まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

逍遥録  伝、エリートの呟き

2024-03-27 01:10:31 | Weblog

  下北  カマブセ山

 

文化文明は興隆し、財貨を蓄え矛と盾を増大し、「高学歴」と称するものが増えても、世の中の「なぜ」に妙答も智慧もない。

世の先達たちは死生観もなく、いたずらに死を恐れ、繁栄の残滓を残したまま戸惑い生きている。

笑談の臨機に切り口が見つかったように突然、耳元で口からもれた至言があった。

 

伝とは、絵画の作者などの、゛そのように伝えられている゛作品だ。

掛け軸などで江戸時代の作者名が揮毫されているが、本物か偽物か真贋は判別しないが、その作者だと伝えられているという意味で「伝」と冠される。

 

ある晩のこと友人が、「安岡先生の文なり言葉は感性を以て理解しなければならない」と発言した。戸惑ったのは感性への理解だった。彼は学び舎エリートで派遣留学でスタンフォードで早々とドクターになって帰国、官域でも高位を得た人物である。巷の立身出世組と異なり現場認識に秀でるゆえか、将来を推考して醇なる問題意識を涵養している稀有な人物だ。

 

筆者も教育者,道学者としての安岡正篤氏と妙縁をいただき、幾たびか忠告、提言、文章添削をなど戴いたが、「感性理解」とは思ったことはなかった。

だだ、世俗の学び舎の合理を求める課題に汲々として答えを探るようなことはなかった。

自身の童のような稚拙な不思議感だが、たしかに己の視点や観察、行動への好転、結果への対処が多くの他者と少し違うのかなと感じてはいた。

 

感性での理解」帰宅後瞑想した。

何となく、こんなことを書き連ねていた。

 

学舎は合という理で充て、世間は非合理なるを万象の真理とする。

整理すれば 「合理は論で充て、非合理は感性で充て、不合理は無理に充て」

古諺に「平ならぬことを平すれば平ならず

もともと平らでないものを無理に平らにすれば不平を生ず、ということだ。

生まれながらの天爵と人為で成る人爵もある。

それを無闇に平ら(平等)にすれば夫々に不平が生ずるだろう。

人の特徴に、モノ覚えがよく暗記が得意なものは試験に向いているが、人格は問えない。

計算が得意で、組織人として従順なら官吏か銀行家だが、無償の情感は乏しい。

暑さ寒さをいとわず肉体的辛苦を問わないが計算が苦手なものは、秀逸な匠や篤農にもなれる。つまり自然界からの自得だ。

昔は「あの子は計算が立つので心配だ」と親は注視していた。多くはオットリ好人物の長男ではない兄弟だ。

ならば、試験に向いているものや組織人を、肉体的衝撃をいとわない戦士に任じては国は護れない。いや似つかわしくない。

 

  

   東郷は運がいいからと  感性と直感の人事

 

容姿も天爵がある。

青ひょうたんのように軟弱な者はヤクザ渡世の世界では威圧感が乏しい。いかつい男にはナンパな口説きは似合わない。心根はあるのだが似合わないと人は勝手に感ずる。

 

ある国では、幹部登用に外国高官と比して見栄えが劣らない顔はともかく、長身の者を任用する。稀に出現するが、往々にして隠れた実力者として権勢をふるっている。あるいは国民は貧困で痩せていても為政者はふっくらと太っているが、姿かたちも威厳になるようだ。

 

  

  官界の変わり者 後藤新平と任用した児玉源太郎  人事は何を見るか

    

 

はたして、人権や平等という主義の謳う人間社会理想の合理だとしても、論の立て方は難儀になる。ましてや学び舎の課題としてもどこに論拠を充てたらいいか答えも数値評価も、世間の実利からすれば詐学、利学、錯学の類でしかない。

近ごろは錯学や詐学を頭がいいエリートと称して素餐をむさぼっているが、まさに不特定多数への利福増進を妨げ、錯覚を誘い、欺く不合理ではないだろうか。

 権力あるものに課題を与えられれば、疑問さえ持たず、好むような答えを出そうと努力する。忖度などではない、教育奴隷のなれのはてだ。

故に人物を育て観る目を養うことを為政者の学びに求められているのだが、「観人則」のかけらもない組織の末路は歴史の証にもあることだ。

不合理は無理と書いたが、無はゼロないしナッシングではない。西洋的合理からすれば無意味な「無」だが、ゼロ概念発祥地東洋では、ゼロは「無限」の端緒であり、創造の種と考えられていた、いや今でも活学されている。

 

それが友の呟いた感性で覚え、察する境地だと思う。

まさに入道の観がうかがえる合理を含有した人間科学認知への端緒に立った呟きだった。

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優しさへのとりなし

2024-03-25 19:47:24 | Weblog

 

「郷に入れば、郷に倣う」と年上に諭されたが、人情や道徳心はたとえ異郷や異民族の地に入っても、変わるものではない。

よく言われるのは、すみません、わるいね、は自分の罪?を認める事になるので言わないようにと教えられる。エキスキューズミーに似た心を譲る「礼」の意味だが、使う場所にもよるらしいが近ごろは無言も多くなった。

近頃は人の様子を覗うような情報は欲しいが、自身にとっとそれほど有用でもないものは見向きもしないといった手合いが増えているようにもみえる。
少々、へそ曲がりな観察かと反復もするが、その傾向はある。

とくに安易、つまり易しい事柄ばかりに慣れてくると当然のことだが考えることすら面倒になってくる゛易きに流れる゛とか容易ににある自身の小さな「容器」に納まるものしか考えられない状態になってきている。「容」・・かたち、ゆるす

この「容」だが、考え方や切り口によって大きくも小さくも、また変容するものである。
その意味では多くを知る、広く知る、深く知ることが昔からの学問の勧め方だったのだが、いつごろからか知識が情報として、しかも種々雑多な方法や営利の目的に利用され、人の姿や雰囲気を作り上げる部分としての知識が却って流れに浮遊し、情感さえも衰えさせるようになってきた。

確かに文字や映像を通じた情報はわかりやすいが、何かを察知するためにはより多面的な集積と、「思い込み」を避けるための自身の座標軸を確かなものとして行動なり対応に対する動きを柔軟に出来るようにしなければならない。

野球にたとえると安打製造機と呼ばれた張本勲氏とイチローの決定的違いはバッターボックスでの動き方がある。





                

        ジャイアンツHPより   張本勲氏


右足を基点にするが特徴は左足の送り、イチロー氏は球種、速度に応じて自在に動くが、張本氏は身体を押し出すように蹴る動作をする。夫々が異型であり今までの定説を変える姿だが、共通するものは選球と動態を追い変化を読み取る瞬時の対応に優れていることだ。つまり応用は手であり添え足であっても回転は「軸足」である。

もちろん瞬時に覚ったり見抜いたりする直感性だろうが、往々にして頭の理屈より体の慣性ではあるが、これも知識技術の修得以前の習慣学習に譬えられる小学の「躾け」の理屈なき体得に似ている。

それが表れるのはグランド整備、用具の選択と片付け、自身にあった練習、他人との調和と連帯、スポーツマンならずとも世に出るための必須の自得である。


               

ジャイアンツHPより     王選手



さらに考えれば両氏は人の対応をを大切にする。これは王選手もそうだが真剣な集中力を支える野球に対する取り組みに、゛好きで優しい゛心があるからだろう。
「好きで楽しくならなければ勉強は覚えない」と孔子も謂うが、゛易しさ゛では到達できない事でもある。



               

       ヤフーニュースより   イチロー選手



また好きで愉しいことは難しいことに挑戦する探究心も生まれる。難しいことに向かうと人は険しくなり自身に厳しくなる。

かといって易しさに馴れたものにとっては見ることと聴くことに驚きはあっても、彼等の優しい対応の深いところにある厳しさや優しさは見ようとはしない。いや、゛そこまで教えてくれないから判らない゛と。




  

               ジャイアンツHPより  




それぞれと見方はあるだろうが、人から習うとはそのようなことのようだ。
それは、ヤンキースの松井選手のジャイアンツ時代の逸話を練習場に通っていた老人の言葉として紹介したい。

『ともかく松井は礼儀正しかった。必ず球場に入るときは帽子をとる。なかには有名選手の中には斜めにかぶったりバットを引きづる者もいたが、松井の姿勢はいつも変わらなかった。練習が終わって帰るときは多くのファンが選手にサインを貰おうとフェンスに並んでいる。松井は一人ひとり丁寧にサインをするので多くのファンが並んでいる。みな疲れているだろうが松井はあたりが薄暗くなるまでサインしていた。




                

    ジャイアンツHPより   松井選手


なかには笑いながらそっぽを向く選手、下を向いたまま早足で過ぎる選手、嫉妬なのか薄笑いをしながら帽子を斜めにかぶる選手、松井はそんな環境で練習をしていた。
彼の偉いところは嫌な顔を見せなかった。松井の成績はともかく人の在り様を見せてくれた選手だった。とかく人気といものは付き方によってファンに変な影響を与えるね』

この老人も野球が好きだった。そして松井の仕草をみるのが楽しかったようだ。或るとき名も知らぬ新人が一軍で活躍したとき、ことのほか喜んでいたのも老人だった。
『彼はいつも陰で松井の仕草を見ていたょ』

ヒットは何本、年俸は幾ら、易しい見方ではあるが、厳しさから培った真の、゛優しさ゛はなかなか感知できない世の中になった。
とくに世の中の現象に慌てず、騒がず、競わず無名で暮らす人々の優しさは、誰に言われるまでもなく率先した仕草にみてとれるようだ。

ただ、口にしたり、人前で動くと無い腹まであれこれ探られる時代だが、松井選手のように環境を変えてみることも一考だと思ったりもする・・・・

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貪りの民の必須学 「賄賂学」の提唱 11 1/20再

2024-03-21 09:55:17 | Weblog

2012年 夏


隣国、中国の専売かと思ったら、防衛庁、国交省、東京都まで騒いでいる。こちらもオスプレイ同様ヘリコプターや地下に潜った水道工事、どこにでもその種はある。尖閣竹島も大切だが、納税者にとってはこのバチルス退治の方が重要だ。

こんなことをしているから狡猾官吏の手玉にのった貪り議員の扶養費(生保)押し込み、便宜供与が目立ち、議会答弁でも官吏の不手際の言い訳を議員が負っている状態になる。
あえて極論、奇論のごときに映る「賄賂学」の提唱は、実に合理的実利の真理であろうと考える。どうだろうか・・・、体形化して論理付けたら面白い学説が現われるのではないだろうか。
今の時節、この教科に取り組むもの益々多くなること必然。

まずは東大法学部や警察大学校が魁となれば国家にとって有益なる効果が出るはず。


以下、再掲載

少々、長文だが・・・


これはアカデミック(学術)な経済論や学校のカリキュラムにはないものだが、隠された人間の所業として、重要な部分を占める問題でもある。金と便宜のやりとりは法律という成文法には犯罪もしくは抵触するものとして周知されている。それは表の数値を支え、もしくは支配する重要なポイントでもあるが、あからさまにされることはない。


その姿は、上に厚く、下に薄く、実利の量にあわせて配られる。
胡錦濤主席が訪れるところ首脳外交では各々数兆円の購入をおこなっている。飛行機をはじめとする高額なものだが、民主国家の経済を熟知した金の使い方だ。そのようにあからさまな使い方は日本では馴染まなかった。「金で頬を叩く」様な態度は成金か金貸しとして蔑まされた。近頃は「そうはいっても喰うのが先決」とばかり、抵抗感がなくなり、政府の消費税折込の御用金の配布に誰もが手を出すようななっている。「貰えるものは貰って当然」とより多くの御用金を強請るようになってきた。



               




つまり、貰い慣れるようになったのである。もちろん此処で記す賄賂にも抵抗感が少なくなったかといえば、逆に賄賂に関係した人間を徹底的、執拗に糾弾して嫉妬の溜飲を下げている。それは隠れて貰って判らなければ、という人間の質に似てくるようだ。

ビジネスに例えれば、成文化した契約書もその不可は、接待、便宜供与、賄賂というアンダーテーブルが有効さを増すことに似ている。


それは華人の商慣行が世界に周知され、市場確保のために順応せざるをえなくなった国々は、中国の善悪規範を超えた賄賂(人情、潤い)の考え方に驚愕の有効性をみている。とくに開発国であるアフリカや南米、南アジアにおけるアンダーテーブルの即効性は市場や資源の確保競争に群を抜いた力を見せつけている。またそれに倣うように賄賂に対して穢れ意識や宗教規範を持っていた諸国も、背に腹を代えられないとプラスアンダーテーブルの手法を陰ながら研究し始めている。

表立ってアカデミックの土俵に乗せられない厄介な問題のために遅々としてすすまないが、生活の習慣性となった華人の賄賂提供と人情の確保には足元に及ばない。華人はあからさまに、ダイナミックに、当然の如く行動できる柔軟性がある。

その理解はグローバル・スタンダードを提唱し、また追従した範囲では許されないダーティーなものだった。それはその世界のルール違反であった。あくまで表面的にだが。

賄賂には許容量もなければ、無知のためかセキュリティーもない。あるのは当世三百代言であるコンサルタント、弁護士の食い扶持であるコンプライアンスによって自身の智慧や突破力を自縛した結果でもある。またこれを倣い学び活用するすべもない。それは余りにもアカデミックな論証や検証に馴染まないからだ。

だか、経済のすすみ方がいままでの経済論にあるスタンタード(基準)を超えて出現したとき、どのように対応したら良いか戸惑っているのである。それは数値や成文化されたデーターなどに過度にこだわり、唯一の選択として考えたために、本来、人間のなりわいの根底にあるエスノペタゴジー(土着的)な考察を無意味なものとして忌諱してきた結果でもある。

金融資金によって生産を管理し為替、投機によって利潤を生んできた中東に根をもつ民が基準として広めてきたシステムが、人の所作応答と欲望を自然な営みとして実利ある人情(賄賂)を交換していた民族の勃興によって世界のいたるところで戸惑いと煩いを発生させている。

表相の力である政治力、軍事力が賄賂を添えることによって、相手国の政策まで転換し転覆さえおこす。日本でも戦後間もなくは戦後賠償で多くの相手指導者に資金提供をおこなった。あるときには女さえ提供した。また冷戦時には各政党のスポンサーは思想の類似した其々の大国からの提供だった。政党会館の建設資金数億円の現金を風呂敷包みで受け取ったものもいる。隠れているが当時の売国的行為は現金より利権だった。


                 


賄賂は商行為の契約、政治の政策も変える。関係する個人の懐にねじ込む、あるいは手を差し出すものにわたせば良いだけだ。海外口座に入金、親族の便宜供与など手口は様々だが、数人の総理候補者からそれぞれ金をせしめる議員も多いようだが、賄賂学でもあればで教師にもなれるが、あくまで上手に貰うための、゛さもしい゛部類だろう。

これほど認知され、効用もあり、相手も喜ぶ賄賂をいつまでも儘っ子するものではない。
いまのカリキュラムにない「人間学科」の「金銭哲学の認知とその手法と効果」として作ったらどうだろうか。
経済学科では、もっとも効果的な資金の活用としてシステム化し、その実例を背任汚職、贈収賄事件の前科者と検事、知能犯事件の捜査二課担当者に事件の表裏と、捕まらないためのセキュリティーを聴講したらいいだろう。


