まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

明日を深慮して復(ふたた)、王道を復考すべし 09,7再

2018-06-25 09:50:30 | Weblog

              


復古ではない、甦りを考えての「復考」のことである。

加えて王政とは王や帝という地位呼称や賢か愚に評される人間の専制の姿をいうのではない。また,王道や覇道に二極化された思考の対比から導かれる統治形態の優劣を問うものではない。

ただ時宜を考察してあるべき姿、もしくは導かれたり、辿り着いたりする民族の 思考や行動の循環性を逆睹して思うのである。

歴史は時に波状やスパイラルのように渦巻状に考えられたりするが、その中での栄枯盛衰をみるとアカデミックに捉えられる裏づけや根拠という代物と、直感性における研ぎ澄まされているのか、あるいは鈍感とかに表れる「気配の察知」によって時を眺めるのかは、表現方法の巧劣にみる文章や口舌にはない自得性がある。




                  


          瑞穂


麻生氏は、ばら撒き分配に、゛さもしさを感ずる゛と困惑した。

たとえばあの麻生総理の言動を伝えるマスコミの認識表現とそれによって動く大衆の姿とは別に、鎮まりの中で独想する麻生像では、たとえ錯綜しながらでも選択しなければならない択一決定には惜しい部分を残すことである。

愛する人やモノを囲いたい欲望と自身の自由への担保、平等への賛意と他人よりも物心に幸せになりたい欲望、それは小さいながらも自身の幸せ達成感だろう。

それが多数になり複雑な要因を加えて国家と成すとき、麻生例に記した、゛惜しい部分゛を誰かに代わって表現なり具現してもらったらバランスのよい、言い換えればホッとする国家になるのではないだろうか。

例えば、社会の目立たぬ場所で生活する人々・・。災害被害に戸惑う人々・・・。そこに手を差し伸べる内外の温かい心・・・。

それを語り行動する存在と、゛さもしさ゛の状況に、制度によって選択された為政者として複雑なおもいと我が身の限界を感じざるを得なかったのだろう。

それは、あの御方だけは理解していただける、ゆえに宰相として慙愧に耐えない政策をせざるを得ない無力感も推察される言葉のようだ。

つまり、宰相になって始めて得心した陛下の忠恕の表し方であり、国民の受け取り方である。

カマドの煙の逸話のあった祖帝仁徳ではあるが、あくまで民の自立と自活を援け、それを待ちわび自らも質素倹約の美徳を営みの銘としている。


今はどうだろう、カマドの煙は立ち昇り人々は熱狂と偏見の渦に政治すらまま成らなくなっている。その意味では今次の対策は煙の立たない国の配給の類である。

租税の適正支出が歪むと何れは増税となってしまうことへの察知が、゛さもしさ゛の呟きであり、陛下から大御宝と慈愛される国民への、゛惜しい゛気持ちだったと観るのである。








                






カソリックでは教会の小窓に向かって懺悔する、そして神は許すと・・
だからといって自由だ民主だと謳って財利の欲望を撒き散らしたりしてもいいとは思わないが、教会の小窓の向こうに誰がいるかは知る由もない。

仏教を布く寺の住職の説法も、その惜しい部分を考える心はあるという双心の在り様を仏教の思考法で伝えるが、時折、世俗の人の顔も織り交ぜて苦悩や懺悔に意味を与える救済法を用いてそれなりの「律」という掟や習慣を課して団を形成している。

考えるに難儀な喩えを連ねたが、国家や民族、分かりやすく言えば多様な種の意義を護るセキュリティーについて当てはめ、現況の、゛惜しい部分゛への素直な発露と、かつ心の一方を択一せざるを得ないことによる柔軟性のない社会や、それによって起きるであろう争いや連帯の崩壊を食い止めるために、もう一方の忘れがちな生活制度の選択肢である王政の復考を描いたらどうだろうか。

