まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

陸奥斗南の憧憬. 15. 11/23 あの頃

2020-08-27 15:17:16 | Weblog

 

陸奥湾を望む

八戸から青い森鉄道、途中、野辺地から大湊線に分かれて一路下北へ・・

 

この章を記したとき、女性自身 」の皇室担当記者松崎敏彌氏から「むつは秩父宮様のご縁で松平さんと行きました。市長さんも立派な方で此れからも期待できるところですね・・・・」と妙縁を教えて頂いた、その後、台湾同行した津軽の方々との再会と今夏のむつの再訪を期していた松崎さんは病の床から戻る事はなかった。そんな縁を抱いての津軽墓参の途に、ふとむつに想いを運んでみたくなった。

その日は偶然にも田名部神社の大祭だった。久々に見た郷の力つよくも雅な祭りだった。歴史ある郷の新たな期待、それは臨機応変、縦横無尽に繰り出す機略ある若い市長に委ねられていると聞く。

以下は昨年の備忘録だが・・・・・

 

               

      左 松崎さん   台湾亜東関係協会蔡秘書長    平田元空将

 

 

青森県津軽地方の行脚も当初の独行から多くの奇縁を生んだ。

ことさら、みちのくの一人旅や切羽詰まっての北帰行を洒落込んだものではない

それは多くの郷人との邂逅とともに、独りよがりかもしれないが彼の地への憧憬が膨らんだゆえに辿る途のようなものだった。

よく自分探しや、ときに訪れる自棄に近い逍遥なのか、それさえも確認するすべもないが、敢えて云えば己の感性と運がはこぶ、みずみずしい縁の愉しみだと思っている。

 津軽衆やその近在のオナゴに下北の陸奥のことを話すと「遠い」と一蹴される。

どこか「何も、よりによって・・」と云わんばかりの雰囲気がある。それともせっかく津軽に馴染んだ東京モンが下北半島のむつ市まで行くことないだろうとの節介だろうが、だからこそ「何かいいことが・・」と下心がはずむのも自然の欲目である。

            

                

 10月の中頃に風呂帰りの本屋で何気なく手に取った本が陸軍大将柴五郎に関する「ある明治人の記録」だった。あの「北京の五十五日」という名のハリウッドムービーで有名な清朝の義和団事件で目覚ましい活躍をした柴五郎だが、その沈着冷静さと勇猛果敢な士気は新政府を牛耳った薩長の無頼衆とは異なる、実直な武士(モノノフ)の貌があった。

偏屈なもの好きは人物に興味があった。どこで生まれ、どんな環境で、両親の教育は、どんな学修をしたのか、避けられない苦悩はどうだったのか、など興味がわいてくる。

 斗南藩、聞き慣れない名だが、無頼衆が仕切る新政府は、会津藩が涵養し矜持としていた武士の心根を、勤王の士であった藩主松平容保憎しで完膚なきまでの辱めをあたえ、領地に残るは農民もしくは商人として営みを変え、武士として生きるなら本州の北端陸奥に移封するという会津処分を行った。

藩主に随ったものは未だ見たこともない地を斗南と名付け、現在のむつ市に藩を立てた。新政府の条件は農業によって財政基盤を作れ、という厳命だったが、一万七千余名の会津武士にとっては、ことのほか過酷なものだった。

 

 

                 

 

                

だからと云って境遇や歴史の隘路を質しても始まらない。

武士の浸透学にある「言を要さない」涵養は、さし迫った状況に向かっても超克する気概が、特筆される会津武士の姿だった。

会津の市街地戦闘では屍を倒れた場に晒し、白虎隊の童子さえ埋葬して弔うことさえ許されず、小動物にさえむしばまれた。非戦闘員だった武士家族の高齢者や女子は自決し、操と矜持の穢れることを良とせず誇りを護った。それから比べれば、゛何のこれしき゛との意気はあふれていた。

時を違えて世俗に惑いや小欲を制することもままならない旅人にとって、たとえ会津、陸奥と別世界に繰りひろげられた人々のストーリーを、彼の地に伝わる微かなる残像に心耳を澄ますことは、知った、覚えた類の探索ではなく、添って動転するような臨場感に浸ることだった。それは現状のささいな憂慮や煩悶に光明を推考し、実直なる当時の日本人への回帰願望が芽生える端にもなることだった。

