まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

一服 憂さ晴らしの学・・・? 2017

2022-07-29 02:22:28 | Weblog





暇まかせに字引をひらいてみると、漢字ではあるが原典とは違う意味もあれば、錯覚なのか、はたまた「そのように呼称せよ」と指示されたような熟語があれば、日本流に作った俗字もある。 漢字は単なる文字記号ではないために意味の錯誤は日本人そのものの印象すら嘲笑の対象にされることもある。

「俺」とは、我とか自分という意味で使われるが、「奄」を見ると、宦官とか門番とある。 碩学は、伸びるものが大という重しに押され申の縦線が曲がった状態で、男性器が折れ曲がって使えない意味だと古老は説く。大陸では我が身を「俺」とは言わないという。

それと同様に「黄門」といえば水戸黄門だが、黄は皇帝色といって高貴な色であり、その「黄門」を守護しているものは去勢された宦官である。
 中国文化特有の文字遊びか、はたまたそのように教えられたのか「俺」も「黄門」も男性機能を自ら切除してまで宮廷に仕え、権勢と財貨を欲しいままにして国家を衰亡に導いた宦官に例えられたとするならば、我が国でも昨今の世情をみれば言い得て妙な呼称である。

そういえば男偏が無いことに気がつく。
一つだけあるが「嬲」(なぶる)、からかう、戯れる、乱す、だがおなじ意味で「嫐」(なぶる)とある。
時代とともに男が女を「嬲る」のか、あるいは女が男を「嫐」のかは世情によって使い分けできる重宝な文字だ。

女ばかりが用を為す漢字の世界だが、「嬶」には倭人らしい知恵がある。 もともと「嚊」が原典であり、意味は“あえぐ”とか“鼻息”ではあるが、倭人男子の知恵で「嬶」という本家中国にもない字を作り出し、しかも「嬶天下」などと持ち上げている。

子供の寝静まった 房中での「嚊」は夫の独占聴取だが、その媚態を見る目から四寸はなれた口から発せられる捨てぜりふが「嬶」とは、華人に匹敵する倭の民の知恵でもある。

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安岡正篤と佐藤慎一郎、そして景嘉   2008 稿

2022-07-24 04:40:45 | 郷学

 佐藤慎一郎氏に誘われたある会でのこと・・・

 壇上から一段下がったところの席に佐藤氏は誰かと談笑していた。真剣さに近寄れない雰囲気だが、ときおり間を置くように破顔一笑している。臨席の老人は斜め横からなので、どなたなのか判らない。

 筆者に気がついて右手を高々挙げて起立した。

 するとその間を突いて白髪の紳士が隣席の老人に恭しく挨拶した。
 紹介していたのは見覚えのある碩学の秘書だった。

 近寄ると慇懃に頭を下げ応答しているのは安岡正篤氏であった。
 傍に近づいたその白髪の紳士を正面から見て会釈した。見覚えがあった。
柳川次郎氏である。もう引退をしてしばらく経っていたが、山口組の創成期に活躍し、そのときは亜細亜民族同盟という組織の後見のようなことをしていた。

 安岡氏の秘書とは入魂の間柄なのだろう、もともと安岡氏は目の前に現れる人物には分け隔てなく丁寧に接する。
 そのためか秘書は自らの関係筋を連れてきては安岡氏に紹介していた。

 佐藤氏は安岡氏の晩年は代講を務め、関係者周知の人物ではあるが面白いエピソードがある。
 毎年、日光の田母沢での研修の晩、安岡氏を囲んで懇親がある。
 通常だと神のようにも慕う取り巻きは氏の言の端を聞き漏らさぬよう聴き入っている。つまり安岡氏の座談独演の様相である。
 たまたま客講を委嘱された佐藤氏が座談に入ると、こんどは佐藤氏の独演になる。安岡氏も興味津々笑ったり、首をひねったり、頷いたりしながら聞き耳を立てる。

 佐藤氏のそれは古典の実利と大陸の古典事情や人間のあけすけな欲望に関連する俗諺などを交えた実体験なのである。なにしろ20年の大陸生活である。
 
 筆者も最後の別れに「頼みましたよ」と後ろ背に投げかけられた言葉に応えようと無恥にも当ブログにも多くの関係文を載せているが、安岡氏の学風とは異なることが多くある。明治の気骨を前提にしたものだが、それぞれが陰陽を交互に携えている。

 佐藤氏は社会的には無名、これを陰(地)とするならば、行動あるいは言語表現は陽である。安岡氏は逆である。
 また佐藤氏は「ありがたい」という言葉が印象的だが、安岡氏は無言でそれを説く。

 それは世俗構成された人間像に対する自己律が言葉を選ぶこともあろうが、佐藤氏は大陸経験の中でも、とある人との過ちについて、゛漏電゛と称しているが、曰く、安岡さんは「枯木寒岩(極寒の岩山に立つ枯木)」のようだと形容し、晩年の占い師の件も「人間であってよかった」慶んでいる。また時折脇の甘い部分についても本人に密かに呈することがあったようだ。

 その佐藤氏だが晩年になって易経を学んでいる。しかも授業料を払って景嘉という清朝の縁にある方に通っている。
「難しい・・」
 流暢な北京語は現地人すら日本人とは判らず、古典を暗誦し、地に伏し、戦禍にまみえた佐藤氏であっても景嘉氏の説く「易経」の深遠な意は引き込まれるものがあったのだろう。

 その景嘉氏だが道教の養生術にも長けていた。
 あるとき、「佐藤さん、これはイイよ」と見せてくれたことがあった。
 見ると人が入るほどの隙間に机を寄せて身体を両手で支えて浮かせ、下腹部を露出して陰部に重りをぶら下げていた。佐藤氏は「そういえば・・」と続ける。
「以前、玄洋社の末永さんを尋ねたら褌もつけず素っ裸で庭を掃除していた」
驚きもするが、゛さもありなん゛と納得するものが佐藤氏の大陸生活にはあった。

 その景嘉氏は安岡氏との交流もある。形の上では授業料は無いだろうが、ここでも教えを請うている。
 だが、その景嘉氏も中国人にはない人間の姿、つまり明治の日本人の矜持を佐藤、安岡両氏から無形のものとして受けている。

「景嘉文選」や清末の哲人、梁巨川を記した「一読書人の節操」などは民族を超えた亜細亜の意志を表わしている。

 それは偶然 佐藤、安岡両氏からも薦められたものでもある。

 なかなか間(ま)を観た各氏の交流だが、この意志は現在在日中国人によって大陸に還流され多くの反響を起こしていることを明記しておく。


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人間考学から「伸びしろ」をみる 13 ・ 8 再

2022-07-20 01:38:54 | Weblog

新聞の読み聞かせ  バングラデッシュ



多くは「容」「像」「体」から読みとる人物像である
「容」は相の具合だが、顔色はもちろん柔和とか溌剌感、目線の落ち着きや口元の締りだ。
「像」は容に加えた雰囲気だが、仕草やたたずまい(佇まい)、もしくは圧倒的な威力や謙虚さに観る姿だ。そして「体」は言うまでもなく身体の歪みや緩慢な動作など気力衰退や患いから発する形だが、容と像は体との調和として表れる解り易いイメージと考える