王政といえば古代律令や維新もあるが、なかには陪臣として栄華を図るような糜爛した政治もあった。また往々にしてその傾向が有り、特に官吏の専横や軍人の跋扈がその例だが、都合のよい無責任な人間に取り巻かれると、それこそ裸の王様になってしまうようだ。


議会制民主主義とはいっても権力は行政府、つまり政府の専権であり官吏の趣き次第で変わることが多いようだ。面前権力である税(徴収)と警察(治安)の姿で国家は変化するとは賢人の言だが、公平と正義を顕す官吏の歪みはダイレクトに国民の怨嗟や反発、あるいは抗しきれず怠惰に陥ってしまうことでもある。

だだ、武器や多数の人間、あるいは財貨の量、細々とした法律で統治すると、国民の連帯や調和、あるいは目的に向かう突破力にみる活発さが薄れ、まるで小さなやりたいことだけに没頭する人間を作ってしまうようだ。

草食人間と揶揄される類もその例だが、つまり、゛やりたいこと゛ではなく、゛行なうべきこと゛が見つからずヒグラシのような生活しか分からないような行動をとってしまう。








或る時,青年達にこんなことを質問した。

「いま私達は自由と民主、そして平等と人権に飾られた資本主義という圏内に生きている。いろいろ楽しい事もあるが,どこかオカシイとも感じている。

振り返れば天皇親政や武家統治もあったが、そのときの人々にも様々な欲望が有り問題意識があった。封建が良くないからと借り物の立憲君主、議会制民主主義になった。

そして国家という呼称が生まれ国民になった

様々な歴史の出来事を紐解くと色々な人の行為と共に、なんとなくこの地域に棲む民族の思考の習慣性と癖が解ってくる。

それはお金に対しても、他人に対しても、善悪に律する気持ちについても独特なものがある。世界の種々な民族や文化圏から見て、夫々が異人,異物として考察される。

また、その成り立ちの意味には必然性がある。中国の孔子や孟子、中東のマホメットやキリスト、宗教や食べ物も政治形態も違う。とくに罪と罰において顕著になり、運用する権力や執行する官吏の姿も違う。

大小の違いがあるが、共産、資本などの主義も変化し、宗教とて陣取り合戦(戦争)を現在でも繰り広げている。

そのなかで成功価値や幸せ度が計られるが、総じて財貨や物の量とスピード感や便利さが主なものだ。

社会で生きる為には看過するべきこともあろう。また無闇な問題意識から反抗心を描くこともあろうが、せめて多くの意味を含んだ、゛囲い゛を木製にするのか、鉄製にするのか、コンクリートにするのか、あるいは囲いを取り払って茫洋な世界にするのか、その意味で現在の囲いに問題意識を持ってみてはどうか・・・

江戸時代にちょん髷、二本差し、篭やフンドシが歴史の時空では一瞬に変化して、三十数年経つったら近代兵器を操作して大国に勝利した。多くの戦士は今どきの学歴や財も無い庶民だ。

江戸時代に置き換えればちょん髷も何も当たり前だった、そのなかで流行も有りブランドもあった。はたして現代を想像できただろうか。

それは、今を過ごす私達にも当てはまることだ。

その意味で、この地域に棲む人々の姿の変遷を考えて、「今」について問題意識を持ち考えてみよう。現在の様々な問いを解決するスベがそこにある。

そのためには他と異なる考えを恐れないで欲しい。」



主義やスローガンは看板であり体裁のようなものとして、民族によっては意味の無いものと嘲笑し、あるいは四角四面な理念として安住し行動すら狭めている民族もいる。

好き勝手を担保とする自由と民主、勤労や自尊を削ぐ平等と人権、怠惰や糜爛を生む成功価値をつくる各種主義。そのようにも置き換えられる面前の囲いでもあろう。



              