 それは、同時期の冷害に同じく苦しんだ津軽弘前において、嘆く人々に向かって恩師の縁者である菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」という気概と同じ明治人の薫りを感ずるとともに、政府の補助金に「弘前に餓死者はない、他に困っているところがあれはそちらに渡してください」と断る、他への忠恕と責任感は、もともと寒気烈しいところに生地として営みを持った人間の守るべき矜持のようみえたのだ。

くわえ、その甥であるの山田純三郎に孫文が慚愧の気持ちで発した「真の日本人がいなくなった」との言葉が、妙に斗南武士となった会津士魂に、民族を超えた維持すべき普遍な意志のように共鳴するのだ。

 「そこを観よう」という観察眼と直感力の養いは、混迷の将来に宿命観を集積する世俗のには、偏屈な変わり者の夢想とおもえるだろうが、その浸透学こそ必ずや利他に必須な修学だと多くの先覚者や碩学の促しがあったればこそ、ゆえに哀悼と感謝の独行であった。だから敏感だった。

 

 

                  

 

北辺の地だが、当時は地域情報も乏しく、あの松陰でさえ山口県の萩から青森県弘前を経て竜飛まで足を延ばしているが、行程も順調ではなく、秋深くなれば降雪で歩行もままならなかった。その季節の萩は雪も見ることもなく、路銀(懐金)も計算通りではなく、至るところで松陰の借金証文が発見されている。それは予想外の異郷への旅だった。

 征夷大将軍の田村麻呂も秋田との県境を閉ざす白神以北は足を踏み入れることはなかったほどの、当時は化外の地だった。斗南藩の在ったむつ市は旧南部藩、いまでも八戸までの新幹線の頃は、大湊線の中継地である野辺地以北は訪れる観光客も少ない。

 周知されているのは原燃の六ケ所村、恐山、マグロの大間くらいで、斗南藩の史跡などは見向きもされないのが実情だ。グルメと観光はあっても、思索と懐古、加えて教訓を得るなどは浮俗の変わり者の所業のようだ。

だが、普段は心地よいと感じている浮俗に浸る都会の巷で、その深層に潜在する俗(現世)の人の在り様に滞留している鵺(ぬえ)のように取り付くモノの発見には、前記したように、かけがいのない風土であるとの確信が不思議とあった。

また、そのモノなるものを覚えたら掃き祓うことができるような拙い感のようなものがあった。それは人の縁なのか、史蹟に佇むことによって感受することなのか判然としなかったが、それはいつもながらの奇縁を運ぶ良機に乗るしかなかった。

 

東京からの時程では新青森を経由して弘前までの刻を要すが、単線の大湊線の最後部から望む陸奥湾の青さと丈のさほど高くない雑木林を後にする鉄路の景色は、窓枠をつかんで座席に膝立ちする童のような気分だった。

どこでもそうだが少ない乗客はスマホに夢中になって景色など興味がない。六ヶ所村の巨大な風車を超えると横浜町という駅に着く。これもユネスコ村のような駅舎だが、地元出身のオナゴは「沿線では一番大きな駅」と自慢する。

終点は大湊、海上自衛隊の北の要衝で、釜臥山に隠れるように基地がある。降りたところは一つ前の下北駅、ホテルは陸奥グランドホテル。電話をすると迎えに来た。

 

 

                

旅程は、昼に着いてグランドホテル内にある斗南藩の資料室を訪ね、近在の史跡を周り、ひと風呂浴びて夜には弘前に行く予定だった。いゃ、陸奥湾越に津軽半島の夕日を眺める経路が望みだった。

知人に陸奥の先導師がいる。生地ゆえだが醇な愛郷心は聴く者を旅に誘う雰囲気がある。普通は、金も、時間もと、聴く満足だが、津軽に旅慣れると機会を窺うようになるのも不思議なものだ。

到着後、報告のため連絡を入れた。前もって親切な郷人の連絡先を預けて戴いたが突然で、旅程もあり、報告のつもりが、オウム返しで郷人から連絡が入った。

 待ち合わせはホテルロビー。もともと先導師の伝言なのだろう、史蹟後、墓地、郷の陶芸家太郎仁窯を周遊した。時間を見計らったつもりだったが、太郎仁氏の話と清涼な自然環境に時を忘れてしまった。すると面白いもので、案内の郷人に「繁華街は近いですか・・・?」と尋ねた。すると「何時に迎えに行ったらいいですか・・・・?」と。

