まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

熱狂と偏見が鎮まれば、人は深く己の棲み処をおもう 2011 2/10 再

2020-09-22 11:59:46 | Weblog

 

世情が騒がしい

昔は鎮護の国といった。鎮は「しずまり」あるいは、人の逝去を「鎮す」といった。

騒ぐことと,鎮まることは、考えることでも結論が逆になることがある。

そんなことを沈考すると、大船の行き先が見えてきた。

あの時、畏まって記した。





               




日本国憲法前文 (私案)


 四方(よも)蒼海(そうかい)の鎮まり(しずまり)に在(あ)る我国の美風は、国家創

立の礎(いしずえ)として顕示(けんじ)されている古代律令にある矩(のり)を範(はん)

として、人間の尊厳を祈護(きご)する心を継承したものである。

 その意思は万物(ばんぶつ)隣邦(りんぽう)の共存と安寧(あんねい)を謳う皇道(こ

うどう)の祈念を国維(こくい)として、国民に於いては等しくその目標のために勤め

るべく、志操の涵養と相(あい)慈(いつく)しみあう姿を願うものである。

 それは人々の連帯と調和を司(つかさど)るために古人が宗(しゅう)とした我国の

徳目である、勤勉、正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳(とく)威(い)の修練

を求め、歴史の栄枯盛衰に標(しる)された内省を鏡として、地球史に普遍的な恒

心(こうしん)の自得(じとく)に他ならない。

 この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を

次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣好誼(こうぎ)

において有効な日本国民の意思として掲げるものである。



                      平成17年2月9日 謹撰

 

 

矩……十七条憲法

万物隣邦……精霊、全ての生き物、異なる民族や国々

皇道……スメラギ、他を思いやる心

国維……複雑な要因をもって構成されている国なるものの縦軸

徳威……善ある自発行為によって他に働きかける姿

標された内省……顧みる正邪の峻別を促す心の省(はぶき)

自得……他に促されることではない心の覚り

 

 

 

 

 

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日本人に謝りたい 2008 あの頃の稿

2020-09-21 07:39:04 | Weblog

        エルサレム嘆きの壁 (ウェキぺディアより)



以前【那おもえば国賊】に以下の章を記した

《 ・・・コミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかし、冷戦構造にあった考証は総てコミンテルンの仕業であり、しかもどれ一つとっても確証はなく、腰の引けた既存の文献内考証であり、新事実を発見、もしくは外来から伝われば、現地考証を成文にのみ委ねた枝葉修正学に陥っているのが現状である。

冒頭にある彼らの意図は、利用するつもりで逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾な構図を描いたのである。

実験国家ソビエトは崩壊するべくして終焉した。19世紀から20世紀にかけて多くの王政は民主の名の下に倒され、ある国は共和制、共産主義に衣替えはするが、中国の孫文とて民衆の混乱を抑えるために三民主義を掲げつつも領袖による専制を描かざるを得なかった。
夫々は思想の大義はともかく、大謀に隠された意図はあった。王政を倒すといえことはどのような意図があったのか、民主と自由のみなのか。付け加えればアジアの混乱と近隣との軋轢に意図されたものは何か。意思の共有という連帯連鎖を地域分割や自由解放という宣伝によって解く理由は何なのか。

軋轢は不信と反目を継続させ、善隣友好や平和外交などうら寂しい裏面構造を滞留させている。

コミンテルンの指示や援助として定着しているゾルゲ関連や中国における不可思議な誘引事件は、その構図の大きさと深さによって、よりその深層の企てを覆い隠している。
現状追認しかできなくなった国内指導部の脆弱さと、偽装事実を積み重ねる謀略は資金を添えて謀略中枢をコントロールした。

あのイラクとクエートを分断したイギリスの諜報機関M16のローレンスのようにアジアを舞台に黒子の様に跳梁している。しかも友邦アメリカまで手玉にとって誘引している。

その企ては自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない

あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった・・・・》


            




そして大謀として【羊飼いの犬に追いかけられた夢】と題して記した。


もう何年も前の初夢で犬に追いかけられた

お節介なもので皆に知らせたことがある

何のことやら解らない人、なかには映画のストーリーかと言われた

近頃は目の前の現実として現れているが、羊飼いの犬は群れを美味しい草原に誘導している

太った羊は美味しい肉となり、チーズや干し肉となって羊飼いの胃袋を満たしている  


《以下はそのとき知らせたこと》

いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。

「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 
そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

