まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

アメリカよあれが文明の灯だ Ⅶ

2021-02-27 08:01:37 | Weblog



既に、敗北、和平を予期して、鈴木貫太郎元海軍大尉の首班内閣が成立した。昭和

 二十年四月七日
アメリカ空軍の軍事基地以外の、一般住民地域と市町都市の絨毯爆撃、焦却爆撃、猛攻中だ。
アメリカでは総指揮官でもある、大統領F・D・ルーズベルトが、死んだ。
別荘で―侍していたのは、夫人でなく、愛人―秘書であった。

 無論大慌てではあるが、もう勝利は目前ということで、全てスムーズに運び、依然、日本絶滅作戦の方針も、戦闘も変らない。むしろ一層酷烈になった―トルーマン政策

―この時、ナチスドイツでは
ヒトラーはじめゲッベルス宣伝相は、ラジオ放送を通じて、辛辣、無礼、罵倒を以て、これを傅へ、一層の抗戦を煽った。

日本では―
新聞も、一般国民大衆も、冷静で、ほとんど無感動に近かった。(当時の新聞は資材も逼(ヒッ)迫して、ほとんどタブロイド版一枚裏表刷り。情報満載を期して、活字も細小化していた。現今の新聞の無駄使いとは異なる…が)
それは報道され、且、静寂なものだった。
罵倒や冷罵、人身攻撃など、全て無かった。
国民全体、それどころでもなかったし、又、大統領が死んでも、戦争も、情勢も変らぬとは、みんな知っていたかだ。

ただ、意外なのは、
首相の鈴木貫太郎…
死せる敵国大統領に対して、その偉大を認めると共に、日米双方の戦争目的完遂の意志と、続行は止むべくなく、世界情勢の推移も変化無し、と述べた上、
「深い哀悼の意を表す」と率直な声名を発表し、且、哀悼電を、アメリカに送った。

 この原文、電報、放送の内容については、ほとんどこれも、戦後のマスコミは、日本は無論、アメリカも取り上げたものを、私は知らない。
ただ一人、小堀桂一郎氏の「宰相鈴木貫太郎」に見るのみ(昭和五十七年刊)
ここでは、省くが、この著にあたれば、当時の状況はよく分かろう。
同盟通信社の放った電波は、V・Pを通じて、全世界に広がったが、アメリカ政府は反応せず、国民にも知らそうとしてはいない。

「ワシントン・ポスト」「タイムズ」は報知、むしろ、ヨーロッパ中立国―スイスを中心にして、武士道の国日本の存在を、この凄惨残虐酷烈な、民族殺し合い。憎しみ合いの中に、未だ、一点の光有り、として、認識、報道している。
スイスのバーゼル報知紙(ナハリヒテン)は、主筆エリー氏が、四月十五日付付社説に、
さらに四月十六日(月)新チューリッヒニューズに、連合国各国の追悼辞に連ねて、日本の哀悼詞を、紹介

 しかし、最も特記すべきは、この頃、ドイツからアメリカに亡命していた、ノーベル賞受賞の大作家、世界人たるトーマス・マンが、最大級の讃辞を、日本人に対して贈っている事だ(一八七五年―一九五五年)

〈トーマス・マン全集 新潮社 10巻中〉
「チャーチル…スターリンが、うやうやしく追悼を捧げていることは驚くに足りません。しかし日本はアメリカと生死をかけた戦争をしている。
あの東方の国には、騎士道と、人間の品位に対する感覚が、死と偉大性への祟敬が、まだ存在している。」

 そして、祖国ドイツの、堕落したナチスと同調するドイツ人に対し、口を極めて難罵しているが…
全文はここでは省く、というより、それを傅えるものが日本には無いから、止むをえぬ。

 戦争だ、互いに殺すのは仕方がない。最も効果のある方法を用いるのも、正当と私は思う。しかし、敵を拷問にして殺したり、死体を穴に入れて、上からゴミを捨てて被せたり…私は吐き出した。

 ある時は、杭に縛りつけられた日本兵が、首のないまま突立てられたままにいるのを見た(一九四四年七月二十四日月曜 ビアク島日記)
〈ビアク島の日本兵の健闘については、報道班記者として、運良く、全滅寸前に唯一機の飛航機に乗り得て戻った。岡田聰“戦中戦後”がある 演劇専門〉
ヘンリー・ショウ―タラワ、米海兵隊と恐怖の島(サンケイ出版 一九七一年)

 リンドバーグは、波打ち寄せ白み、星、万彩、天空に輝く、宙を仰いで、一人、自負し、嘆じる。

―これが吾々の信ずる白人文明―ヨーロッパ文化の真の姿なのか。

 野蛮、非人道と叫び、非難する、ドイツ人や日本人と、同じ仕業。或いはそれ以上の残虐、未開行為をして、何の恥じ、畏れるところがないとは!

 吾々の文明の終末ではないのか。

 彼らとなんら変るところのない傲慢の文化ではないのか。

 何よりも、一個の、あるがままの、人間として、恥ずかしい、我も戦い神への懼れを感ずる。

 彼は、泣いた



 一九四五年二月、ソ連―クリミア半島南端、ヤルタ―で、有名な、戦争終結後の世界分割処理の巨頭会談開かれる。
 スターリン、チャーチル、ルーズベルト…連なる領○、取巻き、側近面々と軍人。この紹介は多いが…ともかく…三人中、病人、もしくは、重症患者でない者はなかったと、戦後、専門医師は説く。

 一番元気だったのは、ヨシフ・スターリン、次が不機嫌なチャーチル、そして最も哀れを止めたのがルーズベルト…写真を見て分かるが、殆ど病態のもので…実際には、瀕死に近い、側近の一人は帰途死んでいる。

 既に、余談は、もっともソ連に有利に、スターリンに押し切られた。
此の頃から、もうチャーチルは、ソ連排除と警戒をルーズベルトに強言しているが、ルーズベルトは、スターリンを頼った。

 ヤルタ会談
チャーチル、スターリン、ルーズベルト三巨頭集る…
前述したが、日本をして参戦せしめた最大の原因の係争国―中華民国総統蒋介石とそれに連なる、宋一族、宋美令は、オミットされている。

かってない、三国による、世界領土の分割決定

これについては、フランスの
〈戦前、急進、戦中レジスタンス、戦後軽左翼〉の「ヤルタ会談」参照
アルチュール・コント(仏)
ミー「ポツダム会談」
 労働長官フランシス・パーキンズ―私の知るルーズベルト(日本未刊)
 サンケイ新聞特記「ルーズベルト秘録」


ソ連を頼り、ソ連応援を、アメリカに強請していたのは、チャーチルである。
 全く以て、手前勝手な云い草で…これが戦後、チャーチルの一早く唱えた「鉄のカーン」説に一転するわけだ。
 「それでも、アメリカ―ルーズベルトは、分からない」(チャーチル)というのは、自分自身にも当てはまる。


 以後の事態は、予想通り…チャイナは赤く染まり、蒋介石は台湾へ逃げる。
 何らか云わんや

 ここで、大陸からの日本軍五十万の引揚げが無事終わった、早々に施行されたのは、一般に、蒋介石の力といわれているが、事実はウェデマイアーの献言と強行の結果で、蒋介石よりは、むしろウェデマイアーにこそ、日本人は感謝すべきである事実が無視されている。天皇の戦犯措置を蒋が阻止したというのも、噂で、事実ではない。

 日本兵五十万を送還できる船が、チャイナには無かった。全て、ウェデマイアーが決断し、アメリカ船舶を提供急用させたのである。
 ここでも、こう有りたい、こう有るべきだとの、あらぬ希望が、嘘を作っている。

 テヘラン会談で、日本の降伏に応じてやるか、という時、強硬に反対、日本を徹底して叩き潰すべきと、頑強に主張し戦争続行を求めたのは、蒋介石であった。
 この後、ヤルタ、ポツダム…全く、
 蒋介石は無視されたまま、凡てが米英ソだけで決定されてゆく。
 つまる処、中国支援、日中友好というよりは、日本抹殺、強国日本の否定に狙いがあったのだ。

 日本叩き潰しの作戦計画を、心ならずも、国家命令で作成したウェデマイアー中将が、綿々として、その愚と、事実を後世に、アメリカ人に、反省悔恨として、記録せざるを得なかったのも、当然である。
 しかも、その良識、真識は、今、果して、参考、回顧され、生かされているか。
 正に、のれんに腕押し。



 シャドーウッド―従軍記


 ここでも、全く関係なく、リンドバーグやホイーラーらの罵倒が、飛び出て来るのは、いかにも滑稽でさへある。
 危険のない空を飛んだだけの若造パイロット、戦争を知らない、安全地帯にいて勝手な反戦をほざくばかりのリンドバーグ、裏切り者め、など、というのだが…そのリンドバーグが、既に、同じ頃、南太平洋に来て、日本のゼロ戦と撃ち合い、爆撃行をしていることも知らない…
 イヤ、彼程、作戦中枢に通じていて、知らなかったとも、思われないのだが…
とにかく、そう書いてある。


―私は、初めはヤルタ協定の内容に賛成であったが、すぐ誤りだと気づいた。
―その条件では、反ヒトラーや、和平派日本人をさえ、窮地へ追いつめ、それこそ必死の反抗に固め、両方の無益な犠牲を一層多大にするものと考え進言したが、採り上げられなかった。

 私は軍人だし、国家方針を訳定する立場でも任でもなかった。(メモワール)