自然に「うむ・・、七時」と応えた。もう弘前行はなくなった。

ホテルのオーナーは余程の粋な気分を持った郷の長なのだろう、まるで使命感を持って収集したかのような資料と、その縁を郷に生かそうとする気概がみえる資料室を設えてあった。

 小腹がすいたので食堂に入ったら、どぶろく、とメニュー札が目に入った。

蕎麦を肴にコップ酒ならぬ、ドブロクを呑みこんだ。しばらく宙を眺めた。それほど美味しかった。以前、弘前駅が再開発される前の居酒屋の亭主と馴染になった折、事前連絡を入れると、山に分け入って山菜を採ったり、マタギに話をつけてドブロクを手に入れてくれたが、そのドブロクはどんぶりに粥のようなもので、水分も少なくスプーンで呑むより、口の中で噛むような感触があった。そしてジワリと酔いが滲みる。

食堂のドブロクもそれに近いものがあった。「これは・・・」とおばさんに尋ねると、ここで少し提供する試飲みたいなもので、外には出していません。と優しく応えた。

こうなると、呑ん平は狡知が働く。金持ちを見つけた税吏や隠れて違反を執る警吏の狡知も嗤えぬほど、詐知が生まれる。「部屋で呑みたいのですが、二合瓶に二本ほどいいですか・・」とへりくだる。「いいですよ」応えは優しかった。

よく考えたら、弘前行も忘れ、案内の郷人には夜を尋ねたが、肝心のホテルチェックインもしていなかった。二合瓶二本を抱えてチェックイン、部屋の冷蔵庫に貴重品のごとく安置して、風呂場に向かう。人も物も縁はまず添って、乗ってみることだとの実感だ。

きっと藩主容保ほか会津藩士も、弘前師団や斗南に縁があった秩父宮殿下も、きっとこのドブロクの味を知っていただろうと、妙な己の詐知の贖罪を想いつつ、落葉の浮かぶ湯に身をひたすこそばゆさがあった。

 この辺りは、あの津軽金木の資本家の息子のような放蕩噺もなければ、石高をごまかして瀟洒な城苑を構築された形跡もない。物語は少ないが、だからこそ人間がリアルな形で遺されている直感があった。もちろん類に漏れず閉鎖した巨大なショッピングセンターもあったが、いまはその建物をそのまま使って役所になっている妙智がある。弘前の歓楽地鍛冶町に類する夜の姿もあるが、いまでも、町村合併でむつ市では400件程、居酒屋は陸奥湾と津軽海峡の幸が豊富で、しかも都会ずれしていないところが柔らかい。

 

                 釜臥山 連山は恐山

 

 

翌朝、吉報?があった。

案内の郷人が件の食堂に掛け合って、ドブロクをもう二本用立ててくれた。

伺うと、以前このホテルに勤めたことがあり、みな仲間内のようなものだということだった。くわえて駅まで送ってくれるという。

定刻までの間、駅舎の外で紫煙を愉しんだ。中年の女性も紛れ込んだ。

改札を抜け、ホームに並ぶと後ろのフェンス越しに郷人はいた。電車に乗り発車するまで、いや発車してしばらく遠ざかり、見えなくなるまでその場にいてくれた。

一番後ろに乗って車窓をみると、電車の下から二本の鉄路がトコロテンのように押し出されるよう見えた。そのトコロテンの押し出し口のような窓から惜しむより、また必ず来ますと、ペコペコ頭を下げる童のような男が自分だった。

久しぶりにみた、我が身を刻み遺したい斗南の憧憬だった。

 

                      松平容保公

 

きっと、東京に上る容保公も残る藩士も、悲哀より下北への憧憬があったのだろう。

その呼応がなければ、あの賢将の柴五郎の説明もつかない。

なにより、図らずも朝敵となり、会津を惨禍に貶めた討幕軍が、御旗として推戴した宮家の系である秩父宮殿下に入籍した世津子(節子)妃殿下は、いくら計略といっても会津の姫君であったことは、宮家の真の意志と忠恕ある寛容な心であることは疑いもない事実だ。

 

                      秩父宮御夫妻

 

しかも会津の残影としてあるだけでなく、斗南の地に兢々として心香を献じた殿下の残照として今でも史蹟は丁重に護持されていることでもわかる。

それは、過酷な地へ移封した新政府との融和ではなく、もともと矜持として会津士魂を支えた勤王の大御心への忠誠であり、それら応えた黙契の表れが斗南に顕在する証しだ

分るものが判ればいい、そんな深層の情緒に黙礼せざるを得ない良機の旅だった。

 