 自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

 そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

 経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

 そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

 そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだろう」


そういえば古事記に
国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、くらげなす漂えるとき、葦牙(あしかび)のごと萌えあがる物によりて成れる …  と、ある。
古典や故事を引用するぐらいの知恵者にあやかるまえに、大地の表層に浮かぶ脂やクラゲのように浮遊し、葦の芽ぐらいだった原祖を思い浮かべ、 青い目の悪戯っ子の囁きに、黒い目を白黒することのない心の鎮まりを見つけたいものです》


まさに此のことが以下に紹介する作者のいう目に見えない民族の大謀なのだ



           



今日、ベンガルの友人からアマゾンの書籍紹介が届いた。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe800.html

これは日本人の文ではない。

ただ、彼等の終末期、あるいは彼等の見る我々の終末期と思える期に、これほどまで明快に人の歴史の不思議を、日本人に対して謝意を込めて説明する書籍が出版されたことは、意図に戸惑いを含んだ思いを抱かずにはいられない。

筆者も民族を明確に指名して記すことの混乱と、煩雑なる論の喚起を促すことが徒な混乱と無理解なる者の反駁を起こすことによる社会の調和や連帯にダメージを及ぼす過度の遠慮があった。

たとえば、ソ連は実験国家。自由と民主は国家社会を瓦解させる有効な手立て。
先の大戦、特に日中戦争はコミュンテルンの・・という田母神論に代表される論界について、スターリンさえ其のその大謀の範疇に在った、などと縷々と記したが、売文の徒の作った定説を是正することは叶わなかった。

此の期に此の文章。




           
            整理、整頓、倹約の習慣化 於 弘前養生幼稚園



機が訪れたと観るか、そして深遠な心で民族の潜在するものを顧みるか、其の機はいま一歩、附属性価値と錯覚した成功価値にまみえた浮俗から暫し離脱して考える
ことを促している。

ともあれ目から鱗、研究者には再考を、政治家には歴史の勉学を、そして国民には夢から覚めることを期待したい。

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観人則からみた宰相の器量 【Ⅲ】 再編  8 10/26再

2020-09-10 10:43:42 | Weblog

《小人の学は利にすすむ》
小者の勉強は、金やそれを生む地位を獲得するために向かう

しかし《利は智を昏からしむ》昏(暗くなる、愚かになる)
利のためにする学問はいずれ社会や本人の人生を衰亡させる

以下本文、そのⅢ

日露戦争における山本権兵衛の東郷平八郎起用など人物識見に加え、運と人相などの測り方は、砲弾の飛び交うデッキで愚鈍と思われるような沈着さと、切れ者秋山真之のコンビによる現場任せの肝識によるものである。
ここでは切れ者の陥りやすい現場観測の直感行動の半面に拙速な行動を逆賭(先見)したためでもあろう。


                      

陸軍参謀 児玉源太郎

また陸軍次官であった児玉源太郎は自ら降格し、陸軍参謀次長として現地に赴任している。ここにも大山巌という暗愚のごとく様相をした人物によって戦況を俯瞰しつつ戦後処理に結びつける大戦略を描いている。

児玉無くして勝利は無いといわれたように、関係国に張り巡らした駐在武官からの情報を基に、当時の軍人にしては稀ともいわれる政治と軍、世界と日本を俯瞰し、その経綸は戦費調達のために疲弊した国民の生活にまで心を置き、戦後の占領地、外交まで視野に入れた戦略があった。




海軍参謀 秋山真之


只、講和会議の結果に不満を持つ軍部や、疲弊した国民の勝利に高揚した感情が在外大使館襲撃や現地満州における戦勝国としての横暴さを招き、たとえ一部勢力の仕業としても、管轄管理できない現地の状況とあいまって勤勉、柔和、勇敢という印象から、野蛮で未熟と印象を転化させてしまったことは児玉の推考にはないものであった。