 かくて、飛ばされ、大陸へ―
 一九四三年十月。インドへ―
東南アジア連合軍事参謀副長、しかし、着任してガッカリもし、驚きもした。
 彼が今まで研究、習得した戦術、戦略など全く無益不要の腐り切った蒋介石の重慶政府と、古めかしい戦法に固執した上司、頑固一徹のスチルウエル将軍、更にマウントバッテン(英軍総司令)指揮下、戦うよりは物資調達補給に追われまくるのが仕事になる。

 蒋介石とスチルウエルの仲は最悪。遂に参謀長解任―一九四四年十月、後をウェデマイアーが引き継ぐことになる。が…
 蒋介石の反共精神と抗日意志には一目置くが、この政府と軍の漠落腐敗、には手をやくうち、マウントバッテンの新編精鋭の英印軍に対日戦は奪われて後塵を帯びる始末―

 日本降伏…
 彼は次なるチャイナ大陸での軍事展開に備え、蒋介石軍(の強力支援と、共産軍との戦いを構想するが、)

…米本国も、参謀本部も、国共合併を唱えて、実情には、無知遊離。
 つまるところ再び解任、…チャイナ大使の任命が案に上がるが、此は毛沢東の横槍で、お流れこうして本国勤務に戻さる。
 遂に、実戦には、自己の才を振るえなく終った。

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アメリカよあれが文明の灯だ Ⅲ

2021-02-24 14:53:36 | Weblog


                            陽気だったころ

 

というのは、主人公のケーンが、米国近来の大新聞王といわれた、ランドルフ・ハーストをモデルにしたので、それは、女主人公が、これ又、ハーストの情人、マリオン・デーヴィスであることが、一見して、すぐだれにも分るからである。
(このあと、ハーストという人物は、又、現れてくるから、記憶しておいて頂きたい)

 父親が鉱山で一とヤマあてて、以来、買収合併で、鉱山王となり、この跡を継いだハーストは、その巨大な財産で、新聞を牛耳り、やがてこれ又買収合併で、カリフォルニア一の大マスコミ網の主となり、全米にも威を振った。

 なにせアルコトナイコトとりまぜ、いわゆるアカ新聞、日本でいへば、一時のフォーカス、フライデーのような、やり方で民衆の視聴をあつめ、傍ら自己の政見、主義を、煽動、強迫、誇大、に宣伝、一方的にローラー攻撃、集中啓蒙をした。
 最大の功? 罪? は、アメリカとメキシコの戦争の火ツケをやった。

 又、初めは、ナチスびいきだったが、途中から転換、ナチス打倒派に変った。
 変らないのは、理由不明だが、徹底しての反日派で、カリフォルニアの排日運動の張本人ともいってよく、第一次世界大戦前後から、ナニからナニまで、日本といへば悪口雑言、虚報、偽報、平気の平左の新聞方針だった。
 有名な、在米日本人小学生の教育差別やら、日本人移民反対、追放の主張紙である。

 その持主であり、社長―ハーストが、
 この映画公開を怒って、あらゆる手段を用いて妨害したゝめに、その圧力で、公開禁止にまで及んだのである。
 ヤレバ、映画館自体、放火攻撃されてしまうという、暴力沙汰も、アメリカでは、日常茶飯事である。

 黒人が白人の女をジロジロみつめたり、指さしたりすれば、リンチにされ、時には、(多くの南部地方)つるし上げ、焼キ殺されるといったことが、日米戦争以後にすらあった

 そういう状況下だ。
 新聞王や大資本家の権力についてはゲーリー・クーパー主演 フランク・キャプラ監督の「ジョーン・ドウ(人名) 邦題 群衆」をみただけで分る。(私兵まで有つ)

 ハーストは、そういうキングの一人だった。
 むろん、政治家にだとて容易に、腰を折らない。
 そのランドルフ・ハーストがなんと、リンドバーグの出演映画(むろん飛行機も出すが)を自ら交渉してきた。

 出演料は50万ドル、プラス興行収入の10パーセント…この利益だけで、おそらく当時のリンドバーグの総収入、否一生分を超える。

 この時すでに、彼には、サイレントだが、いくつかの映画出演の申込があり、レコード企画もあり、最高額70万ドルの條件が提示されていた。
 むろん、リンドバーグは、サンミのツマで、実はハーストの望みと狙いは、情人のマリオン・デーヴィスを、その主演映画で、売り出すことだった。
 ところで、そういうことは知らなかったろうが、興味をもたないリンドは、アッサリ断った。

 こんな有利なケタ外レの話を、一言の下にはねつける男の存在に、さしも豪腹傲慢なハーストも、目をむいたが、ふつうならドナリつけたり、侮辱をする筈が、案外おとなしく、辞を変へ、気を引くが、同じである、とうとう諦めたが、諦めたというのが自分にも許せないハーストだ。
 ―契約書はここにある。名をかくだけでいいンだよ
 ―…折角ですが、何どおっしゃられても…
 ―私はコレを破れない。あんたの好きなようにしてくれ
…こういわれ、渡されては、どんな堅物でも考え直すかもしれない。人間なら欲がある。気が変わってスラスラと署名してしまうかもしれない。
なンといっても、正味50万ドルだ!

 ところが…リンドバーグは、契約書をすなおにうけとったが、見ている前で、暖炉になげこんでしまった…燃え上がる・・・
 さすがのハーストも、黙然、立ちつくすばり…やがて、リンドバーグをおいて、去った。
…のちに、この仇を、リンドバーグは、イヤというほど、ハーストにとられる。

 ハースト系の新聞は、余りにも許しがたい程、不正確で、人間の悪い方面や、世の不正、争いを過大に報道する(リンドバーグ)

 日米戦争を、ことさらに煽り立てた、このハーストも、第二次世界大戦後、晩年、高齢に及んで、人生?天運から、みごとなシッペ返しを食う 
 最愛の娘が、テロリストの一団に、誘拐されるのである。しかも、この娘パトリシアが、いわゆるストックホルム症候群というヤツで、かへって誘拐テロリスト団に共鳴参加してしまい、ハーストを人民の敵として弾劾するのだから、面白い…

 しかし、リンドバーグにとっても、この榮光は、逆に、孤立、孤独を招くことになるのは、人生の皮肉である。


 米軍捕虜にされているかも知れず、あるいは日本兵が木の天辺に縛り付けられて、狙撃の的にされると同じ目にあっているかもと苦しみ悩むが
「まっすぐ前進するしか、方法がなかった」

 オーストラリア軍はどうか。
偽兵らはニューギニア山岳地帯戦闘が終わった後では、放棄された日本兵の死体に、一人に三箇所以上、銃剣でさした傷跡を見る。その軍隊には、いつの日本兵捕虜を銃剣刺殺の的にしている。という噂が流れていた。

 それは、日本軍が、豪兵をそうしたからだ。と、言うのだった。日本軍の戦死者が、多大でその原因を軍上層の捕虜になるを恥とせよ。という教え、戒めに戦後は非難攻撃日本人の生命軽視を侮言をしているが確かに、それもあるが、果たして、それだけか?

 ジョーゼフ・D・アリントンによれば
 「十一月二十日マキン・タラワ環礁のベチオ島に対し、上陸作戦が、実施された。マーシャル群島攻略の準備作戦だった。第二十七歩兵師団の六千五百名は、日本守備隊の九倍、マキンの占領は困難ではなかったが、タラワはそうはいかなかった。血戦三日間
 「両島攻略のアメリカ海軍総力は、空母二十隻、戦艦十二隻、巡洋艦十五隻、駆逐艦四十隻以上、日本海軍ゼロ。」

 タラワ上陸では、日本軍から徹底的に叩かれ、死傷した、新聞も銃後も英雄的な海兵隊の戦い振りを賑やに宣伝し褒め称えた。
 しかし、四千五百名の日本兵が、頑強に抗戦したことを語るものを知らない。
 

(筆者がインタビューした大貫タダオは人事不省捕虜となった。守備隊四世五百名のなかで生き残った一人―大貫の口からその必死の抗戦は、アメリカ海兵隊が、十五ヶ月前別の島で、日本兵にどんなことをしたかを事前に知っていたからと聞き知る。

 すなわち、生死に関わらず、日本人の○○ポコを切り取ったり、口の中に突っ込んだから、である。

 金歯取りどころではない。これを知って、元々、捕らわれを恥とする教えに加えて、戦友の無念を思い、且つ、絶対に死ぬまで戦い続ける玉砕意思を固めたのだと…

 「この作戦で、米将校は勲章を授与された…大半は、その後の人生を栄光に包まれて送った。」(ヤンキー侍)

 海兵隊のある将軍が、退役後このマキン島攻撃は、一片の武功と決めつけている。司令官、ホランド・スミス将軍は、日本軍のこの激しい玉砕抵抗を示した本当の理由を知らなかったようである。

 アメリカ海兵隊は、一九四二年マキン襲撃の際のアメリカ兵の所業を、ペリリュー島とサイパンで続いて硫黄島と沖縄で、海兵の血でもってあがなうこととなった。

―カールソン襲撃隊は、マキン島で、戦死した日本兵の死体を切り刻み、○○ポコと○○玉を、兵隊たちの口のなかに詰め込んだ。しかも、その指揮者は、大統領ルーズベルトの長男、ジェームズ・ルーズベルト大佐だ。

 この事実は、二十年後(一九六〇年代)、テレビ連続番組プロデューサー、戦争史研究家でもある、シャーマン・グリンバーグ、生存者に状況を再現告白報道させている。こういう事実を、我々は、何一つ聞かされたことも、示されたこともない。たまたま、私は、氏の著書を読むことにより知った。

