まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

また、台湾から贈りものを頂いた 15 5・19再

2017-04-23 09:14:28 | Weblog


熱情的擁護ですが・・・


それにしても盗人猛々しいとは日本の対応である。
どこの国よりも早く、たくさん援助を頂き、慰霊式典では国扱いもせず二階の一般席に追いやった。
この対応には日本国民は怒った。本国台湾では怒ることもなく哀悼と復興を祈った。
政府はともあれ、国民は、いや市井の朋友同士は堅い絆があった。
あれは、台湾地震や風水害の時のお返しだと澄ましていたが、被災者に心情的負荷を掛けまいとする朋友ならではの深慮だった。

今回は産地偽装ラベルによる強欲的商行為による悩ましい事件だ。それは詐欺事件だ。
台湾の消費者は高価でも日本の商品を求める。それは台湾における先代日本人の大きな信頼に基づく遺産なのだ。その遺産を食いつぶす忘恩的行為に消費者は「まさか、日本人が・・・」と困惑した
政府を通じて善処をお願いした。しかし、何の理由なのか不作為的後回しという日本官吏特有の対処しかできず、しかも明確にもならず、時を弄した。日本人は「消極的無責任民主主義」に慣れているのか、うやむやが好みだが、台湾の消費者は「積極的民主主義」ゆえ、日本の対応が生ぬるくスローに見えた。
また、自国政府にも強く出るように要求した。

当初は「偽装ラベル」についての犯罪的行為が明確に処理され、再犯防止策の要求だった

どうしてなのか、日本側は数カ月経っても明確な答えは出せなかった。
狡猾な官吏は言い訳を作った。「あなたの基準設定は科学的根拠がない」と。

あろうが無かろうが、「産地偽装という台湾諸費者をダマす犯罪的行為をやめてほしい」という切なる声に、日本政府は後付の言いがかりをつけた。答えにはなっていないことは日本国民がみても明白だ。







台湾外交部 



時をおき、交渉当事者は収拾策を考えた。もちろんメンツの立て方だ。
それは、当初の被害者である台湾消費者の気持ちが収斂されるのを待って馬総統は「短期的処置」と譲った。ただ、台湾消費者の偽装ラベルにおもう、放射能の健康被害意識の理解と受容のために共通の基準を考えてほしいと付け加え、日本側のいう科学的根拠の争いより、元々の問題発生であった「犯罪的産地偽装ラベル」という法律上の問題に対処すべきだとコメントを述べた。
それが明確になれば貿易は再会すると・・・



多くの日本人が考えても台湾に理はある。だから自信を以て譲れるのだろう。金持ち喧嘩せずとはいうが、ここは「知恵持ちは争わず」だ。
いくらWTOに提訴するといっても結論は数年かかる。これでは日本の生産者が干上がってしまう。日本は脅かせば腰を折るとでも思っているのだろろうか。もし大国の中国や米国だったら抗弁もせず唯々諾々と従う日本官吏だが、友邦意識の強い台湾消費者に四角四面の後付け理屈を振り回す当局者に同胞として恥ずかしい限りだ。そんな薄情な気持ちで国内の被災地や弱者にあたっているとしたら、国民のうつろいの原因は彼らにあると云わざるを得ない。
何よりも美辞麗句を唱えて財布をふりまわして仲間づくりをするような、稚拙な外交の心根がよくみえる。

故リ・クワンユー・シンガポール首相は日本を非難する某国に、「日本はアジアの兄貴分だから責めることはない・・」と、マハティール首相は「ルック・イースト」と、日本を見て見倣う運動を提唱した。台湾の李登輝総統もそうだった。

武器を揃えれば使いたがる。金が余れば無駄を生ずる。その使い方でも人物が読み取れる。
地位が上がったらどんな友人を持つか、あるいは登用するかで人格が見える。まして、力が有ったらどのように行使するか、敗者や小国にたいして譲る心があるか、など東洋が主張する人間の資質や人格を観察する良機でもある。

それが無くなったら人心は乱れ・離れ、利を企図する諸外勢力は侵入する。
それは軍備や経済など、努力すれば数値が上下するその多寡を比較したり、競う国力比較より、諸外国の市井の人々に普遍な深層の情緒こそ、真の国力だと認知しない愚かな為政者の亡国への道だ。












今回は、また台湾からの贈り物を頂いた。
日本人の作ったものは信頼できる。それは物に似して日本人を信頼できるからだ。その日本人が大変な時は同感し精一杯の努力を提供する。それは信頼を維持し、信ずる心を持ってたいからだ。
日本には欠けてきたが、家族や縁者の関係は大切なことだ。それは日本の先人が唱えていたことだ。
その子孫となる子供の健康にはことのほか敏感だ。台湾には台湾が台湾であるべく依って立つ心と習慣がある。それは日本人と同様な、嘘をつかない、人を困らせない、協働する人々の連帯だ。
だから、今回は嘘をつき、開き直って弱いと思った相手を非難するその姿に期待がそがれたような気持になったのだ。

だが、当初の被害者の台湾が譲ることで、日本も冷静になってきっと歴史の恩顧を想いだしてその態度を改めてくれるだろうと期待する。友邦にはメンツを外し、一歩譲ることでも台湾市民は怒ることはない。
それでよい、それが大人の態度だと理解するだろう。

私たちの当然な義志(義捐・ボランティア)に日本の若者はわざわざ台湾に訪れて感謝をしてくれた。それは熱狂的な友邦に対する有り余る行動だった。台湾の人々は歓迎して、これこそ将来の日本人だと友誼を確信した。

些細なことだ、分ってくれればよい、その寛容に対し日本人は再度台湾の存在を考える善き機会としていただきたい。消費者の好む日本製品であるからこそ、間違いがあってはならないと考えてほしい。

筆者はそのように感ずる

それにしても親台派といわれ、永年便宜供与を受けた議員や学者・言論人が声を挙げない不思議さがある
古老は「お土産?が足りなかったのか・・・」と嘆息していた。

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台湾を気遣う皇后の御心

2017-04-20 20:48:21 | Weblog

 

 

春の園遊会で台湾選手と結婚した福原愛さんに陛下のお言葉につなげて愛さんにお言付けを依頼した。

東日本震災の時は台湾の方々にお世話になりました。よろしくお伝えください」と。

それは愛さんに会ったら必ず伝えようと、つねに意中に懐いていただいたお言葉だった。

 

以前、このブログで記したが、震災慰霊に当時の野田総理は台湾を国と認めず、会場の二階の一般席に駐日代表を指定して指名献花すらさせなかった。中国政府は一階席で国名を呼ばれての献花だ。

九州より狭い地域で三度の食事を一度にしても多くの庶民が義援金を供出し、かつ日本とは歴史的にも所縁のある台湾である。

 

中華街の台湾華僑も、台湾を自慢できるほど頑張った。馬総統は黄色いブルゾンを着てテレビて援助を唱えた。だか゛それにも増して国民は自発的に動いた。政府も思いもしなかった日本への人々の熱情だった。

台湾は義志とか義行という独特な共助意識が定着している。ある老人施設などは職員33人、居住している高齢者40名がボランティアとして受付や来館者の案内などで活躍している。ことさら資格だの給与などは問わない。とくに日本人の来訪では昔を懐古するように丁寧な日本語が周囲を飛び交い和ませてくれる。

 

慰霊祭の政府の対応は大国となった中国に阿る人情のかけらもない応対だった。

だが、陛下は園遊会に駐日台湾代表馮寄台氏を招待して、深甚な礼ををもって感謝のお言葉を述べている。筆者も訪れるたびに何度となく馮氏からその感激を聴いている。

 

 

                                            

 

 

今回は福原愛さんに皇后が台湾国民に含まれた意を依頼している。

台湾と皇后の秘話だが、妃殿下のころ一子の流産から体調を崩したとき台湾出身で慶大医師の荘淑キ氏から心身ともに養生に預かったことがあった。それも二十年に亘って義志で度々参内した。師の提唱する宇宙体操と薬膳料理は今でも宮中では浸透していると聞く。

一昨年の暮れ荘師は亡くなった。しかし国交断絶ゆえ公的交流はない。

 

                                            

              荘淑キ医師 御長女事務所資料

                                         

                                       台北のご婦人と松崎さん

その事を光文社女性自身の皇室記者で民間侍従と称された松崎としや氏から伺った折、国母が永年にわたってお世話になった師の弔問も叶わない事情を嘆くとともに、これは政治ではなく人の情として欠けると訪台を企図して28年3月縁者に面会して日本国民として感謝の弔意を献呈させていただいた。心意を忖度した台湾の方々が訪問の手配をおこない、官域の方々の秘めた厚遇もいただいた。

   

園遊会での皇后陛下のお言付けの意味は、歴史の恩顧と日台の厚誼を願う意志だった。

政治は諸事情を盾に言葉すら隠している。

余談だが、台湾(中華民国)と断行して中国に流れた日本および日本人を嘆いたのは台湾の日本語世代だけではない。大陸の多くの人々は「恩知らずの日本人」と嘆いていた。

それから日本人を信用できなくなった、いや、真の日本人がいなくなったと嘆いた孫文同様、日本人への愛顧すらオボロゲニしてしまった。

 

人情は国法より重し

無くなったから「友好」が、「誘降(誘い降ろし)」になったのは当然のことだ。

また両陛下の忠恕心に救われたようだ。

 

 

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私人だとか公人だとか騒がしいが、大事なことには無関心

2017-04-19 18:12:42 | Weblog

            郷の匠 三寸の猿

              現在の狡知は「見ていない・聞いてない・言っていない

 

ゴマメの歯ぎしりのような戯れですが・・・

近ごろ公に位置して職を食む公務員という一群が弛(ゆる)んでいる。

多くはハレンチ行為と公権力の恣意的運用だが、ここには上司や力のあるものに阿(おも)ねる「忖度(そんたく)」とやらが流行りだが、これから先は金にまつわる問題が起きるだろう。あの舛添減少で噴出した俗称「せこい」行為が政務活動費の遊興利用や、官僚も本省の先陣を切って文部省から噴出した。

 

流行り言葉になった忖度だが、陛下の言動を拝して輔弼であるべき公務員が大御心を忖度するなら陛下も忠恕心でお応えするだろうが、暗記学歴の大の男が宰相の女房に忖度するようになっては統治機構もお先は知れている。忖度の下心は高給担保の地位保全では、いよいよ国民は陛下にすがらなくてはならなくなる。

 

共産党や過激労組の扇動で混乱を起こしても多くの国民は踊らない歴史がある。しかし法治国家と大儀を言いつくろっているが、法が彼らの詭弁を飾り国民を収斂管理して税や罰金を徴収するなら、また失業対策と成り果てた選挙の結果を盾にとっても、多くの投票率が半分を切ったら統治機構そのものが信頼されていない証拠だ。与野党ともあれ立法だけでなく、行政・司法を含めた三権が弛んできたのでは将来はおぼつかない。

 

天皇下座して上皇とお成りになっても、いずれの期に忠恕ある大御心を発して戴けることを国民は息を潜んで待ち望んでいる。三権の食客や周辺知識人は憲法に反すと騒ぐだろうが、国民を背景にした陛下の言はたとえ親(たおや)かであっても宰相の言よりは重い。

 

複雑怪奇な外患は諸外国の思惑にからんで危機として世情を騒がすが、内なる賊は岩にこびり付いた苔や伝染したバチルスのごとく解決の難しい状態に陥っている。まるで押したり引いたりズルズルと現下の情況になった北の国のようだが、とどのつまり内外とも惨禍が到来するまで治らない、つまり国を亡ぼすのは無関心というどこかの賢人の言だ。

 

            

       桜はどこにでもあるが、リンゴの花は静かな郷にしかない

 

世情は、まさに議員たる公人が騒がしくも争っているが、どちらでも張り付け膏薬のごとく、どこにでも姿を変える論争だ。役人や弁護士あがりが多くなったせいか、まさに「智は大偽を生ず」ごとく、狡知を駆使して権力なり大向こうの大衆を屏風にして、しかも手前勝手な便法を使い言い争っている。「智は大偽を生ず」とは、「智」でなく単なる知った、覚えた、暗記した類のニセの「知」であるが、使いようによっては「痴」になるものだ。

 

しかもその知の目的は正邪の分別ではなく、己を飾り、自らさえ欺いて権力に阿諛迎合する詭弁でしかなくなっている。とくに為政者ならずとも監督すべき官僚の顔色を窺い、見え透いた嘘で、真に国家に憑依しつつ暗雲となっている官僚社会主義と揶揄される彼らを隠し守っている。

