復古ではない、甦りを考えての「復考」のことである。
加えて王政とは王や帝という地位呼称や賢か愚に評される人間の専制の姿をいうのではない。また,王道や覇道に二極化された思考の対比から導かれる統治形態の優劣を問うものではない。
ただ時宜を考察してあるべき姿、もしくは導かれたり、辿り着いたりする民族の 思考や行動の循環性を逆睹して思うのである。
歴史は時に波状やスパイラルのように渦巻状に考えられたりするが、その中での栄枯盛衰をみるとアカデミックに捉えられる裏づけや根拠という代物と、直感性における研ぎ澄まされているのか、あるいは鈍感とかに表れる「気配の察知」によって時を眺めるのかは、表現方法の巧劣にみる文章や口舌にはない自得性がある。
瑞穂
麻生氏は、ばら撒き分配に、゛さもしさを感ずる゛と困惑した。
たとえばあの麻生総理の言動を伝えるマスコミの認識表現とそれによって動く大衆の姿とは別に、鎮まりの中で独想する麻生像では、たとえ錯綜しながらでも選択しなければならない択一決定には惜しい部分を残すことである。
愛する人やモノを囲いたい欲望と自身の自由への担保、平等への賛意と他人よりも物心に幸せになりたい欲望、それは小さいながらも自身の幸せ達成感だろう。
それが多数になり複雑な要因を加えて国家と成すとき、麻生例に記した、゛惜しい部分゛を誰かに代わって表現なり具現してもらったらバランスのよい、言い換えればホッとする国家になるのではないだろうか。
例えば、社会の目立たぬ場所で生活する人々・・。災害被害に戸惑う人々・・・。そこに手を差し伸べる内外の温かい心・・・。
それを語り行動する存在と、゛さもしさ゛の状況に、制度によって選択された為政者として複雑なおもいと我が身の限界を感じざるを得なかったのだろう。
それは、あの御方だけは理解していただける、ゆえに宰相として慙愧に耐えない政策をせざるを得ない無力感も推察される言葉のようだ。
つまり、宰相になって始めて得心した陛下の忠恕の表し方であり、国民の受け取り方である。
カマドの煙の逸話のあった祖帝仁徳ではあるが、あくまで民の自立と自活を援け、それを待ちわび自らも質素倹約の美徳を営みの銘としている。
今はどうだろう、カマドの煙は立ち昇り人々は熱狂と偏見の渦に政治すらまま成らなくなっている。その意味では今次の対策は煙の立たない国の配給の類である。
租税の適正支出が歪むと何れは増税となってしまうことへの察知が、゛さもしさ゛の呟きであり、陛下から大御宝と慈愛される国民への、゛惜しい゛気持ちだったと観るのである。
カソリックでは教会の小窓に向かって懺悔する、そして神は許すと・・
だからといって自由だ民主だと謳って財利の欲望を撒き散らしたりしてもいいとは思わないが、教会の小窓の向こうに誰がいるかは知る由もない。
仏教を布く寺の住職の説法も、その惜しい部分を考える心はあるという双心の在り様を仏教の思考法で伝えるが、時折、世俗の人の顔も織り交ぜて苦悩や懺悔に意味を与える救済法を用いてそれなりの「律」という掟や習慣を課して団を形成している。
考えるに難儀な喩えを連ねたが、国家や民族、分かりやすく言えば多様な種の意義を護るセキュリティーについて当てはめ、現況の、゛惜しい部分゛への素直な発露と、かつ心の一方を択一せざるを得ないことによる柔軟性のない社会や、それによって起きるであろう争いや連帯の崩壊を食い止めるために、もう一方の忘れがちな生活制度の選択肢である王政の復考を描いたらどうだろうか。
王政といえば古代律令や維新もあるが、なかには陪臣として栄華を図るような糜爛した政治もあった。また往々にしてその傾向が有り、特に官吏の専横や軍人の跋扈がその例だが、都合のよい無責任な人間に取り巻かれると、それこそ裸の王様になってしまうようだ。
議会制民主主義とはいっても権力は行政府、つまり政府の専権であり官吏の趣き次第で変わることが多いようだ。面前権力である税(徴収)と警察(治安)の姿で国家は変化するとは賢人の言だが、公平と正義を顕す官吏の歪みはダイレクトに国民の怨嗟や反発、あるいは抗しきれず怠惰に陥ってしまうことでもある。
だだ、武器や多数の人間、あるいは財貨の量、細々とした法律で統治すると、国民の連帯や調和、あるいは目的に向かう突破力にみる活発さが薄れ、まるで小さなやりたいことだけに没頭する人間を作ってしまうようだ。
草食人間と揶揄される類もその例だが、つまり、゛やりたいこと゛ではなく、゛行なうべきこと゛が見つからずヒグラシのような生活しか分からないような行動をとってしまう。
或る時,青年達にこんなことを質問した。
「いま私達は自由と民主、そして平等と人権に飾られた資本主義という圏内に生きている。いろいろ楽しい事もあるが,どこかオカシイとも感じている。
振り返れば天皇親政や武家統治もあったが、そのときの人々にも様々な欲望が有り問題意識があった。封建が良くないからと借り物の立憲君主、議会制民主主義になった。
そして国家という呼称が生まれ国民になった。
様々な歴史の出来事を紐解くと色々な人の行為と共に、なんとなくこの地域に棲む民族の思考の習慣性と癖が解ってくる。