それは社会規範や法の運用者や執行者が弛緩して、賄賂成立の元となる日本人の「貰い慣れ」「渡し下手」が顕著になったこの機会に、是非とも表面化して、みなで学ぶ賄賂学が必要のようだ。経済も停滞し、政治もオボロゲ、加えて「金」という善悪を包み込んだモノに理解もなく、しかも弱く、金によって是非分別、公私の峻別もなくなる人間の本質を考えるべきだろう。



              






あの田中総理も権勢もさることながら、役人の本人家族やマスコミ、配下の陣笠の佛祝儀に現金を手渡し「人情だ!」といわれると皆、懐に隠し持つように受領する、ある意味では大らかさが金の穢れ意識を祓ってくれる。渡し慣れ、貰い慣れの賄賂なのだろうが、不思議と社会は活気があった。

その様態は、渡し方、貰い方、隠し方、使い方、と表の経済に増してダイナミックかつエキサイティングで、どちらも智慧を絞った、゛面白み゛といって良いほどの満足感があるようだ。十手持ちの袖を出す仕草や、岡っ引きのタダ酒も、お目こぼしの情けといったものだが、現在は執行者でも戸惑う煩雑な法を乱造して、合法的に小銭を召し上げる手法がとられている。十手持ちは御上のご政道を盾にしたが、いまは安全の為、公平の為と妙に口も挟めない納得性が添えられる。

マネーロンダリング(資金洗浄)ではないが、人情を添えた目こぼしが無い代わりに、投網のように細やかな法を駆使した合法的、組織的な徴収が行なわれている。あまりにも機械的なためか名目の公的題目を越えて国民の怨嗟の発生を膨らませている。

文明国家の体裁なのか、人も法も金次第という狭い範囲の一種の潤いの関係のようなものを、倫理道徳上、あるいは法治の守護として、あるいは我国の民癖であるという四角四面な構え方を法治の姿として、面前権力の執行者に委ねた結果、善なる施政との印象となった。しかし、間違いなく、善であるという見方とは逆に、運用者や執行者の専権として肥大化し互いに税利を貪るようになったことも現実だろう。しかも、それが止め処もなく増殖しているのである。

先に書いた口応えもできない怨嗟は選挙で選ばれた政治家に向かい、その体たらくから官吏コントロールの信頼は薄れ、国民各々も社会的貢献は官製イベントに括られ、個々の公徳心や他にたいする貢献などは官任せの状態となり厭世観すら漂わせている。

総じて観れば裏や陰のやりとりがある社会は民衆がダイナミックである。たしかに、あの高官は賄賂がすごい、あれは賄賂のお陰、と聞くし、それゆえの持たざる者と持つものの差は拡大するが、それでも生活力と人情の連帯はみるべきものがある。

古諺をひけば「平でないものを、平にすれば、平でなくなる」といって、もともと働けず、金儲けの手段もなく、貧しいものを、人為的に金持ちと平均化すれば、不平がおきる。また社会の連帯もなければ、立場の違いを超えた積極的な社会参加も乏しくなる。なぜならありもしないような、人に当てはめる「平」という考えは双方に苦しみの情(苦情)の種を蒔くことになるからだ。また平等分配を待つことは、「動かずにその位置にいなさい」、ということでもある。

この時代、職分はあっても身分はない。身分は貰う立場にも既得権益を与えるし、渡すほうにも専権から生じる既得益を与えるものだ。つまり、身分の固定化は自ずから発生させていることでもある。

賄賂は色々な姿に変えて立場を任ずる人間に潤いを与えている。法のあるところ賄賂は必然であるといっても過言ではない。また利だけでなく「便」を得ることでも賄賂は発生する。状況を容易にするために「利便を働かす」というが、配達人に荷物を速く届けてもらうにもインフォーマルな銭の提供がある。最近のバングラデッシュのことだが、郵便局の窓口や配達人にも当然の如く手を出すものがいるという。パスポート取得の手続き期間を短縮するのに便宜賄賂は多くの国で共通した官吏の姿だ。








               

  彼は与党の小遣い賄賂には無縁の位置に自らを置いた

  独り自民党案に賛成して起立する野党の渋谷修議員
      与野党談合忖度議会に反発し、55年体制の終焉の端緒となった
 





日本人の満州官吏は真面目だった。「しかし」と古老は笑う。「あの偽満州はよかった。泥棒も少なく役人も賄賂を受け取らなかった。だがお陰で俺達小役人には小遣いが下りてこなかった。これには参った・・」

「あの頃は多少の悪いことをしても金持ちは金を配った。「力」というものはそうゆうものだ。いまは賄賂を貰っても銀行貯金だ。ひどいものになると海外口座と子供を海外に出して永住権をとり、いつでも逃げられるようにしている。本当はみな考えていることだ。あの偽満州の日本人はこの地で死ぬつもりで頑張った。ただ泥水でも生きられる魚は清水でも生きる。しかし清水に生まれた魚は泥水では生きられない。早く負けて日本に帰ってよかった。そうでないと日本そのものが亡くなっていた」

渡すことと、召し上げられることとは自ずから異なる。
日本人からすれば五右衛門の「浜の真砂は尽きぬ・・」と思われるほど賄賂が流行っているが、中国の歴史に多く登場する宦官の賄賂は言葉を変えて「人情を贈る」という。
ただ、成文法ではご法度である。汚職の処刑はいまも絶え間なく続いている。

「上下交々利を征れば、国、危うし」というが、皇帝はもともと己の所有する国なので獲る理由が無いが、宦官は性器まで切り取って宮廷出仕するためか殊のほか賄賂に敏感である。忠臣蔵の松の廊下の刃傷沙汰も内規作法を、教えた、教えない、の争いだったが、これにも礼という貢物が絡んでいるという。大奥の寝所の睦み話しも口添えがあったようで、茶坊主と老女の監視のもとに秘事を行なうようになったというが、これにも便宜賄賂が絡んでいる。

宮廷でも内外の諸国から貢物が皇帝の前に並べられるが、一番目立つところに置くことが宦官の職権であり賄賂が発生する。この場合はお礼、つまりその世界の礼儀作法のようなものである。それが輔弼として権力を壟断するようになると賄賂どころではなく国家予算すら掠め取るくらいに強欲になる。

紫禁城とはいうが、ことのほか禁ずることが多かった。官吏が禁ずることを作ればつくるほど賄賂が増えるのは古今東西、いずれも同じだ。ただ地方官吏と紫禁城の宦官との官々のやり取りは我国の官々接待と同様だが、彼等はあくまで金のやり取りだ。それに引き換え我国は金では足が付くと、旅費、宿泊、宴会付の官々接待だが、民間が絡むとノーパンしゃぶしゃぶやゴルフ会員権贈与、天下りの予約など官吏らしい「さもしくも卑しい」饗応が繰り広げられる。

一時、規制緩和が叫ばれたが、隣国鄧小平の開放政策同様、政策などというものではなく、縛り上げた規制を「解き放った」だけのことだ。ただ解放されたときの民衆の姿は異なるため隣国はより慎重さを求められる。香港返還後も一般の自由往来はない。はじめは幹部の子息が基盤を作り、香港らしい自由を謳歌した。いまでも香港パスポートは中国にはない特別な効力がある。

 

              

 


我国でも晩節まで司直の世話になりそうで、なりっこないと見透かされている元大蔵の最高幹部は、ゴルフ場開発が盛んだったころ、労働省のノンキャリアを道連れにゴルフ場回りをして帰りには会員権を貰って帰っていた。ゴルフ場には労働省管轄の規制があるためだ。売れば数千万がざらだった会員権も、土産に会員権二枚とは恐れ入った所業だ。

これは、お縄になっていないが、便宜供与はある。それも認印一つの世界だ。
この大蔵、労働コンビは関東一円のゴルフ場の新規開場に絡んで、数億円の紙切れをもらい、労働官吏は数奇屋様式の豪邸まで業者の便宜を受けている。もちろん親族も公務員だが、生活費は管理下の売店の経理を操り、給料は手付かずの優雅な人生を過ごしている。

あのリクルート事件でも労働省幹部が逮捕されたが、地味な役所と思われている今の厚生労働省の規制権限も大蔵キャリアの威光に添乗するように、行政全般に投網のように広がっている。ともかく四角四面といわれる日本の官吏もその狡猾さをみれば、世界に冠たる秀逸さを誇っているようだ。立身出世を支える学校歴は文科省、命は医薬と医院を管理下におく厚労省、それが金主の財務省と個人的な関係になれば、治安官吏も手を出せない。

あのロッキードのときに裏道で車と車の尻を合わせて五億円を渡したといわれたが、国家予算さえくすねる国から見れば、なんと些細なことだと嘲笑される。
賄賂なりコミッション、はたまたチップを生活の足しにする倣いは欧米にもある、とくに暗黙の身分がある地域は、有る者が無い者に贈るのは対価ではなく宗教的にも人の在りようとして贈るようだ。





               

         『なにごとも、ホドが大事だ』



「言いえて妙」ということが当てはまるなら、官吏に対して民間が媚び諂ってモミ手で差し出す金を懐に入れることと、心や気遣いに対して「心付け」を差し出すことに日本人は公私の間の弁えはあった。また、貧しい人や対価にならないような偶像には喜捨という文字を当てはめた。

江戸っ子は掌に隠れるくらいのポチ袋に紙幣をたたんで、分からないように襟元に差し込んだ。あるいは連れの子供に小遣いとしてわたした。

大勢の前で財布を開けないことが常識人だった。もちろん、長(おさ)は早めに席を離れ、相当の金を店のものに預けた。金は隠れたものであり、隠してわたした。割り勘で上司に悪態をつけられては割りに合わないが、その割り勘も近頃では行儀の悪い若手のアドバンテージのようになっている。

日本人は金の使い方、渡し方がことのほか下手なのだ。使い方が己の趣味や嗜好に限定しては、他からの見返りも人情もない。交際費や雑経費に頼れなくなった社畜や貪官はコンプライアンスや内規に縛られて実質数値さえ激減させている。つまり精神も身体も気が抜けて弛緩しているのである。これも幾らかは女房の管轄下にない金で始末は付く。


華人国家はその得意とするインフォーマルな手法を、経済発展と共にスタンダードとすべく世界を足下に置きつつある。

我国の官製ODAのように日本企業の採用と国内既得権者へのキックバックなどのようにシステム化されたものではなく、金の効用を公私の別なく、しかもケチらず投下している。しかも天下思想を観とした民族性癖は世界のいたるところを住処にしてダイナミックに浸透している。
我が祖国、我がグランドは天と地の間として地球の表皮を縦横に躍動している。

四角四面に非難することではない。グローバルスタンダードを提唱したのは白人社会だ。それも国家のカテゴリーを超えて、その時代の強国をヤドカリにして食い荒らしている民族だ。双方、インフォーマルな財利の効用を熟知し、その状況を都合よく作るために情報、謀略を駆使できる狡知もある。また人間の弱さも習性として認知している。

つまり、色(性)、食、財という欲望の本質を、虚構の知欲を発信することでコントロールし、そして彼等の得意とするグランドである商工業と金融為替に誘い込み、その仕組みを成果あるものにするために、獲物である民衆を思索と観照を不可能にして、獲物のセキュリティーである固有の神や精霊の志操を弛緩させてしまったことだ。

賄賂(金)で志操を売る民族と、一時の人情の交換と考える民族の違いは、付和雷同、四角四面を性癖とする人々には峻別が付かないだろう。なぜなら賄賂は邪まなことではなく、使い方、貰い方、渡し方、隠し方を「粋」や「通人」の魅せる世の情とした江戸庶民を範とすれば容易となるだろう。

見え透いた、もったいぶった、格好つけた、没落成金の見せ金は、渡したところで効用が無い。「もっと寄越せ」と続くはずだ。賄賂は悪銭となるか良貨となるかは、日本人が野暮で古臭いと忌諱した古き人々の倣いにあるようだ。

やはり、賄賂効用の学は必要だろう。

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中国人は中国人に戻り、日本はアジアに戻れば・・

2024-03-20 08:47:01 | Weblog

       佐藤慎一郎先生

 

孫文は側近の山田に、「真の日本人がいなくなった」と呟いた。

その山田の甥、佐藤慎一郎は敗戦まで二十年以上も中国社会で生き、その体験を通じて、戦後は中国問題の泰斗として要路に提言や気骨ある諫言をした人物である。

 

その佐藤氏と筆者の応談は音声記録「荻窪酔譚」として残されている。

いつもは荻窪団地の三階の居間で御夫婦とご一緒の酔譚だが、悩み,大笑、ときに不覚にも二人して落涙することもあった。

「これもある」と、長押に設えた棚から降ろしたり、背後の書棚から引き出したり、それでも「ほかの方がご覧になるから」と遠慮すると、数日して依頼文を添えて送付していただく。

 

すべて音声応談に関することだが、講話依頼の課題に逡巡すると、その音声を聞くたびに、無学な恥知らずを回想している。

昨日のこと、アジアの「そもそもの姿」を考えたく、繰り返し酔譚を聞いた。

そのなかに「中国人は中国人に戻る。日本はアジアに戻る」それは、孫文と山田のことを聴いていた時だった。

 

筆者はすぐ応じた。「孫文は山田さんに、真の日本人がいなくなったといっていましたね。それは台湾に革命資金の援助を当時の民生長官後藤さんに頼みに行った時のことでしたね」

 

「後藤(新平)さんは菊池九郎から大きな影響をうけた。叔父もその関係で一緒に行ったが、後藤さんの対応に孫文もまいってしまったと、叔父が言っていた」

  • 菊池九郎・・・代議士、初代弘前市長、東奥日報、東奥義塾創立 

 

「・・真の日本人。異民族に畏敬されるような日本人、日本人の命題ですね」

 

中国人は中国人に戻る。日本はアジアに戻る

言いたいこと、書きたいこと、様々だが、そもそも「言うべきこと」は、なかなか聴くことはない。この「・・・戻る」ことも稀な論だが、市井に生きて中国なるものを体感した佐藤氏ならではの至言でもある。

 

    

          山田侍純三郎 佐藤慎一郎 故郷弘前

 

以下、荻窪酔譚 抜粋

 S…無佐藤慎一郎先生 T・・・筆者

 

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。 国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〈 もしも ~ならば、 〉を遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。

T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。

S : 勅任官が留置場で僕に 「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。全く情け無いよ。

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した侍従元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、

    「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒の彼らが国家指導の任に堪え得るで或ろうか……

と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。(暗記)

T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が

お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、 と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

 「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。

  其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ「はい、解りました」と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

分かりましたと云えば先生が悦ぶと・・・

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、多寡が人間のやる事だ、と。

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。

 

      

             弘前城公園

 

T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんです。

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟  どち等で判断しますかね?

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種類の人間は) 考えられ無いよ。

中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

T : 自然の三欲 〝食・艶(異性)・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、公の席は公文書だからだ。

 

        

            津軽の学び舎 悠心居

 

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王荊山さんの?

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。

T : 平山が横流しを

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、露軍が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった

T : 高級将校がですか?