「復(ふたた)」は再び甦るであろう民族の培った歴史的残像への邂逅でもある。
つまり邂逅という思いがけずめぐり合う潜在する心の動きでもある。

また「王政」だが、フランス革命以後の国家の長(おさ)の追放は、獲得制度の恣意的目標であった民族の連帯解消と放埓した生き方の至上価値としての刷り込みとなり、自由と人権の標語の下、多くの対立の溝を新たに構成しつつ同民族間にあっても信無き状況を生んでいる。

いわゆる説明や情報開示を求めるのみで、古人の謂う「知って教えず、学んで行なわず」の関係が多くなってきた。

いや、下々のさもしい嫉妬や怨嗟が昂じた猜疑と考えるのは簡単だが、人の不信より自己を知らない、「自信の無さ」変じて「自心」の無さの及ぼすことではないかとおもえる。






                






孟子も「人心、惟(これ)微(かすか)なり」と当時の世情を観察している。

「人心」つまり人の心の動き、あるいはその兆候だが、自れと他人を峻別すると違いが鮮明になり自己の置くところも分かってくる。そして競争や感謝、あるいは恋慕も生じてくるが、自他の分別が無いと鏡として観る自分以外の世界が読み解けず、徒に嫉妬や猜疑心を招くことになる。

逆に修行のように自己の内面を探ると反省や生き方の転換という境地が開けてくるが、それとて自己の内在する双心(ふたこころ)の葛藤が生じてくるが、切り口しだいで思慮深くもなり、また他に対しても理解ある行動をとるようにもなる。

ここで気がつくのは内面を探るときの双心の一方に精霊なり恩顧の心が介在しているように見えないだろうか。また、その課程で自身に気がつかなかった潜在する能力が発見できないだろうか。それは現代人にとってことのほか面倒な考察かもしれないが、他を観察する場合における座標なり自分なりの観察眼の涵養には適切な方法であろう。





             




為政者の統治や事業者の決断に比べてことのほか曖昧であり、統計データーには表れない姿であるが、大衆としてあるいは群れとして括る経営とは別に、一方では深層にある人情や普段は気がつかない潜在する能力の把握は、右往左往する前に感受すべき「人心」の基礎的観察データーといえるものである。

明治以降の官制学には双心の一方の在り様を明確に、あるいは心のセキュリティーとして明確にするするカリキュラムも無く、近頃では精霊や恩顧を認めることすら微かになってきている。

とくに外部に気を取られ欲望の喚起が甚だしい世情において、゛なにか変だ゛゛どうしたら゛と掴みどころの無い不思議さに囲まれると、なおさら自身の内面に潜在する観照力や精霊を察知する良知が乏しくなる。


現世の宗教や財貨、あるいは眼前の欲望にある温泉、グルメ、旅行、イベントなどの流行ごとは、東西の栄華を刻んだ文明の末路における大衆の姿をみるように顕著になってきている。



            








直感で感じられない、問題意識もない、そのような姿だとしたら一先ず居を変えたらどうかとおもう時がある。

コンクリートの屋根は水をはじき落下する。茅葺は少しの雨は保水して熱は気化する。森も然り。

王の政(まつりごと)とはそのようなものだろう。
それは常に選択を迫られるときに置いてきぼりにする、゛惜しい部分゛の再考を描いているから気がつくことでもある。

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日本人無き日本は成り得ない 2011 9 あの時

2018-06-14 00:12:09 | Weblog


日本人とは、明治創成期に国家、国民として呼称された日本人的たぐいではなく、棲み分けられた地域に必然として養われた情緒を抱く人たちのことである。

また国家は複雑な要因を調和連結したもので、アカデミックに論を整理したようなことでは表現できないものである。

人、物、自然環境、変化変遷、循環、争いと裁き、あるいは要素としての伝統、民族、領土という三点を論ずるものでもない。

「人が人でなく、どうして国家が国家として成りえようか」

清末の哲人、梁巨川(生地桂林)の言行を景嘉氏によって著された、「一読書人の節操」の帯表紙に書かれている章を、身の丈も知らず座右jとしている筆者の眼には、現在が標題のように映るのである。

