まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

在日韓国、朝鮮の方が軍歌を元気よく歌っていた

2012-05-28 20:58:41 | Weblog


居酒屋のことである。
カウンター席は8席、予備の椅子をもってきて、狭い通路の壁には酔客が張り付いて大声で合掌している。

「月月火水木金金」「戦友」「加藤隼戦闘隊」

いや、ものすごい大音声と、リズムが合った合唱である。

曲の合間に大物野球選手の現役時代の勇姿が映像に流れると「彼は在日だ・・」
周りの粋客は言葉なく、頷くだけ。

近ごろは何か吹っ切れたように積極的になってきた。

その親父(アポジ)とはよく一緒に呑んだ。在日朝鮮人のなかでも立志伝となる逸話をもつ長老だったが、同胞にはめっぽう厳しく、いつも威儀を正していたが、ときおり好きな風呂帰りに立ち寄り、話がつくと自宅にとってかえして上着を着て髪もきれいにクシを通してくる。行くところは線路を隔てた路地のスナックだ。

家族の前では「タバコは野蛮人」、「カラオケは苦虫」と聞くが、めっそうもない。
若かりし頃は天才と謳われたが、彼の国の次男は長兄とは雲泥の差がある扱いだ。一念発起、あの差別なはだしいと聞く日本列島にやってきた。あつかいに雲泥の差があった郷里と違い自由があった。当初の帰還運動(下関)では腰に拳銃を下げて戦勝国の気分を味わった。

日本では精密機械工場に勤め、見る間に職長となり日本人従業員を配下においた。なにしろ不良品が少なかった。給料も日本人より多かった。表彰もされ自信もついた。それは技能だけでなく、異郷で生きる環境の順応と差別もない職場の人たちだった。
「一概に差別だといいつのるが、どこにいても不満はある。それを人のせいにすると差別という文字になる」

帰還運動は新潟から元山への帰還とは違い、戦後の帰郷差配だった。新潟からの帰還は、故国は楽園という誘いに帰国した人たちだ。有名人だった親父の長男も帰国したが、長男にはまだ見ぬ異郷だった。在日朝鮮人の有力者の縁者は1世もしくは2世を問わず、誰かしら異郷に旅立っているようだが、その多くはアポジの選択のようだった。だからなのか、呑み仲間の親父は口が重く、それが重厚沈着さとなって同胞関係者の重しともなっていた。

そのスナックはやけに暗かった。女将が老齢のせいもあったのか親父は安心しているようだった。ふと横を見ると蛍が光っているかのようにポー・・と火がともった。
みると親父がショートピースを咥えていた。たしか野蛮人といわれるのが怖くて陰で吸っている跡取も同じ銘柄だったが、まさか・・・。
そのポーズは吸いたての若者が親指と人差し指で挟むあの吸い方だった。戦後のシケモク吸いもあのスタイルだった。








二世の方も多く参加した古典学習





そういえば戦前に来られた若者は男子が大勢を占めていた。女性は一人では旅行さえしない儒教の国だ。当然、結婚相手は日本人女性も多かった。だか、世の中も落ち着くと血統意識が頭をもたげ、2世男子は同胞でなくてはならないと言うようになった。
同じ朝鮮半島でも新羅出身、百済出身、などと固陋な掟や慣習が民族の血脈系統であるチョッポが再び生活を支配した。どこどこの金と、どこそこの金、と、身分が阿吽の姿で甦った。とくに済州島との縁組は難儀だった。それも昔は流罪の島だったからだという。

加えて家族内での大きな区別、食事はアポジとオモ二(母)と娘は席を囲まず台所だった。
安定と豊かさはそれが異郷において甦った。それも形式ばったアポジの仕事でもあった。
親父の口からは望郷はない。懐かしさがあるだけだ。
筆者の友人などは女房が怖くて空威張りだと自嘲する。

その知人が呑みながら面白いことをいう。
「むかし、アポジがオモ二を何かというと叩いていた。とんでもない親父だとおもった。だが、俺も結婚して分かったことがある。あのときオモ二は口喧嘩で、゛わかった゛といいながら、最後に小さな声で棄て台詞を言っていた。゛自分だって゛。これを聴いたアポジが手を挙げるわけだ。いまはオヤジの気持ちが分かるようになった。」







ブラジル入植





政治は勤勉、正直、礼義、そして母から忍耐を学んだと陛下に語る



余談だがブラジルの日本人男子もそうだった。殴りはしないが、その位に烈しくなければ辛辣な苦労は癒せなかった。しかも異郷では地元の人たちに気を遣った。しかし根底ではあえて世俗の風潮に背を向けて日本人的精神を護る世代の姿は、家族の連帯、責任の所在と目的指示の統一など、入植時には多く成果を上げた。その意味では朝鮮半島に祖をもつ方がたも、ブラジル入植者もその成功の類似は環境順応などという生易しい言葉ではなく、民族、家族の普遍的基軸である「血」の守護と繁栄への結束が有効的なシステムとして機能していたようだ。 身内のケンカは何かの確認なのだろう。

韓国の財閥企業もそれで栄えた。そして中小企業の育成を疎かにした産業構成はIMFの軍門に下り、再び世界経済の金融比重の運を得て再び甦った。やはり根底には血脈の信頼があるが、繁栄怠惰と背合わせで名目儒教にちかい様相が起きつつある。
ことは一族の繁栄である。政治も経済も生活もそうだ。
また、そのような社会に在日は拠り所を求めてあまり帰還はしない。

日本人も大変だからといって国を離れることは稀だ。ことさら今の日本人の成果とは言えないが、この四島に堆積した情緒は異郷を祖にもつ彼らのほうがよく知っている。
むかしから辛くなったら望郷の念が湧くというが、ふるさとがシャッター通りで疲弊すれば誰も帰らない。゛こっちの水は甘いよ゛と歌った蛍が想いだされる。


アポジの吸い殻を灰皿にもみ消す仕草が、なんとも初々しい。
「儒教のアポジはしんどいですね・・」
やはり、口は重かったが女将にいつもの曲を選曲して親父にマイクを向けた。
「曇りガラスに手をやれば・・」サザンカの宿だった。

これも家族には内緒の歌だ・・。一世の親父は情緒が複雑で深い。
二世は日本の若者さえ歌わなくなった軍歌の合唱だ。
たしかにスタンドのわめきと叫びの合唱よりは意味が深いが、複雑だった。
まぎれて久しぶりに歌ったのは「帰り船」だったが、やはり辛い歌だった。
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「そのことを、もっと早く知っておきたかった」  08.6再

2012-05-28 11:13:54 | Weblog
          威容を誇る 弘前忠霊塔



拙意乱文で恐縮ですが・・・

筆者が都下東久留米に住む巣鴨プリズンの教誨師を務めた花山信勝氏との面談の折、秘話が語られた。花山氏によれば、東條氏との面談のなかで宗教の話題に及んだとき、氏は「そのことを、もっと早く知っておきたかった」と述べている。

どのような意味を内包した言葉であるかは、宗教人との応答であるため深遠なものだったと推察する。それは明治以降の軍人教育の習得過程にみる戦術の合理性を追い求めるあまり、軍人としての教養である死生観や恩讐にかかわる情緒の涵養との調和のあり処についての応答だったのだろう。

それは四角四面にみえる官僚のセクト主義を役割の任ではなく緊急時の大権責任の存在と、それに埋没してしまった「相」としての任の部分構成のみならず、組織全体を俯瞰する意識に欠けてしまったのではないだろうか。ただ、その点からすれば東條氏は、「おかれた立場にしかわからない情緒性の涵養」があった。

東條氏は天皇に忠実だった。実務にたけ几帳面で能吏だった。天皇については当時の日本人が考えていた以上に輔弼の立場を護っていた。足繁く参内し奏上したことは当時出仕だった松前藩の嫡男、松前ノブヒロが筆者に語っている。

余談だか戦後宰相の佐藤栄作氏もよく参内した。政治という世俗の欲望の交差点にいると顔つきまで変わってくるという。そんな時、参内すると穏やか人相に変わったと側近はいう。陣笠代議士と異なるものは任の責任と在りどころを自覚せしめる対象があることだろう。

あの三木武夫氏も当初は思想的に疎遠なきらいがあったが、園遊会に代理出席した睦子夫人に「三木は変わりないか」とお声掛けなど、総理になってからも参内すると親切な応答と、その容像にいわれぬ尊敬の念を抱いた。あの三木降ろしの嵐の中でも国民世論を背景に「あのお方なら分かっていただける」との信念で耐えられたという。

よく東條氏を首魁とした陸海軍閥の抗争や、統制、皇道との暗闘だと一方に偏する観察もあるが、天皇との一刻は、語らずとも国家を登覧するところに置かれ、随所に現実を超然として観察するようになるという。
東條氏にも天皇の御下問と応答以上に吾を律し、歴史に尋ね、戦時下の宰相としての自覚と涵養の刻であっただろう。

左右両派には天皇を取り上げ各論、争論が数多ある。しかし現実に親しく接し、云うも謂われぬ鎮想を感じるような意識は、共通基盤に立った不特定多数への忠恕心と、人間の在り様を自問せざるを得なくなると体験者は言う。また足元の草花や歴史に潜在するものに心を置くようになった、とその変化を悟ったと回顧している。

アカデミックな論評の空虚さを感じとり、証の無いという「感性」、あるいは智を活かし、将来を逆賭(物事の結末をあらかじめ観る)する「直観力」は土着的(エスノペタゴジー)な、倣い、習うことによって学ぶ「情理」の涵養にある。それは官制学、いわんや明治以降の文部省カリキュラム求めても有り処はない。

ここで、戦の原因と経過における東條氏の臨機における各種の言論にある功罪を別として、独りの人間として、「私」を忍び「公」に徹した任務への実直な姿勢は、ある意味で「情」を自制し「理」を優先した能吏の姿として以下の逸話に観ることができる。
それは官学エリートにある「残像の情緒」を別とした考え方でもある。











たとえパル判事のいう事後法による裁判だったとしても、あるいは敗軍の将だとしても、法に随った抗論はそれを超えて、民族の矜持と国家の威信護持に満ち溢れている。
ある高官戦犯は、「巣鴨での行儀の悪さと品位のない口舌は、これが国家の戦争指導者達かとおもうと・・」と、回顧している。

そんな中で東條氏は尋常(平常心)な精神を保ち、敗れたといえ戦争責任者だった自らの責を逃れることなく、死の直前まで平静であった(花山談)

今どきの庶民好みの「野にして粗にして卑なる」ような武勇伝や戦記はないが、あくまで役割の「分」を遂げた姿だった。
それは、ある意味で軍人官僚のもつ愚直さとも見てとれるが、疲弊と混乱の中では臨機に適した人物であった。

それを以って眼前の現象である軍、官、財の各界の状況や戦況認識についても、異なる独想を描いたに違いない。それは直なる性格とも相俟って、゛野にして粗なる゛周辺との調和に窮し、まさに「直にして礼(調和)なくば、則ち絞ず」の状態になったと推察する。宣誓供述書をみるに、官制学校歴を「用」にした立身出世「卑」はない。

連合国検事キーナンは東條氏との直接対決の数ヶ月前に「唯一真実を述べているのは東條、ただ一人。真犯人は木戸だ・・」と妻の手紙に認めている。

あのとき白人弁護士は自衛的主張のなかで「彼らは愛国者だった」とそのおもいを結んだ。そして「誰でもその任に当たったらそうするだろう」と述べ、その瞬間、東條氏は落涙を堪えるように中空を仰いでいる。

当時は人物の評価にかかわる観人則が、明治以降に構成された既成観念から抜け出せない、つまりそれによって高位高官にあるものの偏った考察、あるいは言い訳のつく安全策や、観人則そのものの有ことすら知らない誤ったエリート意識の立身出世の考えにあったようだ。

それは土壇場での平常心、高位であるものの責任として、東條氏が「空気や地面」と表現する陛下への対応と護持に対する考え方など、人物、人格にいう異民族をも含んだ普遍な「人」と「歴史の残像」への下座観が必要だということだ。

