まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

たかり検事に幇間記者

2020-10-29 14:31:21 | Weblog

                   北京の朋友 女性画家作品

 

旧聞ですが・・・

 

悪代官と瓦版屋の博打ネタだが、庶民にとっては、ろくな連中ではないことは承知だったが、これほど愚かだとは思わなかったのが実感だろう。

 

書きながら苦笑いすることだが、高給担保と身分保証された連中の醜態を考えつつも、「嫉妬は正義を連れてやってくる」と、以前のブログで書いたことを想いだしている。

はたして、彼のことを稿題にすることが、ひかれ者の小唄やゴマメの歯ぎしりのようにその層の自虐のようにも思えてくる可笑しさもある。

 

公務員(検事)と木鐸(記者)、つまり公平と正義を仮借して生き様を綴っている人間に、己をトレースしてみると、地位や昇給にいくばくかの欲心を思うと、章の進みも遅くなる。

ただ有名人とか騒がれたといっても、アナタもそうなったらどうなの?と、問われると絶対!という文字は浮かんでこない。だからといって思考を閉じると何も変わらない。そうなると、最後は「ほっとけ」と今どきの厭世や諦観(あきらめの慣性)となってしまう。

 

自問もいいが、むやみなクレーマーではなく、童心の疑問を思い起こして社会との関係性を問う、そんな更新のおもいで、ブログでは章を綴っていくことにしている。

また、浜の真砂のようで、止め処もなく噴出す醜聞に「そんなもの」とは思えない困った性格ゆえ、ここは現生の備忘録(その時々の忘れてはならない記憶)として拙意を記すのだが、占いじみて数年経つと以前の記述が問題噴出の因の推考であったり、到達結果だったりすることがあるようだ。

 

釜の蓋も開けずらくなっているのに(経済不調)、現世の大方が最上と思われている価値観に頓着もせず、ときには「人間って面白いもの」と寒山寺の拾得和尚のような気分にも立ち、独りを悦こんでいる。

 

標題は、古き時代にトレースすれば、つまるところ職分の気質と生活の目的だと思うことがある。それが意外と符合する。

金貸しや両替屋が銀行となり、そのころは返せなければ満座の前でお笑いくださいと書いた証文を預けたものもいたが、今は身ぐるみを剥ぐ。

旅籠はホテル、瓦版屋は新聞、駕籠かきはタクシー、鍛冶屋は製鉄所、武士は役人、

いつの時代だったか中国の庶民の職業意識は、運送・旅館は盗人、役人は悪党と揶揄された時代があった。智慧の業だが、賄賂は人情を贈ると理解していた。

 

はたして日本人観として、役人と新聞記者、政治家などは腹の底から、どのように思っているのだろうか。

 

浮俗の母親は「公務員になりなさい」と、暗記学数値選別の檻に押し込んでいるが、それだけで、人がひとの人生を決する裁判官や検事、警察官、はたまた木鐸と敬される新聞記者に成れるのだろうかと童心でも不思議感が起きる。

 

少々キツイ標記だが、人間考学の端としてとして記してみた次第

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直感力から総観力へ導く人間考学. 15. 11/30. あの頃

2020-10-28 07:13:34 | Weblog

                                 後ろ姿

                            も組 竹本

 

以前、ブルッキング研究所の日本人研究員が講演に際して知的直感力について意見を求められた。しばらくすると米国のジャパニーズ・ミサイルディフェンス・オブ・プリズン(日本の防衛計画)について導入にあたり、日本国民がどのように考えるかとの米国側からの事前調査の依頼があった。この種の調査はシンクタンクに依頼するようだが、その日本人研究員も当時のパウエル統幕やケニー副大統領と立ち話するくらいだからペンタゴンからの事前調査の依頼があったのだろう。

 

要は、北朝鮮のミサイルに対抗するためのパック・スリー導入について日本社会、とくに国民の考えを知りたかったのだ。制服組や外交担当者はとかく隠したがる内容であり、政府としても、あの対日年次要望書(要求指示?)とは別口の、ミサイルシステム購入に際して慎重な態度、つまり身を守りつつ国民から非難を受けないような態度があった。よって米国側からもより慎重な事前調査が必要だったのだろう。