若かりし頃、世間知らずは楽しかったと少年時代を懐かしんだ。

何であの時行動しなかったのかと青年期を懐かしみ切なく想ったか。

壮とみられる期に差し掛かると、妙なお節介が世の中とリンクしはじめる。

今どきの若者のように口角泡を飛ばし自説を広言したり、衆を恃んで宗教や政治団体にまぎれることも無かった。ただ目の前の親から棄てられた少年や、非行少年と選別された子供たちに向き合うのが精一杯だった。今から考えるとそのステージは下座観を養う場面だったようだ。また自身もそう見えた。

映る姿は、彼らを元気付け、社会にも優しい人々がいる、若輩ながら精いっぱい紗の掛かったガードを添えて立ち直りの容易さを伝えていた。でも流されていた。

世は飽食の時代といわれ、大衆は囲われた自由の中で幸せの姿を教えられ追求した。しかしその不思議さは不平不満を増長させ、また妙な察知をおこした人々が多感多面という「個」の擬似的発揮を促され、自身の戸惑いの解決の為に、人の世とは違う「似て非なる政治」へリンク(関与)しはじめた。

器量も度量も物差しも無い半熟の人間たちだった。
よく明治の親爺は頑固だった。その子供たちは頭を垂れながら半知半解の警言を聞いていた。その言は、人の心の陥るところと、それらが構成するだろう社会だった。
だから結び目として天皇の在り様を必然なものとして説いた。

自由が放埓となり、少々の金や力が付くと遣ってみたくなる、いや試したくなることへの自制もあった。難しい人生への問だった

「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」(王陽明)
つまり、欲望と邪という「賊」の発生とコントロールだった。

しかし、世間知らずは楽しい世代だと、少々身持ちのよくなった大人は突っ走った。
政治も故郷の主だったものの務めだった。ただ民主という流行り外来の啓蒙思想はそれを変質させた。教育も、商いも、ノーブレスオブリュージュといったその任にあたるものまで変わった。

あの時、無力感の漂う政治は外地現状看過としてその機能を軍官吏に託した。
数値で表される軍事、経済、外交理解、で負けたのではない。あるいは明治の薩長軍閥の残滓のせいでもない、日本人が衰えたのだと知った。

それは「真の日本人がいなくなった・・」と歎いた孫文の嘆息と同じだった。
その後、敗戦の惨禍から富への欲求という当然ながらの循環に打ち消されるように、また心中の賊を討ち漏らした。

そして若者たちは自身の戸惑いを解消するために、またある一群は心中の賊と同衾しながら政治に、゛若さと新風゛という、風変わりな姿をもって参入してきた。

それを大人も迎合した。だが依頼心と阿諛迎合がほとんどだった。

それさえも刺激に慣れ、飽きてきた。
そのうち、生きていることにも飽きるに違いない。


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人間考学  無名かつ有力であれ    2007.7月稿再掲載

2018-06-07 11:41:15 | 郷学


あれが「郷学研修会」の端緒だった。

一期一会の緊張感は時として鎮まりのなかに訪れるものだ

それは前記の岡本翁からの促しであった
初対面の老人に唐突にも義父の頌徳文の原案を差し出した
それはワープロも無い時だったので、レポート用紙3枚の自筆横書きの稚拙な文章だった

老人は丁寧にも3回読み直して
『なおして宜しいですか』と、傍らの赤鉛筆で添削している。
老人は黙って面前に差し出し岡本翁に何事か話している。それは一部岡本翁の好む座右の銘文を挿入した箇所だった

『尽くして欲せず、施して求めず、だが、求めずは動きが良くない、受けずに直したほうが・・』

確かに読んでいてもオンが良い、つまり流れる。そして謂わんとする意味が明確になる。

感心していると老人は正対してこう語った






              






