まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間種の考える、ランド・シー・エアー、それぞれのパワー  2017

2023-04-05 02:17:13 | Weblog

 

 

あくまで、いまだ人間の及ぶ理解の淵にも届かない無限界において、太陽系と呼ぶ一群の惑星として周回巡行する地球生物種の一つである人間と称する種の、たかだか微細な思索ではある。

 

この種の思索は夢想もあればリアルな現実もあり未来の推考もあり、まるで右往左往で無体系の書き連ねのようようだが、他人の珍奇な思考の一端に触れ、難儀な問題を巻き起こすことを期待するものである。

 また、種としては人間種、民族別には黄色人種の、これまた日本と呼び複雑な要因をもって構成されている国家なるものの中で、諸国から異端とされている日本人の、これまた異なることを恐れない小人の思い付きとして看過していただければ幸いである。

 

            

                    千葉

 

この国の歴史では異種、異郷、異教の白人宣教者が遠路お節介にやってきたことがある。

造物主が造った最高のものは人間である」と、彼の国ではまかり通る説教をした。なんでもかんでも「オー・マイ・ゴット」と叫び、ノコギリも押すのではなく、曳く習慣技法をもった神の遣いである。しかも、彼らからすれば野蛮で未開で多くの愚か者がいる異郷だ。まして犬を使って羊の群れを追い立てる牧畜なる羊飼いの逸話を神の言葉繋ぎとして聖書に書いている人たちだ。羊に模されたのは肉食を禁じられ、屁理屈学さえ知らぬ邦人である。

 

反抗はしないが不思議な感情はあった。

面倒な対案ではないが、上から目線は役人同様、生意気な「反対提案」として聴こえた。

あの~、家族同様に役に立っている牛や馬、可愛い犬も同じではないのでしょうか

つまり、゛人間だけが最高なものではなく、互いに補い合い共生する動物も同じではないか゛、という意味だった。

 

あの滅ぶことさえないと思われたギリシャ、ローマ、大英帝国も衰退した。軍事力や経済力、はたまた植民地版図の広さではない、市民と呼ばれた人たちの繁栄に付随する弛緩と堕落が衰退の多くの要因だった。

その生活思考は、支配地から収奪した財を蓄え、消費(浪費)傾向は、温泉、グルメ、旅行、イベントと共通していた。そして金持ちは財のゲーム(博打)だ。

 

そして、疲弊すれば「オー・マイ・ゴット」と「LOVE」、そして「神は赦す」という。

近代文明は西洋模倣(カブレのような)と価値観の共有でアベレージは評されるが、その考え方や仕組みを学ぶことまで数値の評価によって決定されるようになった。

 

彼らの云う未開で野蛮な民は、潜在する生存感で、それを闇雲に是とすることなく地上と海と宇宙を感知し、その則を求め、倣った。

いまはそうだ。しかし、いつかその感知力を甦らせ、取りつく島として復(フタタ)戻ってくる。そのために変わらない深層の情緒を維持しなければならないと逆賭し、考えている。

 (逆賭・・・将来起きるであろう出来事を想定して、現在手を打つ)

 

仕官もままならず流浪の旅にあった孔子が弟子に尋ねられた。

どうして先生ほどの人物が仕官もできずこのような難儀にあっているのでしょうか

学問は衣食のためにするものではない。若くても運よく仕官できるものもいるが、たとえ仕官できなくても人生を諦めず学ぶことが大切なことだ。一生恵まれないもしれないが、それも運だ」(拙意訳表記)

 

まさに自然界の森羅万象は人間種にとっては運と縁のようなもの。他の生物にとっては人間種に遭遇して愛玩されるものもいれば、群れとして育てられ衣食になるものもいる。だからといって生きることを止めない。たとえ捕食の循環を縁や運だとしても循環は途絶えることはない。

 

ゆえに人間種の豊潤と考える繁栄・享楽生活の欲望の一隅に、その立地し飛翔する舞台であるとの認知と、感知で、ランド・シー・エアーを観るのも一考かと思うのだ。

 

                    

 

地上と海と空(宇宙)におけるパワーは、それぞれの領域における軍事的考察というよりか、歴史的な力の変遷と分別(分際)としてみることができる。

ここでは力の及ぼす基本的な背景について分けられ、かつ地球の環境循環、あるいはその循環から生ずる事象に生存し、一粒として蠢く人間なるものの積層され、その、゛たかだか゛人間の歴史なるもの経過の習慣性やそこから生ずる宿啊がいつの間にか宿命となり、怠惰感や偏向したパワーの用い方など、思いつくまま拙いの論拠の立て方で考えてみたい。

宿啊・・・前々からかかっていて、治らない病気。持病。痼疾こしつ。宿病

 

ユーラシア大陸を席巻したモンゴル騎兵やローマの侵攻はランド(地上)を主戦場とした。大航海時代は植民地を求めた西洋列強のシー(海域)を道とした戦闘・運輸など天文や航海術など科学に目覚めた時代でもあった。