とくに産軍複合体の武器輸出要求に加え、東アジアの火種であり、度々東方に発射されるミサイルの危機に狼狽える日本にとって、市場調査と政権安定の担保は何よりも重要な販売ニーズを構成するものであった。

できれば、交渉中に一発発射すれば導入もスムーズになる、つまり国民の理解も得られると考えても不思議ではない。やはり民主主義の武器市場は国民の理解(賛意?)だけでなく、危機の存在を認知させることにあるのだ。

 

                                              三笠

その彼が国民の認知と賛意の状況に意見を求めてきた。それは米国としても日本政府が導入をアツモノ扱いして国民の理解を深めることが難しいとの理解があったのだろう。

子供(政府)が欲しがるものを、理屈が理解できない父親(国民)に、たとえ子供の小遣いでも買っても親はどのように反応するか、事前想定するようなものだ。ましてや子供がローンを組んで外国製品を数兆円もだして買ったら、そのリアクションは家庭内暴力や勘当にまでなりかねない。よって売る方も慎重にならざるを得ない。有りそうで、無さそうなことだが、親を黙らせるのは、゛よその子も持っている゛゛持たないと子供がイジメられる゛ということが一番効く。母親なら、゛いまなら安い゛゛保証もある(防衛協力)゛といえば話は通りやすい。

 

ただ、その安易な理解と判断が慣性となり追従になったら、別な意味で家庭も危機に陥る。それは数値比較の防衛力より、深層の国力と云うべき思索や観照の衰えから情緒の融解につながる危機だからだ。それは自主憲法、自主防衛と冠に自主と掲げる自主独立国のおかしさでもある。国民からすれば、下げ降しのお任せ防衛ならなおさらのこと、国民の選挙動向を左右しかねない問題には、゛顕著な躊躇゛として表れるようだ。ましてや政権党の既得権担保への執着は、国民のみならず他国への忖度配慮として我が国の政治的質となっている。

いつまでそのような姿を繕っていられるのか、やはり敗者の憂き目は、勝つまで続くようだ。宰相は「いつまでも贖罪の負荷を続けるものではない」というが、継続して大国の袖に隠れていたほうが楽なことに慣れているものにとって、一方は高圧となり、一方は阿諛迎合する。そんな劣なる性癖は、勝って増長、負けて卑屈になる集団民癖となり、かえって居心地の良い、ある意味、無自覚、無責任にいられる安逸から、それを平和と呼ぶようになる。

 

鋭い直感を覚える人たちも、それを社会のあらゆる現象に関連付けることなく、また、それが人々の諦観のようになっている姿は、俯瞰,登覧、下座の多面的観察力(総観)さえ閉ざし、個別分離という居心地に価値を置くようになったようだ。

それは己とはさして係わりのない問題に「いいんじゃない」という曖昧共感の民情ともなっている。人心は衰え、人情は希薄になる、そして思索(考えること)すら衰えてくる。

 

 

                 十三湖

 

地球の歴史は人間種だけの歴史ではない。それが衰え、他の種との共生観念が乏しくなるなら、大自然からの恩恵を作為的に企図するような所作でさえ無意味なものとなるだろう。

くわえて、「いつの間にか」とおもえる誘引は利便(便利性)を用として、人々の簡便かつ安逸な営みを繁栄価値として定着させてきた。それはともに足らざることを補い合うという共生の倣いと自制の心をも失くすことになった。

複雑多岐な要因を以て構成されている国家なるもの、社会なるもの、家族なるものの結びつきは衰え、恣意的結合(囲い)のために数値管理が人間の尊厳さえ毀損されるようになってきた。しかも前記した簡便、安逸こそ自由行動の担保のごとく機能的通信機械が仮想現実の自由として虚妄な営みに変えた。

 

つまり、人間種の良質なバーバリズムとして保持していた直感が衰え、架空現実こそ流行りの事実とした人々は、他人(隣人)と同一価値で包まれている錯覚を増幅させ、死生、禍福、過去と現在の経過の思索や観照から離れ、人間社会は何に依って立っているかとい相関的観察(総観力)を衰亡させてきた。

 