『文は巧い、下手ではない。あなたの義父を讃える誠意が普遍なものとなって、何十年、何

百年先にも人間を感動させるものでなくてはならない。またいつの世でも人物はおる。その

人物によって国も変わる。時流に迎合したり無理に簡略したりするものではない。文という

ものはそうゆうものだ。』


老人は初対面の若僧に何を観たのだろう

『君は無名でいなさい。無名は有力でもある。有名無力ではいかん。郷学を興してみたら・・』

岡本翁が言葉を挟んだ

『君が自発的にやっている勉強会の延長と思えばいい』

世の中に出て少々増長気味だった若僧には初めて聴く言葉だった
「無名有力」と「郷学」

老人はおもむろにピースに火をつけると、お茶を勧め、岡本翁に語りかけた

『宜しいですか』

好々爺のように応答を眺めていた岡本翁は老人に向かって慇懃に頭を垂れた

2時間ばかりの応接だったが玄関先から道路まで、振り返ると老人は玄関の上がり框に立って見送っている

『勉強になりました、いゃ・』言葉が選べない

『あの人が安岡先生だ。いゃ良かった、良かった』

何が良かったのか、解るまで時を要したのは謂うまでもない

もちろん安岡という名もそのとき知った。





                某大学講話






それはホンの序章だった。

小生は自称も通称も弟子と称するものではない、かつ取り巻きでもない。
だから、感心した、勉強になった、との簡単な得心はしない。
また、体裁のいい挨拶借用や美文麗句に飾られた政治家の偽装や屏風に用することもない。

ただ、愉しくもしんどい「行」のようなものだった。

機をみて、指示、督励、促し、それは全て読み取ってのことだった。
郷学の作興、地方の道縁への遣い、世間では妙な道に迷い込んだとおもわれた。

その意味の説明は、いつも岡本老と佐藤慎一郎先生だった。

紋付羽織袴風、つまり白足袋風の安岡先生の日常、烈行の岡本老、悠々とした佐藤慎一郎先生との厳しくも男子の真の優しさに包まれた厚誼だった。


いま、同じことを有為ある若者に促している。

゛あの人達ならきっと解かってくれる゛という支えが、堪えきれない精神高まりとなっている。

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あの時、連合軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー 08 再

2018-06-06 04:58:29 | Weblog

08  11/3  再掲載

 

 以前、友人から送られてきたマッカーサー将軍についての稿である。
占領軍司令官として絶大な権力をもったとき彼はなにを考え、どのように行動したのか。
洋の東西を問わず戦火を交えたもの同士が、恩讐を超え、悟りの中から生まれる信頼の心は、民族を超えた普遍的な理念と目標を立てる力となった。

長文の掲載ですが、送文のままに






           
 厚木にて     (マッカーサー記念館蔵)



“ ダグラス・マッカーサーについて ”
    
    (ある雑誌の平成16年2月号より) 著者 タニグチ・セイチョウ氏

 人には良いことをする者や、悪いことをする者など、色々ある。しかしどんな人でも皆「良心」を持っているから、反省したり、後悔したり、讃嘆したり、けなされたりするものだ。後で〝自伝〟を書いたりして、過去を回想する人もいる。こんな人は「有名人」だろうが、そう沢山いる訳でもない。書いても売れないからだ。

 かつて日本人が大東亜戦争(太平洋戦争)をして敗北し、占領軍が進駐したとき、その総司令官だったダグラス・マッカーサー将軍は「有名人」の一人だが、彼の書いた『マッカーサー回想録』という本が津島一夫さんの訳で、朝日新聞社から出されていたことがあった。今はもう絶版になったようだが、大変参考になるところがある記録である。