まさに、明治天皇の帝国大学視察において指摘した(聖喩記)にある「相」の養成のための教育課程の欠落がそのままの姿で露呈している

それは、ドイツの軍制を学ぶ際にも表れている。拙速ゆえか、戦時軍政に携わるものの留意点と、それをコントロールする指導者の宗教心や武力執行の戦術の超えたところにある多面的、全面的な局観、あるいは対戦国との挟間にうごめく大謀の存在を俯瞰できなかったことでもあった。

以上は肉体的衝撃を回避した後世の平和時においての論評だが、戦禍にあった先人を想起するとき、臨戦時の宗教観は如何ばかりのものであったか哀悼の意をもって鎮想するものである

「そのことを、もっと早く知っておきたかった」それは敗戦の戦争指導者として獄中の出来事だった。
                        

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あの満月の夜に新聞は始まった

2012-05-25 16:52:03 | Weblog


それは、東京の小さなレストランでのことでした。

「バングラデッシュには悲しい歴史と誇る歴史があります。また世界の人たちが国の貧しさを知って多くの援助が贈られてきました。植民地の二百年も辛いものでしたが、学ぶことも有りました。でも、貧しくても誇りは人一倍あります。そのために援助で豊かになる人がいても、多くの貧しい人たちは何の変化もなく、多く若者は国外に働きに出ました」

「なかには貧しいがために強がりを言ったり、人に心を開かない態度をすることもありますが、ほんとうは正義感もあり、人のことを心配したりする優しさがありますが、いまの現状は日本に住むバングラデッシュの人たちでさえ互いに本当の心を閉ざして、いさかいも起きることがあります」

「この解決の一つに、子供の素直な心から見た大人社会への疑問を、子供の力で社会に発信できるように識字率を上げることが必要なのです。それには子供たちが不思議におもったことを子供たちの考えで解決方法を発表したり、質問したりできる新聞が必要なのです」

「子供が取材して、書き、編集して、発行する。読めなければ大人が読み聞かせ、友達で助け合う、この関係をつくれるのは新聞しかない。そして歴史的にも関係の深い日本の方々の考え方、あるいは、便利さが工夫を衰えさせたり、豊かになったことでの教育や生活の問題点、また同じ子供たちの心をバングラデッシュの子供たちに伝えたいのです」

そして、「このことに命を懸けたい」と・・・

アジアの繁栄の先には山もあり谷もある。繁栄につられて欲張りな人も訪れる。
でも、コマーシャルもなく、子供が考え、書き、発表する新聞の精神は、いずれバングラデッシュの大きなセキュリティーにもなる。

バングラデッシュの賢人、プロビュ―ル・シャカ―と語ったのは、たしか満月の夜のことだった。



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馮寄台氏(中華民国駐日代表)と日本

2012-05-21 21:09:26 | Weblog
 




港区白金にある台北駐日経済文化代表処では日本との関係、とくに国父孫文と革命に協力した明治の日本人や、日本統治下における水利ダム建設によって画期的な農業改善を指揮した八田与一氏らの偉業を展示する催しを随時行っている。

代表公邸に付随するサロンを開放し、革命や殖産貢献者の遺族や交流関係者を招いて、いまも厳然として堆積している事績など、良質な歴史を支え共有している日本人との交誼を積極的にすすめている。

よく人括りに分かったような風で四字熟語を寸借しつつ形式外交をおこなう徒も散見するが、「小異を残して大同につく」とか、蔣総統の「恨みに報いるには徳を以てする」との忠恕を手前勝手に解釈して幅をきかす台湾通がいる
戦後、自民党代表団の訪中(当時は中華民国なので訪中)の際、蔣総統に「恨み・・」について慇懃な謝辞を述べたら
『私に礼はいらない。あなた方の先輩のお陰だ。その人たちにお伝えください』と諭している。







山田良政  恵州の戦闘て殉難






それは共に辛亥革命に挺身した革命の先輩である山田良政、孫文の側近山田純三郎、そして朝野の頭山,犬養、宮崎、萱野への恩顧に、その自民党代議士の日中の人間交流の歴史に対する無知を自らの言によって諭している。
つまり、力加減の按配を計る形式外交を、彼の国にある大人ぶった鈍重さではなく、また恩讐を超えた新しい縁の甦りとして両国の先覚者を常に懐(いだ)こうとするメッセージでもあった。

一昨年孫文の側近であった山田純三郎没五十年忌を生地青森で催した時のことだった。
国交時、中華民国大使館の有る頃は着任、離任時には物々しい警備のなか青森県弘前市の菩提寺貞昌寺において大使が拝礼を行っている。それは蔣総統直々の命令でもあった。そこには孫文撰書の山田良政頌徳碑、蒋介石撰書の純三郎頌徳碑、そこには「永懐風義」と撰し、その革命時の山田の人格を懐かしんでいる。

以前は代表処の文化組長を招聘し講演会をおこなったりマスコミインタビューを行い、その革命事績である頌徳碑の拓本を台北の国父記念館に贈呈した。
その際、感謝状の授与を山田の生地を代表して市長名として請い、永く郷土の誇りとして弘前の人間教育の糧ともなった。記念館館長も多忙のため小生が代理で中華民国国旗である青天白日旗を持参して贈呈したことがあった








中華民国駐日代表  馮寄台氏




その縁もあり、事前に馮代表にご案内した。当日はいつもの津軽の曇天が快晴となり多くの関係者によって行われた。その際、住職の赤平さんから「昨日、東京から馮寄台代表がいらっしゃいましたよ」関係者はみな驚き感激した。

後日、御礼にと津軽の人形師木村ヨシさんの孫文と山田兄弟の人形を贈呈した。すると『この人形は応接貴賓室に飾ります。それと来年は辛亥革命百年記念、大々的に行います。協力してください』

代表の動きは素晴らしかった。サロンを公開し孫文展を行い、折からの東日本大震災では多くの台湾国民の賛同を募い、新聞各社に歴代代表として最も多くの寄稿を行っている。それには事情があるという。
各社の支局は北京に駐在している。台湾はその一部としての局扱いで台湾駐日代表のコメントは寄稿の形でしか取り上げられないという。そのためか、馮代表の立場を配慮しつつも、馮寄台風の交流理念と独自の行動施策が思惑や縛りもなく活きいきと記されている。

馬総統と同世代の為政はややもすると経済実利、固陋ともおもえる歴史関係からの脱皮を滲ませた両岸関係や対日政策のように当初はみえた。しかし、馮代表の着任からの対日考察は連帯と実利を歴史を鑑としてバランスよく遂行しようとする配慮と巧みさがあった。加えて黄色いジャンパー着てテレビで日本の被災援助を唱えた総統の姿と、その総統さえ思いもよらない台湾国民の日本に対する熱烈な恩情にその為政の方向さえ転換させる結果となった。

その後、馮代表の深慮は、台中、台日を視野に入れながら台湾と日本の市民、自治体、学術研究など多岐にわたる分野の目覚ましい交流を法的な枠組みが交流の障害とならぬよう政府関係者に促し、アジア流の自由貿易のモデルとしての台日交流を将来的にも高める行動に邁進している。

以前、毎年東京で開催する双十節記念祝宴について失礼にも問うたことがある
「日本の議員も来日した台湾の議員も経済の数字や新幹線のことばかりで、祝宴の意義である双十の十月十日の革命記念と日本の関わりについて誰も恩顧の挨拶がないようですが、これでは台日は商売人の関係になってしまいます」

馮代表は身を寄せて語った
『来年の革命記念は日本との関係を大々的に行います。祝宴でもそのことを皆さんに話します』

祝宴が待ち遠しかった。多くの友人にもそのことを案内した。そして山田の故郷である弘前の関係者も招待の欄にお願いした。職員はその事情を呑みこめず「地方の自治体に案内は・・・」
『いや、代表の特別な挨拶を聴かせてあげたい。きっと有効な交流があるので至急送付してください』
直前の送付だったが、弘前市の職員は大量のリンゴに華人の好のむ福文字をプリントして会場の一遇に展示して、郷土の偉人である亡き革命志士も苦笑いの宣伝をしていた。なにしろ革命が成就したら弘前の桜の下で祝宴をしようとした孫文と山田である。双十に桜とリンゴ、意味は深い。

サロンには人形も飾られた。多くの日本人が知らなかった事績が馮代表の発案によって行われた展示によって教えられ、甦った。
いまは八田与一氏の業績が台湾側の企画で展示されている。
本国現地では総統の出席で慰霊と顕彰の式典が挙行され、東京では馮代表が応じた。多くの日本人が忘れていた、いやなかには忌まわしい歴史の同胞と棄てられた歴史の残像と考える人もいるが、台湾は被災への莫大な義援金と民族を超えた先覚者に素直な恩顧を寄せている








木村ヨシ作 孫文と山田兄弟






江の島に児玉神社がある。あの台湾民政長官だった後藤新平の発起で児玉源太郎を祀った神社だ。創建当時資金が集まらなかった。しかし台湾人有志は呼応して建設資金の七割を協賛して建立している。巨大な石の鳥居、使用材は台湾ヒノキ、大銀杏は雄雌一対、コマ犬は台湾の工芸品といたる所に台湾の香りがする。あの台湾総督であり日露戦争の智将児玉源太郎の顕彰に、かくも台湾人が協賛したのか。日本の施政下での迎合かとみる向きもあろうが、馬総統も思いもよらぬ親日感情に政策方向すら転換を促す潜在する情緒のパワーに、「人情は国法より重し」を実感する。神社は歴史の時空を超えて明治人の普遍な人情を感じさせるたたずまいがある。

馮寄台氏は多岐にわたり広い見識を魅せてくれた。また異民族の人情に教えられた日本人が応えられるかは、今後の秤にかけられる問題だ。
あの、義援金数百億に多くの日本人が驚愕した。そして台湾をマジマジと見直した。若者は台湾の電子機器を買うと叫び、多くの旅行者は台湾を目指した。
また、長い歴史の中で異民族と共通するものや、その本となる人情の発露を想起もした。

ややもすると腰を引くような重いかじ取りを独特な発想と突破力で、今までにない多大な成果を得た馮代表に深甚の感謝を呈上したい。

何よりも、歴史を学ぶことの重要さと歴史への内省を新しい世代が転化する方法を教えてくれたようだ。

孫文は山田良政の頌徳表の末尾にこう結んでいる
「この志、東方に嗣(つぐ)ものあらんことを」

まさに馮代表の言辞と行動は、国父孫文の意志を日本国民に提示したもののようだ。まさに『語りますよ』と約束した祝宴の挨拶は氏の駐日代表着任からの揺るがない座標なのだろう。

それにしても、真摯な挨拶に雑談に耽る日本人が多かったが、この国の将来かと憂慮するのは早計だろうか・・・


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ホンダのざっくばらんと無礼の狭間

2012-05-18 20:11:48 | Weblog


「辞譲の情、礼の端なり」孟子 四端より

礼は譲り合うこと。無礼は譲り合わないこと。





ホンダとは本田宗一郎を創業者として興した元の本田技術研究所(本田技研)である。
創業は浜松だが、東京と埼玉の境に多くの施設を有している。
東武東上線の和光、オリンピック道路沿いには本田技術研究所、近くの荒川河川敷にはオートバイのテストコースがあった。テストと言っても周回ではなく直線で、よく工場レーサーといわれたライダーが試乗していた。そのなかには山野を走るモトクロスレーサーやロードレーサーも巣立っている。

もう少し郊外の狭山市には本田の四輪工場があるが、この地域もホンダのお陰で一時は際立った活況があった。職員は近在の農家の次男坊が多く、畑をつぶした自宅の駐車場には必ずと言っていいほどホンダ車が納まっていた。それも家族で二、三台も普通だった。

昔のことだが、友人の親父が機械好きで自転車の後輪に取り付けるエンジン自転車を空き地で走らせていた。ピカピカに磨いた自転車とエンジンがマフラーから白い煙を吐いて振動している。格好いいことこの上ない。