最も、書かれていなくても薄々は、そういう事件はあったろうとは察知していたが、当の米国人に指摘されれば、考えざるを得ない。
何を考えるか?御推察にお任せする。


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アメリカよあれが文明の灯だ II 08 3/7再

2021-02-23 07:36:19 | Weblog

イメージ


第四章
 アメリカのヒーロー
  ―榮光と孤立―

この時、この日から、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、
世紀の超人―ヒーローとなった。

時に、西暦一九二七年五月廿一日、午后10時24分 年齢わずか二十五才、
長身だが、童顔で―ヨーロッパでは、アイ・マスクを取った顔をみて、
なんだ、まだ子どもぢゃないか、といった印象の人が多勢だった。
それだけに、言葉をえらんでしゃべり、飾らぬ態度が、誠に、素朴にみえ、一そう、好感をあふった。物怖じもしない…

 ル・ブールジエ空港に降り立ったリンドの感は、まず、自分は殺される!という脅怖だった。

 数万の群衆…人の波が、津波のように、カレの乗るスピリット・オブ・セントルイスにマッシグラに、突き進んできたからだ。

 初めはなにか分らなかったが…それが人の波と分ったとき、人をヒキ殺す、コチラも転倒、蹂躙される、といった恐怖しかなかった…

 あわてゝ、制御し方向を避けても、グングン眼前に接近する…アハヤ…!
 しかし、辛うじて、寸前で回避できたものの…降りるまでもない。掴みかゝる無数の手、手、手に、抑へられ、捕えられ、胴あげ状態で、運びだされる…

 警官の制止、防御など、何にもならない…
 それを救ったのは、群衆の中にいた、フランスの飛行将校二人で…ワリコミ負いかぶさり、カレのかぶる飛行帽を、別人―記者にかぶせて、リンドバーグと叫んだから、群衆は、新聞記者が悲鳴を上げるのもかまわず、ソッチに移り、巧みに二人は、その渦の中から、カレを脱出させた…
 
(将校の名は、ジョルジュ・デラージュ、ミシエル・テトロア)
 記録は、三十三時間三十分三十秒 三千六百十四マイル
 隙をぬって、本物は、二人の将校に、守られて、飛行場を抜けだし、控え室の方に逃げる。
 
 そこには、駐在米大使マイロン・T・ヘリックが立って、外の騒乱を呆然ながめていた。

 二人に紹介されても、信じない、騒ぎの中心の方にリンドバーグはいる。こんな青二才が、そうだとは思わない、思へなかったからだ…

 やっと分る、と、あわてふためき、自己紹介、安全地帯へと引出す。
 飛行場では、まだ十五万人の人が渦巻いている…
 翌朝…あたりを掃除すると、出るわ出るわ、…凄まじい落し物の山で…笑わせるのは、上衣や、オーバーコートが何百着…時計、指輪や、メガネも、帽子も、ムロンだが、イレバが六十個以上あったという…
 以後の騒ぎと歓迎は、書くもおろか…パリは、数日間、リンドバーグでもち切り。

 やがて、請われるまま、ベルギーから、英国ロンドンにも向う。
 ここでも大変…珍話が一つ
 ジョーヂ国王の客間によばれ、対談。

 国王―そこで、一つ聞きたいんだがだが…飛行中アレはどうしたのかね?
 リンド―イヤ、なんのことはありませんでしたよ。

 何のおハナシかお分りか?
 リンドバーグは、用足しは、予め紙コップを用意していった。
 国王の最大の関心と疑問が、ソレだったことが、実にオカシイ

 この頃―アメリカ本土では、熱騰凄まじく、一刻も早くヒーローを迎へろ、と、狂熱…クーリッヂ大統領は、手をす早く打ち、スピリット・オブ・セントルイス号を無キズで本国に迎へるべく、ワザワザ軍艦までヨーロッパに派遣する始末

 当のリンドバーグも帰国帰米をせかされ、英国を離れ、再びパリへ…アメリカへ
 この日、この時の、歓迎状景については、もう筆を費やすこともあるまい。
 とにかく、國をあげての、最大最高の行事とパレード、パーティの連続、狂乱、喧騒である。省く、

 母のエヴァンジエリンもまた、ワシントンに、招かれる。
 ニューヨーク、ブルックリンで行われたチャールズ・リンドバーグ・デイ。
 この日、敬意を表して、かの株式証券市場は休日、ウォール街閉業
 ブルックリン区は全店休業、全区民の三分の一、七十万人が、22マイルの道路に参集行列し、よくみられるあのオープン・カーのパレードが延々として…
 女は老も若きもスリム、スリムの嬌声歓呼、大の男でさへ、涙ぐむといった始末、失神、卒倒は当りまへ。

 街では、ひるも夜も、リンデイ・ソングや、リンデイ・ステップのダンスが数限りなくあふれ、オペラや、映画まで、キワ物として、たちまち作られた。

 この時の、よくニュース映画などにみられる紙吹雪…
 ソレが史上最高の二千トン。
 後年のスプートニクの月面着陸成功時のパレードでさへ、この半分にすぎない
 どれだけの熱狂ぶりだったか分ろうというものだ。
 アト片付けには、清掃員二千人動員。

 母はまた戻り、自分はセントルイスへ。
 その個人に送くり贈られる手紙、祝物、これまた巨大で、通信350万、電報10万、小包一万四千、最高級新車十数台等々、室は満杯、廊下から庭外まで充ち溢れた。
 
 勲章、友好のカギ、バッヂはむろんだが、中でも出色なのは、慣例を破って生きている間の人物表彰切手―リンドバーグ切手が56万枚、特別発行されたこと
 とにかく、枚挙にこと欠かない。
 リンドバーグは、それらにまた、律義に、一つづつ、手づから礼信を返した。重勞働の上、大変時間も費消した。休む暇もない…
 
 こういう中に、クラレンス・チュンバリンとレヴァイン二人は、(レヴァインは、ベランカ機をリンドバーグにゆずるのを拒否した会社の社長だ)、リンドバーグの記録を破る、横断飛行をなしとげた。

 しかし、だれも、これを顧みない。
 さらに、次々と、リンドバーグの飛行時間記録や、距離を縮め、或いは距離を延長しても、何のセンセーションも起さない。
 世界一は、リンドバーグにキマッテしまったのである。
 そして…リンドはというと、政府に乞われて、世界各国、約十六の首都に、親善旅行訪問を行う

 いづこでも同じ騒ぎ…
 リンドバーグも大サービスで、本国はむろん、各国の名士、有力者夫婦、家族を、セントルイス号に、同乗させて、空中を飛び廻り、時には曲芸飛行までやって、おどろかせ、よろこばせた。
 人気一そう、絶大。

 アメリカに戻る、…この愛着あるスピリッツ・オブ・セントルイス号はスミソニアン協会に寄贈した…これは今日も現存して展示されている。
 種々の勧誘や、雇用、協力を望まれ、彼はできる限り、それに応じた。
 勢い、凄い収入もあったが、ほとんど寄附や、税金や、で残らない

 しかし、元々、欲のない方だし、生活できればよいという方だから、蓄財など考へない。しかし確実な生活設計はした。

 なかに、最も深い関わりをもったのが、TAT(トランスコンチネンタルエアトランスポート)クレメント・M・ナーズとパン・アメリカン大西洋横断航空路設營に技術顧問格で、重要ポストを得たが、企業の方では、名前を利用したつもりなのに、本人は、熱心に、諸計画に、積極的提案し、自ら、機種選定や、機体の構造改良、使用金属の選定、タイヤ車輪の開発までやった。

 自分の郵便輸送時代の経験から、安全のための、夜間照明設備や、空港路線配置、気象観測所設置等々、細々と、企画し、主張を通したので、初メはウルサガラレタものの、けっ局、その方が便利、安全なので、以後アメリカの空港設營のやり方は、ほとんどカレの提案を継襲するようになった。
 リンドバーグの運勢は、いよいよ昇り調子である―

 さて、ここに「市民ケーン」という映画がある。映画ファンならだれしもご存じ。
 かの天才子、オースンウェルズが二十六才にして、自作自演、殆んど自費独立で製作したもので 一九三九年、この作品は、世界の映画ベストテン中に必ず選ばれるが、発表公開は、わづか二週間にみたず、殆んど未公開に近かった。
 妨害が烈しかったからである。

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アメリカよあれが文明の灯だ  其のⅠ 2008  3  再

2021-02-22 09:20:51 | Weblog

ヒョット来訪した老小説家の草稿である。
未完かつ抜粋ですが読者のご高覧を仰ぎたいと掲載します


【アメリカよ
     あれが
        文明の灯だ】
  ―リンドバーグの啓示―




 リンドバーグという男を、諸君は知っているだろうか。
 リンドバーグ、チャールズ・リンドバーグです。
 大西洋無着陸単独飛行横断に初めて成功したアメリカ人である。また、有名人となってからは、その愛息のリンドバーグ二世誘拐事件で、全米にセンセーションを巻き起した。その悲劇の人である。

 よくみられるアメリカのドラマやギャング世界での作品に、誘拐事件は、成功不成功を問わず、イコール、重極刑だということぐらいは、知っていられるだろう。
 そのように決定したのは、このリンドバーグ二世誘拐事件があってから無條件で帰決したものです。
 それほど大事件とされ、またそれほどに、チャールズ・リンドバーグは話題の人、人気の有る男、アメリカを代表する有名人、市民大衆に愛され、誇りにされた英雄児だった。