 同将軍は、占領中に現在の「日本国憲法」の草案を、日本政府に〝押しつけた〟と言って、国内では余り評判が良くないが、探してみると「良い点」も沢山あることがわかる。

彼が昭和天皇陛下と会見したときの話は余りにも有名で、私も当時新聞でも読んだし、その時のお写真での両者の態度の違いに驚いたものだ。その写真もこの『回想録』に載せられていて、140頁には「天皇との会見」と題して次のように記されている。


            
            於 アメリカ大使館



『私が東京に着いて間もないころ、私の幕僚たちは、権力を示すため、天皇を総司令部に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申出をしりぞけた。「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなっている」というのが私の説明だった』


『実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた。モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向い合わせに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた。

 天皇は落着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりおもてに現わしていた。天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。

 私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかにも深いものであるかが、私にはよくわかっていた(続く)。』

 ご会見当時の天皇陛下のご様子も、多分この通りであったろう。そこまで疑う必要がないからである。さてその次だが、

『私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。

 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。



          
             全国各地へ

 しかし、この不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべてのも決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁判にゆだねるためにおたずねした」

 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。(中略)』


 この会見の様子を、将軍の妻と息子が、カーテンのかげから、そっと見ていたそうだ。そして最後の143頁に、

『天皇との初対面以降、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。』と、書いている。

私たちも、このような陛下の「捨身の愛」によって、何一つの反乱もなく、戦後の復興を成し遂げることが出来たのである。それに、引き替え、現在のイラクでの度重なるテロ行為は、そのような中心者を欠き、何処かへ逃げ隠れした国家の悲劇的混乱を、明白に対比していると言えるであろう。



           

              進駐軍 (国防総省資料)



 さらにもう一つ、戦後に制定された「日本国憲法」の問題だ。これはマ元帥が出した「草案」に基づいて作られたものだが、問題の第九条の「戦争放棄」の内容について、彼はこう書いている。丁度それは幣原首相のもとで、松本博士の「憲法問題調査委員会」が憲法改正案の起草に取りかかろうとしている時のことだ。(164頁以降より)昭和21年1月24日の正午に、訪問して来た幣原男爵はややためらいがちだったが、マ元帥が少しも遠慮するなと言うと、

首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」の条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構の一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意思は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。

 首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。

 私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。

 現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時をいっしょに、時には向い合って戦った経験をもち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度まで高まっていた。』

 このマ元帥の言葉も本物だろう。戦争の経験者が、必ずしも戦争を好むとは限らないし、「戦争反対」の将軍も日本にいたことがある。

『私がそういった趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出る時には感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」といった。


           



 新憲法の第二章第九条は次のように規定している。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 この条項はあちこちから攻撃され、ことにこの条項は人間のもつ基本的な性質に反するものだと冷笑する者がいたが、私はこれを弁護して憲法に織込むことをすすめた。私は、この条項はあらゆる思想の中で最も道義的なものだという確信をもっていたし、それに当時連合国が日本に求めていたものとぴったり一致することも知っていた。』

 しかしこれだけでは未だ不十分だ。彼は続いてこうのべている。(166頁)

ただし、第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる

 第九条は、他国による侵略だけを対象にしたもので、私はそのことを、新憲法採択の際に言明し、その後、もし必要な場合には防衛隊として陸兵十個師団と、それに見合う海空兵力から成る部隊を作ることを提言した。私は日本国民に次のことをはっきり声明した。

世界情勢の推移で、全人類が自由の防衛のため武器をとって立上がり、日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった場合には、日本もまた、自国の資源の許す限り最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の道義的理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権をもたないという解釈は、どうこじつけても出てこない。

 この条項は、剣に敗れた国民が、剣を頼りとしない国際的道義心と正義感の終局的勝利を信じていることを、声高らかに宣言するものである。しかし、国際的な盗賊行為が地上をなめまわし、その貪欲さと暴力で、人類の自由をふみにじることが許される限り、憲法第九条の高遠な理想が、世界に受入れられることは容易ではなかろう。しかし、物事にすべてはじめがなければならないことは、鉄則である。』