そのうちホンダのカブやドリーム、ト−ハツ(東京発動機)のランペット、山口、目黒、陸王、スズキ、ヤマハと多くのメーカーが興ったが、東京の城北地区のト−ハツとホンダはなぜか愛着が深かった。

そのうち本田が四輪に進出した。S600と名前は忘れたが乗用車だ。エス・ロク、と排気量の多いs800があったが、当時の若者向け情報誌平凡パンチでは若いカップルが爽快に走るS600に憧れを抱いたものだ。だが、乗用車は俗称オケラ、前輪駆動でバランスが良くなかったのか、路面を前足でかくような走り方だった。

潜望鏡といわれた軽自動車もあり、いろいろバリエーションに富んでいたが、オートバイ同様に回転数で馬力を稼ぐためか騒音が厄介だったが、当時はホンダサウンドとしてマフラーの改造技術に愉しんだものだ。モンキーバイクもトランク用として常備した。

つまり、楽しく、゛いじる゛ことができた。
それがいつごろからか、小さなエンジン、大きなスペースと謳われてエンジンスペースが窮屈になり、手も入れられなくなり、かつ工具も特殊、通には扱いにくい車になった。
広さや豪華さを競うようになり、ユ―ザーもホンダの粋がつまっているエンジンには意識がなくなり、スタイルや装備に趣向が向かされた。ただF1レースの華々しい活躍は、さぞエンジンが良いのだろうという宣伝を歓迎した。








よくホンダの社風は上下風通し良く、ざっくばらん、とはいうが、この頃から気がついているのだろうが変質してきた。若手社員のざっくばらんは無礼となり、大きくなれば仕方がないと風通しも悪くなった。それは組織の問題ではなく、部分、部署が似て非なる専門化してテリトリーを形成する、つまり役所にたとえる縦割りになることでもある。

ただ全体を俯瞰してみると部分の集約や統合はシステムを構築しても、目的は曖昧で掲げるものが数値の優劣が人間評価では、有機的な人間の使命感や責任への覚悟などの自己構成は難しいだろう。

ちかごろ同業のトヨタや飲料のサントリーなど原点回帰なのか創業家の推戴が多くなっている。よくトヨタはカンバン方式だというが、もとは数値基準の販売と製造という部分を峻別したために互いに調和はあっても、強いた要求は直接製造部門に向けない棲み分けを考えた峻別があった。

妙な例えだが、士農工商のころに商人が農を支配したり、作業も分からないのに要求をしたら、今だったら農薬を使い生産を増やすことのみ知恵を使うだろう。逆に手前勝手に良いものだと市場要求も考えず集荷されたら売れるものも売れないだろう。

工場には工場になくてはならない習慣と掟がある。それは外部の営業とは馴染まない狭い範囲の問題である。これも創業家の活躍した時世のごく当然の習慣であり、社会の倣いだった、勤勉、正直、礼儀、忍耐と、あの5Sといわれた、整理、整頓、掃除、清潔など、工場でなくても応用できる社会人としての倣いだ。
これは強制という向きもあろうが、それは今の感覚だ。だから上下社員は調和もなく、礼は衰え会議すら罵詈雑言をざっくばらんな気風と忍従し、人の評価は数値しか判別できなくなり、形骸化した会議や形式が幅を利かせ,ついには外部の相談者、判定者たるコンサルタントにかわいい社員の自縛を請うような環境を最良として安易に受け入れてしまう。












とくに本田は社員を叱ったが、かわいがった。その待遇は社員が一番よく知っている。ただ、これに甘んじていると官吏同様に食い扶持に堕して、あの日夜を問わず語り、油まみれになって成果を共に喜んだその遺産の喰いつぶしにしかならない。子供を叱れぬ親が多いというが、上司は感情でも叱咤すべきだ。抗論すれば生きてきた人生を懸けて応ずればいい。つまり本田はエンジンの完全燃焼を追いかけたと同時に、社員の精いっぱいの燃焼を愉しんだのだ。スパナが飛ぶのも当たり前だった。

目標は完全燃焼とスムーズな伝動と速い駆動だ。
どうだろう、組織や個人の在り方に似ていないだろうか。
エンジンの細部を知り、問題があれば箇所は瞬時に分かり、可能性と限界まで熟知している。かつ金もないところで工夫をした。だから安全で売れる車、つまり失敗しないようにと、慎重さがあった。
これこそ、エンジン(人間力)だから、叱られた社員は会社を繁栄させたのだ。

べつに狭いスペースにエンジンをと謳っても、社の運動力である社員を囲いに詰め込んでは意味がない。
とくに、流行りのムーブメントとなっているコンプライアンスというものに人材を縛り付けることは、食い扶持の職業が人生だと軟弱な曲解をしている現代人にとって、仮設の限界を立てられた方が過ごし易いのだろうが、人生は食い扶持という納得を本田はどう考えるだろう。

たしかに、官域にも各種審議会、世上騒がす検察にも検察審議会があるが、言うことを疑い、聴かなくなった煩わしい国民への隠れ屏風のようなものだが、経営者が外部にゆだねる遵守の行方はどうなるのだろうか、他山の石はゴロゴロしていることをみれば分かる。













ここに記すのは見向きもされないデーター収集である、いや採ってみたらどうかということだ。

一つは、コンプライアンスという種々煩雑な遵守がどれだけ人間の工夫と躍動の心を閉ざし、GDPがどれだけ影響されたか、という調査だ。
ついでに、世の三百代言であるコンサルタントの収益変化も必要だろう。
それと、経営者のモチベーションと社員の帰属意識を関連付けたら面白いデーターが出るはずだ。

もう一つは、道路にまつわる規制で駐車違反との関係だ。多くのマイカーは都内の駐車監視と取り締まりに勤しむあの二人連れの取り締まり員と、交番を留守にして取り締まりに励む警察官の姿が、近ごろとみに多くなっていることで、おおくの保有者が車を忌避している。なにも交通安全にさお差すものではないが、飽和過剰なのか、環境整備が追い付かないのかは理論の内として、どうも元気がなくなっている。そのためかサンデードライバーは連休には渋滞や事故が多発する。ともあれ燃料の高騰や道路料金のこともあるが、運転をしたくても、あきらめたドライバーが多くなった。このデータ―もない。

偏屈な問題意識だが、あの本田の親父なら考えたに違いない。
なにしろ、北青山のビルの意匠が流行りのガラス張りに苦言を述べ、地震で割れたら通行人が怪我すると変更させたくらい、心根の優しい人物である。
ましてや、それでホンダによって家族を養い、言いたいことを上司に反抗する勇気があるなら、一度はつなぎを着て親父のようにヒューマンオートメーションを体験したらどうだろうか。それは忍耐力と食い扶持の意味を知る手立てにもなる。

いまは本田の親父のような人間は採用しないし、見る目もないし、活かせない。
投資や営業の乗数効果は、ときに虚偽で装うこともある。とくに専門部署への遠慮か深い追求もせず、ましてサラリーマンと揶揄される上司は官吏のように形式体裁を以て了とする傾向が多くなった。これを大企業病というが、単なる人間の堕落だ。












ところが、本田は乗数効果や試験用紙の隙間を埋めて数値で人間を選別するような野暮な考えはさらさらなかった。人を好きで信じていてから始終笑っていた、それも破顔だ。
敢えて記すが、本田宗一郎は人間の由縁を知っていた。足らないところは藤沢氏に任せて口を挟まなかった。いつもテンション高く弱き己を叱咤していた。社員がそれを許して呉れたいたことも知っていた。技能者である同僚を追いこみ、潜在する能力を引き出し、その成果を抱き合って喜んだ。そして生まれた子供のような車体をレース場に送りだし、勝てば、よく頑張ったと頬ずりもした。

つまり本田は背広を着たものが鉛筆をなめて狡知を駆使した乗数の数値効果より、人間を活かし、金を活かし、協働することの喜びに無情の価値を認め、人の能力を高めることての超数的効果を描いたのだ。それゆえホンダは皮肉にも乗数的な成長を果たしたのである。

それを、また外部の要因を集めて掛け算、足し算をして数値にあてはめ、論理に馴染まないと本田の心根や人間育成の効果を理解不能や旧い事例を理由にして忌避する、そんな物分かりの悪い作業に勤しんでも事の本質は解らない。

習うべきは組織論やシステムや、魂のない技術ではない。
倣うべきは、無垢で弱き人間を人格者まで高めた本田の魂の由縁であろう。

なぜなら、人格者とは己を探究し、心の許容量を高め、しかも高邁にならず人に譲る「礼」を涵養し、かつ、無機質の金属の塊であるエンジン車体に対して、まるで人間の姿に模したように可愛がり、学び、足りなさを悟るような朽ちることない深遠な情緒を自得していた。

それは日本人の誰もが共感する情緒であり、ホンダが生きつつ熱狂的なユーザーの惜しい気持ちが残映として維持されている所以でもあろう。

覚醒再興の道はある。しかし今のままでは理解の淵にも届かないだろう。
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「義」は人の大本なり          08.6稿 再

2012-05-17 10:30:56 | Weblog

          ベンガルの義人 シャーカー氏


昨日は「利」でした。
生活には戸惑いのあるものですが、「義」を理解すれば「利」の効用があるようです。
 浅学非才の若輩なれど、身の程を忘れ、先人、師、恩人の言を無断で活用いたし、いくばくの利他の増進に役立てばと考え、かつ世代の役割を感じつつ記してみます


「義」について
 
「義」は羊と我の合字です。羊は古代いけにえとして神に献上した習慣から吉祥だとか善などの意味が含まれています。ですから、 善い、正しい、と解されています。

 「事宜を知り、恥を知り、為すまじきをなさぬは義」

「義は人の大本なり」(准南子 人間訓

 義は無条件で正しいとおもうことに我を捧げることです。それは、人間のあらゆることの大本であり、根本であると定義されています。
 
「義は己の威義なり」(説文)といいます。
 威義は、その人の修養の程度によって、その人の体から自然ににじみでる、厳かな畏敬すべき徳のことです。

例えば、政治で云えば国会議員から町会役員まで。あるいは、社長から従業員まで誰にでも平等に生まれながら保宥する才能でありますが、地位、財力という属性の虜になり、本来の公的目的を欠落させることは、まさに「義薄し」であります。

 安岡正篤先生が、終戦の詔勅に「義命の存するところ」と挿入した意味がそれです。「時運の赴くところ」と記されたものを、あうて「義命」と添削したが、当時の閣僚が、難しい、意味が判からない、ということだけで「時運」として発せられました。

 「義」とは、日本そのものの姿であったのです。さまざまな評価はあるが、戦を挑んだ国家が、単に時の流れのままに、なんとなく戦争を行い、なんとなく敗けたのでは、日本人としての意義が失なわれてしまうと考えるのも当然の事でしょう。

 天皇が敗戦后、米国大使館へはじめてマッカーサーを尋ねられた折、堂々とした態度で「我が兵は良く戦った。しかしながらこのような状態を迎えたことは、私一身の責任である」との意味の言葉をお述べになり、マッカーサー司令官に堂々と握手を求めた。(元宮内省 松前氏伝)
 
 あるいは、佐藤首相が米大統領面会の折、通常ですと執務中せいぜい5分か10分の面会時間しかない、当時の両国の状態において、帰り際、首相が大統領にに向って 日本の武士道と騎士道の共通な意義を話したところ、1時間近く延長されたとのこと、戦争における敗者と勝者がそれぞれの民族の特性と優越性を認めあいながら、人間が人間として互いに、その民族の伝統的徳性を惻隠の心で称えあうことは、それぞれの市井における国民を背景とした英知ある指導者の姿です。
 そこには、自らの命を賭した国家の義があります。
 

 歴史は、その時々の現象評価も重要ではあるが、東京裁判におけるインドの国際司法家、ラダ、ビノート、パルは「時が、その熱狂と偏見が過ぎ去ったあかつきには、女神は秤の均衡を保ち、多くの賞罰にその処を変えることを要求するだろう」と述べています。
 永い東洋の歴史観から、裏打ちされた東洋民族の大義が唱えられているようです。

