つかの関係法令を繋ぎ合わせて、さも合理的に説明がつく説を組み立てたところで、理解はあるが、どうも納得できない結果が出ることがある。成文された煩雑な法律に言いくるめられたように感ずる判決があるのはそのためだ。

相似も、生物界を例にとれば「似て非なる」ものは多岐にわたる。ましてや宗教的輪廻の喩えが混じれば、途絶えることにくエンドレスに生が循環する。その意味では西洋的、宗教的にも、東洋のそれとは大きく異なることは論を待たない。

 

              

           箱根 パル・下中記念館

 

想いだすのは米国の宇宙飛行士が宇宙から青い地球を見ながら考えたことだ。どうしてこの美しい地球のいたるところで人間が資源を奪い合い、あるいは畏敬する存在の違いから争い、戦争を起こして破壊する行為がとめどもなく続いているのか。また宇宙からの童心の俯瞰視から生ずる人間への不思議感はいずこへ進むのか、一瞬にして括目したに彼は帰還後除隊して牧師になった逸話があった。

 

日本でも地球は一家、西洋はグローバル、華人は天下思想、戦後は世界連邦構想もあった。地球一家は笹川良一氏の提唱だが、所詮人間は食ってクソして寝てヤッテ・・・と、突き詰めた単純行為と喝破している。人間間の関係はマルチ、境際、グローバルと進捗し広がった考え方だが、さもアカデミックな提唱のようだが一方では強きもののルールにおける市場平準化への促しのようだ。 天下思想は、天と地の間にうごめく人間は国や為政者などは関係のない生き方だが、考え方の多くは突き詰めた個人主義であり、生きるも死ぬも己の問題と、諦観のような生き方となっている。

 

部分の説明は省くが、それらは宇宙飛行士が神を造物主としたような生き方とは対極的なことであり、一方は神すら方便として利用するしたたかさがある。

ちなみに天下思想を旨とする民族は現世利益となる、長寿、仙薬、財貨の偶像を御立てて、物を献上して恩恵を請う道教的習慣性を持っている。

 

加えて、「平ならぬもの、平すれば、平ならず」と、もともと人間種とてその個体は各々異なるものだが、性別能力をかまわず平準化すれば必ず不平が出る、という古い諺をもっている。一方、平準化を謳う一方の強者はタルムードを旨として彼らなりのルールで偏向的平準化を急いでいる。

 

とくに顕著なるものは血の混交(性の混交)である。性別はホモ・レズが流行りのごとく表層にでて、ビジネスの場面でも性や能力の区別が差別としてくくられ、ハラスメント用語を駆使して男女、陰陽、の異なることゆえの優性への賛美であるものが,劣を引き上げ、優を引き下ろすような状態になっている。それは足らぬものの補い合いや、男女協働の生産でさえ煩いごとのようになっている。

神前結婚でも教会でも新郎新婦の誓いは神だ。それぞれ神主と神父かつかさどるのは神へのつなぎだ。三々九度は、「独陰生ぜず、独陽生ぜす、独天生ぜず」つまり、オンナだけでも生まれず、オトコだけでも生まれず、天のみでも生まれず、三者が整って(合意して)生まれる、そのために相手と自分と天(神)に誓う、それが九回盃を交わすことなのだ。新道では、「産霊」と書いて「結び」と呼んでいる。

 

文化と称する映像や書物は「愛なるもの」を謳い、それは民族や肌の色を超越した真の愛の姿として美化され、奨励さえされている。

しかし、現実には宗教、政治体制も離反の基となり、同邦の生活圏でも米国の白人中心思想は健在にして強固だ。

 

だが、それさえも謳われている文化の世界では「愛」なるものが超越する。だれもがバーチャルの世界では理想とし、感動や歓喜すら巻き起こす。

そして肌の色は白黒といわれる人種は薄められ、黄白ないし黒黄色もその数は増加している。だが、さまざまな媒体を通して混交を推奨しているが、その一部の人々の混交は絶無だ。要は純血の維持だが、混血利便性では足の速い馬、体重を増やした食用牧畜、人間種でも見映えの整形が流行っている。

 

アジアの一隅には、昔は温和で自然界に親和力をもち、かつそれに従順な民族がいた。

だだ、親和力と従順は迎合になり、独自に沿った模倣力に優れた智慧は利便性を安易な仕組みに変え、古き佳きものを固陋として則(矩)でさえ「法」という名に括ってしまった。好奇心は大きなもの、早いもの、強いものに寄り添い、罠を狩猟の倣いとする異民族は協働作業を倣いとする民はその生活ルールまで転換させた。

従順ゆえに他民族のモデルとなったが、新世界には実験モルモットして都合の良い民族性癖の劣勢が際立ってきた。

 

思考と観照、そして精霊への心を失くした民は、羊飼いに従順な牧畜犬に追い立てられ、何処に行くのだろうか。

 

一部映像は別サイトより転載 

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