 リンドバーグ―を知っていましたか。
 知っていたとすれば、まァまァ、相当の常識人であり、また世界の話題の消息通であるといっていいでしょう。
 ところが、そのアメリカ一代の英雄児、冒険の先端を切るトップ・マン、歴代大統領や、市長、知事の名を知らずとも、この人のことだけは、知らぬ者なきほどの、憧と理想の的だった。

そのチャールズ・リンドバーグの名を一九六〇年以後のアメリカ人は、忘れつつあり、今や西暦二〇〇〇年を越すや若ものの多くが、彼がどのような人物かということも知らない、という、事実が明らかになった。(統計調査)

―ということは…
 アメリカ人の多くは、アメリカの市民理想、国民の健全な英雄児待望志向を喪失、あるいは放棄しつつあるということであろう。
 どうして、そういえる?
 それは、これから挙げるさまざまな検索された事実により、ながめてみたい。
 このことは、現在の日本と日本人の未來にわたる存在の興亡に、指針となるからである。

 この原稿は、完成したまゝ、発表する受入機関も、アテもないまま温存するうち、おもいがけぬ失火により、元稿、資料もろとも焼亡してしまったのであるが、それでも多くの人に知らすべき必要あると考え、平成十六年八月現在の今にち、記憶のままに、再現、再筆したものである。

 故に遺漏の箇所も多くなっているが、肝要の諸点は逸していないつもりである。
 心ある方は、できる限り、諸所にあげた典據の資料によって、確認、実証して頂きたい。

    著作の意義をご賢読いただければ幸いです。

 

 




第一章
 生い立ちとその時代

 チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ
 西暦一九〇二年二月四日出生
 アメリカ―ミネソタ州デトロイト
 父はスウェーデン移民二世 チャールズ・オーガスト・リンドバーグ
 母はアイルランド移民二世、エバンジュリン・ランド

 オーガストの二度目の妻(初婚)で、、彼は長男にして、かつ一人の男子長じて、ノッポ、身長一九二センチ、ウエスト八〇位、体重七〇キロのノッポの体型ゆえ、ヤセてみえるが、割合、骨太で、ホドホドに筋肉付き、体質は頑健 仇名はスリム性格、器械イジリが大好きで、何ごとにも好奇心旺盛、銃、ラジオ、自動車、オートバイと先端をゆく、文明利器に、子供のころから一早く飛びつき、それも損傷したり、故障がおきると、すべて自分で研究して、修繕してしまうという凝りよう―むろん、のちには飛行機士も自分流に設計、考案さへしたという性質、一見マジメで、堅物で、世間ズレのしない社交下手、キチョウメン型でもあるが、冗談好きをこして、イタヅラ好き…それも大変タチの惡いイタヅラをする面もあった。

 堅物という面では、酒も(ツキアイていどにはやるが…)タバコも、殆んどヤラズ、また、大学生時代、学友らが、パーティーにも出ない、遊びにもゆかぬ、というので、セックスガール(女子学生だ!)をアテガッテ、あとで、その交渉きゝ、笑いの種にしようとした好意?も、なンのその、彼の方で、ソッポ向き、おコトワリしたので、女学生の方で、プリプリ、カンカンだったそうである。
志望は―初めは機械化農業経營、のちには機械工学―最終的には、飛行機になるが、科学志向。

 アタマの方は―自分でも、フツウという…が、実際には、好キナ方面には、スゴイ探究力、集中性思考があり、興味をもたぬ方面には、全く、無関心、凡庸。
 いつまでたっても子供っポイ面と、また専門人、老巧者もおどろかす。プロハダンの両極端を示し、

 シャベリも、モグモグとした。トツ弁調だが、のちに妻となったアンの初対面の印象では、コトバ少なだが、選んで、考へつゝ言い、頭脳は、なかなか明晰、適確な表現といっている。

 癖もあるが―アンにゆるせないのは、ハンケチを使わずに鼻をかむこと…(一体どうするのだ。マサカ・・手バナでは…?!)もう一つ、唾をかまわず吐くこと…(コレは、二つ共、大中華人民共和国人の歴史的、民族的、欠陥、習癖として、欧米人にヒンシュクされている)

 さて、こんなわけで―
 彼が有名になったあと、調査では、カレの少年時、少なくとも高校時までは、どの級友にきいても、その存在すら記憶にないという、親しく話をしたという仲間さへ一人もいない。

 カレは、凡人中の凡人で―いつも一人ポッチ…それでも、自分の好キナコトには、熱中して、サビシサも、孤独さへも感じてはいなかったようだ。
 つまり、機械イジリ狂い

 飛行学校時代に、威張りカヘル大男に、キャンディだといって腹下しを仕こんだモノを呑ましたり、力じまんの男に、灯油入りの水をのましたり、悪どいのには、手先上手を利用して、工作し、ベッドに酔ってねこんだら枕の上からシカケのペンキが落っこちてきたり、もっとヒドイのもあるが、ここでは省く、

 こういう点は、結婚したアンにもキラワレて、一ど、花ビンの水をアタマからブッカケラレタという事件もあるし、ヒッパタカレタこともある。

 デートなンぞは全くしないし、興味も示さない、それで、アイツは、一生、独身で過す男と、パイロット仲間には、おもわれていた。
 しかし、結婚はした。しかも唯一、最初にして、最後―アメリカ人には珍しく、他にスキャンダルも、噂も定かにはない。

 生活スタイルも、至って経済的な方で、背広スーツだとて、儀礼、形式上はするが、日常には余り着たがらない
 好きな物―トマトケチャップ…何にでも、ドップリカケて食べるのが好き、ジャガ芋は素をゆでたもの、むしたものから、料理したもの一番、生野菜も、玉ネギも…肉は食べても一般アメリカ人程にはガツガツと大量に食べない。一時は菜食生活をした。

 衣裳やスタイルに凝ったことはない。またシャレ気もない。ごくふつう当たり前の服装で、活動に便宜的な方を…
 寝に至っては、どこにでもねる、毛布一枚あれば足り、なければ、木の根っ子、砂場、草むらでもころがって睡れるし、すぐ寝つく。
まあ、一ことで言えば簡便で、目立たず、世話もかからない男・・・(しかし、機械には大いに金が掛かる)



第二章
 父と母
 そして成長時代

 父にあたるチャールズ・オウガスト・リンドバーグ(通称C・A)は、その父―オーガスト・リンドバーグ―スウェーデン移民 前名ウーラ・モンソンの、渡米時にはまだ生れて一年半、八人目の末っ子であった。

 モンスンは、移民後、名を変へ祖国のスウェーデンとは全く縁を切り、一八七〇年には、米市民権を獲得、開拓農民として85才の生涯を了へた。

 頑健、不撓不屈の性格で、スウェーデンでは農民利益代表の国会議員として、一時、羽振りも利かしたが、五十一才、妻と七人の子をもったにかゝわらず、ふとしたことで、いわゆる不倫の恋―。無教育だが、健康明朗、旦若い村娘ルイーザ・カーリン(十五才)と、熱くなり、此れをたまたま政争に、醜聞として持ちこまれ、人気と勢力を失墜、止むなく、アメリカへの逃亡と再起を図った。

 すでに成人した七人の子供らには移住を拒否され、妻と子に全財産を渡し、ほとんど身一ツで、若い新妻と幼児―三人で、海を渡る。

 インディアンも住む、当時の辺境地で彼は奮闘、とにかく自立自農の地位を、アメリカで得たが、農業機械で、片腕をモギトラレても、死なず、さらに八十五才の高齢までよくガンバッた。

 渡米時、赤ん坊のチャールズ・オーガスト・リンドバーグは、長じて、二メートルの長身、映画、舞台のスターにも匹敵する好男子振り(むしろ美貌か?)それも知的な男性となった。

 親から継いだ不屈の性格もあろう。偶然、スウェーデンにおける家系の汚名を知るや雪辱の意気烈しく、立身出世をめざして、猛勉強、ミシガン大学法学部を出て、弁護士となる。

 子供のころには、学校さへ、近くになかった環境も、人口はその後十倍、先住インディアンは追われていた。
 アメリカ移民のスウェーデン人は、彼の幼少時、二万人にすぎず、殆んど農業開拓民だったが、このころには、五十万を下らず、しだいに、シカゴ方面にと転住移動し、一時は、シカゴ住民の半数を超えた。

 ミネソタ州リトルフォールズで、父の死ぬ頃、もはやその息子オーガストは成功した弁護士で、町の名士の一人であり、やがて本来の性格がムクムクと湧起り、不動産業を兼ね、その財力で、地方政治活動に乗出す。
 一八八七年春に、伴侶メアリーを得て、順調に新築の住居に住み、三人の女子を得たが。一人死に、二人残ったところで、この好き妻を喪った。まだ若い 三十才

 その後、独身で通すが…
 リリアン、エヴァの娘二人を、ミネアポリスの学校寄宿舎にあづけ、ますます活動の幅を広げているうち…このころ、リトルフォールズ高校の教師として、デトロイトから、はるばる赴任してきた妙齢廿四才、知的で、華麗な女教師と知り合う。
 妻を失ってから、ホテルぐらしの、C・Aのちょうど、向こうのホテル、窓をあけると、姿がみえるという、めぐり合せとなる。
 
窓ごしにかわすアイサツから、いつか、ロマンスが生まれる。
 女性は、エヴァンジエリン・ランド…当時としても珍しく、大学教育をうけたインテリで、家は、アイルランド系のロッヂ・ランド、上流系
 ランドは、歯科医で、英才だが、又、なかなかの変骨奇才で、他からは奇人とされていた。