イメージは関係サイト・陸奥グランドホテル資料室より

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面子と実利の中国   阿諛迎合と四角四面の日本 「再」

2020-08-20 06:39:05 | Weblog

             満州皇帝溥儀   秘書長 工藤 忠


≪22年6月24日の掲載です≫


アジアンセキュリティー?への理解

いい加減と曖昧さへの批評は今どきの合理主義との問題だが、たしかに規格化されて誰にでも納得する事柄は表層の納得になるようだ。

ごく整合性のあるものとはなるが、異民族との関係における普遍性のあるもの、つまり色、食、財の欲望の共通意識においては、表層をなぞるようで何とも的を得ない。

あるときは惨禍や死を共有し、功利性において互いの欲を忖度して交換すら行うこともあるが、ときには相互理解を読み解けない浅薄な人間関係しか構成できず、民族観すらなく国家間において些細な齟齬を起こし、その軋轢が戦争すら誘引してしまうこともある。

よく中国人は面子を重んじ、時として過剰反応を示し、日本人は四角四面で融通がきかない、歴史上柵封された朝鮮民族は好悪が烈しく激情する、など夫々が民族側面の特異について語られるときがある。民族性癖の表裏はときとして特性の優劣を問わず対象との相性によって大まかな歴史として刻み込まれている。

゛どうしてだ゛と問われてもアカデミックな分析評価では納得した答えは導けないものであり、敢えてこじつけても無理を生ずるものである。また、そうそう明確には語ることも憚れているが、漏れ語られるからこそ土壇場には重要な部分にはなるのだろう。






                

満州国総理張景恵は
   「日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ丸くなるだろう」と



満州崩壊の留置場での佐藤慎一郎氏の回顧としてではあるが、毎朝意味もなく朝鮮人を引き出して漢人がいたぶっていた。何故だか解らないが今どきの「虐め」のようなもので、同色民族での異質性や素朴に刷り込まれた看守の民族慣性の行為だったのだろう。

普通は侵略者、支配者、偽満州官吏といわれた日本人がそうされると思うのだが、逆に引き上げ家族に「子供を置いていけ・・」と多くの日本人家族が促されている。混乱期の引き上げで多くの子供が中国人によって命が助けられ、自身の子供より大切に育てられた事実は肉親の情を超えた理屈のない、ある種の良質なバーバリズムにある素朴で純情な選択とも思えてくる。

趣は異なる余談として在日朝鮮の古老の呟きだが、いっとき我が国の好色男子に流行ったキーセンパーティで妓女を世話する俗称 ゛やりて女将゛は「日本人の種をもらえ」と、現地の男子より優先して日本人に世話をしていた。古老もあきれた口調だったが恐ろしきは巣を宿す女性の感覚である。







                 




「この子は日本人だ」と自慢すらされた。これも語るに憚れる話だが在日の中国人の多くに聞くと嫌いな民族は「大鼻」と呼ぶロシア人、次に朝鮮、『日本人ではないのか・・』との問に「いゃ、日本人は中国人に合うし嫌いではない」と応える。面前にした応答だけだとは思えなかった。今とは違い、日本人はおとなしいとも思えるが、当時は従順で異なるものとの調和心があり勤勉だった。何よりも維新とロシア戦勝、真珠湾とアジア有色の先覚の歴史があったことも影響している。それは優しさと厳しさと怖さでもあろう。


一口に中国といっても多くは言葉の通じない人々だ。吉林と上海では通じない。共通語は北京語だ。一昔前は薩摩と津軽ではチンプンカンプン、共通言葉は謡曲にある「各々方(おのおのがた)」、やはり難儀した。

もちろん好き嫌いもあれば反目もあるが、参勤交代、伊勢参り、公家落ち、国替えなどが機能してどうにか調和を構成していた。東アジアでも国家を構成しているなかで些細な齟齬が大なり小なりある。とくに古代より出たり入ったりしていると刷り込まれたように滞留している民族感情がある。

ことさら近代史のなかでの国家間の問題を問うまでもなく、偶然にも、あるいは必然的事情によって棲み別けられた人々の情緒から読み解かれる部分について興味ある応答を紹介したい。




                 