「仁は人、義は我なり」(段注)です。

「万物みな我に備わる」(孟子 居心上
といっているように、万物は同一の原理で貫かれているという事でしょう。
それほど「義」とはとは大切なものです。

 要するに、人間の正しい道の根本なのです。
 当世は、時と、場所と、解釈などと都合よく考えられる「義」ですが、知、私欲で考える属性理論では決して触れることがないものでしょう。

 浮俗の流れに逆らう、体制に随がわないなどと、生活する上で具合の悪い「義」とおもわれがちですが、孤高に甘んじ、平常心で、世の中の公利を心に宿せば「義」は黙っていても寄り添い行動に表われます。現代では大勢を恐れぬ精神に「義」は宿るようです。  

義憤や義勇は他に望むものではありません。誰でも、生まれながら内包しているものです。 ただ、平和遊情、怠惰に過ごすと義は存在すら判からなくなることも事実です

【誠の「利」とは】

誠の利のあり方について、「利を興すには、一害を除くに如かず」とは元の宰相、耶律租材の言葉だが、法を重ねることによって社会は硬直し、既得利権として官吏に運用されると、民衆の怨嗟は運用官たる警察官、税吏に向かい、終には対立を招き権力転覆することは歴史の栄枯盛衰を紐解くまでもなく、枚挙なき官吏の性癖だろう。まさに、紫禁城は禁ずることによって利を招来する宮でもある。

前記で述べたが、団塊の世代といわれるものの定年を迎え、OBの当てはめ先に苦慮する現役官吏の苦労は大変だという。外郭団体や法人も、そうそう玉突きはできない。ならば法の運用を手伝わせ罰金徴収に充てようと、警備会社を乱立させ、資格を得た民間として罰金徴収係りにするという。

納税者に身近な場面に現業としてアテ職を作るのはたやすいが、退職税吏も税理士として一定の顧客を斡旋してもらいながら肩たたき退職の食い扶持に繋げていると聴く。

官吏の様態は世界共通のようだが、止むことのなき繁殖力に抗する手立ては、未だ見つかっていないようだ。
身近に共通することは、我国での母親の教育目標に顕著に現れている。それは、「いい学校へ行って公務員になりなさい」という言葉だ。隣国には科挙があり、韓半島での受験の激烈さは、利学、術学の教育に堕落している。

「禁」は複雑な要素によって形成されている国家の連帯や、自省を前提にした最低限の規範であろう。また予算にまで計上される官吏の賂でもあろう。そのことは反面、民心に義と緊張感を発生させる社会の循環学習である。
生身の人間が生活している社会では、当然ごとく存在する「ほど」のよい仕組みではあろうが、なにか間尺に合わない現象でもある。

隣国の開放という政策は収奪した権利を手放したに過ぎず、我国の規制緩和や改革も、手に負えなくなった施政の肩の荷下ろしのようで、耳障りのよい大義の美名が蔓延っている。

自己制御、克己心があっても、利のためには罠がある。食い扶持、貰い扶持に邁進する狡猾な官吏の下、禁の土壌はより巧妙に利を生ずるシステムとして止め処もなく増殖している。


つづく
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処世、郷の賢人は時の流れを俯瞰する

2012-05-13 16:45:54 | Weblog


゛としよりの話゛とはいうが、彼らは遠い過去から現在まで多くのことを見たり体感している。ただ、それを語るかどうか、あるいはそうすることの逡巡(思いめぐらし戸惑う)は、その年代特有の格別な味として人成りをかたち作っている。

誰でもある人生の経年だが、想い返えし独り悦にひたったり、思い残すことばかりで再び繰り返すすべもなく歳の経過に任せている人もいる。ただ、去った年を眺めることが年々増えてくることは確かなようだ。ときに自然界の循環になぞらえたり、人の心の常なるを無常として納得するが、悔しがったり、惜しかったと心の奥の灰汁を牛のように反芻することもある。いくら反芻しても苦いものは甘くはならないが、気持ちは童心に回帰したようで退悦にはホドよい時の再訪でもある。

分かったような物言いだが、そんなことでも時の経過を眺められるものだ。

近ごろの居酒屋は以前と比べてもの寂しい。変わったことは女将が未亡人になり少しシワが目立ってきた。隠そうとするのか化粧が厚くなり妙にカラ元気になっている。
常連も歳を増して酒も弱くなった。上司の苦情や政治ならぬ井戸端の噂話、だが内容が難しいのか諦めているのか、年金や消費税の話題はなく、まして嬶の話などもない。

話題のすじも昔ながらだろうが、歳のせいか呑めばすぐ酔うが腰が重く、だらだら呑んでいる。だだ。難しいことは苦手のようで、「そんなもんだ」と終いに投げやりになるが、若者は近寄らない。







いつも待っていてくれる金沢野島のトンビ






その「そんなもんだ」だが、長野県の南相木村という国道も通ってない村に色平という医師がいる。学校歴は輝くものだが、どうゆうわけかそこに診療所を営んでいる。コンビニもない交通も不便な村に着任したおもしろさと、その気概に多くの医師の卵である若者が訪れて人成りを習っている。なによりもアカデミック(学術的)でないのが好い。医療技術以外はすべてが土着的なのだ。教育も官制のアカデミックなカリキュラムでは限界が来ているのは誰でも分かっているが、その成績数値の効用は食い扶持に堕した一部の医師にはホドよい環境のためか、なかなか抜け出せない。いや問題意識もないのだろう。

色平氏はその村の有りようを「もんだ主義」として多くの機会を通じて知らせている。
いいところは、その「そんなもんだ」を学術的に研究したり、分類したり、考証し証明したりしない事だ。そのフレーズが狭い範囲であるが村の共通した合言葉のように年寄りが共有して、そのせいか元気だということだ。
朝には雲が低くただよい、鳥が鳴き空気が透き通っている。樹木は鮮やかな緑と凛々しい姿を魅せている。夜は漆黒で静寂、それが変わることなく繰り返されている。村に生まれ村で終生をとげる人もいる。都会のように便利さもなければ、競争も嫉妬もない。
日中の診療所の待合は笑い声で満ちている。多くは寿命の伸びた女性の歓声だ。

変わらぬ自然にしたがう人の営み、その気の元である元気と変わりない循環が調和して、それはまるでヒマラヤ山麓の小国、幸せ度世界一のブータンのように輝き、余すところなく大自然の恩恵を享受している。だだその順なる矩にに逆らうと自身の身体と心に潜在する恩恵の貯まりの堰が崩れ、病苦が来ることもよく知っている。かといって官制の学び舎では教えてくれなかったが、大自然の教場は彼らを厳しく、時に優しく自得させてくれた。

それに添っていれば大丈夫。それに比べて人の起こす諸問題は小さく、自然から逸れてしまったことだということを良く分かっている。だから「そうゆうものだ」と考えている。







仲間外れだがいい顔した猫だ






文明化、工業化のスピードに敢えて乗らない。来るものは自然と照らして分別する。それが瞬時に判別する能力と考えの座標がしっかりしている。また最低限の応用と活用も、都会人からすれば古臭い、未開だといわれる狭い範囲の掟と習慣が「分」の理解として置き所を理解している。

この営みを美辞麗句で、゛無理解の理解゛をしても、アウトドアだとか、田舎生活、箱庭の借景、あるいは定年になったら棲んでみたいと憧景への期待を図っても、「そんだもんだ」が理解できなければ、コンビニの隣人に逆戻りだ。

上手に生きることも人生には有効だが、たかだか努力すれば数値があがる範囲だ。ところが立派に,爽やかに生きることは年金の量や肩書や趣味ではとうてい購えない。
少量の投資でパチンコの大当たり、馬券の的中、はたまた補助金の乗数効果などは、たとえ旨くいっても後はろくでもない結果がまっているとは古老の至言だ。

かしこまつた文字に充てはめるものではないが、「そんなもんだ」という鷹揚な観察と、当然帰結する生死の計、それは自然の恩恵に逆行した現代人が無意味としてしまい込んだ、大自然に順当な ゛生きざま゛への覚えではないだろうか。

それは、たとえ有効だとしても便利さとともに誘引される社会の問題の解消に、超数的効果をあげる「人の効果ある活かし方」として倣うべきだろう。

たしかに古老は「お天道様(太陽)は観ている」というが、過去も未来も人間の所業と大自然の営みはお見通しだ。


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人括りに、「暴力団」といわれて久しいが     08/7再

2012-05-12 21:35:09 | Weblog
  
                清水の次郎長


暴力団といわれるが、これを以ってすべからく犯罪集団と思えない現象があった。
通称、犯罪集団は各々の行為を冠して、詐欺団、窃盗団、、集団行為は痴漢、強盗、あるいは暴走族など犯罪種別によって団や族に括られているようだ。
あの族議員も同様な意味を含んでいる。

近頃では、秋葉原事件など「堅気(かたぎ)」の凶悪犯罪が多発しているが、昔は刀剣、銃といった道具を用いるのはプロの仕事とされてきた。それは、あくまで気質の如何が重要視されたものだが、そこの境界を、゛義理と人情とやせ我慢゛で分けたのが、渡世をはるものの矜持だった。

清水次郎長、大前田栄五郎、国定忠治など名のある親分は「侠客」と呼ばれ、御上御用の土木事業や町内見回りなどの治安まで行なっていた。それは浪曲、芝居などの、ある意味では道徳表現であった人情話や、家族を捨てても弱きを援けるといった、「人のあり様」などで庶民のヒーローにもなっていた。

その侠客も戦後のコワモテ利権に変化してから、狭い範囲の共通項である、民族、出身地、思想、など、彼らにとっては、゛辛抱゛゛掟゛゛習慣゛などを理解共有できる集団が、今まで区割りされていた博打、神農といった役分の中に借権利として混在し、歴史、矜持はともかく、先ずは経済的成果(しのぎ)を優先した「しにせ」とは異なる集団が発生している。

よく、「シマ借り」といったものがそれである。行政区割りではないが、「シマ」と称して私たちの目に見えない管理地域が全国に張り巡らされ、昔は神社仏閣、遊郭、妙な共通だが昨今の議員、警察域の道路利権のように、街道(道路)にもその類のものがあった。
それは土木の人集め、祭礼などの花博打、用心棒、岡っ引きまで幅広い,゛食い扶持稼業゛や、゛男の意気地゛と称する気風があった。

しかし、あくまで旦那と仕事師、御上とヤクザという境目は、彼らの誇りともなって存在していた。決して乗り越えない各々の関係での「礼」が厳然として存在し、それを守る事をヤクザの第一義としていた。弱きを援け、強きをくじく。カタギは苛めない。御上には逆らわない。強いリーダーのもと流浪渡世人や徒人とは異なり、草鞋を脱いだ親分には恥をかかせない連帯感があった。時によっては庶民から頼りになる存在として各所に名親分が存在していたのもこの頃である。
親分は強いだけではない。学問に務めたり子分の更生にも尽力している。

単なる暴の武勇伝やナリ(衣類)、車、組織の人数、組織内の地位、などは当時の侠客には、「形だけとって実が無い野暮な奴」と仲間内で嘲笑されていた。これはカタギ世界でも見習うべき人物の見方と成功価値への考え方だろう。








仕事師、鳶頭の粋な刺青 銀座 金春湯








異民族の混交する社会はギャングを生むという。ニューヨークならずとも戦後似非侠客の多くは、人に優しい「仁」と、邪なものには命を投げ打つ「義心」が失われ、復興資金を奪い合う経済ヤクザや、狡猾な金融家に使われる金融ヤクザとして跋扈し始めた。とくに戦勝国民だった外国人が特異な集団を作り「仁」「義」とは似ても似つかない「団」「班」を構成し、侠客の棲み分けされた「一家」を変質させ、まさに暴と衆を恃んだ「団」として社会の表層に出現した。つまり表と合体したのである。