古人は「人間は自然から離れることによって衰えてくる」という。それは身体でいえ無意識に包まれる免疫のようなものが、乏しくなることだ。たかだか人間の知的思索の範囲ではその免疫の有効性はない。よく森林浴とか香のリラクゼーションとはあるが、大自然に生を包まれ生死(人生)の時空を俯瞰できることではない。

 

生きている不思議さは死の直前までつづく。それは「何だったのだろう」という生への疑問の始まりであり、息を絶やす直前における瞬時の回顧であり、ためらいでもあろう。

それは知の集積を用とするものでもなく、ましてや財や経歴を懐古するものではない。

突き詰めれば、「我、ナニビト ゾ」それの繰り返しでしかないようだ。

 

人生の総観は様々な言葉で表される。登覧の精神、俯瞰(鳥瞰)力、自己客観視、あるいは地を這い、伏すアリのような下座観もある。寒山の拾得のように、眺める境地もあろう。喜怒哀楽や忘却すら生きている証拠と感受することある。また生死は循環するという輪廻転生もある。

あるいは、部分に拘泥し、部分を探求して合理を求めても、それらを算術的積算しても総和(全体)にはならない、とはドイツの物理学者ハイゼンベルグの言だ。

 

価値ある生命とて、「生きている間のこと」と云われれば、遺すことにどんな意味があろうかと煩悶する。さりとて些細な残滓のようなものでも合理を探して意味あるものにしてしまうのも人間の常だ。

 

 

                台北

 

碩学は「教育とは魂の継承である」と説く。

魂魄(こんぱく)世に残るともいう。

誰も見たことはないが、総観すれば薄らいでいるようにも感ずる。

世俗にかまけて営みに汲々としていても、いくらか感ずることがある。

とくに、地に潜り、水に我が身を浸し,機上から下界を眺めると醒める。

なによりも生死を分ける肉体的衝撃を体感すると瞬時に人生の総観が表れる。

 

長々と書き連ねたが、前記の米国の深慮に対する応えに、瞬時に想起したのがそのことだった。政治的、軍事的、商業的な意図が漂う問題に、アカデミックな対応ではなく、まして防衛担保の受け手としての斟酌でもなく、直感的に意図を認識し、総観的に応答した。

技術の進歩、パワーバランスと変遷、それらは現実の、しかも一過性の対応として繰り返されるのが外交のありようだ。また明日の敵は今日の友という不可思議さもある。

 

また、忘れっぽい民情と阿諛迎合的に大国に対する我が国の政治体質を加味すると、よその世界の要らぬ心配ともおもえるリサーチだが、その視点を処世の無名に一隅に求める遣り方に、懐の深さと経年培った米国のインテリジェンスの緻密さに驚きもした。

 

わが国では禁忌となっている地政学や彼の国の合理的分別における民俗的考察は、さまざまな経済・軍事の行動力によって効果的に具現されている。そのリサーチは永続的に細部にわたり、あのベネディクトの「菊と刀」などは占領軍政策に多くの効果を発揮した。

 

 

                  台北小学校の黒板

 

いま我が国は敗戦の頸木なのか、直感では覚っているが、行動で怯んでいる。よって総観力も生まれない。まして小欲に拘るため、think(考えること)がaction(行動)に結びつかい。

その考えと行動の狭間が大きくなっている。

では、その狭間は何か。「成らざるは、為さざるなり」やらないから、できない、当然なことだ。それは小欲の為す禍だ。「もし、失敗したら」「人はどう思うか」、なにも環境や能力ではなく、自身の小欲に拘泥するからできないのだ。

 

青森県津軽地方では「津軽の足引っ張り」という悪評がある。

だから、人が動くまで待っている。その結果をみて動き出す。

まさに、我が国の政界や官界の習性のようだ。だから言い出しにくいことは相手に言ってもらう。それは御注進外交として嘲られる。

 

そんなことも総観視できる米国からのリサーチだったと記憶している。

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連載に添えて・ものを観るということ 改 09 6 25 再

2020-10-18 07:22:28 | Weblog



吉川英治は武蔵に「目でみるな 観でみる」と、多面的、全面的に観るように習慣づける鍛錬が大切だと語らせている
この一文は思索のモデル(模倣)となった畏友の漢学者安岡正篤氏の日頃からの言動から察した言葉である
それを武蔵の言として語らせている。