一度は政権についた野党もしかり「お前たちだって」と、あげつらわれれば話題をすり替える。彼らは「論点を変えて・・」と、うそぶくように心根が定まらないのは選挙を我が身の失業対策運動と成り下がっている津々浦々の地方議員と何ら変わることはない。ゆえに狡知を搾りだす官僚の手のひらで踊るのは与野党問わず議員の実態であり、大多数の国民も承知している。


筆者はどちらでもよいことで相手が有効とするなら公私の分別もなく利用するものだ。要は使われることが不特定多数の利福を前提とするなら公人の行為、己や特定のことにその優位さを用いるのなら私人と考えればよいことだ。

 

どちらについても後の言い訳はつくことだが、私人とて公的任務を帯びた行為をすることがある。ただ行政の便宜を図る場合でも運用者は人物を観る。高学歴無教養といわれる彼らだが、気になるのは人事昇給と生涯賃金だが、このブログでも再三取り上げる「昇官発財」にある隣国の宦官のようになっている。どこでも似た者同士だが、隣国の明け透けでリアルな欲望追及とは異なり、煩雑で重層された便法によって、間違いさえなければ墓に入るまでの生活保証は担保している。亡国の使徒となっているような世の多くの母親は我が子に「公務員になりなさい」と、単なる俸給安定目的で盲従を勧めている。

 

つまり似て非なる「公人」になることを勧めているのだが、競争好きな母親の嫉妬は家庭の充実といわれる幸せ価値まで変容させ、国家なり社会の基礎的要素である家庭までうつろな状態においている。それは私的要件で「公人」を作り出す一方の教育システムではないだろうか。とりもなおさず国家が生活保障をしてくれる状態だが、前記した官僚社会主義が極まった姿として歴史は戦前の軍官吏の跋扈した暗雲の再考を促すだろう。

 これらの情況に対して、あまりにも政治は無力だし国民も呆れているのか、諦めているのか無関心だ。

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デモ・クレージーと人物を得ない議会 再々掲載

2017-04-10 08:05:10 | Weblog

                                                       

 

 

ある日のこと白山の自宅書斎で碩学は紫煙をくゆらせて呟いた。

デモクラシー変じてデモ・クレージーになると人物二流でしか議員になれない

 

古典(昔の格言や栄枯盛衰の逸話)を活学することによって世の中の表れる関係性が幾らか解かるようになるが、単なる知った、覚えた類の数値評価や選別では本質は見えない。

もともと人が群れあう中では様々な現象が表れるが、単なる客観的評価や論理では事は動かないばかりか、問題発生に於いての解決はおぼつかない。

 

標記のデモ・クレージーだが、多くは欲望を誘引し虚栄や競争を促すものに安易に乗じ、かつ受益があると錯覚する人間によって起こされる姿だが、ことに一義的にマスコミや政治のせいにするが、自他循環からすれば、それは生きること、活かすこと、死ぬことを基とする人生観を亡失した自意識の内観に因を求めない限り問題すら見えてこない。

つまり、他に関するおびただしい情報や、本(もと)立って道を生ず、といわれる自己の認知や確認をスキップした単なる知の集積では何の役にも立たない。

 

よく、己を知らずして相談なり議論をすると、いつの間にか疑問に対する争論や抗論にもなってしまい、堂々巡りの理解はとどのつまり問題(疑問)の本質は己そのものを知らなかったことに生ずることが多いようだ。コンサルタント頼み、議員の官僚たのみ、占い過信、むやみな情報収集などは、自身の力足らずを他に委ねることに他ならない現象だ。

 

そもそもの政治なるものを語らず、政局なり選挙を政治と錯覚して口角泡を飛ばす庶民の居酒屋談義などはその好例だろう。

 

自他循環とは、自分と他が存在する社会を全体として、その全体の一部分という「分」が互いに干渉しあい、舐めあうように互いの特徴の優劣さを交互させる他人と己の関係を際限のない運動として繰り返す自己愛と他己愛の姿だ。あくまで優劣は自己の認識と他からの認識があり、時として変化するものだが、それぞれの関係はつねに補い合ったり反目しあったりして、定まった認識はなく時々の条件で是非も変化する。

その循環回転はスパイラルのように上下したりするが、前記した自己愛が優先すると循環バランスを崩してデモ(集団)が混乱してダッチロールを起こしたかのように収拾がつかなくなる

 

とくに価値観の錯そうは同じ生活圏である家庭や友人関係、職場においても、あの時は、あの場合は、今と異なる環境などと人間の個体で解決できるものさえ法や内規に委ねるような組織内での個々の分裂を引き起こしている。

教育でもそもそも収斂化されて効ある学派が、異なることを除外排斥して派を構成するようになると、分派された専門域が全体から分裂して、かつ夫々の群れにリーターなりボスを推戴すると全体の用となる学問の意義さえ亡失してしまうようになる。また、全体を統御なり俯瞰視して構想を企図するゼネラリスト的多面的視野、あるいは各分野の関係性を習熟するような人物(リーダー)観の乏しい人ことも因をなすようだ。

 

世の中の集団化されたものとして、政党、役所、企業、宗教、あるいは国籍や男女の性別まで分派されたようにカテゴリーとして集団化されている。仮にその集団に「色・食・財」の本姓的欲望を添加した場合、具体的には多勢を恃んで待遇、便宜、優越性といった欲望を抑制できない状態が現れる。

それが競い、せめぎあい、排除したりすると世の中の現況になることも人々は気が付いている。

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慎みの乏しくなった権力 15 3/20再

2017-04-03 19:12:55 | Weblog




戦後レジュームとかの脱却・・・・・

レジームとはフランス語で体制だが、安倍総理が就任時に頻繁に唱えた戦後レジームと云えばヤルタ・ポツダム会談後の連合国戦後体制、つまり日本でいえばGHQ(連合軍総司令部 ダグラスマッカーサー司令)が作り上げたという日本の戦後体制である。それは憲法条文や教育、土地税制、医療保険、防衛など多岐にわたり、一方でいわれるところの日本弱体政策といわれたりしている。
安倍総理はその習慣的思考が及ぼす政治政策や官吏の立案形態を「脱」という言葉で変えようとしている。それはレジュームのもう一つの意である「管理体制」下に構築されたという前提のもと現体制のレジュームチェンジだ。

しかし、「脱」と問題意識をもっても、今更ながら「脱」は出来ない、好まない一群がいる。しかもそれが政治中枢の周囲を取り巻き、「脱」の影響範囲を狭めている。要は、この部分だということに気が付いていないだけでなく、それらによって岩盤のようになったレジームを政権の背景力として互いに利用し合っている可笑しさがある。何を基にしているのか政権が安定すると、その内にレジームの踏襲こそ平和安定の基であるなどと言い出しかねない。そのくらいに総理を操る力をレジームはもっている。

天に唾するようなことだが、安倍総理は安倍晋太郎の子息、母は岸総理の娘。それゆえ彼のバックボーンは実の父より、岸元総理の血脈として喧伝されることが多い。
戦前の商工省、満州官僚として統制経済を牽引した。統制経済は集中資本、統制管理によって黎明期の満州経済を発展させ、その試行成果をもとに戦後は興銀を中心に重厚長大産業といわれる鉄鋼、造船、鉄道、エネルギーなどの産業を興している。まさに戦後復興は満洲の映し絵のよう近似政策だ。
私事だが、その満州人脈が会した新橋の国際善隣会館に唯一戦後生まれとしてその老海に漂い、取り付く島の縁に逍遥していたことで満州実情を大観させていただいた。

復興経済は多くの功罪を遺した。その副作用なのか、基幹産業を育てる過程で時世をにぎわす政財界の贈収賄が数多発生した。造船疑獄、インドネシア・フィリッピンの賠償利権、韓国地下鉄利権、アラブ石油利権、穀物利権など内外政治家と経済界、はたまた高級官吏を巻き込んだ汚職腐敗が蔓延った。
しかも、どこの派閥はエネルギー、他方は建設や電波利権、どこそこは文教(教育・技術)やODA利権など、国民からすればとんでもない利権が構築され、いまでもその系譜には手を突っ込めない状況があるという。つまり改革、省庁統合、独立行政も裏を返せば利権の再構築(陣取り)のようだと新進官吏は嘆く。

つまり戦後体制は戦前の軍刀に怯えていた連中が、GHQにお追従して手に入れた新世界なのだ。維新も欧米の植民地侵攻の怯えと対応を失くした幕府を倒し、美味い飯を奪った結果だが、その小人然とした貪りを西郷は慚愧を抱いたのだ

今度も外来の侵攻軍だ。戦前の体制は倒れ、人物二番手が疲弊した戦後を曲がりなりにも担った。だからドサクサの奪い合いが起きたのだ。それが戦後レジームの恩恵を受けた群れであり、その血脈をつなぐ二世、三世の世襲議員が無くならない理由でもある。
ことさら抹香臭くも青臭い、または左翼(欲)掛かった立ち位置でいうのではない。あくまで下座観がそう観るのだ。










貧者のヒガミ根性なのか、日本人に染みついた習性なのか、今ほどウルサイ眼が無かった頃、政治家は井戸塀から金満に変わった。都内に大きな邸宅を構え、郊外には別荘、不思議に思っていると未公開株や情報有りきの土地ころがし、穀物やエネルギーの外交利権など、官吏の狡猾な知恵を寸借した蓄財が指摘されるようになった。また、もともと財を成した二代目議員は狡猾な官吏出身議員の財布代わりになって没落したものもいる。「戦禍に倒れた人々のお蔭で繁栄した」、とはいうが、西郷の言葉を借りれば「こんな国にするつもりはなかった」だろう。それが遺伝子となって政権与党に群生する忘恩の徒を増産している。
それが、人心の衰えた権力に寄り添う者たちの戦後レジームなのだ。

官吏、政治家、軍閥の姿は、現在の官吏、政治家、官警、と何ら変わることのない御上御用の姿として国民は眺めている。数値比較ではなく、深層の国力というべき人心、情緒をみるならば確かに、戦後レジュームは戦前のそれと大きく異なる。しかし本来の問題は維新後のレジューム(体制)は、日本及び日本人の姿を根本的に変質させてしまったことだろう。

文明化は便利性とともに到来する。そして誘引されるように起きた情緒性の齟齬は近ごろの世代間の断絶どころではない。棲み分けられた地域に複雑な要因を以て構成され継続した国家なるものと、そこに棲む民と称される人間の親和性、すすんで連帯と調和心が、時とともに融解している。その憂慮に為政者の関心は薄い。その意味では、昔はそれを慎みを以て鎮考した為政者がいた。





ともあれ、戦勝国に迎合した知識人や議員、当初GHQの急進的もしくは試験的に試行しようとした勢力によって、あえて戦前・戦後と裁断された歴史的継続性だが、その後の至るところの各分野で馴染まない齟齬をきたしている。それは環境資質を基とした棲み分けられた人間の特徴ある姿の変質だ。

一方、その戦後レジームという安倍氏の云う紛い物の体制だが、ドイツの剛毅な反応と異なり、憲法のみならず、税制、教育、土地改革など、骨抜きや面従腹背を得意とする官吏や迎合政治家は巧妙にも自らの利権として戦後体制にバチルスのように寄生した。
他人から与えられたパッケージだからと理由にするが、GHQのみならず現在の日米関係は「年次的要望書」にある、建設工事の透明化は談合排除、金融・保険は市場参入の自由化、医療の自由化、郵政改革は保険・金融の分離と自由化、それらの政策は治安当局のショック策を巧みに援用して市場開放と彼らの云う自由化に突き進んでいる。正規、非正規といわれる雇用問題も要望書の切り取りだ。



ここで問題なのは、戦後レジュームの恩恵を受けてきた公職者は食い扶持土俵を毀損することなく、その身分のようになった安定担保職を変わることなく維持している。
西洋感覚でいえばタックスペイヤーは変化に晒され、タックスイーターはお咎めなしの状態だ。その群れが弛緩した戦後レジュームの守護者なのだ。それが安倍君の視点にはない。
例をひいて恐縮だが、南欧のギリシャ、もしくは後進社会主義の国情だ。


憲法だが、ことさら組織や体制、もしくは法治の基となる条文を変え、整えたとしても世の中(国風)は変わらない。書き物や制度で民族を収斂し国家として成さしめても、単なる形式的国家としてしか成立しないだろう。法がことさら証明したり説明したりするための具では無いことは承知しているだろうが、それしか方法がない、つまりそれに数字を付け加えれば唯一の正しい答えとする固陋で許容量のない思考法しか導けない人間の習慣性の問題を考えることもない。神棚は汚れ掃除しなくてもお札は鎮座している。ときおり願い事のために手を合わせるが、エゴの利益には効能もない。