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで 「如何したのだ?」と訊いたら

 「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」と訊いてやっと解った。

僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」と謂う事も判った。

兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら   「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。

 もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は

私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、と ほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て 「この野郎、殴り殺してやる」物凄い剣幕だった。

 

      

     王荊山の娘と孫(戴麗華) 佐藤先生

 

T : 処で、或の平山 (其の時は日本人会会長) ですが、日本の女性を売ったのですか、差し出したのですか?  金で。

S : 金を貰ったのか如何なのかは判ら無い。 終戦翌年の五月十九日、新京のホウラク劇場で平山主催の日ソ友好大会があり二十日に五百人の女性を出したらしい。 カジ園さんの噺に拠れば五百六十二人だ。 何にしても、出したのは確かだ。

T : 其の後、(彼女達の) 消息は何も無いのですか、現在向こうから残留日本人婦人 (孤児) が来ていますよね?

S : 善い意味で、残っては在無い。

T : 要するに、日本人に罪が在る訳ですね。 満州関係の援護の人で、誰独りも手を差し伸べては在無いですね。

 

       

           側近山田と孫文            革命の同志蒋介石と山田

 

章を変えて

S : 本当に悲惨だった……。 結局、計画を長引かせる程、賄賂が多く得れる。 誰から貰ったのかは判ら無いが、田村は其の金で妾を拵えたよ (苦笑)。

T : 三井からでしょう。

S : 誰から金を貰ったかは判ら無い、三井かどうか ――― 。 山田 純三郎も僕も貰った事に為っているかもしれ無い。 桂公使 (戦犯容疑者) が山田 純三郎の処へ行って玄関で土下座して「救けて下さい、私が誤魔化しました

(蒋介石は満州国の日本国内の土地、資財の処理を革命の先輩山田に懇請していた)

と、伯父にはっきりと謂った。 カンオン会が香港から留学生九十七名連れて来て、相模女子大学に入れる積りで松平 キトや山口 重二が奔走したけれども、金の見通しが着かず結局、武蔵境の日本経済短期大学 (現・亜細亜大学) に入れる事に為って、其の経費は善隣協会が三千万円出すと云う約束で其処に入った。

 

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明治人は、人間キャッチボールで遊ぶのが好き

2024-03-19 08:36:55 | Weblog

                                台北国父記念館

 

素行自得の逍遥

≪以下は拙い備忘録ながら、学びの活学として、経済活動の実利としても潤いのある情緒性であろうと記す≫

 

キャッチボールは野球の用語で、ボールを投げ合う、やり取りをすることだが、ここでは若僧が球になって、それぞれ世間では異様で老練な人物の間て゛、゛試される゛゛仕込まれる゛ようなことが戯れのように行われた。

その球は、磨かれていない原石が投げ合う内に少しづつ角がとれることの様だった。

その球(たま)は小商人の倅に生まれ、文部省の狭い学科に不思議さを覚え、かつ数値によって人を評価選別することに不思議が昂じて反発心さえ抱いていた。だからと云ってその問題意識を高めて探求し解決するすべも持ち得なかった。

 

投げる方は「このように仕込んだ」とおもって送っても、送られた方は「違う仕込み方をして返してくる」そのやり取りだった。たとえば設問を出されると、どうしても他に行かなければまとまらないし、解けない。あるいはお遣いに出されるように行かざるを得ないこともあった。投げる方は双方が意を合わせているのだろう、そのグランドは広いが雰囲気は同じだった。まるで「余計なことを知るより、本(もと)を浸透させなさい」という「小学」の冠にある尋常(平常心を養う)の養いの様だった。

 

                                         

      桜はどこでも、いつでも・・・  だがリンゴの花は。

 

それは送り出す老練な人物と受ける人物が互いに異能を認め、原石をどのように磨くのかを観察しているかのようでもあった。それは世俗の唯一の価値でありながら、何ら人格を代表しない附属性価値である、地位・名誉・財力・はたまた学校歴にある数値の多寡を、登覧する位置で眺める境地が涵養されていた人物の戯れのようなものだった。

 

真っすぐ投げてもシュートやカーブのような回転をする癖もあるが、足(座標)の置き方,体幹(根本思想)、球の放し方(冷静・沈着)、など、野球に模せばその指導法にも理に適った教え方や矯正の方法であり、それを他のコーチにも助言を請うことにも似ている。

また、もともと生まれながらも保持している他と異なるものを発見して「他と異なることを恐れず伸ばす」、自己の確立を図ってのことだった。

            

                       

                       安岡正篤氏

大学校はつまらんところだ」と言った手前もあろうが、「あそこは豪傑がいる」「あの人物は長けた人だ」と、それなりの行き先を促し九州や海外にも足を延ばしたことがある。多くは近代史の記述にある栄枯盛衰に携わった人物、事件の首謀者などだが、総じて異能な人物だった。まさしく縁の巧妙なのか、広く、浅く、深く、すべてが自身の能力次第で拓けるものだった。特異なことは部分探求ではなかったことだ。

課題を与えられ、その課題の起因に問題意識もなく、知った、覚えた類の数値選別を学びとする官製の人間育成ではなく、また組織や権を背景にしたグランドで、゛国なるもの゛を掲げて「民」を埋没させるような、危機・保全・平和の計を標語として、大言壮語するような食い扶持論者とも異なる国人(くにびと)にも少なからず出合った。

それらは、額に汗もなく、背景とする屏風(学舎歴、出身組織)は薄汚れ、老境に達しても汲々として銅臭を漂わせ、混沌とした社会の一端に名を遺すことを描いている有名人もいた。

その多くは、売文の輩もしくは言論貴族として財の獲得を企図している徒だ。

  

              

              佐藤慎一郎(大同学院教授)の生徒 台湾立法院

 

キャッチボールの相手ではないが、それに群がる無知文盲な弟子と称するもの、尊敬する人物を錯誤した輩だが、それも「観人則」涵養のよき反面教師だった。

 

それまでの回顧だが、いっとき流行ったミーイズムは、解りやすくいえば自由主義という代物(しろもの)が、触の鋭い青年期において、カブレた思考のように染め付けられた由縁と分ったのはずっと後のことだった。車や異性にうつつを抜かし、心ならずも不良を経験したが、その不良に憑きまとうような人間の性(さが)なのか、染まるようで、染め付けるような妙な雰囲気があったと他人は云う。浮俗に漂う小人の俗物だった。

 

                    

                  佐藤慎一郎氏 小会にて

 

                 

                          卜部亮吾氏         

 

 

奇縁なのか、良縁なのかはともかく、つれあいが地方だったせいか、それともそんな都会者との縁が面白かったのか、二十歳そこそこで家庭の囲いに潜り込んだ。そのころは未だ学問などと言う面倒なことは知らず、家業を継ぐことがうっすらと感じていた。

ただ、食うための仕事と、人生の仕事については、なぜか分別が付いていた。そのせいか、ときおり起こる男子のごちゃまぜの茫洋とした煩悶は、ついぞ起きることはなかった。

 

良かったのは思春期に両親と離れ、゛爺さんと婆さん゛の手元におかれたことだ。深い意味もなく、学校に近いことと間取りが少なく敏感な年頃だったせいもあった、と推測する。

 

                

                    津軽ヨシ人形は口がない

 

そして、隣の寝床で爺さんが亡くなった。まだ温かかった。台所の婆さんに知らせると「そんな頃かな・・・」と振り返り、柱時計をみていた。そういえば「人は生まれるのも死ぬのも潮時がある」と云っていたが、丁度、それは朝の潮目だった。

いいところの出だが、行儀見習いの奉公にいった婆さんは夫婦といえど「男女別なり」が染みついていた。他人事のように冷静だった。

 

こっちは、悲しいよりか、悔しくて階段に伏せて泣いていた。それは二年と短い三人の生活だったが、静かな可愛がり方だったせいか、あるいは親と離れていたことなのか、亡くなって分る失くしたものの大きさが独りの重圧としてのしかかり、今までの子供じみた軽薄さから、自ずから変化する前兆だった。

当時は判らなかったが、それが他人眼で感ずる括目だったのだろう。内心では、家と別物のアメリカンファミリーのような家族像との分別意識が世俗感覚と離れることだった。妙なことだが、我が子さえどのように接すればよいかの戸惑いも生ずるかのような、家に対する責任意識もあった。

 

妙な粋がりもあったのだろう、子供を世間に通用する独り(一人ではない)の人間として観るあまり、親近感も異質となったが、それぞれが戸惑い、反発しながら、成長した。いわんや己の未熟さゆえか、社会(分)のなかで自分を発見しようともがいている自分が、血縁ゆえの遠慮と、ある意味の辛辣、冷酷さがあった。

                      

                      岡本義雄氏

 

別離環境ゆえに得る、寂しく、厳しい習得をどのように独立した精神で噛み砕くか、それが先に生まれた親なるものの期待であり、それぞれが己を活かすことだと、子供からみれば手前勝手な夢想と云われることが家族間の雰囲気だった。

虎は我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がる我が子が生き延びる、と故事がある。

誕生して母から離れ、乳母に育てられ、思春期には他人(烏帽子親)に委ねられる高家や天皇家の習慣もそれだが、社会(分)の中で己を発見し「自分」となるにはと、意識が廻った。

お前がそうだったから、変な知識を得たから、と云われたが、バブルの落とし子のような感覚で妙な幸福感を曲りなりに運よく持続している現代の養育者とは異なる考えだった。

 

それも好奇心と新和心、そして信じたものからの刷り込みだともいわれたが、批判は甘受して、相変わらず粋がった生意気な人生を進めていた。

 

                  

                     五十嵐八郎氏 鎮海観音会

 

身内が亡くなることは他人眼では不孝にことだが、両親がなくなった時でさえ冷静だった。爺さんの遺志でやるべきことをするだけだった。悲しいより惜しい気持ちだった。世間知らずの時期が懐かしいが、その頃の一族の顔ぶれがつねに想起されるのも、その後の孤塁を護るような風変りな性格も、つねに爺さんと婆さんからの感受が浸透していたのだろう。

まさに思春期の烏帽子のような存在であり、いまでも信ずる存在だ。

 

可愛がってくれた爺さんが思春期に亡くなると、せっせと仏壇に参り、学校に行くのも、旅行に行くときも線香をかかせなかった。そのたびに思い出すのは「金は自分のものだと思うなょ。預かりものだょ」「博打はいけない。競馬でも馬の気持ちが判らない」さすが近衛師団の軍人の言うことだと納得もした。

 

お陰で、そんな経験は老境との関係構築にも抵抗がなかった。

みな、可愛がり、いたずらされた。年寄りの怒る琴線も人とは違う限界点を知っていた。

怒られても、経験の多い高齢者は、こちらの限界点や習熟度をみて抱えてくれた。

よくそこまで言えるね・・」「どうして、あのような人と縁が始まったの・・・」「その考え方はどうしてできるの・・・」「怒らないの? 」「よく赦せるね」なかには、「欲しくないの」と問われるが、問う人間がオカシイとおもえるほど、自分は自然体だった。

 

              も組 竹本

 

そのうち、縁が深まり厚誼となり、彼らの悪戯なのか、゛試し゛が始まる。

互いに示し合わせているのか、妙に舞台が整えられている。察知するのも智慧だが、それに増して彼らも頓智がある。まさに老獪の海に漂う小舟のようだが、要は至誠と情が支配する。

それがなければ思索の座標や観照力も涵養できないと、彼らの教養と観人則は考えるのだろう

 

それは、子供の頃の前記した疑問である

《文部省の狭い学科に不思議さを覚え、かつ数値によって人を評価選別することに不思議が昂じて反発心さえ抱いていた》への応えの居心地よい端緒だった。そうなると面白くて仕方がない。また早めに老獪の海に漕ぎだしたせいか、近代史に名を記す人たちとの縁が直接の邂逅として広がった。

きっと義経の八艘飛びも、踏み外したところで、さぞ面白かったに違いない。それに連なる人、配下の人、地方・海外の縁故など、関連性を持って繋がった。押しかけ、紹介、招請、などさまざまだったが、よくよく考えて振り返れば、すべて爺さん婆さんの、゛教えない教育゛のお陰だった。

 

                   

                  西安事件の陰の立役者 苗剣秋の夫人と  1988

 

つまり、待つ、期待する、そして眺めるような教育だった。

よく背中学とはいうが、瞬間湯沸かし器のなかった頃。汲み置きの井戸水で茶碗を洗っている背中、毎日、自転車の荷台に乗って幼稚園に送ってもらった爺さんの背中、坂道になれば腰を浮かせて左右にペダルをこぐ尻の大きさ、まさに眺めた記憶だ。

それが、どこかで役立っていた。老海に漕ぎだす若憎にそんな残像を彼らは見ていたかのように、口の乾くことを忘れ、歯唇の間からさまざまなことが溢れだす。

 

                                      

                                            台北にて        2016  3/17

近ごろは、それを「オーラルヒストリー」といっているが、面前の応答辞令は臨機応変、縦横無尽である「機略」がなくては、ただのインタビューでしかない。

老若世代への許容量、容・象・体の観察、瞬時の直感力、猜疑心のない素直さ、など、すべてが、己が試される場面であり機会だ

何よりも投げられる球が丸いことだ。いびつな原石は投げる前に矯正しなくてはならない。

投げてもらえるような己を作らなくてはならない。それは学歴や形式礼儀や陳腐な経歴ではない。

 

生まれたこと、生きること、死ぬことを知る。土壇場でも逃げない。社会の一部分を自覚する。他人の困窮に心をおく。なにか親父の小言や年寄りの野暮な話のようだが、いま、できなくても判る人間になることで、他人にはそう映るものだ。とくに老境の達人ならなおさらのこと、そこから「縁」のキャッチボールが始まるのだ。そしてグランドは広く、ステージは高くなり、今までと違った世界が見えてくる。

 

筆者のそれは、爺さんと婆さんだった。

それが判った時「明治の人に遇う」ことを念頭に人にも勧めた。

みな柔軟だった。学びが広く深く、将来の推考も的確だった。

多くは亡くなったが、墓参の回顧が己の背景となり、行為を促している。

巷間、多くの人の口舌にのる評の多くは錯覚した考察に陥っている。

それも切り口と目的次第だが、彼らの厳明した使命感が伴わない限り借論混迷はつづく。

 

懐かしさに浸っていられない昨今である。

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人間考学 もの書きの懐と覚悟 2018 1/1 再

2024-03-16 17:17:28 | Weblog

              

            津軽岩木

※  懐・・・カネ勘定

 

雅(みやび)心までとは思わないが、下衆な下心を隠すような騒がしい人間が増えてきた。

軽薄と見た大衆に迎合し、商業売文に勤しみ、紙離れの昨今は名を知らしめて口舌の輩になり漫談並みの講演を稼ぎにしている言論貴族も増えている。

それは、国家の外敵危機を煽り、経済予想で懐銭の多寡を憂慮させ、さも容易な解決策を無責任、かつ詐欺的話法で食い扶持稼ぎ場として浮俗に漂っている。

 

ある週刊誌の記者だが退職して物書きになった。ネタは戦記物の逸話や事件物だが、情感が薄いせいか物語小説は書かない。小説と言っても明治のころは、今でいう漫画の類で、格落ちの売文屋と蔑まれていた徒の部類だった。

 

商業として成り立つようになると部数を競い、勝手に大衆文学と称するようになると、流行りのカルチャー(文化)に乗じ、新聞連載やテレビの出現などで、いつの間にかオピニオンリーターや文化人などとして持て囃されるようになった。

