まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

国家の応答辞令 あの頃も 2018

2020-11-24 13:56:27 | Weblog

 

平成23年12月17日 津軽弘前城




「三億失っても、五億は残る」


金の話ではない

人の数の話だ

きっとこんな会話だったと推察する

「いつでも(言うことを聴かなければ)核を打ちこめる・・」

「なに、三億死んでも五億は残る」

これは余りにも有名なスターリンと毛沢東のエピソードである。

これは地図中の大きさと人口の数が「力」となった例で、しかも「生命と財産を・・・」と謳う我国の指導者には到底まねのできない応答でもある。

外交は先ず言葉の切り合いから始まる。その先は戦争である。

小国日本は日露戦争の軍費を調達するに国債を売った。引き受けてはユダヤ人の資本家である。ロシア国内のユダヤ人保護という大義があったが、もし負けて国債が紙切れになったら資本家も困る。普通は担保を取る。土地をとっても民衆もついでに付いてくる。
食わせるのに大変だから、関税権を担保にする。税の権利を取られたら国家の独立は成り立たない。「税」が無くなるということは戦車も大砲もいらない、いまは交渉という名の恐喝まがいでその国は自由になる。

よく交渉後、指導者が笑みを浮かべて握手する。もちろんマスコミセレモニーだが、これが大国と小国だと現場は恫喝と迎合で収まる。
佐藤総理も沖縄返還の端緒になった大統領との会談のエピソードだが、場所は執務室である。

この場合は大統領は執務机に足を上げるが、これは親密さと無礼が混じる。映画でもそうだがアメリカ人はよく机に足を上げる。ならば郷に倣って佐藤総理が足を上げるわけにもいかない。畏まるしかない。しかも当時の日米の力加減は差にもならない。

せいぜい10分か20分しか会話も持たない。帝大から官僚、そして兄に引き立てられて総理になった人物でも、否、だからこそ郷里の英傑高杉晋作のように馬関戦争で負けたくせに、堂々と渡り合う度胸と頓智は浮かばない。

そこで渡米前に安岡正篤氏から応答辞令の妙を訊いている。
要は、日本の武士道と西洋の騎士道を例にして、勝者が敗者を労わる矜持の在り様だ。

これが効果を表すかどうか、佐藤氏は鵜呑みで理解したが、真意は半解だった。
安岡氏は国家民族の指導者である総理と大統領の応答の質を諭したのである。
その元となるものは武士,騎士に備えるべき「道」の問題を互いの共通項としなければ、単なる勝者の大国,敗者の小国の、高慢とひくつ迎合に終始してしまうと危惧したのだ。
とくに、米英鬼畜がギブミーチョコレートにたちどころに転化する順応性と阿諛迎合性は外交交渉において嘲りを受ける問題だ

その成果は沖縄返還だが、施政権の返還であって沖縄の返還ではないようだ。
つまり占領したが住民がそこにいる。民政には金もかかる。行政権は還すが治外法権と広大な基地はそのままである。それが限界だった。

国家の目標や理念もなく、また自浄作用も乏しく、銭を蓄えて、揉み手で迎合する当世では、逆にあのマッカーサーのように外圧を期待する軟弱な外交官も出てくる。
ワシントンのシンクタンク、ブルッキング研究所で大使や訪米政治家に意見を聞くことがあるが、意見が無いという。つまり自身の哲学や国家に対する使命感すらなく、どこどこの国が・・・、と、まるで相手次第といった無責任な応答しかないという。
教科書エリートか伴食議員とおもえばそれだが、国民は訳も分からず難儀する。













原発について欧米ジャーナリストが口をそろえる
作業員は世界一だ。しかし上のものはどうしようもない。この国のエリート教育は失敗した。おかしいと気が付いていないのか、分かっていても直そうとしないのか、この繁栄はどんな意味があるのだろう

それが国会で騒論を繰り広げ、外交官吏は自国を刺激するよう交渉相手に裏で促す、それを成果として己の生涯賃金を陰で計算する。堕落、弛緩ということがあるが、狂っているとみる。

むろん、毛沢東とスターリンのような応答もできない。
歴史家はしたり顔で過去を解説するが、外交は当事者の応答辞令が多くの要因をなす。それを組織に都合や、文言の理解齟齬、風の吹きまわしなどを部分の理由にしても、総じて智慧が働かず形式ばった責任回避を、狡知を以って言い訳する当事者の詭弁にすぎない。