テクノクラートに聴いてみた。
『アジアも植民地であったが、在日米軍があるのはおかしいと思わんか』

「いや、日米安保も沖縄米軍も有ったほうがいい。無くなったらまた日本が軍事国家になる心配がある」

『中国の軍事力は増大しているが・・・』

「中国は幾ら強くても真珠湾はやらない。義には見習うべきものもあるが実利がないものはやらないし、中国人には出来ない。政府は常に軍を背景にして成り立っている。革命当時もそうだが外国に対するものではなく、国内の談笑している仲間にするものだ。おかしな話だが軍の力は武力と金を産む組織だ。それぞれの軍区は貿易会社もあれば武器製造もしているしミサイルも夫々飛ばしている。昔は軍閥があり中央政府が出来たころは功名を競い、いまは経済の重要部分まで浸透している強大な軍に政府も配慮している。ここでも面子が重要な意味をもってくる」


『でも、中国と日本が拘りなく仲良くなって協力したらもっと良くなると・・』

「問題があるからこそ彼等(欧米)にはチャンスがある。資金も技術も人も入ってくる」

『手段、方法は違うがうし、財も職も人も普遍的な欲望だとは判るが、国家としては・・』

「その繰り返しだということも分かっている。でも信じられるのは身近な人情と金だけのようだ。中国と一概に言われても何も解らない。それは中国人といわれても何を指しても当てはまるし、当てはまらないことでもある」

『白髪三千丈とはいうが、蛙が空気を吸って身体を膨らまして破裂した俗諺があるが、膨らますエネルギーと、破裂を抑えるエネルギーはイコールゼロになるが・・・』

「商売は生活でもあり、戯れでもあり愉しみだ。財が幾らあっても余計に落ち着かないし、不安だ。大陸とアメリカと日本に三分割して、縁者は欧米の永住権を取らせているものもいる。もともと国家観はない。ばらばらで砂のような民を湿らして手に乗せる潤いは狭い範囲の人情と財だ。それを前提としての信用だ」






                 





『人にも国家にも面子があるあるが・・』

「面子はたて合うものだ。その前に相手の面子を知ることだ。ぶつからず避ければいい。面子を聴こうとしても話すものではない。解かれば同じ物を食べて飲むだけだ。いまは説明しなければ判らない日本人が増えた、いや説明しても判らないようだ」

『欧米人と似て利のサイクルが早い』

「皆、上を見て様子を伺っている。いつでも、どこへでも行ける様にではあるが、商売は人を信じて出来ない。時と場所で実利を追うものだ。理想や空想は嘘のようなもの、悪党でも力のある者は善にもなる。これが力の論理だ。その意味では世界一自由な民族だ」


『実利が優先するのか』

「もちろんだ。偽満州の日本人官吏は賄賂も取らず清廉なことが多かった。たしかに懐かしくもなるが、下っ端には賄賂が流れてこない。これには参った。北京に進駐した日本軍にはみな面従腹背だった。或る将校が北京市内に百箇所の井戸を掘った。それでみんな落ち着いた。日本人を人間としてみた。実利優先のようだが一番人情を理解できるのも中国人だ」


『今の日本は・・』

「民衆が騒いでいないので良いと思っているのか何ともいえないが、真の自由は中国人のほうがある。あの明治維新の頃は日本人も柔軟で目標があり、アジアの憧れだった。義理も人情もうらやましい。もっとも中国の良い文化が残っているのも日本だ。アメリカは強いかもしれないが日本は上手くやっている。中国はいくら軍備を大きくしても不安を抱え続ける民族だ。日本にアメリカ軍が居る内は安心している。可笑しいかもしれないがそれが中国だ。強いアメリカに逆らっても損するだけだ。だが入ってきたら同化する。元も清も溶けて同化した。誰でも色と食べ物と金は欲しい。中国は全部ある。みな誘われる」


『水のように、柳のように・・』

「強ければぶつからず逃げれば良い、弱くなったら戻れば良い。土地まで持っていけまい。皇帝は舟で民衆は水だ。静かにしてれば浮かべるが、水が怒れば転覆する。でも泥水でも一生そこにと留まるし、渓流が小川になり大海になる。きれいな水も泥水も黙って受け入れる。そして国家を超えて天下、天と地の間に生きる。四角四面な歴史はともかく人は滅びない」






              