もし相も悪く気分は弛緩して行動が緩慢な人間に財や知恵を付加したkらどうだろう。
まだ元気溌剌で柔和な貧乏人の方が感覚を震わせる
それから先は相手の説明や行為から知ることだが、往々にして金と地位とその継続性を詮索することでその価値の優劣が決まるようだ。近ごろは金持ちの未亡人や熟女狙いの狡猾な男が増えたようだが、見えるものが見えなくなった一過性の遊戯なのだろう。

さて標記の、゛伸びしろ゛だが、浮俗の観点からの推測とは異なるものだが、幅を許容量なり器と考えると解りやすい。可能性ともいえるが、ときに想像を超えた飛躍もあるが、俗では大きく化けるともいう

近ごろは体型に合わせた立体裁断やフィット感覚のオシャレが流行りだが、子供のころは成長のはやい身体を想定して大きめのサイズを着せた。一昔前の衣装の縫製はアゲやマチをあらかじめとり、成長時にほどいて着せていた。つまり、想定した伸びしろである。

よくスポーツでも「あの選手は伸びしろがある」とか、逆に「頭打ち」とかいうことがある。
とくに一人前になるまで期間が掛かる力士などは中学生のころから目利きの親方が部屋の存亡をかけて新弟子の発見に血まなこになっている。

ときに異民族の力士をスカウトしてくるが、あの横綱白鵬もモンゴルの背が高いが痩せた男の子だった。逆に出来上がった既成品ではないが大学相撲の優秀力士をスカウトするが、よくいわれる、出来上がって伸びしろのない力士も少なからずいた。
多くは親方の目利きと指導力、くわえ先輩力士や裏方を仕切る母親かわりの女将さんの援けが左右するが、狭い範囲の掟や習慣にある濃密な人間関係に多くの理由がある。

伸びしろのある逸材はあらゆる世界にある。政治や経済、はたまた任侠の世界など人物次第によってその組織なり社会の興亡が大きく変わる場合には、その伸びしろを見抜く将来観と、゛そもそも゛という本来の姿を維持継承を目的として、その意志共有の有無を人物観の座標とする先達が必要になる。

あの白鵬の横綱としての仕草や発言などは単なる格闘技のチャンピオンとしての荒々しさだけでなく、その世界の歴史を知る者だけでなく社会に模範的人格として自らを自制している。つまり相撲界では剛だけではなく心技体(容像体)といわれるような総合力が横綱になるための人格の伸びしろなのだろう。





医者いらずの療法  それにしても、゛欲張らなければ貧しいとおもわない゛とは




それにつけても現在は部分に拘泥しすぎるきらいがある。
それは解り易い表現こそが部分の有効性を示す手段との認識から、特技や特徴の誇張した表現が政治演説や学説の論争など、長いスパンでみれば一過性や途上の切り取り議論に終始する姿にみることがある。

スペシャリストも必要ならゼネラリストのもつ俯瞰性を含めてプロデュースする人物の必要性が問われているが、解り易いだけの証拠の投げ合いでは、より混沌とした世界を作り上げ、それが眼前を覆い尽くすこと(情報過多)で、より茫洋な社会観を構成し、終いには何でもアリの様相になってきた。

それは伸びしろではなく、頭を衝く(限界)ことで柔軟性をなくし、対人許容量も乏しく、より解り易くリアルな表現を求めるようになってきた。そこで技術の領域ではバーチャルリアリティー(架空現実)がより有効性を発揮して、人の感情を均一化し、さらに思索力と観照力が衰えた人々は安易に流行便乗という安逸さに浸り、選択と判断さえ待機状態におくようになっている。

伸びの「しろ」は狭くなり、放埒した自由さえ囲われた既定の範囲におかれ、かつそれさえもオボロゲニなり、自暴ならずとも自棄にある諦め観すら漂わせている現状がみえる。
このコラムではよく「習う」ことより「倣う」ことを推奨している。

つまり、自意識が衰え怠惰になり、他に解決を求めることではなく、感動や憧れを求めて対象から倣う、汲み取ることがなければ、自身にあった伸びしろさえ、ときに自虐的になったり批判したりするようになりかねない。
前記した作為的な流行便乗さえできなくなり、自滅状態に陥ることもある。

よく夢はなにかと尋ねられるが、「恥かしくて口に出せない」と小生は応える。
それは伸びしろのどこかに夢が潜んでいると思うからだ。それと、人と異なることを恐れないという古人の教えを倣い、あえて天の邪鬼として人生を編んでいるからだ。
その編んだものを身の丈に合わせて装っていたいのだ。

つかみどころのない可能性、太陽黒点のような地場の発揮と吸収性、そんな茫洋な世界にも定理があると、たかだか人間の浅慮で追い掛ける愉しみは、自身の伸びしろの有無を眺める気分にもなる面白さがある。

いわんや、その伸びしろが先端まで届かなくとも嘆くことはない。

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門田隆将のフルスイング  あの頃  08 2 1

2022-07-18 01:10:41 | Weblog




先日、門脇(門田)さんから氏の著書「慟哭の海峡」に記した台湾南部の潮音寺で慰霊祭があるので、との誘いがあった。
じつは、その前に戦前の台中の霧社であった事件の慰霊にも誘われた。両方とも門脇氏が記念講話をするという。
同伴する予定だった門脇氏の土佐校の先輩の諸都合もあり筆者も遠慮したため、8月2日の潮音寺は行こうと思っている。








「ところで、小泉君がアナタの愛読者だと云っているが、会ったことあるのか」

『そうらしい、演説でも言っているらしいが、まだ会ってない」

「実は台湾映画のKANOのことで彼も関東学院野球部、アナタも少年野球のコーチで、お互いに台湾に関係が深い。できれば21世紀の枠を作って台湾選抜を甲子園に招待できないかと思っているのだが・・・」

『選抜は難しいとおもうので、エキジビションならいいのではないか・・・」

「ともあれ、お互いに有名人なので動けば話題になるし、オリンピックより感動を起こすはずだ」


津輕か気に入っているのか『青森の人たちは慰霊祭に行けないだろうか・・・」という。
「8月のその頃はねぶた祭りで動けない、日を動かせばいける」

『ということは、三村氏(知事、新潮社出身)も誘えないか・・・』

永年の付き合いで淋しがりやなのはわかるが、それが取材対象者、とくに心ならずその境遇になった方々の立場に自らを没入する心根はなまじの物書きではない。その変化はフルスイングの主人公、光市の母子殺害事件から太平洋戦争三部作、根本中将、吉田所長、そして慟哭の海峡と対象が変化はしても、根は己にも潜在する「独闘」と成さねばならぬ使命感を同感するからだろう。

某市の首長から地元の賢人を小説化してほしいとの話があり、相談が来た。

「いまの活動を継続するには、いま小説を書くことは勧めない。ノンフィクションだとか表現の自由だと云いつつ、人の暗部や秘め事まで書き連ねる売文はいるが、人相も悪くなる。今までの地を這う取材と対象者の苦悩に共感した情緒すら衰える。まだ小説は早い。」

ちなみに明治の頃は小説は、今の漫画の類だった。だから彼には陸羯南を倣うとともに売文の輩にならないようにと老婆心ながらお伝えしている。





「フルスイング」 高畠導宏 氏



根本中将



吉田昌郎所長


08 21/1 本稿

先日、NHKで始まった「フルスイング」の原作者である門田隆将氏から、『明日からです・・・」と前日メールが届いた。

原作は「甲子園の遺言」であるが、氏にとっては2作めである。
氏は数多週刊誌のある中で、見開きにヌードのない稀な雑誌の役職にある御仁である。たしか某外務大臣や○○○ハウスの代議士を辞任まで追い込んだ筆法で有名な雑誌だが、これとて少々センセーショナルだが権力に抗する意味では、在って然るべきものだ。なにしろ前記を取り上げたときは百万部に届くほどの販売があったほどだ。