エヴァンジエリンはその血を引くか、頭も良いが、気が強く、派手好きで、決断力が速く、黒白弁別も激しい
 わずか数ヶ月で、高校校長の厳格と常識性に反撥し、一日、ふと、出あい頭に、注意をされると、持っていた物を、そこに投げ出して、私、止メマス、と、啞然とした校長や学生たちを尻目に、荷物もとりまとめず、そのまゝ、帰宅(デトロイトの実家)してしまった。という、一例でも分る。

 どちらが惡いというのでもない。田舎町には、新進で、ユキスギタ観のある、ススンダ都会センスの女性だったのだ。

 これまたハンサムで、進歩的な、チャールズ・オーガストには、理想の女性にみえたにちがいない。
 熱烈なラブレターの交換半年ののち、二人は結婚する。
 まもなく1902年二月四日、問題の人、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグが生れる。

 それ以後、順調だったが、先妻の子、リリアン、エヴァ姉妹とは、余りに新妻は、年令が若すぎる。姉妹としかおもへない間柄で…しぜん、うまくいかない。寄宿学校から、戻ったものの、二人は、自らまた寄宿に戻り、以降、義母エヴァンジュリンとは阻隔、結婚後も交際を絶っている。
 
 その父C・Aの方も、順風満帆の筈が、資産を投じた、新築豪邸が、一日にして失火焼盡するのを機に、運勢下降、加へて、地方農民利益のために、国会に進出、みごと当選したのは好いが、(このあたり、父のウーラ・モンスンと全く同じ運命だ!)、やがて迎へる第一次世界大戦に、反戦派として、熱叫、激闘するのを境に、非国民、反動派として、排斥、弾劾され、議員職も失う。
 
 夫婦の間も、家も職も放りだしての東奔西走の活躍で、いつか、離婚も当然といった有りさまとなったが、子供のチャールズのため、なほ、冷却状態で、結婚はつづく…

 子のチャールズは、どちらからも愛されてはいたが、ほとんど成育期は、父と同居することなく、母と二人キリで、昔と異る広いが、貧しい家を守る。

 幼い彼が、むしろ父の代理でさへあり、母の力となり、十五、六で、農場を、一人で支へ、維持、勞働した。
 ために、正規の学校教育の恩恵はうけず、成人してからも、文章、単語のスペリングさへ一時満足ではなかった(この後、自ら独学かつ軍の学校で、補充補足してゆく) 彼らしく、農場拡張機械化経營を図り、豚、羊、鶏等それぞれ何千羽、何千頭の飼育計画をする。

 しかし、これまた未熟のシロウトらしく、ヒヨコを一夜にしてマックロコゲのロースト・チキンにし、玉子もこれ又、数千個丸コゲという大失敗もやる。玉子をかへす器械の温度調節を忘れてしまったからである。
 だが、よく、少年にしてはガンバッテいる。
 アタマも好く、気性も烈しい母にとっては、夫のいない農場維持は、都会人らしく、お手上げである。それに、ヨソモノとして、近在の人々からは、白眼視、忌避された。

 一度なぞ、数頭いる番犬を、撃ち殺され、チャールズさへ、狙い撃ちされたことがあった。負けん気のチャールズは、こうなると、父ゆずりの十才にして的を射たという腕前で、夜毎、銃を片手に巡回したという。
 本気で、やり合う気だった…が、威嚇射撃で応じたら、ソレッキリ、コレは止んだ。

 夫婦―父と母の別居生活は、十年余り
 その間、夏だけは、父、C・Aは帰った。
C・Aは、発展伸長するアメリカ大資本、財閥に、しだいに目を向け、批判から、攻撃へと変り、政界人としても、少数派になってゆく。金融トラスト―特にモルガン財閥を、攻撃非難し、そういう著書も出した。
 一九一八年には、農民同盟の支持をうけ、共和党ミネソタ州知事の予備選に出馬する。

 この選挙では過熱激烈―アメリカ国民の本質の闘争性ムキダシ、町で、C・Aの人形がシバリ首にされたり、農民デモの先頭を切る彼は、逮捕される。演説すれば、暴力をふるって、演壇から引きずり下ろされ殴打される。銃で狙撃さへされる。
 満身創痍で、C・Aは選挙に破れた。
 彼が好戦派、参戦派であったら、逆であったろう。
 この前年、一九一七年から、世界大戦への参加をアメリカは、急激に決定した。
 
 その最も危険な政治時期に、C・Aは二月十二日、下院で金融トラストと連邦準備理事会の共謀を糾弾する猛攻撃をやる。
 「アメリカはこの戦争になぜ参加するのか?」という、反戦、拒避の著書を発表する。
 「国はなぜ戦争をしているのか」は、発禁絶版とされた。
 それでも、C・Aは頑張った。政治活動を圧迫々害されながらも、戦中も継続した。

 カレは、こうして脅威の「北極グマ」の惡名を奉られ、アメリカの敵、売国奴とまで、蔑まれ、罵しられ、憎まれた。
 しかし、C・Aは、それでも云う
 少年リンドバーグに―
 ―国旗はいつも掲示せよ。この国の政治が好いというわけではない。しかし、自分の国の旗だからだ」
 (最近の日本国民には、コノ意味がワカルまい)

 戦争は終る。
 アメリカは勝者だ。
…惡名、汚名を負った父チャールズ・オーガストは、それでも、再び僅かな支持者を頼りに、虐げられた地方農民層を庇い徐々に復期する。

 農民、下層階級の代弁者として、奔命放浪する、が、既に資産はなし、演説や、執筆、弁護料など、僅かな収入で日本で云へば、木賃宿ぐらし、一日一ドルのホテルをわたり歩き、ボロの背広で、破れた靴をはき、疲れた顔で、依然主張も、批判も変へなかった。

 そんな中でも、成長した息子二十一回目の誕生日には、このころ陸軍飛行学校に入り、好きな文明先端の、未来も知れぬ飛行機狂い―愛機購入に借金してでも半分を負担している。せめてもの親心か…
 そして、リンドバーグの卒業を待たずに、さびしく死んだ。1923年六十三才。

 母は、その頃、教壇に戻り、自活の途をえらんだ。
 以来、再婚はせず、息子が、アメリカのヒーローとなり、かづかづの事件を経て、死ぬ数年前まで、教鞭を捨てず、一人、毅然として、これも死を迎えた。

 少年、リンドバーグの大農場器械化経營は、夢と消えた。
 この以後の彼は、たゞ一筋、空中への夢に生死する。


以下 つづく






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潜在する良心  強く正しい国家の宰相とその教育 09  8/13再

2021-02-17 10:59:05 | Weblog




上っ面の道州制や地方分権の争論が華やかだが、善男善女に潜在するであろう良心は他人との調和や制御において強い力のある善なる権力を望んでいる。潜在などと解りづらい表記ではあるが、依頼心や他動的な動きに安住する見方とは別に、またシステム的な分権システムを論ずる前に潜在する心の中に在る「分限」を考えるべきであろうと考えるのである。

よく、後味の悪い反発、批判のような自身の付和雷同を悟るとき、それが政治指導者なら尚更のこと、その対象になるような対象は目の前の官吏や職場の上司、あるいは芸能人などと同様に、一過性の怨嗟、反目、嫉妬など一種、説明の容易ではない自身の内面の患いがその因を成していることがある。

利権の分配や依頼心や安住を昂進させるような人の弱さ、集合の混乱、分離の放埓を考えるとき、どうしても内在する心の分限を、゛教える゛あるいは習慣化することを前提にしないと平準化、普遍性の名目のもとに混乱した社会、つまり混沌した国家を作り出してしまう。

それを防ぐには、正しい権力の使い方や仰ぎ見るような力が必要となる。
国家で云えば宰相(総理大臣)の力量とし至高な道徳心を顕す存在である。
以前にも記した「・・・複雑な要因で構成されている国家の要素は、領土、民族、伝統と精霊の存在である・・」を考える人間の存在である。





                     






極論のようだが、便利だ、文明だ、合理的だとスパイラルのように変遷した歴史を近代だけを切り取っても民族の風情、つまり人心の、゛変化゛と、゛変化しないもの゛あるいは一過性にあるものなどは俯瞰できない。

昨今の人権、平等に言う元々備わっていると謳われているものが、他と接すると軋轢を生むことに、いかに表層理解であったか分かりつつある、つまり潜在する人心との齟齬が大きくなっているようにもみえる。

騒々しい、まとまりの無い、あるいは、゛どうしたら゛と争論する姿は、強く正しい力を現すべきと希求するとき、政治であれば統治力に必須な税と警察の姿に観るべきことがある。それらは公務という建前はあるが、官吏という立場の食い扶持待遇の惰性と、キャリアという分限の矜持の衰えが、正しい強さの表現でなく、手前勝手な既得権者と映っているのではないかという問題である。

それは権力の公平と正義が国民の面前に近い所で行使される権力の有り様の変化であるが、身近な教育でも教師が論議による理解を謳うあまり、悪しき習慣の矯正や制御を元とした調和が欠落し、思惑の自由を考える生徒に対しても率先力が乏しくなり、教室のコントロールがつかなくなっていることもその一つの姿のようだ。












その教育についてだが、校長と教師、学校とモンスターと揶揄されるPTAも、騒々しさ、まとまりの無い学校、どうしたら、といった困惑は免れない。ここでは当世擬似知識人に有りがちな責任転嫁が横行している。システムではない。人間の問題である。