筆者の知人は老舗組織の有名親分だったが、娘の結婚式にも「カタギに煩いを掛けられない」と、披露には出ず、衆人の中には入らなかった。また殊の外、子分の教育には厳しく「分別を守れなければ、ヤクザは辞めろ」と始終教えていた。
無論、ベンツやキャデラックは御法度、カタギ衆を泣かせたら破門と厳しいものだった。

いっとき映画ヒーローのように、ヤクザは女にモテルといわれ、擬似ヤクザ、アウトローが世俗に流行ったが、彼らに求めるものは確かに庶民の心に潜在してた。
水戸黄門やマツケンの暴れん坊将軍も、格好はいいが最後はゲンコツと殺しの世界だ。
「彼らが代わりになって懲らしめてくれる」、要は肉体的衝撃を代わって受ける実利の世界がそこにある。

いまは、覚せい剤、詐欺、民事介入、など、見るからに苦しい台所があるが、30兆を超えるパチンコ博打(いまでも法的には遊技場)の景品利権が暴力団追放の掛け声の下、警察の影響下に組み込まれ、台の認可、各種機械の強制導入、警備、清掃など多くの警察関係者によって占められ、以前は射幸心を煽ると一台の制限を約二万円にしていたが、彼らの管轄後は数十万、はたまた無制限の出玉を放置し、未だ博打場ではなく遊技場として恣意的に法を運用しているように見える。

あの飛込みを助け殉職した実直な宮元さんも、助かった女性はパチンコ狂い、いや恣意的に射幸心を高めたために起きたパチンコ中毒だった。その意味で宮元さんを愛おしくも慙愧の念で銅像を見上げる人は少なくないはずだ。

侠客と愚連隊、無頼を百羽一絡げにして、゛暴力団゛と呼び、その伝統的効用までも忌諱した様子は、文明開化と称して武士の自制、自裁の精神構造(魂)を固陋として捨て、官僚軍閥を作り上げ自滅したあのアンチョコな意識に似てはないだろうか。

庶民が、官吏あるいは擬似官吏、そしてそれに纏わりつくパラサイト集団を、単に安定した食い扶持集団、あるいは国家を食い荒らすバチルス集団もしくは狡務(コウム)集団と呼び、それらが狡猾にも清規(成文法)を振り回すなら、陋規(掟,習慣)によって守られるのが歴史に随った適切な生活法である。昔は法律と掟、習慣、が表裏を支え調和した営みがあった。
いまは、利用し合い、ときに食い合う世界である。

長々と章を割いたが、実は街の侠客にその効用を認めたゆえ、前段として記したのである。







安岡氏を慕い、教えを請う人物は様々だった。政治家、警察官僚、浪人、商売人(財界)、その中には名をはせた侠客もいた。とくに紳士の振舞いを見せ、安岡氏をうならせた侠客もいた。人物は「名位衣冠や職域ではない」と実感させられたと語る。







都内近郊の古い町でのことだった。ご他聞に漏れず妙なボス体質が蔓延り、お役人の人気取り補助金や、石原君に迎合する五輪宣伝啓蒙費など、庶民の自立を妨げる「御下し金」の使い道に、物珍しいイベントやおざなり行事に鼻を膨らませる御用意識に染まっている街に唯一、オリジナルな地蔵供養の縁日が昔から続いている。

毎年七夕は近郊から人が集まり、歩けないほどの人混みで、普段人通りの少ない町が一挙に騒乱のように盛り上がる。近在の学校の卒業生が各々集団を作り屯して、制服姿の女子高生が路上ら胡坐をかいてたこ焼きを頬張っている。いくつもの集団が睨み合い、タトゥーを見せびらかして挑発している。

当日はサミットの関係で警察官も制服二人。PTAのお母さん達は腕章を巻いているが、若者達は敢えてコワモテな行動をみせている。
昨年は終了後、場所を変えて集団で喧嘩している若者達である。

しばらく様子を見ているとS君が挨拶に来た。かれは筆者の勉強会に友人を連れてきた好青年である。父親は広域指定組織の親分で、かれは実子(じっし)と呼ばれ、幹部である。
昨年も誰に頼まれることなく自主的行動をとってくれた、この現場である。
「S君、本来このような場所で制服警察官が目立った行動をしたり、民間警備と称して計画行事のように行なうのは本来馴染まないものだ。昔はS君たちが自分達のシマ廻りで酔客や粗暴な若者を注意して、子供やこの町に訪れる人を守っていた。それが本来S君たちの誇りある仕事だったんだ・・」

「わかりました」と言うなり、雑踏の中を若い衆をつれて入っていった。
しばらくして、「煙草を吸っている連中や、行儀の悪い連中を注意しましたょ」
お陰でコントロールが効かなかったイベントが大過なく行なわれた印象があった。

今年は、総勢10人以上のいかつい仲間を連れて、睨み合っている各々の若者集団の間に張り付き、まるで監視するように彼らを黙視していた。そして交通規制が解除されテキヤさんたちが清掃を始める頃、時間を惜しむように屯する若者達を帰途につかせたのは彼らの一声だった。
「掃除の邪魔だから、もう帰れ!」「ハイー、解散」
反抗的に映る彼らも、その声に順々と随った。

オセワサマとS君に声を掛けると、「こんなことでも問題が起きなければ子供達が安心してくることが出来る。僕らがやっていることを知ってくれれば良いですょ」
何十人いる配下の若い衆も同じ気持ちだという。








「永く風儀を懐かしむ」蒋介石筆 山田純三郎称徳碑文







ヤワで屁理屈を述べるものが、暴力追放の屏風に隠れ、いたずらに彼らを人括りする民情は、かすれた環境をより粗暴で狡猾な勢力を生み出すことは集積された歴史のいたるところに記されている。とくに当局の一部は彼らを使いその一部と同衾し、より狡猾な姿を社会に浸透させ、善なる義侠心をも融解させている。

高倉健や鶴田浩二のように格好のいいものではないが、どっこい侠客は社会の一隅において善男善女の生活を、敢えて目立たぬ姿で支えている。

どこの世界にも飛び出し者はいる。また似非(えせ)によって名利を貪るもいる。
利権政治屋、腐敗した公務員、堕落した教員、これらは人間の尊厳を毀損、収奪するために生きる輩であるし、侠客にも財貨のみに堕した一群もいる。

しかし、人の在り様を問い、敢えて稼業社会に其のスジを認め、人から蔑視され呼称される「暴力団」に身を置く彼らの姿に「侠客」を認める筆者も同じ日本人だと、妙な安堵を覚える臨機だったことを、備忘としてここに記す。
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安岡正篤の鎮考する撰文

2012-05-11 14:02:06 | Weblog



また、撰文で騒いでいる
いつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。

ことは憲法前文のことである
理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。
近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を改正したほうが好いというが、これを米国からの援軍とおもうか、恰好だけでも独立自尊を考慮してお節介とみるか、どうもあの当時と変化はない。

変えるべきははっきりしない民癖と騒がしい世情を操る「自由観」「民主観」「平等観」の「観」だろう

改正はもちろんその通りだが、どうも胡散臭い。
何年か前に色々な前文案が出た。中曽根試案というものもあったが、「我々は・・」と団塊の学生運動の臭いがする新聞記者が書いた説明調もあったが、市民革命の熱気がくすぶるような文だった。

また憲法九条が争論となっているが、もともと軍閥や硬直した官吏が暗雲として時代を支配していたことが、頸木を除く意味で多くの人々が納得した条文である。当時、国民ははその構造転換を憲法に望んでいた。自衛権だの交戦などはさらさら念頭にはなく、これさえ認めれば鬼(GHQ)の歓心を受けるという阿諛迎合の徒もいたが、この種の人間は往々にして弱きものには四角四面の薄情な態度で応ずる官吏や知識人が多いが、その系列を踏むものが時代や大国に再び迎合している。

マッカーサーのせいではない、日本人が弱かったのだ。翻ってドイツはあらゆる押しつけにNOと言っている。とくに教育問題についてだ。唯々諾々と受け入れた日本に教育はどうだっただろう。

これもマッカーサーのせいか。あの離任の折、歓呼で送った人々は隣国のように、こすく、したたかだったのか。撰文などは御用学者が頭を揃えてもできるわけもない。法律のごとく狡知で骨抜きやあいまい解釈を企てるだけだ。

それらには憲法前文などは、端からつくれない。撰文する情緒もないはずだ。だだ、いたずらに時と知労を稼ぐだけだろう。

乱暴だが、前文の撰文は和歌詠みのごとく数刻、瞬時につくるものだ。時と金はそのように使うものではない。









安岡正篤氏は時節の岐路に多くの撰文や監修を遺している。
古人は「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と遺した。
もちろん天皇の御詠みになる和歌もそうだろう。

よく偽装弟子と称するものの屏風に安岡氏のエピソードが飾られる。

終戦の詔勅に朱(添削)を入れた
元号「平成」の起草者
中華民国(台湾)断交に際して蒋介石に親書撰文した
色々あるが、その理由の一つに依頼する側の訳がある。それは「安岡先生なら・・・」という安心と保全だ。

大久保利通の縁戚で内務大臣だった牧野伸顕にあてた多くの建策。そのなかで「天子論、官吏論」が賢読され多くの重臣に紹介された。その縁で宮中派であった近衛首相、そして海軍、大東亜省との関係を築き、終戦工作にもかかわり、牧野の縁戚吉田茂から「老師」と敬重され、その吉田の系列である保守本流の代議士から、゛頼り゛にされ多くの撰文や添削監修を依頼されている。

ここに頼めば安全で保全にもなるという安岡ブランドに対する、ある種安直な考えがあったようだ。

だだ、安岡氏は筆者に「代議士は人物二流でしか成れない」「いまは、デモクラシ―変じて、デモ・クレージーだ」と言い聞かせるように呟いたことがあった。

あるとき靖国神社出版の「世紀の自決」を案内されたことがあった。
その巻頭は本人が撰文したものだが、戦前戦後の経過を知る当人が数日を要して鎮考した文は何度読んでも新たな感慨が甦る。
「恩讐を超えて複(ふたた)縁が甦るとき・・」
まさに、終戦の詔勅に「万世のために太平をひらかんと欲す・・」と挿入した継続した意志が読み取れる撰文である。








薄学を顧みず縁者の頌徳文をお見せしたことがある。
そのときは安岡氏のことを良く知らなかった。だだ、近所の古老に連れられてきただけだった。「その頌徳文をもってきなさい」と言われただけだった。

三回読みなおしていた。十分くらい静寂だった。
「直して宜しいですか」
声も出さず頷くだけだったが、傍らの赤鉛筆を手に添削していた。またそれを二回ほど読みなおして頷いた。そして面前の小生を凝視して発した。
「文書は巧い下手ではない。君の至誠が何十年経て、人物によって目にしたとき、その至誠が伝わり、それによって意志が継続され世の中も覚醒する。文とはそのようなもので時節の知識に迎合したりするものは文でもなければ遺すことはできない」

虎やの羊羹をつまみながらの応答を取りまとめた内容だが、あの読み直す緊張感と集中力は、些細な対象でも真摯に向き合う厳しさと、初対面に係わらずいとも容易に応ずる優しさは、後日検索した巷間騒がれる氏の印象ではなかった。

そして「郷学を興しなさい」、それには「無名でいなさい」、「何よりも有力です」
嫡男の正明氏が講頭となり「郷学研修会」を発足した。

「父が描いたものはこの様なたおやかな集いです。目的をつくり、使命感を養い、そこからけわしい真剣な学問が自発的に始まるのです」

「父は単なる教育者であり、自身は求道者です、ですから教場の掲額には「我何人(われ、なにびとぞ)」と、自身を探究することを目的としたもので、ステータスや名利を獲得する道具にしてはいけません」

「いわんや、父の説や訓を寸借したり、我利に応用したりする方もおりますが、
それこそ学問の堕落だと云うでしょう。父は時局を観照して古典の栄枯盛衰を鑑としましたが、政局は語ることはありませんでした。あくまで人物の姿を見たのです」