筆者は「売文の輩、言論貴族にならないよう・・・」と何時も言を呈しているが、「甲子園・・」の数年前、彼は「裁判官は国を滅ぼす」と名を打って出版している。今どきのことゆえ有名選手を入れたスポーツモノの方が商業出版向きかと思うが、部数はともかく前作のほうが秀いでいいる。

あるとき、「これから行ってもいいですか」と深夜、突然電話があり友人と来訪したことがある。同行は某新聞社の文化部長。
来訪の意味は座標の探索である。来訪される方からすれば「伺い」である。

彼は筆者の講釈?が自然に入ってゆく許容と忍耐?がある。
「俺のところは地を這う取材で、完結主義だ。自分で取材して記事を書く。分業ではない。しかも少人数のチームだ。ところがアナタの所は何十人も抱えて俺のところに追いつかないではないか・・」


某新聞社の部長は
「なかなか組織が大きくなるとそうは行かない。人も育たない」

筆者も
「アタマに解説委員が多くて元老院のようだね。若い記者は感が衰え、大本営発表ではないが警察や政府の情報取得と、情報源としての間の取り方がおかしくなっている。大衆は写真誌や雑誌に真相を見ている傾向がある

だが、週刊誌も問題がある。地を這うことは情報源との接触をみつにしなければならない。交換条件も出てくる。一局の問題を面白く書くのもいいが、大局で見ると、ガス抜きや巨悪を泳がせる危険性がある。ただ、出たら叩けでは江戸の瓦版になってしまう。ちなみに警察の汚れた実態は大衆も、゛江戸の仇、長崎゛で口を封じているが、ネタ元の汚れは見過ごすのかね」



両氏とも下座観がある。しかし齢を加え、食い扶持の安定度が高まると同じ穴に入り込む危険性もある。しかも第四権力の雄といわれるマスコミの先導者だ。





荻窪団地 23号棟 3階  佐藤慎一郎氏のところには筆者と幾度となく訪れた
当時、門脇氏は「張学良」が研究対象だった


氏とは永年に亘り色々なエピソードがある。また生業を違えて意を語り合うこともあり、多くの問題児?を同行訪問する。
もちろん社会悪について、日本人についての根本議論もある。

少々戸惑うのは、左翼政党の除名された有名人や某巨大宗教の仇敵ジャーナリストを連れてくるときだ。ことさら困るわけではないが、一方ことのほか楽しい。
ただ、その関係の偏狭な支持者は妙な思惑で筆者を伺うのである。

除名者はそれから度々、連絡をとるようになった。それは戦前の歴史と筆者の研究との交換議論の為である。

これからも期待を持てる彼だが、ペンは剣(権力)より強しとはあるが、筆者から観ると食い扶持が問題だ。人の様相を見るのは楽しと俗にいうが、偽謀が己に降りかからないとも言えず、早く退社して文筆活動に専念してほしい。なにしろ、彼の自宅のごみアサリ、尾行もあるという面倒な仕事だからだ。

筆者も膨大な未公開資料の出版を某新聞社から促されたが、
「いゃ~、名が出ると・・」
「いいじゃないですか」
「いゃ、世に名が出ると、゛好きな色と歩けない゛」

筆者なりに期と機を勘案した,いやらしくも、偏屈な断りの戯れ言葉だが、知人もその言葉を盗用していると聞く。

そんな時、ふと、彼のことが頭をよぎった。

そろそろ浮俗を、゛見る゛のではなく、゛眺めるように゛と


(イメージは関係サイトより転載)



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土佐の咬ませ犬といわれた男 門田隆将のあの頃

2022-07-14 17:26:10 | Weblog



              
令和4年7月14日、筆界の安倍派?で旧知の門脇護(筆名 門田隆将)氏から久しぶり電話があった。

まさに彼の現在の筆風であり、依り処でもあった元総理の安倍晋三氏が亡くなった直後でもある。

内容は小生の師であり当ブログでも再三取り上げている佐藤慎一郎先生の菩提寺、弘前市寺町川龍院の所在を尋ねられた。

 

佐藤慎一郎氏

 

彼の電話は手に取るようにその姿がわかる。新潮敏腕記者として少し高邁のようだが冴えていた頃、退社して将来を模索していた頃。

本が売れ始め昇り調子だった頃。出版不況で講演に勤しみ、新潮縁故の桜井よしこさんの縁で安倍晋三総理との邂逅したころ。

その後の安倍シンパの雑誌に寄稿し、そして大樹が倒れた現在の音声など、さまざまな心情が読み取れる。

安岡正篤氏は「音声は知性を表す」と、つぶやいたが、今回はなぜか気弱だが、より彼の醇で好漢さが察しられる声だった。

それしても、色々な姿を見せてくれる漢だ。

大樹もそうだが、なぜか周囲には気が小さく、今を巧みに読み取れる人間が集っている。そして大樹の表皮を保護し樹液を養分としている当世知識人が多かった。

彼は筆者を思い出して、師の菩提寺について尋ねてきた。

生前、師は門脇氏に、「新潮は瑞々しい立ち木を切る、それを朝露のごとく生命を感受することだ」と伝えたことがある。

是非、新たな道、つまり世間が括目するような生き方に入道して欲しい。

そう期待して旧稿を掲載することとしたい。

 

彼の講演誘われて台湾高雄へ

 

前段再掲載 後段2012/3


昨晩、週刊新潮の門脇護氏の卒業式?が行なわれた。
書かれるほうからすれば憎っくき週刊誌のなかでも完結主義といって、地を這う取材、記事起稿を行なう新潮社の姿勢は、見開きにヌードグラビアを綴じ込む他社とは異なり硬派的な雰囲気がある。

「土佐のかませ犬」「狂犬」とも呼ばれ、社内でも鉄拳を振るうこともあった。また取材の綿密さと、言い換えれば、゛しつっこさ゛は群を抜き、その視点はバーバリズムの良性にある素朴と純情を軸として、裏面にある凶暴?さをも駆使して出版界の侠客ならしめているようであった。

夜中に訪ねて来ては同行の新聞社の社会部長に向かって「あんたの所は60人だがウチの十数人に敵わないのはどうしてだ・・」とサラリーマン体質と弛緩した大新聞の姿勢を問い、あるときは共産党の大物除名者を同行して「記事を書いてくれるよう言ってくれないか」と助力を求めたり、創価学会の敵役ジャーナリストを連れてきて「今日、裁判に負けてしまった・・」と、忙しい狂犬でもある。

直接依頼も多く「誰々を取材したい・・」あるいはノンフィクション作家佐野真一氏に満州秘史の取材を依頼されたときも、「伝えられる範囲は任せるから・・」と数時間の取材聴取に時を費やしたことがある。

その門脇氏が「門田隆将」と名を変えて「裁判官は日本を滅ぼす」そしてNHKドラマ「フルスイング」の原作である「甲子園の遺言」を書いたあたりから新潮社を卒業?する腹をかためたようだ。
数年前に傾いた老舗週刊誌の肩代わりを尋ねてきたが、その頃からの独立志向だったのだろう。

卒業式は桜井よし子、花田元文春編集長、屋山太郎、筆者と駄洒落仲間の塩田丸男など商業出版の売れっ子や、なかには売文?言論貴族?など多士が集った。

 