政治家も官吏も「人命財産」というが、「国家」を背負う気概がない。もちろん民も上に倣う。

筆者の知人ブラジル移民の某氏は、出発前に母親に促されて仏壇に座した。
目の前には母が嫁入りに持参した懐刀があった。
この懐刀は身を守るものではない。もし、男子として恥かしいことをしたら自身を突きなさい。苦しくて帰りたくなったら船上から海に身を投げなさい
そう云って我が子を送り出している。
たしかに下々の庶民は優れている。

もちろん、現地では尊敬され大成功を収めた。それは不毛の大地といわれたセラードを開拓し、いまでは豊饒の大地としてブラジルの興隆を支えている。

地位や名誉、学校歴は身を飾り守るものではない。ときに矜持を汚すことがあったら、その人格とは何ら関係もない附属性価値は刃となって吾が身を突くはずだ。
それさえも出来ないような官徒、政徒を国家の遣いに出してはならない。

国家の矜持である命の礼とはそのようなものだ。

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秋山真之の人間教育論 2018

2020-11-18 00:19:17 | Weblog

 

 

よく平時と有事とあるが、有事の逆は無事だ。

戦争のない平和な時ともいえるが、毎日のように有事は到来する。いや衰えた人間が招来させているのかもしれない。

天災だった東日本の震災も、原発の惨劇は政府や企業の指導的エリートの対応力が問題になった。

大企業の東芝の有事対応も混迷している。あるいは政権当事者の便宜供与や数多の議員の金銭がらみの問題は国家的有事だが、自浄はおぼつかない。

有事は戦争だけではない。平時における「内なる賊の退治は難しい」と王陽明も説いた。ちなみに「外の賊を破るは易し」と。

法治国家の対応として官僚の腐敗は捜査二課(知能犯)と検察、しかし政府からの俸給担保と生活保障されている同じ公務員ゆえ、国民から見ても曖昧な決着が多いようだ。これらも総じて「賊」だ。期間中は頭を下げて失業対策選挙?に勤しむ議員も、当選後はお手盛り、便宜供与、口利き、猟官、はたまた不倫に公費乱用とやりたい放題。これらの賊は余程のことがないくらいにお縄にならない。よって選挙のみそぎなどといわれるが、これもおぼつかない有事だ。

ひるがえって、有事がいわれる自衛官諸士が、そのような数多の賊が跋扈する内(国内)の状態を観て、いくら『国民の生命財産を守る』と最高指揮官である為政者が唱えても、土壇場の有事に士気や覚悟が発揮できるのか、これも問題となる。

税金で維持していると国民は無関心だが、面前の隊員諸士は日々新たに激務に精励している。

平時に世の親は、『公務員は生活も安定している』と志願入隊を促したが、こと有事になると親はとのような態度で隊士らに接するのだろうか。

また階級組織の中で、いまだ立身出世のみを描くエリートがいないとは限らない。

讃えられる賢将の戦訓もあるが、土壇場では我先にと肉体的衝撃を忌避し逃げた高級軍人や官僚の歴史も数多ある。

それらの内なる賊によって組織は衰亡し国家は惨禍を誘引した歴史は、長い歴史からすればつい最近のことだ。

 

     

      旅順港を遠望する

 

 

以下は「肉体に浸透し自得すること」と題して、ある集団の精鋭に行った講話資料の秋山氏に関する抜粋です。

ここでは過去の歴史を回顧しての人物比較ではありますが、ときに無関心や遊惰ともいわれる生活の中で「心の賊」の払拭する意味で人物観を養う例題です。

また、当時の学びの本(もと)となることを知ることで、集団の中での人物のあり様を想起する手立てでもあります。、

 

 

教官から話を聞くことは啓発の端緒にはなっても、諸君の知識が増えることにはならない。

戦史を研究し、自分で考え、さらに考え直して得たことこそ諸君のものとなる。

たとえ読み取り方を間違っても、100回の講座を聞くより勝る。

 

 

≪真之の戦争不滅論講義≫

 

「生存競争は弱肉強食ある.そして奪い合い、報復する」

 

「戦争は好むべきものではないが、憎むべきではない」

 

「大国といえども戦いを好む国は危うい。平和といえど戦いを忘れた国は亡びる」

 

「戦争を嫌悪して人為的に根絶しようとして、かえってこれに倍する惨害に陥ることを悟らない国も、必要以上に武力を使って、手に入れたものより、失ったものが多い国も哀れむべきだ。」

 