 

その記者あがりの物書きだが、近ごろは本も売れない。昔は何十万部あったヒット本も最近では数万ないし数千にもならない部数もあるという。よって講演で稼ぐようになる。

義を講ずる講義ならぬ、講演と称して「大衆漫談」と洒脱に語ったのは安岡正篤氏だが、高学歴無教養といわれる最高学府でも義を講ずる人物は乏しくなっている。

 

その物書きに講演を頼んだことがある。相場は20万。それも一コマ90分の大学より少ない60分くらいだ。あのS女史は80万だ、と相場を比較して教えてくれた。

スポーツ選手の誰それは一時間何百万、北野たけし氏はも顔出しで何百万、政治家だって車代がある世情だ。

 

10年位前の話だが、東北の某県では知事の誕生日を各支部で催して一か所2百万、結婚式の顔出しで同額と聞く。物書きのそれはアゴ足付き。ホテルと交通費と宴会付きだが、新幹線はグランパスクラスだ。主催者経費は会場と動員を含めて50万はかかる。

その動員と言っても、軽カルチャーに浸っているご婦人が多いせいか、香水が漂っている会場だ。参加者は50人くらいでも、それでも東京の、たまにテレビでコメントを語っている物書きの話しを聴きに来る、いや、その物書きを見に来ている。

内容はともかく、「観てきたよ」が感想だ。 

 

            

               台湾緋桜 東御苑

 

以前、司馬遼太郎が産経のコラムに講演のことを書いていた。

苦てな講演を頼まれたとき、前の方で私語を交わしていた。それが気になって「負けてしまった」と記していた。

亡くなった直後、著作の権利をもっている出版会や産経が祭上げ、ひと稼ぎを企てた時だった。

その世界で食っていく人間には邪魔な一言だったが、拙文を備忘として残したことがある。

 

 

以下、「不学無術の伸吟」より抜粋

 

      ◇  「空しくなった、負けてしまった」 ◇

物書きはその講演の最中に聴衆が好き勝手に昼食の話や世間話をする「私語」に負けた、空しくなったと散々おもいで感想を書いています。

 しかも、「私語」に苦労している教授の話を同様な煩いとして、さも自らの体験をなぞるように 引用しています。

  ある日の稿では、小便がちかいため、陛下の御進講の際に中座して厠の案内を皇太子に尋ねた状況を書いています。

 

  「空しくなった」「負けてしまった」という「私感」はともかく、聴衆の分(ぶん)が合わなかったというのか 、それとも員数合わせの善男善女なのか、読書でいえば「読めないのか」「読まれないのか」あるいは聴衆が庶世の哲人であるためか、どうも講演者の側に妙な錯覚があるようです。

 

 世に言論貴族、売文の輩と軽称されている部類によく見かける煩いでもあります。

  知識人の幼児性は大衆の内なる嘲笑を感ずる事なく、単に「文壇」や「言論界」の中でしか通じない隔離された兵隊ごっこがまかり通っていることに気が付かないようです。

 

 無いよりは有ったほうが幾分マシだが、何ら人格を代表することのない付属価値である、地位、名誉、学歴、財力を唯一の糧として倭人特有の群行群止を促すような、いとも高邁な珍説、奇説、はたまたは覗き、脅し、予想を虚飾する輩にゆめゆめ惑わされてはなるまい。

  隣国では知識人を「臭九老」と称して淫売婦の上、上から数えて九番目に卑しんでいます。

 

 宋代では皇帝が学問を奨励するために「勧学文」を掲げ“書中、自(おの)ずから黄金の部屋あり”“書中、自ずから女あり”と、食色財の欲望に直接勧誘することにより、それなりの学問が盛んになったといいます。

 「利は智を昏(くら)からしむ」というべきか、明の攻略にひとたまりもなく滅んだ状況が目に浮かぶようです。 何のために学び、何に問うのか、「本」(もと)を問いたくもなります。

 

     

       佐藤慎一郎先生

 

   ◇ 「座して尿せよ」 ◇

 

空しくなった物書きは明治の言論人、陸羯南を書き遺そうとしたという。

  ある章に「陸羯南がいなければ俳句など電池の切れた懐中電灯の殻のようなものだった…

 

 

    陸 羯南      山田 孫文

 

 

「今の入社試験では採れないような正岡子規、長谷川如是閑など…」と敬意を込めて記述している。 

陸羯南といえば青森県弘前市在府町、真向かいは辛亥革命に挺身し、日本人で最初に犠牲となった山田良政。孫文の臨終に唯一日本人として立ち会った純三郎兄弟の生家である。 

良政は幼少より羯南に可愛がられ、異国の革命を我ことのように奮闘にするような、時代に先駆けた教育の基が養われのです・・・・

 

・・・・山田兄弟の「不言の教え」で育てられた佐藤慎一郎氏は昭和初頭に旅順水師営の中国人小学校の教師として赴任、北京留学を経て満州国崩壊を期に帰国しています。

 その風貌は「王道は人情に基づく」といった大らかで暖かい雰囲気を醸し出し、「他」に対する勇気と熱情は異民族の心底さえもを揺り動かし、民情に基づく透徹した推眼は国策遂行にも欠くことのできない助言者でもあります。

 

 その佐藤さんが講演依頼されたときのこと、寒かったせいか便所に立つものも多く、物書きの言う「私語」と同様な状態でした。

「座して尿せよ」(座ったままで小便をたれろ

 九十を越えた今でも、五十人ぐらいの聴衆ならマイクなしで立ったまま講義する佐藤さんが「座して尿せよ」と、大声で叱責したので一同金縛りにあったように時が止まった。

私は真剣だ。明日再び会えないかもしれない。いや明日死ぬかもしれない。今日という一日を皆さんと一緒に過ごしている。今日という一日は二度とない。君たちとの大切な時間ではないか。

 そこには「空しくなった」「負けてしまった」といった敗北感はない。 物書きが追い求めた明治の実直さと勇気、そして慈愛に裏打ちされた熱情があるだけだ。

 

なかにはこんな明治もある。

 講演を依頼されると員数は、どんなレベルか、会場は、謝礼はと、言論貴族の権化みたいな放談で著名な老評論家だが、伝を頼って陛下に拝謁した折り、侍従のワイシャツのメーカーを話題に供し不興をかったり、実直な民族思想家に「死んだら銅像が建ちますよ」と述べた途端、「口先で迎合したようなことを言わずに自分の番組で僕の考えを伝えたらどうだ」と一喝されたような人間もいる。

 

 佐藤先生が引用した 「座して尿せよ」とは、戦国武将の軍議の場で子供が小用に立ち上がった際、「明日の決戦で生きるか死ぬかの大切な会議をしているのに小便ぐらい我慢できないか。一言でも聞き漏らさず その場で座ったまま小便をしろ」と、叱責した情景を模してのことである。

 

 同様な場面だが、物書きの一文にも明石元三郎と山縣有朋の真剣な会話の情景が書かれている。

 簡略に著せば、厳冬の季節に明石が山縣に情勢報告を行っているさなか、真剣さのあまり尿意を忘失、小便を垂れ流し、それが山縣の外套に染み上っても、そのまま続けたという姿である。

 上下関係や現場の状況より、「公」にもとづいた談義はときとして肉体的生理を超越した「狂」の位置にある。

 あの長州閥を率いて権勢を布いた山縣だがこんなこともある。

(参考抜粋終わり)

 

          

         

 

佐藤先生は、まず対価は受け取らない。対価は講義後の懇親会と交通費の実費くらいだ。

しかも、講義の前段は、短いもので一週間余を掛けた教授案の作成だ。

それを取りまとめれば、そのまま書籍になる精密な文章だが、資料として一部は朗読するが、多くは一期一会の出会いと自身が考えている、緊張した脳内整理というものだ。

住まいは荻窪団地の3階の年金暮らし、90歳になっても研究は欠かさず、病弱の妻と二人暮らしだ。

 

 

       

           しばしば酔譚を・・・

 

その状況を筆者の備忘録から抜粋する。

師弟酔譚「荻窪酔譚余話」より

 

杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。

さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスに思い出を乗せたことだろう 

文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

第宅器物その奇を用せず、有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間

学の存在を認識する。いわゆる「自ずから然り(自然)」と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を自らが解き明かす(自明)という吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

 

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、

いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙

でおぼろげになることも屡だった

 

 交談は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の姿であった。

 

もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを観ることはない。

 

(抜粋おわり)

 

有名を追わず、淡々とした学究は人に囚われたり拘らない、もちろん財貨の欲求もない。

金や地位の関係は作為を生む。無条件の愛情は真の信頼を生む。あの中国の庶民はその細やかな人情を感知できる。人情は国の法律より上だ

 

           

 

碩学と謳われた安岡正篤氏も古典の深淵さと躍動感を佐藤氏に訊いている。

交誼は水魚の如くだが、謙譲の精神で「間(マ)」を大切にして語り合っている。

安岡氏が病に陥ると代講を懇嘱され度々受任している。

 

 

以下、ふたたび拙章「不学無術」より

 

いずれ放心から醒めた庶世の哲人は「分」を錯覚した物書きをしたたかに嘲笑し、時流の余興にしてしまうでしょう。

それは政治家、教育者の唱えまでも漫談や娯楽の類いにしてしまうことにもなります。 

その結果は、何れ到来するであろう指導者の哀願や、訴えといった状況が空虚に陥る過程でもあります。 

 

人が公私をわきまえた他の存在を信じられないとき、あの大観園の親分の言っていた泥水同化の招来をくい止めることが不可避となります。

 明治の賢人は「明治」を語ることに虚飾はない。

舌の上下である「話術」の講演でもない。吾を語る「講義」があるのみです。

 極論すれば肉体的衝撃から我が身を保身するため、媚文芸言を駆使していざとなったら逃避する有名無力の穢利偉人(エリート)特有の術などはそこにはない。

 

耳から入って直ぐに口から出るような「口耳四寸の学」や、その場、その時で演技をする「逢場作戯」のような講演者では、内容より事の大小、多少、巧拙に囚われた文章や話になって当然であるといえるでしょう。

 「空しくなる」のは聴衆の側です

 

筆者の独り言だが、孔子さまも一語忘れているようだ。

「巧言令色、仁すくなし」と仰せになったが、当世では「巧言麗文、義すくなし」だろう。

 佐藤さんは、時運に迎合した組織の運営が本来の目的を忘れ、参加者の多少のみを憂うる主催者に対して、

本(もと)立って道、生まれる。一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」と、その多勢の衆を恃む目的の錯覚を諭しています。

 なぜなら、聴衆のなかで真剣に聞くものがあればが一人でもいい。「国は一人によって亡び、独によって興きる」ということを土壇場の実感として分かっているからです。

 

 二時間の講義に一週間前から草稿作成に取り掛かり、自らのものとして真剣に臨む姿は、物書きのいう明治の実直さを体感できる講義でもあります。

「教育は魂の継承にこそ本当の意味がある。それが今を真剣に生きるものの歴史に対するささやかな責任であろう。そして邪魔にならないうちに消えさることです」と、常々、語っています。

 

亡国は亡国の後、その亡国を知る」といいますが、記誦の学の餌食になって昇位発財した知識人の幼児性は、その錯覚した現象とともに亡国の徴であるかのようにおもえてならない。

 

 

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そもそも黨(党)は、黒を賞する集団である 2020 あの時から

2024-03-15 22:30:04 | Weblog

旧掲載だが、あの頃も同じことがあった。

そもそも悪党と言うが、善党とは言わない。

犯罪でも黒は容疑者、白は無罪という。

党の旧字は「黨」、つまり黒を賞する、まして白は党ではない、連(ツル)まない。

群れにならず党からは弾かれるのが白のようだ。

黨には掟がある。とくに悪党には厳しい掟がある。口の軽さと裏切りだが、ゆえに嘘が上手くなる。むかし、「政治家は人を騙して雄弁家という」一種の戯言があった。

近ごろは「会」を装っても腹は黒が多くなった。

 

 

 

市井の陶芸家の作品

 

検察官の人事に黨に政治家の介入があったと騒いでいる。

幕府でいえば目付の食い扶持を担保するような話だが、あんたの都合で決められては、タマッタものではないという事らしい。

下座から眺めれば、暗記上手の学び舎エリートが一方は政治家になり、一方は官僚となり、お手盛り利権で政治家や高官が捕まれば巨悪、訴追する検察も同じ同窓高官では、国費で贖い獲得した人格とは何ら関係のない地位だとしても、下座からみれば、彼らのやりきれない戯れとして、諦めに似た感情が堆積している。

 

※下座観は上部と下部の問題や、下座行と名付けた修養のことではなく、東西南北と天地の立体(球体)が、さまざまな回転や展開をする中で、下座観と俯瞰視(鳥瞰視)が回転に応じて眺めの位置が転換し、それゆえ部分と総攬が複合した観点となる(人間考学より)

 

検察側の言い分は、「中立性を求められる検察官の判断に影響を及ぼしかねない」

近年、惨禍や事件が起きるたびに学び舎エリートの土壇場の無能力が問題になっている。

彼らにとっては一番癇に障る言葉は「無能力」と知っての記載だが、知能ならぬ痴脳とも思える劣化に気が付かない、いや気が付いても食い扶持には問題ないと鉄仮面を装い、四角四面の法を駆使して大偽を助長している「狡務員」とその一群が蟻塚を築いて、曲がりなりにも国なるものを運営している。

まさに、下座からすれば、タマッタものではない状況である。

影響を及ぼしかねない」それは、俺たちも生活や卑小な欲もあるので、俺たちの蟻塚に口出しされると、どんなことになるか、自分のことも自信持てない。つまり人格とは何ら関係のない附属性価値である学校歴(学歴ではない)獲得に邁進した曲学阿世によくある成れの果ての戸惑い表明である。成れの果ては、落ちぶれた結果の彼らなりの有様である。

 

庶民はとみに数値利権化した警察組織同様に訴追権を持つ検察に対して、「江戸の仇は長崎で・・」と諦めて、従順としている。とくに狡猾となり生活を担保された者たちは、往々にして心底に仇討ちを企てている。辞めればダダの人になる政治家はとくにその事を知っているためか、子供だましの厚遇提供に気を配っている。官僚作文がなければ腹話術の人形として飼育された議員はひとたまりもない。

そのことを熟知した大衆が、顔の見えないことが利点のネット投稿に集うのは、さもありなん、ということだが、カオスに続く前哨なのだろう。

 

ある県官吏の酔話だが、採用時、少しは雇用主たる県民のためと青雲の志があったが、中堅になると議員の愚かな的外れ質問にも真面目に応えることに慣れると、有能な部下は寄せ付けなくなる。無能と化した姿を見抜かれないようにとの魂胆だが、定年も近づくと閑になるので、ときおり意味もない通達なるものを管轄の民間事業体に出すと、自分の所にお伺いを聞きにくる。

これが暇つぶしのようなもので、なかには福祉法人化の再雇用を進言する事業者もでてくる。もちろんアゴ足付きの講演や宴席もあってのこと。と役人人生を振り返っているが、聴くほうにしてみれば、バカが吹聴しているとしか聞こえない。

 

   

 