        

フルスイング     根本中将

よく、゛宴の後の悲哀゛というが、脛に瑕(キズ)をもつ門田氏のこと、池から跳ねた鯉にならないよう祈るばかりだが、宴末の謝意に『日のあたらない処に生活する立派な日本人を書き遺したい』との意思表明は、参会者から即セキュリティのガードが固められたといっていい意志ある集いだった。

逆に追い出し?を掛けた新潮も、田中真紀子、鈴木宗雄を辞職に追い込んだ誌の筆鋒が緩まないか心配になる

同日、別の約束で中野有(ブルッキング研究員)と神楽坂の蕎麦屋でのこと、突然門脇氏が飛び入り「朝から何も食べてない、腹へって・・」
緊張しているせいか、当日の主役も落ち着きが乏しい。
中野氏と初対面で卒業式に参加することになり、旧知の桜井よし子氏と回顧に話が弾み、「京都ダボス会議」の提唱で盛り上かった。よって中野氏は新幹線に乗り遅れ京都にもどれず・・・

ともあれ無事に追い出し卒業式も終わったが、余談がある。当日のビデオカメラにテープが入っていなかったとのこと。あの桜井よしこ女史のスピーチだけは残しておきたかったと筆者も残念に思う。彼の怒ること、慌てること、人生の慙愧と拝察する

自宅のローンも終わったようだし、落ち着いたら一人旅でも促してみたい。








皇帝溥儀と工藤忠





2012 3/14

その門脇こと門田隆将氏が講演で津軽に行く。

あの卒業式のあと日の出の勢いで出版界を走っている彼も、近頃では文化人として講演活動も充実してきた

「是非、山田良政の墓前に参りたい。そして佐藤先生の墓前にも・・」

まことに侠気豊かな気分いい土佐っぽである。

佐藤先生とはこのブログに度々登場する佐藤慎一郎氏である。門脇氏との縁も佐藤氏を紹介した時からである。

その当時、彼は「学さん」と呼んで張学良氏を書き残そうと意気込んでいた。
台湾取材の後、連絡があった。

「あの革命忠烈祠にあった山田良政の写真が外されているのを知っていますか」

津軽弘前はその山田兄弟と佐藤氏の生地であり、辛亥革命の聖地で台湾政府要人も度々訪れている。

また、満州皇帝溥儀の秘書長の工藤鉄三郎(溥儀の命名は忠)の生地には記念館もある。

その工藤、佐藤両氏が戦後満州秘話を録音した大量のテープがあったと門脇氏に伝えたところ、またエンジンが動き始めた。あの根本中将や太平洋戦争三部作など歴史にうずもれた偉人を著わしてきた門脇氏だが、今度のターゲットは「満州と工藤忠」になりそうな気配だが、そのテープの発見が大変だ。

満州国とは・・・、そこでの日本人は・・、その多くの証言は任に就いた人々の多くの縁は津軽にある。門脇氏もそのことは先刻承知だ。

温泉に浸かって酒を飲む、もちろん多忙な彼には最善の促しだが、取り組んでもらいたい期待もある。

土佐の咬ませ犬が、明治の言論人陸羯南の生地で何を学ぶか、彼の揺るがぬ基軸がそれを活かすだろう。

若いころ、‘売文の徒に堕すことなく、羯南を鑑として真の言論人を志向すべきだ‘と促したことを想起する。

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疲弊する国家  良くも悪くも、多い少ないも   08 5/23 あの頃

2022-07-14 08:50:15 | Weblog

 
      国会で舌鋒火を噴く「切腹問答」を行った浜田国松氏


ここでは人間の問題、とくに群れとなった人々の生き方について、明確かつ隠蔽されたかのように矛盾をはらんだ事柄について記してみたい。

それはある隣の酒席の話だが、ことさらコソコソ話をダンボ耳にしたわけではないが、妙に納得した会話だったので紹介します

『ところで公務員は450万人といわれるが、隠れ公務員はそれと同じくらい居るが、家族3人で2400万。隠れ公務員というか税で生活している人のには、各種天下り法人、外郭団体、あるいは民間法人を設立して食い扶持を公共に特化している組織もある。近頃では駐車違反の摘発をする「民間」と称する警備会社もある。

ともかく、税や手数料ほか特別予算に依存している組織や人間が多い。

これが問題の高給取りで待遇は抜群。定年後5年間の臨時雇用と公務員共済。指定旅館は半額。1千万クラスがゴロゴロいるが、互助組織のように格差も少なく広く厚く潤っている

 

   

青森県  岩木山


よく議員が欧米を例に出すが、それらはタックスイーター、別名(税金喰い)、ちなみにそれに対するのはタックスペイヤー(支払い組)と明確に分けている。
たしかに皆税金を払っているといっても、税金を俸給にしているものとは区別すべきだ。とくに支配的位置にいるものにとっては分別が必要だ。

ところで1000万人は例の160時間というもので,平均年収200万として時給は1000円。他に諸々税金を払っているのは2000万人、これで子供年寄りを除いた就労者人口だが、これ以外はパブリックパラサイト、どう見ても給与と待遇の格差はとんでもないレベルで広がっている。

脆弱になった感のある日本男子が5,6人で世の中を語ったとすると、政治やその構造、外交、教育などあらん限りの問題を出して、「どうにかしなくては・・」と言ったところで、まず2人は、「このままでいい・・」と思うはず。』

どこから聞いて、考えたのか、データーの信憑は公表されてはいないが、隠し屏風の奥の話の為に興味が沸く。

いくら政治家が大義を語って騒ぎたてても、どっこい自由と民主の国である。
食い扶持までは口先が届かないし、唇寒しの状態である。

あの江戸でさえ、武士は高給とりだった。
近代化といわれても、その構造には変化は無い。とくに立身出世で妙な「学歴」という看板をつけると中身はともかく財が入る。それも上下隔てなく賄賂、腐敗がはびこる。

だかその手の人間は妙にみみっちい。
あの防衛省の守屋殿も莫大な調達をしながら、ねだり女房のゴルフと買い物の業者付け。政党政治家も明治のシーメンス事件もあったが、どれも数億、数十億止まり。道路利権から公園、施設などの土建政治も3%と聞くが、これも嫉妬の対象くらいでみみっちい。

         

 

隣国の歴史には国の税収の3年分を掠め取ったものもいる。
毛沢東はお金にきれいだったというが、自分の国から掠める必要も無い、全て人の命も自分のものだ。

できる人間には、金で済むなら莫大な財を支給しても、おつりは来る。
たとえば、世界のグランドデザインの一端でも描けるなら・・・
しかし和製官吏はその意欲も無ければ、ただ生涯賃金を計算する人生を送っている。

当時、建設省や大蔵省など利権を持つ組織の役人のなかで、女、金のスキャンダルが激しそうだが、弁が立つものが居ると総抱えで政治家にした。いや追い出したといってもいい位の隠し通せない行状がある。

建設省出身の議員などは道路公団の役員とつるんで別荘、すし屋の女将など業者を財布代わりにして利便を図り、二号さんは日本人でありながら金髪、カラーコンタクトをして業者に車をねだり、指名業者の口利きまでしている。
その本妻にばれたところ、二号は「アナタの生活を維持したいならお黙り・・」と啖呵をきったが、本妻は怒るどころか天秤のメモリが欲にブレて引き下がったという。その議員は今でもテレビに映るが参議院のジゴロタイプの悪相である。