筆者がおもうに、これこそ戦前・戦後のみならず、明治に遡る「脱・模倣レジューム」だ。
あの頃は、法はドイツ、イギリス、教育はフランス、海軍はイギリス、陸軍はドイツと拙速な模倣だった。何よりも人間が西洋カブレに陥っていた。
また、そのモノマネに真や核というものを拙速にも置き忘れたために起きた形式欠陥が、その後の虚飾された経済力や軍事力に依存した国風となり、民風は人心すら微かなものとなってしまった。

世上では余りにも明治維新の異業などと喧伝するものだから、偉人、先覚者と顕彰される英雄や知恵者を汚すこともできず、その背後や後の場面で巧みに、時に狡猾に立ち回った連中によって近代模倣国家が曲がりなりにも出来上がった。
そして藩民は「国民」と呼ばれ、「国家」なるものに収斂された。
繰り返すが、西郷は「こんな国にするつもりはなかった・・」との意を語る。鉄舟も海舟も松陰もそんな慚愧の気持ちだと筆者は拙くも推測する。

教育はフランスかぶれの森有礼が持ち込んだ人権や平等、自由を編み込んだ啓蒙思想を文明の証として制度化した。それに直感し諭したのが明治天皇だ。(聖諭記)
理科、物理、法科は見るべきものがあるが、果たして相となる人材を養成することはできるだろうか・・つまり部分専門家は必要だが、多面的、総合的に内外の歴史を俯瞰して将来を推考する「宰相」を養成することは、この形態では適わない、という指摘だ
今もってその残滓は教育が立身出世の具となり、その弊害は先の原発被災時の東電経営者や監督官庁の官吏、そして選挙で選ばれた為政者たちのエリートと称される階層に、明治天皇の指摘を想起するのだ。

「現場は世界一だ、比して日本はエリートの養成に関しては失敗している」とは、世界中のジャーナリスト、有識者の感想だ。これこそレジューム(体制)に安閑と巣を営む明治以降変わることのない残滓なのだ。いわゆる「脱」はこの部分であり、名利と安逸を最善の欲望として貪る者たちのコントロールの欠如なのだ。つまり欲望の自己制御を学問の基としておかず、互いに素餐を蝕む群れこそ、脱レジームの根幹をなすものであり、ここに視点が及ばないことこそ政治の放埓を招いている原因でもあろう。







ならば、どうしたら、こうしたらと堂々巡りの戯言が騒がしくなるが、先ず問題意識をもって明治以降の歴史の変遷を我が身に置き換えて内省してみたらよいだろう。
欲望についても「色、食、財」がある。世につれて対象と目的は変わるだろうが、この欲望のコントロールはどうだろうか。「数値」については法治、人治、そして数治になっていないだろうか。「知」について、質より量が単なる知った、覚えた類の学になってないだろうか。あるいは「色」にある性別、情欲が禽獣の別を弁えているのだろうか。「人物観」について一過性の数値の多寡や儚い名利に憧れたり、追従していないだろうか

学校では教えてくれなかったという。
もともと、官制の学校制度は数値競争と知の遊戯のようなもので、人間そのものを悟る場面ではない。習いはあっても「倣う」対象は少なくなっている。

未完

イメージは関連サイトより転載

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天下り「前官礼遇」安倍君の眼を外に向けろと釜炊きは言う 14 6/2 再

2017-03-27 12:25:43 | Weblog

逗子の海

 

維新期の有司専制がお飾りの議会を作ったが、戦後民主主義といえどその維新期の有司(官僚)が首を引っ込めたり出したりしながらバチルスのように繁殖している。まだ維新期の元老を輔弼として天皇権威に繋がってしていたころは、いくらか国家意識はあった。 なによりも混乱期の苦労人がいたせいか下座観もあった。戦後は始末の悪いことに戦前制度は悪と断罪したかのような教育によって、短絡的かつ合理的とも思える基準によって、ものごとの選別する思考となった。また専門分化して技量は増したが、技能が衰えた。

技術・技能だがオートメーションのラインで個々の作業は高まっても、次に続くラインのことまで考えなくても良いシステムが思索や連帯意識と調和力などに影響を与えてしまった・・・・と、ライン熟錬工は嘆く。

それが、さまざまな要因を持って構成なさしめている国家なるものの、人間という部分の変容によって、或る時は騒がしく争い、平時のおいても生命の危機は増大し、人として倣う対象である教育家、宗教家、政治家、知識人らに独善的気風が蔓延し、深層の国力といわれる情緒を涵養する息潜む人々の怨嗟はますます増大している。

 

                   

                 天下は私するものでなく公に在るもの  孫文

 

以下は政治的現象の一例の考察である。

内 平らかに 外 成る 」 とは、元号のもう一つの意味だが、外遊でおみやげを気前よく配るまえに、内政に目を転ずるべきことが大切なことだと深慮を求めている。また、そのぐらいな慎みがなければ部下の狡知に乗ずる軽薄な相として名を刻むだろう。


 
責任
のあいまいな組織対応に長けた者たちの部分の応答は、決して全体効果を示すものではなく、ましてや歴史に耐えうる経国の成果すら望めない。
前官礼遇」は肩書食い扶持の徒の見方だが、官職や御上御用に対して阿諛迎合性の強い日本人に多い傾向だ。

もとより中国や韓国のほうが制度的に官職の俸給が抑えられ、アンダーテーブル(賄賂)の習慣性が官と民の潤いとなり、相互利益調整の仕組みになっていることと違い、「不埒な心」を起こしてはならないと使用人自身が制度的なお手盛り法を作り、官ならず政までもが地位保全,高給待遇、各種手当と便宜を法に定めるような精細な狡猾さb14  6/26/2

は、たしかにその方面では世界に冠たる優秀さがある。逆に冷遇したら江戸の敵は長崎で返されると一層の厚遇に励むのも愚かな民の性癖になっている。

しかも、いまでも官職に全職優越性を持つのか、もしくは出身の規制官庁に苛められることを憂慮するのか、民間天下りや独立行政法人への転出が全職官位に準じて行われ、昨今はより勢いを増している。独立行政法人は国公立大学、医療・各種研修機関などだが、この場合の独立は「埒外」と意味を含んでいる。

また多くの補助金や研究費、協力費,の名で関係省庁から拠出され、溜め込んだ留保金は数十兆だとの試算もある。
標記の「前官礼遇」は、そこに席を有す前官吏の様子だが、現場任用の職員からすれば、まさに礼をもって遇する土産持ちの連中であろう。

それらは国民からすれば、隠された状態で、議員すらお手盛り目当てに見向きもしない。これらの処遇は形式的には法によって執り行われている。とくに,精緻にほころびのない投網のような法は、勤勉、礼儀、忍耐を旨とする国民を巧妙に囲い込んでいるが、法治国家を謳い、普遍性を看板にしているところがイカガワシイ。





獲物を掴みとるトンビも増えた


それを支えるのは税だが、よく日本は租税負担率が欧米と比較して低い、だから上げるという理屈がある。
60%も70%も払えば、医療費、教育費、老後も心配ないならそれでもいいが、それには役人の俸給、箱物の管理費などを含む経常経費が予算の90%超えるような予算立てをする慣性能力ではとうてい無理なことだ。碩学は税はこの国の参加費だと思えばいいと云ったが、近ごろは安くならずに、高くなるばかりだ。

国税担当者の発表では給与所得に占める租税負担率は所得比24%だが、これだけを北欧と比較すると低い。
しかしこれに加えて個人所得税8%と消費税、介護保険も健康保険などの負担率は17・5%、これに各種手数料とあの、誰でも、どこでも隠れて徴収される、うっかり、不注意から生ずる罰金や反則金、公的外郭団体の空き地活用と称する駐車料など、行政の経営効率?を掲げる公務員経営の収益もバカにならない

もちろん受益者負担の原則を基としても、使用料、罰金の額は膨大な数字になっている。それが国民の普遍的な利益らなるならまだしも、特別会計というチェックのない金庫に紛れては検証しようにもままならない。その特別と称する額は国会審議に供する予算の3倍もある。

国家予算は国会で審議する本予算と称するものと特別会計がある。本予算の半分が税収であとは赤字国債という借金、ということは子供に計算させても6分の⒈の収入で、チェック無しの類が5倍もあるということだ。数字は精密を旨とするが、ザックリみて350兆超えの公資金が一年間で回る勘定だが、就労人口と税金を払っている人口、タックスペイヤーとイーターの割合も明確になれば幾らか国民にも理解できる問題だ。

しかも、数年前の会計検査院の検査で4000億以上の無駄(不正)支出が報告された。これも氷山の一角だという。
一年で4000億なら10年で4兆円、震災増税もまかなえる。氷山の一角なら全体はどうなのだろう。重箱の隅を突く細かい調査をするなら全体像を示してもらいたいくらいくらいだが、官官調査は昔から舐めあい調査で甘いことは国民も承知だが、迂回システムの懐優遇ではたまったものではない。





彼らの待遇は厳しい  震災地での自衛隊




欧米を例に出して税負担を説くが、いくら公務員が税を払っているからといっても、イーター(食う人)とペイヤー(払う人)の峻別は彼らの方が厳しい。

本来の税収からイーターの総支出(官吏、政治家、独立行政法人や公機関雇用の俸給)を引いたら、先ず残らないし、足らないはずだ。本会計の税収がイーターの支払いに消えてしまう。いくら公的サービス機関とし欠くことのできない利便の慣性になじんだ国民だとしても、国民の多岐にわたる要求だと自然増殖するバチルスのような公組織は、「公」の意識もさることながら、公の囲いの私用集団のような様相を国民に映し出している。

先の負担率の合計と国債乱発の赤字負担を考えると、給与の52%が引かれている。それも国民が、顔がいい、生まれがいい、名前が売れている、経歴がいいと熱狂選挙で選んだ政治家の選択だ。

北欧のようにあと10%出して老後も医療も教育も心配なく、過度の罰金や反則金もない60~70%はどうだろうか。それとも考え直して国家組織の掃除と改造を真剣に考えるのか。
いや、いくら出してもイーターの慣性根性は無くならないと達観している国民は多いのだろうか。
この国に生まれた悲哀と台湾の李登輝総統は独特な諦観を語った。
日本人はそれを他人事として大仰にも理解の形を示したが、我が身が「※釜中の民」だと今頃気が付いたようだ。
それも、一部だが、安倍さんの銃後の守りもそれ如何に懸っている。


「※」釜の中で優雅に泳いでいる魚も、徐々に熱せられる。所詮、釜の中の民だ
 
さて、釜炊きの薪が増えているのも知らなくてはならない

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都民は、次はどうなるか解っている   13 12/4あの頃

2017-03-24 09:59:51 | Weblog

若杉参謀こと三笠宮親王殿下

支那事変の泥沼化は「日本人が日本人であることを忘れたからだ」と応える兵士の言を用いて、現地における一部の軍人の暴虐さは大御心に沿う皇軍の姿か、と幹部将校に質す。


都は、青少年健全育成には殊のほか熱心だというが・・・・・・

猪瀬氏の徳州会徳田氏からの借金だが、都知事としては担ぐには軽かったが都合の良い演者に史上最高の得票を与えた都民もあの頃のお祭り騒ぎを忘れている。
与党だった、と過去形になった自民、民主、公明も然り、ほかの野党もうち揃って猪瀬おろしに勤しんでいる。それに悪乗りしているのがマスコミだが、弱いと見ればカサになって切るのは彼らの常套手段だ。

以前のブログではオリンピック招致に勤しむ猪瀬氏の軽はずみの言動と、たどるであろう行く末を憂慮した。しかし、待ってましたとばかり仕組まれたようなカネの問題に、これまた準備していたかのようにマスコミ、議員が追求する。
それは招致決定に踊る後任の姿に、言うも言われぬ戸惑いと苦いものを飲み込んだような前任者の当初の姿に、妙な感覚を察知した都民は多かった。
一方は思惑通りの夢は見られず、一方はのぼせた様に胸をそり返す、見ている方が虚しくなる光景だった。