政治でも経済でも、あるいは縁ある友の交友でもこの「観人則」が大切となる。
近視眼的に人的附属価値や成功価値で人を選ぶと、必ずといってよいほど遠からず問題や慚愧の念が起きる
浮俗の遊び友達ならそれでも良いが、宰相や閣僚の選任など部下の良し悪しで社会や国が偏ることもある。

近ごろでは大企業がその類だ。
ましてや現場追認に陥った歴史がある軍と政治の関係においては、とくに留意しなければならない観人則である
世俗では「地位が上がったらどんな部下を登用するか」「金に余裕があればどんな使い方をするか」「どんな友を持っているか」
あるいは「酒を飲んだらどんな姿になるか
」など、学歴や名誉、財力などでみる人物像と異なる姿が見えてくる。
とくに「武力を持ったら、自制心や自裁の涵養はあるか」などは、今後の必須問題点だろう。

近ごろはその問題のことで条件反射のごとく「口耳四寸」の言動が蔓延っている。
適うなら血肉飛び交い、肉体的衝撃の恐怖や飢餓体験がある人物に語ってほしいところだが、大方が亡くなるころに問題が出てくる不思議な歴史的循環がある。なにしろ耳や目から入って四寸の距離にある口が出る話しは「舌が言う」軽いもの。一端、鎮まりを以て識(道理)に沿って考え語る(吾を言う)ものでなければならない。
ゆえに、互いに何を言っているのかわからない騒々しさが印象に残るだけになってしまう。


鎮まりと落ち着きについては、行動や口舌の功劣を論ずる前に観るべき人の姿の前提となるものである。

また、大局や小極についても分別する眸を持たなければならない。

「観る」は鎮まりをもった心で観察するものである。多面的、根本的、時間を俯瞰して過去と将来を推考する、そのようなことが先見を明るく(明確)にすることでもある

その逆は、一面的、枝葉末節的、現世価値の考察であり、マスメディアのそれはまさに眼で「見る」ことであり、落ち着きもなく騒々しくも一過性の話題にしかならない。

それは何も閉鎖的、内向的、消極的になるものではない。ある意味では静的考察から確信の座標を築き、自信を持った積極的行動を促すことに他ならない。


可能なら政局といわれるドタバタを語らず、知りたいだけの情報というものから遮断したらどうでしょうか。

そして知るべきことは・・・

倣うべきことは・・・

独りで考えるべきことは・・・

鎮まりの中で落ち着いて、安易に動じたり、また同じたりする自身を独り客観視したらどうでしょうか。

じつは筆者にもそんな弱さがあります。そんなときは世間の事象から逃げずに除けるようにしています。「聖人にも欲有り」といいますが、時折切ない生き方をすることも教えてくれます。






津輕講話



沈潜の学」という学びがあります。

これはブログ連載の「昇官発財」にすすむものとは対極の学び方です。
心持ちは「無名」で「有力」です。
逆は有名は無力です。人を恃んで(集めたり依頼する)独立した気概が乏しくなることです

中国の古典でも昇進レールから外れたり、諫言して遠ざけられたり、栄華が老境に入ったのすると、よく漢詩に読まれたりします。
もしも現役時代に沈潜の境地があったなら、要らぬ功名心や利に向かうことなく平穏かと思うし、不謹慎ながら後世の語り草にはならないようです。

演者になるか、観客になるか、大局に生きるか、それとも小局を活かすか、鎮まりをもってかつ落ち着いて考える良機です。

とくに人の良知が劣化し、行動が騒がしくなっているときこそ、その考察は将来に活きるでしょう。

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「人間考学」眸を占う ゛目は口ほどにものを言い゛ 22,7,15稿再

2020-10-13 06:36:57 | Weblog


1989 6/26 北京戒厳令下 小学校


はじめに

政治が騒がしい。どうしたら、こうしたらねと国民を巻き込んで落ち着きが無い。
社会はこの「落ち着き」、深くいえば「鎮まり」が必要である。
人物でいえば「眸(ひとみ)」と音声、そして落ち着きが肝要である。それを装う為にルビ付の熟語マニュアルまで使って総理は言い繕うのである。