「年収300を楽しく過ごす法」と森永卓郎氏は数年前の本で仰せになったが、今は200万に突入している。問題を提起すべき言論マスコミも大前提の病巣には口を封じ、政治も機能せず、「狡務」は順々と時を刻んでいる。

     

石油や円のような要因もあるが、国家の富は生産田には染み込まないシステムがある。大勢の教育母は子供に「公務員になりなさい」と連呼する。

つまり「良くも悪くも、多い少ないも」食い扶持に口を出しにくい世界なのだ。
また考えることも、観照することも「説明」することを拒否し、隠蔽し、かつ国家全体に網の目をもち、バチルスのように食い荒らす群れは、宿りが消滅するまで侵食することを止めないだろう。

そんな公務員に褒章をねだり、御上御用とばかり充て扶持公職に嬉々する民間人も無くなることはない、妙な瑞穂の国の民癖である
政治家も論の冠に、「一部だが」、「全てではないが」とはいうが、江戸の敵は長崎のたとえで恐れがあるようだが、「群れ」であることは事実だ。

あの西郷は「こんな国にしたかったわけではない」と慚愧。
また、明治天皇をして「人の上に立つて世を治める「相」の存在なくして国は興らない」とその輔弼たる教育のありようを諭している。(聖諭記)

たしかに人間の尊厳を護持するという命題は政治家のみならず官吏、国民にその任はある。しかし「生命と財産を守る」と掲げる政治メッセージは、何の為に生命と財産があるのか、またそれを予算分配の「養い」とするのみでなく、「教え」としなければ、「教」「養」一体の「教養人」とは成り得まい。

安定した食い扶持は、それをも死語にしてしまったのだろうか。

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「義」は人の大本なり          08.6稿 再

2022-07-11 06:23:25 | Weblog


          ベンガルの義人 シャーカー氏


昨日は「利」でした。
生活には戸惑いのあるものですが、「義」を理解すれば「利」の効用があるようです。
 浅学非才の若輩なれど、身の程を忘れ、先人、師、恩人の言を無断で活用いたし、いくばくの利他の増進に役立てばと考え、かつ世代の役割を感じつつ記してみます


「義」について
 
「義」は羊と我の合字です。羊は古代いけにえとして神に献上した習慣から吉祥だとか善などの意味が含まれています。ですから、 善い、正しい、と解されています。

 「事宜を知り、恥を知り、為すまじきをなさぬは義」

「義は人の大本なり」(准南子 人間訓

 義は無条件で正しいとおもうことに我を捧げることです。それは、人間のあらゆることの大本であり、根本であると定義されています。
 
「義は己の威義なり」(説文)といいます。
 威義は、その人の修養の程度によって、その人の体から自然ににじみでる、厳かな畏敬すべき徳のことです。

例えば、政治で云えば国会議員から町会役員まで。あるいは、社長から従業員まで誰にでも平等に生まれながら保宥する才能でありますが、地位、財力という属性の虜になり、本来の公的目的を欠落させることは、まさに「義薄し」であります。

 安岡正篤先生が、終戦の詔勅に「義命の存するところ」と挿入した意味がそれです。「時運の赴くところ」と記されたものを、あうて「義命」と添削したが、当時の閣僚が、難しい、意味が判からない、ということだけで「時運」(風の吹きまわし)として発せられました。

 「義」とは、日本そのものの姿であったのです。さまざまな評価はあるが、戦を挑んだ国家が、単に時の流れのままに、なんとなく戦争を行い、なんとなく敗けたのでは、日本人としての意義が失なわれてしまうと考えるのも当然の事でしょう。

 天皇が敗戦后、米国大使館へはじめてマッカーサーを尋ねられた折、堂々とした態度で「我が兵は良く戦った。しかしながらこのような状態を迎えたことは、私一身の責任である」との意味の言葉をお述べになり、マッカーサー司令官に堂々と握手を求めた。(元宮内省 松前氏伝)
 
 あるいは、佐藤首相が米大統領面会の折、通常ですと執務中せいぜい5分か10分の面会時間しかない、当時の両国の状態において、帰り際に首相が大統領に向って 日本の武士道と騎士道の共通な意義を話したところ、1時間近く延長されたとのこと、戦争における敗者と勝者がそれぞれの民族の特性と優越性を認めあいながら、人間が人間として互いに、その民族の伝統的徳性を惻隠の心で称えあうことは、それぞれの市井における国民を背景とした英知ある指導者の姿です。
 そこには、自らの命を賭した国家の義があります。
 

 歴史は、その時々の現象評価も重要ではあるが、東京裁判におけるインドの国際司法家、ラダ、ビノート、パルは「時が、その熱狂と偏見が過ぎ去ったあかつきには、女神は秤の均衡を保ち、多くの賞罰にその処を変えることを要求するだろう」と述べています。
 永い東洋の歴史観から、裏打ちされた東洋民族の大義が唱えられているようです。



「仁は人、義は我なり」(段注)です。

「万物みな我に備わる」(孟子 居心上
といっているように、万物は同一の原理で貫かれているという事でしょう。
それほど「義」とはとは大切なものです。

 要するに、人間の正しい道の根本なのです。
 当世は、時と、場所と、解釈などで都合よく考えられる「義」ですが、知、私欲で考える属性理論では決して触れることがないものでしょう。

 浮俗の流れに逆らう、体制に随がわないなどと、生活する上で具合の悪い「義」とおもわれがちですが、孤高に甘んじ、平常心で、世の中の公利を心に宿せば「義」は黙っていても寄り添い行動に表われます。現代では大勢を恐れぬ精神に「義」は宿るようです。  

義憤や義勇は他に望むものではありません。誰でも、生まれながら内包しているものです。 ただ、平和遊情、怠惰に過ごすと義は存在すら判からなくなることも事実です

【誠の「利」とは】

誠の利のあり方について、「利を興すには、一害を除くに如かず」とは元の宰相、耶律租材の言葉だが、法を重ねることによって社会は硬直し、既得利権として官吏に運用されると、民衆の怨嗟は運用官たる警察官、税吏に向かい、終には対立を招き権力転覆することは歴史の栄枯盛衰を紐解くまでもなく、枚挙なき官吏の性癖です。まさに、紫禁城は禁ずることによって利を招来する宮でもあったようです。

前記で述べたが、団塊の世代といわれるものの定年を迎え、OBの充て職先に苦慮する現役官吏の苦労は大変だという。外郭団体や法人も、そうそう玉突きはできない。ならば法の運用を手伝わせ罰金徴収に充てようと、警備会社を乱立させ、資格を得た民間として罰金徴収係りにするという。

納税者に身近な場面に現業としてアテ職を作るのはたやすいが、退職税吏も税理士として一定の顧客を斡旋してもらいながら肩たたき退職の食い扶持に繋げていると聴く。

官吏の様態は世界共通のようだが、止むことのなき繁殖力に抗する手立ては、未だ見つかっていないようだ。
身近に共通することは、我国での母親の教育目標に顕著に現れている。それは、「いい学校へ行って公務員になりなさい」という言葉だ。隣国には科挙があり、韓半島での受験の激烈さは、利学、術学の教育に堕落している。

「禁」は複雑な要素によって形成されている国家の連帯や、自省を前提にした最低限の規範であろう。また予算にまで計上される官吏の賂でもあろう。そのことは反面、民心に義と緊張感を発生させる社会の循環学習である。
生身の人間が生活している社会では、当然ごとく存在する「ほど」のよい仕組みではあろうが、なにか間尺に合わない現象でもある。