そして、学生の書いた答えが自分の考えと違っていても、論理が通っていて、一説を為しているとすればそれ相当の高い点数を与えた。

もし教官が自分の思い通りでなければ高い点数を与えないというやり方をすれば、学生は教官に従うだけになって自分で考えなくなる。

その様では、いざ実戦で自分の考えで判断し、適切な処置をすることができなくなってしまう。

 

そして要諦は「天地人」と説く。

①  いかなる天候、いかなる機会、いかなる作戦

②  いかなる地点をとり、いかなる地点を与えてはならない。

➂ 人の和が重要。いかなる統率のもと、いかなる軍を配置し、いかにして将官の命令を徹底するか、これが人である。

 

 

母からの手紙と兄の名刺

もし後顧の憂いあり、足手まといの家族のために出征軍人として覚悟が鈍るようであれば、自分は自決する」

この手紙と母の写真、そして這回の役、一家全滅するとも恨みなしと書いた兄好古の名刺と一緒に軍装の内ベケットに入れた。

這回・・・この度

 

 

      

                    岩木山神社

 

以下は 筆者の応答コメント抜粋

 

・・・何を観るか、どこを見るか、そのいくすえは、感だけではなく、数多な情報だけではなく、結果事実への経緯を我が身に照らすことだと思います。

そしてその結果が僥倖だとしても誇ったり、増長したりしないことです。

  

       

 

・・・東郷元帥は戦勝後の参詣路では、うつむいて敗軍の将のようだったといいます。

また秋山好古は中央から離れ故郷で小学校の校長をしています。

弟はどこか神かかって、気がおかしくなったのかと噂されています。

児玉源太郎は国難払拭のために叡智をしぼり尽きたのか、すぐ亡くなっています。

それに引き換え、多くの将官は官位褒賞をねだり浮かれていました。

それが昭和二十年の在りようを考える本当の端緒です。

 戦争は好むものではないが、嫌うものであってはならないと秋山は諭します。

そして戦死した両国の若者や、戦地となった彼の地の人々、日本および日本人に問いかけたい事実、それが彼らの共通し希求した人の姿であり、異民族に普遍な人情でもあり、国の行く末を案ずる心だったのです。

 

      

 

・・・多くの先達(先覚者)が小生に聴かせ、魅せてくれた姿、それは容姿、像形、体形(系)の複合したものです。

決して人格と何らかかわりのない附属価値である、地位・名誉・学校歴・財の多寡ではありません。

あるのは不特定多数への貢献と安寧への願いでした。

また、それを元とした一期一会を思わせる真剣な言辞でした。

人物を観て、倣う、それが戦訓事績の学びの根底にあるものでしょう。

 

※一部イメージは関係サイトを転載しました

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義と志と潔にみる、ある書家の伝言 09 1/12 あの頃

2020-11-16 17:03:18 | Weblog

              三浦重周 謹書



NHKの大河ドラマは「天地人」と題して上杉景勝の家臣直江兼続を取り上げているが、彼らの意志を貫くものは謙信の訓導を維の如く継承する「義」と「仁愛」にあった。

上杉の支配領地は越中、越後、庄内、さらに内陸上州にその勢力を伸ばし謙信の善き治世と相まって天下に名声を得ていた。先ごろでは田中角栄氏が地元謙信の逸話を引用し政策の有効性を唱えていた。

伝統や歴史を引用して解り易く伝えることは歴史の活学として有効性のあるものだが、小泉総理も就任時には長岡藩の家老小林虎三郎の逸話である「米百俵」を叫んでいたが、当時蜜月状態だった長岡を地元とする田中真紀子氏のアドバイスだったとみる。どうせなら庄内(現山形)の上杉鷹山の改革を倣えば、対日年次要望書のような米国の強圧に尻尾を振らなくて済んだものを、と兼続、虎三郎、鷹山も歎くだろう。

上杉鷹山の庄内には独特の学がある。沈潜の学である。庄内論語も有名である。
同じ幕臣であり奥羽列藩同盟にあった長岡藩とは異なり庄内藩に攻め入ったのは西郷であった。それは幸運だった。庄内藩の若者は敵将西郷に憧れて鹿児島私学校に留学し、あの田原坂でも庄内の若者が身を献じている。
満州事変の立役者石原莞爾も庄内である。それゆえか石原の提唱した東亜連盟には東北の若者が多数参集している。



                  