音声は多言を用いて意志なき己を表すために口角が弛む、つまりふしだらな音となり余韻も無く、他人への説明だけで調和(ハーモニー)が取れなくなる。それは己を語るのではなく、
舌の上下で「話」になる。つまり己の本心を隠す虚偽になる。
とくに、政治家は一番気をつけなくてはならないことだ。珍しいこと、大向う受けを狙うなら噺家やテレビタレントに任せればいい。

「眸」は、゛目は口ほどにモノを言い゛とあるが、眸がウロウロすると顔もふらつく。とくに心耳とか心眼がないと薄っぺらな言動になり、表層理解しかできないマスコミの餌食になり、ついには吾を見失う。そんな困惑した眸の落ち着きの無さを見せるようになる。

総理をはじめとして若手といわれる政治家の多くは、この観人則の座標の無いまま要職を任用し、彼等の多くが落ち着きも、鎮まりも無いような,`深刻劇`を演じたところで、人情も湧かない。いや日本人の深層の情緒に耐えられないような似て非なる日本人といっても言い貪官の一群でもある。
                      23年2月18日 追稿



本文

「巧言令色、仁すくなし」とは,うまい言葉には優しさや情が無いということだが、こと宰相になると現実政治の任にあるため「仁」ではなく「義」が重要になってくる。

「仁」は人物の敬重なり「譲」をもととするが、「義」は胆力なり「力」を基とする。

もちろん両方を兼ね添えた人物による「仁義道徳による善政」が理想だが、分かりやすくは、「義」の表す命を捧げるべき使命や目的が無ければ論外として、陣笠とは異なる宰相の覚悟と教養はそれをなくしては意味を成さないものとの理解が必要だ。

このブログ各稿で再三お伝えしているが、その観方は「面妖、音声、眸」である。

よく顔相などの占いがあるが,これも色、艶の変化をとらえて物言わぬ顔相を読み解いている。もちろん感性としても大切なことだが、黒人、白人と違い同色同民族の相はとくに解り易い部類に入るだろう。

言った言わない、あるいは言い方云々などは口舌の輩同士の範中で納まるが、「義」の持ちようまでは論じない。ただ齟齬と無知識をあげつらうだけで教養の欠片も無い。
それは誰でも察することではあるが、それ以上に変化を楽しみながらも不安がる民情ゆえの察知なのだろう。






              

           斉藤隆夫 粛軍演説で議員除名
                  国民は最高得票で再度国会へ






野暮で難解で古臭い言葉だが、よく聴いた言葉のなかにいつの間にか銘となっているものがある。それは「無」を冠とする、教養、節操、定見、慈悲、意識、などだが、それが言葉や行動によって表れると私事は反省や慙愧で収まるが、公的立場では分裂、混乱、不調和という大変な現象を誘引する。

゛オレだって国民だ、人権もあり平等だ゛といわれて口を閉ざす群れの民情だが、こと宰相ともなればその行き先を案じ「義」を唱え民情を移風する胆力が必須の条件となる。

その覚悟如何をみる標点として「面妖、音声、眸」の変化がある。言葉通りに命懸けなのか、真剣なのか、土壇場でうろたえないのか、巧言令色に飾られた政策はその後だ。

これは群れを統括し安全なところに誘導する長(おさ)の選び方であり、文部省官制学校歴マニュアルには無い「人間科学」なのだ。

これこそ民族のセキュリティーでありだからこそ察知しやすい変化の考察を大切にしたいものだ。

森羅万象をたかだか人間の脳髄で論理考証で解ける範囲は大海の一滴なのだ。

威嚇も恐れも、あるいは器量も度量も、教養も誰でも察知できる能力は生まれながら持っている。これを棄てるのも、放つのも我欲のゆえと、加えてそれも察知すべきだろう。





                




2009,12,13 稿 参照

動物種の肉体部位である「目」は喜怒哀楽が如実に表れるところである。
よく、目が死んでいるとか活きているというが、魚でいえば新鮮さだが、人間種は意志の如何によくたとえられる。
とくに同種だと素敵、可愛い、あるいは狡猾、意地の悪いなど勝手な思い描きをするが、透き通っている、遠くをみている、人格ある、となると、なかなか掴めない観察表現でもある。






