後ろ姿
も組 竹本
以前、ブルッキング研究所の日本人研究員が講演に際して知的直感力について意見を求められた。しばらくすると米国のジャパニーズ・ミサイルディフェンス・オブ・プリズン(日本の防衛計画)について導入にあたり、日本国民がどのように考えるかとの米国側からの事前調査の依頼があった。この種の調査はシンクタンクに依頼するようだが、その日本人研究員も当時のパウエル統幕やケニー副大統領と立ち話するくらいだからペンタゴンからの事前調査の依頼があったのだろう。
要は、北朝鮮のミサイルに対抗するためのパック・スリー導入について日本社会、とくに国民の考えを知りたかったのだ。制服組や外交担当者はとかく隠したがる内容であり、政府としても、あの対日年次要望書(要求指示?)とは別口の、ミサイルシステム購入に際して慎重な態度、つまり身を守りつつ国民から非難を受けないような態度があった。よって米国側からもより慎重な事前調査が必要だったのだろう。
とくに産軍複合体の武器輸出要求に加え、東アジアの火種であり、度々東方に発射されるミサイルの危機に狼狽える日本にとって、市場調査と政権安定の担保は何よりも重要な販売ニーズを構成するものであった。
できれば、交渉中に一発発射すれば導入もスムーズになる、つまり国民の理解も得られると考えても不思議ではない。やはり民主主義の武器市場は国民の理解(賛意?)だけでなく、危機の存在を認知させることにあるのだ。
三笠
その彼が国民の認知と賛意の状況に意見を求めてきた。それは米国としても日本政府が導入をアツモノ扱いして国民の理解を深めることが難しいとの理解があったのだろう。
子供(政府)が欲しがるものを、理屈が理解できない父親(国民)に、たとえ子供の小遣いでも買っても親はどのように反応するか、事前想定するようなものだ。ましてや子供がローンを組んで外国製品を数兆円もだして買ったら、そのリアクションは家庭内暴力や勘当にまでなりかねない。よって売る方も慎重にならざるを得ない。有りそうで、無さそうなことだが、親を黙らせるのは、゛よその子も持っている゛゛持たないと子供がイジメられる゛ということが一番効く。母親なら、゛いまなら安い゛゛保証もある(防衛協力)゛といえば話は通りやすい。
ただ、その安易な理解と判断が慣性となり追従になったら、別な意味で家庭も危機に陥る。それは数値比較の防衛力より、深層の国力と云うべき思索や観照の衰えから情緒の融解につながる危機だからだ。それは自主憲法、自主防衛と冠に自主と掲げる自主独立国のおかしさでもある。国民からすれば、下げ降しのお任せ防衛ならなおさらのこと、国民の選挙動向を左右しかねない問題には、゛顕著な躊躇゛として表れるようだ。ましてや政権党の既得権担保への執着は、国民のみならず他国への忖度配慮として我が国の政治的質となっている。
いつまでそのような姿を繕っていられるのか、やはり敗者の憂き目は、勝つまで続くようだ。宰相は「いつまでも贖罪の負荷を続けるものではない」というが、継続して大国の袖に隠れていたほうが楽なことに慣れているものにとって、一方は高圧となり、一方は阿諛迎合する。そんな劣なる性癖は、勝って増長、負けて卑屈になる集団民癖となり、かえって居心地の良い、ある意味、無自覚、無責任にいられる安逸から、それを平和と呼ぶようになる。
鋭い直感を覚える人たちも、それを社会のあらゆる現象に関連付けることなく、また、それが人々の諦観のようになっている姿は、俯瞰,登覧、下座の多面的観察力(総観)さえ閉ざし、個別分離という居心地に価値を置くようになったようだ。
それは己とはさして係わりのない問題に「いいんじゃない」という曖昧共感の民情ともなっている。人心は衰え、人情は希薄になる、そして思索(考えること)すら衰えてくる。
十三湖
地球の歴史は人間種だけの歴史ではない。それが衰え、他の種との共生観念が乏しくなるなら、大自然からの恩恵を作為的に企図するような所作でさえ無意味なものとなるだろう。
くわえて、「いつの間にか」とおもえる誘引は利便(便利性)を用として、人々の簡便かつ安逸な営みを繁栄価値として定着させてきた。それはともに足らざることを補い合うという共生の倣いと自制の心をも失くすことになった。