それが対策や立案の専権を有するとなれば、あとは歴史の栄枯盛衰を見るまでもなく衰亡は必然だ。そこには後付理屈で政策に彩を添える御用知識人や売文の輩、御追従の陣笠代議士となれば、よりその進捗を早めるだろう。

問題が起きても検察幹部の私的遊興費と化した、調活と称する調査活動費でたんまり楽しんだ検察の元ダラ幹部が、「オカシイではないか」と気勢を挙げても、国民は白けている。

まして、庶民の声に追従しなくても検察らしく自浄作用を働かせていれば、為政者もうかつに手を出せないと考え、こんな騒動にはならないはずだが、甘く見られる原因は官僚に多くの責任はある。

 

あの絶大な権力を維持した田中角栄氏でさえ、日本の司法制度を守ると順々と随っているが、そこには三権の維持と、政治家としての矜持があった。

後付の言い訳で最高裁には採用されなかったが、外国からの免責供述書を種に逮捕起訴したころから検察は弛緩した。それにつられて裁判所の証拠、判例主義も前段での訴追の垣根を高くしている。冤罪問題もあるのだが、どうも人間を裁く法の世界には、隠されたように人が見えなくなった。

 

だが、食い扶持担保や生涯賃金をつねに企図する官僚にとって、その問題になると「人」があからさまに出てくる。しかも、さもしい性根が理屈を添えて元気に這い出して来る。

中国や韓国を嘲る声も聴くが、政権(権力)が変わると前任者は排除され、逮捕粛清もされるのが倣いのようだが、台湾でも陳水扁前総統が逮捕拘留された。

 

よく「」というが、旧字は「」。よくみれば黒を賞するだが。悪党とはあるが、善党はない。黨の親玉はつねに下剋上や裏切りを恐れて、側近には縁者もしくは狡知が働く従順な者を配置して、しかも従順な武装治安組織で身を守っている。

権威」を象徴とする立場とは異なり、権力為政者はつねに怖れを抱き、退任後の安心を企図するようだが、往々にしてそのような為政者に寄生する者たちは、権力がなくなれば当然のごとく裏切り、次の権力者に寝返る。

今まで警護していたような組織も、衆愚の歓心を煽って正義を装い、組織の継続、つまり官吏特有の私心にある小欲の保全に邁進する。

凡その為政者の末路はそのようなものだが、ゆえに軍と警察(検察)は最後まで手放さないのが、諸々の主義や思想を問わず、為政者の宿命になっている。

まさに、「小人 利に集い、利 薄ければ散ず」そのものだ。

 

だた、「お前ら、勝手にやれ、税は払うが、生活の邪魔はしないでくれ」と、隣国のような溌剌とした民族性癖を持たない大衆は、いまだに、くれるものなら幾らでもと為政者頼りの従順さを持っている。

ときにネットを活用と叫ぶが、ネットの網目は便利な経路だが、もともと網は掛けるものと掛けられるもので成り立っている。異国の人たちは、掛けられることを慎重に想像している。魚でいえば下から大魚も雑魚も一網打尽にすくい上げられる。資源保全もなんのその、より網目は細かくなっている。

 

翻って、国家も税の網はより複雑になり捕捉率は高まり、効果的な消費税もその意図だ。公金(罰金)を徴収する警察にしても、安全安心を標語にしてよりその網目を細かくしている。

逆に、市民の要望を聞くと称して、担当部局を増設し、足りないところは非正規雇用を増やしている自治体も、いずれ経常経費の増大でまともな運営ができなくなるのは必然だ。

 

    

    

 

つまり、法に依って栄えるものは、法に依って滅ぶのが必然なのだ。

その「依る」ことに慣れると、いずれ弛緩し、綱紀や徳目が乏しくなる。政治家に徳目などないと揶揄するが、徳目がなければ政治家になれないとうそぶく者もいる。

問題が起きれば政府に依る。悪がはびこれば警察や検察に依る。当然ながらその相手は法に依らなければ何も動けない群れなのだ。

国民とて肉体的衝撃のリアルな行動を忌避するために、身を隠すネットに意見を載せ、多数になれば、我も我もと身をさらす。人は社会への自己承認とはいうが、それに乗じる学び舎エリートの元狡務員も後に続く。

 

現象に対する良し悪しを問うものではないが、本質はフラットで無機質にみえる社会が、ときおり振幅を起こす時に表れる人間の心象が気にかかるのだ。

何を成功価値として、何を失うのか。

バブルは繁栄を謳歌して幸福だったというが、失ったのは財物だけではない。

ことさら心配性で恐れ体質ではないが、どうも歴史の特異点に差し掛かったように感ずるのだ。

「中立性を求められる検察官の判断に影響を及ぼしかねない」

筆者はこの言辞に彼らの限界があるとみたのだが・・・・

 

あらためて赤木財務事務官の御霊に哀悼を奉げたい

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人間考学  腰の落ち着かない国防迷論  あの頃も

2024-03-15 02:46:05 | Weblog

                      

 

あの国はともかく、そろそろアジア回帰するべきだとの意見が起きている。

 

トランプ大統領は日米安全保障は片務的でおかしい、商船は自国で護るべきだ、との発言を受けて専門家と称する人たちが騒いでいる。

在日米軍は「瓶の栓」ともいう。先の大戦や、それ以前の日露,日中と戦った異能な兵士と経済力に、いつかまた、という危機感がそう言わせたのだろうが、今の浮俗に戯れる国民には覚悟も能力がない。それより無関心だ。

まして国防組織そのものが大国に取り込まれている状況では、防衛や偵察は長けても、戦闘は装備も教育も難しい状況と慣性に成っている。いわゆる「瓶の栓」は必要なく、却って米軍の情報収集力は、あの橋本総理の経済交渉の内輪話を盗聴するように、金融や経済を矛として有効性を増している。

それは日本が資本市場構築のキャッシュディスベンダーのごとく資金をばら撒き、市場進出先駆けとなるインフラ整備の役を、これまた政策と称して従順に遂行する姿がある。

犬でも主人のリード線がついていれば、安心して威嚇し吠える。リード線を操作して相手の鼻面まで近づいても、緩めたところで、今度は飛び掛かることもできず不安な顔をするばかりだ。

相手は強いぞ、と脅かされれば新しい装備を用意し、近所を徘徊すれば船も飛行機もレーダーも新品に買い替える。そのたび国庫は痩せてくる。その購入先は「瓶の栓」を、盾(用心棒)のように使いこなす米国製だ。しかも防衛装備は最新でもも戦闘装備は二流品しか売ってくれない。つまり、信用置けないからだ。

         

            レーダーサイト

 

わが国では兵員といわず隊員という。

しかし、防衛当局者の、゛徐々に゛゛すみやかに゛が、無関心の国民からすれば、゛いつの間にか゛その防衛(戦闘)能力は諸国と比べて格段の向上をみせている。

軍事における宗主国のような米国とは、経済貿易における摩擦と称する論理と、わが国の依頼心と迎合をチームバランスとして、物理的、政治的、軍事能力において、その役割分担は、より明確さを表してきている。

 

それは戦闘の指揮権限や装備品にしても米国の専権であり、その軍事的プレゼンスを補完する部分は自衛隊と明確に分担されている。

例えば海上自衛隊は航空部門として海上の監視と警備、船舶は補給と第七艦隊の周辺警護、潜水艦やイージス艦がその任にあたる。航空自衛隊は空域の目であり、航空機の運用に欠かすことのできないレーターサイト。あるいは不明機のスクランブルや地対空ミサイルなど、米軍が運用する日本国内の基地や政府施設の防衛警護の役を任じている。

 

とくに、兵站や航空警戒の空自、周辺海域警戒監視や戦闘艦(米国)の補給を任務とする海自は米国司令部と緊密な連携をとって運用されている。安全保障協定の随時運営上の取り決めである地位協定では、指揮権、基地権、裁判権が明記され、国内に広大な基地を専有する米基地に寄り添うように空自、海自も配備されている。

 

極東軍司令部の横田は航空総隊、三沢基地は敷地の90%以上は米軍が使用し、自衛隊は残り僅かな敷地に基地司令部、第三航空団、北部警戒管制団が配備され、基地ゲートの管轄は米軍が行い、自衛隊員もその許可を得なければ基地にも入れない。

 

近ごろ、これも、゛いつの間にか゛だが、平床型大型護衛艦二隻(海外ではヘリでも戦闘機でも航空の母艦)に戦闘機を搭載するという。支援戦闘機には渡洋能力、ミサイルは距離を伸ばすなど、着々と自衛から外征型戦闘集団に装いを変えている。近隣の軍事上の変化に応ずるのは政治の責任だが、今まで担ってきた米軍の警備・警戒・補給・基地提供が、米軍のお墨付きを得たのか、彼らが疲れたのか、徐々に武装集団の運用が変化している。

また、自主防衛を面前の問題としてきた制服組の当然なる思考回路でもある。

 

現実問題には俊敏な是々非々が必須なことだ。まして軍事侵攻は待ったなしの判断が必要だ。無関心や享楽遊惰の、これも、いつの間にか゛親しんできた浮俗の民情のようだが、火事に消防士の喩えのように、武装しなければ戦争がない、消防士がなければ火事がない、では、最後は人の責任とする民情では、その説明理解も難儀になるのは仕方がない。

ここでは、゛誰だって゛とは思うが、その誰が、゛自分゛になったら、生死は自分で決めなければならない。いくら税金を払っていてもだ。

         

 

 

それとは別に防衛現場では、また癖が出て、しかも深くなってきている。

よく、明治以降の軍は人も組織も、欧米の植民地主義に抑圧された被抑圧民族からすれば、一時は光明にも映った時期があった。

その特徴は組織になれば強固だが、まさに民族性癖という悪弊が発生する。民は町会から各種団体、官は縦割りと、それぞれが蟻塚(コロニー)を造ってボスを推戴して同類の他組織と競い、利を企図するようになる。近年、謳われてはいる「個人」だが、その個人が各々独立できない蟻塚は、出れば風邪ひくヌルメの温泉のようで、目的を失くし怠惰、劣化、腐敗に進むことを誰も止められない。

 

とくに、肉体的衝撃を体験しない「戦争を知らない世代」になると、装備を持ては高邁になり、ときに夜郎自大にもなる。持てば使いたくなる。なかには威張りたがる。大型車や舶来車に乗ったり、ブランド装身具に身を包むと、男女問わず虚飾者同士が競い、そして争い、内心の争いになる。中身が乏しいと、なおさらその劣情は激しくなり、ときに衆を恃み(味方を集い)闘いにもなる。人間では中身は健全な思考と価値観意識だが、国家では内政が騒がしく落ち着かい、そこでパンとサーカスだが、今は贅沢に慣れて効き目がない、そこで外に危機を煽り向けるのが為政者の常套手段だ。

 

思えば、その起因する状況も個人の考え方、社会の仕組み、国家の目的も、慣らされ、馴れた結果のシステムなのだ。つまり大自然に生息する犬も、犬小屋に入ればエサは与えられるし、散歩もする。

本来、犬は散歩などしない。自由に大地を駆け、泳ぎもする。

人間に馴れるから、名犬ではない。ちなみに檻から解き放たれ自由に動く犬の歓びと、顔つきならぬ犬相は、まさに犬らしい。

 

゛いつの間にか゛檻に入り、掃除され、エサもあり、小屋も居心地がよくても、いずれはほかの檻が気になり、不満も貯まる。すると吠える(声を上げる)。なにぶん外を知らないため、エサがまずい、日当たりが悪い、散歩が少ない、鎖(自由)が短い、などの狭い欲求だが、他の洋犬や若い犬がくると、人間同様に嫉妬や諍い、排除が働くようだ。

はたして、野良犬から檻の中の従順な犬をみたら、どのように思うのだろうか・

たとえ貧しくとも、自由がいい、と思うに違いない。

 

人間の世界でも常人からみれば変人でも、その変人に興味を持ち、模倣したりすることがある。もちろん、居心地の良い檻での一時の夢だが、ひそかに、その純真さを覚えて、我が身を嘆息することもある。

 

歴史上でも、将来から立ち戻って、あの時の感情、些細な行動が後の惨禍の起因であったと思える特異な分岐点がある。防衛問題から大衆の集団化されたときの民癖、そして犬の人生ならぬ本来の、゛犬性゛に例をひらいた。

詰まるところ犬と同様に安逸の檻、それは皆で造って、悦んでいた檻が、つまらなくなって別の檻を求めたりても、脚力は野生に及ばず、考えは狭く、与えられた餌(課題)に無意味に腹を膨らませることのみ考えている飼い犬は、広い世界には通用しないばかりか、他の犬との普遍的交わりも難しい。たとえ柴犬がチワワの鳴き声を真似しても、似て非なる犬に相違ない。

 

       

 

人間社会も柴犬語、ブルドック語、ポメラニアン語のように、様々な言語が混在している。

ブルドックに守られたいとブルドック語を倣い、ポメラニアンの雌犬に気に入られようとポメラニアン語を習ったところで、純なる血統は雑になるだけだ。

 

まさに課題を与えられれば、課題そのものに疑問も抱かず、美味い餌ほしさに懸命に主人の好きな答えを出し、単なる一時の出来、不出来で、しかも毛並みならぬ、数値で選別され、居心地の良い檻に閉じ込められることに慣れた、それを安全と豊かな暮らしと沁み込んだ人間種には肉体的衝撃や、奪い、殺傷はなじまないはずだ。

 

近ごろではコンピューターと武器が、ファジーでバーチャル世界のような戦争を繰り広げている。痛くて、寒くて、帰りたい、そんな戦争は少なくなった。それでも血と涙は無くならない。

 

空も海も陸も組織はそれぞれの職掌がある。それは部分だが、それも前記した各々の蟻塚によって、分離し、機能不全になった歴史が厳存する。戦闘指揮権は米国とのことだが、平時組織の軍官僚の内部統御は、有事に機能するのだろうか

なによりも有事になると想定したら、国民の無関心に覚醒は望めるのだろうか。

 

すべては人間の問題とはいえ、厄介な民癖と蟻塚の存在は、現況の経済と装備をリンクさせた政策に、別の切り口で検証が必要となるだろう。

はたして「生死の間」に生存の意義があるとしたら、あまりにも生の亡失を念頭に置かざるを得ない諸士に、一抹の不安と、かつ助長させる世俗の情況において、力の優越を問う以前の問題として考えなくてはならないことだと思うのだ。

 

イメージは関係サイトより転載させていただきました。

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再読  民主と自由 長(おさ)のいない国家 09/7あの頃

2024-03-12 18:24:25 | Weblog

          敬重なき国家は滅びる   安岡正篤翁



ことさら権力をひけらかす訳でもない長(おさ)の首取りが流行のようだ。
それは人間が他の人間に言葉や行動を譲ったり、補い合いながらスパイラルを描くように推戴する長(おさ)の立場への敬重や、暗黙の契約というべき長との関係の在り様が希薄になっているからだろう。

長(おさ)が軽くなったのでもなければ、過大な罪科をともなう過ちをしたわけでもない。
ただ、゛下りたほうがいい゛くらいな声が増したために地位を下りるのである。
別段、小物だの大物だと評するものではないが、推戴する側もされる側もアンチョコにも易く考えているような傾向があるようだ。

華人の俗諺にあるように「天が落ちてきたら、一番高いところに当たる」、つまり厄災は総て長(おさ)の責任として甘受すべきであるからこそ、たとえ時の運によって縁により栄達や名誉も授かれるのだという相対する考えもある。