以前、双心(ふたこころ)について語ったことがある。対象に対しての本音や建前ということではなく、自身のみが覚える、あるいは結果として悟る心のことである。それは、面前で突き詰められても言葉を捜してしまうほど戸惑いを覚えることでもある。

対象は登校拒否の高校生を寄宿させて教科を補う塾のお母さん達である。俗に父兄とはいうが、戦後のGHQの勧奨で始まったPTAも、アメリカとは異質の構成と推移をもって現在に至っているが、とくに女性の社会進出や情報交換の場として、あるいは遊興カルチャーの場として揶揄されて、ある意味、健全育成の名分の下、夫からの治外の場とする女性も出てきたと聞く。

唐突にも「お子さんが好きですか・・」と問うた。
巷のケースワーカーや教育関係者はこのようなことは問わないであろう。あるいは問題傾向や原因の羅列など「実利」の無い前段が先ず語られるはずだ。

「問題があるとあなたが困るのですか・・、それともお子さんのことが心配なのですか」

「・・・・・」

「お母さんが困るなら私は解決するすべはない。お子さんのことなら一緒に考えましょう」

「実は私も体験したことがあります。青年期の司法ボランティアのころでしたが、こんなことがありました。やっと願いが叶ってガールフレンドと食事に行こうとした、そのとき青年が相談に訪れました。彼は天涯孤児です。お父さんもお母さんも親戚もありません。不心得で法に触れて施設から退院してきたばかりでした。

悩みました。本当は食事に行きたかった。でも理由を話すにしても今どきの守秘義務ではありませんが深いわけは伝えられず、誤解を招きました。これは決して生真面目やストイックということではなく、それが誰であっても人の信頼に対する相応する応えと自身への、゛試し゛の機会でした。

つまり、゛ヤリタイこと゛と、゛するべきこと゛の問題です。葛藤などという言葉では片付けられない素直な気持ちでした。でも私なりに清々しかった」

「じつは思春期ということを考えたときのことです。春を思う時期とは何時でもあることです。老いも若きにも関係が無くあります。それは結婚をして子供を持ち、仕事や立場があっても自然な心の動きです。それはもう一つの心の姿です。つまり双心の一つです。大人は春の芽を積むことも避けることが出来ますが、童心に振り返るときその芽の育ち具合をそっと想像することが出来ます。それは自身の新しい可能性を想像することですね」

「パチンコ好きなお母さんが大当たりを想像するとき他人の心は入りません。カラオケを歌うときプロの歌手を想像します。そのようなものですが、母親と女性ば同一ですが動く心は違うようです。子供も呼称は学生でも一人の人間の心はお母さんと一緒です」









冒頭の言葉はこのようなことでしたが、あまり父親の存在感は垣間見ることはない

ささやかなPTA男性構成員は会長か監査役で、一昔前は近在の地主、あるいは一人で多くの役職である似非名誉職を獲得したような床の間の石のような人を置き、子供の教育を預かるお上御用宜しく地域でも特別な地位として映っていた。とくに有力者が議員なら選挙協力として女性保護者を手伝いなり票なりのアタマ数として算出提供すれば、晴れて会長候補となりえる地域もあった。

それらは意外と政権党の持分だが、保育園などは野党シンパの乗っ取りなどの不祥事が起きているが、一つの園で五百票と嘯く議員シンパもいた。

いまはお年寄りが集票や時節企業の食い物のようになっているが、子供は遥か以前からそのターゲットになっている。しかも年寄り、子供に関する施策は大義美名のもとに特殊な名誉と地位が提供され、だれでも参加しやすい、つまり反核、平和、人権のスローガン同様に全てが、がぶ飲み理解しやすい善なる行いとして理解させられている。

これらの例は、人の良心の表層であるのは百も承知ではあるが、潜在意識では下世話な事として男性の名誉や地位利得、女性の社会デビューの用となり、家庭や社会での分別のない権利を主張するような雰囲気の陥ったようだ。ひいては付き合いと称して教師や管理者と酒席を設けたり、教室を宴会の場として使うような無感覚の大人世界を子供に指摘されることも出てくる。






                          





PTAだけではなく、社会全体が、゛このくらい゛との風潮で弛緩し始めると政治すら嘲笑や猜疑の対象となり、民主の名の元に自由という放埓が加味されると、その場限り、その日限りの遊惰な無責任状態に陥り、批判することで自己存在をはかなくも認めるような人が多くなり、動物ではないが「群れ」となったとき「国情」として、また一方の潜在する良心では徒労感や茫洋とした困惑が訪れることとなる。

ひとえに、゛横並び ゛の平等感の為せることだが、分別や尊敬、あるいは性癖の成す民情というべきものが制御、自制、良心の呵責という言葉によって覚醒されずに、ただ時流に蠢く群れとして一過性の時空を漂っているように観えるのである。

標題に戻るが、この問題が多くの要因を添加され、かつ教育であれば誰もが生育適齢世代を超えてしまうと忘れ去られ残滓のみが集積される。そのような問題集積のなかで当事者となった世代は自身と別の力の依存なり到来を、いずれ願うようになるだろうとの逆賭が筆者は見て取れるのである。

たとえば7月25日の拙章「明日を深慮して復(ふたた)、王政復考すべし」だが、あの創造力と突破力、そして変化があった明治の19年に天皇という称号を戴いた一人の人間の観察がある。それは教育について現在に起きている問題を当時の環境で推考している。それはシステムや組織、技術の末節論ではなく、人間を独りとあるいは集団の一員としての役割と為すべき修学として指摘している。

ここで天皇制や政治不干渉、当時の国民国家創生時の身分制や人権などを、あえて添加して論ずる向きもあろうが、暫し熟読、再々読して現在の状況と照らし合わせてみたら眼前の人の行なうべき本来の姿と解決策が明確になるのではないだろうかと考えるのである。

そこには、文部省や左右の思想に包まれた各種運動の争論、あるいは教職員組合や教育産業、モンスターと揶揄されている今流日本人の姿などの煩悶する問題の以前に考える本質があることが観えてくるだろう。見えるではなく、観えるである。それは眼前の問題に口舌を駆使することではなく、民族の性癖をも加味して人の修学や習いを大きく俯瞰することでもある。また将来を容易に描くことでもある。





                  





【以下、拙章転載】

ここに教育面において『相』の養成に心を砕き、当時の教育に憂慮を抱いた天皇のエピソードがある。
「聖喩記」 明治天皇の侍従 元田永フが天皇の言葉として記したものである。
「喩(ュ、さとす)」は、諭す、分からせる、ではあるが、「君子、義において喩る」の、ここでは「教育に敏感で疑問を取り出してさとす」と考えたほうが、この場合は理解しやすい。
明治19年11月5日 元田永フ謹記とある。
小生の拙訳だが

11月5日 午前10時 いつものように参台いたしますと、陛下は直接、伝えたい事が

あるとのこと。私は謹んで陛下の御前に進み出る。 陛下は親しく諭すようにお述べに

なった。

「過日(10月29日)帝国大学(現東京大学)の各学科を巡視したが、理科,化学,植物,医

学,法科はますますその成果は上がっているが、人間を育てる基本となる修身の学科は見

当たらなかった。

和漢の学科は修身(人格、識見を自身に養う)を専門として古典講習にあるというが,ど

こにその学科の存在があるのか。

そもそも大学は我が国の教育でも高度な人材を養成する所である。

しかし、いまの設置している学科のみで、人の上に立って政治の要に役立つ人物を教育

できるような姿であろうか。

設置されている理科医学等を学んで卒業したとしても『相』となるべき人材ではない。

現在は維新の功労者が内閣に入り政治を執り行ってはいるが,永久に継続する事はできな

い。 いまは『相』となるべき人材の育成が重要だ。

しかし、現在大学において和漢修身の学科が無いようだが、国学漢儒はかたくなで、狭

いと思われているが、それは、それを学ぶ人間の過ちであって、真理を求めた学問を狭

い範囲に置くのではなく、普偏な学問として広げなければならないと考える。

わたくしは徳大寺侍従長に命じて渡辺学長に問うてみる。

渡辺学学長は人物の養成についてどのように考えているのか。

森(有礼)文部大臣は、師範(教師育成)学校の改正の後、3年経過の後、地方の学校

教育を改良して面目を作るといっているが、中学は改まっても現在の大学の状況では,こ

の中から真性(ほんもの)の人物を育成するには決してできない。君はどのように考え

るか。」

さて、我々はどの様に考えるか・・・

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土壇場に脆弱な人物の観て見ぬ振り  09/9月稿 あの頃も

2021-02-10 07:24:47 | Weblog




土壇場といっても国家の崩壊ほど民族にとって悲惨なことはない。
多くの日本人が大陸で新国家を建設した。経緯はともかく、曲がりなりにも国家を代表するであろう地位にある政治家、軍人、官吏、とくに高位にある者が土壇場で逃げた歴史がある。当時は立身出世を夢見て官制学校歴(学問歴ではない)を得た人々だか゛、ことのほか弁は立つし作文も巧みだ。

また、゛軍は竜眼(天皇の権威)の袖に隠れ・・゛といわれ、政は外地の軍事行動を現状追認し、官はその形式を整えていた。

また、権威の象徴はそれらの利に用いられ、神事、国旗、までがそれらの人々の金屏風として虚構を形作っていた。

たしかに忌まわしいことであるが、明治維新の負の残滓を払う経過として一応の現象としてみることも出来る。衆を恃み名利を得る大義、あるいはお墨付きとして用いられたとしても、全て人間の陥る錯覚を前提として巧みに習慣化され諦観ともおもえる姿があった。