隣国の開放という政策は収奪した権利を手放したに過ぎず、我国の規制緩和や改革も、手に負えなくなった施政の肩の荷下ろしのようで、耳障りのよい大義の美名が蔓延っている。

自己制御、克己心があっても、利のためには罠がある。

食い扶持、貰い扶持に邁進する狡猾な官吏の下、禁の土壌はより巧妙に利を生ずるシステムとして止め処もなく増殖している。

まさに人心微か、仁薄く、義亡しの様相である。


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数寄屋橋の鬼に酔わされた

2022-07-05 14:14:04 | Weblog

教員免許など無用 大学校にて

「大学の道、明徳」 自身の徳(特徴や意志)を明確にする学び舎(大学校)で、自己を語る。

2008   記


赤尾敏氏を知っているだろうか。
この様な書き出しは筆者の出自や思想を云々されそうだが、その云々の無用さを赤尾氏のエピソードから記してみたい。

銀座数寄屋橋の街頭で、通称、街宣車(ガイセンシャ)の上で仁王立ちになって演説していた民族運動家である。

筆者は赤尾氏の自宅兼道場に伺ったことがある。たしか知事選に立候補した時の選挙の真っ只中、夕刻の7時であった。

紹介者とはいっても、安岡氏と懇意な岡本義雄氏である。「赤尾さんに会いに行く、君も来なさい」いつものことだった。

強引にも筆者を文京区白山の安岡邸に誘い込んだのも、今回の赤尾氏に連れて行ったのも岡本氏である。

好奇心もあったが、そのたび明治人に面白いように転がされる戦後生まれの若僧にとって、無駄な官制学校歴を忌避したことによる縁の導きに、学びの体感、あるいは肉体に浸透する学びの心地よさを提供されたようだ。


場所は大塚の造幣局の裏手に在った。
面会は木造の30畳ほどの道場だった。

道場は正面に祭壇を設け、その檀には神霊とともに山口おとや氏の遺影が祀られていた。見回すと鴨居の上に日蓮、マホメット、キリストの大きな掲額がある。
総じて質素である。その印象は昨今の右翼、民族派の一部にある、こけおどしにも見える形容とは異質の佇まいだった。

「やぁ」
秋も深まり、広い道場は暖気もないが赤尾氏はワイシャツ姿で筆者の正面に正座した。面会を促してくれた老人とは旧知なのか政談が5分位あった。
ともに意気軒昂、勇ましい言辞が飛び交う。
割って入り込む隙はないが、意は理解できる。

「山口さんのデスマスクが祀られていますが・・」
突然の挿し口だった。

「山口君は此処での僕の会合に来ていた。いつも端のほうで座っていたが、アノ決意は知らなかった。だが僕の意見に共鳴した若者の行動は、僕の行動だ。僕にも責任がある。彼は立派だった」
はじめて聴くことだったが、師弟の一期一会の緊迫感とその凝縮した意志の投影はアノ行動の根底を映し出すのに充分過ぎるほどの内容だった。

「こちらの掲額は・・」

キリスト・日蓮・マホメット

「みな共通していることは命がけの言論を説いた偉人だ。今を見てみなさい。自由だ、民主だと騒いでいるが、みな己のためだ。自由にものの言える世の中だが、誰も言わない。なにも命をとられることもないのに、まったくだらしがない。ここの彼らは言葉が命だった。しかもそれを信ずるもののために生命をも奉げたんだ・・」

ついつい宗教の混交などとせっかちな理解しかなかった己の脳髄をかき回した。
そして、赤尾氏は続けた

「安岡もアノ立場で言うべきことを、もっと言うべきだ。」

同行した老人は筆者に安岡氏を紹介した。そして赤尾氏にも・・
解らなかった。

「人は先生(安岡)をマスコットのように、あるいはエピソードを語って謦咳に接したなどと己を売り込む手合いが多いが、これは先生の問題ではない。なかには、それによって名利を貪っている輩や、牧野(伸顕)、吉田(茂)の系譜にすがろうとする政治家の具になっているが、それは学問とは関係のないことだ」

「彼の立場ではもっと出来ることがある。なぜやろうとしないのか。保身だ。」

「いや違います。小局の行動評価は一過性です。あるいは政局にくちばしを入れることは邪な政治家や貰い扶持官吏の道具にされます。先生は政治の根本解決は組織や習慣化された惰性の先鋭的解決ではなく、人間の問題として不特定多数の啓蒙を教学を通じて実践していると考えます」

こんな激論が二時間ばかり続いたという。゛続いた゛というのは同席した老人の
「いや、元気のいいこと・・」
それに水を差された、いや、゛そろそろ゛のシグナルだった。

呼応するように赤尾氏は今までの様相とは一変、破顔一笑、まさに顔が破れるとはこのことだろう、好々爺である。まるで鬼面を脱ぎ捨て翁の面をかぶったような面容になった。そしてこう言った。

「いゃ、楽しかった。君の信じるとおり好きにやりなさい。方法はあるが、曲げちゃいかんよ」

あっけにとられる中、赤尾氏は老人と頷き会っていた。

 

赤尾 敏氏  まさに翁顔

「この間、細川(隆言)と遭ったら『先生、数寄屋橋に銅像が立ちますよ』とぬかした。こう言ってやった『それならアンタが出ているテレビで赤尾のことを褒めたらどうだ』、そしたら黙っていたよ。言論貴族の冷やかしだ」

「市川(房江)とロッキードのことで話した。意見は合う。しかし、仲がいいとは余り世間には言えないが、アメリカではアパッチとババアが騒いでいると・・」
(二人で渡米したのか?)

「いつも演説の最後に『天皇陛下万歳』といいますが・・」

「いゃ、なにも天皇の健康や財産を護ろうと言っているのではないよ。日本国万歳、つまり日本民族がマトモに続いて欲しいと思っているのだが、日本国万歳では馬鹿な政治家の助けにもなるので、天皇陛下万歳といっている」

二時間の対座だったが、何か変だ。
「いゃ、君は青くなって、赤尾は赤くなって、愉快だった・・」
老人は痛快極まりない様子だった、だが・・なにか変だ。

道すがら、「いゃ、赤尾さんは真っ赤な顔して、こっちは青い顔して引かない、青鬼、赤鬼だ、痛快だ」

先生(安岡)も悦ぶだろう。

岡本氏の「会いに行く・・」何のことはない、その理由は若僧を会わせるため、そして試す戯れだった。

 

 安岡正篤氏

。正篤先生が亡くなり、督励された「郷学研修会」の続行と正明(長男)先生との打ち合わせに白山に伺った折、赤尾氏とのエピソードを話すと

「赤尾さんは、よくいらっしゃいましたよ。笹川さんもジョッキングの途中にメロンを食べたり、いろいろ楽しい話をしていました」

正明氏の夫人だが、安岡家の玄関番のようなもので、様々なエピソードが秘め事のように漏れてくる。

しかし、゛なんか変だ゛は試された、一本やられた、ようだった。

明治人は人物を観て試すには,容姿やしぐさもあるが、応答によって人物如何をみると聴く。

無学の若僧に二時間にわたって、ここまで突き詰め、辛辣な応答を求める、なにか禅の修めにある行のようなものだ。

路傍の石ころか雑草を自認していたが、原石が磨かれ、雑草に隠れた一輪の花を床の間に飾られ客人に愛でられる、まさに汗顔だった。

安岡氏との初対面のときも老人は言った。
「君より頭は少し良い、だが若さは君のが上だ。今から行くから、すぐに行こう、よかったら弟子になれ」
「いゃ・急に・・安岡さんとはどんな人?」
「君!、明日死ぬかもしれないよ。いや、明日死ぬとわかっても、今から始めることがある。食い扶持は補えるが、縁は君が作るんだよ」