 どんな憲法でも法律でも、人間が作った作品だから、「完全円満」とは言えない。これは国家でも団体でも、地上にある一切のものは、何処かに不完全な所が発見されるから、「改正」も又必要になるときが来る。ことに国際情勢の変化が甚だしい時代には、その時が来るものだ。このことはマッカーサー将軍も、やがて生起した〝朝鮮戦争〟で、イヤと言うほど体験するのである。


             
               朝鮮戦争

 それは当時のソ連が武器を供給し、中共軍が北朝鮮軍とともに朝鮮半島北部になだれ込んで来たからだ。その頃の半島には、米軍はほとんど影が薄く、韓国軍も軽装備の軍隊で、三十八度線までに布陣していた。共産軍も前線には軽装備の軍を配置していたが、その背後には強力なソ連製の武器で装備した中国共産軍が控えていて、それらが突如鴨緑江を越えて南下してきたのである。

 隙をつかれた軽装備の米軍と韓国軍は、たちまちソウルを占領され、さらに退却をかさねて、遂に釜山付近まで退却し、左右を共産軍に囲まれた。そこでマッカーサー将軍(元帥)は1950年9月30日に、本国から半島の三十八度線以北で軍事行動をとる許可を得た。9月20日ごろには半島中央部の仁川(ソウル付近)に敵前上陸を敢行し、その後元山にも上陸したのである。

 こうして10月20日に米第八軍は平壌に攻め込み、同時に市の北40キロの地点に第百八十七連隊戦闘隊がパラシュート降下して包囲し殲滅した。トルーマン大統領からは称賛のメッセージが届いたと、『回想録』には書いてある。(264頁)しかし補給路が不安であり、鴨緑江のすぐ北側には「おどろくほどの大部隊の中共軍」が集結している兆候があった。

『しかし、それ以上に私が心配したのは、ワシントンが私の空軍のもつ能力に大きい制限を加えるような指令を、しきりに連発しはじめたことだった。まず私は、敵機が私の空軍の飛行機を攻撃した場合でも、その敵機を追いかけて攻撃することは禁じられた。』(265頁)

 ついで元帥は鴨緑江ぞいの水力発電所を爆破することも禁じられた。この命令は北朝鮮の全発電所にまでも禁じられた。さらに東北方の羅津を爆撃することも禁じられた(多分本国では中共を刺激することを恐れたのだろう)。さらに新手の中共軍三個師団が前線に現れ、次第に増強しはじめた。やがてマ元帥は、このような命令を受けた。

『「中共軍の大部隊が事前の警告無く、朝鮮のどこででも公然と、あるいは内密に使用された場合には、貴官は指揮下部隊の行動に一応の成功の見込みある限り、行動を継続する。いずれにしても、中共領内の軍事目標に対して軍事行動を取る場合には、事前にワシントンの許可を得られたい」』

  北朝鮮軍の敗北は決定的になったが、これでは中共軍が大部隊で、何の予告もなく鴨緑江を越えて侵攻することはできる。そこでマ元帥は鴨緑江にかかった鉄橋を全て爆撃することを提案した。しかしワシントンも国連も、これをしりぞけた。そこで彼は「司令官が自分の将兵の命を守り、部隊の安全を図るために、自分の持つ戦力を使うことを禁じられたのは、戦史上初めてだ」と思って、直ちに「極東の任務からの即時解任を求める電報を書きあげた」という。

 だが部下達の「それでは全滅する」という強い要請もあって、この電報を破り捨てた。それから間もなく、夜陰に乗じて膨大な中共軍が北鮮地帯に入り込んできたのだ。この様なとき〝どうするか〟は、極めて難しい判断である。前進するか、じっとしているか、後退するかだ。中共軍は昭和25年11月6日から26日までの間に、二十万の新手の軍が河の橋を渡って北朝鮮に入り込んだ。11月27日には全兵力をあげて鴨緑江を渡って攻撃を始めた。こうして米軍と国連軍は圧倒的に不利となり、後退しはじめたのである。