                

             酔芙蓉




翻って今はどうだろう。

テレビの有名人、耳目を集める女性、欧米の大学や研究所の在籍、はたまた名のある塾や研究所の出身など、擬似アカデミックな部分が選挙の金屏風となったしまった。そには官学マニュアルの評価基準では難しくも触れることの無いような人間の識見として確固な人物、つまり土壇場で使えずだだ理屈争論に長けた候補者を多く見かけるとなってしまった。

前に戻るが神事、国旗、また竜眼を袖に隠した者も、現在の天麩羅とも思える金屏風に座すものも、対象たる国民を惑わし、たぶらかす手合いに変わりはないと思えるのである。

それらは人々の連帯と調和に必須な「譲りあう」を司る「礼」に無知なのだろう。

たかだかと言うなかれ。形の有無はともかく社会や国から恩恵を覚えるものがあるなら、無国籍の夢のような友愛はないだろう。博愛は普遍に広くだが、友愛は縁ある人間同士の掟や習慣に基づくことが多い。

思いはともかく狭い範囲の意識もそこにある。共生は価値の共有がなくてはならないし、往々にして人間社会は大が小をまとめ多大とするようただが、確かにグローバルとスタンダードは友愛の辿るところだろう。

筆者は経緯はともあれ、神事と国旗は自身の博愛心の探り、誓いとするものだと思っていた。なにも武の先頭に立てたり、鎮まりを持った人々を騒ぎに巻き込むことではないと考えている。神事も単に宗教として他と比較したり優越を争ったり、妙な他力を願うものでないことを多くの人々と同様に悟っている。

だからこそ、気になるのである。




              

             きれいな花に・・・きれいな毛虫



本論

観て見ぬ振り

一人は市民運動家の草分け市川房江氏から、「許せない男」といわれた人物、もう一人は社会はあっても国家の在るを知らない今時の女性活動家である。

もし巷間いわれているように政官財の癒着、そして腐敗堕落が云々されているとしたら、この手の非情感を持っている各分野における人物の存在は、腐敗堕落に象徴される混迷にとりつくハイエナならずとも、その姿は食い扶持に囚われた愚直とは異質の、愚民をつくり、そそのかす手合いである。

なるほどと思われる言辞には情が無い。

とくに客観的にも日本的と納得させられる矜持の在り処が呆然としている。これは、観念的で偏った考察であり、偏狭な民族意識とも批判が生まれる浮俗の観点ではあろうが、それこそ彼等の言う民主と平和に導くという名目の元に解明、説明の責任があると他を責め、大仰にも訴え掛ける姿に狎れた大衆の変質である。

それは権力執行者の使い方を知り、彼等の不釣合いな仕草を囃し立てる人々によって融解してしまった矜持の有様でもある。

「狎れる」とは国民の嫉妬や怨嗟の在り様を鵜呑みにして「礼」を亡くすことである。
「礼」を亡くすとは、調和や協調を司る「辞譲」という、゛分け合い゛゛譲り合う゛という精神を乏しいものにすることに他ならない。

大人気ないといえばそれまでだが、ああ云えばこう言うような礼なき争論は止まるところはなく、意志の無い意見にみる発想力の乏しいものの苛立ちのようであり、後だしジャンケンの如く無責任な言を弄し、「・・・そのような意味からすれば・・」との倣い文句で自問自答している滑稽さが見て取れる。

つまり、意志亡き者の意見なのである。国家の誇りや矜持などは有るをも知らない姿であり、政治の座標軸を失った前政権とは何ら変わりは無い。

終いには「カリキュラムにも無かったし教わらなかった」と。

言葉では国家、国民、福祉や平和と歯の浮くような単語を平然と吐くが、真の下座観を失った選良らしき者にとっては土壇場の肉体的衝撃すら推し計れないだろう。

あの市民運動家との名を冠した市川房江氏は民族運動家の赤尾敏氏との昵懇な関係があった。よく左翼の市民運動家、右翼の民族派と思われがちだが、両氏の培った明治日本人の気骨は旗を振り、ビラを撒き、大衆に阿るだけの卑しさはない。機を一にして両氏は政治の腐敗堕落に抵抗した。あのロッキード事件では歩調を合わせて真相究明に当たっている。

ことさら、政権がそこに有るからと同床異夢に浸ったのではない。不特定多数への貢献であり、他の人々と異なる行為を恐れず行動したのである。また人情に厚かった。

彼等には強圧的に詰め込まれた訳ではないが国家という意識が深かった。とくに政権埒外において爽やかに歴史を刻み、ときに好々爺、賢母のごとく人に接することによって人間の有り様である反するものへの寛容と耐力を教えてくれた。

何気なく新政権の閣僚記者会見ではあったが、切り口を変えて言葉でなく所作を見ていた。
前政権とは政策や手法も異なるようだが、人の座標と覚悟は思わぬ差異として認められ、筆者なりに逆賭したとき暗澹たる思いに駆られた。





           


      小泉氏も麻生氏もブラジルの日本人に慟哭した



隣国の台湾の政権交代の折、民新党の陳水扁総統は国民党の創始者孫文の遺影に誓詞を奉げて一礼した。政敵である国民党であり大陸でも国父と讃えられている人物である。
翻ってわが国の閣僚は天皇の認証をいただき、恭しくもそれを頭上に掲げて後ずさりして国事行為の当事者として誓いを立てている。

記者会見は世俗のセレモニーだとしても国民の多くは注視している。学生が制服を着てケームセンターに入る時節柄、教師や親が注意しても「法律に書いてない」「生徒手帳に書いてない」と抗弁するが、法に守られる一方、無視するという錯覚した齟齬は、先ず以って注視される立場においては、゛養い゛の意味である予算の争論と対である゛教える゛の意味の人倫の在り様を所作として示すことこそ、教養人として信ある政治が浸透するはずだ。

せっかく期待された政権である。ともあれ、゛白地に赤く゛染めた布地ではあるが、舞い昇っていたとしても、心を譲る黙礼すら出来ない人物の真意に一抹の不安を抱いた次第である

彼等は土壇場で逃げる。あの満州でもそうだった。国家社会主義を夢見て統制経済を試行した高級軍人、高級官僚は電話線を切ってまで護るべき居留民を棄てて逃げている。

この国の土壇場には必ず逃げる。社保庁だけではない、政治家にもその臭いが漂う。

その前兆は耳障りのよい美辞麗句と追認言い訳だ。




            

           本当のバカはホドを知らない  竹本談







筆者の畏友から貴重な応答を戴いた。
此処にご紹介いたします。

[愚感]
                            
 大塚寿昭

私も同じ場面を見ていたが、基本の礼も知らぬ人たちがあの場に登壇することに寂しく悲しい思いを抱いた。

実は先々代内閣の発足時にも似たような状況であったことを思い出した。

その首班となった人物はその後各国首脳が集う北京五輪会場において、自国の選手団が目前を行進するのを横目で見ながら、「観て見ぬ振り」の如く隣席の人と何やら雑談の続きをしていた。
先行した他の国の首脳は起立して挙手の礼を採ったり、国旗を振って自国の選手団に合図をしていたが、我が国のその人物は文字通り知らん顔であった。

そんなものであったからでもあろうか凋落への傾斜は止まらず、とうとう50年の権力を奪い去られてしまった。

入れ替わって負託した人たちは若くして全くの未経験であり、まとまる術を知らないまま政権を握ったのでありしばらくは寛容な目で見ようと思ってはいる。

しかしながら、私たちにはこんな選択しかないことが寂しくもある。

国に報ずる役目を頂いたなら、国旗を見たら自然に礼をするのが人の道ではないか。
基本の礼すら気づかぬ人に、その場しのぎの政治技術はあっても国の根幹を揺るがす判断を預けることはできない。

ただ、一方に自らに問うことがある、「悲しんでいるだけの己は何者ぞ?」と。

蜆の会 代表

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混迷の自由と、やっかいな民主  2009/3 再

2021-02-08 02:57:51 | Weblog

資本家からの解放を謳った一群も、民主と自由を謳った一群も、現状の勝ち負けを論じたところで、体裁のよい噺であろうと考える一群が存在する。

一方の自由と民主を提供された一群の掴みどころのない不安だが、為政者の掲げる国民の自由と民主への錯誤は往々にして国家の連帯を融解させることを、人々は薄々気がついている。

とくに其の主義と仕組みを提案され、たとえ面従腹背によって好い処取りをした民衆も、悠河が激流に変化するに連れて、自ら生じたさまざまな雑物が混じった汚流になることに、何の処方もなく戸惑っている。

たしかに自由な主人は己を扶養することに汲々としている。食い扶持は勝手に探せるが、結果と片付けはおまえの責任だ、ということだが、為政者あるいはそれに伴食を預かっている連中にとっては、管理のコストは主人である、゛あなた持ちである。

それは、他に習い順ずることを好まないが、さりとて他人が巻き起こす流行ものが気になって仕方がない民衆の面妖は、意思の在り処が見当たらない無機質な社会を作り上げるシステムを民主と自由に読み替えた民の姿でもある。



               



誰かが解決してくれる・・・、だが美名に誘引され権利と称するものを収穫物とした民衆にとっては、そうそう自らの口では発することに幾分かの遠慮もあるが、厚顔にも他の責任を追及した理論や糊塗に勤しむ知識人と称する一群も見うけられる。なにぶん民主と自由に飛び跳ねたそれらも、自らの存在に迷っているのが実態である。