もともと安岡正篤という人物のことは知らなかった。

以前、終戦時の内務大臣阿部源基氏の会に案内され、林大幹という代議士が安岡先生と話していたことを記憶がある、その程度だった。

だが、それが幸いした。経歴や学歴に飾られて紹介されても感知しない変わり者だったが、安岡氏が初対面で「君は無名が良い、それは真の有力だ」と諭されたことで、一気にその学風に惚れ込んだ、いや腑に落ちる学びの方向性だった。それを本(もと)とした学びの共感だった。


そういえば思い出すが、赤尾氏と面談後、数日して安岡氏と北九州の同人の話題になった。
「九州は豪傑が多いよ。気をつけて行ってらっしゃい」
行かざるを得ない。また遊ばれているのか、試されているのか。

そこは有名な地場産業のオーナーだった。 (カネミ油脂 加藤三之輔会長)
通されたところは夕刻の閑散とした社員食堂だった。テーブルには小倉の地酒と雲丹だけだった。

「ようこそ。小倉の酒と壱岐の雲丹だが、まず一献」
「先生からは、気をつけるようにと・・」
「そうですか。八幡(製鉄)の所長と倉光さんを呼んでみよう」

少々照明のひからびた社員食堂のスチールのテーブルに一升瓶と小皿の雲丹、話題は天下国家。そして間を飾るように自作の一献歌に心耳を澄ます。

筑前玄洋社の頭山満翁との縁もある御仁だが、モノに拘らず、媚びず、在ればあるに随い、なければそれも安とした精神の高まりがあった。

「学問は薫譲されなくてはならないよ」
「薫譲?」
「そう、かもしだす香りがなくてはならない。知は毒にもなる」

時が翌日に越えた頃
「下関に帰る汽車もない。泊まってください。宿は用意してあります」
工場の門を出るとタクシーが待っていた。
ホテルは地元で一番のホテル。

(事業(利)の客は高級料理屋。 一番の客は自宅で好きな地酒と信頼できる朋の紹介、そして妻に紹介する。華人社会の大人の倣いだ)

小皿の雲丹を肴に空になった一升瓶。
まったくといっていいほど、酔いはない。
安岡氏も清談に二升、底抜けだ。
酒に酔いなし、談に酔いあり、まさにそのようだ。

その後、小倉の御仁は上京のたび青年を同行して
「あなたにお願いするよ」と小会(郷学研修会)に紹介する
青年といっても筆者より年かさのある人ばかり。
参会の卜部侍従(皇太后御用掛)も、さも試すように笑っている。
これでは、いつまでも銘酒に酔えない

その意味では、数寄屋橋の鬼とは、まさに明治の銘酒に気持ちは酩酊状態だった。

しかし、近頃では薫譲された古酒が懐かしむだけで飲めなくなったようだ。



写真は関係サイトより転載

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あの時の参議院選挙

2022-07-03 03:11:07 | Weblog

「国賊的な政治家には投票するな。しからば選挙に行かないように」と、投票棄権を唱えた 08/9再

 

2016  6月 再掲載

1月29日のコラム「数寄屋橋の鬼」に記されている、゛老人゛について語りたい。

拙宅の近所に住んでいたが、起縁は小会(郷学)でジャーデン・フレミング証券のアナリスト、ニックエドワーズ氏を招請して講演会を催したときに参会された時からだ。たしか今を想定して投機についての歴史的経過と、その危険性についてだった。

その後、毎日のように来訪され漢文詩や自作の啓文を持参して戴き、以来多くの時を過ごしていた。

或る時「前記コラムと重複するが、安岡正篤氏(当時、会うまでは知らなかった)の自宅である文京区白山に連れて行かれたことがあった。また多くの著名人との懐古とともに筆者を同行して熱論、激論を拝観させていだいた。
また、毎年の工業倶楽部での安岡先生を囲む会でも、老人の経営する「東京饅頭」が手土産として提供され、その筋では知らぬものが無い御仁であった。

安岡氏も老人を持て余しているかと思えばさにあらず、東京を離れるときは「何日まで居りませんがまた帰りましたら・・」と直接電話がある。


              


だがこの老人には貪りが無い。人物の資質としてこの部分にこれだけコントロールできる人には遭ったことがなかった。それゆえ安岡氏との様々なタッグマッチ?があった。

不特定多数、とくに公儀については行動の逡巡はなく、「先生!コレコレハ」と押しかけ、安岡氏が熟慮すると、「苦しんでいる人がいる、日本精神の作興は・・」と押しまくり、安岡氏は呼応するように「その通り」と、名刺に「憂国の士、差し向ける」と添え書きして、しかるべき人間に向かわせている。

この手の武勇伝は数多あるが、あと数年で式年遷宮を迎える伊勢神宮についてこんなことが有った。
それは戦後の萎えてしまった日本人の元気についてである。

終戦直後、北海道に住んでいた老人は地元の当麻神社の宮司から「どうも日本は元気がなくなった。これを作興する為だが・・、伊勢神宮での式年遷宮で社が立て替えられるが、たとえ一片でもいいから戴けないだろうか・・、たしか東京で偉い先生を知っているとのことなのでお願いしたい」

「わかった」
こうなると二つ返事で上京し、安岡氏を尋ねたが折り悪く埼玉の菅谷に疎開していた。老人は遠路尋ねてこう言った。
先生、負けてしまったが人間に元気がなくては・・日本精神の作興のために云々・・・」

安岡氏もすぐさま動く。確かにこの二人は義の香りに弱い。
わかった。だが今は連絡先も失っているが、軍需大臣だった吉田シゲルという人物がいるが、伊勢神宮の総代をしているはずだ。まずは訪ねるがよい

すぐさま引き返し住まいを探して連絡を取り訪ねた。
すると吉田氏は玄関に紋付羽織袴で座って迎えてくれた。事情を話すと「わかりました、だが前例が無いので、できましたら神苑を掃除していただいてお礼ということで差し上げたいが、どうだろう」

解体後早速、北海道から到着した掃除隊が手筈どおり御神木を譲り受けている。
なにしろその行動には必ずといってよいほど安岡氏の激励が後押ししている。またその解決は表層の部分解決ではなく、潜在している社会の問題点を探り、ポイントを突いて、しかも名利を省いてストレートに行動している

下座観においての感覚は、先ず以って素朴で純情である。
そして、人、つまり人物如何によってその解決を見出し、利己を滅して不特定の利他の増進に邁進している。
不特定には善悪もあるが・・」の問に「全て善男善女と思えばよい。要は選別ではない。世の中、無駄に生きているものはない。ヤクザや泥棒とて良心はある。良心を喚起すればいい。目の前の不正、不義に目をつぶれない。困っている、泣いている。やることは烈行だ。邪な政治家や小役人が傍観している国民の怨嗟を判らずに何の学問か・・・」

全国津々浦々の片隅にこの様な義人がいる。しかしそれを異端として観る向きもある。しかし歴史を見ても小さな異端の集合体が世の中の変化を読み取り、潜在した問題点の中心にたいして人智を振り絞る行為こそ、真のエリートといわれるべきものだ。