国務院の要人が恩師を訪ねて「最高指導者が失脚したら、果たしてわが身はどうなるのか・・」との問いに対する応答ではあるが、数多の故事がある中国でも栄枯盛衰も我が身にかかわると解らなくなるようだ。

床の間の石のように、見栄えが良い、何となく似合う、あるいは説法、いまどきは演説が巧いというだけで長(おさ)に座らせられる?ような人物観がまかり通る安易な世の中でさえ、世渡りの知恵者と思いきや腹背の狡猾さと計算だけでは納まらない難しさはあるようだ。

その観人則からすれば、生真面目で、物事に慎重で、精霊に祷るような、あるいは大らかで楽天的ともいえる先見の余裕をもった人物などは無碍にされる類だろう。



                






以前、小章に、「優しさ」と「易しさ」の混同が現代の思索と観照の衰えを如実に表しているのではないかと記したが、゛ヤサシイひと゛とは、理解できる範囲の言葉と内容や自身を心地よくしてくれる対象に対して使われるようだが、一頃の両親や教師あるいは交際相手の風情には無かったような、それこそ安易な人の見方が蔓延している。

政治の世界のことだが、元首相の小泉氏のワンフレーズに踊った国民の群行も時が経過してみると一種の妄動のように見えるのもそのためだろう。最大派閥の橋本氏と競った総裁選も、彼特有の意味不明ではあるが何となく分かった風になる切り取り単語の絶叫は多くの国民の代弁者のように当時はみえた。

だか、当選の最大の功労者は田中真紀子氏が帯同した演説行脚と物珍ししいイベント選挙を煽ったマスコミの騒動喚起である。
ここにも燎原の火のように広がった県連票であり、直接民主に屈した間接民主選挙(国会議員票)であった。つまり判り易いという「易しさ」の勝利だった。

自民党の風通しの問題かとも思えるが、その易しさを背景に無慈悲な権力が大手を振って政権末期まで其の影響力が衰えなかったのは、日本人の性癖である阿諛迎合性、あるいは思索の衰えたために易きに流れる人間の文化的惰性と見るのは早計だろうか。

みるところ無慈悲と人情の最初で最後のコンビネーションだが、政権に就くと間もなく同床異夢の謗りは免れない事件で其のコンビは消滅した。

したり顔の評論家は、毎年米国から強圧される対日年次要望書がタイミングよく郵政民営化であったことを幸いに、旧田中派の郵政(電波、財投)利権を奪取する族構造の、゛改革゛なするために真紀子氏の使いまわしがあった、という。

ことの起こりは宮沢・クリントン当時から始まった要望書だが、医療保険であれば薬価、研修医制度の見直し、その後来襲した一日一万円の入院費を謳った数多の特化した低価格保険の氾濫、医師不足のための患者たらい回しが起こった。

公共事業・建設業の要望ではハザマを始めとする大手ゼネコンと首長の汚職が摘発され、却って良質な口利きである要望受託すら遠慮するようになり、より議員の個別利権の発生である生活保護の適用強圧などで扶養費が膨らみ、環境利権の創設?で公園造成、清掃工場、ゴミ運搬など、個人から特定政党の専門利権として新たな構造化を進捗させている。

金融要望があればハゲタカファンドといわれた外資のサラ金並みの高金利と国内の法令基準(コンプライアンス)など無視した横暴がまかり通り、否応無しに株と為替の博打的操作によって企業は防衛にエネルギーをとられ、社員の相互信用は欠落して危機管理とかコンサルタントという相談業が繁盛している。






              
               武蔵野


翻って一昔前のわが国の郷(さと)の長(おさ)は地域の有力者、医者、駐在警察官、教師と相場が決まっていた。有力者には町会長、議員、古老などが並び、冠婚葬祭の重石として上席を占めていた。派閥でいえば領袖、政府は総理大臣だが、この人たちへの敬重基準は財力、地位、学校歴もあるだろうが、本来は臨機での態度に観る、卑しくない、逃げない、良質な裏面性、そして度量と器量にいう、゛おおらかさ゛と、゛厳しい人情゛であろう。

実行力だの説得力はその次にある素養でもあることは、孔子の説を借りれば解りやすい。
言うことが信用できて、行うことかに結果が出る、このような人は・・・?

硜々然(こうこうぜん)として小人なるかな」(小石のように軽い)

『ならば、信頼おける人物とは』

君主の使いに行って、君主に恥をかかせない人物、義のあるものが一等である

日本研究で定評のあるベネディクトは著書「菊と刀」で日本人の「恥」について記している。恥をそそぐために命を賭けて「義」をまっとうする人物を異文化にも普遍で崇高な人物像として記している。むろん新渡戸の武士道、鈴木大拙の禅がベースにあるものであろうが、騎士道との共通性をみたものであろう。





               

                  中国 桂林





ただ、昨今は人格とはなんら関係のない附属性価値である、財、地位、学校歴が安易な判別法が人を量る目安として定着してしまったためか、度量、器量などの如何では人を見ることができなくなった。人物は・・・などと説いても其の像すら掴み得ない状況である。

ものめずらしい話、空想化した仮説、時代予想など、いとも高邁な奇説、珍説が持て囃されるようだが、この種の売文の輩、言論貴族の堕落は中国の百家争鳴に踊った知識人の末路にある権力迎合、変節が映す知識人の堕落は国家さえ売り飛ばす性根劣悪な人の為りである。

また、そのような人間の群れを歓迎し、誘引され、自壊する民衆もその嗜好は人畜を混同した様相、つまり怠惰な宿命意識に留まり現世利益のみを成功感としてギリシャ、ローマ、大英帝国の栄華を没落せしめた温泉、グルメ、旅行、イベントへの興味と、獲得への嫉妬、競争から人間関係の離反へとその道を辿っている。

長(おさ)の存在すら認めず、ひたすら他民族の空想化した擬似真実性(バーチャルリアリティー)の利便性に潜む謀に慣れ親しんでいる様子は、前段にあげた具体的他国の要望を防ぐことすら敵わない亡国的リーダーを長(おさ)として推戴してしまう。

しかも考えることと、観察して照らすこと能力を失くした感のある人々は、゛易しい゛ワンフレーズに錯覚した勇ましさを加味して、笛吹きにさらわれた子供のように行く末を見失っている。



               






誰が言い出したのか、「自由と民主を与える」といわれ人々は踊った。板垣退助は「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったそうだが、そんなに自由がなかったのか。土佐の先輩坂本龍馬はリョウメと呼ばれていた幼少から命を落とすまでの一生は果たして自由のない世界だったのだろうか。
書いたり、言ったりする世界に真の自由はない。近頃では青白い物知りが肉体的衝撃を回避する為に無意味に集積した知を弄び、無定見な強者に阿諛迎合する知識人が多い。そのような輩に限って自由と民主を盾として走狗に入るのである。


それより模倣憲法が出来て法が整い、武士の専任であった戦争に庶民が駆り出される事のほうが生き死にの自由は奪われている。飛言だが会津戊辰戦での庶民の抵抗に懲りた板垣の一案が自由を代償に庶民を徴集する一計であり、明治創成期に始めて国民という呼称と共に今までの軍事戦闘の専任だった武士が役人となり、戦闘員は国のための戦闘員として組織化されるための方便のような自由と民主だったという。

だからといって放縦にならないように借金をさせたり、保険に入らなければ医者にも掛かれない仕組みを作った欧米の自由権の操作もある。国籍を得る代償は戦争と課税でもある。日本でも納税ラインによって選挙権の付与があった。




              






いまでは税も医療費も学費も払わなくてもいい人々が増えてきた。好き勝手な自由解釈によって怠惰な遊興に走り身を持ち崩して、゛その権利゛を手に入れたものもいる。なかには議員の裏口入学の口利きのごとくちゃっかりその位置を占拠しているものも一部にはいる。全国では年間数千億の斡旋利得である。

翻ってそれを司るのは家長,自治体の長、国家では内閣総理大臣という長(おさ)ではあるが、とんでもないお門違いの自由と民主に戸惑いと停滞を起こし、手も足も出ない状況が続いている。


加えて長の首切りと元マスコミ有名人の登場で賑わってきた。
よく、゛劇場政治゛とか、゛神輿は軽くてパーがいい゛といわれてきたが、どうも極みのない世界に迷い込んだようだ。「いくらかマシ」の類だが、連帯意識もなく群れの運動体のようになった人々の真摯な願いだとしても、いずれは掟と目標を持った特殊な集団に飲み込まれることは疑いもない現実である。

漂いはじめた民に取り付くシマはあるのだろうか・・・

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死亡推定時刻もなく骸になったモノ書き

2024-03-11 17:00:08 | Weblog

天田五郎 長じて愚庵

 

数回に分けて抜粋連載した「アメリカよあれが文明の灯だ」は大西洋単独横断で有名なチャールズリンドバーグの逸話を記したものですが、

筆者は「明治遊侠伝」を書き残しています。

あるとき持参して、出版元も連絡取れない、どうにか再編して写真も入れたいと云ってきた。こちらも記載されている出版元に連絡をしたが、やはり不通。それならばと、金持ちになりたい、有名になりたいためかと問い、「いや、このような人物を世に知らせて、せっかくの人生に古い人間だが主人公の生き方と、それを面白がって育てた明治の傑物たちの心意気を知ってもらいたい」と。

それならばと、ジスイ(綴じ目をばらしてデータ化」して、登場人物の写真を入れ、難解な文字を変換したりして、どうにか形は整った。

題名は登場人物がたどりついた禅の僧名「愚庵」とした。

以下は、その筆者との備忘録である。






世は独居老人の孤独死流行りだが、お節介の身近でも度々起きる。
蒸し暑さがつづき人の喧騒も何のその、アパートの玄関先の紫陽花もやけに嫌味に、しかも誇らしげに咲いている。
生活保護だが昔の男は毎月の家賃も欠かさず月初めに持参する律義さがある。

だだ、男やもめに蛆がわくというがモノ書きの部屋は、ネズミの糞、食べ散らかした空き缶、洗濯もしないフンドシ、貰い物の洋服、おびただしい資料と書き散らかした原稿、そして大家の知らせで駆け付けた部屋は、ドアを開けるとハエの大群、まさにモノ書きを餌にした蛆が部屋中うごめいていた。ゴミと骸の臭いで息もできない。

手慣れた警察官はビニールの死体袋に入れてジッパーを締める。いつも道路の隅で隠れるようにして反則切符を切る彼らだが、ことのほか頼もしい。頭が下がる。
遺されたごみは六畳一間と便所と小さな台所で、ごみ袋60個。死して名を遺すとはあるが、ごみを残されてはたまらない。

それでも心ある男どもが助っ人に来た。心根の優しい大家の息子さんも汗かいて働いた。

ところが稀な本が多いために本好きの男どもの手は遅くなる。明治のころ小説などは今の漫画と同じで、モノ書きは嗤われたものだ。いまは教育者だとか文化人だが呼ばれ,曖昧で確証のないものは小説に書き、有りもしないものをさも在るように書く、つまり嘘書きなのだと、嘲っていた本人も、いっときは有名になりたいと思っていたようだ。ほかのモノ書きと違うところは、85歳の童貞作家だということだ。本当かと銭湯に誘ったが、何となくそれらしかった。




山岡鉄舟



正岡子規


当世の不思議と興味を以て聴いてみた。
「いゃ、私たちの頃は友人がみな徴兵で戦地に行って死んでいる。女も抱いたこともなく、まして手も握ったこともなかった。戦が終わって何もすることないし、世の中が変わって死んだ友人のことなど忘れるようになった。そんな日本が悔しかった。それで彼らの思いを書こうと思っていつの間にか今になった。

好きな女にも恋心を持ったこともあるが、友のことを考えるとそれ以上は抑えなくてはならない気分だった。知らなければ、知った人間と違った感覚がある。あの戦地で死んだ友のことを考えると、それでよかったと思っている。」

きっかけは声かけだ。肩に大きなカバンを掛け、両手に資料の詰まったバックを持ち、なりは破れたセーターとジャンバー、薄汚れたズボンにはベルト代わりに梱包用のビニール紐が束ねて結わっている。靴は頑丈な昔ものだ。そんな形(なり)で喫茶店に陣取り資料を広げて何やら下手な字で書いている。口元は始終煙草をくわえ,灰の落ちるのも構わず4人掛けを一人で陣取っている。

「何書いているんですか」
覗き見るとスバス・チャンドラボーズやリンドバーグが判読できる。
スバスはインド革命軍を率いてイギリスと戦ったインドの英雄、リンドバーグは単独世界一周を成し遂げたアメリカの英雄だ。

話し始めると客の視線が厳しい。あんな汚いホームレスのような人と話をしているこちらも同様な類と見られたらしい。癪に障るのでスーツを着込んで行ったこともある。
そのうち一軒目は出入り禁止、二件目は隣の駅だが居づらくなり、最後はコーヒー二人前とカレーライスを並べて偉そうに陣取っていた。




原 敬



陸 羯南

そんな人だから小生の友人は皆、その博学さに惹かれ、また著作に引き込まれて喫茶店に訪れるようになった。とくに彼の描く日本及び日本人が巷の売文にはない純朴さがあった。また外国人から見た日本の情感を集めて知らせてくれた。

生活保護の金が入ると五千円だけ飲み代に使った。安酒だったがカラオケも歌った。酔うと口の乾くのも忘れて善き日本人を語った。鉄舟、羯南、園長、海舟、落合直文、原などの交流や次郎長まで登場した。それら鉄舟を囲む明治の傑物に可愛がられた天田五郎という無学の若者の人生もあった。それが彼の唯一の商業出版物だったが今は絶版だと惜しんでいた。

数奇者が訪ねてきても留守、電話もないため喫茶店を探し回る始末。高級官僚や大手通信社の記者、夢多き中年フリーター、銀座の若い衆も来たが、何処にいるのかわからない。
夜半に訪ねると神田の本屋に行っていたとか、好きな名画座で趣味の映画を観ていたと澄ましている。みな小生の縁だが、「ところで、あの先生どうしてる」「ワケ、分からん」が合言葉だった。

近所に住んでいたが、役所から紹介された昔の木賃宿のような木造のアパートだった。
「余計なことだが、ここに居て火事にでもなったら大変だから、もう少ししっかりしたところに移りますか」
間もなくして近所の鉄筋コンクリートの古いアパートに転居した。どこからかキャスターを借りてきて段ボールを運んでいた。その時はそれほどの量はなかった。
不動産屋が保証人を付けるように云ってきた。もちろん言いだしっぺの小生がその役だ。
もちろん本名も来歴もその時の契約書を見て初めて知った。

落ち着いたところで夜半訪ねてみた。さんまのかば焼きの空き缶をドアに挟んで開けっ放しで寝ていた。電気は煌々とつけ、フンドシもつけず素っ裸で寝ていた。汚れなき寝っぱなしの一物だけは涼し気だったが、クーラーの操作も知らないので屋上の照り返しで立っているだけで汗が噴き出してくる。