それはお金に対しても、他人に対しても、善悪に律する気持ちについても独特なものがある。世界の種々な民族や文化圏から見て、夫々が異人,異物として考察される。
また、その成り立ちの意味には必然性がある。中国の孔子や孟子、中東のマホメットやキリスト、宗教や食べ物も政治形態も違う。とくに罪と罰において顕著になり、運用する権力や執行する官吏の姿も違う。
大小の違いがあるが、共産、資本などの主義も変化し、宗教とて陣取り合戦(戦争)を現在でも繰り広げている。
そのなかで成功価値や幸せ度が計られるが、総じて財貨や物の量とスピード感や便利さが主なものだ。
社会で生きる為には看過するべきこともあろう。また無闇な問題意識から反抗心を描くこともあろうが、せめて多くの意味を含んだ、゛囲い゛を木製にするのか、鉄製にするのか、コンクリートにするのか、あるいは囲いを取り払って茫洋な世界にするのか、その意味で現在の囲いに問題意識を持ってみてはどうか・・・
江戸時代にちょん髷、二本差し、篭やフンドシが歴史の時空では一瞬に変化して、三十数年経つったら近代兵器を操作して大国に勝利した。多くの戦士は今どきの学歴や財も無い庶民だ。
江戸時代に置き換えればちょん髷も何も当たり前だった、そのなかで流行も有りブランドもあった。はたして現代を想像できただろうか。
それは、今を過ごす私達にも当てはまることだ。
その意味で、この地域に棲む人々の姿の変遷を考えて、「今」について問題意識を持ち考えてみよう。現在の様々な問いを解決するスベがそこにある。
そのためには他と異なる考えを恐れないで欲しい。」
主義やスローガンは看板であり体裁のようなものとして、民族によっては意味の無いものと嘲笑し、あるいは四角四面な理念として安住し行動すら狭めている民族もいる。
好き勝手を担保とする自由と民主、勤労や自尊を削ぐ平等と人権、怠惰や糜爛を生む成功価値をつくる各種主義。そのようにも置き換えられる面前の囲いでもあろう。
「復(ふたた)」は再び甦るであろう民族の培った歴史的残像への邂逅でもある。
つまり邂逅という思いがけずめぐり合う潜在する心の動きでもある。
また「王政」だが、フランス革命以後の国家の長(おさ)の追放は、獲得制度の恣意的目標であった民族の連帯解消と放埓した生き方の至上価値としての刷り込みとなり、自由と人権の標語の下、多くの対立の溝を新たに構成しつつ同民族間にあっても信無き状況を生んでいる。
いわゆる説明や情報開示を求めるのみで、古人の謂う「知って教えず、学んで行なわず」の関係が多くなってきた。
いや、下々のさもしい嫉妬や怨嗟が昂じた猜疑と考えるのは簡単だが、人の不信より自己を知らない、「自信の無さ」変じて「自心」の無さの及ぼすことではないかとおもえる。
孟子も「人心、惟(これ)微(かすか)なり」と当時の世情を観察している。
「人心」つまり人の心の動き、あるいはその兆候だが、自れと他人を峻別すると違いが鮮明になり自己の置くところも分かってくる。そして競争や感謝、あるいは恋慕も生じてくるが、自他の分別が無いと鏡として観る自分以外の世界が読み解けず、徒に嫉妬や猜疑心を招くことになる。
逆に修行のように自己の内面を探ると反省や生き方の転換という境地が開けてくるが、それとて自己の内在する双心(ふたこころ)の葛藤が生じてくるが、切り口しだいで思慮深くもなり、また他に対しても理解ある行動をとるようにもなる。
ここで気がつくのは内面を探るときの双心の一方に精霊なり恩顧の心が介在しているように見えないだろうか。また、その課程で自身に気がつかなかった潜在する能力が発見できないだろうか。それは現代人にとってことのほか面倒な考察かもしれないが、他を観察する場合における座標なり自分なりの観察眼の涵養には適切な方法であろう。
為政者の統治や事業者の決断に比べてことのほか曖昧であり、統計データーには表れない姿であるが、大衆としてあるいは群れとして括る経営とは別に、一方では深層にある人情や普段は気がつかない潜在する能力の把握は、右往左往する前に感受すべき「人心」の基礎的観察データーといえるものである。
明治以降の官制学には双心の一方の在り様を明確に、あるいは心のセキュリティーとして明確にするするカリキュラムも無く、近頃では精霊や恩顧を認めることすら微かになってきている。
とくに外部に気を取られ欲望の喚起が甚だしい世情において、゛なにか変だ゛゛どうしたら゛と掴みどころの無い不思議さに囲まれると、なおさら自身の内面に潜在する観照力や精霊を察知する良知が乏しくなる。
現世の宗教や財貨、あるいは眼前の欲望にある温泉、グルメ、旅行、イベントなどの流行ごとは、東西の栄華を刻んだ文明の末路における大衆の姿をみるように顕著になってきている。
直感で感じられない、問題意識もない、そのような姿だとしたら一先ず居を変えたらどうかとおもう時がある。
コンクリートの屋根は水をはじき落下する。茅葺は少しの雨は保水して熱は気化する。森も然り。
王の政(まつりごと)とはそのようなものだろう。
それは常に選択を迫られるときに置いてきぼりにする、゛惜しい部分゛の再考を描いているから気がつくことでもある。