             



 マ元帥の度重なる〝前進論〟は否決され、当時の国連の意見や、米国内の世論の動向などによって、現在のような三十八度線を境にした南北朝鮮の二国対立状態が構成され、マッカーサー元帥は1951年4月11日をもって解任されたのである。

解任に際しての聴聞や弁明の機会もなかったが、日本の現在に見られるような「道路公団総裁に対する弁護士つき反論」の機会も与えられなかった。しかし、日本の国会は、マ元帥にたいして感謝決議をし、昭和天皇陛下は御自ら別れの挨拶に、元帥をご訪問され、悲しみのお言葉を述べられた(315頁)。さらに又、その前頁にはこう述べている。

『モスクワと北京は歓喜し、鐘が鳴らされてお休み気分がただよった。左翼はどこでもよろこびだった。しかし、極東はショックを受け、とまどいを感じていた。私は最高司令官としての地位があまりにも長く、いわば自由世界の象徴がとりはずされたことは、極東に対する防壁といったものに見なされていた。この象徴がとりはずされたことは、極東には理解し難いことであり、米国のやり方に対する信頼をぐらつかせるという現象を生んだ。』


 しかしながらマッカーサー元帥に対してはその後、アメリカでの国会で、議会証言がおこなわれている。ともかく彼は将軍でありながら、平和の愛好者でもあった。そして同時に、いったん戦争になると、完全に勝利を収めるまで戦うという敢闘精神だったことは間違いない。もし彼の言う通りに、あの時にすぐに鴨緑江の橋を爆撃していたら、果たしてどうなっただろうか?

 これは誰にも分からないが、少なくとも中共軍は、大量の軍隊を南下させることは出来なかった。その間に国連軍は北朝鮮全体に進出して、現在のような韓国と北鮮の対立状態や、北鮮による〝拉致事件〟も無かっただろう。さもなくば、アメリカ・国連軍と中共軍との全面戦争となったかもしれない。

 こうなると、今の国連の状態とはちがった国連が出来たことだろう。又もしアメリカ軍が敗退して、日本だけの占領となれば、さらに大きく歴史が変革することになるはずだ。しかし当時の中共軍が、もし全朝鮮半島を攻撃すれば、その補給路の拡大によって、到底米軍の海空からの攻撃に耐えられず、敗退したであろう。ただ当時のアメリカ政府には、それだけの「決意」がなかったのである。

 このように、世界の歴史は、人の心や、国家の意思如何によって、大いに変化するものである。一人の指導者、例えばトルーマン大統領の判断でも、世界歴史の未来にまで、大影響を与えるものであるから、人間が「真実の神」を信じ、物や私利私欲などに惑わされないような日頃の訓練が極めて大切なのである。    

 最後に『正論』12月号にのせられている「マッカーサー米議会証言録」について、平成15年11月3日の『産経新聞』には、次のように報道されていた。

『「マッカーサー米会議証言録」が興味深い。たとえば、かつて日本に君臨した元帥はトルーマン大統領によって予告も無く解任されたという。議会の聴聞会でブリッヂズ議員から「解任の知らせを最初どうやって受けたのか」と聞かれた元帥はこう答えた。「妻から聞いた。副官の一人が報道で聞き、ただちに妻に話し、妻が私に伝えた」。報道とはラジオ・ニュースのことだ。

「どのくらいあとに公式な連絡を受けたのか」(議員)、「30分か1時間だろう。よくわからない」(元帥)、「それは通例の手続きなのか」(議員)、「米陸軍では聞いたことはなく、先例もないはずだ」(元帥)。悔しさが伝わってくる。このとき元帥が解かれたのは連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のほかに国連軍最高司令官、米極東軍総司令官、同極東陸軍司令官などである。』 

以 上                 〔著 者:タニグチ セイチョウ氏〕

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