ことのほか自由と民主は自他の関係においても厄介なものである。

どうも文字のニュアンスなのか、解放とかレジスタンスには良心と勇気のようなものが感じられるが、それに抗して独裁、専制はまるで悪党の搾取のように印象付けられている。だが、不埒なエリートや群れとなった不道徳な欲張りが多くなり、法匪まがいの輩の奴隷のようになった善男善女を考えると尭舜とは云わぬまでも、善政への矯正に必要な機会が永い歴史には必然としてあった。




                 



たとえば、明治の王政復古もそうだ。幕府も御家人旗本も威を失くし、まさに「維」の更新に大向うを唸らせる舞台が登場した。

フランス人やロシア人は世界の「長(おさ)」を倒し、平準化した人権、平和、平等が好きな混交人種を広げる運動の恣意的な企てに連なった。もちろん掲げるものは自由と民主であった。それ以来少々落ち着きがなくなった。却って重厚さはエカテリーナ宮殿やベルサイユにあると人々は過去を誇るようになったのは皮肉なものだ。




              



今どきはメタボ、生活習慣病、あるいは不作為食い扶持に慣れ親しんだ江戸の御家人のように、自己制御できない人間に医者や薬や裁判所が繁盛するより、また徒にシステムや法を弄ぶより、「維」の護持してきた長(おさ)である国父のような存在の「徳維」の専制を心の自制として倣ったらどうだろうか。


              
                           某茶室にて


「譲り合う自由」と「認め合う民主」の有り様を知る良機になること、まだ阿吽で分かる日本人が残存している限り望みはある。

政治や経済の問題は其の後で充分間に合う筈だ。

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人間考学 餌を散らせば隠したことがバレる、一網打尽之術

2021-02-06 09:57:19 | Weblog

 弘前城

 

毛沢東は百花争鳴を奨励した。

思っていることを自由に、かつ大いに言いなさい。

役に立つと思う考えを言いなさいよ、と大衆に宣言した。

今までは何か言えば反抗的だと捕らえられたが、恐る恐る言い始めた。

今までは陰で隠れていたもの、仲間で色々な政治の話しをしていたものまでが出てきた。

盛んになると海外の評価も変り、それらと恊働するものも現れた。

それは自由のない頃の社会、いや、食べることの懸命な大衆にとっては異質な人たちだった。多くは読書人(知識人)と称される者たちだった。

考えている人間、言っている人間、協力する人間、これで目星はついた。

あとは投網を掛ければ、一網打尽。

もともと政策の裏付や飾りに知識人らしき者を任用するが、知識人からすれば御上御用で箔が付き、食うには事欠かなくなり、長生きすれば勲章までもらえる。学者が名誉や財を求めるようになったら国は滅ぶとは古典の倣いだが、愚かな政治家と狡猾な役人には必要不可欠な言論貴族なのだろう。

近頃は瓦版の類のマスコミ関係者も先を争ってご注進に励んでいる。江戸の時代は、瓦版やメアカシの類で、事件情報をもらいに警察や政治家にポチのようにまとわり付いている徒だ。

世間は為政者の政策に何か臭うと思うが、東大や海外の研究者と比べて遜色なければ、表立って懐が痛まなければ「仕方がないか」と、あとは無関心。

 

 北京の友人作

 

 

その隣国の大衆は学者、知識人をどの様に観ていたのだろうか。

人の階級を10段階に分けたら、学者(儒学者)は、下から9番目で九儒、その下は乞食。ならば毛沢東はどのように思っていたのだろうか。彼らは口先だけで、妙な臭いがする鼻持ちならない、「臭九老」と考えていた。

歴代皇帝に仕えて占術や故事をひいて施策提言した儒学者や役人も多いが、多くは傾国の導きでしかなかった

標題になるが、コロナ禍でも、災い転じて福となす人もいるようだ。

他国に倣ったのか、政府は国民に時短なり、休業を要請するにあたって多くの名目で資金を供給している。

今までは国民一律二万数千円があったが、今度は一律十万円から始まって、飲食店に協力金、事業者に持続化給付金、この度は政府利用性にしたがって休業・時短名目での要請金が簡易な申請でふんだんに支出されている。

ここでは、業態は問わず逼迫した状態での申請審査に基づく支出なら問題はないが、もともと休店したり開店なから暇だから早じまいしていた飲食店でも一律支給が行われるという不思議感がある。

本来はどんな業態でも税務申告があるはずだが、一日開けて1~2万円、昼のみ開けている店もある。それでも数次にわたる協力金と、一日6万円の現金給付が行われようとしている。小さな店では3万売り上げで利益は多くで1万円。6万となれば一日20万ほどの売り上げがないと純利6万は得られる計算ではない。

人の懐に対して細々とケチなことを云うつもりはないが、一度思いもよらず安易に資金が降ってきたら、それは成功体験として再度の招来を期待し描くものだ。

あのバブルも大根畑の一反(約300平方)50万が、一夜にして500万になったとき、持ちなれなかった人々は放蕩三昧で夫婦離婚も子息は非行と蕩尽、そして没落したのはそんな昔のことではない。金融機関も痛い目に遭って今でも立ち直ってはいないところもある。

以前の一律給付のとき麻生太郎氏は「さもしい」と語り非難されたことがある。大多数ではないにしても、そんな気持ちを持つ国民は多かったと推察する。

税金を戻してもらっている、貰えるものは貰え、と声高に騒ぐ人もいたが、まだ税金食い(タックスイータ)と、納税者の分別はついていた。その代わり消費税は8から10%に上がった。

税制も企業招致や捕捉が煩雑になった理由もあるが法人税の割合が下がり、その分、捕捉しやすい売上税(消費税)の割合が増え、比率は逆転した。しかしコロナが騒がれる前は消費は落ち込み、露見すれば失政を叩かれることは当然の状態だった。そのころヘリコプターで札をばらまくような消費喚起策も経済学者から出ていた。

非生産的分野(福祉、医療、年金等)の支出は削減し、経済の基礎的部分(ファンダメンタル)の投資を増大させれば経済は伸び、税収は上がり、収支が安泰して赤字国債は無くなる、と政治家は官僚の腹話術のように謳い、直間比率(直接税、間接税)の変化も一つの要因ではあるが、年齢的人口比率や少子化が一方では危機として騒がれるようになると、麻生さんの「さもしい」発言ではないが、人心が落ち着かなくなった。

そのことは、取りも直さず公機関と国民の契約の曖昧さが政策の信頼すら失くしたかのような状態となってきた。

 

   

 

筆者の観点だが、コンプライアンスは民情の慣性に合った狭い範囲の掟や習慣性を数値評価や成文(文章)に変わり、曲がりなりにも国に委ねた資財に国民大衆が安易に手を出せるようになり(効力を失くした民主の相互契約)、それは大衆の欲望に応える政府の無謬性の崩壊であり、政官の責任さえ負いかねない徒労感さえ抱くようになった。

それは流れに任せ、流れに乗ずる、腰の定まらない政治ともなった。

そして国民の察した成功体験がある。しかも、一過性の給付に核当する人たちだけでなく、当たらない人との反目や嫉妬さえ起こしている。すべて政府に向かっている。

無関心と事なかれ、そして上しか見えないヒラメ

ある組織では、世の事情に無関心どころか、その現象を考えることさえ難しい、めんどうくさいと思う徒がいる。

その上司は手をこまねき、徒労感も加わって目的意識や使命感も薄れ、キャリア(経歴)を踏むことに汲々としている。良心に誠実な部類はハジかれ、だだ、己を偽り従順な者だけが地位だけトコロテンのように昇ってくる。

上っ面のキャリア組は生涯計画を支える給与の担保と保全、そして高位ステータスの虚飾に励む。

それが政界.官界、教育界、学会(知識人)、あるいは御用民間人にはびこって、昨今、とくに顕著になっている。

まさに「さもしい」人心に陥っている。

政府からの助成は「さも、欲しがっている」ことが、素直な欲求ではあるが、それは国民と政府が金でしか取引できない風潮を起こし、自己抑制や気質まで変化させている。しかも、次代への借金でもだ。

 

  

 

それは、今までにない日本人像と違うと思うのは民族的贔屓の意識だったのかと、思うほどの姿だ。

ありもしない、できもしない、と互いに監視し合うようになった、自由・民主・平等・人権、の美句は、用いる人間にとっては、それを盾に却って猜疑心や狂騒の種となり、こと金がからむと解決不能な状況に陥ってくる。

そもそも、この混沌は、今までの経過をたどると当然な状況(部分成果)であり、最終の帰結はその先に招来するはずだ。

要は、奇異な病によって人口は減少し、さまざまな手法を駆使して富は吸収され、救いを求める民は管理される

人間種の循環ならばこその大局観ではあるが、いずれ地上哺乳類が「知」を得た結末として亡羊な淵に迷い込むだろう。

 

若かりし頃、銭湯の釜焚きの古老がバブルのさなか「このままでは済まない」と、炎を眺めて呟いていた。

ぬくぬくと湯加減の按配に文句を垂れ、他人の陰口を叩く客の気楽さに、釜焚きの伸吟を覚ったことを記憶している。

釜中の民」まさに当然の帰結でもあろう。

 

【釜中之魚】

「資治通鑑」漢紀から》まもなく煮られようとしている釜の中の魚。

 死が迫っていることをいう語。魚 (うお) の釜中に遊ぶが如し。(gooサイトより)

 

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