児玉源太郎





ことさら関連付けたわけでもないが、共感する歴史の事象の中で目についてステージにあげた人物に共通した目の容があることに気がついた。今どきのモノマネものの形態ではなく時を同じくした研究者、革命家、軍人にその類似をみるのである。

共通することは、未来を逆賭していることである。そして世俗からみれば頑固変哲ではあるが歴史の記述では普遍性をもち、かつ肉体的衝撃を恐れない強固な精神力があった。

【逆賭】 将来を見通して現在のあるべき姿を整える (先見性)




                

                東郷平八郎


ことさら「目相学」などと新規な占い紛いを立てるつもりはないが、たしかに目は語るものだと解る。しかも口舌を為す以前に瞬時に透徹できるのも目の効力だろう。
今どきは歌舞伎役者の「目力(ちから)」が多くいわれているが、ここでいう彼等の目には大仰さは微塵もない。

鎮まりのある優しい目が特徴である。ただ鬼神も宿っている。
よく、大丈夫といわれるオトコは「遠くで観れば厳(いか)めしい、近くに寄れば温かい、語れば厳(きび)しい」という。まさに共通している




                

                孫文



ただ、其の当時は理解されなかった、いやそのすべさえ無かったようだ。
今でもそうだが、゛小難しい゛゛頑固者゛゛大風呂敷゛゛変わり者゛とあらゆる固定観察が当時もあった。なかには嫉妬の類か、゛格好付け゛と批判もされた。

しかし彼等には其の類を愉しみ、゛ならば゛とその業を加速させ強固に添加する妙智があった。





              

               南方熊楠



孫文は革命、児玉は降格し任に応え、熊楠は東西の調和と人の棲み分けを、東郷は勝敗を超えた忠恕を、それぞれが立身出世と食い扶持にまみれた人の群れを一瞥しつつ、歴史の経過に存在する一粒として貪らない生き方を魅せている。

いつも思うことだが、彼等の目は語っている。話しているのではない。
吾を言っている。舌が言っている話ではない。

そう見えるのは立身出世にまみえた擬似エリートが学歴をかさに名利を獲得する為に忘却した「吾」を「私」に滅することなく、「公」に奉ずることで永劫な安寧のため靖んじて献じたからだろう。

眸を悟る、そんな境地にさせてくれる先覚者たちだ

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コンプライアンス 2011 1 あの頃

2020-10-06 04:55:56 | Weblog

戯れ唄を聴いた
『コンプライアンス、作って守るは日本人ばかり・・・』
『GDP 下がる理由はコンプライアンス・・・』

川柳でも読まれた
『自縛して、穴に入れば墓穴かな』

どれもがマトを得ている。とくに繁栄数値の象徴であるGDP(国民総生産)の数値が、コンプライアンスという自縛によって、どれだけ抑える要因を作っているか、研究する者もいなければ問題にする者もいない。

医者の見立てではないが、見立てが間違っていると処方も効かない。
今更ながら書き物にした規則を、子供を躾けるように偏差値の如く数値表に効果を競い合う愚は、愚か者を絵に書いた様相である。悪は正義を喚起するが、愚か者は土台から腐らせるまで気がつかない。

サラリーマンに応答すると・・
『コンプライアンスという自縛もしくは過度な管理が、その目的をクリアーしようとすればするほど対象となる社員の、云うも言われぬ閉塞感や精神の固まりが起きないだろうか。数値の強請と馴染まない、いや其々の自主的着想や突破力が削がれる矛盾がないか』

そのように切り口を変えて説明すると、俄然、吾を得たような答えが返ってくる。
中には営業目的を忘れて口角泡を飛ばして語るものもいる。

経済にも流行がある。つまり右へ倣いである。通常の指揮者は米国であり、一番モニターとして投影するのは阿諛迎合性の強い日本である。システムでも薬剤でも兵器でも試すのは追従者の多い社会の常だ。

余談だが、憲法、教育基本法は押し付けられたと騒ぐが、当時の力関係はともかく当事者は受け入れたのである。ことのほか米国の印象はよかった。従順だと。
しかし、同じ敗戦国ドイツはあらゆる改造提案に抵抗した。とくに国家存立基盤についてはつよく抵抗した。連合軍の印象は、とんでもないと・・・