                石原莞爾氏

東亜連盟は埼玉県浦和市の篤志家中川昇氏によって継承され、毎年12月には物故祭が営まれている。

筆者も毎年客人として参加させていただいているが、この季になると想起する人物がいる。それはいつか正席に座して挨拶を懇嘱された折、いつも隣席に座していた三浦重周氏である。

物静かな人物であった。
「三浦と申します」
会の趣や中川氏の活動の風からすれば活動家である。
「憂国忌を運営しています」
一期一会の妙意なのか互いの経歴を問うまでも無く、あえて肝胆を量る事も無く、言の葉が交じり合う。

彼は書をたしなむという。筆者も童から聖賢墨蹟の臨書から始まり、その頃は篆刻を勝って流に試みていた。
ちなみに刻したのは「布仁興義」(仁を広めて義を興す)である。
妙に意気投合した意味を知ったのは彼の行為の本意からだった。

書は独り構想を練るのに鎮まりのある境地を提供してくれる。
彼は越後出身の書家だった。

その越後新潟だが、年明け早々縦長の冬前線は海を荒し新潟港の岸壁を凍らせ、横殴りの雪は刺すように痛い。後で知った経歴に彼は民族運動家ともある。その行為を知ったのは、彼に会うことを楽しみにしていた物故祭での伝言だった。

「三浦さんは欠席ですか・・」

「彼は自決しました」

ようやく巡り会った稀有な人物が靖んじて国に捧げた行為は、語らずとも万感の哀悼として浸透した

「お兄さんは、弟は武人らしい所作で皇居遥拝し、小刀ではなく必殺できる出刃包丁で武訓に則り立派に死にましたと伝えていました」

あらためて仔細を承知したのは週刊新潮の記事だった。


                  


                   


12月10日 新潟港岸壁にて正座皇居遥拝し身を崩さず古式にのっとり切腹、享年五十六歳。



                 

                 自決


            



鎮まりを以てあの一会を辿ってみた。言葉が見つからなかった。彼は詩人であり書家であり,自らの証を民族の覚醒と作興に懸け、その矜持は郷土の英傑が伝えようとした「義」であり、それを連帯調和させ目標とする「志」であり、衆を恃まず、利を弄せず、我論を制する「潔」を人の魂として糜爛した世に刻み込んだ。

御霊は浮俗の利を漁る一部運動家にも人の在るべき姿をいつまでも照射するだろう。

そして郷里の歴史に観る英傑に劣ることのない人物の姿を遺してくれた。
そして、誘われて逝った。至上の贈り物を残して・・・

     固より、一身一家の功名はこれを求めず

     白骨を秋霜に曝すを恐れず


{写真は三島由紀夫研究会「三浦重周さんとお別れの夕べ」より転載}

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側近が語る吾が師 安岡正篤  終章 2008 2

2020-11-10 20:51:13 | 郷学

《照心講座と『師と友』について》

 師友会の創立以来、人気のあった照心講座は長い間、聴講無料でした。昭和50何年でしたか、ある同人が先生に「タダでは良くない、いくらかお金を取った方がいいですよ」と申しましたら、先生は同意されたので、事務局では
聴講料150円として受付に貼り出したのですが、それを先生が見とがめられて、「聴講料? 僕は自分の講義を切り売りした覚えはない、会場費かテキスト代とするなら良かろう」と言うことで改めたことがありました。

 機関誌の『師と友』、これも先生は毎月の照心講座で聴講者にみな、タダで配る。先生の著書などでも、師友会は甘いというか気前がよいというか、片ツ端からやってしまいます。

講演会でも会費はとらず、その中なんとかなるだろうと先生は仰っておられました。無頓着というか、われわれ自身もそうであってはならないのですが、林さんも私も先生に倣ってどうもルーズなところがありました。
先生のスケールが余りに大きいむのですから、大きい渦に巻き込まれるのですね。

先生の本にしても百部や二百部は各方面に寄贈してしまうのですから。こういう仕方でいくと、やはり赤字になりますね。しかし、そうは言っても「日計足らず歳計余りあり」で何とかやってまいりました。『師と友』の発行部数はおしなべて1万2千部でした。亡くなる人もありますから急激には増えもしませんが、大した増減はありませんでした。もっとも、協会の台所をまかなう林常務は、あちこち奔走して大変でしたが:・:・。