複雑多岐な要因を以て構成されている国家なるもの、社会なるもの、家族なるものの結びつきは衰え、恣意的結合(囲い)のために数値管理が人間の尊厳さえ毀損されるようになってきた。しかも前記した簡便、安逸こそ自由行動の担保のごとく機能的通信機械が仮想現実の自由として虚妄な営みに変えた。
つまり、人間種の良質なバーバリズムとして保持していた直感が衰え、架空現実こそ流行りの事実とした人々は、他人(隣人)と同一価値で包まれている錯覚を増幅させ、死生、禍福、過去と現在の経過の思索や観照から離れ、人間社会は何に依って立っているかとい相関的観察(総観力)を衰亡させてきた。
古人は「人間は自然から離れることによって衰えてくる」という。それは身体でいえ無意識に包まれる免疫のようなものが、乏しくなることだ。たかだか人間の知的思索の範囲ではその免疫の有効性はない。よく森林浴とか香のリラクゼーションとはあるが、大自然に生を包まれ生死(人生)の時空を俯瞰できることではない。
生きている不思議さは死の直前までつづく。それは「何だったのだろう」という生への疑問の始まりであり、息を絶やす直前における瞬時の回顧であり、ためらいでもあろう。
それは知の集積を用とするものでもなく、ましてや財や経歴を懐古するものではない。
突き詰めれば、「我、ナニビト ゾ」それの繰り返しでしかないようだ。
人生の総観は様々な言葉で表される。登覧の精神、俯瞰(鳥瞰)力、自己客観視、あるいは地を這い、伏すアリのような下座観もある。寒山の拾得のように、眺める境地もあろう。喜怒哀楽や忘却すら生きている証拠と感受することある。また生死は循環するという輪廻転生もある。
あるいは、部分に拘泥し、部分を探求して合理を求めても、それらを算術的積算しても総和(全体)にはならない、とはドイツの物理学者ハイゼンベルグの言だ。
価値ある生命とて、「生きている間のこと」と云われれば、遺すことにどんな意味があろうかと煩悶する。さりとて些細な残滓のようなものでも合理を探して意味あるものにしてしまうのも人間の常だ。
台北
碩学は「教育とは魂の継承である」と説く。
魂魄(こんぱく)世に残るともいう。
誰も見たことはないが、総観すれば薄らいでいるようにも感ずる。
世俗にかまけて営みに汲々としていても、いくらか感ずることがある。
とくに、地に潜り、水に我が身を浸し,機上から下界を眺めると醒める。
なによりも生死を分ける肉体的衝撃を体感すると瞬時に人生の総観が表れる。
長々と書き連ねたが、前記の米国の深慮に対する応えに、瞬時に想起したのがそのことだった。政治的、軍事的、商業的な意図が漂う問題に、アカデミックな対応ではなく、まして防衛担保の受け手としての斟酌でもなく、直感的に意図を認識し、総観的に応答した。
技術の進歩、パワーバランスと変遷、それらは現実の、しかも一過性の対応として繰り返されるのが外交のありようだ。また明日の敵は今日の友という不可思議さもある。
また、忘れっぽい民情と阿諛迎合的に大国に対する我が国の政治体質を加味すると、よその世界の要らぬ心配ともおもえるリサーチだが、その視点を処世の無名に一隅に求める遣り方に、懐の深さと経年培った米国のインテリジェンスの緻密さに驚きもした。
わが国では禁忌となっている地政学や彼の国の合理的分別における民俗的考察は、さまざまな経済・軍事の行動力によって効果的に具現されている。そのリサーチは永続的に細部にわたり、あのベネディクトの「菊と刀」などは占領軍政策に多くの効果を発揮した。
台北小学校の黒板
いま我が国は敗戦の頸木なのか、直感では覚っているが、行動で怯んでいる。よって総観力も生まれない。まして小欲に拘るため、think(考えること)がaction(行動)に結びつかい。
その考えと行動の狭間が大きくなっている。
では、その狭間は何か。「成らざるは、為さざるなり」やらないから、できない、当然なことだ。それは小欲の為す禍だ。「もし、失敗したら」「人はどう思うか」、なにも環境や能力ではなく、自身の小欲に拘泥するからできないのだ。
青森県津軽地方では「津軽の足引っ張り」という悪評がある。
だから、人が動くまで待っている。その結果をみて動き出す。
まさに、我が国の政界や官界の習性のようだ。だから言い出しにくいことは相手に言ってもらう。それは御注進外交として嘲られる。
そんなことも総観視できる米国からのリサーチだったと記憶している。