だが、時が経つにつれ民族としての印象は逆転した。
日本人は従順だが骨が無い。逆に力をつければ往々にして威張るだろう。
ドイツはとんでもない頑固者だと思っていたが、骨がある。敗戦国ドイツではあらゆるものは破壊されたが、指導者の国家を護る気概は亡くなってはいない。見上げたものだと、称賛に変わった。それは日本をモニター民族、実験国家として好適な条件が備わっている民族性癖と観ることでもあった。
先ず、放埓に近い自由と無責任な民主を喧伝した。その次はもともと有るはずの「人の権利」を改めて「人権」という名で人々の私的権利意識を教え、分断を図り連帯をなくした。「人の権利」とは、自由と自他の尊厳の保持を永続させる権利である。くわえて平等を掲げて嫉妬と怨嗟を助長した。そして市場や金を管理することが国家を管理することだと、多くのシステムを導入させた。近頃では彼等の金融、会計、経営基準に沿ったコンプライアンスがムーブメントのように広がっている。

その受け入れる利点は言い尽くされているが、人の情緒や感性に馴染まない拘束的制約の、しかもそれを経営の前提に掲げ、人の有効性を制御することの負荷は経済の減速とあいまって、ブレーキを踏んでアクセルを吹かす状況に陥っている。集積された感性の発露は詰まり、至るところに軋みを生んでいる。何故にここまで縛り、しかも成果を数値化するのか。以前、FⅠレースがホンダの独壇場だった。近頃ではマツダのロータリーだが、勝つ理由は発想と製造の連結という巧みの有利さがあったからだ。勝ちすぎると寄って集ってルールを変えるのは、オリンピックの競技をみてもよく判ることだ。
実態は年老いた巨象に鎖をつなぐことと同じようだ。







          無駄がなければ掃除も簡潔






翻って国家には憲法があるが、会社にも創業の精神があり、昔は社訓があった。そこには成文化されたものはないが、社員には愛社精神のもとに自己制御と社会的常識があった。
いまは自己制御も乏しく常識もなくなり、敢えて書き物として箇条書きした規則がつくられた。しかも上場会社は第三者監査が義務付けられ御上の規制が法人存立を左右するようになった。

教育界でも助成金と給与格差是正を餌に建学の精神もなく、生徒も生徒手帳の規則に記されている欠陥や盲点を探し出して遊興にかまけているものもいる。
下校時に制服でゲームセンターに出入りしているものを注意すると、『生徒手帳に書いていない』と、反発される。いや野暮で古臭いとこちらが笑われる。

国会でも弁護士あがりが、手前味噌な法律を都合よく取り出して三百代言のように口舌を駆使している。国民もそれに倣って煩いの掃き溜めのように弁護士に寄り付き、裁判所は雑踏のようになっている。

いつごろからか法の傍をウロウロする人間が人気商売となった。人殺しや詐欺を捕縛追及していたものが、儲け口の多いほうに付くと拘置所の塀に落ちないように誘導する。官吏は利益の関係するところには天下りは禁止だとはいうが、利益相反も己の置くところを替えれば立派な利得行為になる。法治国家を謳うが、法稚、法痴に成り下がった法匪に他ならない。

これらが狡知を駆使して新しく作ったグランドがコンプライアンスなのだ。
公務は清規という成文法によって成り立っている。これが公務のコンプライアンスだ。民間は狭い範囲の特徴をもった陋規という掟や習慣によって成り立っている。
そこには性善、性悪を包み込んだ人の連帯と情の交歓がある。

民と官の類ではなく、会社においても公と私の問題があるが、大切なのはその「間」の問題である。その「間」の狭い会社と広い会社の差が、往々にして成長、繁栄、充実、帰属性というものが関係する人の姿に表れるようだ。
ことさら社内の「公」を司る規範や厳格な数値管理の良し悪しより、「間」を経て「私」に移行する意識変化がスムーズな会社ほど、より「公」を活かすことができるようだ。