 
《昭和初期の時局と老荘思想》
 
私はときどき、先生が老荘思想に傾斜されたのはいつ頃であろうか、と思うのです。先生は24、5歳の頃から瓠堂という雅号を使っておられ、老荘関係は勿論、仏教関係のものも驚くほど広く読み込んでおられます。この頃、先生は猶存社などを通じて右翼の人だちと活勤した時期があり、やがて彼らと袂を分かって金難学院を創立し、人材養成に没頭されます。

そのうちに満州事変、上海事変のあと血盟団事件が起こります(昭和7年)。これは財界の有力者を相次いて暗殺したいわゆる「一人一殺」事件ですが、その関係者の中に、かつて金難学院の院生であった四元義隆氏なども入っていた。これには先生も大変驚いて、「金難会報」にはっきりと、こうしたことは断じて私の素志ではないと書いておられる(4・29「近懐雑録」、6・30「青年同志に告ぐ」)。
 
このあと満州建国、五・一五事件と、世の中は急速に戦争への道を辿るのですが、こうした事件をめぐって、一部の人から「安岡は口では立派なことを言うが、行動が伴わないではないか」という批難も受けている。しかし、これはそうではありません。たとえば当時のことについて先生は後漢の歴史を講じた時に次のように論じておられます。

 『性急な人間や軽燥な人間は、何でもかんでも自分一存で爆弾を投げたり、匕首(あいくち、小刀)をひらめかしたり、あるいは喧々囂々(きょうきょう)と天下を論じなければだめなように、誰をつかまえてもそういうことを望んだり、自分の意にみたなければ悪罵したりしますが、それではだめです。

興隆する時代というものは、必ず人材が多種多様で、しかも表面に表れるところよりは、内に潜む、隠れるところにゆかしい人物かおる。
そういう肥沃な精神的土壌から、次の時代の多彩な人柄や文化が興るので、ダイヴァーシティdiversity(多様化)の有無が民族の運命を卜知(ぼくち)する一つの秘鍵でもある」(『三国志と人間学』より)

 こういうわけで、満州事変でも支那事変でも、一部の軍人や右翼の功名心、あるいは中国の歴史に対する無知のために、思わざる方向に逸れて行ったとも言えるでしょう。

 これに関連して、国雄会についても先生は、『私の考えは、国雄会の会員が揃って内閣を作る。つまり閣僚全員を国維会のメンバーが占めることが当初の目的であった。これなら流血の犠牲をともなわないで国政を革新できると考えたのだ。ところが国維会のメンバーの中から、あるいは文部大臣、あるいは農林大臣というふうに各個人バラバラに大臣になる人が出た。これは私の素志ではなかった。そこで終に私は国雄会を解散したのだ』と語られたことかあります。

 それやこれや、こうした事件を通じて考えられることは日本の内外情勢は、先生の意に満たないことが相次ぎ、また世間の心ない批判や誹膀に遭って、当時の先生がしばしば不快な思いをされたであろうことは想像に難くないことです。それにもかかわらず、この時期に先生が健康もそこなわず、世間の風霜に堪えてこられたのは、老荘や詩歌の世界に遊ぶ、いわゆる壷中の天を胸中に抱いておられたからではないかと思うのです。

 かつて「関西師友」に連載させていただいた安岡先生の古いノートの中に「老荘録」かあり、その中の「快楽と老荘思想」という章の冒頭に記された、゛告白゛に『余ハ最後二快楽ト老荘思想ニツイテ述ベントス。告白スレバ此ノ度ノ老荘思想論も、実ハ当世二対する私の鬱勃タル不満不快ガソノ基調トナリ居レリ、云々』とあるのも、先生が老荘を愛されるにいたった重要な証左の一つではないかと思います。


 《偉大とは方向を示すことである》先覚者の道

とにかく先生の考えは限りなく広大です。目先のことに捉われないで、広い視野で国と民族の前途を見通す。そして民族の在り方と進むべき方向を指し示す、それが先生の本領であると私は思います。
先生の、゛実践゛は、日本の将来、進むべき方向を指し示すこと、これが先生の偉大なる役割であろうと信ずるのであります。殷の湯王の宰相であった伊尹のことばを孟子が挙げておりますね、それは『孟子』万章篇にあります。

「天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覚さしめ、先覚をして後覚を覚さしむ。予は天民の先覚者なり。予将に斯の道を以て斯の民を覚さんとす。予之を覚すにあらざれば、而ち誰ぞやと………」 伊尹はこう言っております。