あの頃前知事の石原氏は維新の橋下知事の勢いに乗って、あわよくば国政を担おうと夢見た、あとは誰に任せてもよかった。それが猪瀬氏だ。石原氏と徳田虎雄氏の縁は古い。
本来なら裏に隠れる資金で、選挙と理由をつければ何に使っても自由な金、小遣いのようなものだ。もちろん手を出したさもしい者たちは数知れず、いつもながらの検察の思惑がなければ捜査二課の選挙事案と絡めた贈收賄で一網打尽になり、津々浦々の徳州会病院も事後整理の天下りが確保できたはずだ。

石原氏も余計な土産を置いていったもので、恩を着せたつもりだがとんだオツリがついてきた。猪瀬氏も誰も知られることがなければ貰ったようなものだが、風態の賎しさは要らぬことまで暴き立てられる。わざわざ金の入った紙袋を見えるところに置いていたことも不思議だが、捜査員を招き入れ、彼らの手柄功名をくすぐってリークさせる影の思惑が、猪瀬排除だとしたら、猪瀬氏以外は皆、演者だ。これだけのキャストを使えるのは限られた人間だが、しばらくしたらスグ解る類だ。こうなったら都議風情は裏に隠れた親分の気持ちを最大限に忖度して功名争いに勤しみ、マスコミは辞めた結果に訪れるであろう図柄を承知で都民を煽る。
陛下の留守中にもかかわらず民度の低さを世界に発信して、数十年ぶりの日印訪問に泥を塗っている。総理の動向は1面でも陛下の動向は26面という扱いの産経も同様である。

総理が小遣いを抱えて海外を飛び回り配っている記事と、お元気になられた両陛下が歴史的にも縁が深く、外交的にも親密さを増すインド訪問に国家の顔として訪問される陛下の行動意義の報道すらできない、つまり秤の軽重すら分別できなくなった政官財とマスコミの姿は表層の国力より深層の情緒を抱く国民の方向意思とは異なるものだ









国民の多くは、次がどうなるか分かっている。だからどうでもいいのだ。権力者や近頃では治安機関までもがマスコミの煽る騒然とした捕物ごっこや嫉妬を世俗の流れと勝手に錯覚して、久しぶりの活躍を見せているようだが、落ち着きのない騒がしさは一層のウツロイさえ感じさせる。どんな態度で陛下の帰国をお迎えするのだろうか。

岡っ引きは小者を捕まえて政権に媚を売り、税官吏とて虎視眈々と徴収を考えている。省益とやらを描く群れはハイエナのごとく餌場を拡大し、今まで甘い汁を吸っていた政治家はいっときは沈殿する。副知事の頃に補助金を出したというが、徳田氏と懇意な石原都知事の専権事項である。小遣いをもらいに鼻面引かれて行ったのは小物の迂闊さだが、同じ釜から飯(金)を食えば仲間だ。与党でさえオリンピック招致ができて知事が安定すれば、もみ手で擦り寄る連中だ。前知事が強健で徴収した果実や今度想定できる莫大な予算を、あの小者の自由にされたら適わないとおもう連中もいただろう。

よく、独りよがりの欲得や過大な妄想は浮俗な国民から見れば面白い舞台である。だが思惑通りに行かないと滑稽な笑いを誘うが、いたって真面目な演者は興奮すると見栄きりやオチを忘れて終演後に悲哀をかこうことがある。とくに政治舞台はその類が多い。
じっと洞が峠を決めて眺めているのは狡猾な官吏だが、負い目になるとカサにかかるのもその群れだ。つまり相手にしなくなるのだ。

また、床の間の石のようなどうでも良い人間がその席を占めるだろうが、お飾りには違いない。あの世界のオリンピックに巣を作るハゲタカの前で公言した「キャッシュで4000億用意している・・」税金は外のハゲタカと内のシロアリの餌になるだろう。
世間は結婚式でさえジミ婚、いまだにアベノミクスは庶民には届かない、いや届かないのは中間搾取と温室規制に能力をなくした金融機関だという。もっと探れば省益の枝に分かれた別宅の宴となって、裏備蓄の増大に功をなしているとも言われる。

心がけの問題だが、あの三度の飯を二度にしても震災地に援助するといっていた台湾の人たち、戦後補償や援助もなく高らかに生きている元日本人に、今の日本人はどう映るのだろうか。もう、喉元は過ぎたのか・・・・

もともと下座観の乏しい青年宰相だが、その突破力と政策の躍動に期待したが、深層の国力の涵養には届くすべも持ち合わせてはいないようだ。数値で見る経済、軍事力は権力者の成果だが、マスコミもそこに群がっているゆえか、国民は掲げられたボードしか興味がなくなってきている。しかも、たかだか努力結果で上下する数値を他国との比較目標とする現世利益の細切れ政策は、一方での人間の尊厳護持と継続性を願う「輔弼」としての任務の有り様さえ無理解にして忌避しているようにも見える。


よって、次の起きること、そして招来するその姿が国民賢者に解るのだ。
よく、胸に手を当てて考えるべきだ。
そして、「留守中は変わりなかったか」と、仰せられても堂々と応えられるような政権受任者であって欲しい。

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人間考学  ある任侠の逍遥備忘として

2017-03-23 12:40:31 | Weblog

「逍遥」自由で気ままな,何ら束縛されない.


平成26年5月

憚りながら一言、つれづれ心に思っていることを述べる
齢七十五になったが、いまだ童心のごとく、あの郷里の山野を駆け巡った初心(ウブ)な心が甦る。くわえて、世間を四角四面に渡る人生となった滑稽さをも感ずるのである。
家庭も顧みず、律義で人の世話焼きに没頭していた厳しい親父、それを文句も言わず黙々と随う母の姿に、不埒にも面白くない人生だと東京で放蕩した自分があった。あの頃の両親の気持ちを少しばかり忖度できるようになった。

想うにつけ、果たして己の人生に真に追い求めるものがあったのか、このごろ思いめぐらして刻を費やすことが多くなった。以前は、そんなことを考えるのは丸くなった、ヤっこくなったと、己を責めたものだ。もとより器量をはかる生業ゆえ、駆け出しだった頃の、余裕なく己を締め付ける四角四面な生き方が倣いの性となっていたために、気が付かなかった、見えなかったことが、幾ばくか気が付く機会があったためでもある。
それは異なる人や環境への理解や許す意味での許容量、つまり器量の大きさもあるが、器の広さや柔軟性でもあるようだ。

別段、いまの稼業に怨嗟を抱くこともないが、逆に任侠を自認する生きざまに関する心配事がある。
肩で風を切り、口角泡を飛ばし、ときに自分勝手な理屈を大義だと言いつのり、妙な片意地を突っ張ってきた内省もある。
妙な老婆心から生まれた稚拙な先見なのか、巷間さわがれている治安当局による暴力団呼称と社会生活上の締め付けを、逆説的になぜ歴史的に存在し、ときに賞賛さえ得たのか、そしてホドのある共生が可能だったのか、一旦、現行法の世界を離れて考える機会が増えてきた。

それは稼業に関する一部学者の評論にある応援的考えや、治安組織に利するのみの御用論者とは異なるものだ。人の世界で種々の縁におきる禍に肉体的衝撃を体感し、かつ親から戴いた身体を毀損することを、狭い範囲のこの世界の掟として甘受してきた今だから考え、言えることでもあろう。

それは、次々に集積される法の運用の多くが、まるで敏感な触法のように、しかも四角四面な執行において、もともと世間の柵を超えた埒外の若者が投網にかかった雑魚のように拘束され、かつ生活圏さえ脅かされている現状をみて、手前勝手な稼業社会の都合、不都合を超えるような、社会や国家への憂慮のようなものだった。
それはカタギ衆にとっても管理社会に象徴されるように、規制や合理的管理という風潮に、徐々に生活すら型にはめられた中での与えられた自由に陥っているように感ずるのだ。



ひとくぐりに暴力団と呼称された組織集団が悪なら、なぜ禁止令を出さないのだろうか。大海なら生き方もあろうが、生まれも育ちも日本の枠内で、まるで釣堀の囲い魚のような状況では、不謹慎ながら釣り客の戯れなっているような状況である。いっそのこと水を干して堀を消毒でもしたらどうか。
税は公平を、治安は正義を顕わす。しかし、人間社会の矛盾と不具合な構造は、法の下に平等という謳いが、単なる智慧のない成文(書き物)の下僕になっているように見えるからだ。
「平ならぬものを,平すれば、平ならず」との説があるが、もともと平らでない特徴を持つ人間社会で、公平や平等や人権を謳って、やみくもに平らにしようとすれば、必ず不平や軋(きし)みが出てくる。

恥ずかしいことだが、世間に迷惑をかけたヤクザの一部に、法の埒外を勝手に振る舞っていたものが歳をとって食えなくなった途端、生活保護受給のために仲間から抜けたいと来る者がいる。迷惑かけた親や世間のために世界を替えて働きたいというなら、赤飯を炊いて送り出すのが責任あるものの務めだが、近ごろは辛抱がきかなくなった。




満洲馬賊の頭目


中国の歴史には政治が悪かったせいか、多くの任侠の徒が活躍した逸話がある。郷村には長(おさ)がいた。それは役人でもなければ、村長でもない、土壇場で頼りになる人物だ。
何かをしたからといって財貨を要求することもなく、若いころは暴れん坊で殺人までしたものが、人生に目覚め、命がけで人のために貢献し、しかも決して名を求めることもなく,威を誇ることもなかった。
そんな人物に若者は憧れ、そんな人になりたいと思った。だが、その人物は徒党を組むこともなく、まるで隠れるように生活していた。その後の梁山泊や群雄もその気風の流れだったが、彼らは任侠とよばれ、義に生きることに敏感な侠気をもっていた。もちろん法制度も整わぬ時代でもあったが、何よりも人情は国法より重いという考えだった。

権力に対しても、物納もするし命令も聞く、だから俺たちの生活に邪魔をしないでくれという、一種の人情を基とした超国家的考えだった。権力の都合に飼い慣らされることもなく、あるいは幾度となく交代する権力者にも順応する知恵や狡猾さとも思える工夫も身についた。

国家の法は言ってみれば当たり前な規範だが、それぞれには都合がある。とくに人の問題としての役人の狡猾な考えと勢力の伸長は自身の食い扶持とその担保などの確保だが、いくら国内で勢力を伸ばしても異民族に普遍的な人情は培わることのできない環境がある。どこの国でも同じ問題で苦慮している。
総じて権力を屏風にした役人の恣意的行為と徴収金の増大だが、責任もあいまいなのはよく似ている。

法治社会には、運用する側と遵守する側に分けられるようだが、その成文法規(清規)という名目で支えられないものに掟や習慣(陋規)がある。清規の執行者は官吏だ。陋規は職分の親方、稼業の親分、郷の長(おさ)、野球でいえば監督、相撲部屋の親方などだが、この二つの規(のり)は不可分だからこそ維持できる社会がある。不可侵と考えてもいい。表も裏もそれがなければ存在しない、それは相互補完の役割がある
もちろん殺人、詐欺、などは清規の範囲だが、昔は陋規で裁いていた。
だから親分や監督は公平さを維持するために己の身を整え、つねに学んでいた。








たとえば大相撲の八百長だが、昔は五穀豊穣の神事で話し合いのもとに勝敗を決めていた。だから勝ちを誇り敗者を嘲ることはなく、逆に敗者は勝者を讃え、負けを悔やむことはなかった。勝者の資格は忠恕と惻隠の情だ。
日露、大東亜の戦いの終結はそのような心を持つ人間の志業だった。
ステッセルと乃木、天皇とマッカーサー、戦いの後の態度が国民を救い,誇りを護った。

野球でも最終試合に首位打者が決まると判れば打席とヒットの割り算で選手は欠場することがある。あるいは時間切れを図って牛歩野球をするが、野球も相撲も今の理屈では八百長だ。
もちろん裏では賭博も絡んでいるが、裏の博徒は違法でも表の行為は違法ではない。つまり野球も相撲も独特な掟と習慣で成り立っている。逆に役人が運営したら野暮で面白くない見世物になってしまうだろう。阿吽と書き物の違いで、住む世界が違うのだ。アメリカではグランドで喧嘩が始まると、ベンチに残っていてはペナルティーが掛けられる。全員抗争の奨励だが、さすがにバットでは殴らない。
敢えて法律を当てはめて食いつくのは規制を意図して天下りを作るだけだ。相撲は治安組織で、野球は検察が通り相場だ。