「時流に迎合するな」「歴史を俯瞰して内省し、将来を逆賭する」

※ 「逆賭」将来を想定し、今打つべき策を講ずる

憲法前文はそのようなものだろう。なによりも陛下が声を発せられて御読みになってもおかしくない撰文であってほしい。

心を共にするとはそのような深慮が人々にとっても必要なのだ。
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小沢さんと石原さんは何を観るのか

2012-05-10 18:40:30 | Weblog



一方はオリンピック招致の助力を皇太子殿下のIOC(国際オリンピック委員会)出席を請い、それに対して宮内庁は皇太子の職務に馴染まないとして丁重な断りを表明したところ、
「宮内庁の役人ごときが・・」と乱暴に言い放った。

もう一方は、中国の次期指導者候補であった習近平氏の来日に際して天皇陛下への謁見を内規(面会予定の事前申し入れ期間)に照らして困惑したコメントを発表した宮内庁職員を石原氏同様に「役人ごとき・・」と言い放っていた。
たしかに皇太子妃の縁戚が外務省のドンなのか、宮内庁人事も外務と警察にうまく棲み分けられ、かつ硬直した官吏の四角四面の対応とみるが、翼賛マスコミは逡巡したかのような記事を書いている。

逡巡とはどちらも非難することもなく、否、できなく、しかも双方ともに記事タネとしてことのほか衆目の集める対象のためか強い論調は書けないようだ。
まして一面ネタにしてもおかしくないくらいな問題でもあるが、反論不可と斟酌される大内山の奥ではなく、表作業である宮内庁職員である官吏に向けられた雑言であるところが両氏の忖度だとしたら、なかなかの役者だ。

一方はオリンピックというスポーツイベントへの前のめりに近い行動であり、候補国も大統領や王族もその開催地決定に言葉と行動で協力しているので、我が国も皇太子を殿下を担ぎ出そうと考えたのではあろうが、どうも落ち着きがない拙速な動きである。

しかも、その言葉や行動の部分ではなく、立場の姿として諫言する側近は見当たらなかった。それも捻じれのようなもので、民族の誇りや維(歴史的意志)を謳う石原氏と、皇族の活用における皇室の御用掛である宮内庁の慎重なる決定に雑言を述べる不敬とも思える態度に、護持を唱える人々は、何ら反応はしなかった。

その石原氏が最近の産経のコラムで陛下の震災地巡行に深い敬意を表している。

全国津々浦々に棲み分けられた国民は総理大臣の被災地視察に際しての現地の刺々しい反応と、それに比した陛下の醇なる応答に、立場はともかく同じ人間でもこうも違うのか、あるいは騒乱に似た選挙によって有権者から選ばれた総理は、教育的にも行為の在りようにおいても、その「人成り」を考えさせられた機会であった。

それは、国民がその権利を負託するために選んだ議員と、生まれながら推戴されることを宿命となっている陛下の「人成り」への教育と習慣の違いへの不思議観でもあった

両人は似たような反発をしているが、ことのほか睦みあうことはない。とくに中国との対応だ。小沢氏は妙に迎合する。旧来の日本人の応答にはないくらいの姿だが、彼の国にはそれが形式的にも合う応接態度だが、どこまで深い座標があるかが問題になってくるだろう。

そのことが明確になれば有権者の安心感も加味されるだろう。安心感といえば戦後共産党が伸張したことがあった。多くの国民は共産主義も知らず、いつの間にか労働者として解放という美しい言葉にいっときは賛同したが、あの「天皇制打倒」という激しいスローガンを聴いた途端、潮が引くように熱気は冷めた。

大阪市長の橋下氏が首相を国民投票にすると提言すると、小沢氏は天皇制(元首)との関係に疑問を呈した。それは前に述べた疑問や習近平氏応接時の雑言とは異なる、事と次第の分別が読みとれる。

その意味では都庁に陣取って阿諛迎合の官吏に囲まれた石原氏と、小沢氏の深慮は別物のようにも見える。ただ言葉と行動に「つよさ」をみる両氏に共通していることは毀誉褒貶が激しいことだろう。多弁の石原、寡黙な小沢と評されるが、多弁は相手を明け透けに罵倒し、寡黙は筋と正論を発する。どちらも通にうける人気者だが浮俗にありがちな゛何か裏がある゛とも思われている。

三面だが、小沢氏は建設利権に疑いがあると。石原氏は後援者から森伊蔵の箱(丁度一千万入る)を息子と二つ貰つたという記事が躍ったが、騒がれ方には雲泥の差があり調べたものもいない。元々なかったものでも警視庁を管轄する都行政ではマスコミの扱いが格段に違う。また、副知事には警視庁OBが納まっているが、昔は経世会派閥から法務大臣、国家公安委員会が定石だった。ともあれ転ばぬ先の杖だが、李下に冠を正さずとはよく言ったものだ。

ともあれ「そうゆうもんだ」の世界のようで、善悪の秤を権謀術策を繰る当事者に当てはめるのは、棲み分けられた職分に異なる切り口で言い募る野暮なヤジ馬のようで苦い気分がする。












ただ、被災地の陛下のお姿に改めて意を甦えさせられた多くの人々は、その関係する部類の話題にことのほか敏感になっている。それは仮にも選挙によって権利を付与した形になっている議員、都知事であっても、「維」を曲げさせないという人々の潜在する意志だ。


たしかに大内山の周辺皇族にもいろいろ難儀な問題がある。加えて「維」を継続するための種々の争論も起きているが、人々と陛下のつながりは、それらを超越した連帯があるようだ。

戊辰の戦いは錦旗によって趨勢は決まった。いくら武力をもっても越えられない事を彼らは知っていた。利用したのではなく、活用したのだろう。

民主という主義は構成システムとしては普遍的にも聞こえるが、いかに危ういものかも人々は知っている。あの天安門の若者も唱えたのは民主ではなく、「官倒」だ。
権力をほしいままにして社会を支配し蓄財に励む高官を倒すというスローガンだった。
臨場の雰囲気もそうだった。彼ら若者は「民」のまとまりの無さ、目的の欠如、を歴史の栄枯盛衰からその民癖を読み取っている。

ヨーロッパ、アメリカ、あるいは民主主義と自由主義を移植した国々は押し並べて選挙はイーブンに近く、政権成立しても足の引っ張り合いが多い。
まとまるすべは、対外戦争への危機喚起か税の分配だ。

果たして、我が国はどうだろうか。
まとまりのない政治、食い扶持に堕した教育、借金財政での扶養従属、それらは部分を検証し追及するものでもなく、すべからく人間の問題、つまり人格、人物と称される「信」を基にした人情の慎みが大前提の問題として浮上している。また、供与を受ける側にも節度と貪りを抑える意識の涵養が必要だろう。

これは四角い白い紙に答えを入れれば数値が判定してくれる官制の教育にはない。
政治家や親子でも覚醒は難しい

だからこそ、民族は劣る癖を隠すようにその倣いの対象とする存在が人々には必要なのだ
あの民情をもつ中国にも孔孟を始めとする古典があり、ときおりお出まし願う活かし方もある。どんな時でも「オー・マイ・ゴット」と叫んだり、呟いたりする人々もいる。












地球の表皮に棲み分けられ、複雑な要因を以て国家を形成するなかで、人々は動物種の群れのように「長(おさ)」を推戴している。それは連帯と調和の象徴として立場を構成している。また、長は群れを毀損されないように先見察知を全能の象徴として行動を体現している。

そのなかで一番大切なことは豊かさや防衛だけではなく、群れの「種」を護り、そのためには人間であれば人心(じんしん)の衰えを察知し、その尊厳を毀損する自制なき欲望に深慮することを主なる心を寄せている。
長(おさ)の側近となるものは群れの食い扶持とそれを妨げる外敵の排除を具体化するが、それを登覧する長は、食い扶持が贅沢になり、そのために競い、争い、欺く、また、勤労の意欲を衰えさせる外来の過度の便利性、譲ることを失くした礼の衰えや、公意を亡失した政治家や官吏など、人心に潜在する善なる情の微かなりを根本的観察として厳しく存在している。


標題に登場した小沢氏、石原氏だが、分別された役割のなかで精励され、かつ特筆した言辞と存在によって功ある人物とみるが、浮俗の駄論に巻き込まれ、長の忠恕が歪められないようにお願いしたい。

「・・・ごとき」、国民も煩いとしてやまやまだが、存在の有意義を幾らかでも認知しているゆえか、長に倣って声を発することはない。
人々の尊厳を毀損する存在、それは聖徳太子がわざわざ十七条を起草してまで憂慮した偽装権力の一群だ。そのなかには政治家と教育者、宗教家も入っている。

これらの「ごとき」を正してこそ両人の価値と存在がある。

倣うべきは、「世の厄災は、祷りが及ばなかった」と頭を深くした陛下のお姿だ。

分別ある役割を任じて、長を補佐してほしい。要諦は「人心」の衰えをどう観るかだ。
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省くものは 08.2再

2012-05-10 08:12:19 | Weblog


有と無は、あるいは有と無の間に存在するものは何か。

無は暗黒なのか透明なのか、そんなことを想像させる宇宙の始まりと終末は人間の思考に何をもたらしたのであろうか。

視覚から伝達される色彩は真の色なのだろうか、それとも動物の目に映る色はどのようなものなのだろうか。

宇宙のなかで質的にも量的にも、あるいは他の惑星との補いある関連性、もしくは必須の存在意義が地球にあるのだろうか。

大宇宙から観れば、芥子粒にたとえられる地球の存在のなかで方位が定められたのは遠大な時間枠で構成されている地球歴史からすればつい最近のことである。

たかだか人の思考の範囲での出来事だか、さまざまな分類が異なるものを生じさせ、宇宙に浮かぶ不安定な自動を繰り返す球体の表面に張り付くさまざまな集積の時と存在の考証という理由付けが始まった。

動物と人間も仮の分別であろう。

それは磁気と温度の比較から縦軸が構成され、包括された比較から東西の文化が意義付けられた。

そして人の織り成す人類史から発生した同種と異種の分別から、生存の証としての経年循環から特異な思想が生まれ、宗教にみるような排除と受容の決まりごとである掟が必須なこととして発生し、その同種連鎖をつかさどる共同体ができた。

また、人間は自然界に倣うように、分ける、譲り合うことを学んだ。
同時に「文明」という妙な風は、そのような素朴で純粋な倣いごとを「知」の集積と反比例するように失ってきた。
加え、数値的な計算によって大自然と対峙し、反抗さえしてきた。

人は豊潤な大地に縁を持つものもいれば、極寒極暑の荒地に縁を持つものがいる。
あえて「縁」の作用としたのは、成文化された歴史の発生以前の茫洋とした大地に人間の情(こころ)をおくことを、いま歴史から要求されているように観えるからである。

地球環境とはそもそも人の問題を質し、言い当てて、しかも試されているのであろう。

「言われなくても解る」
またもや横柄な己を鏡に映してみたくなった。
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あの日、憲法前文を撰す     2007年12 稿 再掲載

2012-04-28 12:54:36 | Weblog


世情が騒がしい

昔は鎮護の国といった。鎮は「しずまり」あるいは、人の逝去を「鎮す」といった。

騒ぐことと,鎮まることは、考えることでも結論が逆になることがある。

そんなことを沈考すると、大船の行き先が見えてきた。

畏まって記した。



              



四方蒼海の鎮まりに在る我国の美風は、国家創立の礎として顕示されている古

代律令にある矩を範として、人間の尊厳を祈護する心を継承したものである。

その意思は万物隣邦の共存と安寧を謳う皇道の祈念を国維として、国民におい

て等しくその目標のために勤めるべく、志操の涵養と互いに慈みあう姿を願う

ものである。

それは人々の連帯と調和を司るために古人が宗とした我国の徳目である、勤勉、

正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳威の修練を求め、歴史の栄

枯盛衰に標された内省を鑑として、地球史に普遍な恒心の自得に他ならない

この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を

次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣好誼にお

いて有効な日本国民の意思として掲げるものである




平成17年2月9日 撰




注 「国維」(こくい)国の大幹



【撰 憲法前文考で想起する
        民情を下座視 歴史を俯瞰した憲法観とは】

普段の生活では思いもよらぬ観点であり、国民にとっても通常の生活では考えることすら及ばない憲法の、しかも前文などを起草しようとした心の節を記してみたい。

過日、新聞紙上に各氏、諸団体の憲法前文試案が掲載されていた。
内容は程よい説明文の形式だが、その起草代表者は権力者もしくは、威を装った知的集団の集いである。
とくに目に付くことは、「我々は・・・」「私たちは・・・」の繰り返しが多用され、一昔前のアジ演説かと見間違うほどの書き出しであった。