安岡先生という人は、人に先んじて、自分の覚ったところを人々に指し示す。いわゆる「暁の鐘」を撞き鳴らす人です。そこに先生の偉大さがある、私はそう思います。
 
《横井小楠のこと》

横井小楠のことばを先生が照心講座で話されたことがあります。それは、横井小楠が語ったことばを、明治天皇の侍講であった、元田永孚(えいふ)が筆録したものであります。それは
 「我れ誠意を尽し、道理を明かにして言わんのみ。聞くと聞かざるとは人に在り。亦安(なん)ぞその人の聞かざることを知らん。予(あらかじ)め計って言わざれば、その人を失う。言うて聞かざるを強く是れを強うるは、我が言を失うなり」
 道理のあるところをはっきりと指し示すのが私の仕事である。相手が聞くか聞かんかは、我が知るところではない、と横井小楠は言っておるのです。

「私は言うべきことを言うだけである。相手が聞かないだろうと思って言わないと、その人を夫ってしまう。ところが、聞きたくないというのを無理に強いると、私の言うところが無駄になるから、相手が聞こうと聞くまいと、私の言うべきところを言うまでである」こう横井小楠は言っている。

 先生と政財界の指導者との関係はまさにその通りだと思うのであります。歴代の総理から政治について諮問を受けた事情についても、『論語』にありますように「夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く」です。
「これを求めたるか、そもそもこれを与えたるか」という子禽の問いに対して、子貢は「夫子は温良恭倹譲、以てこれを得たり、夫子のこれを求むるや、それこれ人のこれを求むるに異なるか」と答えておりますが、先生と政治との関係も、まさにこの通り、ごく自然な在り方であったと思います。小楠はまたこう言っております。
 「後世に処しては、成るも成らざるも、唯々正直を立て、世の形勢に倚る(かたよる)べからず。道さえ立て置けば、後世子孫残 るべきなり。その外、他言なし」
 「道」というものに対するこの小楠の信念は、これまた安岡先生の一貫して喩らぬ信念でありました。  

※倚(かたよる)調子を合せる 
倚伏(いふく) 内に潜む禍と福が交差してその原因となる(老子)

一例を挙げますと、終戦の詔勅の刪修(さんしゅう)にあたって、先生は「万世の為に 太平を開かんと欲す」という張横渠(きょ)の名言を献じ、また道義の命ずるところ、良心の至上命令にしたがって戦争を止めるのだという意味で、「義命の存する所」という一句を入れるように力説されましたが、義命という言葉が閣議において理解されず、これが「時運の趨(おもむ)く所」、つまり「風の吹き回し」ということになってしまいました。先生はこれを千載の恨事であると申しておられましたが、ともかく安岡先生の道に対する信念は、横井小楠の信念とピタリー致します。まさに先聖・後聖、その軌一なりです。

 以上、縷々(るる)申し述べましたが、話に前後の脈絡もなく、内心忸怩(じくじ)たるものがございます。若い頃、私の話を聞かれた先生から、『君の話は半煮えの飯のようだな』と言われたことかあります。今でも先生がその辺に居られて、「小僧、やりおるな、あまりつまらんことを喋るなよ」と苦笑いしながら耳を傾けておられる姿が目に見えるようです。長時間ご静聴いただき有難うございました。

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逢場作戯 2008 3 再

2020-11-04 13:27:00 | Weblog


「逢場作戯」
(人それぞれに異なった対応で戯れる、阿諛迎合でもなく、そこには意思がある)



陶淵明の有名な詩に「帰去来の辞」がある。「田園まさに荒なんと・・・」と、怨嗟か苦悩か、それとも義憤か、所在を去る辞である。  

あるいは満州崩壊の朝、いつものように朝礼が始まった。襟章をつけ、「日満一徳云々・・」と唱和していた民衆は、崩壊の一報を聞くと襟章をかなぐり捨て、国民党の青天白日旗をすぐさま掲げ万歳を唱和した。 

それは決して満州国施政が問題だったのではなく、空模様を眺めながら傘をさしたのである。 どこに隠していたのか青天白日旗の丈夫な生地だった。尋ねると、日本、満州、中共、国民党、ソ連の五旗を持っているという。そのうち何故青天白日旗だけが丈夫な生地で作っているのかは、張学良率いる東北軍ならいくらか長続きするだろうという意味である。

辞去することのできること、支配者をしたたかに柔軟に受け入れ戯れること、この両者は日本人がよくいわれる、「四角四面」とは異なる生き方とは異質の、人情、財貨を糧とした絶妙なる応答辞令を駆使して地球上至るところに生存し、滅亡なき民族として、まるで支配者の栄枯盛衰と交代を悠々と眺めることの能がある強靭な生命力がある。