昔の地方興行は勧進元がいた。警備、切符販売、物品納入、運営などだが、いまはイベント会社が行っている。遊戯店などは最たるものだ。あのころは国民の射幸心を煽ると一台二万円が限度だったが、今では自殺の原因にもなっているほどの博打性があり、いまだに法の適用は博打場ではなく遊戯店だ。国民は誰が支配しているか分っている。
これは排除されたから言うのではない。たしかに法外な利益を上げ、贅沢三昧した稼業もいるし、国民の批判を受けたこともある。また若い衆の躾を疎かにして堅気衆に迷惑をかけたことも忸怩たる思いだが、だから憚りながら考えることだが、譬えて、角を矯めて牛を殺すようにもみえるのだ。稼業の思い上がりとの批判を承知での実感だ。
「角を矯めて牛を殺す」
《曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまうことから、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまうことをいう。
「矯める」とは、矯正する。曲がったものをまっすぐにするという意味》検索翻訳より

なぜなら国家の権力が恣意的に運用されると、国民はなすすべもなく、しかも法の二面性は些細なことでも社会生活にも降りかかる(適応)危険性がある。安全のために交通規制を厳しくすれば、一方では歓迎され、他方では車を手放す高齢者が増えてくる。今となってはひかれ者の小唄のようだが、社会の埒外である不良が増えれば、法はより煩雑になる。稼業組織の縄張り管轄の維持と使命感は、それをコントロールしてきた自負がある

青少年の非行にも一声かけたり、叱るお節介がいなくなったら彼らは暴走する。ときおり社会を煩わす稼業組織の人間だが、制裁の掟は清規と異なる方法で処置することもある。つまり相撲や興行野球、あるいは政党政治の掟や習慣と類似している。
違うところは公職者や畏敬の対象であり、法に誓いを立て、担保として高給をいただく人間たちだが、実力者(親分)に忸怩たる気持ちで意志を曲げられる議員もいる。公私の分別もなく裏献金が横行するのが、立場上、似て非なるものだ。








余談だが、むかしは医者、政治家、お巡りさん、学校の先生は、郷の尊敬を集める人たちだった。いまどきは皆、怨嗟の対象だ。稼業とて郷の相談相手でありもめごとの仲裁役だった。これでは子供が目標として倣う人間ではない。
半端な人間は、外車、仕立てのよいスーツ、学歴、大きな家などに憧れるが、
今は、嘲笑の対象でしかない。なぜなら、附属のものは体裁がいいが、人間が尊敬の対象ではないからだ。



単純な比較に非礼もあるが、陛下は贅沢もしなければ偉くなろうと思ってもいない。考えることは下々の国民のことだ。東北の人たちも、膝を折り、頭(こうべ)を傾け激励する陛下のお姿に、どれほど癒され、勇気づけられたか。
あのお姿を見ると、些細ないさかいごとに片意地をはる任侠といわれる稼業も、どこか侘しくなる時がある。見倣うべき人格だとおもっている。それは畏敬すべき権威の忠恕だが、一方の政治権力は近ごろとみに変質している。これも人の問題だが、法の運用が無味乾燥しているようにもみえる。
あの鬼平といわれた長谷川平蔵が活躍したころ、今でいえば法には触れないが日かなブラついている徒人(ずにん)といわれる連中を石川島の殖産所(仕事を教える)に入れて石組みなどの仕事を教えていた。いまどきの生活保護を貰ってパチンコ行ったり、ニートと呼ばれる人間たちを強制力を以て、それこそ矯正していたが、平蔵はときおり訪れて激励している。権力のササヤキだ。これは単なる懲罰とは違うが社会への気遣いがあった。しかも今と比べてとてつもない力を持った火盗改めという特別組織だ。

浮俗に「これがしたくて生きている・・」と歌がある。
たしかに子供心に強いものが目立つし、゛もてた゛。ひと頃のモテ囃しだ。
そうなりたくて喧嘩が強くなりたい、度胸をつけたいと、いまでは懐かしい児戯を思いめぐらした。当時は郷でも大学に進学できるものも少なく、男子も女子も、一度は東京に憧れ、夢にも見た。上京すれば田舎モンとみられたくなく、小遣いを握って繁華街に出た。彼女の一人もできるし,カッコいい兄さんにも声を掛けられた。いっときのカブレだが、なぜか、あの頃は居心地が良かった。

あとは人情と意気地と、落ちぶれたくない人生だった。まともな勉強もしなかった。だだ、ものごとの是非は故郷の両親が手本だった。恥をかくな、人をいじめるな、女は大事にしろ、世話になったら恩を返せ、不器用だったが稼業世界にはそれがあった。だから自分に負けたくないので半端には生きられなかった。それが格好のよい生き方だった。

懐に硬い道具を抱いて一目散に飛んでいったこともある。後先も何もなかった。疑似縁は男社会の華だった。上下左右に縁を張り巡らして、身動き取れなくなったこともあった。またそれで道も通りやすくもなった。小径から大通りに入ったようなものだ。されは裏稼業が表の社会に這い出してきた頃だが、その多くは表社会の要求でもあった。だが、あれで稼業の感覚が変わってきた。掟や習慣を曲げるのも金、すべてが贅沢に向かった。それが世間で辛抱強く生きるカタギ衆から離れていくことだった。加えて、欲望の増長が治安当局から目をかられることだった。

また、いまだから分るが、警察組織も過激派向けの警備重視から、民生警察に移行したころだった。バブルに浮かれ、遊惰にまみれた人たちの経済犯罪が多くなり、国際基準の提唱から新たな社会規範ができた。暴走族、少年犯罪が多くなったのもこの頃だが、稼業人は時代の変化を読み取ることも乏しく、旧態依然の組織運営がまかり通り、徐々に時代に取り残されるようになった。
「痛い思いをしなければ解らない」というが、「我が身をツネって人の痛さを知る」ことも少なかった。だから、社会の情況に沿った組織改革や人材の活かし方が解りかけてきた。







立ち止まって考えると、人生は複雑怪奇と自分では分かったように思っていたが、人並みに国の将来を考えると稼業社会もうっとうしくなることもあった。それは諦めや怠惰ではない。もう一度足元を見つめることへの促しの気持ちが始まったことだ。

いま想うに、稼業社会は縁の巡りと運だった。とくに人の縁は実親の言う通りだった。
それは、男も女も云えることだが、これだけはアカデミックな理屈では届かない妙味のある面白さだった。だだ、世間から見れば狭い世界だった。いつも客観的に見ようと心掛けているが、一方では粋だが、見方が替われば野暮でみっともない生きざまのようにも見えた。それで毀損した掌を眺め、鉄格子から見る四季の移ろいは独悦の天国であり、ときに望郷と悲哀の複雑さでもあった。



親父は役や金で転ぶなと始終言っていた。さもしく、卑しくなるな、ということだろう。釜の蓋の開け具合が乏しいときは、悪徳のへの誘惑があった。トラック一杯の現金を持って、半端な成金になって故郷でいい格好したいとも考えたりもしたことがあった。子分を大勢抱えて一人前の稼業人になりたいと夢を見た。
だが、いくら裏稼業でも人をだまし、足元をすくい、子分を苦しめても、生れついた性分なのか、なかなか様にはならないことを知っていた。つまらぬ我欲のためか、妙なことで似合わんことも考えるが、それが用になっていることも気が付いた。


いさかいの交渉駆け引きに行くが、不思議と大きくならなく済んでいる。もちろん相手もそれなりの人物だが、手前勝手な我欲がなければ不思議と肚も落ち着くようだ。興隆期と違い、誰も大きくしようとは思っていない。意地だ、メンツだといっても現実の威力には抗せないと理解する利口さは昔と違う。それを世間並みの常識だと言われてもシャレにもならないが、そんな姿を見せる方が今の若い者にはいい学びだ。ただ、同じ利功でも、小利口に生きることは自分を小さくすることだと思っている。

組織は兵力と財力も大きな要件だが、それをカサに着ている組織は長続きしない。人が育たないからだ。「寄らば、大樹の陰」と、大きな組織に入るが、艦隊行動は遅い船に合わせるものだ。その遅い船を大事にしなくてはいけない。空中戦やミサイルでは占領はできない。とくに人情が乏しくなった世代は、下剋上も耳にする世界になった。三越の岡田社長の解任だと思えばいいが、稼業があれをやったら、落とす方も辞めた方がいい。

これからは調和と連帯を仕切る威力が必要だ。威力は粗暴と堅気はみるが、やはり中心はぶれない座標を持った人間への尊敬だ。まともな年期が入れば右顧左眄せず、目線は定まり,愚痴はこぼさず、力に迎合しない沈着冷静な人物になる。
それはどんな職業にも当てはまるものだ。とくに稼業は人の裏を見ることに長けている。ときおり女々しい見方をする愚か者もいるが、そんな人間に限って、風向きを見て揉み手ですり寄る小者だ。稼業の矜持もない。

もともと、稼業社会はヤクザとか任侠と呼ばれることがあるが、裏稼業は本来、成文法の刑法や民法の埒外にあるものだ。ことさら荒げて反抗するものではない。成文法(清規)は必要とあれば立法し、今は当局でさえ判らないくらいに煩雑に堆積されている。明治以降から積み重ねられた有効な法は弁護士、裁判官でも運用になじまなくなっている。だから判例に随うことが多い。

たしかに多くなった複雑な法は必要なくなったら廃止すればいいが、なかなかしない。物が整理できなくてゴミ屋敷のようになると、逆に外を装うようになる。元のフビライの宰相は「一利を興すは、一害を除くにしかず」と政治の大事な点を説いている。これができないのは見栄と形式主義だ。
若い者が外車に乗れば女も派手な美人を探す、泊はラブホテルでは洒落にならないし、ブランドの財布に小銭しかなくガソリンをケチっては飽きられる。
外車を売って軽自動車か電車に乗ればいい。それでも良いという女なら介護まで付き合うはずだ。もちろん独り住まいの生活保護もいらないし、孤独死も少なくなる。
これが組織や国家ならなおさらだ。ヤクザがいなくなって、交通法規を守る運転者がいれば警察人員は少なくてもいい。親子孝行が増えれば介護予算も少なくて済む。役人も少なくなる。

だだ、みな都合があるのだ。あちらが無くなれば、こちらが増える。
妙な言い分のようだが、無駄をなくして使いようの知恵だ。
別に、お目こぼしは要らんが、使いようだ。









近代刑法ができた明治期は判例も少なく、人格、情緒豊かな裁判官は「情理に基づいて・・」と判決を下している。とくに平等、自由、民主が入ってきたころは、教育も人格より知識や技術が重用され、明治天皇さえ憂慮していた。つまり法は知っていても、知識は覚えていても、人物を尊敬し見倣うような、知識や法の前提となる人間の問題が置き忘れてしまった。
稼業社会にいて口はばったいようだが、内情は同じだ。

まさに秦の宰相だった商咉が云った「殺を以て、殺を制す」だが、人殺しを総て殺せば、殺人者はいなくなるということだが、真の任侠は隠れた義人として、その業に続くものが多かった。白黒ではなく、白黒を超える人の世界だからだ。

とくに数値で人間を比較選別する教育は、胆力、見識を基とした使命感、責任感を枯渇させるが、稼業も政治も金と軍事力、員数の多寡でしか見られなくなってしまった。
よく、おかしくなったのは戦後のマッカーサーの企てだというが、唯々諾々と従った当時のエリートの姿をみてもドイツの対応とは大きく異なる。昨今の原発被害に取り組む政治家や東電の役員と比べ、作業員の命がけの使命感と責任力は、エリート教育の失敗を表していると外国人記者の多くの感想だ。日本人の好奇心と迎合心は特徴とは言うが、官にみせる姿と共に今も変わっていない。

智慧がないから随うことで怠惰になり、規律も緩む。智慧は狭い範囲の我欲(小欲)では生まれない。社会構造に意味ある行動、一部分でもいいから不特定多数の支えになる考えがなければ智慧(ちえ)は浮かばない。

交渉事でも対面のメンツを言い争ってもまとまらない。同じ社会の土俵に立って、これが何のための逡巡なのか、互いの背景を支える多くの人たちのために意を合わせることがなければ、事は進まない。
不思議ともめごと相手とは筋を通しつつも心では通じ合うものだ。なかには昵懇(じっこん)になるものもいる。それには裁きは他人につけられるものではなく、自分を裁いてから望むものだからだ。責任は人のせいだけでは纏(まとま)るものではない。あのステッセルと乃木さんのようなものだ。

その明治だが、警察は川路大警視、軍は西郷隆盛、児玉源太郎、秋山真之など綺羅星のように今でも語り続けられている。学校も行けなかった水兵は、航海術、砲術、万国航海法を学び、世界一のバルチック艦隊を撃破している。動いている船に弾を当てる技術だ。陸軍の立見尚文は極寒の黒構台の戦いを指揮、兵はあの八甲田雪中行軍の青森の師団だ。秋山好古もいた。もし敗れていれば、いまどき流行りの金髪の青い目の日本人になっていただろう。