なにしろ浮世の口車に乗って保証人で家は抵当、失火で全焼、恥ずかしながら生活保護と独り者の流転は世間知らずと切り捨てられない。




次郎長



海舟

数奇者は観るに見かねて目ぼしい著作をほじくり、装いを改めてキンコーズに製本を依頼して自費本を作った。
「偉くなろう、金持ちになりたい、有名になりたい、そんなことなら手伝いはしないが、分かる人に見てもらいたいなら手伝う」と長幼もわきまえず厳言した。

出来上がったものは、浮俗では野暮で古臭い、まして商業出版屋は一目見て首を傾げ目尻に皴を刻む。出版を食い扶持にしている者の魂胆はよく分からないが、とくに登場人物の路傍の任侠が今どきの浮俗には合わないらしい。

しかも無名無学の徒が鉄舟同友に可愛がられ次郎長の養子となり、しまいには広沢虎造の十八番になった東海游侠伝を漢文まじりで書き、京に上って禅僧になったことなどの人生の成功話では、現代人も見向きはしない。

あるとき誰かの手から任侠ヤクザの親分の目に留まった。
無学でも人の縁で学び、はぐれた親探しの途で自分そのものを発見したこの人物のことを若い者にも知らせたい。普段はエロ本やヤクザ本を読んでいる者も刑務所に入ればマトモな本を読むようになる。いってみれば刑務所大学だ。この本を差し入れしたいという。

この親分は、喰いはぐれて堅気になり、生活保護を貰うといった組員を辞めさせない。
さんざん世間に迷惑かけて,とどのつまり政府と堅気の世話になるなど許せない、親の孝行をしたいというなら赤飯を炊いて送り出してやると云っている御仁である。









書き物は、明治にはこんな日本人がいたということだ。

またそれが活躍できる世間の柔軟性と、人を観る目があったということを知らせたい、お節介の手伝いはそんな気分だ。
編集、挿入は人に任せず、パソコンを打ち、自身で印刷して、馴染みの製本屋に依頼した。まさに、登場人物の天田五郎に倣った自己完結本だ。

何よりも冥途の土産になる。
それにしても、残されたものは大量のゴミ。
遺したものは人の縁と命の始末だ。
そして著名「愚庵」に刻まれた日本人の姿だ。

 


イメージは関係サイトより転載しています

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時節に踊る 腹話術会議

2024-03-10 03:56:33 | Weblog

 

国会から町内会・PTAまで様々な会議と称する集いがあるが、散見るのは親分のコントロールによる正式委員の腹話術のような意見だ。とくに、゛村社会゛と揶揄されるような共同体では親分、ここでは、゛主だった人゛といわれる有力者や組織の先輩の意向が委員をコントロールしてロボットのように使役するようだ。

 

一人前の意見を述べているようで方向性は親分の意向どおりのコントロールだ。別に生活保障されているわけでもなく、なんら服従する理由もないが、ここでは逆らえないような、言うに言われぬ風圧があるようだ。

国会では派閥のボス、党の意向、町では世話になっているわけでもないが昔の地主や先輩の存在が大きな影響がある。ここでは悪しき意味での忖度がある。心を察して随うのだが、ボスには責任は及ばない。

ここでは全体を構成する不特定多数の利福などは無く、ボスの意向を隠す装いが重要になってくるが、鎧の下の狡猾な刃は隠しようもない。かつ多くの人には見抜かれている。

 

会議でも「コントロール会議」の如く、強引に意見を言うが強ければ強いほどその臭いは漂ってくる。委員も独立と自由を装うが、心はボスの事前指示がトラウマとなって、突き詰めれば半知半解の借り物意見ないし、怨念を装うためか応えに窮するようになる。

 

このような人間だから分派された小組織なら尚更、「おまえはバカだ・・・」「このようにしろよ・・」と猫のよう従順になっている。それでも子分か手代のように随うことを安住として考えているのか、会議では水を得た魚のように自説を展開する。とこか滑稽さはある。

 

もともと一刻の学級委員のようなものだが、村会議といわれる揶揄に含まれている問題意識の欠如がある。その他一同意識の無理解にある従順かつ、ノンポリシーと称されるその他一同意識の会議では、そのバカといわれようが親分に従順な小者の屁理屈に騙されるようだ。

 

 人と変わったことをするな、口は禍の元、と育てられた分を知る世代もある。その効用も大きい。

なぜなら集団構成に必須な継続の要件としての見識ある人物による裁可や佳き習慣性の護持、また独特な掟による自制自照の促しは、異物の混入を抑える、あるいは同化させる力もあった。よく村八分が問題になっているが、邪まな者を出さない、出たら裁断するといった抑制免疫の効用があった。

人権・平等・民主の概念は人の調和と連帯を毀損することに用いられることがあると古老は説いたが、その最たる方法論としての選挙は余程のこと人物を得なければ人気選挙、好き嫌いの感情選挙、あるいは損得の利得選挙になってしまう。

 

また。それを指示する方も、される方もそれが及ぼす人間関係の煩いごとを推考する洞察も見識もない。あるのは思い通りにならない悔しさや嫉妬、過去の怨恨などだが、コントロールされ、ボスにバカと叱責される委員には血沸き肉躍る会議のようになる。とくに怨恨を晴らす人事の会議になると、それでなくても怪文書は飛び交い、密談が横行するイベントなのだ。

 

                               

               藍綬褒章

   なかにはこれを求めて争論、嫉妬・復讐する地域のボスや使われる手代もいる

 

 

下は上に倣ったのか、邦人の性癖なのか、普段は寡黙な者まで言葉に熱が入る。おおよそは生きていることの存在確認と己を他人に知らしめることのようだが、言葉も「言いたいこと」が多く、責任が伴う「言うべきこと」が少ない。

 

毎年のこと任期限が近づいたり、改選が予定されると全国津々浦々で人間間の珍事が繰り広げられる。とくに損得や名誉がかかわると熱を帯びる。損得といっても、たかだか一過性のおこぼれや、名誉といっても記録に記される地位や、欧米ではタックスイーターと称されるる部類の役職官吏の感状や表彰状の奪い合いだが、その後の陛下からの褒賞狙いを主目的とした人事抗争も数多全国で展開される。

同時に褒章業者がモーニングや配りもの,名士を呼ぶパーティなどの一斉に営業が始まる。経済効果も多いが、なによりも本人にとっては価値観の問題ではあるが一世一代の晴れの舞台なのだ。役所も紙切れ一枚でコントロールされる業界や国民ゆえに、重宝している制度でもある。

 

政治や経済ならさも有らんかと思うが、福祉団体や更生保護団体でも額に入った四角い紙が近い(もらいやすい)せいか、一部の者たちが熾烈な闘い?が繰り広げられる。

一方は弱者救済、一方は犯罪者の更生保護と周知だが、弱者といわれる方も犯罪者も縁のないそれらの感覚だ。まして一億超の国民からすれば水たまりのボウフラが争っているような細事だが、その連中の意識には忘却されたこの時節の恒例イベントのようなものになっている

まさに社会を覆う人の感情裏面でもあるが、見方によっては篤志を掲げる目的意識に沿わない社会悪の一端ではないかとも思える姿だ。

それを意図したり、嫉妬したり、怨念の復讐のようなゴマメの企てだが、「お前やれ」と指示されて出てくる腹話術役員も同じ臭いのする手合いだ。

 その従順な子分となった委員の役割は、この点では重いが、任に耐えられない珍奇な発言が多いのもこの手の人間のようだ。

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅷ

2024-03-09 02:55:24 | Weblog



 春は枝頭から  


星よさらば
  十一章 ―サンテクジュペリのこと―

アレクサンドロ・ド・サンテクジュペリは、今や日本でも、人気のある、有名な作家である。特に「星のお王子さま」で、群を抜く評判だ。
 アニメ映画も、フランスで作られている。みな戦後の評価である。
 日本翻訳は、内藤濯(アラフ)、その人と作品に惚れこんで、訳した。

 しかし、戦中、昭和十四年、五年―一時、その作品は、白水社から、少部だが、連続刊行され、一部の層には、斬新なスタイル、鋭利で磨かれたセンス、文体を珍重されている(当時の翻訳は堀口大学)(第一書房)

 生前、リンドバーグとは、二度しか逢っていないが、互いに敬畏と共鳴を抱き、リンドにとっては、カレルに次ぐ話しの通じ、よく分かる益友だった。
 更に、アンにとっては、無上の人

 この頃までは、理想の太陽の人だったのは夫のリンドバーグだったが、逢ったその日から、リンドバーグは、月となり、太陽は、サンテクジュペリになった(日記)


 サンテクスは、フランスの名門、貴族の嫡(チャク)流である。1900年生
 もっとも、この頃には落魄していて、父は亡く、美しく、気品のある母の手により、姉妹二人と、厳格な教えと、深い愛によって育まれた。

 幼少の折りから、素晴らしい金髪と、輝く額、光り溢れる黒い瞳で、子供達からさえ、プリンス、金髪の王子様と敬愛されている。

 若い、少早から、哲学、思索にふけり、急進的な左翼思想に流れていたが、やがて、募兵、偶然にも飛行兵に配属されたことから、パイロットになる。
 
 それも、初めから無茶な飛行で、乗った途端に事故を起こすという軌道外し。しかし、すぐ熟達の飛行士となる。退役、予備役将校のまま生活の為、リンドバーグと同じく、航空郵便会社に入り、主に南米方面で働く。

 リンドバーグと違い、彼の方は、事故、遭難、怪我と、一時はサハラで墜落、行方不明にさえなったり、傷害で、再起不能とさへ思われたこともあるが…やがて復帰する…パイロット不運だったのだ。
 そういう勤務中にも、文章に励み、しかし、余り認められぬうち、結婚…
 美しいコンスエロ・スンシン…これも貴族系…
 しかし、その生活は厳しく、苦しく、一時は、南米生活中、電気、水道、ガスを止められ、アパート代も何ヵ月も溜め、収入ナシ、二人で死のうか、と…死を待つくらいの窮迫だった。

が…送っておいた短編が採用され、その僅かな稿料が届いて、死を免れた、


 この頃から、少数紙の取材記者などして、少しずつ余裕をもちだす(1936年夏スペイン内乱など)
 こうして、体験からくる「夜間飛行」「南方飛行」などの、それまでのフランス文壇にはみられなかった、新しいスタイルの文体と感覚が、一部に認められ、加えてパイロットという職歴が珍重されだす。

 やがて、戦火―招集、フランス祖国のドイツ降伏と共に、アメリカへ亡命。
 このあたり、著作のアメリカ映画化により潤いを得て1942年には、「星の王子さま」刊行となる…フランスではなく、初版はアメリカ出版なのだ、
 フランス解放のため、再び志願、連合軍アメリカ航空隊に参加する。

 リンドバーグ夫妻が、彼と会うのは、その一九四〇年~四一年、サンテクスがニューヨークのリッツホテル、滞在中、映画の仕事中であった。

 アンは一九三九年夏に、「風と砂と星と」の翻訳版を読み、自分と同じことを感じ、考え、夢見ている男を知った。以来、敬畏と共感を抱き続けてきている…

 自作の「聴いて、風を!」を贈ると、サンテクスもまた、長い○○感とフランスへの紹介をしてくれたから…

 いよいよ礼讃は高まった。
 そのニューヨーク滞在…勿ち連絡を取り、宿泊がてらの晩餐に招く。
 リッツホテルに単身赴いたアンは、迎えの車が故障したので、ロングアイランドの住居まで、二人で列車で行く。

 既に四十才を過ぎたサンテクスは、写真などと違って、もう、あのすばらしい金髪も薄くなり、六フィート二インチ、リンドバーグを超す長身で、生活の疲れが、面にも惨んでいたが、あの瞳の光だけは、キラキラ深い奥から輝いていた。

 同行中、仏語のできるアンと話しは弾み、アンは熱中に傾倒した。
 その日の日記には、サンテクスを“夏の稲妻”と表現する。
 夫のリンドの方は、会合で忙しく、その日も留守…で、夜遅くやっと帰って来る。

 彼はフランス語ができない。
 紹介後も…結局、アンとサンテクス二人の談笑となり、それでもリンドとサンテクスは互いの立場、境遇から、深い共鳴と親愛を持った。気持ちは表情でも分かる。

 夜は更け、朝まで、話は続き…一夜で三人の仲は、深く、濃いものになった。
 翌くる朝、リッツホテルまで、夫婦が送っていく。サンテクスの語る寓話に、アンの通訳で聞きながら、リンドは夢中になり、エンジンがガタガタするまで気がつかないほどで途中エンコ。とにかく、無事に車で送る。
 その後、リンドがミューヨークに出かける折、リッツで、またサンテクスと談笑。この二回で、三人の生きての対面、会談は無かった。

 サンテクスは、前線に戻る。アフリカ基地から、イタリアのコルシカ島へ (1944年7月)アメリカ軍に所属した為、彼は、フランスのレジスタンスやドゴール配下の軍人達からは、排斥嫌厭とされている
 偵察飛行に飛んで…以後、行方不明。
 機体も肉体も、その一片すら未発見…
 …七月三十一日 四十四才

 それを新聞で知り、アンも、リンドも、哀悼、悲嘆に沈んだ。
 アンにとっては、唯一人の、恋人に近い、己を詩人、作家として、認めてくれた理解者男性!リンドバーグにとっては、同じ苦悩と○○人と、夢想を共にできえた友として…


 その後―
 母や、姉妹は存命し、美しき妻もまた、彼の死後、生きた…
 そして、サンテクスの名を汚さぬ生涯をも終えた。

【以上、「アメリカよあれが文明の灯だ」の未完抜粋を終了します】

※ 文中○部分は、判読不明文字


《数回にわたって久坂総三氏の稿を掲載しましたが、その世界では埋もれがちな無名な作家ではありましたが多くの未発行作を残しています。色々な批評、或いは一顧だにしない方もおられると思いますが、齢80歳の天涯孤独な作者が描く善き日本人と、日本に情を置く異民族の日本人観を世上に掲載することにより、何れかの用となることを希望するものです》

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅵ

2024-03-06 08:06:00 | Weblog

                          石原莞爾



ジョセフ・ステジァク
  インディアナ州ミシガン市鋼鉄労働者

 「フィリピンのミンダナオ島―日本軍の立てこもる洞穴に、火炎放射器を使って、掃討作戦も従った。
―諸君に捕虜を連れて来て欲しく無いって…頭ん中に徹底させたよ。


俺達は、呉に上陸した、広島から8、9マイルか…十月六日から一ヵ月経ってた…
このインタビュー中、彼は笑い…話し… そして、途中、言句に絶して、泣く、彼は、放射能の真っ只中にいたのだ…生き残りの日本人と共に…
帰国後、毛が抜け出し…この時、発症。インタビューの時も、原爆症だった。


ロドート・レカーマン
  ニューヨーク市立大学経済学教授、徴兵

 …目が悪いし、何についても不器用で…結局、連隊本部付の事務に廻された。
 グアム…沖縄…
「酷い状況でした…誰かがやってたような。敵兵の耳を集める事はしてません。
 毒牙を持つ黄色い人殺し、人間以下の獣という噂で、育ちましたから、日本人が十万殺されれば、それだけ好いんだ、二十万ならもっと好い…広島の原爆を聞いて、凄いてっ思いました。」