 埼玉名栗

 


《国柄にみる経国》

 アジアの国々は近代になって善し悪しはあったがパートナーが存在していた。
我国も幕末にはフランス、イギリスが、それぞれの勢力にサポーターのような影響力を与えているが、俊英な志士たちの情報収集と、歴史を俯瞰した洞察力によって拙速に収集したお陰なのか、自決権や政体主権が侵されることはなかった。

 それは同時期のアジアの状況を考えると驚異的ともいえる国家処世の術であり、四角四面と揶揄される民族が選択した国家目標へ団結力とかたくなまでの明治の実直性であろう。

 国の転換期には政治家は模様眺めに衣を換え、知識人は阿諛迎合するものもいれば、人権や言論の自由という題目を駆使して曲学阿世の輩に成り下がるものもいる。
 とくに日夜、高邁な理屈を表す知識人に限って抜け道を用意しておくのが常のようだ。

 棲み分けられた地域では、国家概念の中での存在としての連帯が薄くなり、政治経済が社会のための利他から、狭い範囲の利に偏重したり、本来目的ではなく副次的な位置にあった知識、技術の類が名利欲求の手段となり、本来、発する感激、感動や感謝充足といった地域固有の情緒にみられる成功価値がいびつになり、嫉妬やいらぬ競争を発生させ、国家や人間の連帯に不可欠な人心を微かにしてしまう。
国家でいえばカオスであり衰亡に観る徴でもある。

 政治や経済を歴史経過の運動体として考えるものは、時として「民主主義への転換期であり爛熟」と、高邁にも考察するが、それは祖国に対して自立した意思を保持している多くの人間が、連帯や縁によって織り成すという社会前提を忘れ、錯覚した運動論である。

 不特定の人間や培った歴史が表した森羅万象を吾身にとらえる人間が存在してこその連帯であり、矜持を備えたリーダーを発生させる培養土でもある。


 よく大陸の成功者は国際化の時代には利口な方法として特殊な分法があるという。たとえば、蓄えた財は香港、日本、アメリカ、カナダなどの銀行や投資に半分から三分の一を移している。 家族には英語を習わせてその語圏に留学させ、ときには移住して市民権を保持しているものもいる。とくに香港返還前は駆け込み的に子息を移住させている。
いまなお停戦状態にある韓国の資産家も同様と聞く。

 困ったことに、その類の連中に限って国家機関、もしくは影響ある位置にバランスよく納まり、さも国家を代表するかのような意見を述べたり、走狗に入る知識人はその権力の正当性を修飾することにその位置を設けている。 

 連帯を薄くした国民は狭い範囲の人情を護りつつも利に走り、政治を嘲笑しながら、したたかにも追従する形態を作戯して、しかも習慣化している状態である。
アジアによく見られる国家衰亡の瀬戸際であり、自壊とともに外敵の侵入を容易にする姿である。

  蒋介石と革命の先輩 山田純三郎

 

 孫文と側近の山田


《天下、公に成る》

 台湾に政体を移した国民党蒋介石政権も大陸の敗走は国民党の腐敗にあったと考え、今の陳水扁総統同様に黒金(暴力腐敗)勢力との戦いを推し進めていた。 李前総統、蒋経国総統も同様な憂いを抱いて撲滅に向かったが、法律の範疇からみる世界と、陋規にある掟、習慣の矯正はなかなか成果が上がらないようだ。

 大陸でも民衆に最も信頼された朱容毅をもって共産党幹部の腐敗を摘発しているが、どうもその部分だけは中台も同様な憂いを抱えているようだ。
あの清朝末期の宮中宦官の腐敗と知識人の堕落は、西欧植民地主義者の侵入を誘引し、その清を成立させた満州人は漢族同化に押され言語まで消滅させられた。
いまでも、中国の疲弊は清の堕落が原因だと言わんばかりに抑圧状態が続いている。

 
 蒋介石は新生活運動と称して清風運動を繰り広げている。 
 所謂、国維にいう国家の中心に流れる精神の確認と連帯を大衆の道徳順化にあると考え、国維なくしては国家の成立がないという意識をもって内政の基礎的部分の構築に努めている。

「維」は、縛る 保持するとの意はあるが、「国維」は国家に必須のおおもとの道筋や掟であり、綱維で表す建国綱領でもあり、四維にある「礼、義、廉、恥」にいう人間の節度と法治に欠くことができない欲望の自制を、蒋介石は生活運動として督励している。