二本差し、まげ、下駄、草鞋(ぞうり)が、明治維新から三十数年で国難を超えた。みな学歴はないが、集中力と好奇心、そして愛郷の使命感が充実していた。その後の数値選別と学歴など装いの立身出世の風潮は、あの敗戦を誘引した。
義侠心は野暮となり、親の諭しは古臭いと耳も傾けなくなった。みな人間の気概の問題だ。
組織が乱れるのは、司令官の我欲だ。上を見たい、名を残したい、財が欲しい、それを続けたい、それがために出処進退の機会を逃す者もいる。








児玉源太郎は陸軍次官で総理候補だった。しかし、2階級降りて参謀総長となり現地に飛び、周到な準備をして、成果は乃木に任せている。だから将兵は命懸けでついてきたのだ。妾連れで現地に赴任した某南方司令官とはわけが違う。しかも死因は病死だが、あまりの強欲に部下に殴り殺されたのが真相だ。部下もしっかりしている。
軍法裁判になるような諫言行動は、ジャングルで屍をさらした兵士への哀悼だ。その義侠心が行動させたのだ。まさに任侠の姿だ。

ここで思うのは、稼業入りした若い者でも、学歴がなくても、金もなくても、車も無くても、親がいなくても、目的を作り、使命感と、責任感があればどんなことでもできるということだ。知能指数が30の男が死刑判決を受けて執行までの収容中に当用漢字を覚え、和歌を習い、新聞投稿して賞をもらっている。

つまり、集中力と緊張感だが、拘置所は最も適所であり、生きる希望と能力の発見は楽しい時間だったはずだ。勧めるわけではではないが、疎外感、孤独感こそ、学びの場なのだ。なにも官製の学校に入って点数に目くじら立てることではない。幸せ感は与えられるものと、与えるものがある。前に書いた小欲は騙したり威圧したりして強引に奪うものもある。感謝されて自然に財を得るものもある。しかし、この幸せ感は半分だ。気がついたら人が何と言おうと陰で援ける。つまり、「尽くして欲せず、施して求めず」だ。これなら褒められることに照れがある稼業人の得意とするお節介だ。暗いうちに人の家の前を雪かきするもいいだろう、店で困るような客をそっと表に出して理を説くこともあるだろう。

あの震災で多くの若衆が寝食もそこそこに、トラックに備品を満載して、我先にと現地に突っ走ったとき、何を感じ、人は言葉にも出せない感謝を感じた。
何を言われてもいい、理由は何でもいい、皆で行った行動は充実感と満足があったはずだ。ありがとうという言葉も褒美もないが、だから自由にしたいことができた。却って、立派だ、見直したと云われる方が照れくさいし似合わない。
前に書いた中国の任侠といわれた無頼の徒も、皆そうだった。









震災復興も手順や書式や予算や待遇の形式で、どれほど多く被災者が困惑しているだろうか。いまでもそれが原因で停滞していることもある。もともと無頼といわれる稼業だが、それは、あの児玉の突破力と頓智に似ていないだろうか。
内地では女郎屋通いが好きで借金はこしらえる。通行人が「児玉将軍は、たいしたものだ」と立ち話していれば、普段着の児玉は面白がって近づき「そんなに、たいしたものか」と、身分を明かさず噂話に紛れ込む面白い庶民性と頓智がある。
だから、数万の将兵を死地に赴かせるような畏敬(いけい)の姿があったのだ。
                                    畏敬「おそれ敬う」

世間では嫌われ者といわれ、刑務所通いも慣れっこな若者が、あの震災土壇場で見せた目を見はる義行は、善行とはこんな簡単な事なのか、こんなことで人は悦び、笑って仲間になるのか学んだはずだ。
実は児玉もそうだった。化外の地といわれた台湾で多くの義行をした。まさに現地の人たちは任侠の再来と映った。疫病を治癒し、匪賊を順化させ、東洋一のダムを作り豊饒の大地を作った。それは内地では風采の上がらない変わり者の後藤新平を招き、すべてを任せている


遊び人で苦労人の児玉は人を観る目があった。その後、後藤を満州鉄道の総裁に登用して満州を一大経済圏としてその基礎を作らせている。学歴や金に目がくらんで後藤を登用したのではない。後藤も台湾着任後、多くの不良な日本人役人を日本に追い返して、名もなく若く活発で、現地の人のために働く役人を呼び寄せて台湾人の信用と協力を得ている。

児玉は戦争が終わると間もなくして亡くなった。あの児玉がいなければ戦争は負けていた。つまり日本はロシアになっていた。女は強姦、男は奴隷が当時の戦争だった。児玉は今どきの政治家が言う「生命と財産」ではなく、その生命と財産が護られたら、どのように活かすのかを考える人物だった。生命財産というから軍備が必要となる。それを生かして立派な国民をつくることが真の平和の基だと考えていた。つまり権力の正しい使い方と、権力を信頼する国民との関係だ。








児玉が亡くなって遺徳をしのんで後藤らが神社をつくろうと計画した。
しかし、なかなか資金が集まらない。台湾人にも声を掛けた。すると建設資金の7割近くが台湾からの資金として集まった。つまり、今では植民地としての歴史がある台湾だが、たとえ異民族でも児玉以下後藤や若い官吏の行った善政は現地の人の心に残ったのだ。江の島の児玉神社は立派なものだが、いまは訪れることも少ない。残念なことだが、それが今の日本人だ。
それが、あの震災に寄せられた多くの義援金の心だ。九州くらいの地域から、三度の食事を一度にしたり、子供の小遣いを減らし送金した資金が、民間拠出して世界でも群を抜いている結果だ。


歴史もこのようにして学べば身体に浸透してくる。頭では動けないが身体は覚えるものだ。邪まな日本人の歴史、泥棒も詐欺師も、喧嘩で人を殺めるものもいる、しかし切り口を変えれば人の人生の流転と同じで、人は悪にも善にも転化する。喝あげが得意な少年は若者に、「かわいそうなことは、するな!」と、説教するようになる、これも転化だ。保険金詐欺が老境の父の車椅子を押すようになる。殺人者が僧侶になって不殺生を説く、暴走族が教師になる、それが転化であり、流転だ。つまり激流が田畑を潤し大海にそそぐ、その流れの変化だ。

そのきっかけを作るのが、齢を重ねた自分の役目になった。どうせなるなら慕われる稼業人になることだ。それには小欲の成功より、大欲という大きな人生観と許容量を持った稼業人になって若衆の手本になることだ。
つまり、真の器量人、度量人になると、一人前の行儀も自然につく


金もない、車もない、女もない、頼れる親もない、それで荒れるのは勝手だが,ドブに屍をさらすより、爽やかな青空を眺めて任侠の道を広げるべきだろう。
任侠はヤクザではない。言霊(コトダマ)のことだが、口に出す言葉が悪ければそのようになる。
自分は任侠だ、と云っていれば立派な任侠になる。ヤクザだといえば一応、ヤクザになるが、小欲だけでは愚連隊だ。本来は任侠ヤクザだろうが、含む意味は「尽くしても欲しがらない、施しても要求しない、善は陰で行い、邪まなものを正し、世間にも通る人の道を真剣に求める」これが本意だが、食えるか食えないかで止まるなら考えるべきだ。



譬(たと)えていえば、環境の変化でコメがとれなくなれば、食うために転作をする。いつの間にか本作になる。これが知恵ある生活なのだ。何百年の農家でも放射能が来れば転地せざるを得ない。また身体的にも農家が合わない人もいる。つまりうぶ声をあげて農業になることを考えたものではなく、すべて縁の為せるものだ。









意地を張って煙突掃除や唐傘をやっても、煙突がなくなり、唐傘をささなくなれば生業は成り立たない。だから、大学出や農家の長男、漁師、役人出身でも稼業になることがあるのだ。
ある古老の鳶頭が「木遣りと梯子(はしご)と彫り物ができなければ一人前とは言わなかったが、近ごろはマイクの前で挨拶できるものが幅を利かせている」と嘆く。
いわんや、喧嘩が強く、気も荒い、ペテンも利いて度胸もある、ヤクザ稼業はそんな群れだったが、いまはソロバンと口の巧さと、お上手だと昔の稼業は同じように嘆いていた。

とりとめない、しかも身の程知らずの憚り話だが、今は人生を反復、反省、つまり顧みることが大切なことだ。縁ある人たちに役立つことは、新しい世界を見回して、より切り口の違う学びが必要だと痛感している。しょせん、トドのつまりは、と吾身を責めることもあったが、いまだ新規の器は多くの容量を詰め込む許容がある。

それはガキころに故郷で眺めた磐梯山の大きさに似て、鎮まりの中、爽やかな気分を想いださせてくれる。世話になった縁者に自分らしい姿を残したいと思っている。齢を重ねると老婆心も出てきて、いらぬ心労も招くようだが、心の転化の面白さは縁ある皆さまのお蔭かと、緊張しつつも愉しんで学ばせてもらっている。


イメージは関連サイトより一部転載

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安倍君は国家に憑依する魔物を見たか   14   12/7再

2017-03-22 09:17:37 | Weblog


公僕を看板にして、或るときは軍の僕(しもべ)として装い、或るときは民の下僕として無謬性を仮装し、あらゆる思想形態さえもその身を偽装して主となる民もしくは推戴された為政者でさえも翻弄する一群がある。それはバチルスの如く増殖しながら時の政体に寄生する。
それは骨付き筋肉のように弛緩と硬直を繰り返し、ときに刺激や麻痺を注入しつつ老化の自覚さえオボロゲニさせている。

しかも彼らの所有物ではない財をあたかも使用専用権の如く恣意的に乱費し、その政策瑕疵や推定効果の誤りを四角四面の成文法規に隠れつつもグランドに放置して、その責任を我が身に憂うることもなく、浮俗の民に選任された職業政治家の陰に隠れ、しかも政治家の無知無理解をよいことに、その責任まで彼らに放置する。
名利衣冠に汲々とする政治家は、票田に伏し貪官に媚びて社会の安寧を大声で偽装し、大義ですらその口舌の具になっている。

政治家の頓首や反省は一過性の姿態となり、彼ら茫洋とした一群の起こした瑕疵の陳謝に腹話術のように明け暮れる。そこには責任の受任意識などなく、唯、成文法規のグランドに立ちすくみ彼らが経験と呼ぶ経年の残滓を積み重ねるだけだ。

小人(小者)は利に集い、利が薄くなれば散ず」の譬えあり、分党、分派の離合集散は恒例となり、「小人の学は利にすすみ」その目的は政党助成金と己の失業対策となり腰の落ち着きのなさは甚だしい。

民は無関心を装いつつも嫉妬と怨嗟は、一方の不特定多数への忠恕心をよそに際限のない淵に達している。為政者の政策は中抜き、骨抜きのごとく、かつ隣国の公司の倣い、彼らの仮倉庫である独立行政組織に吸い込まれ天下りの数多の桃源郷を構成している。

「上下交々(こもごも)利をとれば国危うし」隣国の古典の浅智慧でさえ容易に模すことができるが、昨今はそれが堂々と鮮明になってきた。彼ら群れの醜態はお手盛り政治家のつくる法の便宜的粗製では直ることではない。いや煩雑となった法は社会とのバランスを失い、より彼らの恣意的な偏向理解によって増殖するだろう。








どこか明治の残滓のように国家の暗雲となった軍および軍官吏や財閥の伸張に似ていないだろうか。これをこの国の組成された官癖だとしたら、その脱却こそ戦後レジームに唯々諾々として順応し、増殖している群れの実態だろう。為政者はスローガンの前に腐った根を断ち切らなければ、国家は内壊すること必然だ。

それは議会でのパワーを背景にした安倍君でも難しいだろう。避ける、除けるは論外だが、この点に問題意識がなければ、憲法も、自衛も教育も枝葉末節な争論で終始するだろう。
政権さえ思うがまゝに支配する姿なき巨大な魔物は、すでに国家に憑依し、隅々まで浸透している。

自浄なき国家の弛緩や怠惰は堕落にすすみ衰亡する。
側近は人目を気にして商業マスコミを懐柔しているという。彼らとてその伴食を願う売文の徒だ。うら若き女性やイケメン、横文字経歴を並べて飼育しているが、そんなバナナの叩き売り選挙のような指定選択はろくな人材はいないと有権者も感じている。
ただ、いつの間にか・・・、この行き着くところの憂慮に対する感度がなくなっている