 沖縄で―
 「小屋に日本人がいたかい?」
 「ああ、グークのババァがいたよ。バァさんは、御先祖様の仲間入りがしたいっていったから、オレが望みを叶えてやったよ。
 
 私はカッとした。
 「このクソッタレ!バァさんを殺す為に、ここへ来たんじゃない」
 彼は、アアだこうだ、言い訳し始めた。軍曹が来た、私は報告した、前進…その後どう処理されたかしらない。
 ヤツは、好いヤツで、まだ少年って感じだった…一番いい事をしたつもりなんだ…私にはわからない。



 彼らの病院船攻撃、撃沈については、前述通り…理屈が付いている…後には、日本もやったかもしれないが…先にやり出したのは、彼らである。
 日本舞踊家、当時に二十一才ばかりの、二代目花柳寿美は、前線慰安の帰り、病院船にのり合わせ、途中、撃沈された。
 
 水上に浮び、漂う彼女らの見える位近寄った。航空機から、漂流者や病人、怪我人が、機銃掃討で、殺される情景と、体験談を、昭和十九年の「主婦の友」誌上で、私は、当時読んだ記憶がある。
 戦後、刊行の「昭和大雑誌」の下巻に、後載されている。
 ウソではあるまい。宣伝ではあるまい。
 軍の虚偽、創作と、諸君は思うかしらん…とくと読みたまへ。



 小泉信三 慶應大学教授 昭和19年10・11合併号 三田文学 所載

 “アメリカ人と残忍性”
 …タイム、リーダース・ダイジェスト、ライフ…諸誌を、戦前から、まま、読んできているが、戦中に入ると
 「―思い当たるのは、アメリカ人の…惨酷に対する彼らの無神経である。
 …吾々…日本ならば警察が許さず、よし許しても読者が目を背けるような写真が…しばしば大きく出されていた。

 …黒人の泥棒の死体…悪人にもせよ。罪囚にせよ、人間の死体はこれを大事に扱うと言う観念が見られない。
“ライフ”は、発売部数、四百万、読者は千数百万に上ると云う。

 電気イスによる死刑執行実況記事など、
 「…吾々は要略だけでも読むに耐えぬ。…紹介も検閲は許さぬであろうし、たとい許されても私には書けぬ。

“ライフ”で、南太平洋のある島での食人について…

 いかにして人肉を食うか、その調理法まで、さらに信じがたいが…人間をあぶりつつある実景写真を載せてあった…日本人には堪えられないことで…吾々はこんなものを見られない。
アメリカ人の神経と吾々の神経とが違う…

 ガダルカナル島その他で、我が負傷兵に対しての米兵の残虐行為や、死体侮辱は…彼らとしては、大した事ではない当たり前のことであるかもしれぬ。
 敵兵といえども、その頭蓋骨を弄ぶというが如きは、日本人には到底思い難い行為である。第一気味が悪くてできない。

 最近、日本人の人骨で作った紙切りをルーズベルトに贈ったというが、贈ったのは、国会代議士である。平均以上の、バカでも気違いでもない人間―代議士が、そうしたというのは、大統領が受取ると考えたからであろう。〈事実、大統領がそれを手にして、正面を向いてニタニタ笑っている写真が、“ライフ”に載った。デカデカと…彼らにとっては、それは愉快なことだったのだろう。さぞかし…?〉

 私は、アメリカの盲目的増悪者では無かったつもりだ。
この事実をみると、前から熱心に読んできて、少しは彼らに学ぶべき所を学ぼうとしてきた私も、どうしても、彼らと吾々との間に、異質のものがあると認めざるを得ぬ。

 これは、病的神経、刺激を求める残忍性では無くて、肉体、精神健康な人間の無神経である。残忍性である。加えて、他人に対する、抜きがたい、優越感と、懲罰を当然とする性格を認めざるをえぬ。吾々が、この敵に負けることがあったら、彼らは何をするか、想像もできぬ。

〈以上は、長文の為、多少、省略、換語をしてあるが、ほぼ原文の意のまま、戦時、日本敗走中の頃、末期発表で…小泉信三は、のち、皇太子の傅(フ)となり(現天皇)、そのご成婚の媒を勤めた人である。氏はまた空襲で、大火傷をこうむり、半顔に、醜痕を残している〉
小泉信三全集 二十巻後にある

 ついでの事で―関り無いかもしれぬが、なほ一文
「―くり返していうが、この戦争に妥協、中間的結末はあり得ない。勝つか、亡びるか、いづれかである。
 
 万一にも敗れ、屈服することがあったなら、我々自身、我々の子女は、永劫の苦痛と、屈辱の淵に沈まなければならぬ。
 このことは敵国の世論に徹して、いよいよ明白、一点の疑いを挟む余地もなくなった。」
「―米英人は、日本人の絶滅を唱えている。本音である。」


抜粋続く

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅴ

2024-03-05 01:08:00 | Weblog



 当時、硫黄島守備隊長海軍大佐和智恒蔵は、本部命令により、別方面に移動したが、その三ヵ月後、米軍来襲となり、かつての部下約二万人が、ほぼ全員玉砕、皆殺しにされた。(米国側七千人死)

 軍人として、上官として、痛恨、悲嘆、その心情は、想像に余りある。
 幸か不幸か、和智大佐は、敗戦後も存命した。
彼の思いは、ただ、死に遅れたという悔いと、生き残りならば、せめて、日本の復興と、犠牲者の慰霊のみが。後半生―生涯の念願となる。

戦犯となり(おかしな話だが)出所後僧となり、現地の遺骨収集と、供養に全て捧げる。硫黄島は、その後二十数年は、米軍基地として占領支配に在り、渡島も出来なかった。

 ようやく昭和四十二年、日本返還
 その間―ただ一度、昭和二十七年、八方に陳情、切願して、硫黄島に渡って、遺骨集めと、清掃、慰霊の機会を得た。
 すりばち山の血戦上には、平和観音像を存置した。

 この時、米軍兵舎の中に、荒縄を巻いて寄せ集められた頭蓋骨を見た。
 気をつけると…方々に散乱したままの日本兵の死体遺骸には、頭蓋骨が多く欠けている。

何故か?どうしてか?

その後の調査で―彼らは米人、米兵は、死体から頭蓋骨を記念品として、切断、郵送、あるいは手づから持ち帰り、色々の方面に、利用していることを知る。
〈昭和四十八年五月には、頭蓋骨一個が返送されて来た。〉

また、カリフォルニアのベンドルトン海軍基地の硫黄島米軍戦闘四十周記念夜会には、頭蓋骨二個が返されて来た。
送り主は、ミシガン州学校教員で、社会科学習の教材に使用していたという…何れも、良心に咎めたに違いない)

和智師は、愕然とし、余りものこと語を失った…
以来、その返還と、遺体、骨合と、埋葬、供養に、全身全霊をかけて、死ぬまで尽くした。

新聞記事には、わづかに昭和六十二年(一九八七年)和智氏八十七才の時、一斑。報知された(読売)のみである。

最近、やっと、上好冬子が、一書を出して訴へている。(硫黄島未だ玉砕せず)
〈戦後の日本人と、マスコミは、まァこんな程度で、人間の尊厳、生命の価値など、のたまうが、全て自分と今だけのことである。
既に、和智氏、成佛…その遺志は、誰が受け継いでいましょうか〉

 以来、再び、全く、影も形もなし。
 恐らく現代の平和主義者日本人は、何の痛み、痒みも感じまい。
 しかし、このウォーナー氏の如き、シンプルな、知性と感情を持つ人々は、時にして、白人中にも有るのだ。

 サイパン玉砕についてだが、ウォーナー氏は、ここでは、米兵による虐殺事例は聞いていないと、書いているが、当時陸軍大尉の田中徳祐は、戦後まもなくサイパン虐殺の記述を無しと、G・H・Qから、禁圧を受けている。「今日の話題社、刊行物所載」
 晩年「サイパン降伏せず」の一書を発表しているが、ここでも露骨に記述を避けている。


 ジョージ・サベルカ神父
  ミシガン州フリント町出身 テニアン島基地従軍司祭
  一九四三年 軍に入る 現在は、平和巡礼者

 「ハーバード従軍牧師学校で…どうやって良い兵隊を作るのか教えられた。
 気にも止らなかった。完全にO・Kだと信じてた。
 私は身を挺して、行動したかった
 爆撃機搭乗員を祝福するのが…仕事だった。
 東京空襲、絨毯爆撃、原爆、今でもタイムの、原爆第一報を持っている。

 見出しは、
  新世界への入口…
 私は…それにも祝福をした。
 クリスチャンとして、司祭として感じるべき感情さへ、感じなかった。
 民間人攻撃なのに、全く考えもしなかった。

 その理由の一つは、教会も、宗教家も誰一人、何も云わなかったし…むしろ、スペルマン枢機卿は、テニアンにきて、
 ―諸君、戦い続けよ。と叫ぶ
 …既に、相手は、降伏の機を待っていたのに、無条件降伏を要求した。
 原爆投下の必要は、もうなかったんだよ。
これは、聖オーガスチヌスの「正義の戦」の掟に反する。
降伏の準備意志のある時、戦闘は続けてはならないんだ。
長崎は、カトリックの地区だ。

それなのに…
私の意識は、当時、分裂してた。酷い、しかし、これで戦争は終りだ。安心だ。
罪の意識は思い出せない。
長崎に行った。
本当に、私がわかり始めたのは、この時からだ。
子供、若い女、老人…何千人もが…静かに、おとなしく、ただ静かに、ただ死んでいくんだ…良心がうづめき始める。
アメリカへ帰って…その事を喋ろうとするんだが、誰も耳を貸さない。

やがて…挑戦…ベトナム…
心臓発作が来て、三日間意識不明
…なんとか、生き残れた…が…

「ジャングル戦だ、北ビルマからマンダレー」
カチン族を譲歩し、戦闘訓練する。
村に入り、奇襲で、撃って逃げる。
処刑は即決で、残忍だった。機関銃でね、顎を蹴りつけ、尋問・答えなけりゃ、ダダーン
 ―相手は
 ビルマ人―村民だ
 米人将校と下仕官数名、そしてカチン族、この混合部隊で、村を焼く。
 協力的でなきゃ、火をつける、それだけのことさ。
 ベトナム戦争と同じサ。二等兵だから、文句も言えないサ、ただ云われてやるだけ。ショソクだったし、好いこととはおもってなかったけれど…

 一方、随分、凄い人がいた。
 その人達にしてみりゃ、面白かったんだろうな。
 家が欲しきゃその家の人々を追い出しちまう…使用人にしちまうか
 背後から(味方に)撃たれて死んで無かったら、大変な事をしてたと思われる大佐達もいたよ。頭が無いんだ。危険だよ。

でも、狂態の全てが好きだった。
 悪い思いではないよ。


続く

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アメリカよあれが文明の灯だ  抜粋 Ⅳ    2010再 

2024-03-04 14:50:02 | Weblog

津軽弘前 忠魂碑の威容



久坂総三氏 寄稿
部分プリント2 


しかし、云わなければ、云わないままの状態が真実とされる、歴史と決められてしまう。
 云わねばならぬことあれば、云うべきである。
…ウソと私情私然で誇大に叫べば、これもまた、ニセの真実となる。
 全くムヅカシイ事だが、それをなすのが、学者であり、知性人であろう。
 残念ながら、日本では…?

 ウォーナー“カミカゼ”
「“ライフ”一九四四年五月二十二日号 今週の写真は、一ページ丸毎使われていた。アリゾナ州フェニックス市の二十才のナタリイ・リチャードソン(戦時従業員)嬢が、ペンを片手に、卓上の頭蓋骨―日本兵―をウットリと眺めている写真であった。
 
それは、ボーイフレンド、W・F・J・ウィームズ大尉が故郷に送ったもの。
 小見出しに、彼女が、それを贈ってくれたボーイフレンドに礼状を書いていると

説明…
 トラックドライバーらは、ペンキで彩色した頭蓋骨を装飾品として、フェンダーの上に乗せて走った。死骸の歯で作った首飾りが大流行。鎖骨でペーパーナイフが作られた。」 
ウォーナー氏は、この後、大統領が八月十日、戦地からのレター・オープナーの受取を拒否するまで、誰も悪いとは考えている者はほとんど無かったようだ。と書いているが、


 実は、同じルーズベルト大統領が、同じ、“ライフ”誌に、その日本兵の骨で作ったレター・オープナーを手に持って、微笑んでいる写真が、デカデカと掲載され、出版されている。


 それを私も見た。戦時中(私、中学三年生、当時、十七才、 サンデー毎日誌…朝日新聞等大新聞ものせていたと記憶する。
 まァ、これについては、云うべきことも大いにあるが、止めておく。
 ただ、これを云った人も、著者も、敗戦後七十年。まず誰一人として、書いた者も、報じた者も聞いたことがない。
 ただ、小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」昭和五十七年刊と、平成十五年頃の正論誌上に、西尾幹二氏の戦中問題記に見ただけ、たった二人だけである。

 戦中、コレを狂喧として叫んだ。新聞記者に中野五郎なども、戦後は、全く一筆も、触れていない。他は推して知るべし。
 知らない、知らなかったのではない。
 見ない、ソッポを向き、また否定してきたのである。
 知らざるものも、教へぬものも憐れなるもの哉…

 まァ、こういうことが、アメリカの正義であり、キリスト教の愛と、自由と、慈悲なのであろう。

 





アメリカ人もまたこれに触れたものを聞かぬ。
 ただ、一度、同じアリゾナか、ミネソタ辺りの若い女性が、それを知って、追悼の私的グループ活動をした。それを日本の若い男が知り、愕然とし文通したということを何かの新聞で見たが…ただそれっきりでしぼんでしまったようだった。

  F・B・スレッジハンマー
大学の高類学者、第一海兵分団第五連隊第三大隊○中隊に属し、補充兵として十九才より戦闘 一九八二年「ペリリューと沖縄の懐かしき友たちと共に」を発表、戦友顕彰の記録を残す、がその中にさえ…

 「日本兵は、武士道を基に戦っていた。戦士の道に降伏はない。全く望みの無い事態に立ち到っても、諦めない、実際に、彼らと戦ってみなければ、とても理解できないことです。
 
…段々日本兵をやっつけたくなった…無感動になってしまうのだ。
 
…ペリリューで、初めて日本兵の終をじっくり見た。撃たれていた。戦友らがこの男をバラバラに切り刻み、記念品にするのを見て、本当にたまらなかった。

 兵隊たちは、狩の獣のように、死骸を引きずり廻していた…私は震え上がった。コイツだって人間だってね…でもそういう気持ちは、永く続かなかった。

 日本軍に対する憎しみは、ごく自然に、本能的に出来上がっていく、ドイツ人に対してとは違っていた。

 ペリリュー…沖縄…捕虜を捕まえた。負傷者は殺すな、と、命じられていた。(降伏者からは、情報が取れるからでした。)が…気持ちの上では…まァ、一々尋問すれば、兵隊は、捕虜は殺しちゃいないというでしょうが…つまり、野蛮人だからって…ね。

 訓練所の教官は、我々にいった。「日本人と戦う時、ずるく立廻るのをためらうな。やられる前に、殺れ。

 …私は、必要もなく、負傷日本人を撃ち殺し、口から金歯を抜き取る兵隊を見た。

 私もしようかと思った時もある。
 リンドバーグは、米兵が日本兵を酷い汚い言葉で言っているのに、ゾーッとしたといっている。

 向うも野蛮人なら、私達も正に野蛮人でしたよ。

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