 全体の調和を司る礼、羞悪を是正する義、正直と公平の廉、人畜の異なりを制する恥、を敢えて国家権力の提唱として、かつ本省、内省と分離している民情軋轢の融和のために

 蒋介石みずから運動の先頭に立っている。 大陸とは異なる経国スローガンとして孫文の唱えた三民主義を綱領に掲げ、発足して間もない政体維持に努めている。

 いまの中華民国台湾にとっては歴史のかなたに置き去ろうとしている政治経過ではあるが、人称、政策呼称はともかく、現在でも必要な呼びかけであることは変りはない。
あえて孫文や蒋介石を懐古して固陋に拘るものではない。

 しかし、現在の政治状況にいまさら忘却された懐古趣味を投げかけるものと一顧だにしない群盲像を撫す類の寸評は、生真面目で実直な歴史の構成者として、とうてい任を得ない時節の浮浪として憂いの一端に存在するものだ。

 

 弘前城


《相の存在と先見性》

 日頃、説明も億劫なのか「感だよ」と、風変わりな論調や預言者みたいな仮説を述べているが、時が経つと事実が立証してくれることがある。
単なる憶測や狭隘な理屈を、さも科学的根拠という傾向と、錯覚した大方の大衆に口舌宜しく説いて回る政治家、売文家の類は、単なる「感」の難しさと、説明の煩わしさに意味を持たない論として捨て去っている。 直感などというものもその一種だろう。

とくに文部省の官製カリキュラムで理解できないことを、たかだか己の飯の種の世界に「馴染まない」と、さも広幡に値しないという。

感は、多面的、根本的、将来的な「観」であり、「相」に立脚した先見である。後追い記事の訳論とは異なるものである。 訳論は枝葉末節、一面的、現世価値であるため、「観」とは逆な結論を導き出したりもする。 
 
「相」は木へんに目だが、木の上に目を置き遠方を観察することである。 この場合の「相」は宰相あるいは輔弼の意味を持ち、歴史の辿ってきた足跡と、これから進むであろう路の分岐もしくは起点に立ち、成すべき策や謀ごとを練り、信頼と胆識をもって意見を発する立場である。 あるいはその意思や前提に立って異なることを怯まず行動を興す「分」でもある。この場合の「分」は全体の一部分としての責任と理解してもよい。

 日本占領 マッカーサー厚木到着

 

長々とした説明が必要な昨今であるが、強いて理解を得るための前提の有無を論ずるまでもないが筆者なりの意としたい。
イラク開戦前、ワシントンの中野有君から戦争回避について萬晩報の奮励を請うメールが幾度か来信した。 それほど切迫していた状況であった。
国際フリーターとして多くの職歴を経験した氏の真摯な言論は、アメリカのアジア政策一助として貴重な提言者であった。その根幹は近代アジアの先覚者の思想や、氏の察することができる茫洋としたアジアの宇宙観にも及び、その活学によって新しいアジアの連帯を構築しようとする意思でもあった。 

彼はワシントンのシンクタンクフ、ブルッキングのスタッフであり、政策提言可能な立場にいた。
 
筆者は沿うように応えた。

※戦端を開く前のやり取り。「 」内は補足説明と結果

2003.9.24 15:27 TO nakano brooking

ところで,ブッシュさんは、『直にして礼なくば、すなわち絞なり』になりつつあります。
※『 』いくら良いことだと思っても、他国の理解がなく進めると、いずれ米国の自由範囲を狭める
 
「当然勝つことを前提とした戦いは」

その後は弛緩するでしょう。「規律、士気がゆるむ」

そして『謀弛』といって,謀(はかりごと)が弛(ゆるむ)でしょう。 
 
密な政策が内部から露呈します。結果としては破壊兵器はなかった」
 
いわゆる米国の座標がおぼろげになり、軸の再構築の必要が迫られます。

いや,回転のスピードによって支えられた軸が揺れ出すと言ってもいい。
 
なにか仙人の戯言のようですが、アメリカは自らを絞めつつあるようです。世界の動きを俯瞰しながら鎮まりをもって考えれば打開します。
 
妙な謀は逆効果です。 かといってデーターや情報の理解だけでは動きません
 
こんな時こそ中野さんの直感を胆識をもって披瀝する機会です。
 
安岡師は『真に頭のよいという事は直観力であり、どう活かせるかだ』と。
                            

 

私章 ゴマメの歯軋りより





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