その科学だが今や海上を制覇することから海中や深海まで及んでいる。ランド・シーは異境への興味となり支配欲は覇道とともにパワーの強弱によって棲む領域を変化させた。

そして現在はエアー(空)だが、鳥のように天空から見たい(鳥瞰)という夢の希求はランドやシー同様に欲望の侵攻や防衛(矛と盾)の手段として未知の宇宙まで及んでいる。

 

一方では、科学技術の利便性が軍事汎用の多岐にわたる応用性に用いられ、その有効性が民生社会の文化なり、はたまた文明性の担保や民度の亢進などと謳われることでパワーすなわち「進歩した文明」の具備なり担保として前記したパワーによる資財の獲得こそ国家なり民族維持の唯一有効性として考え、その支配を肯定してきた。

加えてそれを援用するべきアカデミックな論拠が是非善悪を肯定的かつ恣意的論証すべく看板根拠が数多模作された。つまりパワーの学術的論拠である。

 

ここでは一国一民族、あるいは集団的行為を題材にしてそのパワーを論じるものではない。換言すれば地に伏して天に舞う、あるいは海中や地にうごめく動植物や空に舞う鳥や虫の観点から人間種を観ることで、一方の意図であるランドとシーとエアーで繰り広げられる人間たちの地球観を想起してみたい。

また、人間種同士の肌の色や習慣の異なるものの排除や支配のために智を狡知と変異して科学を乱用し、パワーの質や量を論ずることに人間種の存在意義と他種に及ぼす弊害を童心に相似して考えてみたい。

 

それは、経年集積や進捗のスピード、あるいは圧力などが加わると、異なる刺激で変化することもあるが、人間界のパワーに依存した栄枯盛衰における時々の政治と称するものの維持生存にかかわる境際を越えた争いには、通底する問題があり、かつ、そこに相似する思考があると考えるのだ。

 

よく地政学的考察とあるが戦後わが国では禁忌に近い学問であった。地図上の東方の小島が扇型にある種のパワーなりを西方に向ける理由として地球自転の則に沿うように西洋は東から到来し西に流れる一方の姿と、ユーラシア大陸を経て西から到来する両方向の文明の交差点として特異なすり合わせの後、発展と没落、その間の混沌を経験した。

 

古来は漢民族を主とした隣国から文化習得のため唐学(漢学、統治形態、政治制度)が必須となり、近代では科学を便宜的に応用するために洋学(医科、法科、教育、軍略等)の拙速な到来とともに従前の思考慣習にも情緒的な戸惑いすら発生させている。

また、営みの主流も一次産業からサービス、金融となり、人心の志向が財貨となり、単なる群盲の流に近い拙速な動きとして国柄さえ変化させてきた。しかもその姿を数値変換した比較競争として覇を競う風潮も顕著となってきた。

ここでの視点は、背景であるパワーの質であり、その在り処である。

 

                 

                   千葉

 

そんなことを呟いたとき変わり者の友人が辞書サイト「コトバンク」から引用した筆者が苦手なアカデミックな説明文を送ってくれた。化学や物理を説明する文章は頭が痛くなるゆえ忌避していたが、ときに自然界の循環や定則をもって人間の精神世界を分かりやすく説く例として用いることがある故、その相似する由縁をトレースしてみることにした。

ついでと言っては恐縮だが、パワーの衝突が問題となっている昨今の情勢における各々の政治体系、為政者(人間)の問題、パワーへの信奉と力学など体系的に整理することへの面白さに気付かされた。

以下に関係するものを拾い出してみた。筆者の拙い考察はさておき、縁ある方々のそれぞれの立場での援用を期待したい。

 

≪相似・・・生物学用語。類縁関係の遠い異種の生物において,個体発生上まったく別の起源から発生し,したがって系統発生的にも無関係の祖先型から別々に生じたものでありながら,一見類似した形態と機能をもつ器官が見られるとき,この類似を相似という。器官の形態と機能が異なっても,その起源が同じであることを指す〈相同〉と対をなすことばで,生物界における類似性を説明する概念の一つ≫

 

L を流れの中の物体の代表的な長さ,U を速度,g を重力加速度とするとき,自由表面をもつ流体の流れに関する無次元数 をフルード数という。幾何学的に相似な固体境界をもつ2つの自由表面流をべるとき,もし2つの流れのフルード数が相等しければ,流れの場全体が力学的に相似になる。すなわち,2つの流れは,長さと時間の単位を適当に変えれば,完全に一致する。≫

 

≪ある瞬間において,二つの物理系が幾何学的および運動学的に相似であり,かつ物理的構造が相似であるとすれば,その後の対応する瞬間においても,それぞれの独立した力に対するフルード数*が,二つの物理系に対して同一の値をもつという条件が成立する限りは相似性が保たれるという原理相似の原理*ともいう≫

 

                

                  タゴール

 

考えてみれば多くの諸士が考えている不思議感や疑問に、拙くも整理のつかない表現で発する言の葉に前記の学術的論拠を引用し重ね合わせると、面白くも合点のゆく理解に届くことが解る。定説となった論拠を仮借するだけで何ら学徒とは変わらない説を立てられることと、世俗体験を喩えすることでより解りやすい表現が可能だろう。つまり部分や分派された学派に拘らない「応用活学」でもあろう