この前文だが、憲法の記されている内容を国家の遵守事項を国民の生活マニュアルとするか、自意識に存在する自制と内外に示す国家標題と考えるかによってその趣はおのずと異なるものになってしまう。

そのことは明治という集権国家創成にともなう国民という文言を、単に新しい意識でとらえるか、それとも国家運営形式の変化にとらわれない、国家という成り立ちに沿った日本人としての有り様を基本とした人間の尊厳を守護する為政者の施政方針の類なのか、あるいは王政復古にともなう国家概念の変化を標榜したものなのか、未だ意識のなかに定着していないようだ。

 憲法といえば、政治論議の対象になる19条の解釈や、最高裁の憲法判断といわれるものなどが国民の耳目に触れる憲法の一端である。またそれが総べてであろう。
国民にとっての憲法は、いや憲法観はそのようなものであろう。
 封建社会もそうだったが、庶民は法やそれ以前にある掟、慣習にある規範もしくは道徳については教えられたり強制されたりするものではなく、「習う」あるいは「慣れる」ものであった。

 法は、分別層にあった武士の権力乱用や、商人の矩(のり)というべき商業道徳を侵した場合に適用されるものが多かった。また幕府と藩主にある法度や、武士が自らの道徳律とした武士道は他に制裁を委ねることを潔しとしない自裁、靖献であり、武士という分別階層にのみ与えられた慣習規範だった。もちろん、人別帳によって住居替えなどは農民の制約としてあったが、これとて地主、庄屋に代表される地域社会の長(おさ)の裁制に委ねられていた。

 聖徳太子の制定した憲法はそれらを対象にしたものではなく、それらを強権力によって侵害しようとする支配権力に向けられていた。また冠位によって存在をコントロールする術も憲法との抱き合わせ効果としてあった。

 その意味からすれば、高位高官、経済人、篤志家と称される者たちが権力者に褒章、勲位を強請(ねだ)る醜態は憲法意思の融解を推し進めていることでもある。

 褒章、勲位はその置かれた位置と矜持によって、何を為すかを求めたものであり、単に権力者を通じた天皇の威を人品の代表物にするものではなく、またそれが醜悪なる人品骨柄を覆い隠すものでない。

 太子の制定も制度として成立してはいるが、人の欲望が織り成す「昇官発財」の道具立てになることは予想していても、現在のような統治方法としての民主を騙取仮借した権力者による改憲は思いもよらぬことだったろう。

太子は制定当初から憲法の意思が権力者によって融解してしまうだろうという危惧があった。それほど権力を持つものの欲望のコントロールの難しさを知っていた

 つまり、憲法の意思は権力者によって人間の尊厳を侵されないために制定祈護したものであり、たとえ民意に負託された間接権力を行使するものだとしても、官吏や政治家の一過性の意図に制定を委ねるものではないはずだ。


現在のように公権力に携わるもの達が、装いはあっても公意をなくしたときこそ権力に対する憲法の効用が活かされるべきであろう

 しかも、戦中に「軍は竜眼の袖に隠れて・・」とあったように、たとえ民から選ばれた政府為政者および議員、官吏が争論をもって按配される憲法が、天皇の認証によって公布される憲法とするならば、なおさらのこと鎮まりの機を待つべきだろう。

 ならば、なぜ憲法前文をこの期に記そうと思ったか。
じつは、怒りにも似た感情、甚だしい憤怒の念、そうでもない、只、気がついたら起草していた。ものの二十分、いや三十分だろうか、拙い残像にある留魂を文字化していた。恥ずかしながら紹介文を書いていだいた大塚寿昭氏、背景を具体的に記していただいた村岡聡史氏の論文によって始めて事の提起を覚ったものである。

 どのような評価を期したものでなければ、功ある定着を描いたものではない。
染み付いた残像がそうさせたのだと思っている。












〈無国籍な憲法争論〉

元総理をはじめとする様々な憲法研究団体には、多くの若手議員が列をなしている。
各々の前文試案には、天皇、国民主権、平和、が明記されているが、どれも国民を錯覚した支配観、いや管理意識というような錯覚した選良意識があり、伏して下座視しているようには思えない。それは民主という便宜統治の耳障りの良いスローガンに酔っているかのような文字が羅列している


 それは江戸開国の不平等条約改正のために西洋の近代国家に近似するかのような体裁を取り繕ったものではあったが、当時の一部指導者の阿諛迎合性と拙速な行為は今もって掃うことの出来ない特有の性癖でもあるようだ。

現代のパソコン文化は世界の擬似平準化に欠くことができない道具文化を創生した。そこにはコンテンツ(空虚な内容)を、まるで実証とするかのようにソフトという代物によって起動提供され、あたかも科学的根拠があるがごとく眼前に現している。

憲法論議もそれに似て、まるでそれが大義のごとくにスローガンを包装して国民を惑わしている。
たとえば、あえて必要不可欠のように取り繕われている「天皇」という言葉も、その専権である国事行為も意味は分かっても、どのように向き合ったらいいか見当もつかない人が多いようだ。

宮中参殿における天皇の秘事と同様に、国民に分かりやすい国事は元号の制定がある。
あるいは維新前におこなわれていた三種の紳器の親授や、一世に幾たびかおこなわれた改元は明治以降、一世一元になり現在の平成で四世四元となっている。
元号は単なる年記号ではなく、その御世における国家安寧に祈りを込めて元号に託すものである。

それは現世利益のみを追う、政治、宗教、経済、あるいは役人の解釈では届かぬ、歴史を俯瞰した継承精神の蘇りと覚醒を託したものでもある。
明治、大正、昭和、平成には国家の歴史とともに、人や生活環境、人心の流れを表わす節目があった。

 もし、その期とするならば敢えて案として世に問おうとゴマメの歯軋りを撰したものである。



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憲法は権力を制御し、人間の尊厳を護る、此れに尽きる  08,6再

2012-04-27 12:10:57 | Weblog
                聖徳太子 像


近頃「偽」が、流行り文字のようだが、このコラムでも幾度となく「偽」を取り上げている。それも面前に現れる人間の所業のみを論(あげつら)うものではなく、古典にある「偽、私、放、奢」という【四患】にみる複合的人間の劣化の有様を、官吏を代表する権力当事者の倣いとして説明させてもらった。

なにも難しい古典の例を引くまでもなく、全国津々浦々に生活を営む無名の人々は、誰に教えられたわけでもない自己の「きめごと」「さだめごと」という道徳心によって、かれら擬似権力者の「偽」について語らずとも納得していることだ。

あえて小難しい理屈や、売文の輩、言論貴族を雇用した商業マスコミや、真の言論と魅せる人間力を亡失した政治家の言辞を借りずとも、とうに知っているのが民衆というもののようだ。なぜなら、敢えて抗するわけでもなく、忌諱するものでもなく、「いずれ彼らは自らの首を絞める」ことを解っているのである。
その彼らも薄々自壊するのが判っていながら、゛生きているうちが華゛と、名利稼ぎに向かっているのが現状である。





「直にして、礼なくば、則ち絞なり」
手前勝手に善いと理解しても、他との調和や譲る心がなければ、何れ自分の行動範囲を絞めつける、ということだろう。

しかも彼らは民法、刑法、事足りず条例を集積して、真の自由たる人間の尊厳を恣意的かつ、彼らの利の用とスベく、公務と称して日夜、狡智を働かせている。

面前に現れる下級職の潤いのように、社会保険庁、独立行政法人、自治体官吏、加えて「国家百年の計」と謳われた教育行政まで、口利き、付け届け、が横行し、「偽」教師が食い扶持目的の為に生産されている。不思議なもので警察官には警察官の子息が多いのもその例のようだが、上は国会から村議会、はたまた町内会まで、床の間の石の如く世襲が当たり前のようになっている。

以前、都内行政区における一人多役のボス紛いが、「役に就かないか・・」と誘いを受けたが、その取り巻きを作る魂胆は、数年後、二重帳簿の使い込みが発覚している。あるいは司法保護司の推薦来訪に「今からやっておけば藍綬褒章を貰える」と、不幸にもその世界に陥った人々を出汁に名利を思い図っている法匪のようなものもいる。






「上下交々(こもごも)、利を獲れば、国危うし」
誠に古典は簡単明瞭である

それほど日本人に「偽」が横行した歴史があっただろうか。
巷間、影武者だとか、゛すりかわり゛が裏面史に登場するが、今と比べればまだ昨今の「人品骨柄」の卑しさから比べれば別次元のハナシである。

切り口は変わるが、下校時に学生服でゲームに没頭する生徒に注意すると「生徒手帳に書いてない」との反論がある。それと同様に、゛法律に書いてない゛とは、かのホリエモンくんの台詞のようだが、我国の知識人の大多数が「法学」という「学」の僕(しもべ)となってマニュアル解釈という陳腐な屁理屈に埋没して、゛そもそも人間とは゛、゛日本人として゛という、同じ規(のり)でも、陋規(民族独特の規範)のあることすら認知しないために、その影響か、青少年、婦女子まで清規(一般成文法)のみならず、陋規の優越性を知らずに生活しているようだ。

このところ権力を構成する任職として、オールスターが出揃った。
最後に登場したのが教職である。これも狡猾ゆえに地を這って不作為悪事を重ねていたのであろう。







一般に権力を構成するであろう任職として、政治家、官吏、宗教家、教育者、知識人、そして今どきは金融家がある。古来、宗教的にも賎業といわれた利食い、あるいはその類の斡旋業は別として、政、官、宗、教の各職分は高貴な立場として特殊権限や待遇を与えられていた。

あの旗を振って勤務評定反対と叫んでいた教師の待遇も、田中角さんのお手盛りより特別な厚遇を得ている。それほど当時は教師が大切にされ、国民からも警察官、医師、教師は尊敬され期待されていた任職だった。

昨今、それが乱れ組織改変、システム更新など小手先の、゛直し゛が流行ごとになっているが、こと此処まで糜爛しては一筋縄にはいかないようだ。しかもそれを執り行うのが政治家と官吏では、まず無理なことは国民の承知するところだろう。

それも国民の耳に聞き捨てならない情報しか入らなくなったのも、その一因だろうが、経済も政治も教育も、そして人間の欲望も、どこへ進むのかどの任職からも光が見えてこない、それが国民の息潜む心配でもある。

普通はそのために法が効力を発揮するのだが、煩雑に積み重ねられた法は、弁護士を増殖させ、只でさえ網の目のように欲望が交差する社会を、より騒がしいものにしてしまっている。あの松下幸之助氏さえ訪米時の感想として「弁護士、精神科医が多い国は二流の国だ。人を信じられないことは全ての問題解決を困難にさせている」と嘆息し、追従する日本を憂いている。

それらの任職が為すべきことは、そもそもどうあるべきか・・・・
そんなことは彼らが考え、行動すべきことだ。そしてその任職の姿を見せればいいことだ。
どうしたら本来の姿になるのだろうか・・・
名利や食い扶持に堕していることが分からないのなら、国民は隣国の知識人を称したように、臭九老、九儒と蔑み面従腹背の柔軟な生き方をとれば良い。





投げやりな論ではない。あくまで擬似権力を構成するであろう、それらの任職は、何れ人間の尊厳を毀損するとして、それを制御すべく憲法を作った聖徳太子の意思は、たとえ不平等条約のクビキからの脱却を考えた明治政府の憲法制定時のおける、伊藤博文の「憲法義解」ならずとも、それを超えた陸羯南の憲法論に投射されていることにカツモクすべきだ。その意味で擬似権力に利巧になることだ