『国家は滅んでも人は滅びない。支配者の旗が代わるだけか・・・』

「身体でも硬いところから弱くなる。腰や膝も痛くなる。頭の固い人もそうだ(笑い)。でも柔らかい部分は衰えない。口と舌だ。政治も国も人から離れたり、人も自然から離れたら衰亡する。学歴の無い学習だ。学校へ行くと何かがなくなる。それが裁判官や政治家になったら国家も固くなる。衰える。日本人も中国人が好きなところがなくなりかけている。

日本人の善いところを思い出してくれるだけでいい。面子争いは戯れだ。仲良くなったら困る人もいる。その生き方ではあるが善なる規範を説く孔子も孟子もいるが、自然に生きる老子もいる。色々な主義を持ってきたり、入ってきたりしているが方便として慣れることが必要だ」

                     
                  イメージ写真は関連サイトより

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哲人の出処進退を聴く

2020-08-15 10:46:45 | Weblog

佐藤慎一郎先生
     お別れの言葉

心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします

【心の講義】

最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。
私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。

 私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました.三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを体験させられました。

「吾れ汝らほど書を読まず、然るが故に吾れ汝らほど愚かならず。」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴しい言葉であっても、それが信念と化し、好意と化するまでは無価値であることを知ったのです。

 では教育とは何だ。祖先から承け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の承継である。生命、それは魂と魂の暖い触れあいの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。

 男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親の無い子はなく、子のない親はない。
親子関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。 親子の関係には、自他の区別がない。無条件だ。あるものは愛情だけだ。しかも打算のない愛情だ。真の愛情には終りがない。これこそが人間存在の原点だ。人間と人間関係の出発点だ。私はとくに母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。

自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体視だ。そうした暖いものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが現代の社会に、最も欠けているものの一つである。

学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れあいしかない。道元禅師は「自をして他に同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」と教えておられる。また夏目漱石の「三四郎」とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書がしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」とあった。

そうだ。 これだ。私にできることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体ぜんたいで学生に、ぶっつかることだ。私は拓大に来て一六、七年間、実によく学生と遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。そのようにして私は私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。「口耳(こうじ)の間は即ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の躯を美とするに足らんや」(荀子)である。私は体ぜんたいで「吾れ」を語ったのです。

【食・色は人の性なり】

 私は初めて社会に出て、小学生の先生をした。三ヵ月目で首になった。若い女の先生と海岸へ遊びに行って首になったのです。駆け落ちしたのではありません。自動車で行ったまでのことです。二回目の就職先でもまた半年たらずで首になった。

 誰かの本に、こんな話があった。ある家に青年僧が下宿していた。実によく修業に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらんと、けしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して
 「枯木(こほく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(冬の一番寒い時)暖気なし」と答えて、娘を冷たく突っ放した。それを聞いた母親は、「この糞坊主が」と怒って、青年僧を追い出してしまったというのです。若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一木の枯木が寒ざむとした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも云って入るのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。

ところで、この佐藤なら、こうしたばあい、どういう反応を示したと思いますか。佐藤は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。後始末は大変でした。とにかく私は、女には間違う。始末におえない先生だったのです。「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒(いま)しむること色にあり」(論語)です。

 しかし私には一つの救いがあった。それは最初から最後まで、学生が好きだった。好きで好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。

 ところが、自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため私は自分自身に厳しくした。私は諸君に対して「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」と要求した。この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりとも、おろそかにはできないぞと、私自身にたいする誓いでもあった。そのため私は朝の始業時間よりは、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。そして十七年間、この小さい小さい事をやり通した。「初めあらざることなし、よく終りあること鮮(すくな)し」(詩経)。何事でも初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終りまで全うすることは、むずかしいものです。

【私心を去れ】

 王陽明は「則天去(そくてんきょ)私(し)」天理にのっとり私を去る、と自戒しています。毛沢東は「則毛去(そくもうきょ)私(し)」を要求しています。つまり俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせと要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。

 中国は何十回となく、革命をくり返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することはできなかった。つまり革命のない革命を、くり返して来ていたのです。ところが中国近代革命の目標は、そのような独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上りの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。

毛沢東という人は、かつて三国志の英雄曹操が「俺が天下の人に背(そむ)いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」とうそぶいたように、今では毛沢東一人を以て天下を治め、天下をもって毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。

 とにかく王陽明も「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」と云っているように、私心を去ることはむずかしい。しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう

 殷の湯王が自分の洗面器に「まことに日に新(あらた)に、日に日に新(あらた)に、また日に新なり」(大学)と彫(ほ)りつけておいて、毎朝洗顔する度に、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変った新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し續けたと云われています。