どうだろう。安倍君も巨大になった群れのつくる蜘蛛の巣から脱出できるだろうか。
これを知らしめることこそ為政者の務めであり輔弼としての責務だ。

これを大声で言えるようになれば投票率は上がること請け合いだ。
そして、国家にとって真の勝利は自ずと訪れる。

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我国の宰相は「掃除大臣」たるべし 2008 10/8 再

2017-03-21 09:02:42 | Weblog

悪戯な標題ではない。今を見て臨機に為すべきものを知らなければ「政外」(政治のピントが外れる)こと疑いなし。

゛掃除゛は掃き、除くことである。それは倹約につながり無駄を省くことにもなる。歴史に尋ねれば、このような姿が国家、社会、民衆に現れたら、先ずこれに取り掛かるのが権力者の任だった。

干支では「戌」の期に当てはまる。草冠をつけると茂るとなるが、同じ「繁」とは異なり、植栽をしない為に風通しが悪くなり樹木全体が枯れてしまうために「刈る」という意味でもある。

これを国の機構なり、会社の組織に当てはめると、「弛緩」つまり心の弛みになって組織が停滞し無駄も滞留し「患う」ことになる。多くの組織は人によって動いている。しかし、その人心が弛み、機械などによって労働感性が衰えたりすると全てが受動的になり、国家をして、゛誰かがやってくれるだろう゛゛自分だけが動いても変わりが無い゛といった躍動感の欠如がみられてくる。

「戌」には改革の意が潜んでいるが、根本無くして表層の政策、対策という部分検証や修正しか考えられず、終には改革に飽き足らず革命を意図するようになってくる。それもこれも、先に述べた植栽によって何を求めるかの明確さを求めず、手前勝手の成功価値と、それに伴う食い扶持を第一義におく風潮がよりその傾向を助長させているようだ。

そこで掃除とはどの様なものを回復するのか。
元の姿とはどの様なものなのか・・・
よく、賃貸住宅を退去する場合に原状回復という習慣的取り決めがあるが、キズ、劣化、清掃、備品の交換など、なるべく元の状態に復旧するために資財と時間を要するのが常である。

それと同様に居住者が余り物を買い込まず、常に清掃を心がけ、共用部分の管理をしていれば、退出時の労力、支出は必要としない。つまり将来を考えて生活を改めることは無駄な時間と資財の供給を抑えられるはずである。
それを、社会の風潮や国家の浪費に例えると解りやすい。そこで隣国の歴史に例えれば行なうべき政策の大綱が明確に現れてくる。

外交、防衛、経済、民政、それらの基盤に棲み付く人間の様相と劣化について、当時の宰相は明確に指摘し、それが先ず行なうべき更新であり、それなくして政策も無いと実行している。

我国にも上杉鷹山、恩田杢、山田方谷という英明な宰相(藩)がいたが、共通している視点は「整風」であり、そもそも「公とは」という命題に対する取り組みだった。


    

       若き蒋介石と革命の先輩で孫文の側近 山田純三郎


蒋介石も「新生活運動」という整風運動を展開し、国のセンター機軸である「国維」の充実に邁進している。なぜか、余りにも自身が率いる国民党の腐敗堕落が甚だしく、終には民衆の信頼を失い大陸から転出した禍根を断ち切ろうとする覚悟の国民運動だった。この原本は中正記念堂に所蔵されている。



以下、再読を請う

http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=4b53ff45dd58d4b6e9773d59468ae7e4

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安倍晋三さんの忘れもの 13 4/12再

2017-03-20 10:27:02 | Weblog

フジモリ元ペルー大統領は陛下との応接で「勤勉、正直、礼義、そして母から忍耐を学び、政治の根本としています」と。


「美しい国にっぽん」
あの時も今回も目標理念は一緒だが、今回は景気にまつわる唱えが多い。
ところで昔から三つの異なる意味を連ねて納まりのよい拍子言葉のようにしていた。
「美しい」の前に「清く、正しく」が入ると調子(リズム感)が良く音(オン)もいい。
政治家や商売人には気恥ずかしいからと外したわけではないだろうが、゛美しい゛だけではオンが良いが、意味が薄い。

なぜ「美しい」は「清く、正しい」からだ

江戸っ子にはこんなセリフが似合う。「義理と人情とやせ我慢」
今時の義理ごとは金がかかる。女房を質においても義理は大事だ、自分でも困っているのに人に分ける、など、寄席にある我慢噺は江戸っ子のイイカッコシイの意気地だった。ここでは「やせ我慢」ができなければ義理や人情もままならない。

美しく見せたければ、清く正しくなければならない。先ずは塊より始めなければ民は倣わない。
政、官、財、のたとえ名目要職であっても、「清く正しく」を唱和しなくてはならないだろう。今までは笑話と嘲っていたはずだ。

よく魚のくさやや厠に対する五感は「臭う」だが、香水は「かおり」という。またその方が美しい言い方だ。なかには草花のように、いい匂いと当てはめるが、唇の動かし方は「かおり」が綺麗だ。あるいは政治家の演説も「上手い」より「立派」といわれた方が気分が良い。要は使い方だが、宰相の言葉としては長くはなるが「清く正しい国と美しい環境」というべきだろうが、分かりにくければ「清く正しい国ニッポン」のほうが実利はある。

それは国民にとっては気恥ずかしいと思っているのかもしれない。片腹がくすぐったい。
では、その美しいだが、漢字では羊が大きいことは美しいと教える先生がいるが、その大きい羊は首を切られ丸焼きにして神に捧げ、大きければ大勢の人で食べることができる、とは教えない。佐藤慎一郎氏は二十年にわたる大陸生活では日本人とは異なる庶民の感覚を体感している。そのなかで「美しい」ということは、女の子が素直に「ハィ」と応える形容を美しいことだという。

そのことからすれば、素直で明快をも表している。美しいとは、清く正しく、素直で明快、そのような人々が棲むニッポンを目標としているなら素晴らしいことだ。

日本人は官制義務教育の慣性なのか漢字は辞書を引く。それゆえに意味は共通語として情報交換に役立つものだが、同じ外来語で「love」を辞書で引くと「愛」と出る。
みんなが「愛」といえば意味は知らぬとも「愛してる」とつぶやけば、これも「愛されている」と考える。ならばあなたの愛の表現はと尋ねれば、百人いれば百通りある。応えられれば良い方で「愛は愛でしか・・」と辞書から抜け出せない若者がいる。ちなみに「個性」もそうだ。数人集まって、゛個性的ね゛といえば、どことなく納得するが腹はみな違う。

ならば誰がloveを愛と訳したのか。辞書が共通訳の働きがあったとしても、俺の愛はこの様なものだ、と差別化しなければ個性もなければ優劣,高低、多少で判断しなくてはならない。当ブログの初稿に記したが、二葉亭四迷は「私はあなたのために死ねます」と訳し、そう思っている。アイラブユーは、私・あなたを・愛しています、と誰もが訳すようだが、斯様に「愛」は人間の選択意志が入るといい加減なものになる。

ましてや異性と食い物と金が条件に入ると愛は殺意さえ起こすこともある。











安倍さんが唱える「美しい」は政治家としてではなく、日本人の誇りを対外的にも観照して美しく感じられる国柄にしたいという願いだろう。異を唱えるものではないが、ついでに調子を合わせて「清く、正しい、美しいニッポン」と唱えるなら、その行動は緊張感と集中力をもって国民に「清新なる信」を想起させるだろう。

政治家ならずとも大人になるとなかなか口に出しにくい言葉だ。いくら当選のために、あるいは失業対策選挙だとしても、余程の厚顔でなければ大声で言えまい。なかには役者も運動家も人寄せで選挙を戯れるようだが、子供が唱和するような純で透き通った声で「清く正しく美しい政治」と、全国津々浦々で唱えれば幾らかは教育改革の助力にもなるはずだ。

本当は「清く、正しく、立派な政治」というべきだろうが、なかなか・・・

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「謝ったら過ちを認めたことになる」と、ここから人は劣化した

2017-03-18 12:20:44 | Weblog

児玉神社

国会でも弁護士出身者の詭弁によって混迷の度を深くしているが、弁護士資格を持った議員同士の騒論は醜い争いとして議会のみならず、日本人そのものの劣化の象徴例として政治を暗澹としたものにしている。


異文化かぶれは別として日本人には「謝ったら過ちを認めたことになる」との反応はなかった。たしか筆者が生意気盛りだった頃の昭和30年代に口の達者な連中が広げたことだが、銅臭を察知して三百代言と揶揄された代理人(弁護士など)などによって法を持ち出して人々の情理まで変質させてしまった。     「銅臭」・・・金のにおい
場面の状況によるが、はたして謝(アヤマリ)は、すべての誤(アヤマリ)を含んだ、過ちを表わすものなのだろうか。
隣国の贈り物には「謝々」と二つも重ねてついてきたことがある。

以前聞いた米国のことだが、朝早く起きて近隣道路を清掃して水を撒いたら凍ってしまった。そこを歩いてきた人が滑って転んでしまった。すると「この責任は誰にあるのか」と思案した。すぐそこに思いをめぐらすのが前記でいう異文化なのだが、弁護士を雇い、けなげな住民は訴えられて賠償金を払わせられた。理由は服が汚れて会社に遅刻した、ということだ。
こんな時、「大丈夫でしょか・・」と駆け寄ってもね「いゃ、こちらも不注意でした」とはならない。

江戸っ子なら「大丈夫、なんてことないょ」と痛さをこらえて平気な顔をする。余程のことがない限りデットボールでも文句を言わずに一塁に向かう王選手のようだ。近ごろは球が近くを通っただけで、投手は帽子を取り会釈しても追い掛け回すバッターがいる。

中国では子供が悪さすると親は守るが、形勢が悪くなると「悪いのはこの子だ」と親は決して謝ることはないと何かに書いてあった。

それは大変だな、と思っていたら、周囲もそんな風になってきた。
わが身をツネって人の痛さを知る、とか「相身互い(お互いさま)」と生きてきた日本人だが、漢文好きが因果応報とか仏語を説いても、からっきし解らない庶民でも諺をまじえる大人の話で事の良し悪しと、始末の仕方を覚えたものだ。
近ごろは証拠に書式、代理人の報酬や役所の印紙手数料など、損害金額の数倍にもなる経費でも善悪すら明らかにできない状況だ。

程よく治まっていた連帯と調和は情緒変質の企図なのか、民主、自由、平等、人権、などを掲げられると反語すら見当たらなく、万巻の理屈を記す書物でも晴れることのないそれらの美句は、これまた複雑な要因を以て構成されている国家なるもの同様な、必須と解っている連帯や調和の必然性を、むやみに自由のなかの個の障害として意味をなさしめている。

 

            

           後藤新平が培った台湾の衛生感覚は習慣となっている

  産地偽ラベルを貼って台湾へ輸出した行為は、日本および日本人への印象を失墜させた。「あの日本人までもが」

政府は先ずはその犯罪的行為を謝ることなく、「台湾の基準がおかしい」と、国際基準を守る台湾の人々を落胆させた。

 

「すみません」「ありがとう」は、愚か者の薀蓄を聞かずとも多くの日本人の心に納まっていた。謝れば済むものではないと云われれば、ピンとくるのか財の移動だ。なんでも金で始末をつける保険も繁盛した。

これも保険屋と弁護士の国益ならぬ食い扶持益なのか、手間が掛かるようになったのも事実だ。これとて「浄水器があるから水がおいしく飲める」という便利性だか、そんなものが無くても飲める水の方がより便利だ。

どうも面倒な寄り道、遠回りすると人手も掛かるし金もかかる。それが生産性で税収も上がり、国が豊かになると数値を振り回すがこの繁栄を成功価値と思っているうちは、いつまでも悩みは消えない。

人の関係を分断して孤独と恐怖をまき散らし、バーチャルな集団や流行り事をまき散らす汚れなき罪は人を羊のようにしてしまう。柵がないから自由だと思っていたら始終、飼い慣らされた犬が吠え、周囲をうろつく。行先は牧舎かトサツ場だ。

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安倍くん 宰相は、慌てず、競わず、怯まず

2017-03-17 12:56:03 | Weblog

           現代の大塩平八郎は、 いずこに

 

 

政治の「政」は、正を行う意だが、一に止まる(正)、「してはならないこと」、ことと、「これだけは行わなくてはならない」ことの矜持と決断を表している。それには下座観と時節の俯瞰が必要だが、その思考の座標は沈着冷静を以て行うべきだろう。