日本軍の早期撤退についても、思慮難解な内外情勢であっただろうことは理解できることではあるが、それにも増して政権担当者の優柔不断はあの昭和二十年の到来を予期させることでもある。
その根本要因は日本人の性癖とも思われる阿諛迎合性に見ることができる。
その土壌は、金、権力、地位、名誉を駆使する政権担当者による支配の具にもなるが、

小泉純一郎、あるいはそれを模倣する安倍晋三と取り巻きによって、より卑小な思考に陥っている。人物を得ないことの弊害は大義を唱えることによって一時の収斂を得るが、それも舌禍や陳腐な煩事によって成果を見ることができなくなっている

最近、陛下の言行を日記に書き留めていた側近の章に、゛準備は入念に、戦闘は徹底的に゛という部分が読み取られたが、まさに正鵠を得ている。もし児玉がいなければと考えると、人を得る如何ということの重要さは国家の存亡さえ左右する問題でもあったことが判る。

さしずめ吉田茂と白洲次郎による戦後処理、岸信介と椎名悦三郎の統制官僚による戦後体制の構築、佐藤栄作には党人派の田中角栄、大蔵官吏の福田赳夫、大平正芳は伊藤正義とそれらに連なる経済官僚などによる「人を得た」関係があることが分かる。

ここで観えるのは安倍総理は拙速なデビューである。心得ているのは福田康夫氏や麻生太郎氏であろう。
以前、計ったわけではないが福田氏の父赳夫氏について記したことがある

以下次号

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観人則からみた宰相の器量 【II】   8 10/25 再

2020-09-09 08:41:09 | Weblog

安倍一次内閣の頃のこと・・・・


《小人、利に集い 利薄ければ散ず》
議員の中でも小者とおもわれるものは、力の有りそうなところにへばり付き地位や名誉、はたまた利権を吸い取る。一応理由付けはするが、力が無くなる、いやその前にその兆候が出ると「旅支度」を始める。平成の御世、参議院選の前にその兆候はある。とくに側近にその姿がある。

以下本文、その�

此処でいう観人則は、人の何を有効とみるか、あるいは老子の説く無用の用にあるように、存在そのものを自己の鏡として無用を有用せしめる観人力の有無をあえて政権担当者を例に観てみたい。

小泉総裁の任期満了にともなって自民党の次期総裁に選出されたのは安倍晋三である。選出理由は議員の選挙効用、はたまた失対保険を描いた結果であることは大方のみかたであろう。またそう思わせる風は、あの統制派軍官僚の現状追認に随った当時の鬱積した空気を打ち払うかのように嘱望された近衛文麿の登場に似ているからだ。
何のための任期なのか、此処までくると政策の善し悪しは別として元気溌剌として政権を降りた小泉純一郎氏の毒っけにあてられ、無理に異なることを選択した、あるいは新世代の顔ぶれを並べた居抜き政権の棚揃えにもみえる。

しかし、その構成は学園祭の役割分担でのように、一時のイベント用に集められたスタッフのようで国家で云う「維」を繋ぐものは希薄である。イベント効果では一過性のパフォーマンスや内(うち)治まらず外に耳目を集めるが、これとて商業マスコミの凝り性もない競争意識と言論貴族の食い扶持論によって一時の表層史を刻み、ともかく政権史の表層に名を記す程度の集まりである。

それを助長しているのが小泉全総理の毒気に当てられた貪官を始め、派閥機関政治としての拠り所をなくし足した伴食議員の意志薄弱さと、猟官が単なる選挙区用の金屏風として用を成すことと、益々愚民化した有権者の姿に見られることである。
つまり、どうにか食えれば「いいんじゃない」といった姿である。

とくに主役である安倍殿を支える黒子が安倍フレームにしゃしゃり出る、つまり側近として顔を売る手合いが多いことに気が点く布陣である。
つまり、「小人、利に集い 利、薄ければ散ず」の様相がみられる。

なかには選挙区に戻り、我は大物然であると錯覚した取り巻き議員もいる。あの組閣にために籠もった山梨の別荘から頻繁に連絡をもらい、大臣の人選をアドバイスしたと吹聴している議員だ。別荘に居たともあるが、その手合いに限って、そろそろ及びが掛かるのではと前任総理の頃から一戸建てに引っ越す入念さと、今までにもまして八艘跳びよろしく、めぼしい宰相候補者の各氏に保険を掛ける狡猾さもある。