安岡氏の提唱する「郷学作興」は、この老人によって具現されているといって過言ではない。


              


老人は参議院選挙全国区に出馬したことがある。ことは在日朝鮮の方が葉書代を出すからと懇願されてのことだった。
早速、白山に向かった。

「先生!師友会の推薦をください

師友会は私のものなく同友の集いだ。先日も荒木(文部大臣)がきてそのようなことを言われたがお断りした」

老人は引かない
先生!国民は政治家に票を騙取されている。貪官に媚びて票田に伏すルンペンに国を任せられますか・・」

そのとき安岡氏を唸らせた漢詩を持参した



 貪官に媚びて、票田に伏す    「 貪官」・・狡猾貪りの官吏


 国会に臨んでは黒テン(居眠り)に耽る


 頭を巡らせば口耳四寸の学  (口耳・・耳から入って出て口から出る、
                      聞きかじり、意思が無い論)
 
 
・・・・・・・・・・・・
  これらは国家を滅ぼす



安岡氏は老人を凝視して
「安岡が入れるから、おやりなさい

老人は百万の味方を得た気持ちでラジオの政見放送で言い放つた。

国賊的な政治家には投票しないでください。彼等は票を騙し取っている。しからば選挙に行かないように・・」と、投票棄権を唱えた。

あろうことか、全国3万票、多くの人に負託を受けた。

この様なことには数多ある老人だが、その精神を育んだ残像がある。
それは奈良県の御所に出生した幼児、少年期にその残像を見ることが出来る



続く

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聖徳太子の心配事は当たったか  09 3/06 再

2022-07-02 07:57:41 | Weblog

 「

     「紐帯の結びの重し」 皇居内お休み処

このところ中央地方を問わず金と異性と失言などの問題で毎日のように紙面を騒がしている。そこへきて重要議案に口角泡を飛ばして争論に励んでいるようだが、定数や待遇については口を封じて与野党同衾している。国民は野暮な旅芝居を見ているようだが、ときおり女形ならぬ行儀の悪い男のような女性議員の登場で回り舞台は観客は惑わされる。

安岡正篤氏は書斎の雑談でつぶやいた。「今どきの政治家は人物二流でしかなれないようだ」あれから四半世紀、二流から三流、そして埒外が増殖している。金をごまかし、平気でうそをつき、不倫もする。選んだあんたが悪い・・!と嘲られるが、もともと党の旧字は中が黒だった。つまり黒をかんむり(賞)すると古人は揶揄する。白黒といえば黒は悪人だ。善党はないが悪党はある。その悪党が多く集えばどうなるかは自明である

 

           




旧稿ですが・・・

政治家の献金と検察キャリアの調査活動費。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169233.htm


法も道義も後付け理屈にしたところで、露わになればドッチが悪いといえば、どっちもどっちだ。

一方は税金を使った公共事業の儲けのカスリを献金したものだが、片方は検察の活動経費?をキャリアの遊興費にあてがったもので、双方国民の税金かはたまた罰金の類であろうが、共に暖かい寝袋に潜り込んでいるようなものだ。

しかも、生まれ育ちも、卑しさ、サモシサも何のその、両親の叱咤激励のなか、脇目も振らず暗記に勤しみ、晴れて公務員、議員で言えば特別公務員になったお陰で潜り込めるコソ泥の世界である。

双方、機を見て敏なのは習性だが、これに嫉妬と小判の匂いが纏わりつくと終生不治の病気になり、官吏や陣笠予備軍に遺伝するのである。


以前、「国家に四患あり、四患生じて国家なし」と後漢の宰相旬悦の言を記したことがある。

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/d/20071120

「偽り」「私ごと」「放埓」「贅沢」これが官僚と政治家に蔓延したら国家は立ち行かなくなる。つまり、どんな政策予算でも国民に行き渡らなくなる、よって此の事を解決することを宰相を請けることの第一義としたい、と旬悦は皇帝に諫言している。

安倍、福田、麻生の各総理も根本はそれで足元をすくわれたのである。
偽り情報、恣意的な不作為、組織に溶け込む無責任、そして倹約なき贅沢である。

仮の議会制民主主義の頭領が其の類でコロコロ変ってはいるが、社会はともかく国家は重しのお陰でどうにか落ち着いている。
だだ、余りにも敬する対象が国民から嘲笑され、はたまた罵倒されると、近頃では゛重し゛までもが国民の興味のなかで秤の均衡を毀損され始めている。

゛重し゛敷島に棲むものの紐帯として連帯と調和を司り、地位も要らず、名も宣伝することなく、財も欲せず寡黙に耐えている。


            


安岡氏は「徴収と治安を司るものの姿で国民は変化する。それゆえ国民は重々観察し、公平さと正義を貫くべき司を誠の秤を備えて考えるべきだろう」と語る。

取りも直さず徴収は税や保険であるが,国税を始めとする官吏や社会保険庁の有り様、あるいは治安を司る警察、検察の裏金、執拗なる罰金システム、刑の軽重など、国民に信頼を持たれるものでなければ政治も機能しない。

国民も自身の咎に都合のよい「法」を持ち出し、三百代言にも化することもある弁護士のもと、これまた法の運用官たる官吏のサジ加減が恣意的になり、隣国の古諺にある「禁ずる処、利有り(生ず)」の姿を「組織地位と知識」が保全している。

四角四面が日本人の性癖だと満州の古老が述べていたが、曖昧、ホド、も「四患」にある、偽、私、放、奢にまみえる彼等の狡知は、社会悪をこえて国賊の烙印を押すべきことでもあろう。



              




紐帯にある゛重し゛は何を祷るのだろうか。
律令の頃、聖徳太子は憲法に祷りを込めた。

十七条は天皇を輔弼し、人間(民)の尊厳を毀損する官吏の在り様を解り易く「憲」と「法」で記している。

十七か条のうち其の大部分を官吏の道義的応答と、律し方を「憲法」として顕している。つまり、人間の尊厳を毀損するのは権力であり、その運用官吏の姿を以て民情は変化し、国の盛運も決まるとのメッセージである。


権力を構成するであろう部類は、政治家、官吏、宗教家、教育者、現代は金融家であろう。これらの欲望のコントロールこそ、国家のすべき治世の要であり、其の為にはと各条に人々の調和と連帯のための自制と教育的規が勧められている。

政治が教育を利用したり、宗教組織が検察司法の権力を壟断したり、官吏が政を軽んじたり、金融家が政策を混乱させたり、すべて国民生活の混乱、ひいては人間の尊厳を毀損する謀の権力悪である。

「紐帯の重し」は単純明快な政(まつりごと)の則を座標として国情の秤を守護している。

標題に掲げた、゛人の有り様゛は騒擾を助長する各種権力の言に拠らず、また第四権力になった営利マスコミに惑わされず、自身の生存継続を遡って、太子の則にある簡単明快な、いまでは諫言にも聴こえるかも知れないが、まずは則に倣うべきことだろう。



             

           鎮まりを守る    鎮守の杜


以下、権力、組織と脆弱な自制心を観るには最適な銘記でもある。


第一条

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条

あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条

王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。


第四条

政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。


第五条

官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。


第六条

悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。


第七条

人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。


第八条

真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。


第十条

心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。


第十一条

官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。


第十二条

国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。


第十三条

いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。


第十四条

官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。


第十五条

私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。


第十六条

人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。


第十七条

ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年

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