例えは極端だが、現役から定年、それは任期定則というより自己認識に懸かっている。
よく警察官は定年になっても臭いが残るという。会社員でも昇進こそ人生の成功と名刺肩書きを屏風にしていたものは、いつまでも鼻もちならない残臭がするという。
その持続したもの、本人からすればセキュリティーでありステータスのような残臭こそ、彼等の住処だった職場のコンプライアンスの残影が異臭として漂うのである。

欧米にはあまりないと聴く。隣国中国でもそうだ。
彼等はコンプライアンスで規制管理するのは社員という名の労働者であり、資本家からすれば愚かな位置においておかなければならない存在なのだ。だから守るのは君たちで、守らせるのは自分たちなのだ。








               

             ひいてはかえす繰り返し 残るは波紋




一方、日本は自身の食い扶持を守るためのコンプライアンスというムーブメント(動き)であって、会社の経営者や資本家の意図を共有する考えはない。
だから労働者である会社員の位置は固定されている。しかし、起業すると同じことをする。従業員(従うもの)を統制し管理する倣い、つまり成金が人を信用しないことと同じことがおきる。つまり失くす恐怖と猜疑が同衾してより強いものに迎合する姿だ。

大企業でいえば創業者は亡くなり、株で支配されたサラリーマン社長の出現は食い扶持保全と数値評価の恐怖によって、しかも自社社員では手前味噌となると形式的に外部コンサルタントを莫大な予算で委託し、経営方針まで指図を受けるようになっている。
責任をとらずに生涯賃金を確保し、あわよくば財界という「界」に位置を占めたいと願っている経営者も散見するようになった。

それが御上のご政道の委託委員として官域のロボットになり「公」を毀損している。
江戸の金貸しが銀行となり、札差は証券、駕籠カキが旅客運送屋、旅籠がホテル、十手持ちが警察官、至極ナチョラルな変遷だが彼等がご政道に口を挟むことはなかったし、御上も下問(諮問)することはなかった。
あったのは時代劇のセリフにある『○○屋、お主も悪よなぁ』『御前様には及びません』だが、これは変わりが無く続いている。

江戸のコンプライアンスは役分を身分としたことで、武士を諸法度で規制したものはあっても、庶民、商家は掟や習慣だった。それは幼少から肉体化された躾や長幼の倣いという人の所作から善なるものを生活の中から学ぶことであった。学校など必要がなかった。
汚ければ掃除する、困っていれば援ける。年長や熟練者の姿にある人格や技法を実直に受ける。それが単なるカリキュラムの優劣を測る知力数値ではなく、肉体化して習慣化して伝えた。そこにはあくまで人間という存在があった。

三百年続く理由はそこにあった。とくに、物腰、身づくろい、所作、に厳しかった頃の武士は金を穢れある物として触れなかった。扇子を広げて小判を載せるものもいた。それが過度な姿だとしても、あるいは実態離れとしても、その立場の気概は武士たるものだった。
ロッキードで多くの政治家が株をいじくって疑惑にまみれた。その理由で逮捕され、総理まで辞職した。

成文法やコンプライアンスはあっても江戸のような人心や落ち着きはない。余計に騒がしくなった。偽り、我欲、放埓、贅沢という人間の患いが増大している。あの頃は、勤勉、正直、礼儀、忍耐、が人の在り様であり倣いとなるものだった。外国人も驚嘆した。それはユートピアのようだとイザベラバードは書いた。

わざわざ書いて教えなくても人の心や習慣にあった。馬は訓練されてはいなかったが、馬なりに自分のすることを知っていた。人も動物も同じ家族だった。神が創った最高の造物は人間だと宣教師がいえば、家畜も人間と同じ家族と思っていた人々は戸惑った。

人の呪縛となった数値や金儲けの為のコンプライアンスは、たかだか人間界のもの。
そろそろ目を覚まして自身を解き放ち古人の幸福感を味わったらどうだろうか。
努力すれば上下する数値で表された力の評価より、もっと「力」のあるものが潜在する、つまり、忘れた、棄てた、ものを振り返ったらどうだろうか。

GDPなど、直ぐ上がること間違いはない。また、爽やかで、清々しく、大らかになることうけあいである。それは世の暗雲となった人の患いと、国家の弛緩した煩いを打ち払うことにもなるはずだが・・・

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