あるいは総理外遊の折、必ずといってよいほど総理夫妻や単独インタビューのカメラフレームにコバンザメの如くちゃっかり納まるなど、前任の古川氏のあまりにも愚直に謙譲の美徳を表した黒子であるべき立場とかけ離れた醜態がみられる側近でもある。金と愛人、その次は間諜と八方美人的売国奴が話題になるのは、そう遠くはない。
ちなみに前任の古川氏は秋篠宮妃の出産退院の折、玄関先まで先導し、両殿下が定位置に立たれると、瞬時に病院内に戻りカメラフレームの外に隠れる動きをしている。
歴代首相に仕えた先代の石原氏と同様、内閣を陰で支えた副長官の姿は分在の任を弁えた官の役割として特筆すべきものでもある。

果たして権力者の有用とする人物はどのようなものか、また重要な用を成す「無用の用」を為す、とはどのような人物を指すのであろうか。
老子も有用のみを追い求める四角四面の愚、とくにそれに陥りやすい民族性癖が少なからずみられる我が国の組織ばる様態は、ついつい愛人、金といった怠惰な潤いに堕落する姑息な政官を輩出する。

まさに「小人の学は利に向かう」であり、「上下こもごも利をとれば国危うし」、またそれに倣う民衆が増えるのである。

隣国の観人則には以下のことが記されている(簡約)。
《地位が昇ったらどのような部下を登用するか》
《財を蓄えたらどのような使い方をするか》
《どのような朋友と交わるか》


あるいは、《困窮しても貪らないか》、《酒を呑んだらその様態は》、など知識、技術、情報を学ぶ「時習学」の前提となる「人間学」、つまり立場においては一家の頭領から企業の経営者、あるいは為政者の姿を測る単純座標として明快に描いている。

以下次号

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観人則からみた宰相の器量 【Ⅰ】  8 10/23再

2020-09-08 09:04:05 | Weblog

安倍一次政権のころ・・・


浮俗をにぎわし、かつ煩わせる鎮まりのない争論について、四編に分けて駄論を弄したい。

謂わんとすることは《観人則》である。
近頃、腰の落ち着きが無く、つまり沈着冷静に国家、社会の行く末や社会の実像に身を浸して吐息を聴く政治家が乏しくなったきた。

とくに鎮座独想(心を落ち着けて、独り考察)すべき宰相(総理大臣)の姿と、国民側の見方について、くわえて宰相の閣僚任命に際しての人物観のありようを文上にて問うてみたい。

以下、本文 四の一

諫言するのも憚ることだが、昨今の人物を観るための秤は、概ね外形に見える地位、財力、学校歴、などではある。

それは何ら人物人格なりを代表しない附属性価値のみを人間の姿としてしか観ることができないマニュアル評価でしかない。

度量、器量にある人物の観方は、余程のこと「量」でいう重厚感を推し量ることの可能な識見と、人の行為を忖度できる雅量が必要になってくる。

言葉の伝達による人の説明は異なる地域や文化を有する相手にとっては当然ではあるが、同種、同民族にとっては簡略なる言葉による阿吽の識別がその要となる。

それに比して現在の見方と評価のアンチョコは、偏差値、数値評価の類でいう受験評価のようなものであろう。つまり虚偽、架空による実態評価でもあるが、殊のほか利他に勤しむべき立場に立つ権力構造の中の要員には安易な評価基準でもある。

その観人評価の錯誤の弊害は、ときとして国家社会を構成する権力機構や経済を操る資本家の恣意的行為となって社会の基礎的基盤を融解するのみではなく、ダイナミックな循環を阻害することでもある,
それは歴史のいたるところで観られた社会システム耐用期の更新において、臨機を錯誤することによって衰亡から亡国の徴を予測認知できず、政策遂行を曖昧にさせている因になっている。つまり人間の行為として表れる歴史の観測に鈍感になることでもある。


殊に人間の織り成す歴史の事象において、人間の高度な教養と、そこに培われた矜持の如何で決することの多い国家社会の盛衰が、人間そのものによって集積される刻と存在である歴史の有効性を、無用にしかねない危険を含んでいるようにも観得る。

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