 私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を續けてきたのでしたが、人間ができずして、非常にかたくなな人間に変わった。しかし「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。


【国家衰亡の徴(しるし)】

そうした気持ち現在の拓大を見るばあい淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間数多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、はつらつとした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魄に欠けている学生が多いように見受けられる。

現代の学生は感性的な欲望を追求することはいても知って、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生き通そうとする気概が薄いようである。
人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることができずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。

日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘(じょうじょう)(集まるさま)として皆利の為に往き、天下は熙熙(きき)(喜び勇むさま)として皆利の為来たる」(六韜)
世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利のあるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。
「上下交交(こもごも)利を征(と)れば、国危し」(孟子)
上の人も下の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなると教えています。

今から二千三百年も前に死んだ荀子(じゅんし)が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。
「その服は組」
-人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。

「その容(かたち)は婦(ふ)」
-男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。そして女はついに「両親を棄てて、その男の所へ走る」と荀子は書いている。次は

「その俗は淫」
―その風俗は淫乱となってくる。

「その志は利」
―人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。利のためなら死んでも悔いがないのです。身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。その次は

「その行(おこない)は雑」
―その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。

「その声楽(せいがく)は険」
―音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」、これが本当の亡国だと警告しています。現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく「驕(おご)り亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です。

漁夫が屈原に「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」と問われて、屈原は
「世を挙げてみな濁(こご)る、我れ独り清(す)む」
と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。日本の現状も諸君が歌っているように、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。


【魂の承継】

 私には父から貰った素晴しい財産がある。父は不自由な手で一幅の書を遺してくれました。
 「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う。」
 孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我れにおいて浮雲の如しです。また母の実家の真向いは、陸羯南(くがかつなん)先生の家でした。陸先生は、とくに日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。

先生は
 「挙世滔滔(とうとう)、勢い百川の東するが如きに当り、独り毅然(きぜん)として之れに逆(さから)うものは、千百人中すなわち一人のみ。甚しい哉。才の多くして而して気の寡(すくな)きことを」と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤(しった)しておられます。

 日本は国を挙げて、挙世滔滔として中国へ中国へと流れていった。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ日本人は中国人を、かくまでも軽侮し殺さなければならないのか。私は滔滔とした日本の巨大な流れを、阻止するすべを知らなかった。私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に起ち上る姿に感激した。私はなんらのちゅうちょすることなく、彼らの抗日の波に飛びこみ、「打倒日本帝国主義」を叫んだ。私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。

 弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦のときには満洲国熱河省次長(日系官吏の最高職)でした。八月十九日ソ連軍が承徳になだれこんで来た。岸谷さんは日本人居留民を集めて、「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くして下さい」と別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウィスキーを飲みかわしながら、動こうともしない。人々は再三に亘って、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と促した。岸谷さんは「そんなに云ってくれるなら・・・」と起ち上って、奥の部屋のふすまを開けた。
 すると死装束をまとった奥さんと二人の子供さんが端座していた。岸谷さんは満州と一緒に亡くなったのです。

 さあ、私も諸君から「おれたちの清純な頭に、くだらん講義を詰めこむのは、やめてくれ」、そして「そこを退いてくれ」と云われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
 
 そこで最後にもう一度言う。皆さん、大志を抱いて下さい。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに起ち向かうだけの気魄をもって下さい。生きがいのある使命感に生き通して下さい。がん張って下さい。
 私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
 皆さん、さようーなら。
(昭和五十一年一月二十四日)

佐藤先生 参考資料
http://greendoor2.exblog.jp/

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オヤジの戯言(たわごと) 2013 8 あの頃

2020-08-06 07:48:27 | Weblog



ことさら道徳心や公徳心をあげつらうものではない。
ただ、公徳心を喚起する社会なり国家の運動は、一方でデフレやインフレ、まして景気だと何でもアリの状況で、どこか矛盾することが現れているようだ。

それはいっとき騒がれた民営化にともなう規制の弛みが、いたずらな競争意欲をかきたて、かつ国営時代の独占的支配を、単に法的土俵を民と同様な位置におくだけでその施設や資材、土地の占有などに変化はなかったようにみえる。くわえ有効活用と利潤の追求が烈しくなった。