 

法理裁判ではないが、幾つかの関係法令を繋ぎ合わせて、さも合理的に説明がつく説を組み立てたところで、理解はあるが、どうも納得できない結果が出ることがある。成文された煩雑な法律に言いくるめられたように感ずる判決があるのはそのためだ。

相似も、生物界を例にとれば「似て非なる」ものは多岐にわたる。ましてや宗教的輪廻の喩えが混じれば、途絶えることにくエンドレスに生が循環する。その意味では西洋的、宗教的にも、東洋のそれとは大きく異なることは論を待たない。

 

              

           箱根 パル・下中記念館

 

想いだすのは米国の宇宙飛行士が宇宙から青い地球を見ながら考えたことだ。どうしてこの美しい地球のいたるところで人間が資源を奪い合い、あるいは畏敬する存在の違いから争い、戦争を起こして破壊する行為がとめどもなく続いているのか。また宇宙からの童心の俯瞰視から生ずる人間への不思議感はいずこへ進むのか、一瞬にして括目したに彼は帰還後除隊して牧師になった逸話があった。

 

日本でも地球は一家、西洋はグローバル、華人は天下思想、戦後は世界連邦構想もあった。地球一家は笹川良一氏の提唱だが、所詮人間は食ってクソして寝てヤッテ・・・と、突き詰めた単純行為と喝破している。人間間の関係はマルチ、境際、グローバルと進捗し広がった考え方だが、さもアカデミックな提唱のようだが一方では強きもののルールにおける市場平準化への促しのようだ。 天下思想は、天と地の間にうごめく人間は国や為政者などは関係のない生き方だが、考え方の多くは突き詰めた個人主義であり、生きるも死ぬも己の問題と、諦観のような生き方となっている。

 

部分の説明は省くが、それらは宇宙飛行士が神を造物主としたような生き方とは対極的なことであり、一方は神すら方便として利用するしたたかさがある。

ちなみに天下思想を旨とする民族は現世利益となる、長寿、仙薬、財貨の偶像を御立てて、物を献上して恩恵を請う道教的習慣性を持っている。

 

加えて、「平ならぬもの、平すれば、平ならず」と、もともと人間種とてその個体は各々異なるものだが、性別能力をかまわず平準化すれば必ず不平が出る、という古い諺をもっている。一方、平準化を謳う一方の強者はタルムードを旨として彼らなりのルールで偏向的平準化を急いでいる。

 

とくに顕著なるものは血の混交(性の混交)である。性別はホモ・レズが流行りのごとく表層にでて、ビジネスの場面でも性や能力の区別が差別としてくくられ、ハラスメント用語を駆使して男女、陰陽、の異なることゆえの優性への賛美であるものが,劣を引き上げ、優を引き下ろすような状態になっている。それは足らぬものの補い合いや、男女協働の生産でさえ煩いごとのようになっている。

神前結婚でも教会でも新郎新婦の誓いは神だ。それぞれ神主と神父かつかさどるのは神へのつなぎだ。三々九度は、「独陰生ぜず、独陽生ぜす、独天生ぜず」つまり、オンナだけでも生まれず、オトコだけでも生まれず、天のみでも生まれず、三者が整って(合意して)生まれる、そのために相手と自分と天(神)に誓う、それが九回盃を交わすことなのだ。新道では、「産霊」と書いて「結び」と呼んでいる。

 

文化と称する映像や書物は「愛なるもの」を謳い、それは民族や肌の色を超越した真の愛の姿として美化され、奨励さえされている。

しかし、現実には宗教、政治体制も離反の基となり、同邦の生活圏でも米国の白人中心思想は健在にして強固だ。

 

だが、それさえも謳われている文化の世界では「愛」なるものが超越する。だれもがバーチャルの世界では理想とし、感動や歓喜すら巻き起こす。

そして肌の色は白黒といわれる人種は薄められ、黄白ないし黒黄色もその数は増加している。だが、さまざまな媒体を通して混交を推奨しているが、その一部の人々の混交は絶無だ。要は純血の維持だが、混血利便性では足の速い馬、体重を増やした食用牧畜、人間種でも見映えの整形が流行っている。

 

アジアの一隅には、昔は温和で自然界に親和力をもち、かつそれに従順な民族がいた。

だだ、親和力と従順は迎合になり、独自に沿った模倣力に優れた智慧は利便性を安易な仕組みに変え、古き佳きものを固陋として則(矩)でさえ「法」という名に括ってしまった。好奇心は大きなもの、早いもの、強いものに寄り添い、罠を狩猟の倣いとする異民族は協働作業を倣いとする民はその生活ルールまで転換させた。

従順ゆえに他民族のモデルとなったが、新世界には実験モルモットして都合の良い民族性癖の劣勢が際立ってきた。

 

思考と観照、そして精霊への心を失くした民は、羊飼いに従順な牧畜犬に追い立てられ、何処に行くのだろうか。

 

一部映像は別サイトより転載 

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