アカデミックな法理論は飯の種になっても、かれら擬似権力者達の覚醒には何の役に立たない。国民は熔けてしまいそうな人情と掟、習慣に一粒の光と可能性を見て、忍従している。中坊弁護士は成文法の支配力は二割ぐらいだと推考している。そのほかは面前の警察権力の恣意的運用や民暴に代表される暴力団、あるいは狭い範囲でいう地域、職域の陋規(掟,習慣)だという。また金融の管理が顕著になった金融資本家の管理システムであろう。

人間の尊厳、あるいは貧しくとも威厳をみる、それらを守護し活かすべき擬似権力構成者の錯覚した所業は、国民を止め処もなく亡国の淵に追いやっているかのようである。

「田園まさに荒れ何とす・・」陶淵明は帰去来の辞で詠み、屈原はベキラの淵に投身した。
良寛や西行になれそうもない日本人よ・・




内容関連サイトより【参照】 ふりかなは小学生向けであり、その世代でも理解、論議できる内容である。


十七条の憲法(けんぽう)のおもな内容(ないよう)
  抜粋

一条(じょう) 和を貴(たっと)び,人にさからうことのないよう心がけよ。

【互いに仲良くして競ったり、争ったりしない社会をつくろう】


二条(じょう)
三宝(さんぼう)をあつく敬(うやま)え。三宝(さんぼう)とは,仏像(ぶつぞう)・経典(きょうてん)・僧侶(そうりょ)である


【精霊と法と僧(教師)、(教師は縁ある萬師であろう)】


三条(じょう)
天皇(てんのう)の命令(めいれい)である詔(みことのり)を受けたなら,かならずつつしんでしたがうように。君主こそ天であり,臣(しん)は地である。


【官吏は連帯と調和の要の存在である天皇の命令に随い、それは天と地の必然の関係のようなものである】


四条(じょう)
官吏(かんり)(役人)は礼を基本(きほん)とし,人民(じんみん)を統治(とうち)する基本(きほん)は礼である


【役人は礼(辞譲の心)を基としてする。人を導き方向性を示すのは礼を前提にしなくてはならない】


五条(じょう)
美食や財貨(ざいか)への欲求(よっきゅう)にもとづく賄賂(わいろ)を受けることなく,公明公正に訴訟(そしょう)をさばくこと。


【贅沢や金の欲求によって賄賂を要求することなく、不特定多数の人々に正しく説明して行政を行わなくてはならない】


七条(じょう)
官吏(かんり)は,各任務(かくにんむ)があるので,職務(しょくむ)をあやまらないようにせよ。


【役人はそれぞれの分担した役割があり、役割を誤る(賄賂、親族などへの便宜)ことの無いようにする】


八条(じょう)
官吏(かんり)は早く出勤(しゅっきん)して仕事をし,おそく退出(たいしゅつ)せよ。

【役人は仕事の準備と後始末をおろそかにしない】


十二条(じょう)
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやつこ)は百姓(おおみたから)(一般(いっぱん)の人々)からかってに税(ぜい)をとってはならない。国に二人の君はありえず,人民(じんみん)に二人の主はないと心得(こころえ)よ。


【役人は百姓(大御宝)から勝手に税(恣意的な税)をとってはならない。あくまで国税以外の税は腐敗堕落を招く】 ※ いまどきの条例乱発して徴収する 罰金、手数料の類だろう


十三条(じょう)
官吏(かんり)たちは,自分の職掌(しょくしょう)をよく承知(しょうち)せよ。


【役人は仕事の内容、その棲み分けを自覚せよ】


十五条(じょう)
私心(ししん)をさって公につくすことは,臣民(しんみん)の道である


【己の立身出世を顧みず社会に尽くすことを役人の心構えとせよ】


十七条(じょう)
重大なことがらを決定するには,独断(どくだん)で決めてはならない。かならず人々とよく議論(ぎろん)をつくすべきである
。 (『日本書紀(にほんしょき)』)

【大事なことは独りで決めず、皆で知恵を出し合い、大いに話あって決めるようにする】

学習研究社 キッズネットより



憲法はいずれ人間の尊厳を毀損するであろう権力(政治家、役人、宗教家、教育者)に対する制御であり、その権力に対して、天皇の「権威」によって、それらに示したものである。

いま、庶民(大御宝)には「民法」と「刑法」があるが、総じて明治の国家、国民の創生期に権力者の統治システムとしてつくられたものであり、以前はそれぞれの郷の長(おさ)による掟、習慣、あるいは裁制によって連帯は維持されてきた。太子の憲法はそれと調和していかなければならない役人の姿を諭しているようだ。

これこそ全国津々浦々の辻路に大書して掲げたらよいと思える聖徳太子の意志であり、゛憲法゛であるまいか。
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安岡正篤の呻吟   2007/6

2012-04-18 13:01:24 | 郷学
『慙愧の念にたえない』br / >弟子、岡本義男の舌鋒は鋭かった。
岡本は戦前、安岡邸のある白山に在住していた。何かあると先生!と足繁く通い,安岡も寸暇を惜しまず無名の烈行哲人に応対した。また利他の善行に及ぶと「`憂国の士差し向ける`
と自身の名刺に書き込み送り出している。

ことは吉田茂の銅像の頌徳撰文を懇嘱されたときだった。
岡本は言う
>>「先生! この銅像はどこに建てるかご存知ですか? 皇居ですよ。あの臣茂と末尾に記す吉田の銅像が皇居の苑に建てられます。果たして吉田氏は草葉の陰でなんと思うか。吉田学校の馬鹿共が、親の心子知らずとはこのようなことです。あのシャイな吉田氏の心中を察すれば高知の桂浜から仰ぎ見る方が・・・いや、その前に銅像なんて、と議員どもを叱り飛ばすはずですが・・」
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『建立する場所までは・・・慙愧の念にたえない』

戦後まもなく岡本は札幌に居た。その地域の当麻神社の宮司から相談されたことがある。
>「岡本さんは東京で偉い人を知っているそうだが、此処札幌も戦禍に打ちひしがれ精神までも衰えている。どうでしょう、日本精神の作興のために近じか伊勢の遷宮があるので、解体された御神木を分けてもらえないだろうか。それを以って郷里を復興させたいのだが」

翌日、岡本は東京に向かい安岡邸を尋ねるが埼玉県菅谷に疎開しているという
仔細を聴いた安岡は「戦火で連絡先を無くしてしまったが、たしか総代は吉田氏だ紹介状を認めるから伺ったらよい」

その足で吉田総代を訪ねて書生に『安岡先生からの使いです』と告げると、しばらくして紋付羽織袴の正装で玄関に現れた。
宮司の願件を告げると
「今までそのような事は無かったが、仰る意図は判った。ついてはお願いがあります。皆さんで神域を清掃してそのお礼にと神木を分けるということでどうでしょう」

まもなく当麻神社に御神木が掲げられた。
ちなみに伊勢神宮内に掛札をつけたイチイの樹が岡本の手で植樹されている。これも稀なことであろう。

無名であるがその義烈の行為は安岡を愉しませた。取り巻きは「困ったものだ」と陰口をいうが岡本は意に介さない。
岡本との談義中に政権担当者や重役が連絡を入れるが、「来客中!」と応答せず無名の哲人との談義に真摯に向きあっている。

また、長期出張の時は「何日から何日まで留守をしています」と直接連絡があった。
>>「あなたのほうが若さは上だが、頭は飛びぬけて鋭い人が居る。よかったら弟子になったらよい」と、場所も名前も知らされず連れて行かれたのが安岡先生との縁だったが、安岡師の紅心に中る数少ない人物としてこそ冒頭の言があったのである。

岡本の座右は、【貪らざるを以って寶と為す】である

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あの時は・・貪りの民と税の騙取   2007/11再

2012-04-17 10:38:04 | Weblog
            19,10/28 弘前城公園


 平成6年の年明けだった。細川首相の公約でもあり、政権の成立要件でもあった政治改革法案が産みの苦しみを経て成立して間もなく深夜の会見で、国民福祉税の創設と7%の税率設定、ついでに景気浮揚を賭けた6兆円の減税案が発表された。

伏魔殿の公(狡)務員が一生懸命に考え意をこらした案であったのだが、役者に口上を語らせても意図するものまでは教えず、かといって舞台のそでから教えたのでは千両役者も大根になってしまう。
旧政権にはない明快な口上であることは疑いもないが、国民にとっては慣れていないせいか“間”のとりかたが難しい。

演出家にとっては反対、賛成も織り込み済みの大芝居の幕開けである。
「自立した民」の湧き出ずる序曲であるかのようにまずは「反対」が出てくる。
論語 泰伯に“民はこれに由(よ)らしむべし、これを知らしむべからず”とある。 意味は、民は君主に従わせることはできるが、その理由を理解させることはできない。ということである。

反対は様々である。“なんで突然、発表するのだ”“わかっているが…気持ちの準備が”“名目を変えた消費税だ”総理も自信もなく発表するものだから、国民も総理個人に高飛車な反対意見が出しやすいらしい。

隣のお坊っちゃんに“八っあん”“熊さん”が苦情をいっているようなものである。 なかには、“あいつが賛成だから反対だ”とか、“やすやすと賛成したのではメンツが立たない”などと日頃の群行群止がここぞとばかり隊列を整え始めた。
降って湧いたような話ではあるが、双方が“国民のため”を合唱している。










ある代議士が唱えていることに耳を傾けてみると
「自由社会での福祉のありかたや、地政学的に観た国土の環境を考えると、他の自由主義、民主主義、資本主義を掲げる国家とは自ずと国民の国家に対する表現方法は違う。 他国との交易で国家の「養」を維持しようとするなら、少なくとも共同で関わるべきことについて価値感の共有をしなければ経国は難しい」

税ひとつとっても百花争鳴の有り様である。建前なのか主権付託行為(投票)とはどこまでの許されるべき範囲なのだろうか。


 以前は外交交渉についても、代表者が国内向けとは掛け離れた論法で上手に取りまとめたのだが、情報公開あるいは漏洩、はたまた国家衰亡の兆しだという漢の「五寒」にある「謀弛」(はかりごとが緩む)によって“言論貴族”売文の輩”を湧出させ、まとまるべきことが破談になってしまう傾向が近ごろ多々みかける。

また当事者である議員も“顔売り”と称して商業マスコミに登場して根本問題の理解力、判断力、に乏しい大衆に向かって“逢場作戯”(その場そのときの演技)に熱中する。なかには役者化粧をして表面を飾る者も出てくる。

現在は一人一人の資質、もう一歩掘り下げて考えるに、明治以降の富国強兵政策による官制教育の一元化、それにともなう知識、技術の習得と、その能力を唯一の価値として地位、名誉、財産まであたえた属性価値の見直しであり“日本人とは何か”の問いかけが重要になってきている。








江の島 児玉源太郎を祀る「児玉神社」爾霊山(203)標石




いわゆる国家とは、民族とは、人間とはの問題意識であり、歴史の真実、真理から将来を見据えた現日本人の覚醒であり、我が国の“内なる独立”に欠くことのできない政治、経済、教育、民生の改革命題でもある。また気に止め始めた時代のシグナルでもある。

このことは単に、方法論や想像目的を設定するものではなく、正に大上段から振り下ろす問題でもある。 しかも政府の政策を待つものではなく、民族あるいは同環境に現住するものの本能的危機から生ずる自主的な社会改革運動でなくてはならない。

 人口やゴミ問題、環境、陋規の崩壊、怠惰からくる怨嗟、公徳心の欠落、これらは御上の下達を待つことでもない国民各自に与えられたささやかながら宴の後の“片付け”であり歴史の中に存在する責任でもある

 それは虚偽の属性価値である地位、学歴、財を問わず、貪らないもののみに与えられた天の配財である“放心”を我が身に取り戻した「人」のみ為せることでもある。


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