たしかに親方日の丸からの離脱だが、ことは人間の問題だ。参入障害をのこした独占状態は変わらず、企業は利益追求だとあらゆる手立てを使って多角的に進出している。電電公社がNTT、国鉄はJR、タバコはJT、道路公団はNEXCOと分割され、利潤追求に走っている。アベノミクスとやらで新幹線は延長され、国土強靭化を謳い道路は親延長され彼らの基礎的基盤は強化される。しかも管理経常経費は利用者が有無にかかわらず増大し、いずれ再国有化の憂き目にあわないとも限らない。

しかも分割されたとしても電力九分割(国内九電力会社)同様、原価、経常経費に利益を加えて料金を設定しているように、まず余計なことが無い限りつぶれることはない。いくら民営でも経済・生活の機関となる企業は政府が手を差し伸べざるを得ない、それが日本型の資本主義だからだ。だから勝手にアイディアをつくり占用施設で好き放題、政治家も税金食いに勤しみ、その担保として便宜供与という手心と選挙区へのお手盛りに懸命となる。その族がまた冬眠から覚めうごめいているような時世であろう。

繁華街でJTのメーカー事業部なのがある銘柄のタバコのキャのペーンにミニスカート若い女性を使って販促活動をしている。もちろんピースやハイライト、ショートホープにはなじまないのか洋モクが多い。なかにはF1レースのスポンサーにもなっているが、確かなミニスカートとレースはイメージがいいのだろう。いっそのこと和服の中年女性を使ってピースのキャンペーンは無いものかとも考えるが、箱書きに「タバコは健康上,害があります」と書かれているものを販促する企業もおかしなものだ。

JTだが通勤電車でも近ごろでは女性の化粧、菓子パンの朝食、飲料と観光バスのようななってきた。そのうち便利になった横浜帰りにシュウマイの薫が充満するだろうが、早朝の埼京線下り池袋から大宮までの間で肌つやがわるく眉毛のない女性が、絶世の美女に変身する様子には驚きだが、菓子パンをほおばり紙パックの牛乳を呑みながら揺れる社内の化粧の割には絵筆もずれていない。他の中年女性の一団もコンビニおにぎりを頬張っていた。

これは愛きょうだが、あの吉永小百合さんのポスターで大人の休日倶楽部という企画がJR東日本である。四日間新幹線を含む路線の乗り放題1万4千円というプランもあるが、そこをめがけて女性が殺到する。だが資格は60以上だ。試しに乗ってみたが大宮から嫌な雰囲気がした。

乗車して2時間半で新青森だが、その間車内は男二人。あちこちで嬌声、煎餅の噛む音、植木、ペット、孫、嫁の愚痴、ファッション、ときおり顔を寄せたり小声になるのは同行者の陰口か留守番のオヤジへの愚痴だ。これが到着まで延々と続く。
オッチョコチョイの男は小百合さんのポスターにつられて乗ってしまうが、車内の女性は小百合さんより年下だが、見事な元気さというに云われぬ品性が備わっている。

新青森から在来線で弘前まで行くが、まだぞろぞろ付いてくる。在来線は静かな青森県人。そこでも喧騒が始まり、寡黙な県人と大口を開けて笑う都会の一団が弘前まで続く。
断っておくが、善悪のことをいうのではない。あまりにも目立つ可愛い女傑に驚いたまでだ。それ以来、おばさんの休日倶楽部の安さが判ったのでその時期をずらしている。

駅地下、駅デパ、おばさん列車と新企画で楽しましてくれるJRだが、にぎわいと喧騒は人のモノを運ぶ必須の交通機関としての複雑に気分にさせてくれる。たとえオヤジの戯言ではあるが、便利さとともに金を落とす場所をつくることに汲々としている経営者に妙な品性を垣間見るようだ。消費者が求めているものを与える、異論はないが尻を叩いて絞り出した名案が、一方では安易さを求める大衆の遊惰を誘い、人によっては自堕落にもなりうることを逆賭しなくてはならないだろう。

野にして粗にして、貪ならず、とは石田国鉄総裁だ。満鉄総裁の後藤新平も国家や社会への事業接点を乗数効果での利潤追求だけでなく、超数的効果として「人物によって資材と人を活用する」社会に役立つ経営をおこなっている。つまり企業活動を通じて善導したのだ。

新都心の通勤ホームに食べものと飲料の自動販売機、機会と場所を有効活用のつもりだろうが、ついでに化粧車両と食堂車を通勤電車につけたら便利だろう。
女性は悦ぶ、加えて、男はもっと歓ぶ。

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