標記は、総てが沈着冷静を本とする「多不」だ。急がず、阿(おもね)ず、妬まず、など色々だが、要は不完全なる故の「自省」を本としている

茶坊主や陣笠には分からなくてもいいことだが、宰相は内外の施策方針を陛下にお言上(天聴)にする務めがある。陛下とて内外の事情、とくに国民(大御宝)の生計を案じ、細かく世情を観察している。

安倍さんの叔父さんになる佐藤栄作首相は度々皇居に参内している
いまも変わりはないが、猟官、政策提言、など、こと理由をつけて総理に面会を希望する者がいる。宰相とて選挙を深慮するあまり、忙しい合間を縫って地元なり経済界の後援者と会うが、お決まりは陳情もしくは地域や職域の充て職就任の報告など、断りにくい煩いの時を費やしている。

一方、数値教育の弊害によって、部分専門家が増えたためか、あるいは各省の縦割りの弊害なのか、それぞれが完結せず、どうしても総理の裁可を仰がなければならない事案もある。
つまり、信頼に足らなくて任せられないのか、官僚に多面的能力と許容量が乏しいのか、これまた分刻みの予定が入り込んでいる。

それに加えて昨今の政治につきものの、マスコミ用のパフォーマンスにも磨きを掛けなくてはならない。株上がれと八百屋でカブを掲げ挙げるのもその一つだが、よくぞ総理にやらせると思う珍奇な芸を所望する取り巻きもいる。いくら選挙向けでもそれほど国民のIQは低くはない。その点、物知りの馬鹿より無学の莫過の方が愚かではない。
「莫過」は過ぎたるは莫(な)し、バカに出来がいい、バカでかい、の類で、決して愚か者を喩えることではない。

余暇にゴルフや居酒屋もいいが、それでストレス発散や教養の種になるのは応用力のたまものだが、昔の宰相は閑居に独想を愉しみ、「清風の至るを許す」厳しさがあった。
「清風・・」とは、「葷酒、山門に入るを許さず」と禅寺の山門に大書したあることと同じで、「葷酒」は臭い人間が入るところではないよ、ということと、「清風・・・」ならいいが、金の臭いや、名利の促しはお断りでということだ。
もっとも、黙っていても漂う人格識見なら近づきもしない。つまり、余計な情報を押し抱いて来るような輩を寄せ付けない人物に成れ、ということだ。逆に欲の深い迎合心の強いものが集まるのも、その人物の雰囲気から発する臭いだ。類は友を呼ぶ。

                

           智将といわれた児玉源太郎は人を見抜く眸(メ)があった

 

人格者は諫言をよく聴き、決して遠ざけない。
慌て、騒ぎ、競い、小心で怯む人間は、諫言をことのほか嫌う。くわえて何でも聴きたがり、知りたがる

現実政治は現世価値による世情観察で物事が動くと考えている。とくに数値や仲間内の理屈は、往々にして計算違いした時に分派、分裂する。
とくに、外交では対立した異民族を対象にしたときは表裏と民癖などがどうしてもネガティブに向かってしまう。しかも急ぎと競争が面前に現われると、どうしても売文の輩や言論貴族の言を流用し、かつ弄ばれて、歴史に耐えうる政策の統一性と思索の許容力が、古臭い、野暮だと切り捨てられ、どうしても目新しい巧言をともなう政策に堕してしまう。
ついには追い立てられるように政策を乱発して、ただ落ち着きのない騒がしい政治になってしまう。

宰相は孤独を悦ぶのが、和魂の為政者の風だった。絵画に描かれている借景を観て自然を想像し、賢書を読んで出処進退を倣いとする、故に急がず、騒がず、慌てず、競わず、怯まず、の気風が養われ漂う落ち着いた政治ができたのだろう。なにも固陋な隣国な古典を読まずとも、我が国の栄枯盛衰に表れた和魂を知るだけでもいい。
政治でも洋行帰りの洋才流行りだが、語学とグルメと合理と思われる仕組みを知っても、伏魔殿を形成している国賊的省庁もある。

静かに落ち着いた思索と観照が宰相の務めだとしても、おちおち黙っていられない連中を相手にしては大変だろうが、そんな取り巻きに限って窮すれば他人のせい、危なくなれば使いっぱなしで総理に責任を負わせる。

一度は政権を離れ孤独な閑居と国内巡察を得て習得したことは、人を観る目(観人則)だったはずだ。昨今は観人の座標が一過性の功利に揺らいでいる。
何となく、落ち着かない流れに乗っている国情だと感じる国民の多くは、政経・マスコミの騒ぎの底流を、宰相の沈着冷静の微かなる姿だと考え始めるのは、そう遠いことではない

それは国家への信の行方でもある。

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贅沢をするものに憧れ近づき、妬み、そして不幸を待ち望む

2017-03-12 14:45:50 | Weblog

                 

             極東軍事裁判 ラダ・ビノード・バル判事の椅子

 

                 

 

 

標題は、ロシュフーコのいう自己愛の観察の類なのだろうが、どうも、そもそも人間は・・、との問いに頓首せざるを得ない。まだ頭を傾げる姿ならまだしも、悲しいかなおおよそは当てはまる心の深層だろう。筆者もその風はあるのだろうと、内心を探ってみた。

 

当てはまる現象を取り上げることも野暮な思索だが、表記を逆に考えれば、己が幸せの羨望を集め、嫉妬されるような幸福感を求めていることなのだろう

 

そんなことを考えることも思想ゲームの類だと一笑されそうだが、いくら聖書や古い経典を振り回さなくても、己の内心を探れば口に出さなくても大方は得心している。

 

ところが、幾らか人生を重ねると、その時々に錯覚していた、あるいは今考えると、゛あれさえなければ゛と、悔やむことがある。それは間違いではなく、錯覚というしろものだ。

正邪や善悪の判断は誤ればリターンが己に降りかかるために抑制はある。だが、錯覚だけはその影響があらわになるまで判らない。

 

標題は「贅沢を幸せと考える」内心の変化だが、「怯えを守りと言い換える」「野蛮な暴力を勇と思う」なかには「詐欺を頭がいい行為」と考えるようになると、今どきの文明観にある人間の存在価値であり判断として附属性価値である、地位・名誉・財力・学校歴が意味を持つ。 

 

あの人は金が有る、地位がある、有名だ、と、人は集い誇ることもあるが、人によって金もちはケチで、地位は人を蹴落とす薄情で、有名は無名に劣ることある。おこぼれを想像してもまずは徒労なのだが、人は屏風にしたり仮借するために集う。代表的なものは選挙だ。

近ごろは横文字経歴や、政治家は人を騙して雄弁と揶揄される大言壮語を錯覚する。

 

いずれそのような選別評価で職掌を得た収益担保に人々の観人則(人物を観る視点)になると、今どきの争論となっている社会の患いごとになるのは当然な帰結として、しかたがないことだろう。

 

その是正をまたもや制度や法律に委ねても、それを運用する人間が不特定多数の錯覚した成功価値や幸福感に沿っているだけでは、よりその混迷は深くなる。当面の・・・、現況は・・・と、政治も追従する。まさにそれは無責任な官僚社会主義と揶揄される由縁の姿だ。

 

              

             佐藤慎一郎氏  満州にて

 

ともあれ標題は多くの事象に当てはまる人の姿だが、いま社会はその本性を露見させ、かつ、大手を振って錯覚した幸福感を増幅させている。

 

高度成長のころは家電や持ち家、車などの所有物に憧れ、みなローンの奴隷になった。便利さと安易さは、完済するまでは所有権のない仮の資産だが、それでも幸せがあった。そして優越感も生まれた。視聴覚が満たされると加工された情報であるスポーツ・芸能・趣味に易々と乗ずる昨今の興味は誘引された。スキャンダルは話題となり、高額報酬は憧れになり子供の成長もそれら巻き込まれた。

昔はカメラを向けられれば顔を隠して隠れ、マイクを向けられれば逃げた。喜んだのは芸人か政治家くらいだ。今昔の世評の良し悪しではない、ここでは人間の表現変化を歴史の鳥瞰視として由縁(なぜなのか)を考えてみたい。

自由のいたるところ孤独となり、平等は不満を喚起し、民主はまとまりのない混迷と争論を招いた。それらの錯覚した短絡的応用は、ときに人々の連帯を離反・希薄になり社会の調和さえ失くすようになった。

 

国を亡ぼすのは「無関心」というが、繁栄を誇ったローマ帝国、大英帝国も絶頂期の民心は政治や将来無関心で、指向することは温泉・グルメ・旅行・イベント、と共通していたと識者は伝える。

そろそろ行き着く先と、是正ならずとも抑制の意識を栄枯盛衰の倣いとして考えるべきだろう。

その標題意識が人間の姿として当然視されることを否定するものではない。

ただ、それを進捗させ感化影響させる錯覚した政治政策や宣伝媒気風に、老婆心の危言として現時の備忘としてみたのだ。

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生活の為の、゛食い扶持゛

2017-03-07 11:30:38 | Weblog



前三篇の「田母神インテリジス・・」については、筆者の備忘録を騒擾とした世情に当てはめたものだが臨場感あふれる実行者のオーラルヒストリーや外地の未公開資料の表層を記した。

それさえも難解なものであろう。とくに偏って刷り込まれた知識ならず基礎的観察座標は多くの歴史的観察を惑わしている。しかも時を経て其の都度書き直しの愚を起している。

とは申せ「それがどうした・・」という見方もある。
実利を追求していると思っている、゛食い扶持゛至上の見方だ。






              ヤマウチ・タツオ


何を隠そう、地を這うような労働に歎き、運命論に囚われ怠惰になった一時の筆者の心地だが、精霊からの恩恵意志まで前提食い扶持に落ち込まなかったのは、多くの縁の訪れによって運ばれた喜怒哀楽を同感する人々の恩恵だった。それは転化を促すとともに利他への貢献を教えるものだった。

それは「思い込み」を溶かすように多面的、将来的、根本的な思索への誘導のようだった。いまだ性根も弱いが「ホド」は弁えいてるつもりだ。それも安岡老が耳タコのように「無名かつ有力」という下座観、俯瞰視の涵養の勧めと、多岐にわたる先哲、先覚者の回顧にみる矜持の持ち様だった。

それを座標として国家なり人なりを観察しながら逆賭することが我を客観視し意志なり主義なりを構成する精神を、ある意味では柔軟に自身を運行(躍動)させることを習いとするようになった。



              





頑なで、偏屈とも映る向きもあろうが、己の潜在意思を恐怖に似た境地で解き明かすと数多の歴史先哲が述べた「我、何人ぞ」に行き着くのが解るようだ。

゛情報という狡知にがんじがらめになって己の実態すら認知できなくなったら、田舎に入って自然と戯れなさい゛と学生に伝えるのだが、ふと思い出すのは毛沢東やポルポトやスターリンが行なった下放政策である。

糜爛した都会の知識人を農村で従事させる、たしかに虐政でもあるが覚醒の体験としては下座観と世界観の肉体的、精神的な更新には役立つだろう。

中国の歴史では儒者(知識人、読書人)は十階級の下から九番目として九儒として蔑み、毛沢東は臭九老として扱い、当時はタクシードライバーと同じ俸給である。

日本では有名な学者でも本国では「あいつは政権が代わるごとに反省文を書き擦り寄っている」といわれている。また「姿は文化人だが著書の部数やノーベル賞のために翻訳と書評の下駄はきを懇願する、それが彼等の言う文化の世界だ」とも辛辣な知識人評が定着している。

なかには中国情感の好きな人間には孔孟を説き、八百よろずの茫洋な自然観を説くインドの民のヒューマニティー論?や、ロシア文学に傾倒して共産主義に共感を持つものも出てくるような、ある意味では融通無碍、無為無策ならず「借策」にをいともアカデミック的(学術的)な形式を装うことを勘違いしている知識人が多い。

それらの知識人、教育者とは言われるが、゛食い扶持゛をもっぱらとしている稼業知識人、つまり政治、経済、マスコミ、商業出版、教育産業の素餐として走狗に入る一群である。


「檀」とか「界」を構成し親分子分の契りを結んで「権」を為し、商売人に其のカスリの集金を任せて自らの手を汚さないような合理的かつ科学的なシステムを階級構成している文化とはなんなのだろうか。

平らに言う「評」などはなく、また吾を言う「語り」を失くし、舌の上下に終始する舌が言う「話」を磨き、食い扶持に堕した者の戯言に一喜一憂する政治家、軽?済人が蠢く国柄に永く続いた歴史はない。

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